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浅間山麓のブラタヌキ
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浅間山麓に移り住んだタヌキのポン太のブログです。どんなタヌキかって?それはプロフィールをご覧下さい。
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黒斑山への招待

2018/06/21 11:00
 黒斑山(くろふやま)は浅間山第一外輪山中の最高峰です。標高は2404m。浅間山本体を除く浅間連峰全体の最高峰でもあります。浅間山の噴火警戒レベルは、現在、火口から2キロ以内入山禁止の「2」となっているため、浅間山そのものに登ることはできません。そのため、浅間山の代替として黒斑山に登る人も多いのですが、代わりに仕方なく登るというような山ではなく、黒斑山自体が、山歩きの楽しみを凝縮したような、素晴らしい山だとポン太は思っています。以前とりあげた、烏帽子岳とともに、浅間連峰の至宝ともいえる山なので、今回のブログはちょっと趣向をかえて、ガイド風に綴ってみることにします。

 ここが登山口の車坂峠です。JRバスの停留所「高峰高原ホテル」のすぐ目の前ですから、アクセスは容易です。すでに標高が1973mもあるため、黒斑山との標高差は431m。ゆっくり登っても2時間半程度で山頂に立つことができます。バスは一日たった2往復しかありませんが、新幹線の佐久平駅発8時35分のバスを利用し、帰りは16時19分発(なんとバスタ新宿直通、20時17分着)に乗れば、東京からでも日帰り登山が可能です。高峰温泉または高峰高原ホテルで入浴(どちらも日帰り入浴可)してから帰路につくこともできます。
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 登山開始の前に登山届を提出します。長野県の主要山岳は届け出が義務化されています。
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 登山コースには「表コース」と「中コース」がありますが、往路は断然「表コース」がおすすめです。中コースはほとんど展望がありません。ただし、距離が短いので、下りにはおすすめです。
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しばらくは森の中の道を進みます。早速高山植物のお出むかえです。これはゴゼンタチバナで、黒斑山ではよく見かけます。
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 下界ではとっくに散ってしまったシャクナゲもようやくつぼみが開き始めたところです。登山道脇の植物を見ているだけで気分が高揚します。 
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こちらは可愛らしいツマトリソウです。
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 30分弱登ると今度は一旦下るところがあります。ちょっと損したような気分になりますが、がまんして登り返えすと、展望が開けてきます。
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 振り返ると高峰山と三方ヶ峰(右)がよく見えます。良い眺めです。
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 登山口から40分ほどで、大きなガレ場にさしかかります。このガレ場は高山植物の女王コマクサの花園です。
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 よくこんなところにと思えるような過酷な環境の下で、可憐な花を咲かせてくれるのが コマクサの魅力です。
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 再び樹林帯の中へと入って行きますが、道標がしっかり設置されているので安心です。
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これも高山植物のミツバオウレンです。見過ごしてしまいそうな小さな花ですが、登山道脇にたくさん咲いています。
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 尾根道を進むと、前方に黒斑山が姿を現しました。このあたりが黒斑山までの中間点といったところです。
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 道端でイワカガミとミツバオウレンがコラボしています。本当に高山植物の豊富な山です。
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 登山開始から1時間半ほどで、木製の階段が連続する箇所へ到達します。下の土が流れてしまっているので、階段と言うよりハードルを越えて行くといった感じで、表コースでもっとも難儀をするところです。
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 木製階段を登り切ると前方に浅間山が姿を現しました。この景色をみれば、疲れが吹き飛びます。
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 鉄製のかまぼこ形をしたシェルターが現れました。万一の際に噴石を避けるためのものですが、ここまで来ればもう一息で最初のピーク、槍ケ鞘(やりがさや)です。
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 ここが槍ヶ鞘です。前方に浅間山、左手に「トーミの頭(かしら)」が見えます。すばらしい展望ですから、もうここで満足してしまう人もいるのではないでしょうか。トーミの頭への道はガレていて、怖そうにみえますが、見た目ほどの急登ではありません。
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 外輪山の切れ目の谷は、まるで仙人でもいそうな世界ですが、この谷に実際に棲んでいるのはカモシカです。時々登山道にも姿を現します。
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 このように目の前をカモシカが横切って行くこともあります。
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 トーミの頭へむかう鞍部に、中コースの入口があります。帰りはここから左手に下ります。
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 前方がトーミの頭です。道はこのような感じで、それほど危険なところではありません。
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 登山道の傍らでは、高山植物のハクサンイチゲが満開です。
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 トーミの頭から振り返ってみた槍ヶ鞘です。確かに槍の鞘の頭の部分のような形をしています。後方には佐久平が広がります。
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 トーミの頭からみた浅間山です。ここまで来ると迫力が違います。
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 トーミの頭からみた第一外輪山です。左端がこれから登る黒斑山です。
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 横からみたトーミの頭です。この上に登って恐くはないのかと思われるでしょうが、真下を見ない限り大丈夫です。
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 黒斑山を目指して外輪山の尾根を進みます。
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 足元にも楽しみがあります。この岩の下を覗いてみるとヒカリゴケが見えます。
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暗闇の中で緑色に怪しく光っているのがヒカリゴケです。
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 黒斑山の山頂付近には、火山活動を監視する機器が設置されています。
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 ここが標高2404mの黒斑山山頂です。トーミの頭から20分ほどで到達します。浅間山はこんな感じに見えますが、広い展望が得られる場所ではないので、ランチはもう少し尾根を先に進んだあたりがおすすめです。
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 ポン太が「天空のランチテラス」と勝手に呼んでいる場所です。浅間山本体はもちろんですが、外輪山から火口原まで浅間山の全てを見渡せる絶景ポイントです。
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 蛇骨岳から仙人岳へと連なる外輪山のこの迫力。
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南側(佐久平側)も絶景です。ちょっとガスがかかっていますが八ヶ岳も見えます。
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眼下に広がる火口原の湯の平は、まるでおとぎ話の森のようです。動物たちの楽園かもしれません。
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 浅間山の火口付近もよく見えます。登山道が筋のように見えていますが、現在は登山禁止ですから人影はありません。
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たっぷり眺めを楽しんだら下山です。中コースはこんな感じでほぼ展望はありません。
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高山植物のコバイケイソウです。葉がオオバギボウシ(ウルイ)に似ているので、間違えて食べてしまう人がいますが、こちらは毒草ですから、命取りになる場合もあります。
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 中コースで唯一展望が得られる開けた場所です。高峰スキー場(あさま2000)や水ノ塔山、籠ノ登山が望まれます。ここまで降りてくれば、あと30分ほどで車坂峠です。
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 左側がすこしガレた場所を通過します。車坂峠まであと一息です。少し前まで、このあたりにはタカネマツムシソウが群落をつくっていたのですが、なぜか絶えてしまいました。
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 黒斑山山頂から1時間半弱で車坂峠に戻ってきました。このあたりは天然カラマツの保護林になっていて、林相もきれいです。
 
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 以上で黒斑山のガイドを終わります。黒斑山のすばらしさをお伝えすることができたでしょうか。まだ登ったことがないという方、ぜひお出かけください。ポン太も太鼓判、いや太鼓腹を叩いておすすめです。



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南相木村は驚きの連続

2018/06/18 12:12
 梅雨の季節は、高原のツツジが美しい季節でもあります。たまたまテレビで目にしたのが、南相木村にある立原(たてはら)高原のツツジ。白樺林とツツジのコントラストがすばらしく、これは見に行く価値がありそうだと、先週末に出かけてみました。
 南相木村(みなみあいきむら)というのは、南佐久郡に4つある村の1つで、人口約1000人の小さな自治体です。しかし、何もない山奥の村というわけではなく、子育て支援も老人福祉も充実しているようですし、図書館(1人あたりの蔵書数は県内トップレベルとか)やイベントホール、後述する温泉施設もあります。ただし、中学校は設置しておらず、生徒は近隣3町村で運営する組合立小海中学へ通学しているそうです。これは財政規模を考えての知恵なのでしょう。
 さて、お目当ての立原高原のツツジですが、現地に着いて眺めてみると、見頃をとっくに過ぎており、花は僅かに残るのみ。完全な空振りでした。それでも少しは歩かねばと損と、白樺の森の中をトレッキングしていると、足元になんとワラビが頭をもたげているではありませんか。ツツジからワラビへ、直ちに目的を変更したことはいうまでもありません。
 立原高原を徘徊した後、村の奥へ奥へと車を走らせました。行き着いたのが南相木ダムです。なんとそこは、日本一のダムでした。何が日本一かというとその標高です。同ダムは海抜1532mに位置しており、あの黒部ダム(海抜1470m)より60m以上高いところにあるのです。しかも、堰堤の高さ136mは全国でも19位に入るという堂々たるもの。さらに、特徴としてあげられるのが、ロックフィルダム(岩石を積み上げて建設したダム)であり、その石がすべて地元産の石灰岩だということです。南相木村はかつて大理石の産地でもあったということで、大理石づくりの蝶型モニュメントが置かれていました。このダムは、揚水式発電用につくられていて、群馬県側にある上野ダム(神流川発電所)の上部調整池という役割を担っています。スケールもさることながら、造形的にも美しい見応えのあるダムでした。
 ダムの次に訪れたのが滝です。大小たくさんの滝がある中で、「おみかの滝」と「犬ころの滝」を見てきました。後者に隣接しているのが町営の温泉施設「滝見の湯」です。リニューアルしたばかりということで、とてもきれいな、しかもお洒落な建物でした。その名のとおり、湯舟から滝を眺めることもでき、満足度の高い温泉施設といえましょう。
 地元の方に「犬ころの滝」の名の由来を尋ねたところ、愛犬家が卒倒してしまいそうな、意外な答えが返ってきました。滝のある場所の地名(字)が「犬殺し場」であったからだというのです。「犬殺し」→「犬ころ」とは。もっともその犬というのは、可愛いペットの犬を意味するわけではなく、狼や野犬のことですから、村人に害をなす恐ろし獣を追い詰めた場所だったと考えれば納得します。
 予想以上に見どころの多い南相木村でしたが、村はずれにもう1つ、驚かされたものがありました。それは、出征する夫を見送る妻と子の像です。戦争の時代、こんな小さな村からも喚呼の声に送られて多くの若者たちが出征し、故郷に戻ることはありませんでした。残された家族の戦後の苦難の歴史を思い、このような悲劇を繰り返してはならないと、平和への悲願をこめてこの像を建立した、という主旨の説明板が設置されていました。「日本唯一 不戦の像 南相木村」と大書した表示も出ていました。小さな村の大きな志。自治体をその大きさで評価してはならないと、つくづく思い知らされたポン太でした。

 立原高原の白樺の森です。気持ちのよい場所ですが、ツツジの花はもうほとんど残っていませんでした。
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 おお!ワラビだ。目が慣れてくると、その存在に気づきます。
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 思わぬ収穫ににんまり。
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 ここが南相木村最奥の南相木ダム(奥三川湖)です。
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 足がすくむような高度感のある堰堤は、石灰岩を積み上げたもの。その白さに、これがダムの堰堤であることを忘れてしまいそうになります。堰堤の高さは136mあり、これは全国のダムの19位(ロックフィルダムにかぎれば8位)ということです。
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 堰堤の高欄も石灰石ですから、古墳のエントランスのようにも見えます。
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 これが大理石のモニュメント「ちょうちょやま」です。
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 南相木渓谷にはいくつもの滝がありますが、これは「おみかの滝」へ行くために設けられた隧道の入口です。中が屈曲しているため、出口が見通せず、一人で入るのはちょっと恐いかもしれません。出口に熊でもいたらと不安になり、大声を出しながら通過しました。
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 隧道の途中の穴からみた「おみかの滝」。そこが一番の絶景でした。
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 こちらが「犬ころの滝」です。ここに追い詰めれば、狼や野犬も逃げ場がなかったでしょうね。
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 「犬ころの滝」を見下ろすことができる村営の日帰り温泉施設「滝見の湯」です。とても雰囲気が良く、近ければたぶん常連客になるのでは・・・。
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 村はずれの「別れの松」の前に設置されていた「不戦の像」です。説明板に「見送る母親の顔は諦観の相。母親の手にすがる男の子は<お父さん早く帰って>と必死で叫んでいます。そして母親の背で無心に眠る幼子。なんという非情な世界でありましょう」と書かれていましたが、そのような情景を実によく表現した像です。作者名は書かれていませんが、実力のある方の作品ではないでしょうか。
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 南相木村の観光スポットの1つ、立岩湖です。幽玄な雰囲気が漂い、湖畔でしばらくのんびりしていたくなります。
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Natural & Beautiful

2018/06/14 11:49
 梅雨の晴れ間に外ですること。するというより必ずやらねばならぬのが草むしりです。この時期は雑草の成長がはやいので、ほっておくととんでもないことになってしまいます。次は家庭菜園の手入れ、その次はガーデニングといったところでしょうか。外仕事はやりはじめるときりがないので、あっという間に一日が終わってしまいます。家庭菜園については以前触れましたので、今回はガーデニングをとりあげることにします。
 田舎暮らしでは、家庭菜園とともにガーデニングも楽しみのひとつです。ただし、ポン太は、自然な状態で咲いている野の花、山の花の方が好きなので、いかにも人工的なコテコテ感のある庭は好みません。めざすは、周囲の森とも調和する、ナチュラル&ビューティフルな庭づくりです。そうはいっても、花壇は僅か1坪足らずなので、やれることは限られます。第一に心がけているのは、真冬以外は常に季節の花が咲いている、そんな状態を保つことです。いろいろ試しているうちに、不動のラインナップとなったのは、次のようなものです。
 <春>ビオラ、チューリップ、オダマキ <初夏>バラ、ミヤコワスレ、ペンステモン <夏>ナデシコ、ユリ、山百合、オオバギボウシ、ラベンダー <盛夏〜秋>百日草、マリーゴールド、リンドウ
 この中で、ポン太が特に気に入っているのがビオラと百日草です。前者は寒さにめっぽう強いのが特長で、秋に植えつけると初冬まで花を咲かせてくれます。厳冬期は雪の下で耐え、春が来ればポン太の花壇で最初に花をつけ、6月下旬まで咲いていますから、これほど花期の長い花はありません。後者の百日草も花期が長く、夏から秋まで三ヶ月も咲き続けてくれます。その花が終われば紅葉の季節をむかえるというわけで、みごとに季節のバトンタッチ役を果たしてくれるのです。そんなありふれた花で喜んでいるなんてと思われるかもしれませんが、ここは寒冷地。タネを蒔いても思うように育たないものが意外に多いのです。

 現在の庭の様子です。ビオラはまだ咲いており、バラは満開。浅間の焼け石を囲むように植えてあるのはオオバギボウシですが、花はまだこれからで花芽もでていません。左側の空いているところに、百日草のタネを蒔きました。
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 まわりを圧倒しないように小さなバラを植えましたが、花束のようできれいです。
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 これはちょっと珍しいのではないかと思いますが、北米原産のペンステモンという花です。寒さに強く、むしむしした暑さに弱いということで、ポン太の花壇とは相性がよく、しっかり根付いています。秋の紅葉もきれいです。
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 一輪だけ咲いたナデシコ。後ろにつぼみがたくさんありますから、これからが楽しみです。
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 今まで楽しませてくれたミヤコワスレです。数日前に散ってしまいました。
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 植えていないのに、参入してくるものもあります。これはツユクサです。梅雨のこの時期にふさわしい花なので、抜かずに鑑賞しています。
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 まだ咲いていませんが、咲けばこんなに美しい山百合です。香りもよく、家中がその香りに満たされます。
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 ガーデニングにはそれなりに手をかけているつもりですが、それに勝るのが、誰も世話をしていないのに、道端できれいに咲いている花たち。これはちょっと野生化したようなマーガレットです。マーガレットは、ポン太の庭にも植えたこともありますが、なぜかうまく育たず全滅しました。
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 こちらは水辺のアヤメ。自然の中にあるほうがやはり花はきれいに見えます。
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見えない檻

2018/06/11 10:03
 現代俳句の巨人、金子兜太氏が鬼籍に入られたのは4ヶ月前のことです。海軍経理学校の同期生であった亡父が、しばしばその名を口にしていたので、ポン太は子供のころから同氏が俳人であることは認識していました。しかし、俳句には興味がなく、どんな人物か知りたいとも思いませんでした。同氏に関心を寄せるようになったのは、だいぶ年を重ねて、「朝日俳壇」に目を通すようになってからです。「金子兜太選」の句には、胸を突き刺さすような鋭さとパワーを感じました。花鳥風月だの風流だのとは全く異なる視点をもつ、こんな俳句もあるのだと、門外漢ながら目を開かれた思いがしたのです。
 兜太氏は、自身の戦争体験から、二度と戦争の惨禍を招かないためには、「表現の自由」が何より大切だと考えていたようです。かつて治安維持法により、大勢の俳人が弾圧されたことを忘れてはならないと、「俳句弾圧不忘の碑」の建立を呼びかけ、自ら揮毫しました。碑は上田市西郊の塩田平に建てられ、兜太氏が亡くなった5日後に除幕式が行われました。碑の隣には「檻の俳句館」(館主はフランス出身の俳人、青眼マブソン氏)という施設が設けられたということを新聞で知り、これは一度は見ておく必要があるのではと、出かけてみました。その場所は、戦没画学生の作品を収集展示していることで有名な「無言館」のすぐ近くです。「無言館」は以前見学したことがありますが、その時には存在しなかった第二展示館「傷ついた画布のドーム」が設けられていましたので、そちらも巡ってきました。
 「檻の俳句館」には、弾圧された俳人の作品17句が展示されています。その全てが檻の中という特異な展示方法がとられており、句の内容もさることながら、視覚的にも大きなインパクトを与えられます。「大戦起こるこの日のために獄をたまわる」(橋本夢道)という句のなんというリアルさ。思わず身震いしてしまいました。
 館の入口に、「もしかすると、かつて弾圧された若き俳人たちは、私達よりも心が自由だったかもしれません。現代の私達こそ檻の中で生きているのではありませんか」というマブソン館主の言葉が掲げられていました。S市公民館報の俳句掲載拒否事件をはじめ、あちらこちらで起きている権力を慮っての自主規制。個人のレベルでも同様なことが起きてはいないかと、考えさせられたポン太でした。
 帰路、一句浮かびました。「忖度の行き着く先は戒厳令」(ポン太)

 木立に囲まれた「俳句弾圧不忘の碑」です。
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 その隣に設けられた「檻の俳句館」。入館は無料(火曜休館)で、「平和の俳句」投句箱が置かれています。
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 檻の中に掲示された青木村(長野県)出身の栗林一石路の句。「戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台だ」
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 他の作品も全て檻の中に掲示されています。手前は中村三山の句、「千人針を前にゆゑ知らぬいきどほり」です。
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 こちらは、「無言館」の第二展示館「傷ついた画布のドーム」です。中に入るとその名のとおり天井がドーム状になっていて、そこには戦没画学生が美術学校在学中に描いた習作が無数に貼られていました。彼等の無念さが、完成された作品以上に伝わってきました。
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 画布にみたてたコンクリートには、このような文字が刻まれていました。
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 こちらは戦没画学生慰霊美術館「無言館」の本館です。展示されている作品の中には、もし、戦争で命を落とすことがなければ、画家として大成したのではないかと思わせるものが少なくありません。東京美術学校(現在の東京芸大)首席卒業といった証書なども掲示されており、いかに多くの有望な人材が失われたか、よくわかります。
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 「傷ついた画布のドーム」から「無言館」(本館)へむかう坂道には「自問坂」と刻まれた石が置かれていました。この坂は体力だけでは登れませんね。
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 全部見終わって、少々重苦しい気分にはなりましたが、「無言館」の前に広がる山里の風景のなんと美しいこと。もし、戦没画学生が生き返って、自分の作品が展示されているこの地を訪れたなら、きっと絵筆を握りたくなるのではないでしょうか。
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『信濃の国』は面白い

2018/06/08 11:36
 長野県民なら誰でも歌える県歌『信濃の国』。ポン太は県民になってまだ3年ですが、もちろん歌えます。移住後に覚えたというわけではありません。ポン太の亡父は信州の出身で、いつもこの歌を口ずさんでいましたから、それを聞かされて育ったポン太は、自然に覚えてしまったというのが真相です。
 県歌に制定されて今年で50年ということで、様々な企画やイベントが催されています。しかし、この歌は、県歌に制定されるずっと以前から県民に親しまれていたのであり、県歌になったのはその結果にすぎません。長野師範学校の教師であった浅井洌が作詞し、同僚の音楽教師が曲をつけ、明治33(1900)年に同校の運動会で披露したのがその始まり。師範学校卒業生である教員たちが「宣教師」の役割を果たし、全県に広まったというわけです。
 一言でいえば、お国自慢ソングですが、信州の風土が巧みに織り込まれていて、県内どの地域の人でも、納得できる内容になっているのがミソです。かつて、県庁所在地をめぐる対立から、県を二つに分けてしまえという分県運動が盛り上がったことがありました。県議会の議論が白熱したその時、傍聴席から『信濃の国』の大合唱がわき起こり、分県熱が沈静化したという「伝説」も残っています。信州人というアイデンティティーを醸成した、とんでもなく重要な歌なのです。
 信州といえばなんといっても山自慢。1番の歌詞に「聳びゆる山のいや高く」とあり、2番で「御嶽、乗鞍、駒ヶ岳、浅間は殊(こと)に活火山」と有名な山が列記されています。浅間山麓に住むポン太は、浅間山が別格扱いされているようで嬉しくなりますし、木曽の住民なら御嶽山が冒頭にきていることを誇らしく思うでしょう。この歌が生まれたころ、登山はまだ一般的ではなく、ウェストンが日本アルプスのすばらしさを著書で紹介(イギリスで出版)したのは、『信濃の国』発表の僅か4年前です。今なら当然とりあげられるであろう穂高、槍、八ヶ岳といった山が出てこないのはやむを得ません。
 名所としてとりあげられているところも、今とはずいぶん異なっており、軽井沢や志賀高原、上高地といった地名は出てきません。しかし、「旅のやどりの寝覚めの床」や「月の名に立つ姨捨山」といったくだりは、情感が漂っていて好ましく、「尋ねまほしき園原や」とか「心してゆけ久米路橋」といった歌詞を読むと、どんなところか行ってみたくなります。歌えば歌うほど、知れば知るほど味わい深く興味のわく『信濃の国』です。
 

