今年も楽しめた山歩き~「山じまい」は太郎山

 この一年の山歩きを振り返ってみました。本年最後に登った山は上田の太郎山でしたが、それが60回目の山行となりました。年間50回を越えたのは3年ぶりですから、よくがんばったといえそうです。ただし、大半が1~2時間で登れるような里山です。
 信州には日本100名山クラスの名峰がたくさんありますので、わざわざ里山に登る必要があるのかと思われるかもしれませんが、里山には里山の魅力があるのです。そのことに気づかされたのは、インターネットで中嶋豊氏のホームページ『信州山歩き地図』を閲覧するようになってからです。同氏は長野県警の元警視で、山岳遭難救助のエキスパートとして活躍された方です。信州の山を知り尽くした同氏作成のイラストマップは大変魅力的で、ぜひこの山に登ってみたいと思わせるものでした。里山の中には、登山道が地形図に記されていないところもあり、実際に登る際にも大いに役立ちました。現在は出版物(信濃毎日新聞社刊)として発売されており、ホームページ上でマップを見ることはできません。
 同氏が紹介している山は285座ですが、これまでに、70座に登ることができました。気に入って何度も登っている山もあります。その中から、ポン太おすすめの里山ベスト5を選んでみました。
①平尾山(平尾富士)<1155m>・・・登山回数最多の山ですから、ここをはずすことはできません。山頂からの眺めがすばらしく、何度登っても飽きません。佐久では一押しの里山です。
②太郎山<1164m>・・・上田市民に愛されている、里山の代表格です。展望は抜群。カモシカにもよく出会います。冬でも登れる有り難い山です。
③雁田山<786m>・・・小布施の裏山で、北斎の天井絵で有名な岩松院が登山口です。標高は低いのですが、縦走すると3時間以上かかります。展望園地というピークからみた北信五岳の眺めはみごとです。 
④尼厳山<781m>・・・読み方は「あまかざりやま」です。長野市松代地区ある山で、その麓はアンズの里として有名。ピンク色に染まった里の風景は絶景といってよいでしょう。 
⑤虫倉山<1378m>・・・ 長野市中条(旧中条村)にある山です。北アルプスの好展望台として知られ、チロル風の山里の景観は絵のような美しさです。
 いずれも期待を裏切ることはない山です。ぜひ登ってみてください。
 それでは皆様、どうぞよいお年をお迎えください。来年(2019年)も「浅間山麓のブラタヌキ」をよろしくお願いいたします。

 空気が澄んだ日の平尾山山頂からは、北アルプス全体が見渡せます。もちろん、蓼科、八ヶ岳方面の展望もすばらしく、ポン太が何度登っても飽きない理由がおわかりいただけると思います。
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 ズームアップしてみると、穂高(左)や槍がこのように鮮明に見えます。
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 「山じまい」をした太郎山山頂からの上田市街地の眺めです。帯状に光っているのは千曲川です。
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 この1年間、無事に60回も山歩きを楽しむことができたことへの感謝をこめて、太郎山に、そして全ての山にバンザーイ!
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 太郎山に登った後の楽しみは蕎麦です。上田の名店「刀屋」に立ち寄り、早めの年越し蕎麦を味わいました。
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 最近のお気に入りは、この「冷やしたぬき」。写真ではわかりにくいかもしれませんが、天ぷらがてんこ盛りで、えっ、これが「たぬき」なのと、タヌキもびっくりの内容と量です。ちなみに、これは「大盛」ではなく「普通」です。
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 小布施の岩松院の背後に連なるのが雁田山です。簡単に登れそうに見えますが、急登の連続で思いのほか時間がかかります。
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 雁田山の「展望園地」というピークからは、小布施の街並みと北信五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山)が見渡せます。ただし、斑尾山だけは少し離れた位置にあるので写真には入っていません。
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 アンズの里から見上げた尼厳山です。
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 こちらは尼厳山からアンズの里を見下ろしたところです。4月上旬にはこの里全体がピンク色に染まります。
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 虫倉山山頂からの大展望です。
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 虫倉山周辺の山里の風景です。どこを切り取っても絵のような美しさで、何度訪れても感動します。
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記憶を残す再開発~渋谷の新風景

