ヤマノマスク

 山火事が多発しています。栃木の山火事はいまだ鎮火のメドが立たない状態ですから、地域住民の不安はいかばかりでしょうか。発端はどうやらハイカーによるタバコのポイ捨てらしいのですが、わが家の目の前の草むらでも、ポイ捨てされた吸い殻を見かけることがあり、ひやりとさせられます。大都市圏では、市区が独自に定める「ポイ捨て禁止条例」や「歩きたばこ禁止条例」などがあり、それなりの規制がなされています。ところが、山火事の危険性が最も高い田舎の方が、野放し状態というのはいかがなものでしょうか。枯れ草だらけの山中や、建築現場でも、平気でタバコを吸っている人がいます。吸い殻をどう処理したかまで見届けるわけにもいかず、ハラハラするばかりです。
 ハラハラするといえば、コロナの感染防止対策として、大半の方がマスクを着用していると思いますが、その性能(効果)には、素材によって大差があると報じられています。飛沫防止効果が最も高いのは不織布製で、布製はそれよりかなり劣り、ウレタン製にいたっては、「吐き出し飛沫量」が不織布の2~3倍に達するというのですから、気休めかアリバイレベルです。それを着用している方が近寄って来て、くしゃみなどされるとハラハラします。
 一時、アベノマスクなるものが話題になりました。サイズが小さい上に布製ですから、感染防止効果に疑問がもたれ、税金の使い途としていかがなものかと、問題視されたのは周知のとおりです。あのマスク、皆さんはどうされたでしょうか。家に届いたころにはマスク不足が解消しており、使い途がないまま、引き出しの奥に眠っているという方も多いのではないでしょうか。ポン太もそうでした。しかし、税金(自分が払ったお金)が投入されているものを、無駄にするのもどうかという思いがあり、気温が氷点下まで下がった日に、山歩きで着用してみました。冷たい空気をいきなり肺に吸い込むのは健康に良くないからです。これが予想以上に快適でした。不織布ですと息苦しくなるのですが、布製で通気性がよいことに加えて、サイズが小さいので空気が適度に漏れ、ふつうに登り続けることができました。買い物等の外出時には使えませんが、山にはむいています。これ以降、わが家では、ヤマノマスクと呼ぶことにしました。
 この話とは無関係ですが、2月とは思えない陽気に誘われて、1年ぶりに上田の太郎山を訪れましたので、写真で現況をお伝えすることにします。