 1番の歌詞に、「4つの平は肥沃の地」とあります。平とは盆地のことですが、その1つに数えられているのが佐久(平)です。田植えが終わったばかりの佐久平は瑞々しく、たしかに「肥沃の地」であることを実感します。
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 2番の歌詞に、「浅間は殊に活火山」とあります。大噴火は困りますが、浅間山はこのように少し噴煙が上がっている方が、シンボリックで見栄えがします。
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 2番の歌詞には、山の名前だけでなく、代表的な河川の名が4つ(犀川、千曲川、木曽川、天竜川)でてきます。県民の大半がそのどれかの流域に住んでいるわけですから、この歌に親しみを感じるのは当然でしょう。浅間山麓で川といえばもちろん千曲川です。
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 3番の歌詞には「木曽の谷には真木(まき)茂り、諏訪の湖(うみ)には魚多し」とあります。木曽は周知のとおり林業のメッカ。赤沢自然休養林に行けば、保存されている森林鉄道に乗って、美林を鑑賞することもできます。
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 海のない信州にとって、諏訪湖は貴重な存在。「魚多し」からワカサギを連想してしまいます。
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 4番では曲調が変わり、名所旧跡が紹介されます。月の名所として知られる姨捨の棚田は、古くから文人墨客の憧れの地でした。今もその景観は保たれており、姨捨駅には、JRの豪華列車「四季島」も立ち寄ります。
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 5番の歌詞は人物自慢です。木曽義仲から佐久間象山まで、四人の偉人名が列記されています。ところで、幕末の先覚者、佐久間象山の呼び方ですが、信州では「しょうざん」ではなく「ぞうざん」が一般的。『信濃の国』でもそう歌います。「象山」の号は、故郷松代の生家の裏山(象山=ぞうざん)にちなんだものですから、そう読むのが当然だと地元では思っているわけです。町を挟んで反対側(東側)にある尼巌山(あまかざりやま)から、その象山を眺めてみましたら、尾根の形が象の頭と鼻のように見えました。
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 最後の6番の歌詞でポン太が大好きなのが、「穿つ隧道(トンネル)26、夢にもこゆる汽車の道」という部分です。碓氷峠にアプト式鉄道が開通したのは1893(明治26)年。1963年までアプト式で運行されており、子供のころのポン太は、本当に26ものトンネルがあるのだろうかと、列車で通る度に数えた思い出があります。横川駅から旧熊ノ平駅までの間は「アプトの道」として遊歩道化されており、アプト式時代のトンネルや橋梁をたどることができますから、ぜひ出かけてみて欲しいと思います。
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タダなのにぜいたく

2018/06/04 09:45
 ポン太は基本的に麺類を好みません。ラーメンやパスタといった類を積極的に食べに行くことはありませんが、蕎麦だけは例外。外食の選択肢の上位に位置しているといってよいでしょう。もちろん手打ちが前提で、食べるのは真冬でも冷たい蕎麦です。食感がよく、店(職人)によって風味が異なり、何度食べても飽きない、といったところが蕎麦の魅力です。
 蕎麦に合う料理といえば何といっても天麩羅。市販の蕎麦(乾麺または生麺)を買ってきて家で食べる場合でも、天麩羅が加わると一気にぜいたくな食事に変身します。現時点で購入可能な蕎麦の一押しは、「信州安曇野道祖神そば」です。コシがあり、無添加で、そば湯も飲める本格派ですから、これに、季節感が味わえる野草の天麩羅を添えると、蕎麦店とさほど変わらない満足感を得ることができます。
 今回、天麩羅の材料に選んだのは、葉っぱを中心に6種類。いずれもポン太の森に生えているものばかりなので、原価はゼロです。しかし、それで最高にぜいたくな食事をしたような気分になれるのですから、これほど有り難いものはありません。その昔、米を得ることが難しかった山里の人々にとって、蕎麦と山菜の天麩羅は、極上のご馳走であったに違いないとポン太は思います。

 準備した材料はこれら6種類です。上段左からオオバギボウシ(ウルイ)、天然ミツバ、ギョウジャニンニク、下段左からヨモギ、ニセアカシアの花、クワです。
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 市販の蕎麦では一押しの「信州安曇野道祖神そば」。3食分パッケージにはつゆも付いています。
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 出来上がった野草の天麩羅。元の材料がわかるように平らに並べてみましたが、盛り付けを工夫すればもっと美味しく見えると思います。
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 さらに、アスパラと椎茸の天麩羅、酢の物を追加したら、蕎麦店に負けない特上天蕎麦になりました。
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 野草の天麩羅には、実はモデルがあります。それは、景信山(高尾山の裏側にある山です)の頂上小屋。多摩地域に住んでいたころは、高尾山から縦走するのにちょうど良い山なので頻繁に出かけていました。おにぎりだけ持参し、名物の野草の天麩羅とナメコ汁を注文。この組み合わせは、ポン太にとって、極上の山上ランチでした。
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 なつかしい景信山の山頂です。高尾山周辺では一押しの山。またいつか登ってみたいですね。
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ライムグリーンの初夏

2018/06/02 07:06
 ポン太の森全体に漂う甘い香り。見上げると、アカシア(正確にはニセアカシア、和名は針槐)の白い花が無数に咲いていました。この香りによって、浅間山麓が初夏になったことを実感するといっても過言ではないでしょう。
 浅間山麓といえば避暑地のイメージが強いのですが、散歩していて本当に気持ちがよいのは盛夏ではなく、梅雨入り直前のこの季節です。滴るような緑、潤いのある空気、花や木々が発する芳香、頭上から聞こえてくるカッコーの声、どれをとっても心地よい材料ばかりです。
 いつもの散歩だけではちょっと物足りなくなり、軽井沢方面へ足をのばしてみました。半年間の改修工事が終わって先頃オープンした雲場池の様子はどうか、しばらく足が遠のいていた碓氷峠の遊歩道に何か変化はあったか、そんな興味もありました。新しい案内板が設置されたぐらいで、どちらもそう大きな変化はありませんでしたが、ライムグリーンとでもいうのでしょうか、少し深めの黄緑色の森は、まさに癒やしの世界。なんとも心地よい時間を過ごすことができました。
 ところで、この季節の楽しみは散歩だけではありません。家庭菜園では、結球レタスやルバーブ、そして何より楽しみなイチゴが収穫期をむかえました。完全無農薬栽培ですから、色づいたらすぐに収穫しないと、美味しいところを全部虫に食べられてしまいます。そのタイミングが難しく、このところ、朝起きると真っ先に、イチゴの様子を見に行くポン太です。


 甘い香りをふりまいているニセアカシアの花です
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 雲場池の入口に建てられた新しい案内板です。外国人観光客(特に近隣諸国から)が増えている状況を考えると、ハングルと中国語を併記するぐらいの配慮があってしかるべきだと思うのですが・・・。
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 雲場池は、紅葉だけではなく、緑も美しいですね。
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 池の畔のレストランもライムグリーンに包まれていました。
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 まわりの別荘地に人の気配はなく、静かな散歩が楽しめます。
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 オンシーズンをむかえ、旧軽井沢銀座はそれなりの賑わいをみせていました。
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 軽井沢が避暑地として優れていることを世に広めたのは、カナダ人宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショー。この教会とショー・ハウスは、軽井沢の原点のようなところですが、ここまで足をのばす観光客は少ないようです。
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 ショー・ハウスの少し先に碓氷峠遊歩道の入口があります。熊の看板に恐れをなして戻ってしまう人もいるようですが、ポン太は一度も遭遇したことはありません。ただし、油断は禁物。ポン子は小熊を見たことがあり、この先、熊よけの鈴は必携です。
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 遊歩道唯一の吊り橋も緑に埋まっていました。
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 この道を歩いて気分が良くないはずはありません。
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 遊歩道沿いにたくさん咲いていた花です。初めて見る花で、調べてみたのですが、名前がわかりません。誰かご存知でしたら教えてください。
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 碓氷峠見晴台からの眺めです。緑の波のかなたに妙義山系の山々が霞んでいました。
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 ポン太の菜園のレタスがしっかり結球し、食べ頃になりました。プロ並みとはいいませんが、上出来です。
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 ルバーブの茎もだいぶ太くなり、そろそろジャムづくりの準備です。
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 一番楽しみなイチゴです。無化学肥料、無農薬でここまで育つとは、エライとしか言いようがありません。
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足尾には学びがいっぱい

2018/05/30 00:22
 先週末の3日間、研究団体の見学会に参加し、栃木県の旧足尾町(現在は日光市足尾町)をめぐってきました。足尾には、かつて日本一、東洋一と呼ばれた銅山が存在しました。銅山の発見は1550年と古いのですが、飛躍的に発展したのは、1877(明治10)年に古河市兵衛が銅山を買収し経営に関わってからです。鉱山町として発展した足尾町の最盛期の人口は3万8428人(1916年)で、これはなんと県都宇都宮に次ぐものでした。1973年の閉山後、減り続けた人口は、現在2000人を割り込んでおり、その落差に驚かされます。過疎の町になってしまったとはいえ、町中のいたるところに、かつての繁栄を物語る産業遺産が残っており、これほど興味深い町はありません。
 近代的大鉱山へと発展していく過程では、様々な先端技術が取り入れられ、先進的な設備も多数設けられました。それらの遺産は近代鉱山業の歴史を物語る貴重な存在ということができます。産銅量が急速に増加した一方で、深刻化した鉱害問題も、足尾を語る際に忘れてはならないものです。製錬過程で排出された亜硫酸ガスにより、周辺の山々ははげ山と化し、渡良瀬川に流出した鉱毒により、下流域の田畑が壊滅的打撃を受けたこと(足尾鉱毒事件)は、良く知られているとおりです。
 足尾銅山は1973(昭和48)年に閉山し、買鉱により継続された製錬も1988年に終止符を打ちました。しかし、負の遺産というべきはげ山は、今も残っており、多数のボランティアも参加して緑化への取り組みが続けられています。近代日本を支え「栄華」を極めた鉱山業の光と影、その両方を実感できるのが足尾の特長で、これほど学ぶべきものの多い場所はないように思います。地元では世界遺産登録を目指す運動が展開されていますが、ぜひ実現して欲しいものです。内外の大勢の人々がここを訪れ、「光と影」を実感し、未来への指針を得ることができれば、それこそ人類への大なる貢献ではないかと思ったポン太でした。

 足尾へ通じるわたらせ渓谷鐵道は、1911(明治44)年に下新田〜大間々間を開業し、1914年に桐生〜足尾本山間を全通させた足尾鉄道がそのルーツです。駅や橋梁、隧道など鉄道施設の多くが開通時のままの姿を保っており、なんと38の施設が登録有形文化財になっています。下の写真は足尾駅に停車中の下り列車ですが、この下り線プラットホームも建設当時の姿を留めており、登録有形文化財になっています。
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 通洞に残る選鉱所の遺構です。足尾銅山の主要な坑口は、本山、通洞、小滝の3つで、当初はそれぞれに選鉱所が設けられたそうですが、1921年までに通洞に集約されて、最新鋭の設備が整えられました。金属鉱山の選鉱所のモデルとして高く評価されたということです。山の上に見える塔は、索道(ロープウェイ)の支柱です。索道は、物資や廃石、廃泥の主要な輸送手段として利用されたそうです。
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 選鉱所の内部です。閉山から45年が経過していますが、これだけのものが残っており、貴重な産業遺産ということができるでしょう。
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 鉱毒が大問題となり、1897(明治30)年、政府からの命令で、坑内廃水をすべて中和、沈殿させてから放水することが義務づけられました。これは通洞坑の廃水を処理するために設けられた中才浄水場です。今も浄水処理が行われており現役です。
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 中才の鉱山住宅です。風呂やトイレは外ですが、家賃は無料、電気代も自前の発電所があるため無料だったということです。そのため、冬場は電気ストーブで暖をとっていたという話を聞きました。
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 今は無人となった小滝地区に残る風呂場の遺構です。大勢の鉱夫たちが、ここで身体の汚れを落とし、ほっと一息ついたことでしょう。
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 足尾の方々の言葉を聞いていると、いわゆる栃木弁ではないことに気づきます。鉱夫たちは全国からやってきており、特に北陸地方出身者が多かったということです。龍蔵寺の墓地には、身寄りの無い「渡坑夫供養塔」がありました。
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 1890(明治23)年に架けられた道路用鉄橋の古河橋です。ドイツ製(ハーコート社製)で、架設以来原位置にありつづけている道路橋としては日本最古とされ、重要文化財に指定されています。対岸が本山エリアで、この上を当初は馬車鉄道が、後には物資輸送用の鉱山電車(坑外電車)が走りました。足尾は産業用に電車を用いた最初の事例ではないかといわれています。
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 足尾町内の輸送には馬車鉄道が用いられましたが、1926年に「ガソリンカー」が導入され、1952年まで用いられたということです。「ガソリンカー」といってもいわゆる気動車ではなく、フォードの自動車用エンジンを利用して足尾で製造したガソリン機関車が二軸客車を牽引するもの。ボランティアの手で復元された車両を足尾歴史館で見ることが(乗ることも)できます。
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 足尾本山の製錬所跡です。転炉の残骸が残っていました。
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 足尾線の終点、足尾本山駅の跡です。
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 ポン太が初めて足尾を訪れた1970年に撮影した写真です。本山から下ってきた貨物列車が間藤駅手前の切り通しを通過している風景です。写真の中央奥が本山の製錬所で、まわりの山々はすべてはげ山状態でした。
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 松木川の上流側からみた製錬所の跡です。
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 松木川の上流にあった松木村は、乱伐や製錬工場から出る亜硫酸ガスのために住める状態ではなくなり、全住民の移転を余儀なくされました。廃村となった村に残された墓が、はげ山となった山々を見上げていました。
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 銅山の閉山後、緑化事業が本格化し、1996年の第1回植樹デー以来、市民植樹も行われるようになり、これまでに23万本余の植樹が行われたそうです。若木に網が巻き付けてあるのは、鹿の食害を防ぐためです。植樹が進んだとはいっても、それは、かつての煙害エリアの3%にすぎず、もとの自然を取り戻すには400年はかかるとのことでした。一度破壊した自然を回復することがいかに大変か、今も進行形の原発問題が脳裡をよぎります。
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烏帽子岳で「山開き」

2018/05/24 22:29
 信州各地から「山開き」「開山祭」のニュースが届くようになりました。それを聞くと、ポン太もじっとしてはいられなくなります。昨年の記録を見ますと、6月5日に浅間連峰の水ノ塔山でプライベート山開きをしています。今年は気温の高い日が続いているので、少し前倒ししてもよかろうと、晴天に恵まれた一昨日、烏帽子岳へ出かけてきました。
 烏帽子岳は浅間連峰の西端に位置する標高2066mの山です。東京の最高峰、雲取山(2017m)よりも高いのですが、登山口の地蔵峠の標高が1732mもありますから、実際に登る高さは300m強。およそ2時間で山頂に立つことができ、危険な箇所もありません。それでいて、眺望は雄大、高山植物の種類も豊富で、ポン太、ポン子にとっても、登山シーズンの幕開けを飾るにふさわしい山ということができます。
 今の季節は、カラマツの新緑がとにかく美しく、それだけでも大感激でしたが、登山道の傍らには気の早いイワカガミが咲き始めていたり、稜線の岩場には高山植物のミネズオウが可憐な花を咲かせていたりと、高山植物ウォッチングを楽しむこともできました。
 この山は何度登っても、いつ登っても決して登山者の期待を裏切ることがありません。烏帽子岳に登らずして浅間連峰を語ることなかれ、という名言もあるほどです。誰の名言? えぇ・・・その・・・実はポン太です。タヌキだから騙しているんじゃないかって?いえいえ登ってみればわかりますよ。

 地蔵峠からまずは湯の丸キャンプ場をめざしました。昨秋、道路整備のためとして、三ヶ月間も通行禁止にしていた道です。まだ完成はしておらず、またまた5月28日から6月20日まで通行止めにして舗装工事を行う由。そもそもこんなところを舗装する必要があるのでしょうか。舗装道路を歩きたいと思う登山者はいないと思いますので、市街地と同じ感覚で生活者もいない山道を舗装することには大反対のポン太です。
 
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 湯の丸キャンプ場の様子は変わっておらず、ほっとしました。こんなところが舗装されたら興ざめです。
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 烏帽子岳へは、湯の丸山の山腹をまわるようしてむかいます。その周辺のカラマツの自然林の見事なこと。
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 フィトンチッドたっぷり。森林浴に最適の森です。
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 輝くような白樺の新緑です。
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 湯の丸山(裏登山道)への分岐が近づき、前方に烏帽子岳の稜線が見えてきました。正面のピークは小烏帽子で、烏帽子岳の山頂はその後ろに隠れています。左手のカラマツもきれいでした。
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 標高の高いこのあたりでは、ズミがまだつぼみの状態でした。
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 これはオオカメノキ(ムシカリ)の花。小さな白色の花のまわりを大きな花弁の花(装飾花というらしい)が縁取っています。
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 烏帽子の稜線にむかって登るにつれ、展望が開けてきて、気分爽快です。
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 道端に咲いていたショウジョウバカマです。低山なら3〜4月に咲く花です。
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 稜線の岩陰では、高山植物の女王コマクサの株が大きく育っていました。7月上旬には、可憐な花を眺めることができそうです。
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 稜線の最初のピーク、小烏帽子に着きました。前方に烏帽子岳の頂上がみえます。周囲の山々を眺めながらの尾根歩きは快適そのもの。
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 烏帽子岳越しにみる北アルプスは絶景です。この日は黄砂の影響か、少し霞んでいたのが残念ですが・・・。
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 日当たりのよいところでは、はやくもイワカガミが咲いていました。
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 岩場に咲く高山植物のミネズオウです。漢字で書くと「峰蘇芳」となるそうで、可愛らしい小さな花にぴったりです。
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 山頂付近のカラマツはまだ芽吹いたばかりでした。
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 烏帽子岳の山頂です。360度の大展望に満足しない人はいないでしょう。
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 無事に山頂に到着し、プライベート「山開き」を終えたポン太とポン子。夏山登山の安全を祈念しつつ、今年は新たな山にもチャレンジするぞ!と気合いを入れました。
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 地蔵峠に下山し、駐車場の後ろを眺めてみると、「高地トレーニング施設」の建設がだいぶ進んでいました。山の自然はできるかぎりそのままに、人工の造営物は必要最小限に、と考えるポン太にとっては、このような「開発」は不愉快なことですが、やはり地元にとっては「開発」で落ちるお金の方が大事なのでしょうね。
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 地蔵峠の名物はソフトクリーム。これはコケモモソフトですが、その甘酢っぱい味は、登山で疲れた身体にはなんとも心地よく、ついつい手がでてしまいます。
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すべてはマネから始まる

2018/05/22 23:22
 先週末、東京に滞在していたポン太は、2つのイベントに出かけてきました。1つは、国立博物館で開催中の「名作誕生」展、もう1つは、京急のファミリー鉄道フェスタです。 前者はポン子のお供で出かけたのですが、美術門外漢のポン太が見ても興味をそそられる内容でした。教科書に載っているような「名作」と呼ばれる作品が、何を手本にして出来上がったものなのか、手本とされたものと「名作」とを並べて展示し、そのつながりを明らかにするのが狙いで、普通に名画を鑑賞するのとは異なる面白さがありました。例えば雪舟の有名な「天橋立図」も、手本とした中国の画家の作品と並べてみれば、そのタッチは瓜二つといっても良いほど。また菱川師宣の「見返り美人図」も、「洛中洛外図屏風」の中に描かれている人物の中から取り出した(悪くいえばパクった)ものということも良くわかりました。だからと言って、それが、名作の価値を減ずるものではなく、あらゆるものにはお手本があり、それに自分らしさを付け加えることで良い作品が生まれるというのは、古今東西、ジャンルを問わず、当たり前のことだと受け止めました。
 先人の良いところを真似して自分のものとし、さらに発展させる。真似しただけなら「盗作」、何か工夫した点が付け加われば「名作」というわけです。現代において、デザインや技術が「盗作だ」「パクりだ」と問題視されることがよくありますが、その境目をどう判断したらよいのか、これはなかなか難しいぞ、と思ったポン太でした。
 後者の鉄道フェスタ(会場は京浜急行の久里浜工場)は、以前から出かけてみたいと思っていたものです。通常、一般人が鉄道会社の工場内に立ち入ることはほぼ不可能ですから、1年に1度、1日限りというこのチャンスを活かすことができて大満足でした。それにしてもすごい数の人また人。久里浜駅から会場まで、ほとんど切れ目なく続く人の列に驚きました。
 驚いたといえば、会場へ向かう電車に大勢乗っていた小学生たちの知識の豊富なこと。友達同士の会話の内容を聞いていると、例えば、○○系の電車で塗色の異なるものが何編成あるかとか、○○駅には一般人の通行できない変わった踏切があるとか、あれはめったに表示されない珍しい行き先表示だとか、ポン太も知らないような話の連続でした。恐るべし小学生の知識欲と記憶力。車掌のアナウンスを真似している低学年の子もいましたが、そうやって真似しているうちに駅名やその読み方も覚えていくわけで、やはり、すべてはマネから始まるのです。

「名作誕生」展の会場は平成館でしたが、久しぶりに訪れた国立博物館でしたので、本館も見てきました。建物の内部が実にレトロですばらしく、そちらの方に目を奪われました。
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 「名作誕生」展会場の出口に、「見返り美人をさがせ」というコーナーがありました。、「洛中洛外図」の中にいる「見返り美人」をみつけて写真撮影し、応募せよとのこと。
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 ポン太もチャレンジし、見事?4人の見返り美人をみつけました。その内の2人は、下の写真の中にいます。
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 こちらは京急のファミリー鉄道フェスタです。車両の写真撮影コーナーはこの混雑。
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 工場内にはこんな展示も。
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 工場内を会場としたプラレールコーナーは子供たちに大人気でした。
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 ポン太のお目当ては工場内に保管されている歴史的車両です。これは大正13年(1924年)に製造された京浜電気鉄道のデ51号。半鋼製車両の草分け的存在で、新造時の姿に復原されています。子供たちはあまりこちらには興味が無いようでした。
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 こんな行き先見たことないという子供に、お父さんが「昔は漢字を右から書いたから、これは、かながわいきと読むんだよ」と説明していました。鉄道フェスタは勉強になることがたくさんあります。
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家庭菜園はカッコーとともに

2018/05/16 09:34
 家庭菜園は田舎暮らしの楽しみの1つです。ポン太がやっているような森の片隅の1坪菜園から本格的な畑に近いものまで、レベルは様々ですが、多くの家庭が野菜作りを楽しんでいるといっても過言ではないでしょう。散歩の途中でよその家の菜園を眺めたり、作業中の方と話をしたりするのもまた楽しみの1つです。たくさん穫れたからとお裾分けにあずかることもあるので、菜園に関しては、口は災いの元ではなく、幸せの元かもしれません。
 高冷地であるがゆえに、植え時を間違えると夜間の寒さや霜にやられて失敗してしまうこともあります。ある時、菜園の土づくりをしていた方から「苗はカッコーの声を聞いてから植えると失敗しない」という話を聞き、なるほどと納得しました。
 昨日、一人で散歩に出かけたポン子が、森でカッコーの声を聞いたと言います。いよいよ家庭菜園始動です。
 実はポン太の菜園には、すでに植え付けたものがあります。それはレタスです。春先の気温が異常に高かったので、いつもの年より10日もはやく植えてしまい、うまく育つか心配していたのですが大丈夫でした。40日ほどで大きく育ち、GW明けからほぼ毎日収獲して食べています。今年最初の菜園の恵みに感謝しつつ、ボリュームアップしたサラダを夢中で頬張るポン太とポン子でした。