 かつてはあたりまえのように眺めていた東京の風景が、久しぶりに出かけてみると、すっかり変わってしまっていて、浦島太郎のような心境になることがあります。その代表例ともいえるのが渋谷です。現在再開発の真っ最中で、馴染みのある風景が次々と失われ、全く別の町になりつつあると言ってよいでしょう。
 先日、といってもひと月ほど前になりますが、東京へ出かけた折に、渋谷駅周辺を徘徊してみました。驚いたのは、渋谷川沿いの高架線を走っていた東横線の跡地を利用した再開発が進展し、実にユニークな街区が誕生していたことです。
 駅跡地の一部には、東急渋谷駅の象徴でもあった逆三角形のような外壁のデザインがそのまま取り入れられ、旧駅の面影を留めるような工夫がなされていました。そこから続く旧線跡の商業施設「渋谷ストリーム」の真ん中にはレールが敷設されていて、鉄道の跡であることがわかるような仕掛けになっています。更にその先、渋谷川沿いの遊歩道化された部分には、かつての高架線に用いられていたと思われるコンクリート片が、モニュメントのように配置されていました。代官山に近いエリアでは、線路跡地に建てられた複合施設「渋谷ブリッジ」のベンチがレール形をしていたり、柱の装飾画が東横線の懐かしいシーンであったりと、「ここに東横線ありき」というコンセプトで全体が統一されていることに、感銘を受けました。
 再開発というと、かつての痕跡を完全に消し去ってしまうことが多く、それでは地域の歴史が後世に伝わらなくなってしまうと嘆くことの多いポン太ですが、このような形であれば大歓迎です。浦島太郎も途方にくれずに済みます。その昔、渋谷駅の総合駅化を推進し、渋谷=東急の町というイメージをつくりあげた五島慶太氏も、草葉の陰で喜んでいるのでは、などと余計なことまで考えてしまいました。

 東急渋谷駅(旧駅)跡の現在の姿です。この壁面、懐かしい感じがします。
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 地下化される前の東急渋谷駅はこのようでした。
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 再開発で出現した「渋谷ストリーム」へ続く通路には、レ-ルが埋め込まれていました。
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 商業施設の中をレールが貫いています。
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 線路を見ながら一杯? いい雰囲気じゃありませんか。
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 渋谷川沿いの遊歩道にもレールが設置されていて、ここが東横線の旧線跡だと気づかせてくれます。
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 「渋谷ブリッジ」へと続く遊歩道には、レールはありませんが、芝生の中に置かれている「石」は、かつての高架線のコンクリート片のようです。
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 「渋谷ブリッジ」のレール形をしたベンチ? こういうこだわり、嬉しいですね。
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 柱には郷愁をさそうような装飾画もありました。
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 ここはニューヨークの地下鉄? 壁の案内板もお洒落です。
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軽井沢のクリスマス

 浅間山麓でクリスマスを実感できるのは、軽井沢をおいてほかにありません。いろいろなイベントがある中で、ポン太が一番気に入っているのが、一般公開されている新島学園のクリスマスコンサートです。ハンドベルの演奏が見事なことと、一部が簡素な礼拝形式になっていることで、クリスマスらしさを味わうことができるからです。
 例年同様、少し早めに家を出て、クルマで会場の大賀ホールへとむかいました。ところが、軽井沢町内の道路が大渋滞。開演10分前にようやく会場近くに到達したのですが、いつも駐車するホール前の大駐車場だけでなく、周辺の駐車場が全て満車。コンサートへの入場を断念せざるを得ませんでした。こんなことは初めてです。
 このままでは終われないと、その翌日、クリスマスタウンを標榜している星野エリアへ出かけてみました。お目当ては、「キャンドルナイト」と軽井沢高原教会のハンドベル&ハープのミニコンサートです。幸い駐車場は確保できたのですが、軽井沢高原教会周辺は人また人。ミニコンサートはすでに定員に達していて入れないことがわかり、これまた断念せざるを得ませんでした。冬の軽井沢人気が、これほど沸騰していたとは驚きです。外国人旅行客も増えており、今までとは様子が違ってきているのかもしれません。
 コンサートにはふられましたが、「キャンドルナイト」自体はとてもすばらしいものでした。森の中に散りばめられた無数のランタンと大小様々なスタイルのクリスマスツリー。幻想的かつメルヘンのような世界が演出されていて魅了されます。見上げれば、空には満天の星。1時間ほど歩き回って気が済んだポン太でした。

 クリスマスタウンのシンボルのような「もみの木ひろば」です。
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 ハルニレテラスもクリスマスバージョンになっていました。
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 やどり木をイメージしたというイルミネーションです。
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 ハルニレテラスのクリスマスツリーです。まわりが暗いので、とても目立ちます。
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 「キャンドルナイト」にやってきました。えっ、クリスマスイブに結婚式?
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 ランタンの中でゆらめくキャンドルの灯り。電球やLEDとは異なる自然でやわらかな光は、癒やし効果抜群です。
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 森の中で出会う様々なクリスマスツリー。なかなかのアイデアですね。
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 こちらはランタンを吊した「ランタンツリー」です。
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 高原教会の前には大勢の人が集まっていました。
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 大きなツリーのまわりは、写真を撮る人でいっぱいです。それでも喧噪といった感じにならないのは、やはり森の中だからでしょう。
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 ランタンは無料で貸し出していて、それを吊して森の中を散策することもできます。
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 色とりどりの落ち葉の上に置かれているランタンも風情があります。
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冬こそ碓氷峠へ~姿を現した第13橋梁ほか

