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浅間山麓のブラタヌキ
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浅間山麓に移り住んだタヌキのポン太のブログです。どんなタヌキかって?それはプロフィールをご覧下さい。
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オリンピックの陰で

2018/02/24 10:47
  メダルラッシュに沸くピョンチャンオリンピック。選手たちの活躍はもちろん歓迎すべきことであり、それに水を差すわけではありませんが、オリンピックのような大きなイベントには、必ず陰の部分があるものです。新しいものをつくらなければならない、何もかも立派に整備しなければならないというベクトルが強く働き、それに便乗したものも含め、スクラップ&ビルドが激しく進行します。その結果、歴史的建造物や優れた景観が失われてしまうようなケースが少なくありません。1964年の東京オリンピックに際して首都高速道路が建設され、江戸以来の東京のシンボルであった日本橋の景観が、あのような惨めなものになってしまったのをご存知の方は多いと思います。
 都市の発展を否定するわけではありません。新しいものも必要です。しかし、それと同時に、都市の歩みを物語ってくれる建造物や景観には最大限の配慮をする、という姿勢が大切ではないかと思うのです。あれが残っていればなぁ、という思いをすることが多い古ダヌキのポン太としては、オリンピックのような大イベントには警戒心をもたざるをえません。
 20年前、長野で冬季オリンピックが開催されました。それを機に高速道路や新幹線が建設され、その恩恵に浴しているポン太ではありますが、長野駅の仏閣型駅舎や碓氷峠の鉄路が失われたことについては、今でも残念だと思っています。
 2020年の東京オリンピックでは何が生まれ何が失われるのか。後者が気になるポン太ですが、1964年の東京オリンピックのメイン会場となり、中学生だったポン太も観戦した国立競技場はすでに取り壊され、新たな施設が建設中です。アジアで最初のオリンピック開催施設という歴史的価値や高度成長期のシンボル的建築物であったことなどを考えると、壊さずに活用する道はなかったのかと思います。キャパシティー云々という話もありますが、極度に肥大化し、開催都市が特定の大国に限定されてしまうような、今のオリンピックのあり方こそ問題にすべきではないかと思うポン太です。
 余談ですが、次の冬季大会が開かれる北京は、史上初の夏冬両方のオリンピック開催地になるといわれています。しかし、軽井沢では、総合馬術競技(1964年の東京オリンピック)とカーリング競技(1998の長野オリンピック)が行われていますから、史上初の夏冬オリンピック競技開催地は軽井沢ということになるのではないでしょうか。

 なつかしの長野駅。善光寺を有する仏都の玄関にふさわしい仏閣型の駅舎で知られていました。この駅舎は、1936年に建築されたもので、60年以上市民や観光客に親しまれていました。駅前広場のシンボルだった如是姫の像は、現駅舎の前に健在です。<1966年3月30日撮影>
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 現在の長野駅です。和のテイストは感じますが、あの仏閣型駅舎ほどのインパクトはありません。如是姫も台座が低くなり、存在に気づかない人が多いようです。
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 オリンピックとは直接関係ありませんが、長野駅舎の写真を探していた時に出てきた地上線時代の長野電鉄長野駅付近の写真です。1981年3月1日に長野駅から善光寺下駅先までの区間が地下化され、市街地の景観も変わりました。<1974年7月27日撮影>
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 大きな上屋で覆われていた地上線時代の権堂駅です。<1976年8月24日撮影>
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 急勾配区間専用の電気機関車(EF63)を連結して碓氷峠を登る特急「あさま23号」です。新幹線の開業とともにこの鉄路は消えてしまいました。京都の嵯峨野観光鉄道のように、観光鉄道として残す方法はなかったのでしょうか。今も復活の望みを捨てていないポン太ですが・・・。<1992年8月10日、熊ノ平駅跡付近にて撮影>
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 横川駅に到着した列車を、お辞儀をしてむかえる駅弁販売員。「峠の釜めし」だけでなく、この風景もまた横川駅の名物でした。
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 列車が着くたびに、「峠の釜めし」を買い求める大勢の乗客たちで、横川駅のホームは賑わっていました。<1997年9月22日撮影>
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 1964年の東京オリンピック開催時の国立競技場です。聖火台に点されたオレンジ色の炎が印象的でした。集団観戦する中学生の一団の中にポン太もおります。すでにこの施設も取り壊されてしまい、残るは思い出のみというのも寂しいですね。
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 ちょうど男子200mの表彰式が行われていました。星条旗が2つ揚がっていますが、金メダルはアメリカのヘンリー・カー、銀もアメリカ、銅はトリニダード・トバゴ(右端の旗がそうです)の選手でした。
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 2020年のオリンピックにむけて、山手線原宿駅も大改造されるという話ですが、大正生まれのあのすばらしい木造駅舎はどうなるのでしょうか。まさか解体しておしまいということにはならないでしょうねJRさん。
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浅間山麓のコーヒーはなぜ美味しい

2018/02/19 21:13
 浅間山麓で飲むコーヒーは本当に美味しいと思います。ところが、同じ豆でも、東京で入れたコーヒーは、しまりのない味になってしまいがっかりすることがしばしばでした。その反対に、かなり高級な茶葉でも、浅間山麓で飲むお茶は美味しく感じません。どうしてなのかと不思議に思っていたのですが、その理由がわかりました。それは水のせいなのです。
 浅間水系の水は、大量のミネラル分(カルシウムやマグネシウム)を含む硬水で、硬度が150〜200mg/lもあり、これはヨーロッパの諸都市と同じレベルだそうです。ポン太の家の水道の蛇口やシンクに、いつのまにか白い結晶のようなものがこびりついており、何だろうかと最初は驚きましたが、カルシウムの結晶でした。日本の水は圧倒的に軟水が多いので、浅間山麓は日本では稀な硬水地域といってよいでしょう。
 硬水はコーヒーの味を引き立たせてくれる有り難い存在です。しかし、お茶にはむきませんし、旨味が抽出されにくいので、ダシもとりにくく、和風料理には不適です。そのかわり、肉の旨味を閉じ込めてくれるので、シチューなどには最適です。要するに、浅間山麓の水は、コーヒーや洋風料理に適しているわけです。軽井沢が避暑地として西洋人に好まれたのは、冷涼な気候だけでなく、水も関係していたのではないでしょうか。そんな文脈で考えると、軽井沢周辺にフレンチなどの洋食系レストランが多いというのもうなずけます。
 もうひとつ水が深く関係するものに酒造りがあります。中硬水(硬度60〜120mg/l)は、辛口の酒造りに適するといわれ、灘の「宮水」がそれに該当しますが、浅間水系のような硬水は清酒の醸造には不適です。しかし、ビールにはむいています。特に濃い色をしたエール系のビールには最もふさわしいとされ、浅間山麓には、クラフトビール(地ビール)の有力な醸造所が3つあります。各社の製品の中で、ピカイチはやはり芳醇なエールビールです。
 面白いのは、佐久平です。信州を代表する酒所といわれ、小海線の沿線には数多くの造り酒屋がありますが、そこの水はどうなっているのでしょうか。浅間山からそれほど離れているわけではないのに、八ヶ岳水系の水は、なんと硬度20〜60mg/lの軟水なのです。灘の「男酒」に対して、そのまろやかさから「女酒」と称せられるのが伏見ですが、湧水の硬度は40mg/l前後で、八ヶ岳水系とほぼ同じ。佐久が酒所になったのは、やはりよい水に恵まれていたからです。
 まさに、水は文化の母ですね。今日も美味しいコーヒーを味わいながら、ブログの文案を練っているポン太でした。

 浅間山麓の森の中はカフェだらけ、といっては言い過ぎかもしれませんが、このようなカフェがたくさんあります。もっとも、カフェに行かなくても家の水道水で美味しいコーヒーを入れることができるので、ポン太が実際に利用したカフェはそう多くはありません。
 
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浅間山麓のコーヒーのブランドといえば軽井沢の丸山珈琲が有名です.。ここは焙煎施設もある丸山珈琲の小諸店です。豆を購入するために立ち寄ったところ、高級な?コーヒーを試飲させていただくことができました。帰りがけには、どうぞお持ち帰り下さいとカフェラテのサービスもあり、ちょっと得をした気分になりました。ちなみに、2017年のJBrC(ジャパンブリュワーズカップ)で優勝したバリスタは、ここ小諸店の店員さんです。
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 こちらは、中山道小田井宿の近くにあるヤッホーブルーイングのビール工場です。主力ブランドの「よなよなエール」は全国的にも人気があるそうで、いまやクラフトビール界の最大手とか。
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 浅間山麓の最強コンビかもしれない、丸山珈琲と「よなよなエール」です。
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 浅間連峰湯ノ丸山の麓の東御市には、「オラホビール」という面白い名前のクラフトビール醸造所があり、隣接した直営レストランでは、できたての美味しいビールを味わうことができます。ポン太の一押しは「アンバーエール」です。
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 同じ浅間山麓でも、小諸市内には、軟水が湧出しているところがあります。ここは弁天清水といい、お茶や和食の汁物に最適なので、ポン太も時々汲みに行きます。
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 軟水エリアの小海線沿線には酒蔵が多いのですが、列車の後に見えるのは、佐久穂町(旧八千穂村)の黒澤酒造です。黒澤家は佐久鉄道(現小海線)と関わりが深く、国有化前の佐久鉄道最後の社長は黒澤陸之助氏でした。また同家の黒澤鷹次郎氏は、長野県のメインバンクである八十二銀行のルーツ、第十九銀行の創業者として知られています。
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 佐久鉄道開業100周年・小海線全通80周年記念で売り出されたお酒です。ポン太も美味しくいただきました。
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御代田駅物語

2018/02/16 18:22
 今年は、しなの鉄道の路線(かつての信越本線←直江津線)が全通して、130周年をむかえます。そこで、浅間山麓の鉄道の歴史について熱く語りたいと思うポン太ですが、その第一弾として、御代田駅をとりあげることにします。
 まず注目すべきはその古さです。御代田駅は、明治21(1888)年12月1日、直江津線(のちの信越本線)上田〜軽井沢間開通と同時に開業しています。沓掛(現中軽井沢)、信濃追分、平原の各駅は後年の開業ですから、軽井沢、小諸と並んで、浅間山麓では最も古く、全国的にみても古い駅の1つということができます。御代田駅開業時点では、東海道線ですらまだ全通はしていません。これほど早く鉄道の恩恵に浴することができたのは、当初、東西両京を結ぶ幹線鉄道が、中山道ルートで建設され、直江津線はその資材運搬のために必要な路線とみなされたからです。
 『官報』(明治21年11月29日付)の「廣告」欄に、運輸開始にあたっての賃金(運賃)と列車時刻が掲載されていますが、御代田という駅名の下に「中山道」という添え書きがあります。中山道とのクロス地点であることを考慮してこの地に駅が設けられたのではないか、そんなことがうかがえる表記です。確かに、御代田で下車し、中山道をたどれば、岩村田をはじめ現在の佐久市域の主要な集落へ容易に到達できますから、御代田駅は佐久の玄関口にふさわしい、必要性の高い駅であったわけです。ちなみに、開業時に設定された列車は、上下僅かに3本ずつでした。
 佐久地域を南北に貫く小海線(旧佐久鉄道)は、小諸で分岐していますが、そのルーツである東信軽便鉄道が、大正2(1913)年に免許を取得した際の路線は、小諸〜小海、御代田〜岩村田、岩村田〜中津となっており、御代田がもう1つの分岐駅となる可能性もありました。免許取得後まもなく、佐久鉄道の路線は小諸〜中込間に変更され、実現はしませんでしたが、そんな話にも、御代田が佐久平のゲートと意識されていたことを感じます。
 佐久平を周遊するために、御代田駅を利用した著名人も少なくありません。例えば、若山牧水は、「(大正11年の)10月14日夜8時信州北佐久郡御代田駅に汽車を降りた」と『みなかみ紀行』に記していますし、昭和11年5月14日には、種田山頭火が御代田駅に降り立ち、浅間山や佐久の風物を題材に、いくつも句を残しています。
 御代田駅のもう一つの注目点は、スイッチバックを採用した長野県内で最初の駅であったことです。このあたりは25‰(1000m進むと25mの高度差が生じる)という急勾配が連続しており、そこにホームを設けた場合、蒸気機関車のパワーでは、一旦停車すると、引き出せなくなってしまう恐れがあります。また貨物の取扱をする上でも、駅の部分はできるだけフラットにする必要があり、スイッチバックを採用したわけです。電気機関車や電車であれば、勾配区間にホームを設けても支障がないことから、電化(1963年)、複線化(1968年)後、スイッチバックを解消するため、駅を移設することになり、1971年4月26日に新駅(現在の御代田駅)が開業しました。その際に貨物の取扱はなくなり、旅客駅化されています。スイッチバック時代の旧駅構内は、町営駐車場などに転用されていますが、今でもその名残を感じることができます。懐かしいスイッチバック時代の御代田駅と現在の状況を、写真でご紹介することにしましょう。

まずはスイッチバック時代の駅舎と駅前風景です。駅舎は、現在の駅とは逆に、北側(浅間山の側)をむいていて、駅前には千曲バスの営業所がありました。1962年(昭和37年)の夏に撮影したものです。
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上の二枚の写真と同じ場所の現在の様子です。千曲バス御代田営業所の跡地は更地になっていますが、隣の商店だった家の前には現在も自動販売機が置かれています。

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 駅前にあった観光案内板の一部です。右側が軽井沢方面、左側が小諸方面で、御代田駅がスイッチバックの形に描かれています。

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画質が悪く、ブレてもいて恐縮ですが、御代田駅のホームの様子がわかる写真です。跨線橋はなく、ホームの端の階段を降り、線路を横断して、駅舎のあるホームと行き来していました。D50形蒸気機関車牽引の上り貨物列車が写っていますが、すでに電化が完成して二ヶ月ほど経ったころの写真です。<1963年(昭和38)年8月8日撮影>
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 上り列車の場合、一旦スイッチバック線に入った後、バックで駅へ進入します。客扱いが終わり駅を出発すると、本線に入って信濃追分方向へ進んで行きます。下り列車はその逆の動きをするわけです。以下の4枚の写真は、上り上野行326列車が御代田駅に到着し出発していく様子を撮影したものです。<1966年12月26日撮影>

 326列車がやってきました。このあと進行方向右手(画面では左端)のスイッチバック線へと入っていきます。画面の右手奥が御代田駅です。
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スイッチバック線(手前)からバックで御代田駅に進入する326列車です。
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客扱いを終え、御代田駅を出発して信濃追分へとむかう326列車です。
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信濃追分へと去って行く326列車です。右側がスイッチバック線です。
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御代田駅のスイッチバックは、通過可能なスタイルでしたので、優等列車は駅にもスイッチバック線にも入らず通過していきました。これは、この年の10月に運転開始したばかりの電車特急下り「第1あさま」(181系電車)が通過して行く様子です。<1966年12月26日撮影>
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スイッチバック線があった場所の現状です。線路の一部が残っており、往時の姿をとどめています。
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326列車が折り返していたクロッシングのあった場所の現状です。中山道の踏切も撤去され地下道(人と自転車用)化されました。
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かつての御代田駅への進入路(右側)は雑草に覆われています。左手に見えているホームは、現在の御代田駅です。
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新駅に移転して4ヶ月後の御代田駅です。<1971年8月21日撮影>
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同じ日の旧駅の様子です。線路は撤去されたものの、ホームや待合室は残っていました。<1971年8月21日撮影>
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浅間山を背にした現在の御代田駅です。
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旧駅の構内は、町営駐車場になっています。
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旧駅跡に運び込まれて保存されることになったD51787です。<1971年8月21日撮影>
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D51787が保存された場所の現状です。レールは撤去されましたが、かつての面影は残っています。
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ホームの煉瓦積みも一部残っています。
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ダルマ市で賑わった初午祭〜鼻面稲荷神社