 植え付けて数日後のレタスです。手前にサニーレタス、後ろに結球レタスを植えました。
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 40日後にはこんなに大きくなり、サニーレタスは食べ頃です。
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 早速、朝食でいただきました。サニーレタスは市販のものより柔らかく断然美味しい!何しろ、無農薬、無化学肥料の完全有機栽培ですから。薬を散布しなくても虫がつかないのは、寒冷地の有り難さです。
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 ポン太の菜園には、タネを蒔いたわけではないのに、勝手に育ってくれる有り難い野菜もあります。上から二番目の写真で、レタスのまわりに大量に芽を出しているのはシソ(オオバ)です。どこかからタネが飛んできて(鳥が運んだ?)、ポン太の菜園に定着してしまいました。また、放っておいても毎年確実に芽をだし育ってくれるものもあります。その1つがジャムの原料となるルバーブ。昨年、株分けしてみましたが、すべてこんなに元気に育っています。
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 森の中で勝手に育つ「野菜」もあります。これは天然のミツバ。市販のものより少しこわいですが、香りは抜群。ミツバといえばお吸い物や茶碗蒸しが定番ですが、天ぷらにして食べても美味です。
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 群馬に出かけた時に、道の駅で「ウルイ」という山菜を売っているのが目にとまりました。珍しいものではないかと思い、早速購入して持ち帰りました。ところが、ポン子がこれならわが家にもあるという言うのです。調べてみましたら、ウルイというのは、オオバギボウシの別名で、ポン太の森にもたくさんありました。これがそれです。若葉を山菜として利用する場合にウルイとよぶことが多いようです。食べてみましたが、まったくクセのない味でした。
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 こちらはプロのレタス畑です。整然と植えられたレタスは絵になります。水田にも水が入るようになり、浅間山麓は、本格的な農業の季節をむかえました。
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 キャベツの植え付けも進んでいます。「カッコーの教え」は、プロにも通用しているのかもしれません。
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生き残るぞ、浅間山麓

2018/05/09 22:07
 日本が人口減少時代に突入していることは周知のとおりですが、国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2015年を100とした場合、30年後の2045年に100をキープしているのは、都道府県単位では東京都(100.7)のみ。最も減少率の大きな秋田県は58.8ですから、人口の4割以上が消えてしまうことになります。長野県の数値は全国平均の83.7より下の76.9。う〜ん、これはなかなか厳しいですね。そんな中で、ちょっとばかりホッとするのは、浅間山麓エリアの減少率が比較的小さいことです。特に、御代田町の数値は現状維持を意味する99.4ですから驚きです。県内で最も人口減少率の小さな自治体というだけでなく、全国的にみても、地方の町村で人口減少(過疎化)を心配しないですむ、稀な例といえましょう。
 その御代田町に、新庁舎が誕生し、GW明けの5月7日に業務開始となりました。地方公共団体が、庁舎の豪華さを競うというようなことには批判的なポン太ですが、この庁舎は、浅間山麓の高原の町らしいデザインで好感がもてますし、隣地に整備予定の写真美術館ともうまくマッチしそうな気がします。

 これが御代田町の新庁舎です。
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庁舎内の町民ホールです。掲げられている絵は、篠原義易氏の作品「御代田のまつり−豊穣の祈り」です。
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 庁舎の入口に置かれているのは、ポットスチル(蒸留器)です。この場所は、メルシャン(株)軽井沢工場(ウィスキー蒸留所)の跡地であり、その産業遺産であるポットスチルをモニュメントとして保存したのは意義のあることだと思います。ちなみに、1955年の工場創設時は大黒葡萄酒(株)軽井沢工場でした。ウィスキーのブランド名は「オーシャン」です。1962年に合成酒メーカーの三楽に吸収合併されて「三楽オーシャン」となり、1980年にメルシャン(株)と改称。2006年に、キリンビールの傘下にはいりましたが、2010年に完全子会社化され、その翌年の2011年に軽井沢工場は閉鎖されてしまいました。
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 解体中のメルシャン軽井沢工場です。工場見学で何度か訪れ、試飲させてもらったこともありましたので、名残惜しい気持ちになりました。(2016年2月16日撮影)
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 メルシャンが1995年に開設し、工場の閉鎖とともに閉館した「メルシャン軽井沢美術館」の跡地には、写真美術館がつくられることになっています。まだその作業は始まっていないようで、現状はこのとおりです。
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湿原の女王リュウキンカ

2018/05/06 22:03
 GW中に斑尾高原の沼ノ原湿原へ出かけてきました。いつもの年ですと、混雑を避けてGW明けに出かけることが多いのですが、今年は季節の進み方が異常にはやく、毎年楽しみにしている水芭蕉の見頃が、GWと重なってしまったのでやむを得ません。
 人出はそれほどでもありませんでしたが、驚いたのは残雪の少なさ。例年ですと、遊歩道の一部はまだ雪で埋まっていて、一周するのはかなり大変なのですが、今年は山の斜面の窪地にほんの少し残るだけでした。水芭蕉の生長もはやく、すでに盛りを少し過ぎた感じでしたから、思い切って出かけて大正解でした。
 水芭蕉が咲いている姿は、どこから見ても絵になりますし、心が洗われる感じがします。しかし今回の湿原散策で、それに勝る印象を受けたのは、リュウキンカでした。水芭蕉と同じように水辺や湿地を好む植物で、ほぼ同時に花を咲かせます。清楚なイメージの水芭蕉に対して、リュウキンカには高原を一気に目覚めさせるような華やかさがあり、黄色い絨毯を敷き詰めたように咲いているところなどは、水芭蕉以上にインパクトがあります。花言葉は「必ず来る幸福」とか。これまで、水芭蕉の添え物のように思っていたリュウキンカですが、湿原の女王の名にふさわしいのは、むしろこちらかもしれないと見直したポン太でした。

 何度訪れても、沼ノ原湿原のこの風景には魅了されます。
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 雪解け水の中に咲く水芭蕉。これを見ずして春は終われません。
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 水中花のように、水面下で花開く水芭蕉もあります。そのなんと可憐なこと。
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 こちらは湿原を埋め尽くさんばかりのリュウキンカです。リュウキンカに促されて、後方の山にも一気に春がやってきたように見えます。
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 至近距離でみた水辺のリュウキンカです。堂々と自己主張していて、見応えのある花であることがわかります。
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 リュウキンカに縁取られた文字通りの花道です。
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 湿原の散策を終えて立ち去ろうと振り向くと、額に入れて持ち帰りたいような、こんな風景が目にとまりました。中央の白い花はスモモです。自然の造形は本当に素晴らしいですね。
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 斑尾には、涌井という蕎麦集落があります。「北沢」というお店が気に入り、今回もそこで昼食をとりました。自家栽培した蕎麦だけを使い石臼びきをしたこだわりの手打ち蕎麦がこれです。
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 蕎麦はもちろん美味しいのですが、とびきり美味しいのがそば湯。飲み干すと蕎麦のひきがらがこのように残ります。これが本物のそば湯だよ、と証明してくれているようで、嬉しくなります。
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 斑尾の麓にある旧豊田村(現・中野市)は、「故郷」「朧月夜」などの作詞で知られる野辰之の生誕地で、立派な資料館があります。
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 そのまわりの風景は、「故郷」そのもの。「うさぎ追いしかの山、小ぶな釣りしかの川・・・」と思わす口ずさんでしまいました。
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捨てられたのに咲くなんて

2018/05/03 15:56
 GWに入り、浅間山麓は大勢の人で賑わっています。いつも買い物に行くスーパーの駐車場は県外車でいっぱい。ふだんは並ぶことなどないレジも、順番待ちの列ができていました。
 浅間山麓一帯の森は、芽吹きから新緑のベールへと変わり、いろいろな花が次から次へと咲いています。ポン太の森ではウワミズザクラが満開です。名前はサクラでも、いわゆるサクラの花とは全く異なるもので、細長いブラシ状の白い花を咲かせます。花が終わったあとの真っ赤な実も見応えがあるのですが、小鳥たちにとってはご馳走のようで、すぐに食べられて軸だけになってしまいます。リンゴやズミの花は終わりかけていますが、ツツジが咲き始めましたので、森の彩りはこれから益々豊かになりそうです。
 今一番見応えのあるのは、八重桜ではないでしょうか。いつも散歩している開拓集落の道は、花のトンネル状態です。木々の足元にも小さな花がたくさん咲いていて、目を楽しませてくれます。
 森の中の意外なところで、健気に花を咲かせている小さなチューリップを見つけました。それは、落ち葉や生ゴミを埋めた場所。あまりに小さな球根だったので、どうせ花を咲かすことはあるまいと考え、他のゴミと一緒に処分したはずのものです。捨てられたのにこんなにきれいに咲くなんて、なんだか可哀想になってしまいました。今秋は、どんな小さな球根も、それなりの場所をみつけてしっかり植えてやろうと心に刻んだポン太でした。

満開のウワミズザクラです。
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リンゴの花は咲き始めが一番可愛らしく、つい数日前までこんな感じでしたが、今はもう散り始めています。
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開拓集落の八重桜が満開となりました。一般のサクラと八重桜がほぼ半々に植えられているので、ここではお花見が二回楽しめます。
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様々な花が咲き出し、水辺(御影用水)周辺も華やかになりました。
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近くにワンちゃんと泊まれるホテルができたため、夕方はワンちゃんの散歩ラッシュです。
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ポン太の森の木々の足元には、ムラサキ色の小さな花がたくさん咲いていました。フデリンドウ(上)とスミレ(下)です。
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森の奥で、捨てたのはずのチューリップが健気に咲いていました。
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すごいぞ農村歌舞伎

2018/04/30 06:53
 農村歌舞伎(地芝居)を実際に見たことがあるという方は少ないのではないでしょうか。
伝承地の多くが僻遠の地であることや、上演回数が極めて少ない(年に1度という場合が多い)ことから、見たいという気持ちはあっても、行動に移せないというのが一般的感覚かと思います。
 ポン太は福島県の秘境、檜枝岐(ひのえまた)に出かけた際に、立派な歌舞伎舞台の存在に驚き、演じられる様子をぜひ見たいものだと思いはしましたが、何しろ遠すぎて夢のまた夢という感じでした。ところが、灯台下暗し。浅間山麓にも、たった1箇所ですが、農村歌舞伎が伝承され上演されているところがあったのです。それは東御(とうみ)市の祢津(ねつ)地区。上演場所の東町歌舞伎舞台は、江戸時代の文化14年(1817年)に建立されたということですから、そこで演じられるようになってからでも201年の歴史があります。祢津の歌舞伎保存会には、寛延4年(1751年)の銘が入った「踊大小入」の木箱が残されているそうですから、歌舞伎自体はもっと前から演じられていたようです。
 ポン太がこの農村歌舞伎の存在を知ったのは3年前の上演当日の朝。大急ぎで駆けつけ、初めて見た時のインパクトはとんでもなく大きなものでした。もう一度見たいと強く思ったのですが、二年連続で都合がつかず、今年こそはと、朝から弁当持参で出かけました。おかげで、午前の部の子供歌舞伎を含むすべての舞台を見ることができ、農村歌舞伎の醍醐味を満喫したポン太でした。
 当日の様子は下の写真のとおりです。いかがでしょうか。生で見たいという気持ちになりませんか。そう思った方は、上演日が毎年4月29日であることをご記憶いただければと思います。


 歌舞伎舞台は、この階段を登った小高い丘の上にあります。
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 新緑に包まれたのどかな雰囲気は、農村歌舞伎ならでは。開演を待つ間にも期待感が高まります。
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 まずはおめでたい三番叟から。
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 午前の部は子供歌舞伎。地元の祢津小学校には「歌舞伎クラブ」があるということで、その生徒たちが演じます。今年の演目は「土蜘蛛退治」。足柄山の金太郎が坂田公時として将軍の家臣となり、妖怪土蜘蛛を退治するというお話です。金太郎がまさかりを担いで見得を切ると、やんやの喝采。おひねりの嵐です。
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 土蜘蛛が糸をまき散らし、家臣たちを身動きできなくさせます。そこへ公時が登場し、まさかりを振り回して土蜘蛛を倒すというストーリーです。
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 土蜘蛛を倒し、勝ちどきをあげて、フィナーレ。おひねりの量は午後の大人の歌舞伎より多かったような気がします。子供たちも嬉しいでしょうね。
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 さて、いよいよ本命の祢津東町歌舞伎保存会の公演です。今年の演目は、伊達騒動を題材とした「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」。主役である忠義の乳母政岡の登場です。なかなかの名演技でした。
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 幼い君主鶴千代の毒殺を狙った菓子を、あえて口にして苦しむ政岡の実子千松。千松を毒殺隠蔽のために刺し殺そうとする首謀者(仁木弾正)の妹八汐。最大の見せ場ですから、演者も力が入ります。
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 気丈に振る舞っていた政岡が、我が子の亡骸にすがって嘆くシーン。おひねりが飛ぶのも当然ですね。
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 「御殿の場」から「床下の場」への転換には、回り舞台が用いられます。おそらく手動式でしょうから、床下では担当者が汗を流しているはずです。江戸時代以来のその仕組みもちょっと見たい気がします。
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 弾正が妖術で化けた鼠を、警護の荒獅子が追いかける「床下の場」です。鼠役は小学4年生だそうですが、リズミカルな演技で立派にその役割を果たしていました。
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 最後の舞台挨拶。盛大な拍手と1本締めで、今年の公演は終了しました。
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 歌舞伎舞台のある丘の上から見下ろした祢津の集落。本当にのどかで、先ほど見た歌舞伎がまるで夢のようです。
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板門店が無用になる日

2018/04/27 20:48
 本日(4月27日)、歴史の大転換点になるかもしれない(そうなって欲しい)南北首脳会談が行われ、テレビの画面に釘付けになりました。
 ポン太は今回の会談場となった板門店に行ったことがあります。今から40年も前のことですが、テレビの画面を見ていて思ったのは、あれから今日まで、現地の様子がほとんど変わっていないということです。休戦会談場も、軍事境界線を示すコンクリートの帯もそのまま。東西冷戦が終結すれば、ここが無用になる日が来るに違いないと期待していたのですが、1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結してもなお、その落とし子ともいうべき状態が朝鮮半島では継続したままです。
 朝鮮戦争の勃発から68年。3年後に休戦とはなったものの、いまも戦争状態に終止符は打たれておらず、朝鮮半島では第二次大戦の戦後処理も完結していません。これほどの長きにわたり、民族の分断状態が続いているというのは、どうみても異常なことです。日本に置き換えて考えてみれば、それがどれほど悲惨なことかわかります。もしも、利根川を境に、親族の行き来もできず、武力衝突や事件が起きる度に多くの血が流されるといったことが繰り返されるとしたら・・・。
 今回の会談が、このような状況を根本的に解決するための大きな一歩となって欲しいと思います。これまでの経緯から、疑心暗鬼になるのもわかりますが、それを乗り越えて展望を切り開く知恵こそが必要ではないかと思うのです。
中島みゆきの歌のように、「そんな時代もあったねと・・・きっと笑って話せるわ」となって欲しい。テレビを見ながら心底そう願うポン太でした。

40年前(1978年)の休戦会談場です。いまも全く変わっていないように見えます。建物の右側にみえるコンクリートの線が軍事境界線です。テレビでは、このラインを両首脳が手をつないで越えるシーンが生中継されました。
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 休戦会談場の内部です。問題が起きた場合、真ん中の緑色のテーブルに双方の代表団が着席し話をするわけです。マイクのあるところが首席代表の席、テーブル上のマイクのコードが軍事境界線を示しており、それを挟んで双方が対峙する形になっていました。それは今も同じかもしれません。
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 北朝鮮側の板門閣です。建物自体は変わっていないと思いますが、テレビで見た感じでは、多少のリニューアルはされているようです。
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 見学中のまわりの様子です。北朝鮮側の兵士はいませんでしたが、それなりの緊張感はありました。
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 板門店の休戦会談場から少し離れたところです。休戦ラインを示す白い杭が並んでいます。その右手が北朝鮮側、左手が韓国側です。そんなラインがなければ、ごくごくのどかな田園地帯にみえます。
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 これは、当時(1978年7月)のソウル駅構内です。はじめて韓国の鉄道に乗った日のことを思い出し、アップしてみました。
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 当時のソウル駅前です。この建物は現存していると思いますが、その後ろに新しい建物が建設され、ホームやコンコースも一変しています。
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 当時、韓国国鉄で最速だった特急「セマウル」号です。ディーゼル機関車が牽引し、釜山〜ソウル間を4時間50分で結んでいました。これは、釜山駅で乗車前に撮影した写真です。なお、現在のKTX(韓国高速鉄道)は、同区間を2時間30分台で走破しています。
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桃もリンゴも満開

2018/04/26 18:34
 前回、桃源郷そのもののような「余里の一里花桃」を取りあげましたが、実は浅間山麓にも「桃源郷」があります。ポン太のいきつけの山である平尾山の周辺に広がる「平尾桃源郷」です。こちらは、余里のような花桃ではなく、果樹園で栽培される食用の桃です。
 例年よりだいぶ早く開花し、このところ気温の高い日が続いたせいか、あっという間に満開。薄紅色の花の美しさは花桃に劣らず、すぐ隣に咲いている白いリンゴの花、そしてまだ散らずに残っている桜と、「花の三重奏」を楽しむこともできます。
 芽吹き始めた木々の間を小鳥が飛び交い、棚田では田起こしが始まりました。この時季の山里には、生命のパワーを感じます。カメラをむけたくなるところも多いのですが、私有地である果樹園や畑に勝手に入り込むわけにはいきません。外で作業をしている人がいれば、お願いして撮らせてもらうことができますが、そうでない場合が多いのでどうしようかと迷うところです。少しぐらいなら黙って・・・。いやいや、タヌキといえども、それをやっちゃーおしめぇだよと、自重するポン太でした。

浅間連峰を望む「平尾桃源郷」です。
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 形のよい美味しい実を育てるには摘花も必要です。
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 浅間山を背にして咲く満開のリンゴです。
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 こんな風景が「桃源郷」のイメージに近いかもしれません。
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 新しい家が増え、「桃源郷」というよりも、「果樹園のある住宅地」となりつつあるところもあります。
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 田起しが始まりました。山裾の果樹園では、桃、リンゴ、桜の三重奏です。
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 咲きそろった桃。新緑の森の中に見える白い花は山桜です。
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ありがとう花咲じいさん

2018/04/24 09:57
 桃源郷とは、世俗を離れた理想郷、ユートピアを意味する言葉ですが、本当にあるとすれば、こんなところかもしれません。
 そこは、上田市の余里。上田市とはいっても市街地からは遠く離れた山里で、2006年に同市に合併するまでは、小県(ちいさがた)郡武石(たけし)村に属していました。花桃が多いことで知られ、「余里の一里花桃」と呼ばれています。その言葉を初めて聞いた時には、何のことやらよくわからなかったのですが、谷間の集落である余里は、その長さがおよそ1里(4km)あり、この季節にはその全てを花桃が埋め尽くすので、「一里花桃」というわけです。
 集落の入口近くの駐車場に車を置き、歩き出してみれば、目に入ってくるのは花桃また花桃。道路沿いはもちろん、民家の庭先、山の斜面、川の畔などいたるところに花桃が咲いています。花桃に彩られた集落の佇まいもすばらしく、まるで「日本昔話」の世界に入り込んだようです。地元の人々が「世界で一番きれいな二週間」と豪語するのも頷けますが、長年にわたりこれだけの数の花桃を植え、大切に育ててきた地域の人々の努力には頭が下がります。
 道路脇の立て札には「花咲じいさんのいる村」とありました。おとぎ話の中だけでなく、本当に「花咲じいさん」はいるのですね。「花咲じいさん」に感謝です。


 余里の集落に入った瞬間、目を奪われてしまった花桃の並木です。こんな道を散歩できるワンちゃんも幸せですね。
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 集落を貫く道沿いも花桃だらけ。気持ちよく歩けます。
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 咲き誇る花桃の美しさ。カメラをむけたくなるのも当然です。
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 これはもう「日本昔話」のような世界です。
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 素敵な古民家カフェもありましたが、この日はお休みで残念。
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 住んでみたくなるような、美しい集落があらわれました。
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 どこか懐かしい風景です。
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 花桃を愛でながら、一里の道を往復すると、かなりの時間がかかりますが、あまりの美しさに、疲れを感じることはありません。
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 民家も花に埋まっていました。
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 紅白の花桃と水仙の花畑。印象派の絵画のようです。
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 集落のメインストリートから少し外れたところにも、メルヘンのような風景が広がっていました。
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 少し高い位置から俯瞰した余里の集落。絶景ですね。
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 あまりにのどかで、土手でお昼寝をしたくなります。
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 田んぼの注意書きにも「花咲じいさん」の文字が。住民が一致協力して花桃の里を守っている様子がうかがえます。こんなに素敵な風景を見せていただき、「花咲じいさん」に感謝です。
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元気が出る公園

2018/04/22 22:36
 道路際に設置されている標識を見て、何だそれはと、驚いたり興味をそそられたりすることはないでしょうか。ポン太が以前から気になっていたのは、「元気が出る公園」という標識です。その場所は、佐久穂町の国道141号沿い。
 ここ2週間ほど悩まされていた風邪の症状がようやくおさまってきたので、本当に元気が出るところなのか、行ってみることにしました。国道から1キロほど入った山の上にある地元住民のための公園で、一見したところごく普通。なぁんだと思いつつ、よく眺めてみると、立派過ぎるほどの複合遊具が設置されており、子供たちが嬉々としてとび回っています。丘の斜面では、草すべり?に興じている人たちもいます。一方、山の地形を利用したマレットゴルフ場では、地元のお年寄りたちが快音を響かせていました。テニスコートやバーベキュー場もあり、展望もよいので、老若男女誰でも、ここで一日身体を動かせば、確かに元気が出そうです。
 公園を見た後、佐久市のコスモホールにむかい、佐久室内オーケストラのスプリングコンサートを聴きました。モーツァルト一色のプログラムで、前半はオペラのアリアが中心。プロの声楽家(ソプラノの三井清夏さんは地元出身の由)による迫力満点の歌声を聴いているうちに、先ほどの公園の明るく活気に満ちた情景が浮かんできて、視覚と聴覚の合わせ技で元気になれたような気がしました。
 これからどんどん動き回るぞ! 家に帰るなり、そう宣言したポン太でした。

 気になっていた標識がこれです。
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 ここが「元気が出る公園」です。山の上にあるため、展望は抜群です。
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 遊んでいる子供の数からみたら、立派すぎるような複合遊具がありました。
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 草すべり?に興じていたのは子供ではありません。こんなことをしたくなるのも「元気が出る公園」ならではかもしれません。
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 子供が喜びそうな遊具ですが、大人でもぶら下がってみたくなります。後に見えているのが、県民スポーツの王様、マレットゴルフのコースです。
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 少し標高が高いせいか、まだ桜も咲いていました。
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 佐久穂町には、ほかにも気になる標識がありました。「美人」はどこかときょろきょろして、事故を起こす心配はないのでしょうか。
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軽井沢の桜

2018/04/21 22:02
  旅行雑誌のみならず、一般誌でも何かと取りあげられることの多い軽井沢。「新緑の軽井沢」「紅葉の軽井沢」といった特集は山ほど目にしますが、「桜の軽井沢」といった類にはさすがにお目にかかったことがありません。軽井沢には桜そのものが少なく、桜の名所もありませんので、桜を求めて軽井沢へというのは、紅葉を探しに沖縄へというのと同じぐらいマイナーな話であるわけです。
 しかし、桜がまったくないわけではなく、思いがけず美形の桜や桜のある美景に遭遇したりすると、貴重なものを発見したようで嬉しくなります。ひねくれもののポン太は、そういう一般の常識からちょっとはずれたものが大好きなので、あえて「軽井沢の桜」をとりあげてみることにします。
 地域のシンボルである浅間山は千変万化。ついこの間まで、夏姿になっていたのですが、先週の雨が山では雪となり、再び雪化粧しました。その浅間と桜のコラボは実に素晴らしく、見応えがあります。

