興浜北線北見枝幸駅~忘れ難き終着駅(5)

第5回 興浜北線北見枝幸駅(北海道)

 新旧の地図を見比べて、鉄道路線網のあまりの縮小ぶりに、驚かされるのが北海道です。特に、オホーツク海の沿岸エリアは、鉄道空白地帯といってもよい状態になってしまいました。かつて、北海道ワイド周遊券を手に、各線を乗り歩いていた時代、稚内から網走まで、一部の区間を除いてオホーツク沿岸を鉄道で移動することが可能でした。その一部の区間というのは、興浜北線の北見枝幸(きたみえさし)駅と興浜南線の雄武(おむ)駅との間です。興浜線という線名からもわかるように、元々名寄本線の興部(おこっぺ)と天北線の浜頓別を結ぶ予定で建設された鉄道が結局つながらず、双方が盲腸線のままの状態になっていたわけです。北見枝幸と雄武の間には大きな町は無く、この間を結ぶバスは、夏季なら海岸沿いの原野と牧草地の中を、冬であれば真っ白な雪原をひた走るといった感じで、「オホーツク一本道」などと呼ばれていました。画像
 当時、旅行ガイド等にしばしば使われていたのが「最果て」という言葉です。「最果ての町」だの「最果て旅情」だのといった文言に惹かれて、北海道を旅をする若者も多かったように思います。かくいうポン太もその一人かもしれません。実際に乗ってみて、「最果ての鉄路」というイメージに最も合致していたのが興浜北線であり、「最果ての駅」は北見枝幸、そして「最果ての道路」は「オホーツク一本道」でした。
 海外に簡単に出かけられるようになった今日、国内なのに「最果て」とはなんだよ、といわれかねませんが、当時、首都圏から北海道の端まで行くのは、現在の海外旅行以上に時間のかかる大旅行でした。青函連絡船を介して列車を何度も乗り継ぎ、ようやくたどり着いた先は、十分「最果て」だったわけです。車窓から流氷を眺め、最果てムードに酔いしれた興浜北線の旅。北見枝幸で乗り継いだバスの車窓から見た「オホーツク一本道」の白一色の風景。忘れられない思い出です。
 興浜北線浜頓別~北見枝幸間30.4kmが開業したのは1936(昭和11)年7月10日。廃止されたのは1985(昭和58)年7月1日です。同年7月15日には、南側の興浜南線も廃止され、さらにその4年後の1989(平成元)年5月1日には、興浜北線の接続先であった天北線も、興浜南線の本線にあたる名寄本線までもが全線廃止となり、このエリアから鉄路は完全に消滅してしまいました。あの日、「最果ての鉄路」を旅することができた幸せを思わざるをえません。

 浜頓別駅の天北線ホームから、発車を待つ北見枝幸行の列車を見たところです。当時の興浜北線には1日6往復(1往復は音威子府直通)の列車が設定されていました。この日乗車した列車は気動車(キハ2267)の単行(1両編成)でしたが、当時のメモには、「意外に乗客多く、座席はほぼ満席」とあります。(1972年3月7日撮影)
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 興浜北線からみたオホーツク海の流氷です。車窓から流氷を見たのはこれが初めてというわけで、大感激でした。(1972年3月7日撮影)
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 北見枝幸に到着した列車です。枝幸町はこの地方の中心をなす町で、当時の人口は1万を超えていましたから、それなりの利用者があったのもうなずけます。
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 最初の旅から10年後に再訪した際に撮影した北見枝幸駅の駅舎です。(1981年12月27日撮影)
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ようやく明るくなり始めたた北見枝幸駅構内です。ホームには始発列車が停車しています。(1981年12月27日撮影)
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 興浜南線に乗り継ぐために「オホーツク1本道」を走る宗谷バスに乗車しました。乗客は数名しかおらず、最前列の座席を確保して前方展望を満喫することができました。地吹雪になったら恐怖を感じるかもしれない道が続きます。
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 雄武町に入ったバス停には、「興浜南線を守ろう」という看板がありました。同線の廃止はこれから3年半後です。(1981年12月27日撮影)
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 もう一方の終着駅雄武です。面白かったのは、同じ字を書いて町の名は「おうむ」と読ませるのに、なぜか駅名は「おむ」だったことです。(1972年3月7日撮影)
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 雄武駅構内のこの広さ。水産物、農産物など貨物の取扱が多かったことをうかがわせます。(1981年12月27日撮影)
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