 冬こそ訪ねたい鉄道遺産。今回は碓氷峠です。
 アプト式鉄道時代の構造物の多くが、「旧碓氷峠鉄道施設」として国の重要文化財に指定され、廃線跡は「アプトの道」という名の遊歩道になっていることをご存知の方は多いと思います。しかし、遊歩道化されているのは、旧熊ノ平より東側(横川側)だけです。それより西側(軽井沢側)はどうなっているのかとえいえば、アプト式廃止後の複線化工事の際に、大半が下り線用に改築され、アプト式時代の構造物はほとんど残っていません。それでも、すべてが改築の対象となったわけではなく、第16隧道から碓氷第13橋梁までの区間は、下り線ルートから少し位置がずれていたことで、取り壊しを免れました。それらの鉄道遺産は、注目されることがないまま、放置に近い状態に置かれていましたが、なんと今年(2018年)、碓氷第13橋梁と第17隧道が、熊ノ平変電所および碓氷第7橋梁とともに、重要文化財に追加指定されたのです。
 葉が落ちて、全体が見やすくなった碓氷第13橋梁とその周辺を眺めに出かけてみました。碓氷第13橋梁は、見応えのある面白い橋梁です。レンガ造りの5連アーチ橋でその長さは51.7m。高さは10.1mと低いのですが、第3橋梁と第6橋梁に次ぐスケールです。中尾川を跨いでいるだけでなく、かつてはその下(第1径間と第5径間)を国道(旧18号線)がひも状にくぐり抜けていて、ポン太の記憶の中にも、そのころの様子が僅かながら残っています。
 碓氷第13橋梁の横川側にあるのが第17隧道で、今はその中を通り抜けることはできませんが、内部は荒れてはいないようです。煉瓦造の坑門は両側ともしっかりしています。重要文化財に追加指定されなかった第16隧道は、下部が土砂で埋まった状態ですが、それを取り除けば往時の姿を取り戻すことができそうです。両隧道間には可愛らしい煉瓦アーチ橋(溝渠)も残されており、遊歩道化も可能ではないかと期待してしまいます。
 ポン太の更なるのぞみは、レールが残っているかつての下り線を利用し、横川~軽井沢間に観光列車を運行することです。鉄道遺産見学に便利な駅(停留所)を何カ所か設ければ、観光資源としての価値も高まるでしょうし、軽井沢に抜けられとなれば、より一層多くの人が訪れるのではないでしょうか。観光列車それ自体も人気のある乗り物になると思いますが・・・。

 自動車道路側から見た碓氷第13橋梁です。葉が生い茂っていると真横からはほとんど見えません。
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 近づいて見るとこんな感じです。一番手前と一番奥のアーチの下を、かつては国道が通っていましたが、今は半分ほど土砂で埋まっています。
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 この下を国道がくぐり抜けていました。その名残の警戒塗色のペンキが、アーチの上部に少し残っているのがわかります。
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 碓氷第13橋梁の軽井沢側には第18隧道がありましたが、今は坑口がコンクリートでふさがれています。右側は下り線用につくられた第10隧道です。
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 碓氷第13橋梁に隣接している下り線(軽井沢側を見たところ)です。架線は盗難にあったということで残っていませんが、レールはしっかりした状態で残っています。この線路に観光列車を走らせ、この場所に駅(停留所)を設ければ、鉄道遺産探訪のバリエーションが豊かになることは間違いありません。横川からここまでウォーキングを楽しみ、帰りは列車でもどるもよし、軽井沢へむかうもよし。
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 碓氷第13橋梁の横川側にある第17隧道の坑門です。この隧道も重要文化財に追加指定されました。
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 第17隧道(左)と第16隧道の坑門(右)です。
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 両隧道の間にある可愛らしい煉瓦アーチ橋(溝渠)です。
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 第16隧道の軽井沢側坑門です。下の方が土砂で埋まっています。
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 熊ノ平以東の鉄道遺産も、葉の落ちた状態で眺めると、そのスケール感が際立ちます。これは前後の巨大な擁壁が印象的な碓氷第6橋梁です。
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 碓氷峠の鉄道遺産のシンボル、碓氷第3橋梁も、4連のアーチ全てが一望できます。
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 まさに天空の架け橋といった感じのこの迫力。
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 陽を浴びた煉瓦アーチ橋は見事としか言いようがありません。重機もない明治20年代に、これほどのものを建設した先人のパワーに脱帽です。
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高原に眠る草軽電鉄の遺産~柳川橋梁