 浅間山を背にして咲く桜。やはり浅間は雪化粧している方が迫力があります。
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 これは、しなの鉄道の南側に広がる農業エリアからみた浅間山です。ポン太の頭の中では間違いなくベスト10に入るビューポイントです。
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 塩沢湖(タリアセン)の桜とコブシのコラボです。ちょっと人工的過ぎるのが難点ですが、美しい景観ではあります。
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 塩沢湖付近の道路際に咲く枝垂れ桜が見事でした。まだ観光客の姿は少なく、道路もガラガラです。
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 大日向開拓地近くの集落の桜です。別荘地軽井沢のイメージとは異なるところの方が桜の数が多いように思います。
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 落葉松を背に咲く桜。軽井沢らしい桜の風景といえましょう。
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 芽吹き始めた木々と桜のコラボ。ここはスケート場の裏山(風越山)ですが、逆光だったせいか、桜が浮き上がって見えました。
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 散歩するのによさそうな桜の小径。この奥にある隠れ家的カフェでは、何度かランチを楽しんだことがあります。
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 ひと気のない池の畔にひっそりと咲いている桜も風情があります。
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浅間山麓 さくら点描

2018/04/17 21:38
 先週ひいた風邪がなかなかぬけず、遠出をひかえているうちに、桜の開花はどんどん進み、ポン太の住む標高900m〜1000mエリアが、今まさに花の季節を迎えました。例年と比べると10日以上はやい感じで、GWまで花が残っていてくれるか心配です。
 浅間山麓(の標高の高いエリア)には、いわゆる「桜の名所」はありません。されど、量より質。芽吹き始めた落葉松林を背に凛と咲く風情は、他では味わえないものですし、民家や畑の傍らに、形のよい枝垂れ桜が1株だけ咲いている姿も絵になります。まだ戸が閉まったままの別荘地の中に、人知れず可憐に咲いている桜も、よきかなです。
 高原の桜は、華やかというよりも、楚々と咲く姿が美しいと言えるのではないでしょうか。そんな桜の風情を見逃してしまうのはもったいないので、カメラ片手に、ポン太の森の周辺をひとめぐりしてみました。

 中山道、追分宿〜小田井宿間にある一里塚の桜です。老木で樹勢の衰えが気になっていたのですが、今年は見事な花を咲かせてくれました。
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 中山道沿いの桜も満開になりました。
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 水辺(御影用水)の桜も咲きました。
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 別荘地内では、レンギョウと桜の競演です。
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 桜の園と化した開拓集落を、郵便配達のバイクが駆け抜けて行きました。
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 御代田町の雪窓湖です。あまり訪れる人のいない池畔にも、桜が咲いていました。
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 隣接する雪窓公園の桜です。すでに花は盛りを過ぎ、平日は人も少ないので、結婚式用の写真?を撮るには最適かも。
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 こちらはワンちゃんの写真撮影のようです。桜もいろいろな楽しみ方があるのですね。
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 御代田駅(旧駅)に保存されているD51も桜に包まれていました。
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 植え付けの準備が進むレタス畑です。桜の後には芽吹き始めた落葉松林が広がるという、浅間山麓らしい風景です。
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 ポン太の森ではボケの花が咲き始めました。
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 昨年、試しに植えてみた桃も開花しました。春が一気にやってきた感じです。
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待ってくれ、山の桜

2018/04/14 09:24
 今年は全国的に桜の開花がはやく、3月下旬に東京で満開の桜を堪能できたのは良かったのですが、浅間山麓にもどってみると、信州でも桜の開花は異常なはやさで進んでいました。長野、松本、上田などでは、すでに盛りを過ぎたところも多く、急がないと見逃してしまうのではないかと、焦りを感じ始めた矢先、ノドの傷みに襲われ、熱も出てダウン。どうやら風邪をひいてしまったようなのです。
 浅間山麓での生活では、人混みの中に身を置くことはほとんどありません。しかし、東京へ出かければそうはいきません。どこかで風邪の菌をもらってきてしまった可能性大です。マスクを着用すべきだったと後悔してもすでに遅し。こじらせないためには無理は禁物なので、毎年楽しみにしている上田城の桜も、今年は見ないで終わりそうです。
 ニュースを見ておりましたら、佐久平でもすでに満開になったところが多いとのこと。準地元でもあり、全く見ないまま散ってしまっては悔しいので、せめて長野牧場(正式名称は家畜改良センター茨城牧場長野支場)だけでもと出かけてみました。どうにもすっきりしない体調で眺めてみても、ここの桜とそれをとりまくロケーションは、例年のことながら素晴らしいものでした。
 風邪が癒えたら、もっともっと桜めぐりをしたいところです。この先期待できそうな標高の高いエリアの桜には、それまで開花を待って欲しい。そう願うポン太でした。

 毎年素晴らしい姿を見せてくれる長野牧場の桜です。
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 一番奥まったところにある枝垂れ桜も見事に咲いていました。
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 桜の下で美味しそうに草を食むヤギさん。裏の牧舎では子ヤギがたくさん生まれていました。
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 周辺の広々とした景観も長野牧場の魅力です。
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 昨年からバーベキューが禁止になったので、「花見の宴」をしている人はほとんどいません。この日が平日だったせいもあるかもしれませんが・・・。
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 帰路に立ち寄った鼻面稲荷神社の桜も咲いていました。
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 桜の数はそんなに多くありませんが、朱塗りの建物とのコントラストがよく、きれいに見えます。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その30(最終回)

2018/04/12 10:11
中山道踏破達成へ

<38日目、4月11日>栗東から大津へ 
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 いよいよ中山道歩きも大詰めです。前夜は近江八幡のビジネスホテルに投宿。朝食後すぐに、電車で栗東へとむかいました。栗東駅から綣(へそ)交差点にもどり、中山道歩きを開始。昨日は一日中ぐずついた天気でしたが、今日はすっきり晴れて絶好のウォーキング日和です。
 静かな旧道を草津宿へむかって進みました。綣という地名はかなり広範囲に及んでいるようで、綣○丁目の標識が続き、綣と刻まれた石柱まであります。道の傍らに一等水準点標識があり、旧中山道が、そのまま国道として利用されていた時代があったことがうかがえます。
 東海道線の下に設けられた小さな煉瓦アーチ橋をくぐりぬけ、線路に並行して進むと間もなく草津駅前。その先が草津宿の入口ですが、なんと目の前にあらわれたのはアーケード街でした。中山道がアーケード商店街に変身しているところは他にはありません。その、アーケードとアーケードの間が、中山道と東海道の分岐点になっていて、覚善寺の門前に、「右東海道、左中仙道」と記された明治の追分道標が立っていました。
 天井川である砂川(旧草津川)の下を隧道で抜けたところが、草津宿の中心です。隧道はもちろん後年のもので、江戸時代には土手を登り、橋が無かったので、歩いて水量の少ない川を渡った由。
 草津宿は東海道、中山道の分岐点にあたる重要な宿場で本陣も2つあったということですが、そのうちの1つが現存し、内部を見ることができます。立派な建物で、一番奥に大名が泊まった上段の間がありますが、そこに至るまでの部屋数がとても多く、台所の広さもからも、賄の大変さがうかがい知れます。宿帳には、吉良上野介と浅野内匠頭が、僅か数日違いで宿泊していたという記録や、新選組の土方歳三が隊士集めに江戸へ出かけた帰りに宿泊した記録などが残されていて、歴史が実感できます。

 アーケードになっていた草津の中山道
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 東海道と中山道の分岐点道標
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 天井川である旧草津川の下をトンネルで抜けると、草津宿の中心部です。
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 草津宿の本陣にて
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 とにかく広い本陣です。ここに浅野内匠頭や吉良上野介、土方歳三等が泊まったのかと思うと、歴史が身近に感じられます。
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 草津宿を出ると、道沿いの標識が「中山道」ではなく「東海道」に変わり、以後、中山道の文字を見ることはありませんでした。草津〜京都三条大橋間は、東海道と中山道が重複し、草津と次の大津は、東海道53次にも中山道69次にも含まれますから、中山道歩きをしている者としては、中山道の文字も併記して欲しいと思いました。
 まもなく矢倉立場の跡に着きました。そこがかつて、草津名物の姥が餅屋のあった場所です。今もこの場所に姥が餅屋が現存し、一休みすることができたなら、現代の街道歩きの人にも喜ばれるだろうにと思います。ポン太なら必ず寄るはずですから。
 国道1号と交差する矢倉南交差点付近は、旧道がどこへつながっているのかわかりにくく、しっかりした標識が欲しいところです。地図で間違いなく旧道であることを確認した道を進んでいくと、野路という集落に入りました。その中ほどに「萩の玉川」という場所がありました。野路は平安から鎌倉時代にかけて存在した宿駅で、「萩の玉川」は日本六玉川の1つといわれた由。今は人工的な小公園に過ぎませんが、休憩するのにちょうどよいので、持参した弁当で昼食をとりました。
 午後は、弁天池、月の輪池という、かつては、旅人の目を楽しませたであろう場所を眺めつつ歩みを進めました。まだ散らずに残っている桜もあり、快適な道中です。一里山という町に入ってまもなく、一里山一丁目の交差点脇に、一里塚跡の碑がありました。その先は瀬田にむかって下り勾配の道となりますが、家並みのむこうには、比叡山へと続く山並みが望まれ、いよいよゴールの京都が近づいてきたことを実感しました。
 自動車道路に合流すると瀬田の唐橋はもうすぐです。唐橋周辺には古い商店や民家が多く、京都の町中に入ったような雰囲気でした。唐橋周辺の桜はまだ見頃で、水に浮かんだ競技用のボートと桜のコラボは、一幅の絵のようでした。
 京阪石山線の踏切を渡り、東海道線の下をくぐり抜けた先が粟津の原。木曽義仲終焉の地ですが、今は工場地帯になっていて、沿道にわずかに残る松だけが、往時を偲ばせます。沿道に1つぐらいは義仲関連の碑なり像なりあってもよいと思うのですが、何もありません。そこから先は、膳所城の城下町に入るため桝形が連続し、京阪電車の踏切を越えた先でまた踏切を渡るという複雑なルートを歩くことになります。膳所城の城門跡を示す碑があちらこちらにあり、巨大なお城であったことがわかります。
 狭い旧道は風情があってよいのですが、大津市街地に入ると、車の通行量が多くなり、ゆっくり街道歩きを楽しめる感じではありません。一方通行にするなど対策はないものかと思います。クルマを避けながら歩いていると、ふいにという感じで左手にあらわれたのが義仲寺。中に入り、木曽義仲の墓(木曽塚)、芭蕉の墓と句碑、巴塚などを見ました。芭蕉はここを好み、遺言で墓が建てられた由。資料室には遺品の杖などがおかれ、門前には長生きした巴御前にあやかろうという地蔵堂もあり、なかなか面白いところでした。
 午後5時過ぎに、中央大通りとの交差点に到達しました。今日の中山道歩きはここまでとし、大津駅から電車で今宵の宿へとむかいました。

 かつては草津名物の姥が餅屋があった矢倉立場の跡
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 日本六玉川のひとつといわれた萩の玉川跡にて
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 前方に比叡の山並みが見え、道路脇には、「京都三条大橋まで五里余り」という道標が立っていました。
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 いよいよ瀬田の唐橋を渡ります。まだ桜も残っていて美しい風景でした。
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 京阪石山線の踏切です。
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 木曽義仲公が討たれた粟津の原。鉄道唱歌41番の歌詞には「粟津の松にこととえば答えがおなる風の声、朝日将軍義仲のほろびし深田はいずかたぞ」とあります。それはこのあたりでしょうか。
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 今は少し寂れてしまった感じのする膳所(ぜぜ)の商店街を進みました。
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 木曽義仲公と芭蕉翁の墓所、義仲寺です。
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 義仲公の墓前にて。信州では、義仲公は大変なヒーローです。ぜひ、大河ドラマでとりあげてもらいたいものです。
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 芭蕉の句碑。「行く春をあふみ(近江)の人とおしみける」 桜が終わりかけているこの時期に、中山道を歩いて近江に到達。明日は京都へという、ポン太とポン子の心情にマッチしているように思えなくもありません。
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<39日目、4月12日>逢坂山を越えて三条大橋へ
 ついに中山道歩きを完結させる日がやってきました。天気は午前中晴れ、午後は曇りという予報なので心配はなさそうです。大津駅から昨日の到達点である交差点にもどり、京都三条大橋をめざして歩き始めました。
 ほどなく大津事件の碑に到達。当時は国道だった狭い道での出来事であったことがわかります。それにしてもそっけない碑です。これではロシア皇太子(後の最後の皇帝ニコライ)も形無しでは…。旧道が国道161号に突き当たったところが札ノ辻で、そこを左折したあたりが大津宿の中心です。宿場的な雰囲気はほとんど残っておらず、国道沿いの本陣跡も、碑があるのみ。むしろ、通りの真ん中を走る京阪電車(京津線)の方に興味をそそられます。
 本陣碑の手前で、電車は専用軌道へと入っていきます。その先の線路際に蝉丸神社(下社)がありました。境内には蝉丸型とよばれる灯篭(重要文化財)もあるのですが、本殿はちょっと荒れた感じで、訪れる人はそう多くなさそうです。蝉丸の哀れな生涯(史実ははっきりしませんが)を偲ぶにはふさわしい場所かもしれません。
 ここ逢坂の地は、古くからの交通の要衝で、今も各種の交通が集まり、実に興味深いところです。東海道線をまたぐ京阪の煉瓦積跨線橋、旧逢坂山隧道など、鉄道遺産のみどころも多く、わくわくした気分で歩きました。
 旧道の跨線橋と一体化した京阪電車の坑門は、コンクリートながらすばらしい意匠です。そのすぐ前に、逢坂の関の碑(関所の本当の所在地は不明)や清少納言、蝉丸の歌碑があり、旧道沿いの蝉丸神社(上社)入口には、交通遺産として重要な「車石」(荷車の通行用に道路に敷き詰めた石。車輪のあたる場所が摩耗してU字形の溝にになったもの)が保存されています。「車石」はその先の閑栖寺の門前や、民家の前などにもありました。
 道路標識に京都市の文字が現れ、山科エリアに入りました。山科駅前のレストランで腹ごしらえをし、ゴールの三条大橋を目指しました。東海道線のガードをくぐると、右手に天智天皇陵がありました。その前を左に入る狭い道が旧東海道です。まるで路地のようですが、昔の東海道はこの程度の幅しかなかったということでしょう。多くの歴史上の人物が、都を目指して歩いたであろう同じ道を、今まさにたどっているのかと思うと、気分が高揚してきました。東山にむかって登り一方の道が続きますが、ここが最後の峠越えと思うと、疲れは感じません。
 登りきって、三条通りと合流したところが日岡峠で、そこには「車石」の通行を再現したモニュメントがありました。その先の道路擁壁にも車石が再利用されており、どれほど大量の車石が敷かれ、荷物輸送に大きな役割をはたしていたのか理解できます。
 蹴上の浄水場脇を過ぎると、いよいよ京都の市街地です。歩いている観光客の数がどんどん増え、外国人の姿も多くみかけるようになりました。都ホテルを左に見て、三条通をひたすら進みました。右手奥に平安神宮の朱色の大鳥居を望み、新緑の白川を渡ると、三条大橋まであと僅かです。三条京阪駅前を通り過ぎ、15時5分、ついに三条大橋に到達。中山道69次踏破達成の瞬間です。思わず親柱にタッチしてしまいました。京都市内の桜はほとんど散ってしまい、葉桜となっていましたが、鴨川の土手の枝垂れ桜だけは満開で、文字通り花の都へゴールインという形になりました。
 まだ日は高く、宿のチェックインには早すぎるので、比較的遅くまで桜が楽しめるという平安神宮へもどり、桜の園を鑑賞することにしました。建物と樹木そして桜がみごとに調和しており、さすがは京都のお庭です。中山道を踏破して都に着いた感激を、神苑の桜がより一層高めてくれたことは、いうまでもありません。
 感激といえば、宿の夕食もそうでした。デザートまで入れると全10品の京料理フルコース。冷酒で祝杯をあげ、美味しい料理に舌鼓をうち、いつまでも中山道踏破達成の余韻に浸ったポン太とポン子でした。

 これが大津事件の碑です。教科書に載っているような大事件にしては目立たない碑です。
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 かつての大津宿の中心部です。道路の真ん中を京阪京津線が走っています。
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 蝉丸神社(下社)にて。百人一首でポン太が最初に覚えた歌が、蝉丸の「これやこの・・・」でした。
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 東海道線を跨ぐ京阪京津線の煉瓦積み橋梁は実に良い雰囲気です。
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 安養寺(山号は逢坂山)の門前に立つ「逢坂」の碑。この地は昔も今も変わらぬ交通の要衝です。
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 旧逢坂山隧道は、外国人に頼らず、日本人の技術者が主体となってつくりあげた、初の山岳トンネルで、鉄道記念物に指定されています。坑門の扁額は時の太政大臣・三条実美が揮毫したものです。
 
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 峠のサミットに立つ蝉丸神社(上社)です。
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 蝉丸神社境内に保存されている車石です。江戸時代の舗装道路の遺構というわけで、車輪のあたる部分が摩耗してU字形の溝になっています。旧東海道だけでなく、竹田街道や鳥羽街道でも、このようなスタイルの街道整備が行われたということです。
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 山科入口の分岐までやって来ました。右が旧東海道(中山道)で、左は宇治へつながる道です。京都市まであと一息。
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 山科駅前を通過し、天智天皇陵の前から、細い道に入りました。路地のように見えますが、これが旧東海道です。この先は、いよいよ最後の峠越え、日岡峠への坂道となります。
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 この狭さがなんともよい雰囲気を醸し出している日岡峠付近の旧道です。
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 日岡峠の頂上に、車石の時代を再現したモニュメントがありました。こんな感じで荷車を押したのでしょうか。
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 日岡峠を下れば蹴上です。右手は南禅寺で、観光客が増えてきました。
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 白川を渡れば、三条大橋はもうすぐです。
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 ついに三条大橋に到達。やったぁー中山道踏破!
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 満開の枝垂れ桜と、弥次喜多の像が私たちの「快挙」を祝福してくれているようでした。
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 踏破の後、平安神宮の桜を楽しみました。屋根からこぼれるばかりの桜に、入苑する前から期待が高まります。
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 京都のお庭は、なぜかくも美しいのか。計算し尽くされ、寸分の隙もない完璧な美に、驚嘆するしかないポン太でした。むかしの人が都に憧れ、都を目指したのもむべなるかなです。
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 祝賀の宴。いくらなんでも食べ過ぎではないかって?まあ、この日ばかりはご容赦下さい。食べて食べて食べまくったポン太とポン子でした。

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 日本橋から京都三条大橋まで、要した日数はのべ39日、歩行時間(含休憩)の合計は、206時間52分でした。中山道の距離は、135里35丁といわれていますので、キロに換算すると533.6kmとなります。しかし、廃道となっていて迂回を余儀なくされたところや、街道以外に歩かねばならないところ(鉄道の駅から街道への行き来など)も含めると、実際に歩いた距離はそれよりもずっと長くなります。
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アンズが咲いた、ブログは二年目へ

2018/04/09 11:09
 浅間山麓でも季節はものすごいはやさで進んでおり、しばらく留守にしていた森の家にもどってみると、アンズが咲き、レンギョウが咲き、一部の低木では芽吹きも始まっていました。コブシも8分咲きとなり、すっかり春らしい雰囲気です。ホームセンターの園芸コーナーには、野菜の苗がたくさん並ぶようになりました。すでにレタスの植え付けを始めた農家もあります。浅間山麓は心浮き立つ季節を迎えたといっても過言ではないでしょう。
 高校時代の友人(静河さん、ブログ名は「ギャラリー静河」)に、背中を押されてブログを開設してから、今日(4月9日)でちょうど1周年となります。なんとか続けてこられたのは、このブログを見て下さる皆様のおかげです。自分自身の頭の整理や、記録として残すという意味ももちろんありますが、やはり、見て下さる方があればこそ、書く意欲も湧いてくるのです。
 タヌキといえども、いきなり「ドロン」するようなことはせず、二年目も気まぐれに続けていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 アンズが咲きました。去年と比べると10日以上早い開花です。ポン太の森で、最初に咲くピンク系の花ですから、この花が咲くと、森の中が一気に明るくなります。
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 いつもの散歩道のコブシは満開でした。昨年も同じ場所で写真を撮りましたが、日付は4月19日となっており、やはり10日以上はやく季節が進んでいる感じです。
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 レンギョウも咲きました。
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 このまま一気に春から初夏へ、とはいかないのが浅間山麓です。昨日は短時間ながら雪が舞い、開き始めたコブシの花や、芽吹いたばかりのリンゴの木もうっすらと雪化粧しました。行きつ戻りつしながら、それでも例年よりはやく季節は進んでいます。
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新緑の多摩〜片倉城跡公園を歩く

2018/04/07 22:36
 孫タヌキの世話を頼まれ、東京郊外の古巣へ出かけていたポン太ですが、その間の季節の進み具合は、まさにあれよあれよという感じでした。満開だった桜はあっというまに散ってしまい、野山は一気に新緑モードです。吹く風は初夏を思わせるほどで、「おんも、おんも」と叫ぶ孫ならずとも外へ出かけたくなります。
 多摩地域のよいところは、気持ちよく散策できる公園が比較的近いところにたくさんあることです。そのひとつである片倉城跡公園(八王子市)に出かけてみました。片倉城が存在したのは、15世紀後半〜16世紀頃。築城主や築城年代の特定は難しいということですが、空堀や土塁などが残っており、城跡らしい趣があります。カタクリ、ヤマブキソウ、ニリンソウ、スミレなどいろいろな花(野草)を楽しめるのも、この公園の魅力の1つです。
 今年は春の訪れが早かったこともあり、例年なら見頃のはずのカタクリの花はほんの僅かしか残っていませんでしたが、それに取って代わるようにたくさん咲いていたのがヤマブキソウ。大群落を形成し、丘の斜面を埋め尽くさんばかりに咲いている様は見事でした。同公園には桜も多く、主役のソメイヨシノはすっかり葉桜となっていたものの、枝垂れ桜はまだ十分楽しむことができました。
 植物以外のみどころもあります。その1つは入口近くの広場に置かれている彫刻群。迫力満点の作品やコミカルな作品などバラエティーに富んでいて、ちょっとした野外美術館です。もうひとつは、城跡内にある住吉神社の算額です。算額とは数学(和算)の絵馬のことで、数学の問題が解けたことを感謝し、更なる向上を祈願する目的で神社に奉納したもの。全国にはおよそ800枚の算額が現存しているそうです。住吉神社の算額は江戸末期の1851年に奉納されたものですが、現物は劣化が激しいため郷土資料館で保存の措置がとられており、神社には、同じ内容を書き写したものが掲げられています。そこに記された内容を解読し、現代数学に置き換えて解いてみたら、すべて正解であったとか。地域の人々の知的レベルの高さには驚かされますし、江戸時代=鎖国=低級文化では決してなかったと、改めて思うポン太でした。