 ヤマノマスクを着用して登頂した平尾山です。この日の気温は氷点下2度でしたが、ヤマノマスクのおかげで肺や喉への影響は少なく、楽に登ることができました。
ヤマノマスクで登頂.JPG
 平尾山から見た太郎山です。北アルプスの唐松岳を背にして凛と立つ姿を見ているうちに、登りたくなりました。
太郎山.JPG
 調べてみると、太郎山は昨年の2月以来1年ぶりでした。今回は、表参道ルートの脇道にあたる「四十八曲がり」コースをとりましたが、こちらにもこの山の特色の1つである「丁石」が設置されています。登山口付近が「3丁」で、山頂に近い太郎山神社手前の鳥居が「23丁」です。
48曲がりコースの丁石.JPG
 表参道コースで「14丁」に位置する鳥居です。数字の上では半分以上登ったことになりますが、実際には、4合目ぐらいでしょうか。
中間の鳥居.JPG
 こういった鳥居や石碑を見ると、つくられた時代が気になります。裏側にまわってみると、紀元2537年と刻まれていました。これっていったい何時代? 皇紀2537年という意味ですから、西暦では1877年(明治10年)となります。それにしても、明治初期に皇紀表記というのは珍しいのではないでしょうか。ちなみに、戦時体制の下、国威高揚のために紀元2600年奉祝行事が執り行われたのは1940年(昭和15年)でした。
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 一方、上田周辺の商人が、丁石を寄進したことを示すこの記念碑には、明治6年とありますから、鳥居より丁石の方が少し古いということになります。丁石の多くが、長い年月の間に、破損したり失われたりしましたが、平成の復元事業により蘇り、現在は、3~23丁のすべての丁石が揃っています。
丁石寄進の碑.JPG
 丁石の数字を確認しながら登るのが、太郎山登山の楽しみでもあります。ここは16丁。半分を少し超えたあたりでしょうか。
16丁.JPG
 20丁までくればあと一息。元気がでます。
20丁.JPG
 この赤い鳥居のあるところが23丁で、丁石があるのはここまで。ここまで到達すればすでに登頂した気分ですが、神社=山頂というわけではなく、本当の山頂はもう少し先です。
太郎山神社の鳥居元日23丁.JPG
 太郎山神社の社務所の縁側でくつろいでいる人が大勢います。ここからの眺めも悪くないので、ここを山頂と勘違いして下山する人も少なくないようです。
社務所.JPG
 神社の奥のもう一山登ったところが山頂です。広々としており、この日は暖かな陽光が降り注ぐ中、草むらで昼寝をしている人が大勢いました。
太郎山山頂.JPG
 気温が上がると景色は霞みます。山頂からの展望はいまひとつでしたが、春の雰囲気を感じました。
山頂より.JPG
 山頂でむかえてくれるこのお地蔵さん。表情が良いので気に入っています。次に来る時は、新しい帽子をプレゼントしたいといつも思うのですが、家にもどるとすっかり忘れてしまい、実現したためしがありません。ゴメンナサイ、お地蔵さん。
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 山頂でいつも襟を正して見入るのが、この反核詩碑です。「人間を取り戻せの叫び声が、地の底から聞こえてはこないか」。庶民には確かに聞こえてきますよ。聞こえない、いや聞く耳をもたないのは、どこやらの政府です。
反核詩碑.JPG
 太郎山には石切場の跡とされるところがあります。青みがかった石は緑色凝灰岩で、上田城にも用いられているそうです。徳川の大軍を二度も撃退し、武勇と知謀を天下に轟かせた真田父子。強さの秘密は太郎山と緑色凝灰岩にありと、タモリ氏なら、そう言うかもしれませんね。
緑色凝灰岩.JPG 

守られた布引電気鉄道の橋台

 久しぶりに小諸市の布引観音まで行ってみました。小諸市の市街地から布引観音へ通じる道路(県道40号線)は、一昨年秋の台風19号により千曲川の護岸が崩れ、不通となりました。昨年5月29日に通行止めは解除されたそうですが、コロナ禍の中、なかなか様子を見に行く気になれませんでした。しかし、このところ、長野県内では新規感染者数がゼロか一桁の下の方というレベルまで好転しており、それが背中を押してくれたのです。
 小諸駅から布引観音を経て島川原駅まで、かつて布引電気鉄道という名の電車が走っていました。のたれ死に同然に営業を休止(事実上の廃止)したのが、1934(昭和9)年ですから、すでに86年余の長い年月が経過しています。若き日のポン太が、営業期間わずか8年というこの薄命の鉄道に興味をもち、調べてみようと思ったきっかけは、旧布引駅周辺に残る同電鉄の遺構群を目にしたことでした。千曲川を跨いでいた橋梁の橋台と橋脚はその代表例といえましょう。残念なことに、一昨年の台風19号により、布引側の橋台の背後(道路に接していた部分)がかなりえぐられてしまいました。道路の復旧工事の際に邪魔者扱いされて取り壊される可能性が大きいのではと危惧しておりましたが、橋台の遺構を残す形で道路は復旧しており、それを見た時には、何というすばらしい配慮なのだろうかと感激してしまいました。
 推測ですが、その背景には、小諸市が制定した「ふるさと遺産」認定制度があるように思います。後世に伝え残していきたいものとして、「旧布引鉄道布引橋脚」も認定されています。橋脚(現存しているのは1本)だけを残せばよいというわけではなく、両端の橋台も同様と解釈するのが自然でしょうから、市のふるさと遺産に認定されているものを、壊してしまうわけにはいかなかったのでしょう。
 布引まで出かけたついでに、近くの日帰り温泉施設「あぐりの湯」に寄ってみました。といっても入浴したわけではありません。高齢者の範疇に入っている身としては、まだそこまでの勇気はなく、併設されている農産物直売所での買い物に留めました。温泉施設の入口には、「緊急事態宣言が発令された地域からお越しの方の入館はご遠慮ください」とあり、入口では検温もおこなわれるなど、感染防止に相当気をつかっていることがわかります。県内で感染が拡大した際に、「首都圏との往来歴あり」「帰省者から家族に感染」といった情報をしばしば耳にしました。緊急事態宣言が解除され、人々が広域に動くようになれば、全国で感染の再拡大を招く恐れは十分にあります。島根県知事が、聖火リレーの中止という形で懸念を表明したのはよくわかりますし、これこそ率直な地方の声です。「コロナに打ち勝った証として五輪開催」などというS総理の言葉の方が、私には空しいものに聞こえます。