2018/02/12 23:27
 浅間山麓を代表するお稲荷さんといえば、佐久市の岩村田地区にある鼻面稲荷(はなづらいなり)神社です。五大稲荷の1つともいわれており、湯川(軽井沢の白糸の滝や千ヶ滝から流れてくる千曲川の支流)の絶壁の上に建つ懸崖づくりの社殿は、見応えがあります。
 昨日は同神社の初午祭があり、物見高いポン太も出かけてみました。神社の周辺は、いつもは人の気配が感じられないほど静かなところですが、この日はまったく違っていました。市街地から神社へむかう参道(といってもごく普通の住宅街の中の道です)には、食べ物や縁起物を売る露店が並び、人の波が途切れることはありません。境内に入ると、おびただしい数のダルマ、またダルマです。それを買い求める参詣客の数も尋常ではありません。
 以前、この祭の存在を知らずに岩村田の市街地を車で通った際に、ダルマをぶら下げた人が次から次へと歩いてくるので、何だこれは、と驚いた記憶があります。それだけ、初午祭のダルマ市は人気があり、ダルマを買う人が多いのです。
 飛ぶように売れていくダルマですが、その一方では、お役御免となって廃棄されるダルマもあります。湯川の河原で、古くなったダルマを燃やす「奉焼祭」があると聞き、そちらも見物することにしました。あたりが薄暗くなるころ、キツネの面をつけ、提灯を手にした子供たちが集まってきました。ちょっと不気味でもありますが、その子供たち(の一部)が、火付け係となり、積み上げられたダルマを燃やすのです。燃え上がる炎とライトアップによって浮かび上がった社殿、水面にゆらめく明かり。なんとも幻想的な風景に、寒いのを忘れて見入ってしまったポン太でした。

 湯川の清流を見下ろす、懸崖づくりの鼻面稲荷神社です。
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 露店が並んだ参道です。
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 ここからが神社の境内ですが、人が溢れています。
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 このダルマどうかね
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 ダルマさんがならんだ
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 鼻面稲荷の本殿です。
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 中に入るとお参りの順番を待つ行列ができていました。
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 お参りを終え、ダルマを買ったら、鳥居をくぐって帰途へ。
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 あたりが暗くなり「奉焼祭」が始まりました。まずは神官による神事です。
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 子狐たちが登場しました。
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 いよいよ点火です。
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 燃えろ燃えろ
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 燃えさかる炎に呼応して打ち上げられた花火。祭のクライマックスです。
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 少し離れて眺めてみると、こんな幻想的な風景でした。
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鹿教湯温泉探訪

2018/02/10 23:21
 「あそこは中気の湯だ」という亡父の言葉を聞いたのは、ポン太が子供のころのことです。その意味がわからず、よほど変わった温泉なのかなと思ったのを覚えています。中気という言葉は、今では死語に近いかと思いますが、脳血管障害の後遺症を意味します。その快復に卓効のある温泉、リハビリの名湯だと言いたかったのでしょう。
 ふいにそんな亡父の言葉を思い出したポン太ですが、その温泉には1度も行ったことがありません。旅館のコマーシャルをテレビで見て、ほかの温泉とどれほどの違いがあるのか、確かめたくなってしまいました。予約を入れるとすんなりOKでしたので、出かけてみたというわけです。
 その温泉の名は鹿教湯(かけゆ)。上田と松本の中間に位置し、開湯は1200年以上前といわれる古い温泉場です。信心深い猟師に、鹿(実は文殊菩薩の化身)がその場所を教えたという伝説があり、それが地名の由来とされます。
 温泉の効能書きを見ると、高血圧症、動脈硬化症、脳卒中の後遺症等と記されています。なるほど、「中気の湯」であることに間違いはなさそうです。温泉街は予想していたよりも大きく、大小の旅館、ホテルが立ち並んでいましたが、その中心にあったのが、鹿教湯病院の建物。リハビリテーション専門の病床をもつ大きな病院で、この温泉の歴史と性格を如実に示してくれる存在といえそうです。
 レトロな感じのする温泉街を歩くと、いたるところに道標があり、その表示が距離ではなく、歩数で示されていることに興味をもちました。リハビリ中の人にとっては、歩く目安となり、励みにもなるわけです。
 内村川沿いの外湯(現在は共同浴場「文殊の湯」)へは湯坂という坂を下って行きます。その先の内村川に架かる高台橋を渡り、少し登ったところに文殊堂と薬師堂があり、それらをめぐる遊歩道も整備されています。温泉で身体をほぐし、適度なアップダウンのある気持ちのよい道を歩くことで、身体機能を回復させる。リハビリという言葉さえなかった時代の知恵が感じられました。
 高台橋は、珍しい屋根付きの橋で趣があります。遊歩道は除雪されていたので、今の季節でも難なく歩くことができました。随所にベンチが置かれているなど、確かにここは人にやさしい温泉場だと実感しました。やさしいといえば、お湯そのものも無色透明かつ無臭でクセがなく、やさしくやわらかな感じがします。湯治のおかげで、帰るころには杖に頼らなくてもよくなるので「杖要らずの湯」と称された由。確かに身体に良さそうな湯です。
 いざとなったらここで療養するか。そんなことを言いましたら、「冗談じゃない」とポン子に叱られてしまいました。転ばぬ先の杖、体調管理を心がけ、時折このような温泉でのんびり、やはりそれが一番ですね。

 山々に囲まれた鹿教湯温泉の全景です
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 温泉街の中心、温泉の守り神「温泉祖神」前の通りは、レトロな雰囲気です。
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 温泉のメインストリートを行くバス。バス停前に「鹿教湯病院」の大きな看板が見えます。
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 旧源泉に通じる湯坂の入口。老舗旅館が並んでいますが、看板に「内湯開祖」とあり、歴史を感じさせます。
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 屋根のある五台橋。前方の階段の上が薬師堂です。階段を迂回する遊歩道もあります。
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 距離ではなく歩数を示した道標。
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 文殊堂へと続く遊歩道です。
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 病気平癒の仏様、薬師如来が安置されている薬師堂です。治癒を感謝してたくさんのぞうりや草鞋が奉納されていたそうですが、改修工事中のため、今はありません。
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 薬師堂の裏には家族の健康や幸せを願うたくさんの地蔵が並んでいました。
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 温度計は氷点下1度を示していましたが、遊歩道を歩いていると寒くは感じません。
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 遊歩道には、紅葉橋という吊り橋もあります。その名のとおり、秋にはすばらしい景色が楽しめそうです。
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反骨の信州

2018/02/06 10:36
 青木村は上田市の西方に位置する人口四千ほどの小さな村です。村の入口に「義民の里」と大書した標柱が立っていることに興味を感じたポン太は、村の歴史文化資料館を訪ねてみました。画像
 一般的な郷土資料館と異なり、ここの目玉は、「義民」と「栗林一石路」に関する展示です。なぜ義民の展示が主なのかといえば、この地から、何度も一揆が起こり、リーダーとして死地に赴いた農民、すなわち「義民」を数多く生んだ土地柄であるからです。展示されていたパネルを読み進むにつれ、村人の窮状を救わんと立ち上がった彼等の崇高な精神に胸を打たれました。
 最も大規模な宝暦の一揆では、領内の農民一万数千が一斉に上田城下に押し出し、農民側の要求をほぼ認めさせるということで決着しましたが、「発頭人」として夫神村組頭の浅之丞と百姓半平が死罪となりました。彼等のような義民を顕彰し、その精神を受け継いでいこうというのがこの村の基本姿勢なのです。顕彰活動の一環として「義民太鼓」がつくられ、イベントなどで演奏されるということですが、「圧政に抗して立ち上がった農民が最後の手段として生きる権利を主張し、竹に挟んだ訴状を掲げ、訴状を掲げた男が倒れると次の者が、力尽きると又他の者が、仲間の屍を乗り越えていく」といった説明文を読んだだけで、ポン太などはもうウルウルしてしまいます。

 これが青木村歴史文化資料館です。隣接する図書館から入館できます。入館料は無料です。
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 義民資料展示室の中です。
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 一揆の首謀者が斬首される場面を描いた絵です。
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 これは明治2年に勃発した「世直し一揆」の際に、農民と役人が交わした議定書の展示です。村役人は入れ札(選挙)によるとの記載があり、農民たちの要求の一端がうかがい知れます。

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 宝暦の義民半平の墓です。「いさぎよく散るや此世の花ふぶき」という辞世の句を残したそうです。
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 宝暦の義民の墓の近くに建立された義民追悼句碑です。「信に開き義に散る花や蓮二輪」と刻まれています。
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 もう一方の「栗林一石路」に関する展示ですが、一石路は村出身の自由律俳句の俳人です。といってもただの俳人ではなく、同盟通信(戦後、共同通信と時事通信に分離)の社会部長を務めたジャーナリストでもあり、戦争へとむかう時代と向き合い、抗った人物です。治安維持法により検挙され投獄されてもいます。「大砲が巨きな口をあけて俺に向いている初刷」といった反戦句や、ふるさとを慈しむ句を数多く残しています。義民とともに、こういう気骨のある人物を顕彰していることに、感銘を受けました。
 青木村に限らず、権力に抗った人物を顕彰したり、記憶に留めようという活動が、信州では盛んであるように感じます。青木村に隣接する別所温泉(上田市)には、戦前の労働農民党(労農党)の代議士で、治安維持法の強化に反対し右翼に殺された山本宣治の碑があります。戦時中、警察から取り壊し命令が出た際に、その碑を自宅の庭に伏せて隠し通したという、老舗旅館主の顕彰碑も併置されています。

 義民資料室と隣り合わせの栗林一石路資料室
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 別所温泉の山本宣治の碑。ラテン語で、座右の銘であったという「生命は短し科学は長し」と記されています。殺される四日前に、上田で同氏の講演を聞いて感激した農民たちが、その死を悼んで建立したということです。
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 長いものに巻かれない、巻かれてはいけないという気風。信州からジャーナリストや評論家、出版人、映画監督といった人材が輩出している背景には、それがあるのではないか、青木村を歩いて、そんなことを感じたポン太でした。ちなみに、財政上の優遇策というアメを用意して、政府が強力に推進した「平成の大合併」ですが、信州では合併せずに自立を選んだ町村も多く、現在でも「村」が35(その数は全国1)もあります。ここにも、そうした気風があらわれているように思うのですが、どうでしょうか。
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待ってました冬景色

2018/02/03 08:47
 人に会えば、「今年は雪が少なくて助かりますね」とか、「このところ暖かな日が多くてほっとしますね」といった言葉を発することが多いポン太ですが、実は本音は違います。冬は冬らしく、雪景色や霧氷をたっぷり楽しみたい。雪よ降れ降れもっと降れ、寒気よ来たれもっと来い!です。
 以前にも記したとおり、浅間山麓は元々雪の少ないところです。東京と同じように、太平洋岸を低気圧が進んだ際に雪が降るケースが多く、冬型の気圧配置で大量の雪が降る北信地域とは事情がまったく異なっています。それにしても、この冬は雪が少なく、積雪もほとんど無かったのですが、ようやく昨日、ポン太待望のまとまった雪が降りました。森も水辺も白銀の世界となり、いつもの散歩道が別世界のようです。早速、カメラ片手にウォーキングにでかけたことはいうまでもありません。
 夜も雪景色を楽しみたいと、昨夜はプライベート「氷燈祭」を企画。火山の噴火口に見立てた雪穴に、ローソクを立てて点灯するだけという極めてシンプルなものですが、いつもの庭とは思えない幻想的な雰囲気に、これぞ冬のロマンなりと自画自賛のポン太でした。

 いつのまにか窓の外は雪景色。ポン太の森も白銀の世界に変わりました。
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 降りしきる雪に水辺(御影用水)の景色も一変。
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 雪化粧したいつもの散歩道。絵本の中を歩くような気分です。
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 雪が止むと、ワンちゃんの散歩に出てくる人が増えました。この景色をみれば、人もワンちゃんも歩きたくなりますね。
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 気がつくと軒先に大きなつららができていました。やはり冬はこうでなくちゃ。
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 プライベート「氷燈祭」です。氷のランタンを用いているわけではないので、「雪燈祭」が正しいかもしれませんね。
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D51787物語

2018/02/01 09:29
 しなの鉄道で軽井沢から3駅目の御代田駅。その旧駅(スイッチバック時代の駅)跡に保存されている機関車がD51787です。この機関車は、今にも走り出すのではないかと思えるほどきれいに整備されていて、初めて見た人は驚くのではないでしょうか。画像
 D51形は、製造両数最多を誇る日本を代表する蒸気機関車で、「デコイチ(またはデゴイチ)」の愛称でよばれていることをご存知の方は多いと思います。このD51787は、戦時中の1943(昭和18)年に汽車製造大阪工場で製造されました。水戸機関区に配置された後、木曽福島機関区に移り、中央西線で長く用いられた機関車です。1971年に廃車となった後、御代田町に無償貸与され、同年4月23日から現在地で保存されています。
 この機関車がずばぬけて美しい姿を保っている背景には、一人の男性の執念、いや機関車愛がありました。その方に初めて出会ったのは、2004年の夏だったと思います。近くを通りかかったポン太が、この機関車を眺めていたところ、作業着を着た男性が現れ、「機関車に興味があるのですか」と声をかけてくれました。そして、「この機関車は現在復原整備中で間もなく動くようになりますよ」というのです。最初は半信半疑で聞いていたのですが、修復方法など詳しいお話を伺うにつれ、これは大変なことにチャレンジされている方だと理解しました。その方の名は、大日方孝仁。同氏はかつて国鉄長野機関区に庫内手として勤務されていた由。後日、耳にした話では、国鉄を退職後、ダンプカーの運転手をされていたということですが、偶然通りかかった御代田で、この機関車を発見。関わりのある懐かしい機関車が、傷み始めている様子をみて修復を決意し、自分にそれをやらせて欲しいと町役場に直訴したのが発端ということです。
 庫内手として蒸気機関車に接した経験が活かせるということでしたが、工場のような設備もないこの場所で、独力でそれを成し遂げるのは容易なことではありません。手弁当どころか、貯えていた国鉄の退職金まで投入したそうですから、まさに心血を注いで取り組まれていたわけです。
 その翌年、動かすことに成功したとの連絡をいただきました。2005年1月16日22時43分のことだったそうです。実際に火を焚いて蒸気を発生させるのではなく、圧縮空気を外部からシリンダーに送り込み、ピストンを動かすという手法です。
 その年の11月、御代田を訪ね、D51787を隅々まで見学させていただきました。修復の経緯や、ピカピカに磨き上げられた機関車の各部の機能についても、詳しく解説していただき、動かした際の映像も見ることができました。残念だったのは、その場で実際に動くところを見られなかったこと。大日方氏のお話では、動かすことに町が難色を示しているので、もう無理かもしれないとのことでした。

 見事に磨き上げられた走り装置。まるで新品のようです。
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 見学者にわかりやすく丁寧に解説して下さった大日方氏(2005年11月)
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 その後、大日方氏にD51の修復を依頼する自治体が現れました。群馬県の川場村です。大日方氏は依頼に応じ、村に保存されていたD51561を見事に復原。動くD51は村の観光の目玉となりました。ポン太も2007年の夏に川場村を訪ねたことがありますが、その施設の職員となった大日方氏は、整備と運転を一手に引き受け、まさに水を得た魚のごとく大活躍されていました。
 大日方氏が先鞭をつけた、圧縮空気を用いて蒸気機関車を動かすという方式は、その後、若桜町(鳥取県)のC12167、真岡市(栃木県)の49617へと広がっていきました。神奈川県山北町でも、保存していたD5270を動態化することになり、依頼を受けた大日方氏は、現地の旅館に泊まり込み、寸暇を惜しんで修復に取り組まれた由。一昨年(2016年)の10月14日(鉄道の日)に「復活祭」が行われ、D52の動く姿が町民やファンに披露されたそうです。ところが、その僅か9日後の23日未明、中国自動車道で発生した不慮の事故により、大日方氏は帰らぬ人となりました。享年61歳でした。