 片倉城跡のソメイヨシノは、ほぼ葉桜になっていました。
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 僅かに残っていたカタクリの花です。
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 見頃をむかえていたのはヤマブキソウでした。
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 可愛らしいニリンソウも咲いていました。
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 満開の枝垂れ桜の近くでは絵筆をとる人も。
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 片倉城跡公園の彫刻のひとつ「ダンシングオールナイト」。バブルのニオイを感じます。
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 「アテネの戦士」という作品ですが、アニメの主人公のようにも見えます。ポン太の記憶では、「酔っぱらい」と題した面白い像もあったと思うのですが、今回は見つけることができませんでした。
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 城跡内にある住吉神社です。右側の軒下に「算額」が掲げられています。
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 これが算額です。冒頭に関流と書かれていますので、和算の大家、関孝和を師と仰ぐ人々が奉納したものでしょう。
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東京の桜再び

2018/04/02 13:16
 ポン太の森にダンコウバイが咲きました。春一番に花を咲かせる樹木ですから、これが咲いているのを見ると心がウキウキしてきます。コブシも少し咲き始めましたので、例年より季節の進み具合が早いような気がします。とはいえ、桜はまだ固いつぼみのままで、開花の「か」の字もありません。浅間山麓から花便りをお届けするのは、しばらく先のことになりますので、その前に東京の桜を再度とりあげてみたいと思います。
 先月末、ポン子のお供で、国立新美術館の「至上の印象派展」に出かけた際に、都心の桜を眺めてきました。同館は六本木にあります。六本木と聞けば芸能人が豪遊(あるいは悪さ?)するところというイメージで、東京に住んでいたころもほとんど縁がなく、桜の時期に訪れたのは今回が初めてです。六本木界隈に桜があること自体意外な感じがしましたが、美術館の前はもちろん、東京ミッドタウン近くの街路樹も桜で、町中のいたるところで桜を見ることができました。東京は想像以上に桜が多い、みんな桜が好きなんだ、と改めて思ったポン太です。
 東京の桜名所の中でもナンバーワンの呼び声が高い、千鳥ヶ淵にも行ってみました。さすがは徳川将軍家の居城であった江戸城。堀も石垣もスケールが大きく、桜も見栄えがよいこと。ボートからの眺めはより一層すばらしいのではと思ったのですが、最低でも90分待ちと聞いてあきらめたポン太でした。桜より、やはり人が多いのです、東京は。

 国立新美術館へむかう道の街路樹も桜でした。ビル街の桜も風情があります。
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 美術館前の桜も見事に咲いていました。
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 館内の展示ももちろんすばらしかったです。「印象派」の作品は、美術に疎いポン太にも馴染みやすく、十分楽しむことができました。これは、モネの「睡蓮の池 緑の反映」です。ここだけはなぜか写真撮影OK。企画展のPR作戦の一環でしょうか。
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 千鳥ヶ淵の遊歩道は人また人。人気スポットだけに大混雑でした。
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 桜の花にはたくさんの小鳥が集まっていました。桜に吸い寄せられるのは、人も小鳥も同じかな?
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 「お花見」の国際化は益々進んでいるようです。お花見ツアーの入国者数は昨年の6割増しとか。
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 これぞ江戸城の桜。迫力満点です。
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 見に来て良かったと思う絶景でした。ボートからの眺めはどれほどすばらしいか・・・。やっぱり乗りたかったなぁ。
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中山道でブラタヌキ 〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その29

2018/03/31 11:40
<36日目、3月29日>愛知川宿から武佐宿へ
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 前回、愛知川宿の入口まで到達できたことで、いよいよゴールの京都三条大橋が射程内に入ってきました。あと1回(2泊3日)でゴールインできるのはないかという気持ちになったのですが、よくよくシミュレーションしてみると、その先の宿場間の距離が長く、3日間でゴールするにはかなりきつい日程になることが判明。前回、4日間歩き続けたことで足を痛めたこともあり、無理をせずに、間にもう1回1泊2日の行程を挟むことにしました。
 昼過ぎに、愛知川駅に着き、街道歩きを再開。残念ながら午後から天気が崩れてしまい、雨の中の歩行となりました。
 愛知川宿には、それほどのみどころはなく、本陣跡も街角の柱に小さな表示がなされているだけです。明治天皇が休憩したという竹平楼前の石碑(東郷平八郎の書)が一番目立つ存在でした。愛知川宿を出てしばらくすすむと、愛知川の橋梁です。並行する近江鉄道の橋梁は明治のイギリスタイプのトラス桁とこれまた明治のポーナル型プレートガーダで構成されるクラシックなもので、見応えがあります。
 雨の中を歩くのはつらいのですが、それでも、どことなく昔の雰囲気が残る旧道であれば、気分的にはずいぶん楽です。元郵便局だったという五個荘のモダニズム建築物や、茅葺きの伊香型とよばれる民家など、沿道にはそれなりに見どころがあり、助かります。清水鼻という名水の湧く立場跡を過ぎると、一旦、国道に出ますが、東老蘇(おいそ)という場所から先はずっと旧道歩きです。鎌宮とも呼ばれる荘厳な雰囲気の奥石(おいそ)神社の前を通り、石碑だけの西生来一里塚跡を過ぎると、間もなく武佐宿に入りました。中山道沿いに武佐小学校がありましたが、その建物の意匠には驚かされました。街道を意識した瓦屋根やコンクリート製ながら歴史を想起させる白塀はインパクトがあります。武佐小学校の生徒がつくった武佐宿に関する説明板が、主要な建物に設置されていたことにも感動しました。
 武佐宿にはべんがら格子の古い家がかなり残り、脇本陣跡には立派な門が建てられていました。本陣の門と塀も現存するなど、宿場の面影が濃厚です。下見板張りの近代建築である旧近江八幡警察署武佐分署庁舎(登録文化財)もよい雰囲気でしたし、雨の中をようやくたどりついた武佐駅の駅舎もまた、宿場町にふさわしい外観。雨の一日とはいえ、満足度の高い街道歩きでした。今日はここまでとし、電車で近江八幡のビジネスホテルへとむかいました。

愛知川宿の竹平楼前。明治天皇巡幸碑は中山道のいたるところ(そこで休憩したというだけの場所)にあり、時の政府(碑の大半は昭和初期に建てられたもの)が天皇の権威付けに利用したことがよくわかります。
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近江鉄道の愛知川橋梁です。明治期の典型的なイギリスタイプで、明治31年の同鉄道開業以来、原位置で使い続けられているという貴重な橋です。
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五個荘の元郵便局。田舎にしてはたいそう立派で意匠も凝っています。これも近江商人の里ゆえでしょうか。
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伊香型とよばれる茅葺きの民家も健在で、旧街道らしい風情があります。
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中山道沿いに立つ「てんびんの里」の像。これを見れば、ここが近江商人の里であることがすぐにわかります。
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奥石(おいそ)神社前の中山道です。旧街道らしい風情があります。
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武佐小学校の立派な校舎がみえてきました。
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武佐宿の中心部。左側が本陣です。
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旧近江八幡警察署武佐分署庁舎です。
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中山道沿いにある近江鉄道の武佐駅も宿場町らしい佇まいでした。
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<37日目、3月30日>武佐宿から栗東駅まで
 この日は朝から晴れ。近江鉄道の駅で、東京へむかって中山道を歩いているというベルギー人と出会いました。インターネットで調べたという英語版のガイドと地図を持参しており、やる気十分です。外国人で中山道に興味をもち、実際に歩いている人はかなりいるそうで、その人の情報では、すでにアメリカ人2人とフランス人1人が完全踏破を達成しているとか。
 武佐駅を出てしばらくの間、風情のある街並みが続きます。住友二代目の総理事で別子銅山の公害問題に取り組んだ伊庭貞剛翁生誕の地という家もありました。
 「住蓮坊首洗い池」を過ぎると、国道8号に出ました。そこは千僧供(せんぞく)という面白い地名の場所です。六枚橋交差点から旧道に入り、しばらく歩いて国道へ出、馬淵町から再び旧道へと入ると、その先は人通りの少ないのどかな道でした。沿道の桜もちらほら咲き始めており、気分よく歩くことができます。
 日野川の堤防に突き当たったところが、横関の舟橋跡で、広重描く武佐宿はこの場所ということです。土手の上から眺めた風景は、往時をしのばせる雰囲気でした。ただし、昔のようにここで川を渡ることはできないので、堤防上を歩いて国道8号までもどり、国道の橋を渡りました。
 その先は、三日月湖のように短区間だけ旧道が残っているところはあるものの、大半は、国道を歩かざるをえません。鏡というところは、源義経ゆかりの地で、義経が宿泊したという白木屋の跡や、烏帽子架けの松、元服池などがありました。それらはすべて国道沿いなので、頻繁に行き交う車の騒音で、歴史のロマンに浸りきれないのが難点です。沿道には「源義経元服の地」ののぼりがいくつもはためいていました。元服池の前には道の駅があったので、そこで早目の昼食をとりました。
 義経元服池の数百メートル先には、平家終焉の地があります。この地で平宗盛父子が打ち首となり、平家は滅亡したのですが、そこは、産廃処理施設の脇を入った荒れた雰囲気のところでした。宗盛父子があまりにも哀れであったことから、近くの池では蛙も鳴かなくなり、「蛙鳴かずの池」と呼ばれているそうです。しかし、周辺の荒れた現状をみると、今もなお哀れな姿をさらしているようで、気の毒になりました。
 鎌倉時代より前につくられたという灌漑池である西池の篠原堤の下を過ぎ、旧道に入りました。家棟川というかつての天井川を渡り、しばらく進むと、新幹線が接近してきました。そこには大岩山古墳群があり、桜生史跡公園として整備されています。野洲小学校脇を通り、少し進んだところには珍しい茅葺の寺、唯心寺あり、さらに進むと宇野勝酒造(宇野元首相の実家)の趣のある建物があらわれるなど、このあたりは、旧道歩きの楽しさが十分味わえるところです。
 車の通行量が多く、落ち着かない雰囲気の野洲川の橋梁を渡り、その先の吉身というところから守山宿への旧道に入ると雰囲気が一変。都市部とは思えないような静かで落ち着きのある街並みが続きます。随所に説明板があり、宿場としての雰囲気を残そうという意思が感じられました。守山宿には桝形が残り、古い道標もあります。本陣は失われていて碑のみですが、そこが江戸へむかう皇女和宮の最初の宿泊地であった由。土橋という小さな橋を渡ったところで守山宿は終わります。旧道をどんどん進んでいくと、綣(へそ)という面白い地名が現れました。今回の中山道歩きはここまでとし、綣交差点から栗東駅へとむかい、帰途につきました。次回はいよいよ三条大橋にゴールインする1泊2日の行程となります。

広重の描いた「武佐」の説明板が、日野川の堤防上にありました。
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べんがら色の板塀が美しい、近江路の中山道です。
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義経が宿泊したという、「鏡の宿」の白木屋があったのはこのあたりということです。
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鏡神社の参道にある義経烏帽子かけの松です。この少し先に、義経元服の池もありました。
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荒れた雰囲気の「平家終焉の地」。平宗盛父子はここで打ち首となりました。中山道を歩くと、歴史の「哀れ」まで身近に感じられます。

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雰囲気のよい茅葺の寺がありました。浄土宗唯心寺です。
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野洲川の国道橋を渡り、守山宿へとむかいます。
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修復された守山宿の町屋「うの家」です。
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守山宿本陣跡にて。建物はなく碑のみです。
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守山宿の枡形です。
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守山銀座と交差する中山道(真ん中の狭い道)です。
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栗東市の「綣(へそ)」交差点。ここを左に入ったところに東海道線の栗東駅があります。
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花見?ヒト見?

2018/03/26 09:44
 先週末、用事があって東京へでかけました。都心では桜が8分咲き、ところによっては満開となっており、まだ少し雪が残る浅間山麓と比べると別世界のようでした。せっかくなので、短時間ではありましたが、桜の名所2箇所に立ち寄ってみました。
 1つは定番の上野公園です。予想はしていたものの大変な人出で、改札口を出てから公園までたどり着くのも一苦労。洪水のような人の流れに身をゆだねるには相当な「覚悟」が必要でした。その人の流れの両脇では、どうやってその場所を確保したのだろうかと、その苦労話を聞くだけで1日が終わってしまいそうな、花見の宴が盛り上がっていました。きれいな着物を着て歩いている人もいて、混雑はいたしかたないとしても、それなりに風流だなと思ったのですが、近づいてみると全員が外国人。花見客全体をみても外国人の比率はかなり高く、まさに日本の花見から世界の花見へシフトしているのだということを実感しました。
 もう一箇所訪れたのは、都電荒川線の面影橋電停界隈です。ビルの谷間を流れる神田川縁の桜は、水面を埋め尽くすほどのボリュームがあり、都電が桜を背景に高戸橋を渡っていくところも風情がありました。なにより良かったのは人が少なかったことです。
 昔は桜が咲いたと聞いても、それほどの興味を感じることはなかったのですが、年のせいなのか、年々桜への執着心が強くなってきたような気がします。浅間山麓で桜を楽しむことができるのは、例年ですとまだ1ヶ月も先ですから、それまでの間、どこへ花見に行こうかと頭を悩ませるポン太でした。

 上野公園の桜はほぼ満開でした。この中へ入っていくには「覚悟」が必要です。和服の女性は全員外国人でした。
 
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 ここで花見の宴をするには、かなりの努力が必要でしょうね。
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 色の濃い桜もあり、見応えがあります。
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 こちらは神田川の桜です。水面が見えないほどの花のボリュームに圧倒されました。
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 本物の桜と桜色の都電のコラボ。絶景かな!
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 学習院下付近を行く都電です。桜はどう切り取っても絵になります。
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雨氷未満

2018/03/22 17:51
 このところの寒暖の差の大きさにはちょっとついて行けない感じがします。
 つい先日は5月のゴールデンウィークごろの陽気で、浅間の雪も僅かに残るだけという状態でした。西日本の各地や東京からは桜の便りが届き、ここ浅間山麓でも、いつもの散歩道の傍らに可愛らしいフキノトウが顔を出しました。ポン太の庭では、ビオラが咲き始めるなど、すっかり春の気分になっていました。
 ところが、一昨日は一転して冷たい雨。気温が0度前後を上下していましたので、雨氷が見られるかもしれないと期待したのですが、水滴が僅かに凍っただけという「雨氷未満」に終わりました。昨日は春分の日というのに朝から雪が降り続き、ポン太の森は冬景色に逆戻りです。
 季節は行ったり来たりといった感じですが、今週末以降は、本格的な暖かさがやってくるということなので、雪が消えたら、そろそろ家庭菜園の土起こしかな、と思いはじめたポン太です。

 ぽかぽか陽気で、浅間の雪もここまで少なくなっていました。
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 フキノトウも顔をだして春の到来を告げてくれたのですが・・・。
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 雨の後、少し気温が下がり、水滴が凍る状態にはなったのですが、枝全体が氷でコーティングされる「雨氷」には至りませんでした。
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 「春分の日」は冬景色に逆戻りしてしまいました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その28

2018/03/19 23:02
<34日目、3月18日>柏原宿から鳥井本宿へ画像
 昨日は電車の時間の都合で駅に直行したため、柏原宿を歩くのは今日が初めてです。伊吹山の麓の柏原宿といえば、昔から名物として有名なのが、お灸用の艾(もぐさ)。百人一首の「かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」の「さしも草」がそれです。かつては艾を売る店がたくさんあったそうですが、現在は、伊吹堂1軒のみ。歴史を感じさせる重厚な建物で、その周辺の街並みも宿場町らしい風情があり、見応えがありました。
 柏原宿を出て松楓並木を過ぎると、旧道の分岐があり、道標もありました。ところが、道標の示す旧道を進むと、やがて金網の柵があらわれ、通行不能に。やむなく舗装された「新道」を進んだのですが、旧道が残っているのであれば、街道歩きを楽しみにやって来る人のためにも、通行可能にするべきではないかと少々腹が立ちました。
 名神高速道路に並行して進むと、梓川の松並木があらわれました。残っているのはわずかな本数ですが、それでも旧街道の雰囲気は感じられます。12時ちょうどに醒ヶ井宿に到着。地名の由来となった居醒(いさめ)の清水に隣接した地蔵堂境内にベンチがあったので、そこで昼食休憩をとりました。こんこんと湧き出る水が、清流となって宿場の中を貫流し、涼しげな風景をつくりだしています。水の中には梅花藻が青々と育っていて、大変美しい眺めです。桜の並木もあるので、花見時には中山道でも極めつけの美しい宿場町となりそうです。
 醒ヶ井宿を出て、立場茶屋のあった樋口を過ぎたところで、東海道線から離れ、山間の小さな宿場である番場宿へとむかいました。名神高速道路が並行してはいますが、少し距離があるため、静かな街道歩きを楽しむことができます。桜楓並木の道を進むと間もなく番場宿です。問屋場跡があり、大きな石に番場宿と記した小公園もあります。その先には、彦根へ向かう道との分岐の道標が立っていました。
 番場の宿から小摺針峠へ、道はゆるやかに上っていきます。左手に名神高速道路が並行していることを除けば、昔と変わらないのどかな風景です。振り返ると、低い丘の向こうに伊吹山がひときわ大きく見えます。京から江戸へむかう旅人にとっては、いよいよこの先関ヶ原を越えて遠い東国へむかうという、覚悟を決める場所であったのかもしれません。
 小摺針峠を越えると、今度は摺針峠が待っています。峠としては小さなものですが、その頂上からは、琵琶湖や近江平野が一望できます。かつては望湖亭という大きな茶屋があり、中山道一の景観を誇ったということです。鳥居本へ下る途中には、人一人がやっと通れるような旧道が残されており、そこを下りました。最後は産廃処理場脇に出るというあまり好ましくないロケーションですが、まぎれもなくこれが旧道です。北国街道との分岐点を示す道標を過ぎると鳥居本宿。赤玉という薬が名物で、今も神教丸本舗が営業中です。実に立派な建物で驚きました。ほかには合羽を売る店が多かったということで、営業はしていないものの合羽の看板を掲げた家がありました。宿場に隣接する近江鉄道鳥居本駅に到着し、本日の行程は終了です。鳥井本駅駅舎は開業以来使われている腰折れ屋根のモダンなもので、鉄道遺産としても貴重な駅舎です。
 天気予報では、天気は下り坂で夕方には雨になるということでしたが、幸い雨に降られることはなく、計画通り歩みを進めることができました。今宵の宿は、中山道からは少し離れた琵琶湖畔。湖岸の絶景と温泉、近江の郷土料理、そして美味しい地酒に癒され、明日への活力を養うことができました。

柏原宿のすばらしい街並みと可愛い行列
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柏原宿に今も残る艾(もぐさ)屋の伊吹堂
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旧道は右という標識に従って行くとなんと通行止めになっていました。それはないよ!
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国道21号沿いの中山道です。
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水の流れが美しい醒ヶ井(さめがい)宿
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番場(ばんば)宿に入りました。
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番場宿を抜けたところで、ここが長谷川伸の名作『瞼の母』の主人公、(番場の)忠太郎の出身地であることを思い出し、ちょっとポーズを決めてみました。「たった一言、忠太郎と呼んでくだせえ、おっかさん」

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かつては琵琶湖を見下ろす絶景が広がっていたという摺針峠の頂上です。
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「赤玉」で有名な鳥居本宿に着きました。右側が神教丸本舗の建物です。
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昭和6年に建築された近江鉄道鳥居本駅の駅舎です。よく見るとなかなかお洒落です。
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<35日目、3月19日>鳥居本から近江商人の里へ

 昨夜来の雨が降り続いており、最悪の天気です。朝食バイキングをたっぷり食べ、覚悟を決めて出発しました。
 鳥居本駅を10時30分に出発。雨の中山道を粛々と進みました。まわりには水田が広がっており、豊かな近江平野のまっただ中を行く感じですが、雨に煙って眺望はよくありません。中山道は新幹線と並行しており、ひっきりなしに、高速列車が駆け抜けていきます。 小野小町塚の前を通り、昼前には芹川を渡りました。雨の日の方が、歩くことに集中するせいか歩行速度ははやいようです。近江鉄道の中仙道踏切(なぜかここも仙の字を使用)を渡ると間もなく高宮宿に入りました。雨の中で休める場所といえば、駅の待合室ぐらいしかないので、高宮駅に寄り、米原駅で購入した「湖北のおはなし」というおしゃれな弁当で昼食をとりました。
 高宮宿には、「うだつ」の上がった古い家が並び、風情があります。麻の布(高宮布)を扱っていたという「布惣」の家屋があり、円照寺という大きな寺には家康の腰掛石なるものが存在していましたた。高宮宿を出てすぐに渡る犬上川の橋は無賃橋といい、江戸時代の古い道標も残っています。
 葛籠(つづら)の松並木を過ぎ、30分ほど歩いたところが、伊藤忠・丸紅の創業者伊藤忠兵衛をはじめ、多くの実業家を輩出し近江商人の里として有名な豊郷です。「先人を偲ぶ館」という施設があったので、トイレ休憩も兼ねて見学しました。ほとんど訪れる人はいないようで、私たちが入ってから照明がつき、番をしていたおじさんは、「今日は館長がいないのでこれを見てください」と言いながらパンフレットを渡してくれまいた。その後は、テレビのドラマを夢中でみていて、こちらにはおかまいなし。道を急がねばならない当方としては、時間の節約にもなり、かえってよかったような気がしました。
 その施設のすぐ近くにある豊郷小学校の旧校舎は、当地出身の丸紅専務古川鉄治郎の寄付で建設されたものですが、とても小学校とは思えない大学並の立派な建物でおどろかされます。中山道の沿道には、丸紅関係者がつくったという「くれない園」があり、その中には伊藤忠兵衛の像を刻んだ大きな石碑が鎮座していました。その園の先には伊藤長兵衛生家の碑や、伊藤忠兵衛旧宅があり、さらに進んだところには、「あけぼの」缶詰につながる廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌の又十屋敷(豊会館)がありました。まさしく近江商人の里と称するにふさわしいところです。
 雨の中をなんとか歩き通して、愛知川(えちがわ)宿に到達しました。今回はここまでとし、近江鉄道愛知川駅から電車で米原へもどり、帰途につきました。

新幹線と並行する旧中山道です。昔の旅人には想像もできない光景でしょう。
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旧道沿いには、べんがら色の格子がついた家が多く、近江路らしい雰囲気が漂います。
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雨の高宮宿。こんな天気でなければ、間違いなく見応えのある街並みです。
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高宮布(麻布)を商っていた「布惣」の建物です。
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犬上川に架かる橋は、「無賃橋」とよばれ、江戸時代の道標も残っています。
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 とても小学校とは思えない豊郷小学校の旧校舎です。さすがは近江商人。故郷への錦の飾り方がすごいですね。
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中山道に面した「くれない園」。丸紅関係者がつくった公園です。近江商人の里らしいものが続々とあらわれます。
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雨の中を一日歩き続けて、なんとか愛知川(えちがわ)宿の入口まで到達しました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その27