 日中でも気温が氷点下、もしくはせいぜい2~3度という、浅間山麓らしい正しい冬が到来しました。浅間山も中腹以上が雪化粧し、見た目も本格的な冬という感じです。
 こんな時期にこそ出かけたい場所があります。それは、鉄道の廃線跡。草木が生い茂っている季節には見えなかったものが、葉がすっかり落ちた今なら見えるというメリットがありますし、そこが人里離れた山中である場合には、クマとの遭遇を心配しなくてもすみます。ただし、雪がたくさん積もってしまうと、歩くこと自体が難しくなるので、その直前の今がチャンスなのです。
 先週末、軽井沢町北部の草軽電鉄の廃線跡を歩いてきました。お目当ては、同電鉄で最も高い橋梁であった柳川橋梁です。絵葉書にも登場しているほど有名な橋梁ですが、自動車道路からはかなり離れた場所にあり、これまで行ったことがありませんでした。事前に調べたところでは、草軽交通の「ライジングフィールド軽井沢」というバス停からアクセスするのが一番容易なようです。
 オートキャンプ場の脇を通り抜け、まずは、林道に転用された廃線跡を進みました。入口にゲートがあり、一般車は入れないようになっています。しばらく歩くと、林道から左手へ離れていく小径があり、それが廃線跡だと確信。藪になっていたり、倒木の多い箇所もあり、クマが出没する季節であれば、一人で行くのは躊躇してしまうことでしょう。多少の不安はありましたが、廃線跡自体は途切れることなく続いていて、迷うことはありませんでした。いつの間にか寒さは吹き飛び、気分が高揚してきました。
 歩くことおよそ20分。あれっ、道が無くなっていると思った瞬間、目の前に柳川橋梁の橋脚が姿を現しました。絵葉書で見ていたのと同じ、石積みの橋脚が三本屹立しています。廃線後58年も経過しているにもかかわらず、これだけしっかり残っていたことに驚きを禁じ得ず、谷底まで降りたり、対岸に渡ったりと、いろいろな角度から「鑑賞」してしまいました。この橋梁を渡っていた列車の様子などを想像し、満足感に浸っていると、人の声が聞こえてきました。ハスキーで低音の女性の声で、「だぁれ~」と言っているようです。えっ、えっ、ほかに誰か見に来ている人がいるのかしらと、あたりを見回してみたのですが、誰もいません。ちょっと背筋に寒いものを感じてしまいました。
 帰り道、森の中で立ち止まって耳を澄ますと、風の音に混じって時折「ギー」という樹木が擦れる音が聞こえてきます。どうやらそれを人の声と聞き間違えたようなのです。前の晩にテレビでホラーシーンを見たせいかもしれません。廃線跡や廃墟探訪の前には、怖いテレビを見てはいけない。教訓が1つ増えたポン太でした。

 雪化粧した浅間山です。凛として美しいですね。
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 旧軽井沢銀座通りの入口、ロータリーの前に、草軽電鉄の旧軽井沢駅がありました。現在の商業施設も「駅舎旧軽井沢」という看板を掲げており、廃線から半世紀以上経つ今でも、地域住民に親しみをもたれている存在であることがわかります。
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 旧軽井沢から重要文化財の旧三笠ホテルへむかう道の片側は、草軽電鉄の軌道敷跡です。
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 このバス停の右手奥に小瀬温泉駅がありました。この駅を舞台とする、森繁久彌主演の映画「山鳩」(1957年公開)が制作されましたが、映画の中では駅名が「落葉松沢」となっていたそうです。おそらくそれに因んだのでしょう。このバス停の名は「唐松沢」です。
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 ライジングフィールド軽井沢のバス停です。ここから柳川橋梁へとむかいました。
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 長倉山支線林道入口ゲートです。この林道の一部も草軽電鉄の廃線跡です。
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 林道を離れ廃線跡を進みましたが、倒木が多く歩きにくいところもあります。
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 倒木の先のカーブはいかにも廃線跡といった感じです。
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 行く手に、突然姿を現した柳川橋梁です。
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 沢に降りてみるとこんな感じでした。結構な高さがあります。
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 対岸(長日向駅側)からは、三本の橋脚がよく見えます。
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 柳川橋梁から長日向駅方面へと続く廃線跡です。ここを列車で走ったら気分爽快ではないでしょうか。
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 軽井沢駅前に保存されている草軽電鉄のデキ13電気機関車です。こんな機関車が1、2両の客車、貨車をひいてあの橋梁の上を走っていた姿を想像するだけでもワクワクしてしまいます。
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 帰路、国道の温度計を見ると-1℃を表示していました。まだ明るい午後3時でもう氷点下。これぞ浅間山麓の冬です。
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やっぱり美味しい伝統食品

