倉吉線山守駅~忘れ難き終着駅(8)

第8回 倉吉線山守駅(鳥取県)

 旅の途中で体調が悪くなると、楽しいはずの旅が苦行へと一転します。そんな目には遭いたくないものですが、残念ながら、そうなってしまったことがあります。
 1974年の早春、山陰地方の鉄道を乗り歩こうと出かけた時のことです。京都で3日間を過ごし、中国地方に入って2日ほど経ったころ、ノドが痛くなりました。がまんして動き回っているうちに熱も出てきて、境線を乗り終えて倉吉線に乗車したころには、おそらく38度以上になっていたと思います。ボーっとした頭で眺めた風景はやはりボーっとしておりました。それでも、なんとか記憶にとどめようと、車窓を凝視し続け、ようやくたどり着いた終着駅が山守駅でした。写真を1枚撮っただけで、椅子にへたりこみ、倉吉へと折り返したのです。元気を出すには何か食べなければと駅前食堂に入ったのですが、まったくノドを通りませんでした。翌日も体調は回復せず、結局それ以降の予定を取りやめて家にもどることになってしまいました。そんな苦い記憶とともにある忘れ難き終着駅、それが山守駅です。体調の良いときにもう一度訪ねたいと思ったものの実現することはなく、1985年4月1日に廃止されてしまいました。画像
 倉吉は鳥取県中部の中心都市です。官設鉄道(のちの山陰本線)が開通した際に、倉吉駅が設けられましたが、町の中心市街地である打吹地区とはかなり離れていました。そこで、両者を結ぶ鉄道として、1912年6月1日に倉吉軽便線が開業しました。それが倉吉線のはじまりです。軽便線といっても私鉄ではなく国鉄線です。軌間も1067mmでした。1941年に関金まで延長され、戦後の1958年12月20日に山守まで全通しました。
 熱でボーっとした状態での記憶ですから、正確ではないかもしれませが、山守駅というのは不思議な駅でした。ひとことで言えば、あれっ、ここが終点なの、という感じでしょうか。1本の線路に、片面ホームのみという終着駅はほかにもたくさんありますが、2両編成の列車がはみ出してしまうほど貧弱なホームにはおどろきました。まわりに大きな集落があるわけでもなく、かといって、これ以上進めないというほどの山奥でもない。とりあえずここでおしまい、といった印象でした。改正鉄道敷設法には、中国勝山へつながる予定線として記載されていましたから、開通当初は暫定的な終点という意識だったのかもしれません。

 倉吉市の中心部に最も近かった打吹(うつぶき)駅です。開業時には倉吉駅を名乗り、山陰本線の倉吉駅は倉吉軽便線開業の1ヶ月前に上井(あげい)と改称。その後、1972年に倉吉が打吹に、上井が元の倉吉に名称変更されるという、地元以外の人にはわかりにくい経緯をたどりました。(1974年2月22日撮影。以下のモノクロ写真はすべて同様)

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 利用者が比較的多かった倉吉~打吹(および1つ先の西倉吉)間には区間列車があり、温泉地の関金まで行く列車もありました。当時は、区間列車の多くが蒸気機関車によるもので、停車しているのは打吹発倉吉行の428列車です。ちなみに、終点の山守駅には機回り線がなく、山守まで行く列車はすべてディーゼルカーでした。
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 熱で頭がボーっとした状態の中で撮影した山守駅での1枚です。山守駅着16時35分の449D列車ですが、かなりの利用者がいたことがわかります。
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《余録・境線今昔》
 倉吉線の直前に乗車したのが境線で、これは終点の境港駅で撮影した写真です。境線は現存していますが、その様子はずいぶん変わりました。
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 境港駅のホームからは港に停泊している船舶が見えました。煙突のマークからソ連船であることがわかります。貨物ヤードも広かったのですが、境線の貨物営業は1986年に廃止となり、こうした風景は完全に過去のものになりました。
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 40年近く経ってから再訪した堺線は、「妖怪路線」に変身していました。こんな駅名が車窓にあらわれるとちょっと驚きますね。(2013年9月13日撮影。以下同様)
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 夜が更けてからこのベンチで列車を待つ勇気は、ポン太にはありません。
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 終点の境港駅は、こんなに変わっていました。
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 現在の境港駅舎です。水木ワールドの様々な妖怪が出迎えてくれます。
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