 川場村のD51は子供たちに大人気でした。
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 残念なことに、D51561の運転は継続できなくなってしまいました。「SL駅入口」の前に張り出された運行終了の掲示です。 
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 大日方氏が最後に整備された山北町のD5270です。こちらは若桜鉄道機関士の協力を得て、イベント時の運転が継続されるそうです
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 御代田のD51787は、今は動くことはありませんが、ボランティアの方々の手により、大日方氏が修復した当時のままの美しい姿を保っています。その前を通る度に、D51への熱い思いを語っていた大日方氏の笑顔が思い出され、思わず頭を下げてしまうポン太です。
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「安養寺らーめん」を食す

2018/01/29 22:12
 国民食ともいわれ、最近では外国人にも大人気のラーメン。しかし、ポン太にとっては、ちょっと苦手な食べ物です。子供のころの印象が悪かったせいかもしれません。昔はラーメン専門店などなく、そば屋で提供されるラーメンは、醤油味が濃い上に、トッピングは、極薄のチャーシュー、鳴門、メンマ、僅かなネギに海苔ぐらいで、見た目からして貧相な食べ物。こんなもので食事をした気にはとてもなれないという感じでした。齢を重ねて、血圧が気になりだすと、塩分の多いラーメンを食べる気はますます無くなりました。ラーメン観が少し変わったのは、以前住んでいた家の近くに横濱家という店が開業した時です。お付き合いで食べに行ったのですが、トッピングの野菜が山のように盛られていたのと、塩分や油分を希望により調節してくれるのが嬉しく、こんなラーメンなら食事と考えてもよいかなと思うようになりました。
 最近の佐久で、ご当地グルメとして売り出しているのが、「安養寺らーめん」です。安養寺は、佐久市の北部に実在する臨済宗妙心寺派のお寺ですが、鎌倉時代に覚心という僧が中国から味噌作りを伝えたといわれ、「信州味噌発祥の地」とされています。その話をもとに考案されたのが「安養寺らーめん」というわけです。「安養寺みそ」をスープのタレに80%以上使用したものであれば、麺やトッピングは自由。現在、市内の15店舗ほどで提供されています。
 このところ昼間でも氷点下という寒い日が続いていて、外を出歩いていると身体が冷え切ってしまいます。そこで、「安養寺らーめん」とやらを食べて暖まろうかと、国道141号沿いの「桃花」という中華料理店に入ってみました。その店の「安養寺らーめん」は、野菜がたっぷりで、味噌の風味も良く、塩分は控えめ、ポン太にとっては馴染みやすい味でした。満足度が高かったせいか、ほかの店はどうなのだろうか、食べ歩きも悪くないのではと、思うポン太でした。あれ、ラーメンは苦手のはずでは…。タヌキは気まぐれです。

 こののぼりが、「安養寺らーめん」を提供しているお店の目印です。
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 佐久平の国道141号に面している桃花という中華料理店です。
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 これが、このお店の「安養寺らーめん」です。野菜がたっぷりで嬉しくなりました。
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 麺が選べるので、ポン太は太麺を選択。かなりの極太ですが、細麺がとにかく苦手で、とくに「ソーメン」が大嫌いなポン太にとっては好ましい太さです。
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 信州味噌発祥の地とされる安養寺です。山門や鐘楼がよい雰囲気を漂わせています。ここはまったくの山里で、まわりには1軒の店もなく、もちろん「安養寺らーめん」を食べることはできません。
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世界遺産級の小諸の風穴

2018/01/25 22:10
 今朝は全国的に冷え込み、東京では48年ぶりという氷点下4度を記録した由。テレビで寒い寒いと大騒ぎしている様子が映しだされていましたが、こちら浅間山麓の最低気温は氷点下14度。最高気温が氷点下5度でしたから、氷点下4度程度はごく普通の寒さということができます。だから、そのぐらいがまんしろ、なんていうことは言いません。(言っているのと同じじゃないかって?そうかも)
 閑話休題、この寒い日に「氷」の話で恐縮ですが、小諸市の千曲川の左岸に、氷という集落があります。地図でそれを見つけた時には、ずいぶん変わった地名があるものだと思い、どんなところなのかと興味をひかれました。それが風穴に由来するものであることを知ったのは比較的最近のことです。樹木の葉が落ちているこの時期なら、遺構を確認しやすいのではないかと考え、訪ねてみました。 
 その場所は火山の噴出物からなる御牧ヶ原台地のフチにあたるところでした。地下に石室を設ければ、礫の隙間を流れてくる空気により、その中は一年中一定の温度(夏でも3℃ということです)に保たれます。天然の冷蔵庫である氷室(氷風穴)のある里ゆえに、「氷」という地名がついたと想像できます。
 風穴の主たる貯蔵品は、蚕種とよばれるカイコの卵でした。低温で保存することで孵化を抑制するわけです。それにより繭をつくらせる時期をコントロールすることが可能となり、蚕糸業の発展に大いに寄与しました。群馬県の荒船風穴は、富岡製糸場とともに世界遺産に登録されています。
 同様の役割を果たしたと考えられる小諸の風穴ですが、行ってみて驚いたのはそのスケールの大きさ。まだ現役で使用中の一ヵ所以外に、目視できる範囲で数カ所、立ち入りが難しいところも含めれば、十数カ所あるということですから、これは「風穴群」と呼ぶにふさわしいものでしょう。荒船の風穴と比べて、遜色がないどころか、それを上回る規模の、世界遺産級の産業遺産であるように思います。よいものを「発見」して、有頂天になったポン太でした。

「氷」集落の入口です。立派な石の標識が建てられていました。
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ここが「氷」集落です。裏山に風穴が存在しています。この先は山道なので車で行くことはできません。
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現在も使用されている唯一の風穴です。
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風穴の入口です。明治7年3月に創設されたと記されています。
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上屋が失われた状態の風穴です。かなりの容積があることがわかります。
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たくさんある石積みは、すべて風穴の遺構です。
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高い位置にあった風穴の遺構です。ここから吹き出る風の温度は16℃と高め。温風穴と呼ばれているそうです。温度測定中の札が立っていました。
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風穴群の中央にある神社です。ちょっと読みにくいのですが、鳥居には「氷室稲荷大明神」と記されています。
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これは以前訪ねた世界遺産の荒船風穴です。構造がよく似ていることがわかります。
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「氷」集落の帰りに立ち寄った本物の氷です。布引観音の参道脇に見事な氷瀑ができていました。
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えっ、本白根山が噴火?

2018/01/23 22:38
 大雪で首都圏が大混乱というニュースに驚いていたのも束の間、今度は草津白根山が噴火し、犠牲者がでているというニュースにびっくり。浅間山という日本を代表する活火山の麓にいるポン太ですから、火山情報には敏感にならざるをえません。草津白根山は、浅間山のお隣さんであり、何度も訪れている山ですからなおさらです。
 今回の噴火は、大勢の観光客が訪れる湯釜のある白根山ではなく、その南方3キロほどのところに位置する本白根(もとしらね)山の鏡池付近で起きたということです。深田久弥は、著書『日本百名山』の中で、「こちらのほうが十数米高いから、これを草津白根の本峰と見なすべきかもしれない」と記しており、登山者には人気の山です。ポン太も二回登っていますが、旧火口の巨大なクレーターや、神秘的な雰囲気を漂わせる池など、バラエティーに富んだ景観を楽しむことができます。しかし、そうした地形はすべて火山活動によってつくられたもの。噴気ガスのニオイを感じるような場所もあり、生きている火山という実感はありました。
 それにしても、まさかあの場所で噴火が起きるとは。噴火の予知や噴火時の対応の難しさを、あらためて痛感させられます。 御嶽山もそうですが、登山時にこのようなことが起きれば、ポン太だって犠牲者となる可能性があり、とても他人事とは思えません。

 本白根山に登った際の写真をいくつかご紹介します。これは登山口近くの弓池と白根山です。
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 雄大な景観を楽しみながらの山歩きです。
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 旧噴火口の1つ、カラ釜です。
 
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 この大きなクレーターも旧噴火口です。
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 今回噴火が起きたとされる場所の近くの鏡池です。いまどうなっているのでしょうね。
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見ている方が震えてしまう「寒の水」

2018/01/21 10:19
 浅間山麓を代表する奇祭といえば、御代田町の草越地区で行なわれる「寒の水」ではないでしょうか。一年で一番寒いとされる「大寒」の日に行われる行事で、ふんどし一つの男たちが、「兎巾(ときん)」と呼ばれるワラの冠にわらじ履きといういでたちで行う寒行の一種です。御嶽信仰の行の名残といわれ、県の無形民俗文化財に指定されています。
 まずは出発地点の公民館前に置かれた大桶の水を浴びます。その後、集落内を駆け抜けますが、路上にも数ヵ所に大桶が置かれており、そこでも水を浴び、集落のはずれにある熊野神社をめざします。神社に到着すると、兎巾を奉納して「無病息災」「五穀豊穣」を祈願するというものです。
 今年も、大寒の1月20日に行われました。このところ少し寒さが緩んで、雪も全くないという、参加者にとっては幾分救いのある状況でした。それでも標高900mの高地ですから、水行が始まったころの気温は恐らく氷点下。ポン太の手はかじかみ、カメラのシャッターがうまく切れません。防寒着を着ていても身体の芯まで冷えてしまいました。
 水行の主役はこの草越区の青壮年ですが、公募(ただし同区の紹介が必要)も行われていました。手をあげた方の勇気には脱帽するしかありません。どうせ寒い思いをするなら、ポン太も手をあげたらどうかって?いえいえ、ロートルダヌキでは、神社に到達する前に天国行きとなってしまいますよ。

 「寒の水」が行われた御代田町の草越集落。高原野菜の産地で、レタス畑に囲まれています。
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 見物客には、御代田町の名物「おにかけうどん」が振る舞われました。祭りが始まる前に、まずはこれで暖をとります。
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 威勢の良いかけ声とともに、いよいよ「寒の水」が始まりました。
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 路上でも水を浴び続けます。うー寒そう。
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 どうだ!このくらい浴びなくちゃ気合いが入らないよ。
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 熊野神社前に到着。神妙な面持ちで階段を登ります。
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 本殿に兎巾を奉納します。この順番を待つ間が一番つらい、水を浴びて走っているほうがずっと楽、というのが水行者の感想でした。
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 神社から戻る際にもまた水を浴びます。奉納してしまったので兎巾はありません。こうなったら思いっきりいくぜ、えい!
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 公民館前にもどり、ワラのたき火で身体を温める水行者たち。お疲れ様でした。
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「温泉でほっこり」にも裏技

2018/01/19 22:03
 志賀高原の地獄谷には、世界でも珍しい温泉に入るサルがいます。「スノーモンキー」として外国人に大人気ですが、サルならずとも、この季節には温泉でほっこりしたいもの。 幸いなことに、信州は日帰り温泉施設の数が全国一多く、温泉入浴が生活の一部になっている感じがします。入浴料金の相場は500円前後ですから、東京の公衆浴場(銭湯)と同程度。それでもしょっちゅう出かけるとなると、少しでも安く入浴できる方法を考えたくなります。
 回数券をはじめ、ポイント制度や割引券、クーポン券などを利用すれば、1回あたりの料金を銭湯より安くすることが可能ですが、実はもっとすごいものがあるのです。長野県観光機構というところが発行している、『信州物味湯産手形』を購入すれば、なんと一回あたり108円で入浴することができます。この手形は、購入日から1年間有効で、登録されている県内49ヵ所の入浴施設(年度によって入れ替えあり)の内の12ヵ所に1回ずつ入浴できるという優れもの。購入額は税込みで1300円ですから、使いきれば1回あたり108円となります。3カ所めぐるだけで、通常入浴料金の合計より安くなりますから、その先はタダで入浴しているような気分です。10回目ぐらいになると、手形で入浴するのが申し訳なく思えて、食堂で飲食したり、売店で農産物を買ったりしてしまいます。ムムッ、それが狙いなのかな? それでも湯巡りは楽しいので、現在、4冊目となる手形を使用中のポン太です。

 地獄谷のサルたちです。気持ち良さそうに温泉に入っています。タヌキだって入りたいよ〜。
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 これが『信州物味湯産手形』のパンフレットです。
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 ポン太の生活圏である東信地域だけでも、現時点で14カ所の施設が登録されていて、その中には、以前のブログで美肌の湯としてご紹介した「ささらの湯」(上田市)も含まれています。下の写真は、東御市の「湯楽里(ゆらり)館」ですが、ここも登録施設の1つです。
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 湯楽里館の露天風呂からは、美しが原方面の大展望を楽しむことができます。
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雪山トレッキング

2018/01/17 10:41
 山歩きが好きなポン太ですが、原則として冬(雪)山はやりません。技術も体力もないからです。されど、雪のある山自体は魅力ですし、せっかく信州に住んでいるのですから、雪山の雰囲気だけでも味わいたいもの。そこで、冬季以外に何度も登っていて、登山道の様子もよくわかっている高峯山へトレッキングに出かけました。
 浅間山麓はもともと雪の少ない地域ですが、それにしてもこの冬は拍子抜けするぐらい雪が降りません。ポン太の家のまわりの積雪はゼロです。しかし、浅間連峰の2000m級の山となれば話は別で、それなりの積雪があります。車で高峯山の登山口である車坂峠まで行ってみたところ、積雪はおよそ30〜40cmといったところでした。踏み跡のある登山道であれば、かんじきやスノーシューがなくてもなんとか登れそうです。念のために軽アイゼンをリュックに入れて山に入りました。
 雪の上を歩く気分は爽快ですが、無雪期と比べると倍のエネルギーが必要です。気をつけて歩いているつもりでも、時々膝ぐらいまで雪の中に潜ってしまったりするので、足腰の疲労度も全然違います。雪に足をとられて体力を消耗し遭難に至ったというニュースをよく耳にしますが、冬山では大いにあり得ることだと実感します。
 疲れはしましたが、往復2時間半の雪山トレッキングは、里山とは全く異なる面白さがありました。やり過ぎて遭難などということにならない程度の雪山トレッキングは、古ダヌキでもまだしばらくはチャレンジできそうな気がします。
 ※以前のブログ(昨年の8月10日付)では「高峰山」と表記しましたが、国土地理院の地形図で確かめたところ、「高峯山」となっていましたので、訂正します。ガイドブックなどでは「高峰山」となっている場合もあり、「高峰高原」「高峰温泉」いった表記もみられますので、ちょっとまぎらわしいですね。
 

車坂峠です。車坂峠までの道は除雪されていて、難なく到達しました。
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高峯山への登山口です。半分雪に埋まっている鳥居の右側から登り始めました。
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気持ちの良い雪道です。
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尾根に出ると左手前方に高峯山が見えてきました。
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尾根道を進みます。振り返ると黒斑山がよく見えます。
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ますます展望が良くなってきました。ビバ雪山!
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尾根越しにみえる雪山は、上越国境の山々のようです。中央の双耳峰は谷川岳かもしれません。
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どこが登山道かわかりにくいところもありますが、木の枝に目印の赤い布が結ばれていて助かりました。
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この足跡は?野ウサギでしょうか。
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標高2106mの高峯山の頂上です。
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登頂成功を祝って万歳!ヒマラヤに登頂したかのような雰囲気ですが、冬山ど素人のポン太たちにとっては、ここがエベレストです。
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山頂からの黒斑山方面の眺めもなかなかのものでした。
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霧氷ふたたび