 年齢を重ねるにつれ、子供のころによく食べていたものに好みが回帰する、という話を聞いたことがあります。本当にそうでしょうか。古ダヌキのポン太は雑食ですから、和洋中華からエスニック系まで、何でも食べますし、どれにも甲乙つけがたい魅力を感じています。加齢により好みが変わってきたとは思えません。されど、子供のころはあたりまえすぎて何とも思わなかったものが、あまりにも美味しくて、こんなに素晴らしい食べ物だったのかと、感動してしまうことはよくあります。その典型が干し柿と乾燥芋です。
 そのままでは食べられない渋柿ですが、皮をむいて吊しておくだけで、極上のスイーツに変身。乾燥芋も同様で、蒸かしてスライスしたものを干すだけで、甘味が凝縮されて、和菓子に勝るとも劣らない食べ物になります。
 信州で軒先に柿を吊している家は、かなりポピュラーな存在といってよいでしょう。以前のブログにも書きましたように、高冷地では柿は育ちにくく、実っているのは小粒の渋柿が大半です。そこで、干し柿の出番となるわけです。ポン太もそのまねをして、干し柿づくりを実践しているわけですが、今年も、吊してから40日ほどで、トロ~と甘い干し柿ができあがりました。
 一方の乾燥イモですが、信州ではサツマイモの栽培自体があまり盛んではないこともあって、それほど一般的な食べ物ではないようです。ポン太は、子供時代を栃木県で過ごしたので、冬のおやつの定番としてよく食べていました。すぐ隣が乾燥芋の大産地茨城ですから、その影響が大きかったのかもしれません。ちなみに、乾燥芋は「干し芋」とも呼ばれますが、栃木や茨城では、「乾燥芋」(発音は短く、かんいも)が一般的です。
 自分でつくってみて、浅間山麓は意外に乾燥芋づくりに適していることがわかりました。気温が低いのでカビの発生を心配せずにすみ、降水量が少なく晴天率が高いので、4~5日干すだけで美味しい乾燥芋ができあがります。
 今朝早く初雪が降り、家のまわりはうっすらと雪化粧しました。窓から雪景色を眺めながら、出来上がったばかりの干し柿と乾燥芋で、極上のティータイムをと目論んだのですが、残念ながら雪は昼前に消えてしまいました。雪景色はさておき、手近な材料で砂糖菓子より甘いスイーツをつくり、お茶を楽しみながら冬を乗り切るという、昔の人の知恵のなんというすばらしさ。「回帰」ではなく、再発見したような気がしているポン太です。


 皮をむいて干したばかりのころはこんな感じでした。
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 二週間ほど経つと色が変わり、干し柿らしくなってきます。
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 1ヶ月経つと、体積が半分ぐらいになり、かなり美味しそうな感じに。干したころはまだ緑が残っていた庭も、枯れ木ばかりとなりました。
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 干してから40日が経過し、食べ頃に。早速試食してみましたが、自分でつくった干し柿の味は格別です。
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 雪の予報が出ていたので、全部ひもからはずして箱に収納しました。下にワラを敷いておくと、自然に粉が吹いて、お店で売っているようなきれいな姿になるということですが、例年、そこまで待てずに胃袋におさまってしまうので、本当の完成形をみたことがありません。
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 お次は乾燥芋づくりです。材料は「べにはるか」という種類のサツマイモですが、ここ数年、安価で大量にでまわるようになったので助かります。ねっとり感があり、蒸かしてそのまま食べても美味しいのですが、乾燥芋にすると驚くほど甘くなります。
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 1時間ほど蒸かし、熱いうちに皮をむいておき、冷えてから適当にスライスして、カゴに並べるだけ。つくり方は極めて簡単です。カゴは日当たりのよいところに吊しておきます。
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 1日干しただけで、こんな感じになります。この状態でも食べられます。
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 降雪の心配があるので、予定より1日はやい4日目にカゴから取り出しました。ねっとりして、美味しいこと。好みもあると思いますが、ポン太はこのぐらいの半乾燥状態の方が美味しいと思います。
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 今朝起きると、うっすらと雪が積もっていました。雪があると庭が明るくなります。大雪は困りますが、適度な雪なら大歓迎。来週末あたりに、ある程度の降雪があれば、文字通りホワイトクリスマスです。今年はどうでしょうか。
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横浜線開通110周年に因んで