 台風19号による被災直後の県道40号線です。橋台遺構の背後が激しくえぐられ、道路の一部が破壊されている様子がわかります。
191103台風19号による被災直後の橋台.JPG
 このようにみごとに復旧していました。橋台の足元もしっかりコンクリートで補強されています。
復旧した道路と橋台.JPG
 橋台の後ろ側はこのようでした。欠けている部分もありますが、ここまで残せればたいしたものです。
橋台の裏側.JPG
 河底がえぐられたことで、だいぶ昔に倒れた橋脚(最も布引寄りの1本)が姿を現していました。
姿を現した4本目の橋脚.JPG
 布引側からみた橋脚の現状です。4本あった橋脚のうち、小諸寄りの1本だけが現存しており、その手前には失われた橋脚の基部だけが残っています。
現存する唯一の橋脚.JPG
 ポン太が、この鉄道に興味を抱いて調べ始めたころには、4本中3本の橋脚が残っていました。(1978年10月24日撮影)
781024布引電気鉄道跡千曲川橋梁.jpg
 小諸駅ホームに停車中の布引電気鉄道の電車です。こんな電車が、千曲川を渡っていた姿を想像するだけで楽しくなります。(1929年ごろの写真です)
781024布引電気鉄道小諸駅(昭和4年) (2).jpg
 布引電気鉄道が記載された鉄道線路図(1938年発行)です。この地図の発行時には、すでに営業を休止していました。
布引電気鉄道入線路図(昭和13年発行).jpg
 浅間山を望む高台にある温泉施設「あぐりの湯」です。コロナ禍になる前は、月に2~3度は、入浴に訪れていたのですが・・・。
あぐりの湯.JPG
 品揃えのよい農産物直売所は、それなりに賑わっていました。
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 温泉施設入口の注意書きです。
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平尾山の「新ルート」

 浅間山麓では、2月とは思えないような穏やかな日々が続いています。寒さが和らいでいるだけでなく、一番の不安材料であったコロナの感染拡大がなんとか収まり、信州全体でも、先週末には、4日連続新規感染者がゼロという状態になりました。浅間山の火山活動も沈静化しており、このまま本格的な春がやって来そうな気配です。といった文章を書いておりましたら、突然、船に乗っているような長い揺れを感じました。東日本大震災の時と同じような揺れ方でしたので、これはどこかで大きな地震が起きたのではないか、もしや首都直下型?と恐怖を覚えました。あわててテレビをつけると、震源は福島沖で津波の心配はないとのこと。土砂崩れや家屋の損傷はあったものの、人命が失われるような事態にならなかったのは幸いでした。
 さて、年初からポン太を悩ませていたのが、腰から足にかけての痛みです。山歩きを躊躇させる要因になっていたのですが、薬が効いたのか、今月に入るころからほとんど痛みを感じることがなくなりました。そうなると、体力の維持には運動が不可欠ですから、「マイ・マウンテン」の平尾山へと自然に足がむくことになります。
 同じ事のくり返しでは飽きてしまうので、従来の登山パターンを少し変えて、距離と高低差を増やしてみることにしました。すなわち、スタート地点を少し下げ、佐久平パーキングエリア近くの「みはらしの湯」駐車場から登り始めることにしたのです。すると、高低差が60mほどプラスされ、登頂に要する時間も10~15分ほど増すことになったのですが、それに比例して、山登りの達成感も増したような気がしました。
 途中のルートも少し変えてみました。暖かくなったとはいえ、登山道の一部には踏み固められた雪が氷盤と化しているところがあります。足を滑らせて転倒したら大変です。安全策としてアイゼンを装着した日もありました。そんな折り、山中で顔見知りになった方から、そのような箇所をパスできる尾根の上を歩いたらどうかとすすめられました。そこは整備された登山道ではなく、けもの道のようなルートですが、凍結箇所は全くなく、その点では安全です。急斜面をよじ登ったり、展望のよいやせ尾根をたどったりと、山歩きの面白さが味わえるようなところもあり、すっかりはまってしまいました。よく知っているつもりの山でも、まだまだ「開拓」の余地はあるものです。