2018/01/16 00:33
 このところの冷え込みは厳しく、最低気温は、連日氷点下10度を下回っています。そうなると期待感が高まるのが霧氷です。予想に違わず、昨日は、今季2度目となる霧氷をみることができました。水分量の関係か、ポン太の家の回りの霧氷は、前回ほどきれいな感じではなかったのですが、佐久市の平尾山では、中腹以上が見事な霧氷の世界になっていました。
 霧氷がつくと同じ場所とは思えないほど景観が変わります。おとぎ話の世界に迷い込むような感じとでも言いましょうか、純白の森の中の徘徊は心が浮き立ちます。同じ事を考える御仁はかなりいるようで、大勢の登山者とすれ違いました。予報によれば、明日あたりから、暖気が入ってきて気温が上昇するということなので、この先当分の間、霧氷をみることはできないかもしれません。そんなこともあって、今のうちにと登った人が多かったのかもしれません。

登山道のまわりは、まるで飾り物のような白い森でした。
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小さな子供たちも元気に登っていました。
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頂上付近の松も別物になっていました。
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まるで白い珊瑚礁のような森です。
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初日の出を眺めた方向の尾根も、一面に霧氷の花が咲いていました。
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どこか懐かしいどんど焼

2018/01/14 18:18
 どんど焼は、松飾りやしめ飾りといった正月の飾り物を集めて焚く小正月の習俗で、全国的に広く行われています。しかし、ポン太にとっては馴染みのあるものとはいえません。浅間山麓にやってくるまで、一度も本物を見たことがなかったからです。
 そもそも、家屋が密集している都会では、どんど焼を安全に行えるような場所は限られますし、野焼きの類は条例等で禁止されており、例外的に認められるケースでも、近隣住民からの苦情が少しでもあれば実施できません。東京でほとんど行われていないのは、江戸時代に火災を恐れる幕府により禁止されたことが影響しているのではないかという説もあるようです。
 浅間山麓では、どんど焼は町内各地区の行事で、ポン太の地区の公民館の庭でも、本日(14日)行われました。やぐら状に組まれた竹の間にいろいろな正月飾りを差し込んで火をつけると、ものすごい勢いで燃えあがります。その迫力はなかなかのものですし、燃えさかる炎を見ていると、気持ちが高ぶることは否めません。広辞苑には「小正月に村境などで行った火祭」と記されています。なるほど、どんど焼とは「火祭」の一種なのですね。
 火の勢いがおさまると、子供たちが柳の枝に刺した団子(「繭玉」と呼んでいます)を熾(おき=燃えて炭火のようになった状態)にかざして焼きます。それを食べると1年間無病息災とか。御利益の類を信じない古ダヌキのポン太ですが、こうした素朴な光景を眺めていると、どこか懐かしく微笑ましい感じがします。

 竹のやぐらに正月飾りを投入し準備完了。何が始まるのかと、浅間山が覗いています。
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 点火しました。
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 あっという間に激しい炎に包まれました。これはまさしく「火祭」です。
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 「繭玉」を持った子供たちが集まってきました。
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 火の勢いが収まると「繭玉」の出番です。
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 かざしているのはどれもカラフルな「繭玉」。聞いてみると、ほとんどはスーパーで買ってきたものでした。この時期には、スーパーの店頭で枝にセットした状態の「繭玉」を大量販売しているのです。マシュマロをつけて焼いている子供もいて、「こっちの方が美味しいよ」と言っていました。
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 これはポン太の隣の地区のどんど焼です。なぜかダルマがいっぱい積み上げられています。地区によって少しやり方が異なるようです。
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寒冷なれど雪は無し

2018/01/11 23:20
 冬休み期間中は、それなりの賑わいを見せていた浅間山麓ですが、一昨日あたりからすっかり静かになりました。この冬は、うっすらと白くなるレベルの降雪が数回あっただけで、今のところ積雪とよべるほどのものはありません。散歩(ウォーキング)も支障なく遂行できています。
 テレビの気象情報で、よく耳にするのは、「西高東低の冬型の気圧配置となり、新潟、富山、長野では積雪への警戒が必要です」といったこと。長野に雪マークがついている画面をみれば、浅間山麓も大雪で大変なことになりそうだと思ってしまう方も多いのではないでしょうか。これはとんでもない勘違いです。テレビで「長野」と言っているのは、長野市とその周辺(北信地域)のこと。長野県は広い県(全国第4位)ですし、高い山で隔てられているため、地域差が大きく、浅間山麓を含む東信地域の天気は、長野市周辺とは全く別物です。長野市以北は大雪でも、上田や佐久地域は快晴というのが通常のパターン。東信地域は全国的にみても晴天率の高いエリアで、雪も雨も少ないのです。ただし、標高が高く気温は低いので、少しの雪でもその後の凍結は厳しいものがあり、車の運転には注意を要します。
 因みに測候所(現在の名称は特別地域気象観測所)のある軽井沢の昨年の最低気温は−15.0度で、札幌の−12.8度より低い値でした。年平均気温も、軽井沢の8.2度に対して札幌は8.9度(東京は15.8度)。ポン太の住む森は、一年を通じて札幌よりも冷涼というわけです。冬場のウォーキングはつらいのではと思われるかもしれませんが、慣れというのはたいしたもので、温度計の値が氷点下1度ぐらいなら、今日は絶好のウォーキング日和と笑みがこぼれてしまうポン太です。

 昨夜はだいぶ気温が下がったようで、散歩の途中で見た池も結氷していました。
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 何の動物の足跡でしょうか。
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 雪はほんの少し降っただけですが、こんなつるつる状態になってしまったところもあります。ここは坂道ですから、ノーマルタイヤでは大変なことになります。
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 いつもの水辺(御影用水)です。雪はほんの少し残っているだけで、このまま春が来てしまいそうな感じさえしました。そんな甘いことはないでしょうが・・・。
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コブシの花芽が少しふくらんでいました。開花はまだ三ヶ月も先ですが、春の兆しだけは感じられます。
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ど迫力に驚いた道祖神祭り 

2018/01/08 22:49
 道祖神とは路傍に置かれている民間信仰の石仏のこと。村の守り神であり、街道沿いでは旅の守り神としても信仰されています。全国的に広く分布しているものですが、とくに多いのは関東甲信越で、信州などは道祖神だらけといってもよいほどです。道祖神の祭礼も各地で行われており、浅間山麓では、小諸市の御影新田で行われる道祖神祭りが有名です。長野県の無形民俗文化財にもなっており、江戸時代以来300年以上続いている伝統行事ということなのですが、地元以外での知名度は低く、実はポン太がそれを知ったのも最近のこと。一度は見ておく価値があるのではと、開催日の1月7日、氷点下3度の夜道を歩いて現地へむかいました。
 御影新田が開発されたのは、江戸時代の初期(17世紀半ば)で、軽井沢の千ヶ滝と湯川を水源とする御影用水の開削によるものです。追分の御影用水のほとりはポン太のお気に入りの散歩コースですから、御影新田という地名にはなんとなく親しみを感じてしまいます。新田開発の結果、豊穣の地となったことから、幕府直轄の天領となり、御影陣屋が置かれました。陣屋の建物は失われましたが、代官の宿所と陣屋稲荷は現存しており、道祖神祭りはその前の通りで行われます。
 祭りのハイライトは、上宿と下宿の壮麗な2台の山車が勢いよくぶつかり合うことです。10名余の押し手が、力一杯山車を押し、正面衝突させるのですから、その衝撃は大変なもの。それが何度も繰り返されます。見ているだけでも恐怖を感じるほどですが、屋台の上に乗っている数人の子供たち(小学生)は、よほど度胸があるのか、毎年のことで慣れているのか、意外にけろっとした表情でした。一番驚き衝撃を受けたのは、この祭りを初めて見たポン太かもしれません。 

道祖神祭り当日の陣屋稲荷です。ちょっと不気味な感じがします。
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陣屋稲荷に隣接した代官の宿所の中です。貴重な資料(お宝?)がいろいろありそうです。
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武田信玄(右)と勝頼の文書を見せていただきました。
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子供たちを乗せた山車が登場しました。
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もう一台の山車もスタンバイです。
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二台の山車が接近し向かい合いました。
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押せ押せ!
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激突した瞬間です。衝撃で提灯が激しく揺れています。写真ではわかりにくいのですが、ガツンというものすごい音とともに、お互いの先頭部が浮き上がった感じになります。
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衝突の後も、押せ!押せ!というかけ声とともに押し合いが続きます。その後、それぞれ30mほど後退し、再び勢いをつけてぶつかり合うということが、何度も繰り返されるのです。
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手強いそり遊び

2018/01/06 23:47
 寒冷地で小さな子供を遊ばせることのできる場所は、ショッピングセンターのキッズコーナーぐらいしかありません。しかしそれでは味気ないので、孫サービスにと連れ出したのがスキー場。一歳半の孫にスキーはまだ無理ですが、今時のスキー場には、「キッズランド」と称するそり遊び専用のゲレンデがあり、そこなら楽しめるのではないかと考えたわけです。ベルトコンベア式のオートスロープが設置されているので、上部のスタート地点へのアクセスは楽ちんです。
 見た目はゆるやかな斜面ですし、小さな子供たちがすいすい滑っているので、何の心配もせずに、孫を抱えて滑り出したのですが、身体を後に倒しすぎてしまったせいか、みるみる加速して制動不能に。コースの終端で止まることができず、クッションを持って待機していた係員に激突してしまいました。そのはずみで宙を舞いそうになった孫は、よほど怖かったようで、ジイジと滑るのはいやだと、首を強く振って以後の滑走を拒否。母親とのみ何回か滑っておしまいと相成りました。世のジイジ諸君、そりを甘く見てはいけませんぞ。

 出かけたのは佐久市のパラダスキー場。佐久平は降水量(降雨、降雪とも)の少ない地域ですから、ゲレンデの雪は全て降雪機による人工雪です。それでも、上信越自動車道の佐久平パーキングエリアに直結というアクセスの良さから、ファミリー層に人気があり、この日もかなりの人出でした。
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 これが「キッズランド」のそり専用ゲレンデです。
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 孫を抱えて元気に滑り出したのですが・・・。
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 係員の持つクッションに激突。トホホ。
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信濃の餅つき

2018/01/04 23:37
 今や田舎でも、臼と杵で餅をついている家庭は稀ではないでしょうか。冠着山(別名姥捨山)の麓にあるポン太の親戚の家は、その稀なケースに該当します。毎年1回行われる餅つきに、役立たずの助っ人として、ポン太も参加することができましたので、その様子をご紹介することにします。
 ポン太の住む東信エリアとは異なり、そこは田畑も山も一面の銀世界でした。パチパチと勢いよく燃える薪、セイロから立ち上る湯気と芳香、餅をつく際に出るスポンスポンという小気味よい音、雪景色とそれらが一体化した風情は、これぞ信濃の餅つきといっても過言ではないと思います。
 さて、その手順ですが、蒸し上がった米を臼に入れ、まずは杵で丁寧にこね、米粒をつぶします。この作業をしっかりやることが大切で、かなりの労力を要します。餅つきといえば、杵を振り下ろすシーンを思い浮かべますが、実は前段の「こね」が大変だということを、実際に体験して初めて知りました。「つく」段階では、重い杵をリズミカルに正確に振り下ろすことと、その合間に餅をすばやく裏がえして中央に寄せる「合いの手(合い取り)」とのコンビネーションが大切で、そう簡単ではありません。「つく」作業はかなりの重労働ですから交代要員も必要です。セイロの火の番や、つき上がった餅の処理(のし餅や丸餅にする)作業など、様々な役割分担があり、餅つきは大勢の家族の協力がなければ成り立たない一大行事なのです。今回は6臼分の餅をつきましたが、全部つき終わるまで半日がかりでした。

当日の朝のまわりの風景です。すこしガスで煙っている一番高い山が冠着(かむりき)山です
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庭に立派な木の臼と杵が用意されました。
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洗った餅米(もちろん自家栽培のものです)をセイロに入れます。
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お湯が煮たっている羽釜の上に、セイロを二段重ねでセットしました。この火の番もなかなか大変です。
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米が蒸し上がったようです
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臼の中へ蒸し上がった米をセットし、いよいよ餅つきのスタートです
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まずは「こね」ることから。米をよくつぶして、杵で付ける状態にします。二人がかりで行いますが、かなりの力が必要です。
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いよいよ杵でつく段階へ
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ベテランがつくとこうなります。リズミカルで力強く、合い取りとの息もぴったりあっています。餅つきの様子を冠着山が見守っています。
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つき上がった状態です
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このすごい粘り!餅を臼から取り出すのも一苦労です。つきたては美味しいかって?当然です。
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山上のご来光

2018/01/01 23:54
 明けましておめでとうございます。本年も浅間山麓のブラタヌキをよろしくお願いいたします。
 ポン太が新年最初にしたことは、元旦登山。ご来光を見ようと佐久の平尾山へでかけました。馴染みの里山とはいえ、暗い時間帯の登山というのは初めてです。ヘッドランプを頼りに恐る恐る登ってみたのですが、星空も佐久平の夜景も、黎明の山並みも、そしてもちろんご来光も、すばらしいものでした。
 山頂には200人ほどの登山者がいましたが、ご来光の瞬間、期せずして万歳の声がわき起こりました。太陽が姿を現すというただそれだけのことなのに、神々しい気分になり、有り難さを感じてしまう。我々は皆太陽の恵みによって生かされている、そんな思いが心のどこかにあるからでしょうか。
荘厳なご来光ショーが終わり、明るくなった周囲を眺めてみると、いつのまにか佐久平一帯は雲海に覆われていました。神々しさと幻想的な雰囲気をともに味わった元旦でした。

ご来光を待つ間、たき火で暖をとる人々。
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東の空が明るくなってきました。
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まだかまだかとご来光を待つ大勢の登山者
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ご来光です。荒船山の近くから太陽が昇ってきました。
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浅間連峰に打ち寄せる雲海の波
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佐久平の南方、八ヶ岳の山麓も幻想的な雰囲気です
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雲海に浮かぶ浅間山です
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あると嬉しい道標(みちしるべ)

2017/12/30 22:57
  散歩コースとしてしばしば利用している中山道で、真新しい道標をみつけました。ポン太が確認したのは御代田町内と軽井沢町内の数カ所です。いずれも「東信州 歩いて触れて 中山道」というロゴが入った同じスタイルのものでしたので、東信州エリアのほかの市町村でも同じような道標が建てられた可能性があります。観光キャンペーンの一環かもしれませんが、こうした動きは大歓迎です。
 実際に街道歩きをした経験からいえば、地図で確認し確信をもって歩いているつもりでも、万が一という不安は常にあるのです。そんな時、道端に道標があると、やっぱりこの道でよかったのだという安心感が得られると同時に、その先へ歩き続ける意欲もわいてきます。
 道標が必要なのは街道だけではないでしょう。世界を見渡せば、きな臭さい話ばかり。自分や自国のことしか考えない指導者、偏狭なナショナリズムの台頭、不寛容な精神の蔓延など、不安材料がいっぱいです。この先、世界はどこへむかうのか。来年こそは、不安解消へとつながる道標をみつけたいと願うポン太でした。
 4月から始めたポン太のブログに、いつもお付き合いいただき有り難うございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

最初に見つけた御代田町内の道標です
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歩いていると必ず目につき、この道が中山道だと確認できます
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旧軽井沢銀座のど真ん中にもこのような道標が建てられていました。これなら、街道歩きの人だけでなく、一般観光客にも、避暑地となる前の軽井沢が宿場町であったことをアピールできます。
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これは、岐阜県中津川市で目にした道標です。非常にわかりやすく、デザインも素晴らしいと思います。道標のモデルにして欲しいようなものでした。
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これは埼玉県上尾市で見かけた道標です。こんな旧道とは思えないような道でも、道標が1本あるだけで、中山道を歩いているという実感がわきます。道標は有り難きかなです。
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霧氷は天からの贈り物

