浅間山麓のブラタヌキ

アクセスカウンタ

zoom RSS 常磐線のフクシマ

<<   作成日時 : 2018/07/11 07:55   >>

面白い ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 先日のブログで、三陸鉄道北リアス線を取りあげましたが、東北地方でもう1つ気になっていた路線があります。それは常磐線です。福島県の太平洋岸(浜通り)を縦貫する幹線ですが、いまだに全線復旧とはなっていません。北側の浪江〜岩沼間と南側のいわき〜富岡間はすでに運転が再開されていますが、残る富岡〜浪江間20.3kmは、福島第一原発から近く、その大半が原則立ち入り禁止の帰還困難区域に属しているからです。除染作業を行いつつ、地震で落下した橋梁の再建などの工事が進められているということで、2020年3月には運転再開の予定と発表されています。現地はいまどんな状況になっているのか、自分の目で確かめておきたいと思い、出かけてみました。
 いわき駅までは特急「ひたち」でスムーズに到達することができますが、その先は、運転本数が少ない上、不通区間である富岡〜浪江間の代行バスは一日にたった6本(上りは5本)しかありません。東京から仙台まで、常磐線ルートをたどって通り抜けるのはかなり大変です。富岡11時40分発(それを逃すと次は16時59分発)の代行バスを利用することにし、それにあわせてスケジュールをたてました。
 いわき駅で乗り継いだ富岡行普通列車の車両は、なぜか元特急「スーパーひたち」の651系。乗換の際に、ホームを間違えたかと不安になってしまいました。快適ではあるのですが、ちょっと違和感があります。富岡駅はすっかり新しくなっており、周囲の風景もまったく見覚えのないものでした。聞いてみると、旧駅とその周辺は津波で流され、元の場所よりかなり北側へ移設されたということです。新たに整備された駅前広場周辺には空き地が目立ち、復興の遅れは否めません。やはり住民が長期間他地域への避難を余儀なくされたことが影響しているのでしょうか。
 僅か4名の乗客を乗せて代行バスは定刻に発車しました。走り出すと同時に、「このバスは間もなく帰還困難区域に入りますので、絶対に窓を開けないでください」というアナウンスがありました。富岡町役場の入口付近まで進むと、道路際に、「ここから1.5km先、帰還困難区域」「自動二輪車、原動機付自転車、軽車両、歩行者は通行できません」という看板がでており、気にしないようにと思ってはいても、多少の緊張感は禁じえません。
 「帰還困難区域」に入ると風景が一変しました。ホームセンター、飲食店、ガソリンスタンド等、全ての店舗が廃墟と化し、耕作放棄を余儀なくされた田畑は原野へと姿を変えていました。脇道の入口の多くはフェンスで封鎖されていましたが、開閉式の柵を設けて警備員が車の出入りをチェックしているところもありました。
 震災以前の姿を、廃墟となった建物の様子から想像すると、それなりに活気があり、生活に不便を感じるような地域ではなかったように思われます。地域を丸ごと崩壊させ、生活を一変させてしまう放射能汚染の怖さを改めて感じました。このところ、原発再稼働への動きが勢いを増しているようですが、この状況を見れば、「のど元過ぎれば…」というような話ではないことがわかります。
 双葉町に入って数分ほどで左手に常磐線の線路が接近してきました。真新しいコンクリート橋からは、復旧工事が進展している様子がうかがえます。しかし、そこは帰還困難区域の中です。代行バスの通行が許されている以上、列車が走り抜けることはできるでしょうが、途中駅での乗降は許されるのかなど、いろいろな疑問が湧いてきました。
 ノンストップで走ったせいか、代行バスは定刻より少し早く浪江駅に着きました。浪江駅周辺には、震災で崩れたまま修復されていない家屋が目立ちます。これも、長期間の避難生活を余儀なくされた影響でしょうか。浪江駅舎もひびが入るなどかなりの打撃を受けたということですが、すでに修復され、昔と同じ姿で使用されていました。
 駅前で思いがけないもの見つけました。それは、「高原の駅よさようなら誕生の駅」の碑です。以前「信濃追分駅物語」と題したブログで、「高原の駅よさようなら」の映画の舞台(ロケ地)になったことで、信濃追分駅が有名になったという話を紹介しましたが、主題歌を作曲したのが、当地出身の佐々木俊一氏であることは全く知りませんでした。浪江と浅間山麓がつながったことに、ちょっと嬉しさを感じたポン太でした。

