中山道でブラタヌキ~ポン太とポン子のずくなし道中記 その30(最終回)

中山道踏破達成へ

<38日目、4月11日>栗東から大津へ 
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 いよいよ中山道歩きも大詰めです。前夜は近江八幡のビジネスホテルに投宿。朝食後すぐに、電車で栗東へとむかいました。栗東駅から綣(へそ)交差点にもどり、中山道歩きを開始。昨日は一日中ぐずついた天気でしたが、今日はすっきり晴れて絶好のウォーキング日和です。
 静かな旧道を草津宿へむかって進みました。綣という地名はかなり広範囲に及んでいるようで、綣○丁目の標識が続き、綣と刻まれた石柱まであります。道の傍らに一等水準点標識があり、旧中山道が、そのまま国道として利用されていた時代があったことがうかがえます。
 東海道線の下に設けられた小さな煉瓦アーチ橋をくぐりぬけ、線路に並行して進むと間もなく草津駅前。その先が草津宿の入口ですが、なんと目の前にあらわれたのはアーケード街でした。中山道がアーケード商店街に変身しているところは他にはありません。その、アーケードとアーケードの間が、中山道と東海道の分岐点になっていて、覚善寺の門前に、「右東海道、左中仙道」と記された明治の追分道標が立っていました。
 天井川である砂川(旧草津川)の下を隧道で抜けたところが、草津宿の中心です。隧道はもちろん後年のもので、江戸時代には土手を登り、橋が無かったので、歩いて水量の少ない川を渡った由。
 草津宿は東海道、中山道の分岐点にあたる重要な宿場で本陣も2つあったということですが、そのうちの1つが現存し、内部を見ることができます。立派な建物で、一番奥に大名が泊まった上段の間がありますが、そこに至るまでの部屋数がとても多く、台所の広さもからも、賄の大変さがうかがい知れます。宿帳には、吉良上野介と浅野内匠頭が、僅か数日違いで宿泊していたという記録や、新選組の土方歳三が隊士集めに江戸へ出かけた帰りに宿泊した記録などが残されていて、歴史が実感できます。

 アーケードになっていた草津の中山道
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 東海道と中山道の分岐点道標
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 天井川である旧草津川の下をトンネルで抜けると、草津宿の中心部です。
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 草津宿の本陣にて
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 とにかく広い本陣です。ここに浅野内匠頭や吉良上野介、土方歳三等が泊まったのかと思うと、歴史が身近に感じられます。
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 草津宿を出ると、道沿いの標識が「中山道」ではなく「東海道」に変わり、以後、中山道の文字を見ることはありませんでした。草津~京都三条大橋間は、東海道と中山道が重複し、草津と次の大津は、東海道53次にも中山道69次にも含まれますから、中山道歩きをしている者としては、中山道の文字も併記して欲しいと思いました。
 まもなく矢倉立場の跡に着きました。そこがかつて、草津名物の姥が餅屋のあった場所です。今もこの場所に姥が餅屋が現存し、一休みすることができたなら、現代の街道歩きの人にも喜ばれるだろうにと思います。ポン太なら必ず寄るはずですから。
 国道1号と交差する矢倉南交差点付近は、旧道がどこへつながっているのかわかりにくく、しっかりした標識が欲しいところです。地図で間違いなく旧道であることを確認した道を進んでいくと、野路という集落に入りました。その中ほどに「萩の玉川」という場所がありました。野路は平安から鎌倉時代にかけて存在した宿駅で、「萩の玉川」は日本六玉川の1つといわれた由。今は人工的な小公園に過ぎませんが、休憩するのにちょうどよいので、持参した弁当で昼食をとりました。
 午後は、弁天池、月の輪池という、かつては、旅人の目を楽しませたであろう場所を眺めつつ歩みを進めました。まだ散らずに残っている桜もあり、快適な道中です。一里山という町に入ってまもなく、一里山一丁目の交差点脇に、一里塚跡の碑がありました。その先は瀬田にむかって下り勾配の道となりますが、家並みのむこうには、比叡山へと続く山並みが望まれ、いよいよゴールの京都が近づいてきたことを実感しました。
 自動車道路に合流すると瀬田の唐橋はもうすぐです。唐橋周辺には古い商店や民家が多く、京都の町中に入ったような雰囲気でした。唐橋周辺の桜はまだ見頃で、水に浮かんだ競技用のボートと桜のコラボは、一幅の絵のようでした。
 京阪石山線の踏切を渡り、東海道線の下をくぐり抜けた先が粟津の原。木曽義仲終焉の地ですが、今は工場地帯になっていて、沿道にわずかに残る松だけが、往時を偲ばせます。沿道に1つぐらいは義仲関連の碑なり像なりあってもよいと思うのですが、何もありません。そこから先は、膳所城の城下町に入るため桝形が連続し、京阪電車の踏切を越えた先でまた踏切を渡るという複雑なルートを歩くことになります。膳所城の城門跡を示す碑があちらこちらにあり、巨大なお城であったことがわかります。
 狭い旧道は風情があってよいのですが、大津市街地に入ると、車の通行量が多くなり、ゆっくり街道歩きを楽しめる感じではありません。一方通行にするなど対策はないものかと思います。クルマを避けながら歩いていると、ふいにという感じで左手にあらわれたのが義仲寺。中に入り、木曽義仲の墓(木曽塚)、芭蕉の墓と句碑、巴塚などを見ました。芭蕉はここを好み、遺言で墓が建てられた由。資料室には遺品の杖などがおかれ、門前には長生きした巴御前にあやかろうという地蔵堂もあり、なかなか面白いところでした。
 午後5時過ぎに、中央大通りとの交差点に到達しました。今日の中山道歩きはここまでとし、大津駅から電車で今宵の宿へとむかいました。