 新たな出発点に選んだ、「みはらしの湯」駐車場から少し歩くと、パラダスキー場南ゲレンデの末端部に出ます。気の毒なぐらいスキー客は少なく、暖かな日が多いせいか、雪もやせ細っていました。
パラダ南ゲレンデ.JPG
 新たなルートの道端に、こんな標識を見つけました。浅間町というのは、佐久市が発足する前の、このエリアの町名です。1961年に、浅間町と東村、野沢町、中込町が合併して佐久市は誕生しました。歴史の痕跡を留めるこうした標識が残っているのを見ると、嬉しくなってしまいます。
浅間町の標識/平尾山公園.JPG
 尾根ルートその1。大きな石がごろごろしている急斜面を登ります。
DSCF7910.JPG
 やせ尾根を通過するところもあり、山歩きらしい気分を味わうことができます。
やせ尾根.JPG
 通常のルートには、このようなアイスバーンと化した箇所があります。見た目よりもずっと滑りやすく危険です。
凍った尾根道をアイゼンで下る.JPG
 アイゼンをつければ安全に通過することはできますが、着脱はいささか面倒です。
アイゼン装着.JPG
 尾根ルートその2への分岐点です。左が通常のルート、右手の山に直登するのが尾根ルートです。
尾根への分岐.JPG
 このような急登です。
急登.JPG
 すべりやすところもありますが、凍結路よりはましです。
尾根へのみち.JPG
 暖かくなったせいか、登山者も増えました。
賑わう頂上.JPG
 遠くの山が少し霞んでみえるのは、春になった証です。
春霞と北アルプス.JPG

渋沢栄一ゆかりの佐久

 間もなく、NHKの大河ドラマ『青天を衝(つ)け』が始まります。その主人公は、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一です。日本史の教科書にも、太字で記載されている人物ですから、その名を知る人は多いと思います。入試対策としては、国立銀行条例の起草に尽力し、近代日本の金融界を指導した人物と覚えておけば十分かもしれませんが、渋沢の業績はそれだけではありません。生涯に、設立に関わった企業は500社を下らず、600余の教育機関、社会公共事業と関わりがあったといわれています。本当のところ、どのような考えの持ち主で、何を成した人物だったのか、知る人は少ないのではないでしょうか。ポン太もその一人ですから、大河ドラマで、この人物がどのように描かれるのか、大変楽しみです。
 渋沢栄一が生まれたのは、現在の埼玉県深谷市です。生家は藍を栽培する農家でしたが、藍の収穫が終わると、養蚕の盛んな信州へ藍玉を売りに出かけたそうです。富岡街道(現在の国道254号)で繋がる佐久地方へは頻繁に訪れていたということですが、藍玉の取引だけでなく、佐久には尊敬する木内芳軒という漢詩人が居り、教えを受けるのを楽しみにしていたようです。
 信州の風光を目にした栄一は、19歳の時に従兄の尾高惇忠(のちの富岡製糸場初代場長)と「巡信紀詩」という漢詩を合作しました。栄一の没後、そこに収められていた栄一の長詩「内山峡」に感激した地元有志により、現地内山峡の岩壁に詩碑が建立されました。漢文なので、すらすら読めるようなものではありませんが、その中に「勢衝青天」(勢いは青天を衝く)という文言があり、大河ドラマのタイトルは、そこからとられたものだそうです。内山峡には天を衝くような奇岩が林立しています。その風景を自身の志と重ね合わせたのかもしれません。
 佐久には渋沢栄一ゆかりの地がほかにもいろいろあるようなので、大河ドラマを楽しみつつ、探ってみようと思います。

