中山道でブラタヌキ~ポン太とポン子のずくなし道中記 その11

 <12日目、8月11日> 浅間山麓の追分宿から佐久平の岩村田宿へ下る
 
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 ねぐらに近い追分宿まで到達したことで、気が緩んだのか、はたまた暑さにめげたのか、モチベーションが低下し、しばらくの間、中山道歩きから遠ざかっていたポン太でした。ところが、ある出来事をきっかけに、何が何でも京都三条大橋まで歩きたいと思うようになりました。
 その出来事というのは、散歩中に、追分宿付近の中山道を京都方向へ歩いている老夫婦に出会ったことです。年齢は70代半ばと思われます。御亭主が片足を引きずるようにしていましたので、声をおかけしたところ、脳梗塞の後遺症のリハビリを兼ねて中山道歩きをしているということでした。野宿覚悟でかなりの荷物を背負い、不自由な足を一生懸命動かして一歩でも前へと努力している姿に、頭をガツンとやられたような気がしました。
 一度決めたことは貫徹せねばタヌキが廃ると、8月11日、中山道歩きを再開。追分から岩村田にかけての中山道は、ポン太にとっては生活道路のようなものですが、「街道歩き」の気構えで眺めてみると、なんだか見るものすべてが新鮮にみえるから不思議です。
 御代田の一里塚も、これまでその存在を認識していたのは桜の巨木が生えている塚(西塚)のみでしたが、それと対をなす東塚の方もその姿をしっかり留めていることを知りました。
 しなの鉄道を地下道でくぐりぬけ、御代田町の荒町上宿あたりまですすむと、旧街道の雰囲気が一段と濃くなります。前方の蓼科山や、道端に咲く女郎花(オミナエシ)などを眺めながらの道中は、実によい気分です。
 下り一方の道なので、たいして汗をかくこともなく、小田井宿に到着。小田井宿は、本陣、脇本陣各1軒のほか旅籠が5軒という小さな宿場ですが、今も古い建物が残っており、往時の雰囲気をよく留めています。歓楽的な要素がなかったことから、姫君や女官の宿泊、休憩場所として用いられることが多く、「姫の宿」と呼ばれたそうです。

 御代田の一里塚。街道を挟んで左右1対の塚があるのが一里塚の基本形ですが、道路の拡幅などにより、消滅したり片方のみとなっているところが少なくありません。ここは、現在の道路が本来の街道からずれたところ通っているため、畑の中に取り残されたようにして両方の塚が現存しています。上が西塚、下が東塚です。

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小田井宿本陣前を行く
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小田井宿問屋跡(安川家住宅)。これはお祭りの日に撮影したものです。ふだんは雨戸が閉じられた状態で、内部を見ることはできません。
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 旧中山道が県道9号線に合流するあたりを皎月原(こうげつはら)といいます。いわくありげな地名です(実際に皎月という官女にまつわる伝説があるようです)が、道路沿いにはラーメン店などの飲食店が雑然と並び、特別な場所であるという雰囲気は感じられません。インターウェーブという大規模なショッピングセンターの手前に、一里塚が残っていました。上信越道を跨ぎ、佐久インターの入口を過ぎると間もなく岩村田宿です。左手の住吉神社境内には、かつては道路際にあった「善光寺道」の道標や道祖神などが置かれていました。
 1万5千石の城下町であった岩村田には、本陣も脇本陣も存在しなかったそうです。高度成長期に近代的な商店街に生まれ変わった街並みからは、かつての宿場町の面影は消え失せていました。それでも、酒蔵や味噌蔵の存在が、この町の古い歴史を伝えてくれます。商店街の南端が、中山道と佐久甲州街道の分岐点となっており、右折して西へむかうのが中山道。小海線の踏切を越えると間もなく、浅間総合病院が見えてきました。今日はここまで。ほとんど散歩の延長線上のような街道歩きながら、気分は新鮮。やはり街道歩きは楽しいと改めて思ったポン太でした。

皎月原(こうげつはら)を行く
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住吉神社境内の「善光寺道」道標。側面に享保二十年とあります。
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商店街となっている岩村田宿の現状。
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岩村田商店街の中に、「日本一小さな酒蔵」があります。寒竹というお酒をつくっている戸塚酒造です。佐久は酒どころとして有名で、数多くの造り酒屋が存在します。
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