 かつては草津名物の姥が餅屋があった矢倉立場の跡
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 日本六玉川のひとつといわれた萩の玉川跡にて
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 前方に比叡の山並みが見え、道路脇には、「京都三条大橋まで五里余り」という道標が立っていました。
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 いよいよ瀬田の唐橋を渡ります。まだ桜も残っていて美しい風景でした。
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 京阪石山線の踏切です。
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 木曽義仲公が討たれた粟津の原。鉄道唱歌41番の歌詞には「粟津の松にこととえば答えがおなる風の声、朝日将軍義仲のほろびし深田はいずかたぞ」とあります。それはこのあたりでしょうか。
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 今は少し寂れてしまった感じのする膳所(ぜぜ)の商店街を進みました。
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 木曽義仲公と芭蕉翁の墓所、義仲寺です。
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 義仲公の墓前にて。信州では、義仲公は大変なヒーローです。ぜひ、大河ドラマでとりあげてもらいたいものです。
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 芭蕉の句碑。「行く春をあふみ(近江)の人とおしみける」 桜が終わりかけているこの時期に、中山道を歩いて近江に到達。明日は京都へという、ポン太とポン子の心情にマッチしているように思えなくもありません。
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<39日目、4月12日>逢坂山を越えて三条大橋へ
 ついに中山道歩きを完結させる日がやってきました。天気は午前中晴れ、午後は曇りという予報なので心配はなさそうです。大津駅から昨日の到達点である交差点にもどり、京都三条大橋をめざして歩き始めました。
 ほどなく大津事件の碑に到達。当時は国道だった狭い道での出来事であったことがわかります。それにしてもそっけない碑です。これではロシア皇太子(後の最後の皇帝ニコライ)も形無しでは…。旧道が国道161号に突き当たったところが札ノ辻で、そこを左折したあたりが大津宿の中心です。宿場的な雰囲気はほとんど残っておらず、国道沿いの本陣跡も、碑があるのみ。むしろ、通りの真ん中を走る京阪電車(京津線)の方に興味をそそられます。
 本陣碑の手前で、電車は専用軌道へと入っていきます。その先の線路際に蝉丸神社(下社)がありました。境内には蝉丸型とよばれる灯篭(重要文化財)もあるのですが、本殿はちょっと荒れた感じで、訪れる人はそう多くなさそうです。蝉丸の哀れな生涯(史実ははっきりしませんが)を偲ぶにはふさわしい場所かもしれません。
 ここ逢坂の地は、古くからの交通の要衝で、今も各種の交通が集まり、実に興味深いところです。東海道線をまたぐ京阪の煉瓦積跨線橋、旧逢坂山隧道など、鉄道遺産のみどころも多く、わくわくした気分で歩きました。
 旧道の跨線橋と一体化した京阪電車の坑門は、コンクリートながらすばらしい意匠です。そのすぐ前に、逢坂の関の碑(関所の本当の所在地は不明)や清少納言、蝉丸の歌碑があり、旧道沿いの蝉丸神社(上社)入口には、交通遺産として重要な「車石」(荷車の通行用に道路に敷き詰めた石。車輪のあたる場所が摩耗してU字形の溝にになったもの)が保存されています。「車石」はその先の閑栖寺の門前や、民家の前などにもありました。
 道路標識に京都市の文字が現れ、山科エリアに入りました。山科駅前のレストランで腹ごしらえをし、ゴールの三条大橋を目指しました。東海道線のガードをくぐると、右手に天智天皇陵がありました。その前を左に入る狭い道が旧東海道です。まるで路地のようですが、昔の東海道はこの程度の幅しかなかったということでしょう。多くの歴史上の人物が、都を目指して歩いたであろう同じ道を、今まさにたどっているのかと思うと、気分が高揚してきました。東山にむかって登り一方の道が続きますが、ここが最後の峠越えと思うと、疲れは感じません。
 登りきって、三条通りと合流したところが日岡峠で、そこには「車石」の通行を再現したモニュメントがありました。その先の道路擁壁にも車石が再利用されており、どれほど大量の車石が敷かれ、荷物輸送に大きな役割をはたしていたのか理解できます。
 蹴上の浄水場脇を過ぎると、いよいよ京都の市街地です。歩いている観光客の数がどんどん増え、外国人の姿も多くみかけるようになりました。都ホテルを左に見て、三条通をひたすら進みました。右手奥に平安神宮の朱色の大鳥居を望み、新緑の白川を渡ると、三条大橋まであと僅かです。三条京阪駅前を通り過ぎ、15時5分、ついに三条大橋に到達。中山道69次踏破達成の瞬間です。思わず親柱にタッチしてしまいました。京都市内の桜はほとんど散ってしまい、葉桜となっていましたが、鴨川の土手の枝垂れ桜だけは満開で、文字通り花の都へゴールインという形になりました。
 まだ日は高く、宿のチェックインには早すぎるので、比較的遅くまで桜が楽しめるという平安神宮へもどり、桜の園を鑑賞することにしました。建物と樹木そして桜がみごとに調和しており、さすがは京都のお庭です。中山道を踏破して都に着いた感激を、神苑の桜がより一層高めてくれたことは、いうまでもありません。
 感激といえば、宿の夕食もそうでした。デザートまで入れると全10品の京料理フルコース。冷酒で祝杯をあげ、美味しい料理に舌鼓をうち、いつまでも中山道踏破達成の余韻に浸ったポン太とポン子でした。