 富岡駅に着いた普通列車ですが、車両は元特急用の651系です。駅は全く新しくなっていました。
画像

 ポン太が高校生の頃に富岡駅で撮影した写真です。下り231列車(C6237牽引)が発車して行くところです。構内がずいぶん広かったことがわかります。この時代、電化されていたのは平(現在のいわき)の1つ先の草野駅までで、このあたりの常磐線の主役はまだ蒸気機関車でした。(1966年10月1日撮影)
画像

 常磐線の海側には、黒い袋が集積されていました。袋の中身は、除染のために取り除かれた土でしょうか。
画像

 新しくなった富岡駅駅舎です。「さくらステーションKINONE」という売店兼飲食コーナーが併設されています。駅前には他にお店は1軒もなく、助かりました。
画像

 不通区間である富岡〜浪江間の代行バスとバス乗り場です。何しろ本数が少ないので乗車するのは大変です。
画像

 走り出したバスから見た富岡駅前通りです。少しずつ家やアパートが建ち始めていますが、復興は容易ではなさそうです。
画像

 「1.5km先、帰還困難区域」の表示が現れました。
画像

 いよいよここから帰還困難区域です。前方にお店の看板がいくつも見えますが、営業しているところはありません。
画像

 家電量販店も廃墟と化していました。
画像

 原野のように見えますが、元は田や畑だったのでしょう。
画像

 脇道へ入れないようにフェンスが設置されています。
画像

 警備員が出入りをチェックしているところもありました。
画像

 帰還困難区域が続きます。
画像

 地域の人々で賑わっていたであろうホームセンターも廃墟となっていました。
画像

 放棄された農家でしょうか。そのまわりには豊かな畑や田が広がっていたと思われます。
画像

 双葉町に入ると常磐線が接近してきました。まだ架線は張られていませんが、レールは敷かれているようです。
画像

 富岡〜浪江間には、夜ノ森、大野、双葉の3駅がありました。これは半世紀前の夜ノ森駅を通過する下り青森行急行「第2みちのく」です。東北新幹線がない時代、常磐線は東北方面への優等列車の主要ルートでした。(1966年10月1日撮影)
画像

 上野〜青森を結ぶ唯一の昼行ディーゼル特急「はつかり」も常磐線経由でした。この写真は、富岡〜夜ノ森間を行く、上りの「はつかり」です。まさか半世紀後に、ここが帰還困難区域になるなどとは、思いもよりませんでした。ちなみに、福島第一原発の運転開始はこの5年後です。(1966年10月1日撮影)
画像

 浪江駅に到着した代行バスです。駅舎は昔と同じでした。
画像

 浪江の駅前通りです。荒廃した雰囲気が漂っていて復興の困難さがうかがえます。
画像

 駅前広場に設置されていた「高原の駅よさようなら誕生の駅」碑です。「しばし別れの夜汽車の窓よ、言わず語らずに心と心・・・・」古めかしい歌詞ですが、汽車の時代を知るポン太にとっては、リアルで懐かしいものに感じられます。
画像

 浪江から乗り継いだ原ノ町行の719系交流電車です。
画像

 原ノ町で仙台行に乗り継ぎました。常磐線の復旧区間の中で、駒ヶ嶺〜浜吉田間は、旧線とは別の山側を迂回するルートに変更され、営業キロも0.5キロ増えています。復旧とはいえ新線と同じようなものですから、全線乗車の維持をめざすポン太としては、乗らないわけにはいきません。この写真は、その途中にある山下駅です。高架化により車窓からの景観も別物になっていました。
画像











テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
面白い
ナイス

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
常磐線のフクシマ 浅間山麓のブラタヌキ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる