中山道でブラタヌキ~ポン太とポン子のずくなし道中記 その7

<8日目、7月1日> 和宮さん 新島襄さんこんにちは画像
 
 都市化が著しい高崎市ですが、田町から本町(もとまち)へと進むに従い、絹市場の蔵など古い建物がいくつか目につくようになり、旧街道沿いの街らしい雰囲気になってきました。沿道には煉瓦煙突の立つ古い醤油醸造所があり、歴史を感じます。
 明治天皇の巡幸がその名の由来という「君が代橋」で烏川を渡り、下豊岡から旧道へ。その入口には江戸時代に立てられた2つの石の道しるべがあり、「くさつみち」などの文字が読みとれました。その先には大名の休憩場所である茶屋本陣も現存していました。
 上豊岡町で国道18号に合流すると、いかにも高崎らしい、ダルマの製造所があり、まだ色のついていない真っ白な達磨たちが通り過ぎる私たちを見送ってくれました。板鼻下町交差点からは、比較的交通量の少ない旧道歩きでほっとします。少し進んだ道端に「双体道祖神」が置かれているのが目にとまりました。男女一対の道祖神は、信州ではポピュラーなものであり、いよいよその文化圏に近づいたかと思うと、元気がでます。

 ダルマの製造所前を行く 
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 沿道の双体道祖神(左)。右の「御神」という石には享保と記されています。八代将軍吉宗の時代ですね。
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 次の宿場である板鼻宿ですが、それがどこにあるのか、実はこの街道歩きをするまではよく知りませんでした。なぜなら、信越線に同名の駅がないからです。しかし、気づかなかっただけで線路は通っており、群馬八幡駅と安中駅の中間にある「第九中仙道踏切」を越えた先が板鼻宿でした。出桁づくりの家が目につき、宿場町の雰囲気が濃厚に漂っています。本陣の建物は残っていませんが、皇女和宮が泊まった部屋だけは移築保存されていて、その内部を見せてもらうことができました。床の間に置かれていたのは、和宮が用いたとされる草履。その小ささに、ホンモノ感がみなぎっていました。その部屋で小一時間を過ごし、いろいろな資料を目にしたことで、もうすっかり和宮の下向が身内のご先祖の話のように思えてきたポン太でした。
 板鼻宿の裏を流れる板鼻堰用水路は風情があります。季節は違えど英泉が描いた「木曽街道六十九次」の「板鼻宿」そのままといった感じでした。板鼻宿を抜け、国道18号の鷹ノ巣橋を渡り、中宿というところから再び旧道に入りました。下野尻で国道18号を横切るとほどなく安中宿です。

 風情のある板鼻宿の街並み
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 皇女和宮が宿泊した部屋
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昔を偲ばせる板鼻堰用水
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 段丘上に位置する安中は城下町でもあり、上段が武家屋敷、下段が宿場町という構造になっています。伝馬町という交差点から、上段にあがり、旧碓氷郡役所、新島襄記念会堂を眺めつつ武家屋敷のある一角へと進みました。下段の中山道にもどり、少し歩くと右側に新島夫妻ゆかりの有田屋という味噌蔵があり、その前には日本最初の私設図書館という便覧社跡の碑も立っていました。何といっても新島襄は安中きっての偉人であり、その名を目にすることなく安中を通過することはできません。

 安中の伝馬町を行く
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 新島襄記念会堂(教会)
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 新島襄ゆかりの有田屋前の中山道
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  厳しい暑さで次第に足取りが重くなり、安中宿を抜けたところのコンビニで、「カルピスウォーター」というチューブ入りの氷菓を買って一休み。この氷菓は首にあてて身体を冷やすこともできるので、暑さ対策には大変有効で気に入り、コンビニを見つける度に買いまくることになってしまいました。
 再び旧道を進み、国の天然記念物に指定されていながら、僅かな本数しか残っていない原市の杉並木を過ぎると、「明治天皇原市御小休所」の碑がありました。これも国の史跡に指定されていますが、この種の碑は街道沿いのいたるところに設置されており、明治天皇の顔見世巡幸が、明治政府による天皇の権威づけ=「国体」づくりに必須の大事業だったことがよくわかります。本日の到達点は原市小学校というバス停です。暑さには閉口しましたが、街道歩きの面白さを十分味わえた一日でした。

 原市の杉並木
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