2017/12/28 18:17
 浅間山麓のような寒いところによく住んでいられますね、きっと寒いのがお好きなのですね。そう言われることがありますが、決して寒いのが好きで住んでいるわけではありません。好きなのは高冷地ならではの雰囲気です。雪をいただく山々、凛とした空気、霧氷の花咲く森、そういったものにロマンを感じますし、四季の変化を味わいたいポン太にとって、冬らしい冬のある当地は、その意にかなっているといえます。
 枯れ木の森が純白の森に劇的に変身する霧氷は、何度見てもすばらしいものです。空気中の水蒸気が氷の結晶となって付着する現象ですから、低温だけでなく空気中に適量の水分がなければ発生しません。したがって、ポン太の森でも頻繁にそれが見られるというわけではありません。
 このところの冷え込みで、期待はしていたのですが、今朝、起きてみると、窓の近くのコブシの枝が白い棒のようになっていました。オッ霧氷だ!と口走りながら、カメラを手に、慌てて外に飛び出したポン太でした。

屋根の上に見える木々にも霧氷が
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樹形の良い木に霧氷がつくと、まるでつくりもののようです
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霧氷がつくと、枯れ草もオブジェのようにみえます
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常緑樹の松の霧氷も悪くありません
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霧氷咲く山です
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ハンドベルに癒されるクリスマス

2017/12/23 22:51
 森の中の古ダヌキとはいえ、この季節にはクリスマス気分も味わってみたいもの。それにはコンサートが一番と、毎年のようにお邪魔しているのが、「新島学園のクリスマスコンサートin軽井沢」です。新島学園は群馬県にある学校で、その名のとおり、同志社を創設した新島襄の精神を基盤とするミッションスクールです。大賀ホールで行われるコンサートは一般公開されており、誰でも無料で入場することができます。
 数年前に、たまにはクリスマスソングや賛美歌でも聴いてみようかと、軽い気持ちで出かけてみたのですが、聖歌隊の生徒たちによるハンドベルの演奏があまりにも素晴らしく、すっかりはまってしまいました。それまで、ハンドベルの演奏といえば、単純なメロディーを奏でるだけというイメージしかなかったのですが、この聖歌隊の演奏は、変幻自在なアンサンブル。テクニックもなかなかのものだと思います。
 コンサートの一部は、簡素化したクリスマス礼拝形式になっていて、牧師による説教もあります。「人間は元々助け合うようにつくられているのです」といった話を聞いていると、宗教心のないポン太も心が洗われます。
 ハンドベルに癒され、商業的ではないクリスマスのひとときを過ごし、会場の外に出た時の気分は何ともさわやかでした。

コンサートのチラシの抜粋です
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開場前のロビーには人が溢れていました。例年より入場者が増えているようで、席がないのではと心配になりましたが大丈夫でした。
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開演前の大賀ホール内の様子です。(開演後の撮影は不可でした)
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軽井沢周辺に雪はなく、大賀ホールの背後の浅間山だけがホワイトクリスマスでした。
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コンサートの帰りに立ち寄ったスーパー「ツルヤ」軽井沢店です。1ヶ月ほど休業し、今月12日にリニューアルオープンしたのですが、ポン太の目には、どこがリニューアルされたのかよくわかりませんでした。同じツルヤの他の店舗と比べると確かに品揃えが豊富ですが、その傾向は以前もそうでしたので・・・。
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里山の王者 上田の太郎山

2017/12/21 21:48
 上田市民で太郎山を知らない人はいません。「市民の山」として親しまれている、東京でいえば高尾山のような存在です。四季を問わず登山者で賑わっており、この山に登ることを日課にしている人もたくさんいます。太郎山神社の社務所には登山記録の板(額)が掲げられていますが、驚くべきことに、19年間で5000回登頂を達成した方が二名います。平均すれば年間263回。ため息が出るような大記録ということができます。実はそのうちのお一人に偶然山中でお会いしたことがあります。記録達成からすでに数年が経過していて、80代半ばというお年でしたが、もう一人の方へのライバル意識もあって、登り続けているということでした。
 太郎山山頂の標高は1164mで、登山口との標高差が580m強あります。高尾山は標高599mで、登山口との標高差が400m足らずですから、太郎山の方がかなりハードです。それだけに達成感があり、山頂からの展望もすばらしいので、何度も登りたくなるわけです。
 登山者を喜ばせるしかけもあります。それが丁石(石祠)の存在です。登山道に沿って、そこが何丁かを示す丁石が置かれていて、どこまで登ったかを知ることができます。ちなみに、表登山道入口のすぐ先が「三丁」、山頂近くにある太郎山神社の石段前が「二十三丁」です。
 ポン太にとって、太郎山に登る楽しみはほかにもあります。下山後、お気に入りの「刀屋」の蕎麦を味わい、肌がツルツルになる「室賀温泉ささらの湯」に浸かるというのが、ポン太の「太郎山フルコース」。多い年は数回これをやっているのですが、今年は残念ながら、今回が最初でたぶん最後です。それなのに、湯舟でみる顔は、ここ数年変わらない見覚えのある顔ばかり。どうなっているのかって?そうなんです、365日同じ時間に、同じ場所に浸かっている方が何人もいるのです。それだけ魅力的な泉質だということでしょうね。

上田の市街地の後方に聳える太郎山です
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太郎山の登山道は一つではありませんが、最も一般的な表登山道の入口はここです。クマ注意の看板がいつも掲示されていて、今年は7月にこの場所で目撃情報ありということでした。ポン太は幸いこの山でクマに遭遇したことはありませんが、カモシカとは何回も出会っています。
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登山道の丁石は「三丁」から始まります。後方は上信越自動車道です。
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「八丁」です。だんだん山らしくなってきました。
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40分ほど歩くと鳥居が現れます。ここが「十四丁」で、数字の上では中間点のようにみえますが、丁石は等間隔ではなく、まだ全行程の四割程度といった感じです。
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「十七丁」まで登ってきました。ここまで来ると樹間からまわりの山々を望むことができます。
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岩が現れ、坂も少し急になった「十九丁」。このあたりが一番のがんばりどころです。
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「二十二丁」の丁石です。丁石はあと一つとなりました。
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太郎山神社下の大鳥居です。「二十三丁」と刻まれた丁石復元記念碑が立っています。丁石の表示があるのはここまでですが、太郎山神社はまだこの上です。
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太郎山神社の本殿です。神社の創建がいつなのかは不明ということですが、この本殿は明治6年に再建されたもの。社務所の太い梁は、女侠客「おじょめん」が先頭に立って引き上げたと言い伝えられているそうです。人望のある侠客だったのでしょうか?境内の小さな鳥居をくぐると厄除けになるというのですが、ポン太のお腹では無理ですね。
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社務所に掲げられている最多登山記録です。
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神社=山頂ではなく、その裏のこの尾根をたどったところに本当の山頂があります。
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広々とした太郎山山頂です。
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今日はいま一つのお天気でしたが、晴れていれば、北アルプス方面のこんな大展望が楽しめます。
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白く光っている川は千曲川。その手前が上田の市街地で、その中の黒っぽく見えるところが上田城です。徳川の大軍を二度も撃退し、真田の名を天下に轟かせたその地を一望することができます。
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山頂には、太郎山を愛した反戦・反核詩人長田三郎氏の詩碑があります。そこには、「“人間を取り戻せ”の叫び声が地の底から聞こえてはこないか」と記されています。静かな山頂に立っていると、確かにそんな声が聞こえてくるような気がします。どんな理由をつけようとも核はダメだとポン太も思います。
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下山後の楽しみのひとつは、刀屋の蕎麦。手前はポン太一押しの「冷やしたぬき」です。「共食い」になってしまいそうですが、そんなことは言っていられないほど美味です。とにかく量が多く、これで普通サイズですが、東京の一般的な蕎麦屋の倍ぐらいの量があります。コシの強さも半端ではなく、アゴが相当疲れますが、それでも食べたくなる蕎麦です。
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泉質の良さでは、おそらく東信地域随一と思われる「室賀温泉ささらの湯」です。石鹸をつけたわけでもないのに、お湯に入った瞬間、肌はヌルヌル状態に。ここは、大河ドラマ「真田丸」にも登場した室賀氏の本拠地でもあります。
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美人の湯? 美人になるのは無理でしょうが、誰でも美肌にはなると思います。
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大変貌していた橋本駅とその周辺

2017/12/20 09:47
 政令指定都市といえば大都市の代名詞のような印象ですが、いまや全国で20都市もあり、いささかインフレぎみ。神奈川県などは、同一県内に三都市も存在しています。横浜、川崎は誰でもわかりますが、もう一つはどこかといえば、それは相模原市です。人口こそ岡山や熊本に匹敵する70万都市ではあるのですが、中心市街地がどこにあるのかよくわからない都市の筆頭といえるのではないでしょうか。JTB時刻表の索引地図は、「市の代表(中心)駅」を二重丸で示していて、その印がついているのはJR横浜線の相模原駅です。しかし、そこに市役所はあるものの、繁華街とよべるほどのものはありません。人が多く集まる場所=中心市街地と考えれば、北は横浜線・京王相模原線の橋本駅、南は小田急線の相模大野駅周辺とみるのが妥当でしょう。
 近年の橋本駅周辺の発展はすさまじく、建設中のリニア新幹線の駅も設置されることになっていますので、相模原市の中心は橋本という時代になりつつあるような気がします。 ポン太はその橋本に、40年ほど前に住んでいたことがあります。そのころは京王相模原線はまだ開通しておらず、相模線は非電化。横浜線も橋本以北は単線で、電車の本数も、ラッシュ時を除けば1時間に3本程度でした。駅舎はいかにも地方の駅といった感じで、駅前広場の片隅には津久井方面へ行くバスの待合所がありました。目立つような高いビルもなく、総じてのどかな雰囲気でした。
 先日、東京へ出かけた際に、久しぶりに橋本駅に立ち寄ったのですが、駅周辺には高層マンションが林立し、駅前広場はペデストリアンデッキ化、そのまわりをビルが取り囲むという変貌ぶりに驚かされました。懐かしい場所であるだけに、この先どう変化していくのか、ちょっと気になるポン太でした。

およそ40年前の橋本駅前です。正面奥に見えるのが駅舎です。(1979年3月21日撮影)
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ほぼ同じ場所から見た現在の風景です。橋上駅化されたため駅舎は見えません。
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かつての駅舎です。(1979年3月21日撮影)
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駅前広場はこんな感じでした。(1978年11月4日撮影)
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ペデストリアンデッキ化された現在の駅前です。周辺には高層マンションが林立しています。
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かつての横浜線上り(1番線)ホームです。反対側の下りホームには103系電車が停車していますが、ちょうど、旧形国電から103系電車に代わりつつある時代でした。(1978年11月4日撮影)
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ほぼ同じ場所で撮影した現在の1番線ホームです。中線の存在に、昔の名残が感じられます。
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かつての相模線ホーム(3番線)です。相模線は電化しておらず、キハ30形気動車が主役でした(1978年11月4日撮影)
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横浜線では旧形国電もまだ活躍していました。西側(相原側)にあった跨線橋の下を行く八王子行の電車です。(1977年4月12日撮影)
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おかえりなさい井上勝

2017/12/18 14:51
 先週末、東京へ出かけた際に、東京駅前に立ち寄ってみました。駅前広場の整備工事が完了し、12月7日から全面的に使用が開始されたというニュースを聞いたからです。どうしても確認したかったのは、10年ぶりに再設置されたという井上勝の像です。井上勝は「日本の鉄道の父」と称せられる人物ですから、ご存知の方も多いと思います。最初の像は東京駅開業時に設置されましたが、戦時中の供出で失われ、戦後の1959年に二代目の像が設置されました。その後、総武地下駅工事の際に一時撤去されたものの復活したのですが、赤煉瓦駅舎の復原工事着工の際に再び撤去され、今度はどうなるのかと心配しておりました。「鉄道の父」の像が無くては、せっかく整備された東京駅も画竜点睛を欠くと思っておりましたので、復活と聞いて安心すると同時に、これはぜひ見ておかねばと思ったわけです。
 今回復活した像は、広場の西北端にありました。以前は駅舎を背に皇居の方を向いていましたが、今回は駅舎の中央部を向いており、鉄道の行く末を見守っているかのような姿になったのは、好ましいことです。井上像と同時に撤去されていた平和祈念の「愛の像」も復活しており、これで東京駅と駅前広場の整備も一段落ということになります。
 しかし、実は復活していない記念碑もあるのです。それは北口高架下にあった「丸の内記念塔」で、東京駅の北側、外堀(日本橋川)に架かる鉄道橋の石造りの橋頭を保存したものでした。その橋梁は、大正8年に日本で最初に架設された長大スパンの鉄骨鉄筋コンクリートアーチ橋で今も使用されています。橋頭部分が中央線ホームの高架化工事に支障したため撤去され、保存の措置がとられたわけです。その由来を記した説明板もついていたのですが、いつの間にか姿が消えてしまいその後どうなったのか、まったく情報がありません。記念碑は、歴史的出来事やモノの存在を後世に伝えるために設置するものですから、邪魔になったからつぶすというのはおかしな話です。どこかに保管されていて井上像のように復活してくれると良いのですが・・・。
 それはさておき、整備された駅前広場自体はたいへん綺麗でした。訪れたのが黄昏時でしたので、すぐに暗くなって街灯が点り、さらにはイルミネーションが輝くという、様々なシーンを眺めることができました。明るくても暗くても、東京駅は絵になります。いかにも都会的な丸の内界隈のイルミネーションやクリスマスデコレーションもすばらしく、大満足のポン太でした。

美しく整備された東京駅前広場です。あまりに綺麗すぎて、バーチャル世界のように見えてしまいます。
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復活した井上勝の銅像です。
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視線の先にあるのは、復原された東京駅丸の内駅舎。鉄道の行く末を見守っているような形になりました。
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撤去される前は、このように駅舎をバックに皇居の方を向いていました。(1999年12月22日撮影)
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暮れなずむ風景も味があります。
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イルミネーションが点灯されるとまた雰囲気が変わりました。
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いつのまにか失われてしまった「丸の内記念塔」です。(2008年3月28日撮影)
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こちらは丸ビル内に出現した巨大クリスマスツリー
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KITTE(旧東京中央郵便局)の中にも、雪景色のような純白のクリスマスツリーが飾られていました。
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恒例になっている丸の内仲通りのイルミネーション。丸の内オリジナルカラーのシャンパンゴールドということです。背後のオフィスビルとの組み合わせに都心らしさを感じます。
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帰路は高速バス利用のためバスタ新宿へ。隣接するサザンテラスの桜色のイルミネーションも見事でした。
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山里に響く歓喜の歌声

2017/12/14 22:21
 地方で暮らすことのデメリットとみられることが多いのが文化行事の少なさ。それがいやで都会を離れられないという人もいると思います。しかし、幸いなことに、浅間山麓ではそんなことを感じることはほとんどありません。
 新聞のイベント欄をみると、演奏会、講演会、展覧会等が目白押し。図書館や公民館には、たくさんのイベント情報のチラシが置いてあり、その中にはポン太の興味を惹くモノがかなりあります。もちろん、人口が圧倒的に多い東京などと比較すれば、スケールとしては小さな催しが多いのですが、かえって、身近な感じがして親しめます。
 師走といえば、音楽イベントの定番は第九の演奏会。都会ではあちらこちらで行われているので、あえて出かけようという気になりにくいのですが、浅間山麓では数が限られています(おそらく1回です)から、この機会を逃すわけにはいかないと、かえってモチベーションが高まります。
 先週のことになりますが、佐久市の第九演奏会に出かけてみました。パンフレットには、<「第九」のまち佐久>とあり、今年で17回目ということです。演奏は佐久室内オーケストラ。アマチュアですが総勢55人の編成で迫力があります。ソリストは、全員がプロの声楽家。オペラ「夕鶴」で佐藤しのぶさんの相手役を務めるなど、大活躍中のテノール倉石真さん等の力強い歌声に魅了され、この曲ならではの高揚感を味わうことができました。帰りがけに駐車場を見ると、軽トラで乗りつけた人もいたようです。市民が気軽にクラシックを楽しむことができる、こんな雰囲気も悪くないと感じたポン太でした。
 同時期に佐久市内では演劇祭も行われており、そちらも覗いてみましたが、アマチュア劇団の熱演にびっくり。夜になると佐久平駅前には、華麗なイルミネーションが点り、地方都市にいることを忘れてしまいそうになりました。