 国道254沿いの内山峡の風景です。前方に進み、内山峠を越えれば上州です。
富岡街道と内山峡.JPG
 渋沢栄一の詩碑があるのは、旧内山村肬水という集落です。バス停にもなっているその地名を、「いぼみず」と正確に読める人は少ないでしょうね。
詩碑前の肬水(いぼみず)バス停.JPG
 青年時代の栄一が、その下を何度も行き来したであろうこの岩山の岩壁に、詩碑は設けられています。
渋沢詩碑のある岩山.JPG
 詩碑へ登る階段が狭くて危険なため、迂回路が設けられているのですが、いかにも急ごしらえの、手造り感あふれる標識が立っていました。
手造り感のある矢印.JPG
 これが、岩壁にはめ込まれた渋沢栄一の詩碑です。1940(昭和15)年に地元の有志により建立されました。
渋沢詩碑「内山峡」.JPG
 碑文の一部を拡大したものですが、中央に「勢衝青天」の文字を読み取ることができます。
「勢衝青天」の文字.JPG
 大河ドラマの放映を意識して、急遽設置されたと思われる漢詩の説明板です。
漢詩の説明.JPG
 このあたりには、確かに青天を衝くような岩峰がそびえています。
これぞ青天を衝く岩山.JPG
 詩碑の近くには、こんな可愛いらしい双体道祖神があり、癒されます。
可愛い双体道祖神.JPG

ここから先は、渋沢栄一の故郷、深谷の風景です。数年前に訪れた際に撮影した写真でご紹介します。
 まずは深谷駅前に立つ渋沢栄一の像から。新1万円札の肖像画のような洋装ではなく、着物姿です。
渋沢栄一像.JPG
 深谷駅の建物は、まるで東京駅のミニ版のようです。栄一がふるさとに創立した日本煉瓦製造株式会社で製造された煉瓦が、東京駅丸の内駅舎に用いられたことから、このようなデザインになっているのです。
深谷駅舎①.JPG
 煉瓦工場と深谷駅の間には専用鉄道が設けられましたが、廃線跡に残るこの備前渠鉄橋は、「ホフマン輪窯(わがま)6号窯」、「旧事務所」、「旧変電室」とともに、国の重要文化財に指定されています。
備前渠鉄橋(ポーナル).JPG
 これが、日本煉瓦製造の旧事務所(現在は資料館)です。深谷には渋沢栄一の生家が現存していますし、日本煉瓦関連の遺産にも見るべきものが多く、「青天を衝け」の放映を機に、訪れる人が増えるのではないでしょうか。
日本煉瓦旧事務所.JPG

浅間山はどこの山?

 立春を過ぎ、暦の上では春になりました。首都圏ではすでに「春一番」が吹き、春を実感している人が多いと聞きます。ここ浅間山麓でも、日差しが強まり、日中は一桁の上の方まで気温が上がるようになりました。しかし、夜間は氷点下5~6度といった日が多く、まだまだ「春は名のみの風の寒さや・・」(早春賦)といったところです。
 そんな中、ちょっと嬉しい情報がありました。浅間山の噴火警戒レベルが「2」から「1」に下がったのです。これにより、ごく小規模な噴火が発生した場合にその影響を受ける、火口から500mの範囲を除き、入山が可能となりました。具体的には、第二外輪山の前掛山まで行けることになったわけで、登山者にとっては朗報です。
 テレビのニュース等では、「長野と群馬の県境に位置する浅間山」と表現されることが多いのですが、浅間山のどの部分がどちらの県のどの市町村に属しているか、認識している方は少ないのではないでしょうか。
 浅間山の火口に接しているのは、群馬県嬬恋村、長野県軽井沢町、同御代田町の三町村です。最高地点(標高2568m)は、中央火口丘(釜山)東側の部分にあり、そこは嬬恋村と軽井沢町の境界付近ですが、地形図からは嬬恋村の村域内と判断されます。しかし、最高地点は火口に近すぎて立ち入ることができませんから、登山者が目指すのは、火口から南西に600m余り離れた第二外輪山のピーク、前掛山ということになります。その標高は2524mで、上述の最高地点より44m低いのですが、前掛山に登ることができれば、浅間山に登頂したとみなしても納得できるように思います。ちなみに前掛山は長野県御代田町に属しており、同町の最高地点でもあります。
 警戒レベルが「2」の間は、火口から2km以内には入ることができず、実際に登山可能な最高地点は、第一外輪山のピークである黒斑山(2404m)でした。黒斑山は長野県小諸市と嬬恋村の境界線上に位置しており、小諸市の最高地点となります。小諸市は浅間山の山頂部分とは接していませんが、浅間山への登山道はすべて小諸市から通じており、浅間山とは極めて関わりの深い自治体ということができます。要するに、浅間山は、小諸市を含む長野県の3市町と群馬県嬬恋村のいずれにとっても、かけがえのない地元の山であり、噴火を警戒しつつ、その恵みを分かち合っているといってよいでしょう。
 火山活動が沈静化した状態がこのまま続くようであれば、今夏は、浅間山(前掛山)に登ることができる絶好のチャンスかもしれません。チャレンジしてみてはいかがでしょうか。