 日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開通したのは、今から146年前の1872(明治5)年でした。それから30~40年で、全国の幹線鉄道網が概ねできあがりましたから、すでに開通から100年以上経過した路線が少なくありません。このような歴史の長さこそ、鉄道の魅力の1つではないかとポン太は考えます。鉄道の歴史は、近現代の社会のあゆみとリンクしており、地域形成にも深く関わっています。折々の鉄道風景が、自分史のひとコマとして、脳裡に刻みこまれている人も少なくないはずです。
 浅間山麓を走る信越本線(現、しなの鉄道線)が、本年、開通130周年をむかえたことについては何度もブログで触れましたが、今年、節目の年をむかえたのは信越線だけではありません。実は、ポン太にとって、かつては極めて身近な存在であった横浜線が、本年開通110周年をむかえました。
 桑都八王子と国際貿易港横浜を直結する鉄道は、八王子と横浜の生糸商等が熱望していたものであり、1886(明治19)年には、甲武鉄道(現、中央線)に対抗して武蔵鉄道(川崎~八王子間)を出願したものの却下されてしまいました。その後、何度も申請に失敗した後、横浜の実業家たちが中心となって横浜鉄道を立ち上げ、明治41(1908)年9月23日、東神奈川~八王子間を開業しました。ところが、経営不振(運賃併算で割高となる貨物輸送が振わず)で、1910(明治43)年4月1日には、鉄道院借り上げという形となり、1917(大正6)年10月1日に国有化されて、国鉄横浜線(1987年からJR東日本の路線)となったのです。
 ポン太は1976年から40年近く横浜線の沿線に住んでおりましたので、同線には懐かしい思い出がたくさんあります。近年、横浜線の各駅とその周辺の変貌は著しく、昔の情景を想像することすら難しくなってきているように思います。そこで、手元にある古い写真で、横浜線の近過去を振り返えってみることにします。写真は八王子~町田間のみですが、そうそうこうだったね、へえーそうだったのか、と楽しんでいただければ幸いです。

 八王子駅の乗り換え階段に、横浜線110周年記念のペイントが出現していました。
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 ポン太が横浜線沿線に住み始めたころの八王子駅横浜線ホームです。まだ旧型国電が主役で、ローカル線的な雰囲気が漂っていました。(1976年6月12日撮影)
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 1988年(昭和63)3月に高架化され、新駅舎に移行して間もなくの片倉駅です。かつてはのどかな丘陵地帯であった片倉~相原間ですが、沿線エリアの開発に拍車がかかったのは、このころからです。(1988年8月31日撮影)
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 片倉~相原間に新駅が誕生したのは、1997(平成9)年4月1日です。これは開業したばかりの八王子みなみ野駅ですが、駅のまわりには建物はほとんどなく、しばらくは駅だけがポツンと建っている状態でした。(1997年4月5日撮影)
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 開業3年後の八王子みなみ野駅です。西側では建物が増えていますが、東側(左手)はまだ更地が目立ちます。
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 八王子みなみ野駅が開業する前年の風景です。駅はこの写真の右手方向になります。宅地の造成がかなり進展していますが、まだ家はほとんど建っていません。左手奥にみえる円形のビルは日野自動車の歴史館である「日野自動車21世紀センター」です。現在はこの造成地の大半が住宅で埋まっています。(1996年11月5日撮影)
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 開発が始まる前の八王子みなみの駅付近(相原側へ少し進んだあたり)です。現在とは全く異なるのどかな風景が広がっていました。(1977年6月9日撮影)
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 こんな踏切もありました。(1976年9月23日撮影)
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 八王子みなみの駅周辺が開発される以前の片倉~相原間は、横浜線で唯一、山の中を行くといった感じのところでした。国道16号は御殿峠を越えますが、横浜線は相原トンネルで多摩丘陵を駆け抜けていきます。(81年11月15日撮影)
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 相原トンネルを抜けて、相原駅へとむかう上り電車(103系)です。八王子~相原間は1988年3月まで単線でしたが、写真の右側には複線化に備えた路盤がすでに準備されている様子がうかがえます。
(1981年11月15日撮影)
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 相原駅は横浜鉄道開通と同時に開業した古い駅です。この駅舎は1934(昭和9)年に建設されたもの。2003年に橋上駅化されるまで存在しており、ポン太は、時が止まったような、こののどかな雰囲気が大好きでした。この駅舎が取り壊されたことで、横浜線内から戦前に建設された駅舎は全て姿を消しました。(1980年6月22日撮影)
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 相原~橋本間の大山街道踏切です。(1976年6月12日撮影)
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 橋本駅は1980年に橋上駅化されるまで、このような姿でした。駅前広場の一角にはバスの乗降場や待合室があり、地方都市の駅のような雰囲気が漂っていました。(1978年11月4日撮影)
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 相模原駅に最初に降り立った時の印象は、市の名前を冠している駅にしてはいささか寂し過ぎるのでは、ということでした。駅前に繁華街とよべるほどのものがないせいですが、横浜鉄道開業時にはこの駅はなく、戦時体制下の軍都建設に伴って、その玄関口として1941(昭和16)年4月5日に開業したという経緯があります。元々大きな集落があったところではなかったのです。(1981年11月26日撮影)
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 相模原駅は、1996年に橋上駅化されましたが、その少し前はこのような姿でした。駅舎の本体は開業時のままだったと思われますが、外観はずいぶんお洒落になっていました。(1995年1月23日撮影)
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 原町田駅です。1980年に駅周辺の再開発により小田急寄りに移転するまで、国鉄は原町田、小田急は新原町田と称していました。橋本と同様、地方都市の駅という感じですが、元々駅の近くに原町田という集落があり、国鉄原町田駅がその最寄り駅でした。小田急の新原町田駅とは600mほどの距離があったため乗換は大変で、ラッシュ時には走る人も多く、「マラソン道路」などと呼ばれていました。(1979年4月22日撮影)
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 原町田駅のホームです。ローカル線の少し大きめの駅という雰囲気でした。(1979年4月22日撮影)
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 原町田駅の跨線橋から八王子側(小田急線側)を見たところです。線路際では再開発のための解体工事が行われている様子がうかがえます。(1979年4月22日撮影)
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 国鉄原町田駅の入場券(左)と小田急新原町田駅発の乗車券、新原町田行の特急券です。だいぶ変色しており、時の流れを感じます。
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初冬の富士登山