「佐久第九演奏会」のパンフレットより
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佐久演劇祭会場の佐久創造館
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熱演中のアマチュア劇団「木炭自転車(すみちゃり)」
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佐久平駅前のイルミネーション「SAKU BLOOM 」です。
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背後の高架線を走っているのは小海線の列車です。車内からの眺めも良さそう。
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民間の工場にもイルミネーションが名物というところがあります。これは樫山工業の本社工場です。国道141号線沿いなので、車からもよく見えるのですが、運転中に見過ぎてしまうと危ないですね。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その26

2017/12/12 10:53
★年内歩き納めの巻
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<29日目、11月30日>宿場情緒たっぷりの太田宿を経て坂祝駅へ
 雪が降る前に、なんとか関ヶ原の手前までは行っておきたいと、前回から10日足らずで中山道歩きを再開。伏見宿から、国道21号を西へと歩き始めました。パチンコ屋、ラーメン屋といったどこにでもありそうな沿道風景が続きます。中山道を示す標識の類も少なく、街道歩きをしている実感はありません。一里塚も道路際に石碑があるのみ。岐阜県内に入ってから最も殺風景な区間と言ってもよいかもしれません。中恵土(なかえど)というところを過ぎ、しばらく進んだところで国道21号と分かれ、ようやく少しばかり旧道らしさの残る道に入りました。
 木曽川のほとりに、今渡の渡し場跡があり、木曽川のむこうに見えるのは広重の絵に描かれているような山々。今はその場所で川を渡ることはできないので、上流側にあるレトロな太田橋を渡りました。木曽川右岸の堤防に沿って進むと間もなく太田宿です。旧家が軒を連ね、かつての宿場町の情緒たっぷり。本陣は門のみですが、脇本陣は建物が残っており、内部を見学することができました。総じて、印象の良い宿場町で、宿場の出口には桝形も残っていました。

今渡の渡し場から見た木曽川と太田橋。対岸の左手方向に太田宿があります。
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宿場情緒たっぷりの太田宿を行く
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「うだつ」のあがった太田宿脇本陣。内部を見学することができました。
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 太田宿を出て、中濃大橋の下をくぐり、再び木曽川の堤防沿いを進みました。まだ紅葉の残る木曽川べりは風景もよく、気持ちよく歩くことができます。
 しばらく歩くと、坂祝町役場があり、その前の会館には「難読町村名坂祝」という表示がでていました。坂祝は「さかほぎ」と読みます。その近くに「飛騨木曽川国定公園 日本ライン」看板が出ていたので、木曽川の堤防に登ってみると、確かにすばらしい眺めでした。紅葉の山々をバックに奇岩の間を行く碧の木曽川。昔の旅人も、このあたりの景色には癒されたことでしょう。
 その少し先にJR高山線の坂祝駅があります。今日はここまでとし、列車でホテルのある美濃太田へもどりました。

木曽川の眺めが美しい「日本ライン」。中山道から木曽川の堤防に登るとこんな景色でした。
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町名同様読み方が難しいJR高山線の坂祝(さかほぎ)駅
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<30日目、12月1日>雨の木曽川沿いを行く
 ホテルの朝食はバイキングでしたので、本日の長丁場に備え、たっぷり食べてエネルギーを蓄積。美濃太田発の列車で坂祝駅へもどり、鵜沼(うぬま)宿をめざしました。今日はあいにくの雨。最初のうちは国道21号の車道歩きで、あまり面白みはありませんが、しばらく進むと旧道が残っている箇所がありました。旧道は、木曽川にせまる山の斜面を、上ったり下りたりしながら進む形になっています。
 木曽川と国道21号の間に「中山道 下りる」と書かれた標識を見つけました。その標識に従って階段を下りていくと、水がかなりの勢いで流れている沢があり、その脇に狭い歩道がつけられていました。国道21号線とJR高山線の下を潜り抜けるようになっており、その先には、うとう峠への山道が続いています。こんな雨の日にここを通る人などいそうもなく、ちょっと心細くなりますが、旧道を行くのが鉄則。「中山道いこいの広場」という名の休憩場所を通過して間もなくサミットとなり、そこを過ぎると団地や新興住宅地が現れ、景色は一変しました。大きな池もあります。その周りの紅葉が見頃で美しいのですが、激しい雨の中、ゆっくり眺めている気分ではありません。鵜沼台という住宅地の中を下っていくと、鵜沼宿を一望できる場所に出ました。雨に煙ってよくは見えないのですが、雰囲気の良さそうな街並みです。坂を下りきったところが桝形になっていて、そこから宿場町へと入っていきます。水路を渡った先が鵜沼宿の中心部。鵜沼宿は、電線の地中化がなされ、沿道の家々も宿場の雰囲気にあわせたつくりになっています。造酒屋の黒塀の先に並ぶ登録文化財の家並みも見応えがありました。

国道21号と高山線の間を行く旧道。かなりのアップダウンがあります。
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うとう峠の入口。この先はちょっとした山道です。
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峠を越えた反対側は住宅地でした。
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見事に修景されて、風情のある鵜沼宿。
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造り酒屋の黒塀の先には、登録文化財の家並みが
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 鵜沼宿からしばらく歩くと、道はふたたび国道21号と合流。この先は、各務原(かかみがはら)市の中心部を通っていくわけですが、完全に市街地化した道で、面白味はほとんどありません。名鉄線を跨ぐ三柿野付近には、川崎重工の広大な工場群がありました。その先で国道21号はバイパスとなって離れて行き、激しく行き交うトラックの風圧と跳ね上げる水に辟易していた状態からは解放されました。各務原市の市役所があるあたりは電線が地中化されており、すっきりと整った街並みが続きます。岐阜大農学部跡地の石碑がある市民公園は紅葉が真っ盛りでした。
 この各務原市のメインストリートと分かれ、旧道に入ると間もなく新加納。鵜沼宿と加納宿(岐阜)の間は17キロ余と距離が長いため、立場茶屋のあった新加納は、間の宿としての機能を有していたということです。道も枡形になっており、規模は小さいものの旧街道らしい好ましい町並みです。
 新加納を出ると畑や水田の中を行くのどかな道となりました。中山道と並行している名鉄各務原線がよく見えます。手力やその先の切通という集落の街並みは歴史を感じさせます。ようやく天気が回復し、薄暗い雨の中の歩行から解放されたところで、名鉄の細畑駅に着きました。時計をみると午後4時。このまま歩き続けても、加納宿に着く前に暗くなってしまいそうなので、本日はここまでとし、電車で宿泊先の岐阜へとむかいました。

各務原市中心部の中山道を行く。電柱がなくすっきりしています。
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新加納の枡形です。
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旧道と並行する名鉄各務原線
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<31日目、12月2日>長良川を越えて河渡宿、そして美江寺駅へ
 今日は雨の心配はないものの、冬型の気圧配置となった影響で風が強く、昨日と比べると格段の寒さです。岐阜から電車で細畑駅へもどり、年内最後の中山道歩きをスタート。
 細畑から加納に至る中山道は、古い街並みが続きます。領下というところには感じのよい地蔵堂と道標が立っていました。東海道線の下を潜り抜けると、名鉄の茶所駅。駅前には、中山道加納宿と記した石柱がありました。岐阜の市街地に吸収された加納宿には、古い建物はほとんど残っていません。本陣も脇本陣も標識があるだけですが、折れ曲がった道路の形状に宿場町らしさが感じられます。江戸期の石の道標もありました。旧加納町役場の古いビルが廃墟のように残っており、かつては岐阜とは別の町であったことがわかります。
 加納宿を抜け河渡(ごうど)宿へとむかう道は、ごく普通の都市周辺の住宅地の中を歩くといった感じで、あまり面白味はありません。鏡島と書いて「かがしま」と読ませる集落を抜けると、長良川の大きな堤防が見えてきました。その名も河渡橋という橋を渡った先が河渡宿です。橋の上からは岐阜城をはじめ長良川周辺の山々が一望でき、なかなかよい眺めでした。
 河渡宿は長良川の水面より低い「輪中」の中にある宿場です。堤防下に、「いこまい中山道河渡宿」と記した櫓が立っていました。その傍には馬頭観音堂がありました。河渡宿には、ほかにこれといった建造物や見どころはありません。しかし、背後には長良川の堤防が大きくそびえ立っており、川止めの際ににぎわった宿場であったことを実感することができます。
 穂積市の正津(なまづ)という、読み方が面白い地域を進みました。その先の本田という地域の街並みは旧街道らしい雰囲気があります。かつて代官所が置かれていたということです。
 広々とした水田の中を進むと、樽見鉄道の踏切が見えてきました。美江寺駅はすぐ先です。時計をみると、すでに予定した列車の発車時刻になっていました。無理かなと思いながらも急ぎ足で駅へむかったところ、2分遅れでやってきた列車に乗り込むことができました。年内はここまで。来春には必ず京都三条大橋に到達するぞ、という思いを胸に、帰途についたポン太とポン子でした。

名鉄茶所駅と「中山道加納宿」と記された石柱
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加納宿の枡形。かぎ型に曲がりくねっていて、どこを進めば良いかちょっと迷います。
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かつての加納町役場の建物です。
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河渡橋の上からの眺めはすばらしいものでした。この写真は長良川の上流側をみたところです。
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河渡宿と記された櫓と馬頭観音堂
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河渡宿と長良川の堤防
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本田代官所跡
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樽見鉄道の美江寺駅。少し遅れて到着した大垣行の列車に乗車することができました。
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師走の夜はイルミネーションめぐり

2017/12/08 22:19
 漆黒の闇に浮かび上がるイルミネーションは、まるで魔法の世界を見ているようです、とはちょっと言い過ぎかもしれませんが、浅間山麓の師走を彩るイルミネーションはかなりのインパクトがあります。
 もし、それがなければ、冬枯れの物寂しい世界が広がり、木々を振るわす風の音だけが聞こえてくるといった雰囲気ですから、とても出歩く気にはなりません。このような時期に点灯されるイルミネーションは何とも有り難い存在であり、師走の夜のささやかな楽しみということができます。もちろん、気温は氷点下と寒いのですが、あちらこちらに点された色とりどりのイルミネーションを見ていると、少なくとも心は暖かくなります。
 都会の明るく華やかなイルミネーションも魅力ですが、浅間山麓の凛とした空気の中で見るイルミネーションには、ひと味違う味わいがある、そう信じて、底冷えのする夜の巷を徘徊するポン太でした。

軽井沢駅前のイルミネーションです。
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旧軽井沢ロータリーのイルミネーションです。日が落ちると人通りは絶え、ポン太のためだけに点灯してくれているようでした。
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森の中のレストランです。さすがにテラスで食事をしている人はいませんが、そこだけが明るく輝いていました。
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人気のアウトレット、プリンスショッピングプラザ内のイルミネーションです。
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こちらは星野エリアの「ハルニレテラス」のイルミネーションです。派手さはまったくありませんが、周囲の闇と川音とのコラボが絶妙です。
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歩き回って冷え切った身体を温めるには温泉が一番です。最後にやってきた星野温泉トンボの湯にも大きなツリーが輝いていました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その25

2017/12/04 14:16
<28日目、11月21日>山の細久手宿から里の伏見宿へ 画像 
細久手宿では、タイムスリップしたような宿で一夜をすごし、その余韻がさめやらぬ中、御嵩(みたけ)宿を目指して大黒屋前を出発。今日は朝から晴天で、歩き旅には絶好のコンディションです。
 基本的には山地から平地への下りですが、まだまだかなりのアップダウンがあります。まずは秋葉坂越。そこにも昨日みたような三尊石窟がありました。鴨ノ巣一里塚には一対の塚が残っており、その先のふじあげ坂を過ぎてしばらく進んだところには、京都の嵯峨野のような美しい竹林がありました。一旦、津橋という山間集落に下りますが、さらに山道は続き、物見峠へと登って行きます。そこには、和宮を休息させるために設けられた御殿の跡である「御殿場」がありました。峠には現代人を楽しませるお洒落な喫茶店があり、ここまでは反対側からクルマで登ってくる人がかなりいるようです。
 坂を下ったところの集落は、謡(うとう)という由緒ありげな名前がついていましたが、人の気配がまったくありません。謡坂の一里塚を通過した先が、広重の描いた「御嵩」といわれている場所です。古い民家と坂のとりあわせがそれらしい雰囲気を漂わせていました。最後の石畳を通り、「牛の鼻欠け坂」と呼ばれる坂道を下りました。ここは、上方から江戸をめざした場合、最初に越えなければならない坂道であり、重い荷を背負った牛が鼻をぶつけるほどの急坂であったということからその名がついたそうです。京をめざすポン太とポン子にとっては、この坂を下れば山地が終わり、後は比較的平坦な道を進むだけということになるわけです。身体は楽になりそうですが、中山道らしい山道ともお別れかと思うと、ちょっとばかり寂しい気持ちになりました。

ふじあげ坂の先には美しい竹林の道が続いていました
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広重が描いた「御嵩」の場所。絵と見比べてみると、なるほどという感じがします。ポン子がポーズをとっているところには小川が流れていたようです。
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最後の坂道、「牛の鼻欠け坂」へ

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山地を脱し、平坦な道となった中山道です
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この地域に多い三面馬頭観音です
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 国道21号に合流すると間もなく右手に和泉式部の供養塔がありました。和泉式部といえば、百人一首の「あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」を思い出します。各地を旅した和泉式部は、この地で病を得て亡くなったということです。
 しばらく国道を歩き、左手の旧道に入ると間もなく御嵩宿です。本陣があった場所は駐車場になっており、標識があるだけですが、脇本陣は現存していました。その斜め前に露店をだしていた八百屋の御主人が、その場所からの眺めが御嵩一の景観だといいます。確かに脇本陣横の道の奥に地域のシンボルのような円錐形の山を望むことができ、良い眺めでした。
 御嵩駅を少し過ぎたところにあるお好み焼き屋で昼食をとりましたが、人気店のようでなかなかの美味。元気が出ます。御嵩宿と次の伏見宿との距離は比較的短く、国道を歩く部分と、湾曲した旧道を歩く部分が半々といった感じです。これまで歩いてきた山中と比べると単調な道であることは否めません。旧道から国道にもどり少し進んだところが伏見宿。旧中山道が国道に吸収されてしまったため、宿場町の面影はほとんどありません。本陣跡地は公民館となり、碑だけが立っていました。伏見宿へ入る少し前にすれ違った街道歩きの人から、無料の接待所があるという情報を得ていたので、その場所へ行ってみました。元伏見郵便局の建物を利用して、地元のおばさんたちがやっているお休み処で、茶菓子の接待がありました。伏見地区ふるさとづくり活動センターというのが正式名称のようです。岐阜県内の宿場町の中で、宿場の遺構がほとんど残っておらず、注目度の低い伏見宿をなんとかしたいと、雰囲気づくりに取り組んでいるということでした。
 伏見宿は、日本橋から50番目という節目の宿。中山道69次も残り19次となりました。思えば遠くまで来たものです。今回はここまでとし、最寄りの名鉄明智駅へとむかいました。

百人一首で知られる和泉式部の供養塔。中山道沿いのこの地で病に倒れたと聞けば、千年も昔の人なのに、まるで旅人同士であるかのように身近に感じられます。街道歩きの妙でしょうか。
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御嵩(みたけ)宿本陣跡前の街並みです
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御嵩一の景観だと教えられた場所はここです
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伏見宿で茶菓の接待を受けたお休み処です。
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伏見宿の接待所前の街並みです。日本橋から50番目という節目の宿場にしてはちょっと寂しい気がしました。
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冬の里山の楽しみ〜北アルプス大展望