 これが大津事件の碑です。教科書に載っているような大事件にしては目立たない碑です。
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 かつての大津宿の中心部です。道路の真ん中を京阪京津線が走っています。
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 蝉丸神社(下社)にて。百人一首でポン太が最初に覚えた歌が、蝉丸の「これやこの・・・」でした。
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 東海道線を跨ぐ京阪京津線の煉瓦積み橋梁は実に良い雰囲気です。
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 安養寺(山号は逢坂山)の門前に立つ「逢坂」の碑。この地は昔も今も変わらぬ交通の要衝です。
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 旧逢坂山隧道は、外国人に頼らず、日本人の技術者が主体となってつくりあげた、初の山岳トンネルで、鉄道記念物に指定されています。坑門の扁額は時の太政大臣・三条実美が揮毫したものです。
 
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 峠のサミットに立つ蝉丸神社(上社)です。
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 蝉丸神社境内に保存されている車石です。江戸時代の舗装道路の遺構というわけで、車輪のあたる部分が摩耗してU字形の溝になっています。旧東海道だけでなく、竹田街道や鳥羽街道でも、このようなスタイルの街道整備が行われたということです。
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 山科入口の分岐までやって来ました。右が旧東海道(中山道)で、左は宇治へつながる道です。京都市まであと一息。
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 山科駅前を通過し、天智天皇陵の前から、細い道に入りました。路地のように見えますが、これが旧東海道です。この先は、いよいよ最後の峠越え、日岡峠への坂道となります。
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 この狭さがなんともよい雰囲気を醸し出している日岡峠付近の旧道です。
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 日岡峠の頂上に、車石の時代を再現したモニュメントがありました。こんな感じで荷車を押したのでしょうか。
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 日岡峠を下れば蹴上です。右手は南禅寺で、観光客が増えてきました。
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 白川を渡れば、三条大橋はもうすぐです。
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 ついに三条大橋に到達。やったぁー中山道踏破!
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 満開の枝垂れ桜と、弥次喜多の像が私たちの「快挙」を祝福してくれているようでした。
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 踏破の後、平安神宮の桜を楽しみました。屋根からこぼれるばかりの桜に、入苑する前から期待が高まります。
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 京都のお庭は、なぜかくも美しいのか。計算し尽くされ、寸分の隙もない完璧な美に、驚嘆するしかないポン太でした。むかしの人が都に憧れ、都を目指したのもむべなるかなです。
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 祝賀の宴。いくらなんでも食べ過ぎではないかって?まあ、この日ばかりはご容赦下さい。食べて食べて食べまくったポン太とポン子でした。

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 日本橋から京都三条大橋まで、要した日数はのべ39日、歩行時間(含休憩)の合計は、206時間52分でした。中山道の距離は、135里35丁といわれていますので、キロに換算すると533.6kmとなります。しかし、廃道となっていて迂回を余儀なくされたところや、街道以外に歩かねばならないところ(鉄道の駅から街道への行き来など)も含めると、実際に歩いた距離はそれよりもずっと長くなります。

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