日中線熱塩駅~忘れ難き終着駅(2)

第2回 日中線熱塩駅(福島県)
 ラーメンと「蔵の町」で知られる福島県喜多方市。現在の喜多方駅は、磐越西線の途中駅に過ぎませんが、かつてはそこから分岐して北方の熱塩に至る11.6kmの盲腸線がありました。それが日中線です。
 初めてこの線に乗車したのは、1971(昭和46)年正月の家族旅行の折です。終点の熱塩駅から徒歩数分のところに熱塩温泉があり、そこが旅の目的地でした。宿泊したのは笹屋本館という老舗の純和風旅館。熱塩という名のごとく、湯は熱くしかも塩分が濃いので身体がよく温まったことを覚えています。画像
 この温泉に行くのに日中線の列車を利用する人は、ほとんどいなかったと思います。なぜなら、列車本数が一日たったの3往復と少なく、日中線という線名とは裏腹に、日中は列車がまったくないというダイヤだったからです。
 喜多方発6:12が始発で、その次は10時間後の16:04、最終が18:25でしたから、東京を朝出発し、夕食前に旅館にチェックインするには、16:04発の623列車を利用する以外に選択肢はありません。623列車を牽引していたのはC11形蒸気機関車(C1164)。乗車した客車は、背ずりが板張りのオハフ612520でした。残念だったのは、冬場のこの時間帯ですと、終点の熱塩に着くころにはすっかり暗くなってしまい、ほとんど景色が見えなかったことです。撮ることができた写真も、途中の会津加納駅に停車中の1枚のみ。帰路は、バスを利用せざるを得ず、なんとなくすっきりしない乗車体験となりました。
 やはり全線の風景を目に焼き付けておかねばと、それから11年後の1982年春に、もう一度乗りに出かけました。蒸気機関車の時代は去り、機関車はディーゼル(DE10)に替わっていましたが、客車は同じタイプでしたから、硬い背ずりの感触とローカル線旅情を満喫することができました。同線が廃止されたのは、その2年後の1984年4月1日です。
 それにしても、どうしてこのような路線が敷設されたのか、なぜ日中線という名前だったのか、そんな疑問をもたれる方が多いのではないでしょうか。建設の根拠となったのは、1922(大正11)年に公布された(改正)鉄道敷設法です。その別表の予定線の中に、「山形県米沢ヨリ福島県喜多方ニ至ル鉄道」が含まれていたからです。明治時代から、栃木県の今市と米沢を結ぶ野岩羽線(下野―岩代―羽後)構想があり、それを引き継いだものでした。完成すれば、東北本線の西側にもう1本、東北縦貫線ができあがるという夢のような話です。
 1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、その翌年以降、国鉄の新線建設工事は中止もしくは繰り延べを余儀なくされます。そんな中で、完成間近なところだけは工事が継続され、1938(昭和13)年8月18日、喜多方~熱塩間が開業に至ったというわけです。 線名は、熱塩から4キロほど先にあった日中温泉(現在はダム湖の底に沈んでおり、昔とは別の位置に同名の温泉が再建されています)に由来します。上記の野岩羽線構想の実現を目指すなら、「岩羽(南)線」のような線名をつけてもおかしくないはずですが、想像するに、現実的にみて米沢への延伸は困難なので、せめて日中温泉までは延伸開業させたい、という思いがあったのではないでしょうか。


 初めて日中線に乗車した際に会津加納駅で撮影した写真がこれです。この機関車(C1164)は、喜多方~会津村松間の廃線跡に保存されていて、今も見ることができるそうです。終点の熱塩駅には転車台がなかったので、下りはバック運転、上りは正方向での運転でした。(1971年1月1日撮影)
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 終着駅の熱塩です。到着するとすぐに機関車を切り離し、先頭(喜多方側)につけかえます。これはちょうどその連結が終わり、上りの624列車となった状態です。(1982年3月26日撮影。以下同様)
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 これは北側から熱塩駅を見たところです。右側が機まわり線(機関車を反対側につけかえるのに用いる線路)です。
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 駅のまわりは、このようなのどかな雰囲気でした。
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 客車はオハフ61とオハ61の二両編成。数人の乗客がいましたが、いずれも、この線に乗ること自体を目的とした人のようでした。通学の高校生(この日は春休み中なのでいませんでしたが)以外、日常的に利用する一般の乗客はほとんどいなかったのでしょう。この何のクッションもない板の背ずりがずらりと並んだオハフ612528の車内風景、ポン太には涙が出るほど懐かしいものですが、今の若い人たちはどう思うでしょうか。「これって、日本の鉄道ですか?」と言われてしまうかもしれませんね。
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