2018/03/17 10:05
★いよいよ完結編スタート

<32日目、3月16日>美江寺駅から赤坂宿へ画像
 もう雪の心配も無さそうなので、3ヶ月ぶりに中山道歩きを再開しました。今回は3泊4日の予定で、関ヶ原を越えて近江をめざします。まずは前回の到達点である樽見鉄道の美江寺駅へ。13時49分に同駅に到着し、早速、目の前の中山道踏切から街道歩きをスタートしました。
 美江寺は、カギ型をした宿場で、規模はそれほど大きくありません。明治の濃尾大地震で1軒を除き全壊してしまったということで、古い建物はほとんど残っておらず、本陣も碑のみです。宿場を出ると、のどかな田園風景が広がり、犀川という小さな川の周辺には、特産の柿(富有柿)がたくさん植えられていました。柿が大好きなポン太にとっては、秋はきっとよだれの出るような景観になることでしょう。ちなみに、広重の「美江寺宿」はこのあたりで描かれたものだそうです。
 水田の中の一本道を進むと揖斐川の堤防が見えてきました。すでに菜の花が咲いており、季節が確実に春になったことを感じさせます。鷺田橋を渡ったところが呂久というかつての渡し場の跡。皇女和宮を記念した小簾(おず)紅園がありました。御座船で揖斐川を渡った際に、対岸の美しく紅葉しているもみじが目にとまり、その一枝を所望し、「おちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」という歌を詠んだといいます。15歳にして和宮は歌の達人ですね。
 平野井川という川を渡ったところで、道は輪中堤防の上へとむかいます。堤防上からみると、家屋の屋根がはるか下にあり、堤防で守られていなければ生活できない低地であることがよくわかります。 地形図によれば、集落のあるあたりは海抜8mほど、堤防上が15mです。堤防下の日当りのよい斜面には、気の早い桜が咲いており、今季初の花見となりました。
 のどかな雰囲気の旧道を歩くことおよそ2時間半で、養老鉄道の東赤坂駅に着きました。ここまでくれば赤坂宿はもうすぐです。前方には石灰山として有名な金生山が見えます。小さな水路を渡ると、きれいに修景された赤坂港跡があり、交通の要衝として繁栄した時代をしのばせます。金生山へ通じる西濃鉄道の線路を渡ったあたりが宿場の中心で、本陣跡は公園になっていました。本日の行程はここまでとし、JRの美濃赤坂駅へむかう脇道に入りましたが、その道沿いの建物の板壁のすばらしいこと。
 美濃赤坂駅は大正8年開業時の駅舎が健在で、ほとんど時が止まったような世界です。石灰石の搬出でにぎわった広い構内には、一台の貨車もおらず、線路だけのわびしい風景が広がっていました。

樽見鉄道の中山道踏切から、中山道歩きを再開しました。
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美江寺宿の中心部です。江戸時代からの建物は残っていませんが、旧街道らしい街並みです。
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呂久の小簾(おず)紅園前の中山道です。和宮はこの道を通って江戸へむかいました。
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輪中堤防下の中山道の碑です。「輪中」という独特の地形を旧中山道からも眺めることができました。
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交通の要衝だった赤坂港の跡。
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広重が描いた赤坂宿はこのあたりのようです。
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赤坂宿から美濃赤坂駅へ至る道沿いの風景です。板壁がみごとでした。
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黄昏の終着駅美濃赤坂。レトロな駅舎が健在です。
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<33日目、3月17日>関ヶ原を越え柏原宿へ
 今日はこの4日間の中山道歩きの中で、最も長い距離を歩く日です。大垣の宿から電車で美濃赤坂へとむかい、駅前を8時45分にスタートし中山道へ。東海道線の新垂井回りの別線下をくぐり抜けると、青墓という集落に入りました。「平清盛」のドラマにも出てきた白拍子(傀儡=くぐつ)の里として知られるところです。今は歌舞音曲どころか歩いている人もみかけないような静かな集落でした。このあたりが、かつては美濃の国の中心地だったということで、そのすぐ先に国分寺の跡があります。国分寺跡へ通じる道の入口近くに、当地の領主であった稲葉石見守の碑がありました。あまり知られてはいませんが、江戸城内で大老堀田正俊を刺殺した人物です。浅野内匠頭と異なり、周到に準備して本懐を遂げたということで、地元では評価が高いそうです。
 赤坂から2時間ほどで垂井宿の入口、大垣への道を分ける垂井追分に到着。暴れ川として知られていたという相川を渡れば垂井宿です。相川の河川敷には花がいっぱい植えられていて、背後の雪をいただく伊吹山の姿とあいまって、すばらしい眺めを楽しむことができました。土手には桜の並木もあるので、あと2週間もすれば、絶景となることは間違いありません。
 垂井宿にも桝形が残っていました。そこには脇本陣格だったという亀丸屋という旅館があり、今も営業を続けています。宿場の道沿いには旅籠屋や油屋だったという小林家住宅などの古い建物が残り、宿場町の名残がかなり感じられる宿場です。宿場の出口付近に、「あんま」と大書した、今ではめずらしい看板が出ていました。

白拍子の里として知られていた青墓集落の入口です。
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稲葉石見守の碑。このあたりがかつての美濃の中心でした。
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垂井宿で今も営業している脇本陣格の旅館亀丸屋。
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今ではちょっとめずらしい「あんま」の看板がありました
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 垂井宿を出て東海道線の踏切を渡ったところが垂井の一里塚です。そこには関ヶ原合戦の浅井幸長の陣跡という説明板があり、いよいよ関ヶ原合戦の舞台に足を踏み入れたことを実感しました。東海道線と国道21号との間にある旧中山道を進んで行くと、間もなく野上という集落に入りました。その集落の家並みは豪邸だらけといっても過言ではないほど立派なもので驚きました。しかし、かなりの家はすでに人が住んでいないようなので、この先どうなってしまうのか心配です。野上の集落のはずれには立派な松並木があり、そこからは並行する東海道線が眺められます。間もなく関ヶ原合戦の際の家康最初の陣地とされる桃配山の下に着きました。昼食場所を探したのですが、食堂の類はまったくありません。食べ物を売る店さえなく、腹ぺこのまま関ヶ原宿をめざしました。街道歩きには食料と飲み物が必携ということはわかっていたのですが、関ヶ原のような歴史的に有名な場所ならなんとかなるのではと甘く考えていたのが間違いでした。
 昼すぎに関ヶ原宿に着きました。宿場の中心部の中山道は、国道21号として使われているため、車が頻繁に行き交い、殺風景な宿場町となり果てていました。クマ肉、シシ肉入荷を知らせる看板を出している店はありましたが、営業している飲食店は見当たらず、地元の人に教えてもらった中山道から少し南へ入ったところにあるレストランで、ようやく昼食にありつくことができました。
 昼食後、いったん宿場の中心部にもどり、わずかに残る脇本陣門を確認。宿場を出たところに、西軍将兵の首を埋めたという「西首塚」があり、その参道には石田三成はじめ西軍の諸大名の旗が掲げられていました。ちょどその北側あたりが、関ヶ原合戦の開戦地で、そこはまた、壬申の乱の際も合戦場となったところということでした。国道21号と分かれて旧道に入ったところには、大海人皇子の兜掛石・沓脱石などというものが存在していました。その少し先が不破の関跡。壬申の乱の際には、その下の藤古川を挟んで両軍が対峙したそうです。国道21号を横切って進むと、西軍で最も勇敢に戦ったとされる大谷吉継の陣跡がありました。そのあたりは山中という地名ですが、その名のとおり、山に挟まれた狭い場所で、東海道線、旧中山道、新幹線、国道21号が全部束のように集まり、少し南側には名神高速道路も走っています。戦略的な要地であることは、素人目にもわかります。沿道には、この地で殺害されたという常盤御前の墓もありました。黒血川という小さな川を渡りましたが、壬申の乱の初戦が行われたところで、血で岩が黒く染まったのが地名の由来ということです。
 今須峠という小さなサミットを越え、今須宿へと下りました。今須宿は、宿場町の雰囲気は感じられますが、本陣、脇本陣は残っておらず、いずれも碑のみ。とりたてて見るものはなく、次の柏原宿へと歩を進めました。東海道線を渡りその北側を線路に並行して少し進んだところが、岐阜と滋賀の県境です。美濃近江両国の国境では、宿舎の壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので、そこは「寝物語の里」とよばれています。なんとも面白いネーミングです。ついに、美濃(岐阜県)を横断し、京に隣接する近江の国までやってきたのかと思うと嬉しさがこみ上げてきました。
 楓並木の道を進み、東海道線を渡ると間もなく柏原宿です。今日はここまでとし、柏原駅へとむかいました。宿にもどってゆっくり休み、明日はまたここからスタートです。

東海道線を横切り、いよいよ関ヶ原に足を踏み入れました。
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立派な家が多い野上の集落です。かつては、この道が名神高速道路と新幹線を足した以上の交通路だったわけですから、沿道の繁栄、富の蓄積は相当なものだったのでしょう。
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今も残る野上の松並木です。
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関ヶ原宿の現状です。中山道がそのまま国道になってしまったため、旧街道らしさという点ではいまひとつです。
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西軍将兵の首を埋めたという「西首塚」です。
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「不破の関」前の中山道です。この関所があった故に「関ヶ原」という地名が生まれ、ここから西が「関西」となるわけです。
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山中付近の旧中山道と東海道線。このあたりは、いくつもの新旧交通路が束のようになって走っています。
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美濃と近江の国境です。「寝物語の里」とよばれています。ついに岐阜県を横断し滋賀県に入りました。
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柏原駅と伊吹山です。新幹線からも良く見える伊吹山ですが、日本橋から歩いてその麓に到達することができたとは・・・。京の都まであとひとがんばりという気になりました。
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※ この道中記は、実際に中山道を歩いた時の様子を、回想して記しているものです。臨場感を高めるために、歩いた時期に合わせてアップしております。










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レトロな遊園地

2018/03/14 11:04
 ポン太が子供のころは、遊園地は娯楽の殿堂でしたから、休日にそこへ出かけると聞いただけで、もう心がウキウキしたものです。近年は、大規模なテーマパークに押されて、昔ながらの遊園地は衰退の一途といってよいでしょう。首都圏でも、かつては定番の施設だった電鉄系遊園地が次々と閉園してしまいました。
 そんな中、小規模ながら浅間山麓でがんばっている遊園地があります。懐古園に隣接した小諸市営の児童遊園地です。藤村の「小諸なる古城のほとり・・・」の詩で知られる懐古園の方は、昔ほどではないにせよ、観光客で賑わっていますが、隣地でありながら観光客の目を遠ざけるかのように存在しているのがこの遊園地。高冷地のため、冬場はお休みしていましたが、3月10日に営業を再開しました。
 先週末からポン太の家に孫がやってきていたので、連れて出かけました。入園料は無料で乗り物に乗る時だけ料金が必要です。乗り物料金は一回200円と廉価ですが、イベント開催日は500円ですべての乗り物が乗り放題になるそうですから、そんな日に出かければ、すこぶるお得です。遊具は、メリーゴーランド、豆汽車、コーヒーカップといった昔ながらのものが中心。以前は、デパートの屋上にもこんな感じの「遊園地」があったなぁ、と懐かしさを覚えながら孫を遊ばせたポン太でした。

懐古園入口にひっそりと立つ遊園地の看板
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まずは定番の豆汽車です。バッテリー駆動であるため、線路のほかに集電用の第三軌条のようなものはありません。平日は来場者が少なく、どの乗り物も貸切状態です。
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これまた定番のメリーゴーランドですが、予想していたよりも回転スピードが速いので驚きました。
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「ジェットスター」という乗り物ですが、自分で操作して上下させることができるので、子供たちの満足度は高いようです。
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自分でペダルを踏んで動かす「人力スカイレール」。これもどこかで見たような。
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これはもうレトロ中のレトロかもしれません。
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 <余談>古い写真を整理しておりましたら、見慣れない遊園地の写真が出てきました。撮影年は1962年か1963年だと思われるのですが、撮影地に関するメモがなく、どこで撮影されたものか、なかなか思いだせませんでした。しかし、巨大な人工芝(タワシ状)スキー場が写っていましたので、その当時、首都圏でそのような施設があったところはないか調べてみましたら、「船橋ヘルスセンター」であることがわかりました。「長生きしたけりゃちょっとおいで」のキャッチフレーズで一世を風靡したあの総合レジャー施設です。あまりに有名なので、一度は行ってみようかと家族で出かけたことを思い出しました。遊園地よりも、縁日のような雰囲気の屋内商店街の方が印象深く、それは良く覚えていたのですが、遊園地の様子は記憶から消えていました。「船橋ヘルスセンター」の営業期間は1955年〜1977年ですから、最盛期といってもよい時代に訪れたことになります。当時はまだ高かったカラーフィルムで撮影しており、貴重な記録といえるかもしれません。
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いつもうっとりする山の夕景

2018/03/11 12:02
 四方を山に囲まれた信州では、山を見ないで過ごす日はありません。山の景色ばかりで飽きてしまうのではないかと思われるかもしれませんが、同じ山でも、季節、天候、時間などによりその表情は変化しますから、見飽きるなどということはないのです。
 浅間山麓に住むポン太にとって、一番身近な山はもちろん浅間山。スーパーで買い物をして、外に出た時に、目に飛び込んでくる浅間山の大きさと美しさに感動し、「今日の浅間はいいね」などと口走ることがしばしばです。噴煙の上がり具合も気になり、「今日はおとなしいね」とか「ちょっと活性化しているかな」などといった会話を交わすこともあります。
 一日のうちで、山の表情の変化が一番大きいのは夕暮れ時です。夕陽に赤く染まったり、茜色の空にシルエットになって浮かぶ山の姿は、神々しいまでに美しく、思わず見とれてしまいます。浅間山麓からみて西の方角にあたるのが美ヶ原から北アルプスにかけての山々です。晩秋から春先にかけて、気温が低く空気が澄んだ日には、それらの山々がくっきりと見え、夕暮れ時のシルエットになった姿は息を飲むような美しさです。
 ポン太が見とれてしまった山々の夕景をいくつかご紹介しましょう。

まずは夕陽を浴びた浅間山から。
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薄暮の北アルプス。左側が穂高連峰、右端の突起が槍ヶ岳です。
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蓼科山の近くに日が沈むと、円錐形の山容が際立ちます。
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このような淡い感じの夕景もまた素敵です。
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北アルプス北部(後立山連峰)の鹿島槍ヶ岳(左側の双耳峰)と五竜岳(右)です。上空がグラデーションになっていたので、おもわずカメラをむけました。
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同じ北アルプスでも見る角度を少し変えると違う印象になります。手前のヘッドライトは、しなの鉄道の電車です。
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信濃追分駅物語〜浅間山麓の駅物語<その2>

2018/03/08 08:31
 浅間山麓の駅の中で、今回は信濃追分駅をとりあげてみたいと思います。中山道と北国街道の分岐点として栄えた追分宿ですが、明治21(1888)年に鉄道(当初の名称は直江津線、のちの信越本線)が開通した際に、駅が設けられることはありませんでした。
 寒村と化したこの地を救ったのは、避暑客の存在です。軽井沢の隣接地でありながら、湿気が少なくカラッとして爽やか、ハイソなニオイが鼻につく軽井沢とは異なる牧歌的な雰囲気が学者や文化人の好みに合い、この地で夏を過ごす人が増えていったのです。堀辰雄を始めとして、立原道造、福永武彦、加藤周一、佐多稲子、加賀乙彦など追分を愛した文化人が多いことはよく知られているとおりです。追分に最初に別荘を建てたのは、平井晴二郎鉄道院副総裁(当時)といわれており、明治41(1908)年のことでした 避暑客の行き来に供するため、明治42(1909)年6月25日追分仮停車場が設けられました。列車が停車するのは夏季のみ。その場所は、現在地より300mほど御代田寄りの切り通しの下で、片面ホーム1つだけの簡素なものでした。画像
 大正12(1923)年10月1日、ようやく本格的な駅が開業しましたが、それが現在の信濃追分駅です。この駅を一躍有名にしたのは、昭和26(1951)年の新東宝映画『高原の駅よさようなら』です。実際にこの映画を見たわけではない(年齢的に無理です)ので、本当のストーリーはよく知らないのですが、映画の宣伝文句に「再会を誓って別れた白衣の天使(香川京子)と若き植物学者(水島道太郎)の恋・・・」とあり、別れのシーンがこの映画のハイライトだったのではないかと想像されます。その場所が信濃追分駅というわけです。同名の歌がヒットし、今もユーチューブでその歌を聴くことできますが、興味深いのは、森昌子さんがカバーしている歌のバックに、信濃追分駅でロケした映画の映像が流れることです。D50形蒸気機関車牽引の上り列車が到着し、植物学者を乗せて発車して行きます。それに間一髪間に合って、窓越しに別れを惜しむヒロイン。なかなか見応えのある場面です。この映像により、70年ほど前の信濃追分駅はこのようであったのかと認識することができるのです。駅名板の次駅の表示が「くつかけ」となっていますが、同駅は映画の封切りから5年後の昭和31年に中軽井沢と改称されているので、それもまた貴重なショットといえましょう。。画像
 車両がSLから電車へ、砂利道だった駅前の道路は舗装道路へといった変化はあるものの、全体的な雰囲気という点では、信濃追分駅とその周辺は、今も70年前とあまり変わっていないように思います。こういう駅の存在に、おもわず頬がゆるむポン太でした。

 現在の信濃追分駅の駅舎です。この駅舎の建築年は不明ですが、もしかすると大正12年の開業時以来のものかもしれません。
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 ポン太が信濃追分駅で撮影した最も古い写真です。すでに信越線は電化されており、EF62形電気機関車が牽引する貨物列車がホームに停車しています。右の方に引き込み線(現存していません)のようなものが見えますが、農産物もしくは木材の積み込み用だったのでしょうか。<1966年12月28日撮影>
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 上の写真と同じ場所で撮影した現在の様子です。しなの鉄道の電車は2〜3両編成ですから、信越本線だった時代の名残をとどめるホームがやたらに長く見えます。
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 「高原の駅よさようなら」にもこれと同じアングルで撮影された場面が登場します。上りホームに入ってきた電車を蒸気機関車に、右側の坂道を砂利道に置き換えれば、ほとんど同じ風景となります。その坂道をヒロインを乗せた馬が勢いよく駆け下りてきます。
 
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 信濃追分駅の少し御代田寄りに、雄大な浅間山を間近に望むすばらしい景観の場所があります。その景観は今も変わらず、しなの鉄道の乗客の目を楽しませています。電車を撮影するのにも絶好の場所です。<2016年1月26日撮影>
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 信濃追分の大カーブは、かつては蒸気機関車撮影の名所として知られていたようです。残念ながら、その時代にポン太はこの地を訪れることができませんでした。しかし、その後1回だけ、蒸気機関車撮影のチャンスが訪れました。新幹線の開業に伴い在来線(信越線)がJRから分離されるのを前に、名残りを惜しむイベントとして、D51498牽引の「浅間山」号が運転されたのです。これを逃してはなるものかと、撮影にでかけ、見事ものにした(と自分で悦に入っている)のがこの1枚です。25‰という急勾配が連続する区間ですから、蒸気の吐き出す煙は迫力満点でした。<1996年11月3日撮影>
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霧氷と雨氷

2018/03/04 16:29
 昨日の朝、国道に設置されている温度計に、0度という表示がでていました。冬の間は、ずっと氷点下の数字が続いていましたので、朝の通勤時間帯にここまで気温が上がるのは久しぶりです。浅間山麓にも確実に春がやってきていることを実感しました。
 冬から春へ移り変わるこの時期に、もしかすると見られるかもしれないと期待しているのが雨氷(うひょう)です。雨氷というのは、雨水が木の枝にたっぷりついた状態で気温が下がり、それが凍って木の枝が氷でコーティングされたような姿になったものです。アイスキャンディーが森を埋め尽くしているような、なんとも不思議な景観ですが、めったに見ることはできず、実はポン太も1度しか見たことがありません。
 空気中の水蒸気が氷の結晶となって樹木に付着してできる霧氷であれば、厳冬期に何度か目にすることはできます。しかし、雨氷の場合は、降るのが雪ではなく雨であり、かつ気温が氷点下に下がるという微妙な条件下でしかあらわれませんから、大変貴重なわけです。果たして今年は見ることができるのか。次に寒さがもどった際が、ラストチャンスかもしれません。もし見られれば、ウヒョウテンいや有頂天になりそうなポン太です。

 これは霧氷です。
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 こちらが雨氷です。
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 ポン太の森が雨氷の森になった8年前の風景です。
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 いつもの平尾山からみた浅間山です。このところの暖かさで、雪がだいぶ少なくなりました。
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 北アルプス(穂高連峰)も真冬のようにすっきりとは見えず、霞んでいました。
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お雛さまづくしの北国街道

2018/03/01 09:44
 まもなくやってくる桃の節句。ポン太の家でも、娘たちが子供のころは、お雛さまを飾り、「あかりをつけましょ ぼんぼりに〜」などと歌っていたものですが、このところすっかりご無沙汰。お雛さまは箱の中に20年間蟄居したままです。同様のご家庭も多いのではないでしょうか。最近は、家庭で飾られなくなったお雛さまを、町おこしに活用しようというところが増えてきているように思われます。小諸でもそのようなイベントをやっていると聞き、出かけてみました。イベントのタイトルは「北国街道小諸宿のお人形さんめぐり」(2/17〜3/4開催)です。
 小諸は城下町ですが、北国街道の宿場町でもあり、この地域随一の商都として繁栄した歴史を刻んできた町です。ところが、近年は、新幹線のルートからはずれたこともあり、すっかり活気を失った感があります。このイベントは、そうした状況を改善しようという意図で始められたものでしょう。パンフレットに第14回とありましたので、すっかり定着し、年中行事化したイベントといえそうです。
 レトロな家並みが続く本町を歩くと、各商店のウィンドに大小様々なお雛さまが飾られいました。店頭だけでなく家の奥にもお雛さまを飾り、外から見えるようにしている家もあり、なんとなく華やいだ気分になります。メイン会場である「ほんまち町屋館」の中には、江戸期から現代にいたる大量の雛人形が並べられていました。頭上にもおびただしい数のつるし雛が飾られており、予想以上の見応えがありました。
 華やかで、春の訪れを感じさせるイベントであることは間違いありませんが、残念だったのは人の少なさ。「ほんまち町屋館」の中にはかなりの見物客がいましたが、通りは人影もまばらで、寂しい感じは否めません。町おこしには、何かもう一押しが欲しい。そんな気持ちを抱いたポン太でした。

 小諸市内を貫く北国街道です。「お人形さんめぐり」ののぼりが掲げられています。正面のお寺は、藤村の作品にも登場する光岳寺です。
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 英語教室の中にもお雛さまが鎮座していました。
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 店内に飾られたお雛さま。通りからも眺めることができます。
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 メイン会場である「ほんまち町屋館」(左側)前の本町通りです。このあたりが北国街道小諸宿の中心でした。
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 「ほんまち町屋館」内に飾られていた江戸時代(享保)のお雛さまとつるし雛です。
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 同館に大集合した雛人形。数は力なりというわけではありませんが、迫力があります。
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 二階にもお雛さま。こちらは昭和のお雛さまが中心です。
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 つるし雛の下に、荷物運搬用トロッコのレールが見えますが、ここが昔は味噌醤油の醸造所だった名残です。
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 小諸駅前のメインストリート、相生町です。人影がほとんどなく、寂しい風景が広がっていました。小諸市民ならずとも、賑わいが戻るように願いたいものです。
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カーリングの聖地