 先日、ポン子と一緒に富士山に登ってきました。といっても日本一高いあの富士山ではありません。上田市の西方、塩田平の南縁に聳える独鈷山系の富士山です。標高は1029.6m。何だ、ただの里山ではないか、と思われるかもしれませんが、おそらく、日本で二番目に高い富士山なのです。
 全国に富士を名乗る山はたくさんありますが、いずれも「○○富士」といったように、富士の前に地域名がついていたり、富士は通称で本当の山名は別にあるというケースが大半です。しかし、この山はずばり富士山。国土地理院の地形図にも、しっかり富士山と記載されています。正式名称が富士山という山が他に無いわけではないのですが、地形図に表記されているものはごく少数です。ポン太の知る限りでは、この上田の富士山に次いで高い(地形図に表記されている)富士山は、福島県西会津町にあります。しかし、その標高は508.8mにすぎませんから、上田の富士山が堂々の第二位であるとみてよさそうです。
 さて、富士山という立派な本名をもつこの山ですが、地元では、付近にある鹿教湯(かけゆ)温泉の名を冠して、鹿教湯富士と通称されています。気軽に温泉客も登れる里山なのかというとそうではなく、観光パンフレットなどに登山案内やルートが掲載されていないのはもちろん、現地に行ってみると、登山口の標識も無く、山中には道標の類が1つもありませんでした。要するに登山・ハイキングの対象となるような山ではないのです。しかし、「日本で二番目に高い富士山」というところに惹かれるものがあり、あえてチャレンジしたというわけです。
 このあたりは、日本有数の松茸の産地ですから、シーズン中に山中をウロウロしていると、不法侵入者ではないかと疑われる心配があります。夏は暑すぎてこのような低山に登る気はしませんので、初冬の今がチャンスではあるわけです。南麓の国道254沿いにある高梨という集落から入山し、まずは富士山東側の鞍部、市峠を目指しました。獣除けの柵から登山道が始まるというロケーションが不安感をかき立てましたが、市峠への道は、一部に崩壊箇所はあったものの、全体としては幅広くしっかりしたものでした。道端のいたるところに石仏が鎮座しており、その中には江戸時代の年号が刻まれたものもありました。どうやら、市峠を越えるこの道は、松本から上田へ抜ける最短ルートとして、昔は利用する人が多かったようなのです。土留めの石積みが残っている箇所もあり、思いがけず古道の風情を楽しむことができました。
 1時間ほどで難なく市峠に到着しましたが、大変だったのはそこから。富士山頂へは市峠から西側へ続く尾根を登っていくのですが、落ち葉で道がほとんど見えません。所々の木の枝に巻き付けてある赤いテープだけが頼りです。尾根をはずさないように慎重に進みましたが、山頂が近づくにつれ、とんでもない急登となりました。斜面に積もった落ち葉は滑りやすく、足の置き場を間違えると滑落は必至です。つかむことのできるものは、枝でも岩でも何でもつかみ、なんとか切り抜けましたが、帰路は恐怖で足が震えました。
 山頂には、小さな石祠と三等三角点があるのみ。樹間から鹿教湯の温泉街を望むことはできますが、展望が良いとはいえません。滑落の危険を冒してまで登る価値のある山なのかといわれると、う~ん、という感じです。されど、ポン太にとっては28年ぶりの「富士登山」であり、前回は日本一の、今回は二番目に高い富士山の頂に立てたのですから、達成感は十分得ることができたといえましょう。