浅間山の山頂部はこうなっています。
浅間山中心部のコピーのコピー.jpg
 南麓から見た秋の浅間山です。最高地点のある中央火口丘は、噴煙の右手に僅かに頭を出しているだけですから、おそらく大半の方は、第二外輪山(前掛山)を浅間山の山頂と思って眺めているのではないでしょうか。
里からみた秋浅間のコピー.jpg
 視点が高くなる平尾山の山頂からは、前掛山の右手奥に中央火口丘があることがよくわかります。
平尾山からみた浅間のコピー.jpg
 平尾山の東側にある森泉山から見た浅間山です。眺める場所によって浅間山の山容はずいぶん違って見えます。しかし、どこから見てもその雄大さと美しさに変わりはなく、山麓に住む誰しも浅間山Loveではないでしょうか。
雪がきた浅間.JPG
 西側の黒斑山からは、このような姿に見えます。
DSCF1905のコピー.jpg
 これが前掛山をピークとする第二外輪山です。
第二外輪山の前掛山.JPG
 前掛山山頂には「浅間山」の標識があり、その脇に(前掛山2524m)と記されています。
前掛山山頂.JPG
 前掛山からみた中央火口丘です。奥の一番高いところが、2568mの浅間山最高地点です。
前掛山からみた中央火口丘.JPG 
 中央火口丘へ通じる道は閉鎖されており、立ち入り禁止の掲示があります。
入山禁止看板.JPG
 かつては、軽井沢側の峰の茶屋から中央火口丘へ登るルートがあり、火口の脇を半周して小諸側へ降りること(その逆も)ができました。これは1970年の夏に登った際に撮影した写真です。
700822浅間登山火口を行く.jpg
 前掛山への登山道からみた第一外輪山の黒斑山です。
浅間山登山道からみた黒斑.JPG
 南麓から見上げた雪の黒斑山です。黒斑山も見る場所によって、まったく違った山容になります。
雪の黒斑.JPG