2018/02/26 17:56
 「そだねー」の大活躍で、人気急上昇のカーリング。 実は、ポン太はカーリングにはちょっとした思い出があり、今回の快挙を大変喜んでおります。
 カーリングとの出会いは20年前の長野オリンピックです。冬の競技にさほど関心があったわけではなく、わざわざ寒い思いをして見に行くことはないと当初は思ったのですが、子供たちにとっては国内でオリンピックを見る最初で最後のチャンスになるかもしれないと思い直し、連れていくことにしました。ところが、チケット販売開始からだいぶ時間が経過していたこともあり、高額なものを除けば、入手可能なチケットはカーリングのみ。それだけ人気がなく売れ残っていたわけです。長野オリンピックで初めて正式競技として採用された競技で、ほとんど馴染みがないわけですから当然かもしれません。
 ルールもろくに知らぬままに、軽井沢の競技場へとでかけました。端の方にある円(ハウスという呼び名も知りませんでした)の中心に近いところに、ストーンを残せば勝ちということだけはわかりましたが、試合中、どっちが優勢なのかよくわかりませんでした。しかし、得点を重ねる強豪チームの戦いぶりをみているうちに、ただ単に円の中に上手に投げ入れればよいというわけではなく、相手とのかけひき、先の先を読む知力が必要なものだとわかりました。経験の浅い日本チームがメダルをとるのは容易ではなさそうだと感じたのですが、あれから20年後にメダルに手が届くとは・・・。
 競技を見た後、近くのレストランに行ったところ、外国の選手たちも食事をしていて、オリンピックが身近に感じられました。また結氷した池には、カーリング体験コーナーが設けられていて、ポン太も子供たちと一緒にチャレンジしてみましたが、ストーンをコントロールすることの難しさは想像以上でした。
 「そだねー」の女子は北見のチームですが、ピョンチャンオリンピックに出場した男子は軽井沢のチームです。カーリング専用施設は全国に僅か11箇所しかないということですから、練習や試合をする場所は限られます。11箇所の内訳は北海道が8箇所、青森に1箇所、残りの2箇所は浅間山麓の軽井沢と御代田です。ということは、この競技に関しては、これからも、北海道vs浅間山麓という形での切磋琢磨が続いていくことになりそうです。
 本州におけるカーリングの聖地と呼んでもおかしくない浅間山麓。追分の泉洞寺には、カーリング地蔵尊まで存在していますので、カーリングに興味が湧いた方はぜひどうぞ。
  
 軽井沢の施設と比べると見栄えはしませんが、隣の御代田町にもカーリング場があります。ここから世界で活躍する選手がでるかもしれません。
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 1998年の長野オリンピック、カーリング競技の様子です
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 観客席も小さく、オリンピックとは思えないアットホームな雰囲気でした。
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 その時のチケットがこれです。かなり安かったような気がしていたのですが、入場料金は2100円と記載されています。他の競技はこんな値段ではなかったのでしょうね。
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 初めてのカーリング体験。ストーンを前に投げるだけでも大変で、誰もが転倒します。
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若い人の方が慣れるのがはやく、形だけは様になりますが、ストーンのコントロールは至難です。
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 軽井沢町追分の泉洞寺にあるカーリング地蔵尊です。カーリングの漢字表記は定まっていないということですが、ここでは「氷環」としています。その下に「慈石」がついているところが、お寺っぽいですね。ちなみに中国語でカーリングは「冰壷」です。ハウスを(ものを入れる)壺に見立てているのでしょうか。
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オリンピックの陰で

2018/02/24 10:47
  メダルラッシュに沸くピョンチャンオリンピック。選手たちの活躍はもちろん歓迎すべきことであり、それに水を差すわけではありませんが、オリンピックのような大きなイベントには、必ず陰の部分があるものです。新しいものをつくらなければならない、何もかも立派に整備しなければならないというベクトルが強く働き、それに便乗したものも含め、スクラップ&ビルドが激しく進行します。その結果、歴史的建造物や優れた景観が失われてしまうようなケースが少なくありません。1964年の東京オリンピックに際して首都高速道路が建設され、江戸以来の東京のシンボルであった日本橋の景観が、あのような惨めなものになってしまったのをご存知の方は多いと思います。
 都市の発展を否定するわけではありません。新しいものも必要です。しかし、それと同時に、都市の歩みを物語ってくれる建造物や景観には最大限の配慮をする、という姿勢が大切ではないかと思うのです。あれが残っていればなぁ、という思いをすることが多い古ダヌキのポン太としては、オリンピックのような大イベントには警戒心をもたざるをえません。
 20年前、長野で冬季オリンピックが開催されました。それを機に高速道路や新幹線が建設され、その恩恵に浴しているポン太ではありますが、長野駅の仏閣型駅舎や碓氷峠の鉄路が失われたことについては、今でも残念だと思っています。
 2020年の東京オリンピックでは何が生まれ何が失われるのか。後者が気になるポン太ですが、1964年の東京オリンピックのメイン会場となり、中学生だったポン太も観戦した国立競技場はすでに取り壊され、新たな施設が建設中です。アジアで最初のオリンピック開催施設という歴史的価値や高度成長期のシンボル的建築物であったことなどを考えると、壊さずに活用する道はなかったのかと思います。キャパシティー云々という話もありますが、極度に肥大化し、開催都市が特定の大国に限定されてしまうような、今のオリンピックのあり方こそ問題にすべきではないかと思うポン太です。
 余談ですが、次の冬季大会が開かれる北京は、史上初の夏冬両方のオリンピック開催地になるといわれています。しかし、軽井沢では、総合馬術競技(1964年の東京オリンピック)とカーリング競技(1998の長野オリンピック)が行われていますから、史上初の夏冬オリンピック競技開催地は軽井沢ということになるのではないでしょうか。

 なつかしの長野駅。善光寺を有する仏都の玄関にふさわしい仏閣型の駅舎で知られていました。この駅舎は、1936年に建築されたもので、60年以上市民や観光客に親しまれていました。駅前広場のシンボルだった如是姫の像は、現駅舎の前に健在です。<1966年3月30日撮影>
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 現在の長野駅です。和のテイストは感じますが、あの仏閣型駅舎ほどのインパクトはありません。如是姫も台座が低くなり、存在に気づかない人が多いようです。
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 オリンピックとは直接関係ありませんが、長野駅舎の写真を探していた時に出てきた地上線時代の長野電鉄長野駅付近の写真です。1981年3月1日に長野駅から善光寺下駅先までの区間が地下化され、市街地の景観も変わりました。<1974年7月27日撮影>
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 大きな上屋で覆われていた地上線時代の権堂駅です。<1976年8月24日撮影>
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 急勾配区間専用の電気機関車(EF63)を連結して碓氷峠を登る特急「あさま23号」です。新幹線の開業とともにこの鉄路は消えてしまいました。京都の嵯峨野観光鉄道のように、観光鉄道として残す方法はなかったのでしょうか。今も復活の望みを捨てていないポン太ですが・・・。<1992年8月10日、熊ノ平駅跡付近にて撮影>
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 横川駅に到着した列車を、お辞儀をしてむかえる駅弁販売員。「峠の釜めし」だけでなく、この風景もまた横川駅の名物でした。
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 列車が着くたびに、「峠の釜めし」を買い求める大勢の乗客たちで、横川駅のホームは賑わっていました。<1997年9月22日撮影>
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 1964年の東京オリンピック開催時の国立競技場です。聖火台に点されたオレンジ色の炎が印象的でした。集団観戦する中学生の一団の中にポン太もおります。すでにこの施設も取り壊されてしまい、残るは思い出のみというのも寂しいですね。
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 ちょうど男子200mの表彰式が行われていました。星条旗が2つ揚がっていますが、金メダルはアメリカのヘンリー・カー、銀もアメリカ、銅はトリニダード・トバゴ(右端の旗がそうです)の選手でした。
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 2020年のオリンピックにむけて、山手線原宿駅も大改造されるという話ですが、大正生まれのあのすばらしい木造駅舎はどうなるのでしょうか。まさか解体しておしまいということにはならないでしょうねJRさん。
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浅間山麓のコーヒーはなぜ美味しい

2018/02/19 21:13
 浅間山麓で飲むコーヒーは本当に美味しいと思います。ところが、同じ豆でも、東京で入れたコーヒーは、しまりのない味になってしまいがっかりすることがしばしばでした。その反対に、かなり高級な茶葉でも、浅間山麓で飲むお茶は美味しく感じません。どうしてなのかと不思議に思っていたのですが、その理由がわかりました。それは水のせいなのです。
 浅間水系の水は、大量のミネラル分(カルシウムやマグネシウム)を含む硬水で、硬度が150〜200mg/lもあり、これはヨーロッパの諸都市と同じレベルだそうです。ポン太の家の水道の蛇口やシンクに、いつのまにか白い結晶のようなものがこびりついており、何だろうかと最初は驚きましたが、カルシウムの結晶でした。日本の水は圧倒的に軟水が多いので、浅間山麓は日本では稀な硬水地域といってよいでしょう。
 硬水はコーヒーの味を引き立たせてくれる有り難い存在です。しかし、お茶にはむきませんし、旨味が抽出されにくいので、ダシもとりにくく、和風料理には不適です。そのかわり、肉の旨味を閉じ込めてくれるので、シチューなどには最適です。要するに、浅間山麓の水は、コーヒーや洋風料理に適しているわけです。軽井沢が避暑地として西洋人に好まれたのは、冷涼な気候だけでなく、水も関係していたのではないでしょうか。そんな文脈で考えると、軽井沢周辺にフレンチなどの洋食系レストランが多いというのもうなずけます。
 もうひとつ水が深く関係するものに酒造りがあります。中硬水(硬度60〜120mg/l)は、辛口の酒造りに適するといわれ、灘の「宮水」がそれに該当しますが、浅間水系のような硬水は清酒の醸造には不適です。しかし、ビールにはむいています。特に濃い色をしたエール系のビールには最もふさわしいとされ、浅間山麓には、クラフトビール(地ビール)の有力な醸造所が3つあります。各社の製品の中で、ピカイチはやはり芳醇なエールビールです。
 面白いのは、佐久平です。信州を代表する酒所といわれ、小海線の沿線には数多くの造り酒屋がありますが、そこの水はどうなっているのでしょうか。浅間山からそれほど離れているわけではないのに、八ヶ岳水系の水は、なんと硬度20〜60mg/lの軟水なのです。灘の「男酒」に対して、そのまろやかさから「女酒」と称せられるのが伏見ですが、湧水の硬度は40mg/l前後で、八ヶ岳水系とほぼ同じ。佐久が酒所になったのは、やはりよい水に恵まれていたからです。
 まさに、水は文化の母ですね。今日も美味しいコーヒーを味わいながら、ブログの文案を練っているポン太でした。

 浅間山麓の森の中はカフェだらけ、といっては言い過ぎかもしれませんが、このようなカフェがたくさんあります。もっとも、カフェに行かなくても家の水道水で美味しいコーヒーを入れることができるので、ポン太が実際に利用したカフェはそう多くはありません。
 
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浅間山麓のコーヒーのブランドといえば軽井沢の丸山珈琲が有名です.。ここは焙煎施設もある丸山珈琲の小諸店です。豆を購入するために立ち寄ったところ、高級な?コーヒーを試飲させていただくことができました。帰りがけには、どうぞお持ち帰り下さいとカフェラテのサービスもあり、ちょっと得をした気分になりました。ちなみに、2017年のJBrC(ジャパンブリュワーズカップ)で優勝したバリスタは、ここ小諸店の店員さんです。
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 こちらは、中山道小田井宿の近くにあるヤッホーブルーイングのビール工場です。主力ブランドの「よなよなエール」は全国的にも人気があるそうで、いまやクラフトビール界の最大手とか。
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 浅間山麓の最強コンビかもしれない、丸山珈琲と「よなよなエール」です。
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 浅間連峰湯ノ丸山の麓の東御市には、「オラホビール」という面白い名前のクラフトビール醸造所があり、隣接した直営レストランでは、できたての美味しいビールを味わうことができます。ポン太の一押しは「アンバーエール」です。
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 同じ浅間山麓でも、小諸市内には、軟水が湧出しているところがあります。ここは弁天清水といい、お茶や和食の汁物に最適なので、ポン太も時々汲みに行きます。
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 軟水エリアの小海線沿線には酒蔵が多いのですが、列車の後に見えるのは、佐久穂町(旧八千穂村)の黒澤酒造です。黒澤家は佐久鉄道(現小海線)と関わりが深く、国有化前の佐久鉄道最後の社長は黒澤陸之助氏でした。また同家の黒澤鷹次郎氏は、長野県のメインバンクである八十二銀行のルーツ、第十九銀行の創業者として知られています。
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 佐久鉄道開業100周年・小海線全通80周年記念で売り出されたお酒です。ポン太も美味しくいただきました。
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御代田駅物語

2018/02/16 18:22
 今年は、しなの鉄道の路線(かつての信越本線←直江津線)が全通して、130周年をむかえます。そこで、浅間山麓の鉄道の歴史について熱く語りたいと思うポン太ですが、その第一弾として、御代田駅をとりあげることにします。
 まず注目すべきはその古さです。御代田駅は、明治21(1888)年12月1日、直江津線(のちの信越本線)上田〜軽井沢間開通と同時に開業しています。沓掛(現中軽井沢)、信濃追分、平原の各駅は後年の開業ですから、軽井沢、小諸と並んで、浅間山麓では最も古く、全国的にみても古い駅の1つということができます。御代田駅開業時点では、東海道線ですらまだ全通はしていません。これほど早く鉄道の恩恵に浴することができたのは、当初、東西両京を結ぶ幹線鉄道が、中山道ルートで建設され、直江津線はその資材運搬のために必要な路線とみなされたからです。
 『官報』(明治21年11月29日付)の「廣告」欄に、運輸開始にあたっての賃金(運賃)と列車時刻が掲載されていますが、御代田という駅名の下に「中山道」という添え書きがあります。中山道とのクロス地点であることを考慮してこの地に駅が設けられたのではないか、そんなことがうかがえる表記です。確かに、御代田で下車し、中山道をたどれば、岩村田をはじめ現在の佐久市域の主要な集落へ容易に到達できますから、御代田駅は佐久の玄関口にふさわしい、必要性の高い駅であったわけです。ちなみに、開業時に設定された列車は、上下僅かに3本ずつでした。
 佐久地域を南北に貫く小海線(旧佐久鉄道)は、小諸で分岐していますが、そのルーツである東信軽便鉄道が、大正2(1913)年に免許を取得した際の路線は、小諸〜小海、御代田〜岩村田、岩村田〜中津となっており、御代田がもう1つの分岐駅となる可能性もありました。免許取得後まもなく、佐久鉄道の路線は小諸〜中込間に変更され、実現はしませんでしたが、そんな話にも、御代田が佐久平のゲートと意識されていたことを感じます。
 佐久平を周遊するために、御代田駅を利用した著名人も少なくありません。例えば、若山牧水は、「(大正11年の)10月14日夜8時信州北佐久郡御代田駅に汽車を降りた」と『みなかみ紀行』に記していますし、昭和11年5月14日には、種田山頭火が御代田駅に降り立ち、浅間山や佐久の風物を題材に、いくつも句を残しています。
 御代田駅のもう一つの注目点は、スイッチバックを採用した長野県内で最初の駅であったことです。このあたりは25‰(1000m進むと25mの高度差が生じる)という急勾配が連続しており、そこにホームを設けた場合、蒸気機関車のパワーでは、一旦停車すると、引き出せなくなってしまう恐れがあります。また貨物の取扱をする上でも、駅の部分はできるだけフラットにする必要があり、スイッチバックを採用したわけです。電気機関車や電車であれば、勾配区間にホームを設けても支障がないことから、電化(1963年)、複線化(1968年)後、スイッチバックを解消するため、駅を移設することになり、1971年4月26日に新駅(現在の御代田駅)が開業しました。その際に貨物の取扱はなくなり、旅客駅化されています。スイッチバック時代の旧駅構内は、町営駐車場などに転用されていますが、今でもその名残を感じることができます。懐かしいスイッチバック時代の御代田駅と現在の状況を、写真でご紹介することにしましょう。

まずはスイッチバック時代の駅舎と駅前風景です。駅舎は、現在の駅とは逆に、北側(浅間山の側)をむいていて、駅前には千曲バスの営業所がありました。1962年(昭和37年)の夏に撮影したものです。
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上の二枚の写真と同じ場所の現在の様子です。千曲バス御代田営業所の跡地は更地になっていますが、隣の商店だった家の前には現在も自動販売機が置かれています。

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 駅前にあった観光案内板の一部です。右側が軽井沢方面、左側が小諸方面で、御代田駅がスイッチバックの形に描かれています。

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画質が悪く、ブレてもいて恐縮ですが、御代田駅のホームの様子がわかる写真です。跨線橋はなく、ホームの端の階段を降り、線路を横断して、駅舎のあるホームと行き来していました。D50形蒸気機関車牽引の上り貨物列車が写っていますが、すでに電化が完成して二ヶ月ほど経ったころの写真です。<1963年(昭和38)年8月8日撮影>
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 上り列車の場合、一旦スイッチバック線に入った後、バックで駅へ進入します。客扱いが終わり駅を出発すると、本線に入って信濃追分方向へ進んで行きます。下り列車はその逆の動きをするわけです。以下の4枚の写真は、上り上野行326列車が御代田駅に到着し出発していく様子を撮影したものです。<1966年12月26日撮影>

 326列車がやってきました。このあと進行方向右手(画面では左端)のスイッチバック線へと入っていきます。画面の右手奥が御代田駅です。
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スイッチバック線(手前)からバックで御代田駅に進入する326列車です。
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客扱いを終え、御代田駅を出発して信濃追分へとむかう326列車です。
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信濃追分へと去って行く326列車です。右側がスイッチバック線です。
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御代田駅のスイッチバックは、通過可能なスタイルでしたので、優等列車は駅にもスイッチバック線にも入らず通過していきました。これは、この年の10月に運転開始したばかりの電車特急下り「第1あさま」(181系電車)が通過して行く様子です。<1966年12月26日撮影>
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スイッチバック線があった場所の現状です。線路の一部が残っており、往時の姿をとどめています。
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326列車が折り返していたクロッシングのあった場所の現状です。中山道の踏切も撤去され地下道(人と自転車用)化されました。
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かつての御代田駅への進入路(右側)は雑草に覆われています。左手に見えているホームは、現在の御代田駅です。
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新駅に移転して4ヶ月後の御代田駅です。<1971年8月21日撮影>
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同じ日の旧駅の様子です。線路は撤去されたものの、ホームや待合室は残っていました。<1971年8月21日撮影>
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浅間山を背にした現在の御代田駅です。
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旧駅の構内は、町営駐車場になっています。
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旧駅跡に運び込まれて保存されることになったD51787です。<1971年8月21日撮影>
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D51787が保存された場所の現状です。レールは撤去されましたが、かつての面影は残っています。
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ホームの煉瓦積みも一部残っています。
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ダルマ市で賑わった初午祭〜鼻面稲荷神社

2018/02/12 23:27
 浅間山麓を代表するお稲荷さんといえば、佐久市の岩村田地区にある鼻面稲荷(はなづらいなり)神社です。五大稲荷の1つともいわれており、湯川(軽井沢の白糸の滝や千ヶ滝から流れてくる千曲川の支流)の絶壁の上に建つ懸崖づくりの社殿は、見応えがあります。
 昨日は同神社の初午祭があり、物見高いポン太も出かけてみました。神社の周辺は、いつもは人の気配が感じられないほど静かなところですが、この日はまったく違っていました。市街地から神社へむかう参道(といってもごく普通の住宅街の中の道です)には、食べ物や縁起物を売る露店が並び、人の波が途切れることはありません。境内に入ると、おびただしい数のダルマ、またダルマです。それを買い求める参詣客の数も尋常ではありません。
 以前、この祭の存在を知らずに岩村田の市街地を車で通った際に、ダルマをぶら下げた人が次から次へと歩いてくるので、何だこれは、と驚いた記憶があります。それだけ、初午祭のダルマ市は人気があり、ダルマを買う人が多いのです。
 飛ぶように売れていくダルマですが、その一方では、お役御免となって廃棄されるダルマもあります。湯川の河原で、古くなったダルマを燃やす「奉焼祭」があると聞き、そちらも見物することにしました。あたりが薄暗くなるころ、キツネの面をつけ、提灯を手にした子供たちが集まってきました。ちょっと不気味でもありますが、その子供たち(の一部)が、火付け係となり、積み上げられたダルマを燃やすのです。燃え上がる炎とライトアップによって浮かび上がった社殿、水面にゆらめく明かり。なんとも幻想的な風景に、寒いのを忘れて見入ってしまったポン太でした。

 湯川の清流を見下ろす、懸崖づくりの鼻面稲荷神社です。
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 露店が並んだ参道です。
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 ここからが神社の境内ですが、人が溢れています。
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 このダルマどうかね
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 ダルマさんがならんだ
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 鼻面稲荷の本殿です。
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 中に入るとお参りの順番を待つ行列ができていました。
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 お参りを終え、ダルマを買ったら、鳥居をくぐって帰途へ。
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 あたりが暗くなり「奉焼祭」が始まりました。まずは神官による神事です。
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 子狐たちが登場しました。
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 いよいよ点火です。
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 燃えろ燃えろ
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 燃えさかる炎に呼応して打ち上げられた花火。祭のクライマックスです。
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 少し離れて眺めてみると、こんな幻想的な風景でした。
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鹿教湯温泉探訪

2018/02/10 23:21
 「あそこは中気の湯だ」という亡父の言葉を聞いたのは、ポン太が子供のころのことです。その意味がわからず、よほど変わった温泉なのかなと思ったのを覚えています。中気という言葉は、今では死語に近いかと思いますが、脳血管障害の後遺症を意味します。その快復に卓効のある温泉、リハビリの名湯だと言いたかったのでしょう。
 ふいにそんな亡父の言葉を思い出したポン太ですが、その温泉には1度も行ったことがありません。旅館のコマーシャルをテレビで見て、ほかの温泉とどれほどの違いがあるのか、確かめたくなってしまいました。予約を入れるとすんなりOKでしたので、出かけてみたというわけです。
 その温泉の名は鹿教湯(かけゆ)。上田と松本の中間に位置し、開湯は1200年以上前といわれる古い温泉場です。信心深い猟師に、鹿(実は文殊菩薩の化身)がその場所を教えたという伝説があり、それが地名の由来とされます。
 温泉の効能書きを見ると、高血圧症、動脈硬化症、脳卒中の後遺症等と記されています。なるほど、「中気の湯」であることに間違いはなさそうです。温泉街は予想していたよりも大きく、大小の旅館、ホテルが立ち並んでいましたが、その中心にあったのが、鹿教湯病院の建物。リハビリテーション専門の病床をもつ大きな病院で、この温泉の歴史と性格を如実に示してくれる存在といえそうです。
 レトロな感じのする温泉街を歩くと、いたるところに道標があり、その表示が距離ではなく、歩数で示されていることに興味をもちました。リハビリ中の人にとっては、歩く目安となり、励みにもなるわけです。
 内村川沿いの外湯(現在は共同浴場「文殊の湯」)へは湯坂という坂を下って行きます。その先の内村川に架かる高台橋を渡り、少し登ったところに文殊堂と薬師堂があり、それらをめぐる遊歩道も整備されています。温泉で身体をほぐし、適度なアップダウンのある気持ちのよい道を歩くことで、身体機能を回復させる。リハビリという言葉さえなかった時代の知恵が感じられました。
 高台橋は、珍しい屋根付きの橋で趣があります。遊歩道は除雪されていたので、今の季節でも難なく歩くことができました。随所にベンチが置かれているなど、確かにここは人にやさしい温泉場だと実感しました。やさしいといえば、お湯そのものも無色透明かつ無臭でクセがなく、やさしくやわらかな感じがします。湯治のおかげで、帰るころには杖に頼らなくてもよくなるので「杖要らずの湯」と称された由。確かに身体に良さそうな湯です。
 いざとなったらここで療養するか。そんなことを言いましたら、「冗談じゃない」とポン子に叱られてしまいました。転ばぬ先の杖、体調管理を心がけ、時折このような温泉でのんびり、やはりそれが一番ですね。

