北恵那鉄道下付知駅~忘れ難き終着駅(4)

第4回 北恵那鉄道下付知駅(岐阜県)

 日本の鉄道に全部乗りたい、そんなことを考えはじめたころ、最初に目標としたのは国鉄線全線乗車でした。ベストセラーとなった『時刻表2万キロ』の著者である宮脇俊三氏も同じことを考えたようですが、その後の著作の中で、これは失敗であったという主旨のことを述べています。 ポン太も同感で、私鉄を優先すべきであったと思います。なぜなら、国鉄ローカル線の廃止が本格化したのは、1980年代に入ってからですが、ローカル私鉄はそのだいぶ前から廃線への流れが加速しており、国鉄に目をむけている間に、乗る機会を逸してしまった私鉄のなんと多いことか。
 そんな中で、幸運にも廃止直前に乗ることができた路線の1つが北恵那鉄道です。それは、岐阜県東濃地方の中心都市である中津川市(旧中津町)と木曽川の支流付知川沿いの恵那郡付知町(現在は中津川市域)とを結ぶ、全長(営業キロ)22.1kmの電気鉄道でした。画像
 この鉄道の建設には福沢諭吉の娘婿である福沢桃介が深く関わっています。桃介が力を注いだ事業の中心にあったのが、木曽川水系における電源開発(水力発電所の設置)でした。木曽川本流の大井発電所(大井ダム)の建設により、付知川流域からの筏による木材搬出ができなくなるため、その代替輸送手段として、この鉄道の建設が必要になったのです。大井発電所の竣工年と同じ1924(大正13)年8月5日に、中津町~下付知(しもつけち)間を開業し、桃介自ら社長に就任しています。1937(昭和12)年には、終点の下付知で接続する付知森林鉄道が敷設され、北恵那鉄道は木材輸送に大いに役立ったものと思われます。
 しかし、1959(昭和34)年に森林鉄道は廃止され、高度成長期以降、モータリゼーションの進行とともに利用客も減少。元々沿線人口が多い地域ではなかったこともあり、厳しい経営を余儀なくされたことは想像に難くありません。
 ポン太が訪れたのは、1978(昭和53)年8月24日です。同線の廃止は同年9月18日ですから、かろうじて間に合ったといえましょう。国鉄中央西線の中津川駅で下車し、北恵那鉄道に乗り換える際に、興味深かったのは、同線の起点駅が国鉄駅からはだいぶ離れた中央線の線路の反対側にあり、駅名も昔の町名の中津町を名乗っていたことです。地方私鉄の場合、国鉄線のホームの片隅から発着するようなケースが多いのですが、堂々とした自前のターミナルを有し、国鉄駅とは異なる名称を堅持していたことに、ある種の感動を覚えました。
 駅の佇まいも年季の入った車両も、ローカル電車のイメージそのもの。道床に雑草が生い茂り、その中をかき分けるようにして走るところもあり、文字通り草深い路線でした。それは、厳しい台所事情の証でもあったわけで、ガタンゴトンとよく揺れる電車に乗って、終点の下付知駅に到着した時には、この時代(1970年代末)までよくがんばりましたね、長い間ご苦労様でしたと、頭を下げたい気持ちになったポン太でした。

 北恵那鉄道の起点、中津町駅です。このような立派な駅舎でした。(1978年8月24日撮影、以下同様)
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 中津町駅のホームに停車している7:03発の下付知行一番電車です。電車が走るのは朝夕のみで、この電車の次はなんと16:15。その後4本の電車がありますが、日没後になってしまいます。なんとしてもこの電車に乗らねばと、長野発の夜行列車で朝4時に中津川駅に着き、駅待合室で待機していたのです。
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 途中の並松駅で上り電車と交換しました。どこに線路があるのかわからないほど雑草が繁茂しており、ローカル電車の悲哀を感じてしまいました。中津町から乗車した電車(デ563)もこの電車(デ565)も、名鉄から譲り受けた電車です。
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 終着駅下付知駅に着いた電車です。構内は広く、貨物輸送が盛んだった時代を偲ばせます。
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 下付知の駅舎も予想外に大きなものでした。付知町の中心部からは少し離れた場所にあり、延伸を予定したもののかなわなかったということです。
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 北恵那鉄道の車内補充券です。中津町~下付知の所要時間は53分、運賃は420円でした。
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