 鹿教湯温泉街から見た富士山です。ただしこれは2月に撮影したもので、今回の登山時には雪はありません。
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 鹿教湯温泉と富士山の位置関係はこうなっています。赤い点線が今回登ったルートです。
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 この獣除けの柵が登山道の入口です。留め金を一旦はずして中に入りました。
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 その先に続く道は、それなりに整備されていて、岩の上には石仏が鎮座しています。
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 随所に石仏が置かれていて、この道が古い街道であることがよくわかります。この石仏には嘉永五年と刻まれていました。ペリーが浦賀に来航して日本中が大騒ぎになるのはこの翌年です。
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 全体としては歩きやすい道ですが、崩落した岩が道を塞いでいるところもあります。道端の石碑には「天保六年」と刻まれていました。天保といえば、江戸三大改革の1つ、水野忠邦による天保の改革が有名ですが、それが行われたのは、この6年後の天保十二年。こういうものを見ると、江戸時代が身近に感じられます。
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 斜面をトラバースしなければならない箇所もあり、転落しないように慎重に進みました。
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 大きな岩の下をまわり込むようなところもあります。
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 こんな立派な石積みが残っていました。単なる土留めではなく、建物があった名残のようにも見えます。茶店があり、峠を越える旅人がここで一息入れたのかもしれない、などと想像してしまいました。人や馬が頻繁に行き交った往時の情景が目に浮かんでくるようです。
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 ここが市峠です。この道は、塩田平を経て上田城下へと通じていました。山地を避けて大回りするよりは、この最短ルートを利用する人の方が多かったのではないでしょうか。昔の人にとっては、この程度の峠越えは苦にならなかったのかもしれません。
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 このあたり一帯は松茸山ですから、入山権の無いよそ者が立ち入らないように、テープが張られていました。こうした山を「止め山」といいます。「止め山につき、無断入山者は罰金20万円」などと書かれている場合もあります。
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 市峠から富士山へは、享和元年(西暦では1801年)と刻まれた古い石仏の後ろを登っていくのですが、どこが道なのかはっきりしません。
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 樹間から鹿教湯の温泉街を望むことができます。
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 傾斜がどんどんきつくなります。この先は、自分の身体を保持するのがやっとという急斜面となり、写真を撮る余裕はありませんでした。
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 ようやくたどりついた富士山の山頂です。
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 小さな山名プレートが、松の木に取り付けられていました。日本で二番目に高い富士山ですから、もう少し立派な表示があってもよさそうですが・・・。
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 下山後、鹿教湯温泉で汗を流し、今年まだ一度も口にしていなかった松茸を少しばかり賞味しました。松茸の握り寿司に松茸入茶碗むし、松茸御飯。本当は、そちらが目的だったのではないかって?「それも」ということにしておきましょう。
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台鉄自強号塗色の電車、浅間山麓を快走

 しなの鉄道に、先月15日から、今まで見たことのない塗色の電車が走っています。初めて目にした人は、何だろうあの車両はと驚くのではないでしょうか。電車そのものはしなの鉄道が所有する115系電車ですが、1編成(3両)の塗色を台湾鉄路局(台鉄)の自強号(EMU100形交流電車、すでに定期営業運転は終了)をイメージしたものに変えて運行しているもの。本年3月に、しなの鉄道と台鉄は「友好協定」を結び、双方に同名の駅が存在する田中駅は姉妹駅となりました。そのような関係から、台鉄自強号塗色の電車の登場となったわけです。
 今年は、直江津から伸びてきた官設鉄道(のちの信越線)が軽井沢まで開通して130周年という節目の年です。それに因んだ様々なイベントが行われていることについては、以前のブログでも触れたとおりですが、上田~軽井沢間の開業日である12月1日には、台鉄自強号塗色の電車を用いた臨時電車が運転されました。列車名は下りが「信越線軽井沢~上田開業130年記念号」、上りは「台鉄・田中駅友好記念号」。それぞれにヘッドマークも付くというので、ポン太もカメラをもって出かけてみました。
 見慣れた浅間山麓の風景の中を走る台鉄自強号塗色の電車。違和感があるかと思いきや、冬枯れの野や森には、むしろこのような明るい雰囲気の電車が良く映えます。台鉄自強号色の電車は、この先3年間、普通電車や快速電車として運用されるということなので、目にする(利用する)機会はかなりありそうです。


 イベント列車の人気は衰えず、今回もたくさんのカメラの砲列ができていました。
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 浅間山麓(御代田~平原間)を行く「信越線軽井沢~上田開業130年記念号」です。
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 まわりの冬枯れた風景にこの色はよく映えます。
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 信濃追分の森の中(信濃追分~御代田間)を行く「台鉄・田中駅友好記念号」です。
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 ヘッドマークに大きく「田中」の文字が入っています。台鉄の田中駅が姉妹駅であるということをアピールしているわけですが、田中駅では、この日が開業記念日であることに因んで、全国の田中さんに同駅に集合してもらうというイベントが行われました。田中姓であるということが証明できれば、『「田中さん」来駅記念プレート』と同日のみ有効な軽井沢・長野フリーきっぷを進呈するということでしたが、果たして何人の田中さんがそれをゲットしたのでしょうか。
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