楽しい山座同定(さんざどうてい)ー平尾山ー

 山国の信州では、山の見えない場所はありません。ちょっとした高台に登れば、おびただしい数の山が目に入ってきます。重畳たる山並みの美しさに見とれてしまうことが多いのですが、「あの尖っているところは○○岳」「台形に見えるのは○○山」と、具体的な山の名前がわかると、より一層、山岳展望の楽しみは増すように思います。
展望地点から見える山の名前を、地形図や方位磁針を使って明らかにすることを山座同定といいます。実際に、山頂で広範囲の地図を広げてそれを行うのは難しいのですが、名前のわかる特徴的な山をまず見つけて、その山との位置関係から他の山の名を推定するといったスタイルの山座同定なら、どこでもできますので、ポン太はいつもそのようにして楽しんでいます。家に帰ってから、撮影した写真と地図を照合し、その推定が正しかったかどうかを検証するというのも楽しい作業です。
 ポン太がよく登っている平尾山の山頂からどれだけの山が見えるのか、山座同定をしてみました。その結果、日本百名山だけでも、金峰山、八ヶ岳(赤岳)、蓼科山、霧ヶ峰、美ヶ原山、穂高岳、槍ヶ岳、常念岳、立山、剱岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、白馬岳、浅間山、日光白根山の15座を確認することができました。そのほか、日本二百名山に数えられる山や、地域でよく知られている山など、数多くの山の名前を確認することができましたが、まだまだ山名が不明な山はたくさんあり、山座同定の楽しみはエンドレスといってよいでしょう。
 平尾山山頂から撮影した写真に、確認できた主要な山の名前を記入してみました。平尾山あるいはその周辺から山を眺める際の参考にしていただければ幸いです。なお、誤認している場合があるかもしれませんので、その場合はぜひコメント欄でご指摘ください。

 さて、平尾山の山頂に着いて、まず目に飛び込んでくるのが、この八ヶ岳・蓼科連峰の景観です。方位でいうと、南南西から南西の方角になります。
蓼科八ヶ岳連峰(南南西~南西).jpg
 蓼科より西方、南西の方角には、霧ヶ峰から美ケ原山に連なる山並みが見えます。この山並みを貫いている山岳道路が「ビーナスライン」です。
霧ヶ峰(南西).jpg
 さらに西方に見えるのが美ケ原山です。最高地点の王ヶ頭には、放送用アンテナが林立しています。肉眼ではちょっと厳しいですが、双眼鏡があれば、確認することは可能です。
美ヶ原山(西南西).jpg
 美ヶ原山の右側の肩あたりから、北アルプスが顔を出します。穂高岳や槍ヶ岳といった雄峰を目にすると、一気に気分が高揚します。その方角はほぼ西です。
穂高・槍(西).jpg
 西北西の方角には北アルプスが白い屏風を立てたように連なっています。一番目につきやすいのは双耳峰の鹿島槍ヶ岳です。目を凝らすと、立山や剱岳も確認することができます。
立山・鹿島槍(西北西).jpg
 北西の方角には鹿島槍ヶ岳から白馬岳に連なる、北アルプス北部の山々を見ることができます。
鹿島槍~白馬(北西).jpg
 北北西には、浅間連峰の山々が位置していますが、平尾山の尾根と重なってしまい、この程度しか見えません。
浅間連峰(北北西).jpg
 平尾山の北側にはわれらが浅間山が鎮座しています。黒斑山より西側の浅間連峰の山々は、平尾山の尾根が邪魔して見ることができません。
浅間山(北).jpg
 浅間山の東側、北東の方角には、鼻曲山や浅間隠山など、軽井沢エリアの山々が連なっています。
鼻曲山ほか(東北).jpg
 東北東の方角には、別荘地として開発されている森泉山があり、その後方に見えるのが榛名山です。榛名山の左側に、雪山が見えますが、関東地方の最高峰、日光白根山ではないでしょうか。さらに、うっすらと見えている、※1、※2の山ですが、前者は皇海山、後者は赤城山ではないかと推測しています。もしそうだとすれば、平尾山からから見える日本百名山は17座となります。
白根・榛名(東北東).jpg
 平尾山の東側は尾根が続いているため展望は良くないのですが、尾根の少し南側には、荒船山とその周辺の山が顔を出しています。
荒船山(東南東)のコピー.jpg
 さらに南側、南南東から南の方角には、上信国境から奥秩父方面に至る重畳たる山並みを望むことができます。以前のブログで、瑞籬山を見ることできると記しましたが、それは男山を誤認したものでしたので、訂正いたします。
金峰山(南南東~南).jpg
 平尾山からの山岳展望を時計回りにご紹介してきました。その最後がこの景観です。右側から裾野をひいているのは八ヶ岳ですから、この右手に続くのが、最初にご紹介した八ヶ岳・蓼科連峰の景観ということになります。
飯盛山(南南西).jpg
 ポン太の山座同定、いかがでしたか。平尾山は、標高わずか1155mの里山ですが、これだけの山々を望むことができるのです。