2017/12/01 18:44
  首都圏や西日本では、まだまだ紅葉が見頃だというところも多いと思いますが、当地(浅間山麓)は、すっかり冬枯れの風景です。いつも徘徊している里山も、枯れ木の山と化し、登山道のまわりには見るものは何もありません。しかし、空気が澄んでくるこの季節ならではという楽しみもあるのです。それは、山頂からの遠くの山々の眺望です。とりわけ、白い屏風を立てたような北アルプス(飛騨山脈)は、神々しいまでに美しく、それを見ることができただけで、その日は一日中、良い気分ですごせるといっても過言ではありません。同じ県内とはいえ、浅間山麓から北アルプスまで、直線距離が80km前後ありますから、北から南まで、すべての山が鮮明に見えるという日は限られます。先日の平尾山は、まさにそんなラッキーデー。あれが穂高、あれが鹿島槍と、山座同定(山の名前の確認作業)に力が入ったポン太でした。

平尾山山頂からみた佐久平と北アルプス南部の山々です
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穂高岳(左)と槍ヶ岳(右端)の部分を拡大してみました。槍の尖った穂先を見つけると、なぜかいつも興奮してしまいます。
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こちらは北アルプス北部(後立山連峰)の山々です。左から順に、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬岳と雄峰が並ぶ様は圧巻です。
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双耳峰が特徴的な鹿島槍ヶ岳(左)と五竜岳(右)の部分を拡大してみました。
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東方の奥秩父方面の山々は墨絵のように見えました。これもまた絶景です。
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八ヶ岳連峰です。左の端が最高峰の赤岳です。
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われらがシンボル浅間山。いつ見ても端正で安定感があります。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その24

2017/11/28 17:29
<26日目、11月19日> 中津川宿から大井宿(恵那市)へ画像
 西へ進むにつれ、スタート地点への移動に時間がかかるようになりました。前回の到達点である中津川宿の本陣跡を出発したのは正午過ぎ。半日で行けるのは、次の大井宿(現・恵那市)までです。
 中津川宿の大井宿側には枡形が残り、その周辺には古い民家が集中していて、宿場町らしい雰囲気が漂っていました。中津川を渡り、のどかな旧道を進んで行くと、目の前に、「こでの木坂」が現れました。この坂は段丘上へのちょっとした高低差を登るだけですが、明治天皇巡幸の際には、地元青年が勾配緩和の道普請をした由。坂の上には、双頭一身道祖神という面白い形の道祖神が鎮座していました。
 国道19号に吸収されたごく一部を除き、中津川宿〜大井宿間の旧道は、右に左にとゆるやかなカーブを描いて下っていく感じで、後方にはいつも恵那山の大きな姿があります。実に気持ちの良い道です。茶屋本陣のある茄子川(なすびがわ)という集落も風情がありました。秋葉街道の分岐点として、往時はかなり賑わった場所です。茄子川集落のはずれからは、御嶽山を望むことができ、噴煙も確認できました。柿の実を収穫していた地元の人の話では、このあたりを近い将来リニア新幹線が通過するということでした。
 広重の「大井」のモデルになったという甚平坂の上からは、さらにはっきりと御嶽山を望むことができました。中央自動車道を越え、「鉄道省、昭和七年」の銘板がついた明智鉄道のガードをくぐると、間もなく大井宿です。桝形の先に本陣が見えてきました。本陣から続く街並みが大井宿の中心部で、無料公開中のひし屋資料館という商家を見学しました。その斜め前に残る旅籠には、巡幸の際に明治天皇が宿泊したそうです。玉座が残っていましたので、ポン太もそこに腰掛けて一休み。将来、「ポン太様御小休所」などという記念碑が建つことはないでしょうが・・・。大井宿の中を行く中山道は、枡形の連続といった感じで複雑ですが、しっかりした標識が出ているので迷うことはありません。一通り大井宿を見学した後、恵那駅近くのホテルに投宿しました。

こでの木坂
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これが双頭一身道祖神です
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大きな恵那山を背に、のどかな旧道を下りました
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広重の「大井」のモデルになったという甚平坂からみた御嶽山
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大井宿の本陣。このまわりは宿場町らしい雰囲気です。
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<27日目、11月20日>中山道最後の難所、十三峠越えにいどむ画像
美濃路における中山道歩きのハイライトであり、中山道屈指の難所でもある、「十三峠」を歩く日がやってきました。大井宿を出ると、およそ20キロ先の細久手宿まで、宿泊施設はゼロ。商店すら1軒もなく、飲食物の調達はできないという話を聞いていたので、予備も含めて多めの食料を背負い、早朝にホテルを出発しました。
 大井橋を渡って恵那市内の中山道を進むと、ちょうど「のれんコンテスト」というイベントが行われており、沿道の各家の前に手作りののれんが下がっていました。どれも力作で、古い民家の通りにはのれんが良く似合います。アイデア賞を出してもよいようなイベントだと感心しました。中津川もそうですが、恵那市もまた中山道を地域の誇りとし、積極的にアピールしようという意欲が感じられます。
 中央線(上り線)の中仙道踏切を渡り、高速道路の下をくぐり抜けたところから山道が始まりました。「これより西 十三峠」と記された石標の先は、いきなり石畳の急坂でした。「十三峠」というのは固有の地名ではなく、この先、大湫(おおくて)宿まで、いくつもの峠を越えていかねばならないので、それらを総称して「十三峠」と呼んでいるわけです。昔の旅人にとって、険しくはないもののやっかいな骨の折れる道程であったことは間違いありません。坂を登り終え、槇ヶ根一里塚を過ぎたあたりから展望が開けて、まだ見頃といってもよい紅葉も含めて、すばらしい景色を楽しむことができました。
 槇ヶ根一里塚は両側の塚がしっかり残っていました。この先も、対をなした一里塚が連続して残されており、そうした場所は中山道全体でもここだけという貴重な存在です。緩やかな起伏をもつ高原状の丘陵地(地形的には隆起準平原に該当するようですが)を行く気持ちの良い道がずっと続きます。残丘の間のちょっと開けた場所には小さな集落が点在し、木曽路とはまた違った味わいがありました。
 道はアップダウンをくりかえしますが、それぞれの坂には名前がついており、息が乱れ、大名行列も乱れたところから「乱れ坂」という名がつけられた坂もありました。次の紅坂一里塚も原型そのままの一対の塚が健在。その先の深萱という山間集落には立場(休息所)の標識があり、間の宿のような役割を果たしていたようです。
 大井宿からおよそ4時間で、この地域のシンボルである権現山の登山口に着きました。今日の行程の中間点にあたるところです。絵のような山里風景が広がっており、気持ちのよい場所なので、道端の土手に腰をおろして、早めの昼食をとりました。

恵那市内の旧道沿いで行われていた「のれんコンテスト」

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いよいよここから十三峠が始まります。
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原形をとどめている槇ヶ根一里塚
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槇ヶ根一里塚の先には、こんな大展望が待っていました。
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隆起準平原上を行くこの道が旧中山道です。
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大名行列も乱れたという「乱れ坂」
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権現山登山口付近の山里。旧中山道と集落とが見事に調和している感じです。
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 樫の木坂一里塚を過ぎると、中山道の両側はゴルフ場として開発されていて、道のところだけが昔のまま残されていました。樹間からゴルフのカートなどが見えると、ちょっと違和感を感じますが、静かな歩きやすい道です。石窟の中に石仏が納められている三十三所観音を過ぎ、20分ほど歩くと大湫宿への下りとなりました。この地域は、石窟に石仏を納めることが一般的なようで、この先でもいくつかそのようなものを見かけました。また三つの顔をもつ馬頭観音も多いようです。
 大湫宿を見下ろす寺坂を下り、集落に入って枡形を左折したところが本陣跡。今は学校のグランドになっていますが、そこには皇女和宮の歌碑が立っていました。沿道には店がないという話でしたが、大湫宿の入口付近に小さな商店があり、パンぐらいは買えそうです。きれいな公民館のフロアには中山道関連の展示もありました。大湫は想像していたよりは大きな集落で、脇本陣も現存しており、宿場の雰囲気を十分感じることができます。ただし宿泊施設はありません。
 今宵の宿、細久手宿の大黒屋に電話をして、無事に大湫まで到達したことを告げました。大湫宿のはずれにも大きな高札場があります。その前を過ぎて少し歩いたところが、広重描く「大湫」の場所で、沿道には絵の中で強調されている大きな石(二つ石)が現存していました。大湫病院の先で再び山道へと入ります。本日最後の峠であり、日本一長い石畳が残る琵琶峠への登りが始まりました。それほどの苦労を感じることなく登り切った頂上で、この日はじめて中山道歩きの旅人とすれ違いました。6時間歩いて、出会ったのがたった一人というのは寂しいですが、市街地からも鉄道からも遠く離れた不便な場所であればこそ、旧中山道が原形に近い形で残ったともいえるわけです。日常生活でこの道をたどる人はほとんどいないでしょうから、中山道歩きを楽しむ人だけの楽園ロードというわけです。
 長い石畳を下りて里に近づくと、子供たちが叫んでいるような甲高いざわめきが聞こえてきました。こんな山中にも小学校があり、校庭で遊ぶ子供たちの声がこだましているのかと思ったのですが、とんだ勘違いで、その音源は巨大な鶏舎でした。八瀬沢という山間集落の近くには大きな養鶏場が立地しており、沿道には「国際犬訓練所」という施設もありました。鳴き声への苦情がでない山中を選んでそのような施設をつくったのでしょう。

大湫宿への道。風情がありますが、人に会うことはありませんでした。
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寺坂から見下ろした大湫宿
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広重が描いた「大湫」の場所はここ。大きな石(二つ石)が目印です。
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日本一長い石畳のある枇杷峠への入口
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枇杷峠のサミットです。皇女和宮の歌碑が立っていました。「住み馴れし都路出でてけふいくひ いそぐもつらき東路のたび」 とあります。こちらは京が近づくほど気分が高揚するような楽しい歩き旅ですが、和宮の降嫁の旅は、東へ進むにつれて寂しさが募るばかりだったのでしょうね。
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 琵琶峠の山道が終った後は、自動車も通れる舗装道路を歩くことになります。交通量は少ないものの、時折通る車に注意しなければならず、本日の行程の中では面白みの少ない区間です。それでも弁天池という池や、一対の塚が残る瑞浪一里塚があり、間違いなく街道を歩いていることがわかります。右手の藪の奥から、すさまじいエンジン音が聞こえてきて、暴走族がやりたい放題をやっているのかと緊張しましたが、道の分岐にYZサーキットという看板があったので、事情がわかりました。これまた騒音への苦情がでない場所を選んでいるわけです。
 そのエンジン音が遠ざかったところに細久手宿がありました。大火で古い建物はあまり残っておらず、宿場町の面影は希薄ですが、江戸時代以来の貴重な旅籠が1軒、今も営業しているのです。それが、今宵の宿、大黒屋です。早朝に出立したかいあって日没よりずっと前に到着することができてほっとしました。
 大黒屋は、昔の建物だけに、街道に面した格子の内側に薄いガラス窓があるだけで、雨戸はありません。狭い廊下、階段脇の吹き抜けなど、旅籠だった時代を偲ばせる構造になっています。現代の感覚では快適とは言い難いですが、タイムスリップの旅にはまことにふさわしい宿です。
 横川の旅館で出会った人たちから、料理が美味しいのでぜひ宿泊をと勧められた宿であり、出された料理は、確かにほかとは違うものでした。百合根、あまごの塩焼き、鯉の甘露煮、里芋まんじゅうなど、ふだん口にすることのないものばかり。昔の大名クラスに出された最高の料理に近いものではないかという思いがしました。
 今日の宿泊客は私たちのほかには、同じ中山道歩きをしている70代の二人組だけ。ここに泊まるのはほぼ中山道歩きの人に限定されるようです。宿の人の話では、明日からの三連休は満室とか。横川で噂を聞いた料理上手の90代の大女将にお目にかかることはありませんでしたが、ご健在で、今も調理をご担当とのこと。
 部屋の暖房は石油ストーブのみ。それも夜は消してしまうので、毛布や布団を多めに被って寝ました。幸い寒いと感じることはありませんでしたが、翌朝、隣に寝ていたポン子が、夜中に激しく戸をたたく音がしたというのです。疲れ果て、行き倒れになりかけた旅の人が開けて欲しいとアピールしていたのではないか、その人は大丈夫だっただろうかといいます。まさかと思いましたが、やはりそれは風の仕業だったようです。妄想も江戸時代にスリップした旅籠の一夜でした。

ようやく細久手宿に入りました
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今宵の宿、江戸時代から続く旅籠「大黒屋」です
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大黒屋のレトロで興味深い夕食はここからスタートです
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大黒屋の建物の中はこうなっていました。
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鉄道ミュージカル

2017/11/25 11:43
 地域のイベントにはポン太の興味を惹くものがいろいろあります。先週の日曜日、小海線の前身である佐久鉄道を題材にしたミュージカルが上演されるという情報を耳にし、佐久市のコスモホールへ出かけました。
 ミュージカルのタイトルは『時空をまたぐ汽笛〜佐久に鉄道敷こう〜』です。出演者はすべて佐久市民で、セミプロから純粋のアマチュア(子供たちを含む)まで、その数およそ130名。演技のレベルにばらつきがあるのはいたしかたのないことですが、上演時間3時間余という大作に取り組んだ熱意は半端ではなく、十分楽しませてもらいました。
 鉄道建設をめぐる地元有力者と中央資本との確執など、史実をある程度ふまえたストーリーもよくできていたと思います。ただ、中央資本の黒幕という扱いの雨宮敬次郎(軽井沢では開発の恩人です)が、ポン太の感覚では悪党に描かれすぎていたような気もします。 JR東日本が小海線の廃止を打ち出し、高校生たちが反対運動を展開するといった話(これはフィクションですが)も盛り込まれていて、小海線への「愛」を感じました。
 会場のロビーでは、小海線を題材にした写真展も行われていました。すばらしい作品を眺めているうちに、ポン太も急に鉄道写真が撮りたくなって、晩秋のしなの鉄道にカメラをむけてみたのですが…。凡作でもとりあえず鉄道は絵になりますね。

パンフレットの表紙です
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会場のコスモホールのエントランス。最寄り駅は小海線の臼田です。音楽系の公演が多く、読売日本交響楽団や地元の佐久室内オーケストラの演奏会など、何度か楽しませてもらっています。
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ロビーには小海線のお土産コーナーが設けられ、ご当地キャラの「ハイぶりっ子ちゃん」(小海線のハイブリッド気動車キハE200形に由来)が登場していました。
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小海線の写真展。すばらしい作品が並んでいました。
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以下はポン太の凡作です。しなの鉄道では、4〜9月に開催された信州デスティネーションキャンペーに合わせて、115系3編成が「なつかしのカラー」に変更されており、これはその第一弾、JR時代の 1989年に登場した「初代長野色」の編成です。御代田〜平原間で撮影。
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こちらは第三弾として登場した横須賀色の編成です。御代田〜平原間で撮影。
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しなの鉄道オリジナルの塗色の編成です。この赤とグレーのセンスはとてもよいとポン太はおもっています。
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晩秋の森の中を行く「初代長野色」の115系。信濃追分〜御代田間で撮影。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その23