 山々に囲まれた鹿教湯温泉の全景です
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 温泉街の中心、温泉の守り神「温泉祖神」前の通りは、レトロな雰囲気です。
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 温泉のメインストリートを行くバス。バス停前に「鹿教湯病院」の大きな看板が見えます。
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 旧源泉に通じる湯坂の入口。老舗旅館が並んでいますが、看板に「内湯開祖」とあり、歴史を感じさせます。
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 屋根のある五台橋。前方の階段の上が薬師堂です。階段を迂回する遊歩道もあります。
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 距離ではなく歩数を示した道標。
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 文殊堂へと続く遊歩道です。
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 病気平癒の仏様、薬師如来が安置されている薬師堂です。治癒を感謝してたくさんのぞうりや草鞋が奉納されていたそうですが、改修工事中のため、今はありません。
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 薬師堂の裏には家族の健康や幸せを願うたくさんの地蔵が並んでいました。
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 温度計は氷点下1度を示していましたが、遊歩道を歩いていると寒くは感じません。
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 遊歩道には、紅葉橋という吊り橋もあります。その名のとおり、秋にはすばらしい景色が楽しめそうです。
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反骨の信州

2018/02/06 10:36
 青木村は上田市の西方に位置する人口四千ほどの小さな村です。村の入口に「義民の里」と大書した標柱が立っていることに興味を感じたポン太は、村の歴史文化資料館を訪ねてみました。画像
 一般的な郷土資料館と異なり、ここの目玉は、「義民」と「栗林一石路」に関する展示です。なぜ義民の展示が主なのかといえば、この地から、何度も一揆が起こり、リーダーとして死地に赴いた農民、すなわち「義民」を数多く生んだ土地柄であるからです。展示されていたパネルを読み進むにつれ、村人の窮状を救わんと立ち上がった彼等の崇高な精神に胸を打たれました。
 最も大規模な宝暦の一揆では、領内の農民一万数千が一斉に上田城下に押し出し、農民側の要求をほぼ認めさせるということで決着しましたが、「発頭人」として夫神村組頭の浅之丞と百姓半平が死罪となりました。彼等のような義民を顕彰し、その精神を受け継いでいこうというのがこの村の基本姿勢なのです。顕彰活動の一環として「義民太鼓」がつくられ、イベントなどで演奏されるということですが、「圧政に抗して立ち上がった農民が最後の手段として生きる権利を主張し、竹に挟んだ訴状を掲げ、訴状を掲げた男が倒れると次の者が、力尽きると又他の者が、仲間の屍を乗り越えていく」といった説明文を読んだだけで、ポン太などはもうウルウルしてしまいます。

 これが青木村歴史文化資料館です。隣接する図書館から入館できます。入館料は無料です。
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 義民資料展示室の中です。
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 一揆の首謀者が斬首される場面を描いた絵です。
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 これは明治2年に勃発した「世直し一揆」の際に、農民と役人が交わした議定書の展示です。村役人は入れ札(選挙)によるとの記載があり、農民たちの要求の一端がうかがい知れます。

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 宝暦の義民半平の墓です。「いさぎよく散るや此世の花ふぶき」という辞世の句を残したそうです。
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 宝暦の義民の墓の近くに建立された義民追悼句碑です。「信に開き義に散る花や蓮二輪」と刻まれています。
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 もう一方の「栗林一石路」に関する展示ですが、一石路は村出身の自由律俳句の俳人です。といってもただの俳人ではなく、同盟通信(戦後、共同通信と時事通信に分離)の社会部長を務めたジャーナリストでもあり、戦争へとむかう時代と向き合い、抗った人物です。治安維持法により検挙され投獄されてもいます。「大砲が巨きな口をあけて俺に向いている初刷」といった反戦句や、ふるさとを慈しむ句を数多く残しています。義民とともに、こういう気骨のある人物を顕彰していることに、感銘を受けました。
 青木村に限らず、権力に抗った人物を顕彰したり、記憶に留めようという活動が、信州では盛んであるように感じます。青木村に隣接する別所温泉(上田市)には、戦前の労働農民党(労農党)の代議士で、治安維持法の強化に反対し右翼に殺された山本宣治の碑があります。戦時中、警察から取り壊し命令が出た際に、その碑を自宅の庭に伏せて隠し通したという、老舗旅館主の顕彰碑も併置されています。

 義民資料室と隣り合わせの栗林一石路資料室
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 別所温泉の山本宣治の碑。ラテン語で、座右の銘であったという「生命は短し科学は長し」と記されています。殺される四日前に、上田で同氏の講演を聞いて感激した農民たちが、その死を悼んで建立したということです。
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 長いものに巻かれない、巻かれてはいけないという気風。信州からジャーナリストや評論家、出版人、映画監督といった人材が輩出している背景には、それがあるのではないか、青木村を歩いて、そんなことを感じたポン太でした。ちなみに、財政上の優遇策というアメを用意して、政府が強力に推進した「平成の大合併」ですが、信州では合併せずに自立を選んだ町村も多く、現在でも「村」が35(その数は全国1)もあります。ここにも、そうした気風があらわれているように思うのですが、どうでしょうか。
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待ってました冬景色

2018/02/03 08:47
 人に会えば、「今年は雪が少なくて助かりますね」とか、「このところ暖かな日が多くてほっとしますね」といった言葉を発することが多いポン太ですが、実は本音は違います。冬は冬らしく、雪景色や霧氷をたっぷり楽しみたい。雪よ降れ降れもっと降れ、寒気よ来たれもっと来い!です。
 以前にも記したとおり、浅間山麓は元々雪の少ないところです。東京と同じように、太平洋岸を低気圧が進んだ際に雪が降るケースが多く、冬型の気圧配置で大量の雪が降る北信地域とは事情がまったく異なっています。それにしても、この冬は雪が少なく、積雪もほとんど無かったのですが、ようやく昨日、ポン太待望のまとまった雪が降りました。森も水辺も白銀の世界となり、いつもの散歩道が別世界のようです。早速、カメラ片手にウォーキングにでかけたことはいうまでもありません。
 夜も雪景色を楽しみたいと、昨夜はプライベート「氷燈祭」を企画。火山の噴火口に見立てた雪穴に、ローソクを立てて点灯するだけという極めてシンプルなものですが、いつもの庭とは思えない幻想的な雰囲気に、これぞ冬のロマンなりと自画自賛のポン太でした。

 いつのまにか窓の外は雪景色。ポン太の森も白銀の世界に変わりました。
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 降りしきる雪に水辺(御影用水)の景色も一変。
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 雪化粧したいつもの散歩道。絵本の中を歩くような気分です。
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 雪が止むと、ワンちゃんの散歩に出てくる人が増えました。この景色をみれば、人もワンちゃんも歩きたくなりますね。
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 気がつくと軒先に大きなつららができていました。やはり冬はこうでなくちゃ。
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 プライベート「氷燈祭」です。氷のランタンを用いているわけではないので、「雪燈祭」が正しいかもしれませんね。
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D51787物語

2018/02/01 09:29
 しなの鉄道で軽井沢から3駅目の御代田駅。その旧駅(スイッチバック時代の駅)跡に保存されている機関車がD51787です。この機関車は、今にも走り出すのではないかと思えるほどきれいに整備されていて、初めて見た人は驚くのではないでしょうか。画像
 D51形は、製造両数最多を誇る日本を代表する蒸気機関車で、「デコイチ(またはデゴイチ)」の愛称でよばれていることをご存知の方は多いと思います。このD51787は、戦時中の1943(昭和18)年に汽車製造大阪工場で製造されました。水戸機関区に配置された後、木曽福島機関区に移り、中央西線で長く用いられた機関車です。1971年に廃車となった後、御代田町に無償貸与され、同年4月23日から現在地で保存されています。
 この機関車がずばぬけて美しい姿を保っている背景には、一人の男性の執念、いや機関車愛がありました。その方に初めて出会ったのは、2004年の夏だったと思います。近くを通りかかったポン太が、この機関車を眺めていたところ、作業着を着た男性が現れ、「機関車に興味があるのですか」と声をかけてくれました。そして、「この機関車は現在復原整備中で間もなく動くようになりますよ」というのです。最初は半信半疑で聞いていたのですが、修復方法など詳しいお話を伺うにつれ、これは大変なことにチャレンジされている方だと理解しました。その方の名は、大日方孝仁。同氏はかつて国鉄長野機関区に庫内手として勤務されていた由。後日、耳にした話では、国鉄を退職後、ダンプカーの運転手をされていたということですが、偶然通りかかった御代田で、この機関車を発見。関わりのある懐かしい機関車が、傷み始めている様子をみて修復を決意し、自分にそれをやらせて欲しいと町役場に直訴したのが発端ということです。
 庫内手として蒸気機関車に接した経験が活かせるということでしたが、工場のような設備もないこの場所で、独力でそれを成し遂げるのは容易なことではありません。手弁当どころか、貯えていた国鉄の退職金まで投入したそうですから、まさに心血を注いで取り組まれていたわけです。
 その翌年、動かすことに成功したとの連絡をいただきました。2005年1月16日22時43分のことだったそうです。実際に火を焚いて蒸気を発生させるのではなく、圧縮空気を外部からシリンダーに送り込み、ピストンを動かすという手法です。
 その年の11月、御代田を訪ね、D51787を隅々まで見学させていただきました。修復の経緯や、ピカピカに磨き上げられた機関車の各部の機能についても、詳しく解説していただき、動かした際の映像も見ることができました。残念だったのは、その場で実際に動くところを見られなかったこと。大日方氏のお話では、動かすことに町が難色を示しているので、もう無理かもしれないとのことでした。

 見事に磨き上げられた走り装置。まるで新品のようです。
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 見学者にわかりやすく丁寧に解説して下さった大日方氏(2005年11月)
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 その後、大日方氏にD51の修復を依頼する自治体が現れました。群馬県の川場村です。大日方氏は依頼に応じ、村に保存されていたD51561を見事に復原。動くD51は村の観光の目玉となりました。ポン太も2007年の夏に川場村を訪ねたことがありますが、その施設の職員となった大日方氏は、整備と運転を一手に引き受け、まさに水を得た魚のごとく大活躍されていました。
 大日方氏が先鞭をつけた、圧縮空気を用いて蒸気機関車を動かすという方式は、その後、若桜町(鳥取県)のC12167、真岡市(栃木県)の49617へと広がっていきました。神奈川県山北町でも、保存していたD5270を動態化することになり、依頼を受けた大日方氏は、現地の旅館に泊まり込み、寸暇を惜しんで修復に取り組まれた由。一昨年(2016年)の10月14日(鉄道の日)に「復活祭」が行われ、D52の動く姿が町民やファンに披露されたそうです。ところが、その僅か9日後の23日未明、中国自動車道で発生した不慮の事故により、大日方氏は帰らぬ人となりました。享年61歳でした。

 川場村のD51は子供たちに大人気でした。
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 残念なことに、D51561の運転は継続できなくなってしまいました。「SL駅入口」の前に張り出された運行終了の掲示です。 
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 大日方氏が最後に整備された山北町のD5270です。こちらは若桜鉄道機関士の協力を得て、イベント時の運転が継続されるそうです
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 御代田のD51787は、今は動くことはありませんが、ボランティアの方々の手により、大日方氏が修復した当時のままの美しい姿を保っています。その前を通る度に、D51への熱い思いを語っていた大日方氏の笑顔が思い出され、思わず頭を下げてしまうポン太です。
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「安養寺らーめん」を食す

2018/01/29 22:12
 国民食ともいわれ、最近では外国人にも大人気のラーメン。しかし、ポン太にとっては、ちょっと苦手な食べ物です。子供のころの印象が悪かったせいかもしれません。昔はラーメン専門店などなく、そば屋で提供されるラーメンは、醤油味が濃い上に、トッピングは、極薄のチャーシュー、鳴門、メンマ、僅かなネギに海苔ぐらいで、見た目からして貧相な食べ物。こんなもので食事をした気にはとてもなれないという感じでした。齢を重ねて、血圧が気になりだすと、塩分の多いラーメンを食べる気はますます無くなりました。ラーメン観が少し変わったのは、以前住んでいた家の近くに横濱家という店が開業した時です。お付き合いで食べに行ったのですが、トッピングの野菜が山のように盛られていたのと、塩分や油分を希望により調節してくれるのが嬉しく、こんなラーメンなら食事と考えてもよいかなと思うようになりました。
 最近の佐久で、ご当地グルメとして売り出しているのが、「安養寺らーめん」です。安養寺は、佐久市の北部に実在する臨済宗妙心寺派のお寺ですが、鎌倉時代に覚心という僧が中国から味噌作りを伝えたといわれ、「信州味噌発祥の地」とされています。その話をもとに考案されたのが「安養寺らーめん」というわけです。「安養寺みそ」をスープのタレに80%以上使用したものであれば、麺やトッピングは自由。現在、市内の15店舗ほどで提供されています。
 このところ昼間でも氷点下という寒い日が続いていて、外を出歩いていると身体が冷え切ってしまいます。そこで、「安養寺らーめん」とやらを食べて暖まろうかと、国道141号沿いの「桃花」という中華料理店に入ってみました。その店の「安養寺らーめん」は、野菜がたっぷりで、味噌の風味も良く、塩分は控えめ、ポン太にとっては馴染みやすい味でした。満足度が高かったせいか、ほかの店はどうなのだろうか、食べ歩きも悪くないのではと、思うポン太でした。あれ、ラーメンは苦手のはずでは…。タヌキは気まぐれです。

 こののぼりが、「安養寺らーめん」を提供しているお店の目印です。
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 佐久平の国道141号に面している桃花という中華料理店です。
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 これが、このお店の「安養寺らーめん」です。野菜がたっぷりで嬉しくなりました。
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 麺が選べるので、ポン太は太麺を選択。かなりの極太ですが、細麺がとにかく苦手で、とくに「ソーメン」が大嫌いなポン太にとっては好ましい太さです。
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 信州味噌発祥の地とされる安養寺です。山門や鐘楼がよい雰囲気を漂わせています。ここはまったくの山里で、まわりには1軒の店もなく、もちろん「安養寺らーめん」を食べることはできません。
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世界遺産級の小諸の風穴

2018/01/25 22:10
 今朝は全国的に冷え込み、東京では48年ぶりという氷点下4度を記録した由。テレビで寒い寒いと大騒ぎしている様子が映しだされていましたが、こちら浅間山麓の最低気温は氷点下14度。最高気温が氷点下5度でしたから、氷点下4度程度はごく普通の寒さということができます。だから、そのぐらいがまんしろ、なんていうことは言いません。(言っているのと同じじゃないかって?そうかも)
 閑話休題、この寒い日に「氷」の話で恐縮ですが、小諸市の千曲川の左岸に、氷という集落があります。地図でそれを見つけた時には、ずいぶん変わった地名があるものだと思い、どんなところなのかと興味をひかれました。それが風穴に由来するものであることを知ったのは比較的最近のことです。樹木の葉が落ちているこの時期なら、遺構を確認しやすいのではないかと考え、訪ねてみました。 
 その場所は火山の噴出物からなる御牧ヶ原台地のフチにあたるところでした。地下に石室を設ければ、礫の隙間を流れてくる空気により、その中は一年中一定の温度(夏でも3℃ということです)に保たれます。天然の冷蔵庫である氷室(氷風穴)のある里ゆえに、「氷」という地名がついたと想像できます。
 風穴の主たる貯蔵品は、蚕種とよばれるカイコの卵でした。低温で保存することで孵化を抑制するわけです。それにより繭をつくらせる時期をコントロールすることが可能となり、蚕糸業の発展に大いに寄与しました。群馬県の荒船風穴は、富岡製糸場とともに世界遺産に登録されています。
 同様の役割を果たしたと考えられる小諸の風穴ですが、行ってみて驚いたのはそのスケールの大きさ。まだ現役で使用中の一ヵ所以外に、目視できる範囲で数カ所、立ち入りが難しいところも含めれば、十数カ所あるということですから、これは「風穴群」と呼ぶにふさわしいものでしょう。荒船の風穴と比べて、遜色がないどころか、それを上回る規模の、世界遺産級の産業遺産であるように思います。よいものを「発見」して、有頂天になったポン太でした。

「氷」集落の入口です。立派な石の標識が建てられていました。
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ここが「氷」集落です。裏山に風穴が存在しています。この先は山道なので車で行くことはできません。
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現在も使用されている唯一の風穴です。
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風穴の入口です。明治7年3月に創設されたと記されています。
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上屋が失われた状態の風穴です。かなりの容積があることがわかります。
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たくさんある石積みは、すべて風穴の遺構です。
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高い位置にあった風穴の遺構です。ここから吹き出る風の温度は16℃と高め。温風穴と呼ばれているそうです。温度測定中の札が立っていました。
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風穴群の中央にある神社です。ちょっと読みにくいのですが、鳥居には「氷室稲荷大明神」と記されています。
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これは以前訪ねた世界遺産の荒船風穴です。構造がよく似ていることがわかります。
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「氷」集落の帰りに立ち寄った本物の氷です。布引観音の参道脇に見事な氷瀑ができていました。
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えっ、本白根山が噴火?

2018/01/23 22:38
 大雪で首都圏が大混乱というニュースに驚いていたのも束の間、今度は草津白根山が噴火し、犠牲者がでているというニュースにびっくり。浅間山という日本を代表する活火山の麓にいるポン太ですから、火山情報には敏感にならざるをえません。草津白根山は、浅間山のお隣さんであり、何度も訪れている山ですからなおさらです。
 今回の噴火は、大勢の観光客が訪れる湯釜のある白根山ではなく、その南方3キロほどのところに位置する本白根(もとしらね)山の鏡池付近で起きたということです。深田久弥は、著書『日本百名山』の中で、「こちらのほうが十数米高いから、これを草津白根の本峰と見なすべきかもしれない」と記しており、登山者には人気の山です。ポン太も二回登っていますが、旧火口の巨大なクレーターや、神秘的な雰囲気を漂わせる池など、バラエティーに富んだ景観を楽しむことができます。しかし、そうした地形はすべて火山活動によってつくられたもの。噴気ガスのニオイを感じるような場所もあり、生きている火山という実感はありました。
 それにしても、まさかあの場所で噴火が起きるとは。噴火の予知や噴火時の対応の難しさを、あらためて痛感させられます。 御嶽山もそうですが、登山時にこのようなことが起きれば、ポン太だって犠牲者となる可能性があり、とても他人事とは思えません。

 本白根山に登った際の写真をいくつかご紹介します。これは登山口近くの弓池と白根山です。
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 雄大な景観を楽しみながらの山歩きです。
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 旧噴火口の1つ、カラ釜です。
 
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 この大きなクレーターも旧噴火口です。
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 今回噴火が起きたとされる場所の近くの鏡池です。いまどうなっているのでしょうね。
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見ている方が震えてしまう「寒の水」

2018/01/21 10:19
 浅間山麓を代表する奇祭といえば、御代田町の草越地区で行なわれる「寒の水」ではないでしょうか。一年で一番寒いとされる「大寒」の日に行われる行事で、ふんどし一つの男たちが、「兎巾(ときん)」と呼ばれるワラの冠にわらじ履きといういでたちで行う寒行の一種です。御嶽信仰の行の名残といわれ、県の無形民俗文化財に指定されています。
 まずは出発地点の公民館前に置かれた大桶の水を浴びます。その後、集落内を駆け抜けますが、路上にも数ヵ所に大桶が置かれており、そこでも水を浴び、集落のはずれにある熊野神社をめざします。神社に到着すると、兎巾を奉納して「無病息災」「五穀豊穣」を祈願するというものです。
 今年も、大寒の1月20日に行われました。このところ少し寒さが緩んで、雪も全くないという、参加者にとっては幾分救いのある状況でした。それでも標高900mの高地ですから、水行が始まったころの気温は恐らく氷点下。ポン太の手はかじかみ、カメラのシャッターがうまく切れません。防寒着を着ていても身体の芯まで冷えてしまいました。
 水行の主役はこの草越区の青壮年ですが、公募(ただし同区の紹介が必要)も行われていました。手をあげた方の勇気には脱帽するしかありません。どうせ寒い思いをするなら、ポン太も手をあげたらどうかって?いえいえ、ロートルダヌキでは、神社に到達する前に天国行きとなってしまいますよ。

 「寒の水」が行われた御代田町の草越集落。高原野菜の産地で、レタス畑に囲まれています。
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 見物客には、御代田町の名物「おにかけうどん」が振る舞われました。祭りが始まる前に、まずはこれで暖をとります。
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 威勢の良いかけ声とともに、いよいよ「寒の水」が始まりました。
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 路上でも水を浴び続けます。うー寒そう。
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 どうだ!このくらい浴びなくちゃ気合いが入らないよ。
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 熊野神社前に到着。神妙な面持ちで階段を登ります。
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 本殿に兎巾を奉納します。この順番を待つ間が一番つらい、水を浴びて走っているほうがずっと楽、というのが水行者の感想でした。
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 神社から戻る際にもまた水を浴びます。奉納してしまったので兎巾はありません。こうなったら思いっきりいくぜ、えい!
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 公民館前にもどり、ワラのたき火で身体を温める水行者たち。お疲れ様でした。
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「温泉でほっこり」にも裏技

2018/01/19 22:03
 志賀高原の地獄谷には、世界でも珍しい温泉に入るサルがいます。「スノーモンキー」として外国人に大人気ですが、サルならずとも、この季節には温泉でほっこりしたいもの。 幸いなことに、信州は日帰り温泉施設の数が全国一多く、温泉入浴が生活の一部になっている感じがします。入浴料金の相場は500円前後ですから、東京の公衆浴場(銭湯)と同程度。それでもしょっちゅう出かけるとなると、少しでも安く入浴できる方法を考えたくなります。
 回数券をはじめ、ポイント制度や割引券、クーポン券などを利用すれば、1回あたりの料金を銭湯より安くすることが可能ですが、実はもっとすごいものがあるのです。長野県観光機構というところが発行している、『信州物味湯産手形』を購入すれば、なんと一回あたり108円で入浴することができます。この手形は、購入日から1年間有効で、登録されている県内49ヵ所の入浴施設(年度によって入れ替えあり)の内の12ヵ所に1回ずつ入浴できるという優れもの。購入額は税込みで1300円ですから、使いきれば1回あたり108円となります。3カ所めぐるだけで、通常入浴料金の合計より安くなりますから、その先はタダで入浴しているような気分です。10回目ぐらいになると、手形で入浴するのが申し訳なく思えて、食堂で飲食したり、売店で農産物を買ったりしてしまいます。ムムッ、それが狙いなのかな? それでも湯巡りは楽しいので、現在、4冊目となる手形を使用中のポン太です。

 地獄谷のサルたちです。気持ち良さそうに温泉に入っています。タヌキだって入りたいよ〜。
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 これが『信州物味湯産手形』のパンフレットです。
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 ポン太の生活圏である東信地域だけでも、現時点で14カ所の施設が登録されていて、その中には、以前のブログで美肌の湯としてご紹介した「ささらの湯」(上田市)も含まれています。下の写真は、東御市の「湯楽里(ゆらり)館」ですが、ここも登録施設の1つです。
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 湯楽里館の露天風呂からは、美しが原方面の大展望を楽しむことができます。
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