勝田線筑前勝田駅~忘れ難き終着駅(3)

 第3回 勝田線筑前勝田駅(福岡県)

 子供のころ(60年も前の話ですが)、小学校の社会科の教科書に必ず載っていたのが、石炭産地の分布図でした。当時、石炭はまだエネルギーの主役の地位にあり、教室のストーブにも石炭が用いられていましたから、その産地に関する知識は、小学生にとっても必須のものだったわけです。九州の北部に産出量の多さを示す大きな黒丸がたくさんついていたのが印象深く、どんなところだろうかと、興味をもちました。画像
 残念ながら、九州はあまりに遠く、石炭産業全盛時にその地を訪れることはできませんでしたが、その名残の鉄道路線には、いくつも乗車することができました。今回とりあげた勝田線もその1つです。勝田線は鹿児島本線の吉塚(博多駅の隣)駅と筑前勝田駅を結んでいた13.8kmの路線です。開業時は筑前参宮鉄道という私鉄で、1919(大正8)年5月20日に全通(前年の9月19日に宇美~筑前勝田間は貨物線として開業)しています。1942年に西日本鉄道(西鉄)に統合された後、1944(昭和19)年5月1日、戦時買収により国鉄勝田線となりました。
 沿線の糟屋(かすや)郡一帯には、かつて大小50以上の炭鉱があり、糟屋炭田とよばれていました。とりわけ規模が大きかったのが志免(しめ)炭鉱(志免鉱業所)と三菱勝田炭鉱です。前者は国有の炭鉱で海軍艦艇の燃料を確保するために開発され、戦前は海軍の管轄下にありました。戦後は国鉄の管轄となり蒸気機関車の燃料等に用いられました。エネルギー革命の進展により、前者は1964年、後者は1963年に閉山。志免鉱業所には、全国最大規模といわれた大型竪坑櫓(1943年竣工)があり、2009年に国の重要文化財に指定されています。
 ポン太が勝田線に乗車し筑前勝田駅に降り立ったのは1976(昭和51)年7月31日ですが、実はこれには前段があります。その3年前の1973年8月25日、香椎線に乗車した際に、宇美で乗り換えて筑前勝田まで行き、折り返して吉塚へ向かおうと考えました。これなら1回で両線に乗ることができるからです。ところが、なんとその前の月に発生した集中豪雨被害により勝田線は不通になっており、乗車はかないませんでした。復旧には1年以上かかったということで、それから3年後の再訪でようやく乗車できたというわけです。
 勝田線の列車本数は、一日7往復(うち1往復は土日のみ運転)。ほかに吉塚~志免間には平日のみ運転の区間列車が1往復があったものの、運転間隔が開きすぎて使い勝手の悪い路線であったことは間違いありません。1985(昭和60)年4月1日に廃止となりました。
 路線の廃止後に、一度、現地を尋ねたことがあります。2011年秋のことですが、筑前勝田駅跡だけでなく志免町の志免鉱業所竪坑櫓などを見て回りました。かつての沿線エリアは福岡都市圏の近郊住宅地として発展しており、福岡市内とを結ぶ路線バスが頻繁に行き交っていました。もし勝田線が大都市近郊路線と位置づけられ、それなりの方策が講じられていれば、存続できた可能性がないとはいえません。財政再建問題に苦しんでいた当時の国鉄の余裕のなさ、無為無策を想起させるという点でも、ポン太にとって忘れ難き終着駅なのです。


 ありし日の筑前勝田駅です。停車している車両はキハ20439、土日運転の6829D列車(折り返して6830D列車となる)です。朝夕には客車列車(ディーゼル機関車牽引)が運転されていたので、機回し線があります。(1976年7月31日撮影)
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 道路より低い位置にあった筑前勝田駅駅舎です。この雰囲気からすると、筑前参宮鉄道として開通して以来の駅舎だったのかもしれません。(上に同じ)
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 かつての筑前勝田駅跡です。小公園になっていました。駅跡を示すものは何もありませんが、地形と周囲の山々の形から、ここで間違いなさそうです。(2011年11月21日撮影。以下同様)
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 勝田線からも見ることができた志免鉱業所の巨大な竪坑櫓です。高さはなんと47.6mもあり、国の重要文化財に指定されています。現存するものは、世界でも、こことベルギーのブレニー、中国の撫順しかないということですが、建築年代が比較的新しい(1943年竣工)ことから、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成要素とならなかったのが残念です。
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 勝田線志免駅の跡地は「志免鉄道記念公園」として整備されていました。後方に竪坑櫓が見えます。
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 志免駅ホームの跡です。中央部を道路が横切っていますが、駅の雰囲気は感じます。
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 石壁にはめ込まれていた志免駅の写真です。廃止直前のようで、ホームに大勢の人がいます。
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 廃線跡のかなりの部分が遊歩道化されていました。
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