2017/11/23 08:25
<25日目、11月13日> 木曽路に別れを告げ、中津川へ画像
 昨夜来の雨はやんだものの、気温は12月並に下がり、晴れ間が出るかと思うと雨がまたパラつくという、きわめて不安定な天気でした。
 馬籠宿から峠を越えて妻籠宿へむかう人に比べて、中津川へ下る人はかなり少ないようです。しかし、岐阜県側の中山道の風情もまたすばらしく、そこを歩かないのはもったいない話です。馬籠を過ぎてから気づいたことですが、旧道の舗装に著しい特色がありました。煉瓦や陶器のかけら?をまぶしたような独特の工夫がなされていて、ひと目で中山道であることがわかるのです。これなら道に迷う心配もなく、すばらしいアイデアだと感心しました。
 馬籠宿から少し下ると、展望が開け、恵那山や美濃の平野部を一望できる場所にでました。そこには、子規の句碑とともに「信州サンセットポイント百選」の標識が立っていました。2005年に馬籠宿を含む旧山口村が中津川市に越県合併したので、このあたりは、行政上は岐阜県です。しかし、旧国名の信濃(信州)の領域であることに変わりはありません。旧山口村合併時に、藤村が岐阜県の出身者になってしまうことを嘆いた長野県民もいたそうですが、馬籠生まれの藤村が信州人であることは間違いないのです。
 信濃と美濃の国境は、もう少し先の新茶屋というところで、藤村が揮毫したという「これより北木曽路」の碑がありました。そこを過ぎると十曲峠の石畳の道となります。雨で濡れた石は滑りやすく歩きにくいのですが、旧街道の風情をたっぷり味わうことができます。峠を下り終え、落合川を渡ったところが落合宿。本陣の建物が残っており、枡形もありました。
 その先の与坂、子野坂あたりは、山里ののどかな雰囲気がただよっていて、気持ち良く歩くことができました。地下道で国道19号をくぐりぬけると、中津川市郊外の住宅地となります。その地下道入口には「中山道」の立派な標識が掲げられ、地下道内には中山道の説明や歌が記されていました。地域の人々が中山道を誇りに思っている様子がうかがえます。
 旭が丘公園の脇を下ると高札場がありました。市街地に入り、中津川駅前へ通じる大通りを横切った先がかつての宿場の中心で、その名も本町。残念ながら、宿場時代の建物は少なく、本陣も碑があるのみですが、その斜め前に、旧庄屋宅(旧肥田家)の古い立派な建物が残っていました。庄屋は関東における名主(なぬし)と職制上は同じもので、西日本でそう呼ばれることが多いそうです。ということは、西日本の文化圏に一歩足を踏み入れたわけで、京都三条大橋が遠い世界ではなくなったような気がしてきました。
 まだ日は高いのですが、今日の行程はここまでとし、中津川駅から電車で帰途につきました。座席に腰を下ろすやいなや、ポン太とポン子の口から同時に出た言葉は、「また歩きたいね」。この三日間の行程は本当に素晴らしいものでした。

 さらば馬籠宿。これにて木曽11宿をすべて踏破したことになります。
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信州サンセットポイント100選の地を行く
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料亭のような佇まいの新茶屋
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藤村が揮毫したという「これより北木曽路」の碑。ここでいよいよ木曽路とも信州ともお別れです。
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十曲峠の石畳を下りましたが、かなりの急坂です。
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落合宿本陣前
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のどかな与坂の風景
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「中山道」と記された国道下の人道トンネル
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中津川宿中心部の中山道と旧庄屋宅
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その22

2017/11/21 14:49
<24日目、11月12日>感動の連続、妻籠宿から馬籠宿へ画像
 予報に反して、朝から小雨の降るあいにくの天気。せっかく阿寺(あでら)川の近くに泊まったので、阿寺渓谷を少し見てから南木曽にむかうことにしました。阿寺渓谷には森林鉄道の橋梁も残っており、ポン太にとってはそちらの方も興味深い存在です。悪天候にもかかわらず、紅葉に包まれた渓谷の水の色は、ちょっと形容が難しいほど神秘的なエメラルドグリーン、いわゆる「阿寺ブルー」でした。阿寺川が合流するあたりの木曽川もまたよい眺めで、木曽路の旅は本当に見飽きることがありません。
 南木曽駅にもどり、馬籠宿へむかって出発です。雨はなんとか収まってきて、歩くのに支障はありません。山道に入る手前に、SL公園があり、D51が置かれていました。旧線跡を利用した施設ということで、踏切の跡も残っていました。
 山道に入ると、竹林の中に石畳の道が現れ、一気に気分が高揚します。このエリアは、木曽路の、いや中山道のハイライトといってもよいところです。街道脇の民家の風情ある佇まい、街道を行く人を意識して整えられたのではないかと思えるような素敵な庭、ほどよい幅でゆるやかに登っていく誰しも散策したくなるような道、そして紅葉した木々。京都の名園の原形といっても良いようなところをずっと歩いて行く、そんなイメージでしょうか。外国人に大人気の場所というだけあって、歩いている人のおよそ半数は外国人でした。
 あまりに雰囲気がよいので、どんなに歩いても疲れをまったく感じません。伝統的建造物群保存地区に指定され、観光地化している妻籠(つまご)宿だけを訪れる人が多いようですが、そこに至る街道筋の集落には、また一段と素朴で奥深い趣きがあり、歩いてこその木曽路であると思います。妻籠宿の入口付近に大吉という民宿があり、そのあたりの古びた家並みは、ずばぬけてよい雰囲気でした。
 妻籠宿のスケールの大きさ、町並みの美しさはいわずもがなでしょう。復元された本陣や脇本陣を見た後、宿場の出口に近い茶店で、五平餅を食べました。さすがに本場だけあって、焼き具合がちょうどよくタレも美味。元気がでます。

神秘的な「阿寺ブルー」の流れ
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阿寺川に残る森林鉄道の橋梁
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旧線跡を利用した南木曽SL公園。旧中山道はこの横を通っています。
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妻籠へむかう旧道は、最初からこんなに素敵でした。
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沿道の「かぶと観音」境内の水舟。風情があります。
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石畳の道に入ると、気分も高揚します。
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旧道沿いの風景はどこまでも美しく、疲れを感じることはありません。
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妻籠宿が近づいてきました。
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妻籠宿入口付近の小集落。
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この大吉という民宿、ちょっと泊まってみたい気になります。
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妻籠宿本陣前に到着
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どこをみてもすばらしい妻籠宿の街並みです。
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妻籠宿の五平餅、美味しくいただきました。
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 妻籠宿を出ると、いよいよ馬籠峠への登りです。相変わらずまわりの景色はすばらしく、峠を下ってくる大勢の外国人に出会いましたが、立ち止まって眺めては「ビューティフル」と叫んでいる人もいました。大妻籠という小さな山間集落がまたよい雰囲気で、その先の下り谷の集落も絵のような美しさ。男滝女滝を迂回して旧中山道の山道を進みましたが、このあたりは深山幽谷の味わいがあります。山間の少し平らな場所に一石栃白木改番所跡がありました。そこはもう時代劇のセットといってもよいようなところでした。ここまでくれば、茶店のある馬籠峠の頂上はもうすぐです。
 峠から少し下ったところにある峠集落は家々の佇まいがすばらしいだけでなく、街道沿いの紅葉が実に見事で、落ち葉を箒で掃いていたお婆さんの姿まで一幅の絵になっていました。 美しい景色を眺めながら峠を下り、およそ1時間で馬籠宿に入りました。宿場の手前にある展望台からの眺めは雄大で、雲が少しかかってはいましたが、目の前に名峰恵那山を望むことができました。
 馬籠宿も大勢の観光客で賑わっており、人をかきわけるようにして宿場内を進み、本陣跡の藤村記念館へ。そこを見学してから、今日の宿、但馬屋へとむかいました。評判どおり風情のある民宿で、その日の泊まり客は7人でしたが、なんと半数以上の4人が外国人。ニューヨーク・タイムズ紙で紹介された宿というだけのことはあります。食堂の隣のテーブルで木曽の酒を味わっていた初老の紳士は、ハーバード大学の先生でした。
 馬籠は坂の宿場で有名ですが、改めて眺めてみると相当な勾配があります。これほどの急坂に立地している宿場は、これまで歩いてきた中山道のどこにもなく、貴重な存在です。大火により、大半の家屋が焼失したということですが、宿場の雰囲気を見事に復原できたのはこの特徴的な坂道のおかげでしょう。
 この日は本当に夢の中を歩いたような一日でした。

 大妻籠という山間集落
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馬籠峠への山道から振り返って見た大妻籠付近。「日本昔ばなし」に出てきそうな山里の風景です。
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馬籠峠への山道にも石畳がありました。
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絵のような「下り谷」の集落
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時代劇のオープンセットのような一石栃白木改番所跡
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馬籠峠山頂の茶店。レトロな良い雰囲気ですが、自販機が余計ですね。
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峠集落のみごとな紅葉。落ち葉掃きは大変でしょうが、絵になります。
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馬籠宿へ下って行く道も風情があります。
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馬籠宿の上部にある展望台からの眺め
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島崎藤村の生家、馬籠宿本陣前の風景。
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今宵の宿、但馬屋の前にて。夕陽を浴びた馬籠宿は、よりいっそうレトロ感が漂います。
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山の幸が並んだ但馬屋の夕食。これなら外国人も大満足でしょう。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その21

2017/11/19 22:29
<23日目、11月11日>野尻宿、三留野宿を経て南木曽駅へ
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 晴天が続くという予報を信じて、今回は2泊3日のスケジュールを組みました。大桑駅からスタートし、木曽11宿のうちの残り4宿と落合宿を通り、中津川駅をめざすという行程です。ポン太の本拠地の浅間山麓ではすでに終わってしまった紅葉が、このあたりではちょうど見頃をむかえていました。自動車の騒音がちょっと耳障りな国道19号を歩かなければならない区間もありましたが、木曽川の美しい眺めがそれを十分補ってくれます。第11中仙道踏切から先の旧道は中央線の線路に沿っていて、時折通る電車と旧道の風情の両方を楽しむことができるという、ポン太にとっては極上のロケーションでした。野尻宿の入口にあたる第12中仙道踏切付近には古民家が並んでおり、いかにも旧道といった雰囲気です。明治期に鉄道が開通して中山道に踏み切りができたころを偲ばせます。
 野尻宿は大火により古い建物はほとんど残っていません。しかし、この宿場の特徴とされる屈曲した道の姿は往時のままで、宿場町らしい風情が感じられました。野尻駅に立ち寄り、駅舎で昼食をとったのですが、この駅もまた明治41年の開業以来の駅舎が使われており、木曽路は、街道だけでなく鉄路もまた、歴史的建造物の宝庫といえるでしょう。
 読書(よみかき)ダムを過ぎ、中央線と絡みあいながら進むと、十二兼の駅がみえてきました。駅前広場のない殺風景な駅です。その下を過ぎると間もなく柿其(かきぞれ)峡の入口。木曽川のほとりには方状節理の岩が連なり、寝覚めの床のミニ版のような美しい景観を楽しむことができました。その先はまた国道19号を歩くことになりましたが、木曽川の対岸の紅葉が美しく、まったく苦になりません。

国道19号からみた木曽川
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旧道と中央線がクロスする「第12中仙道踏切」付近の雰囲気は、明治の鉄道開業のころを偲ばせます。

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旧道からみた中央線の特急「しなの」
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くねくねと曲がっている道路が特徴的な野尻宿
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柿其峡の入口付近の木曽川は、「寝覚の床」に似たすばらしい景観です。
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木曽川の右岸のみごとな紅葉
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 金知屋というところから旧道に入り、線路を渡ると三留野(みどの)宿。ここも大火にあったということで、古い建物は残っていません。木造の建物が軒を連ねているのが宿場町ですから、ひとたび火災が発生すれば、あっというまに町全体が焼けてしまうということは容易に想像できます。それにしても、あまりにも大火により焼失した宿場が多いことに驚かされます。江戸時代以来の街並みがそのまま残っている奈良井宿やこれから訪ねる妻籠宿などは、奇跡のような存在だとつくづく思います。
 三留野宿を抜けたところに、台風による豪雨で土石流災害に見舞われた場所がありました。流された家の跡がまだなまなましく残っており、土石流の恐ろしさが伝わってきます。このあたりでは土石流を「蛇抜け」とよびます。南木曽駅裏には「蛇抜橋」があり、下を流れる沢は蛇抜沢です。南木曽駅裏の大きな貯木場を回りこんだところにある和合という集落を本日の到達点とし、跨線歩道橋で線路を渡り南木曽駅へとむかいました。同駅から電車と車で、今宵の宿「フォレスパ木曽あてら荘」へというわけですが、電車の待ち時間がだいぶあったので、木曽川に架かる桃介橋から天白公園、桃介記念館(別荘)を一周しました。こちらは、中山道歩きとは趣の異なる、近代化遺産めぐりです。桃介記念館に隣接する山の歴史館脇に、森林鉄道のディーゼル機関車が保存されているのを見つけて、思わぬ収穫に大喜びのポン太でした。

三留野(みどの)宿を行く
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土石流災害の跡
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蛇抜(じゃぬけ)橋の表示
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中央線の蛇抜沢橋梁
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桃介橋です。大正時代に架けられた長大な四径間の吊り橋で、当時の土木技術の粋を集めた近代化遺産です。
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「山の歴史館」脇に保存されていた森林鉄道のディーゼル機関車。かつて、南木曽(なぎそ)町の国有林には、本支線あわせて69.7キロもの森林鉄道が存在したということです。
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地域は学びの宝庫

2017/11/13 18:52
 地域というのは、過去から現在にいたる人間の営みが集積している場所です。それぞれに個性があり、その背景には様々な自然環境がありますから、観察対象としてこれほど面白いものはありません。
 浅間山麓で暮らしはじめてから、この地域独特の風習や慣行に、驚いたり、戸惑ったりしましたが、なるほどと感心したものも数多くありました。その1つが、ポン太も実際にその活動に関わっている「保健補導員」の制度です。他県ではまったく耳慣れない言葉でしょうが、これは、地域住民の健康保持、増進を目的とした地域住民のボランティア組織で、保健補導員は市町村から委嘱されます。
 長野県は男女とも全国1の長寿県として知られており、その中でも佐久地域は長寿エリアとされています。しかし、そうなったのは最近の話で、昭和30年代までは脳血管障害で命を落とす人の多い、むしろワーストな地域だったそうです。塩分の多い食事と寒冷な気候がその原因でした。そこで取り組まれたのが、生活改善を促す啓蒙活動で、「自分たちの健康は自分たちで守る」をスローガンに、保健師と協力し、保健予防活動を行う保健補導員の制度が設けられたのです。
 研修会等で、何度も聞かされたのは、長野県の長寿は努力してそうなったものだということです。したがって、これを維持し、単なる長寿ではなく、健康長寿を実現するためには、保健補導員の活動が欠かせないというわけです。研修会や講習会等への参加は、ちょっとダルいなと思う時もありますが、参加してみれば、なるほどと納得するような内容であることが多いと感じました。健康維持や老化防止に役立ちそうな面白い話を聞くと、家に帰って早速それを話したり、友人にまで知ったかぶりで話してしまったりします。健康意識の拡散。まさにこれですね、この制度の狙いは。
 保健補導員の研究大会といっても、硬い話ばかりではありません。先日の佐久地区大会の講演者は、医学博士にしてプロの落語家という立川らく朝さんでした。健康トークと落語の二本立てでしたが、どちらも説教臭はまったくなく、まさに笑いっぱなしの1時間半。「笑いこそ最良の健康増進薬、笑っている時に同時に悩み事をしている人などいませんよ」という話には100%納得しました。なお、「ストレスは健康の大敵ですが、ストレスなんか全く感じないという人もいるんですね。そういう人がいると、まわりがみんなストレスになるんですよ」とも。お後がよろしいようで。

佐久地区保健補導員等研究大会の様子です。これは、佐久穂町の事例研究発表における健康体操のシーンです。それぞれの地域ごとに独自の体操が考案されていて、同町のマスコットキャラクターである、「しらかばちゃん」も登場しています。
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音楽療法士による認知症予防の指導もありました。「ふるさと」を歌いながら、右手でグー、チョキ、パーの三拍子をとり、左手は指で三拍子のタクトを振る、さらには、それを左右交互に行う、といったようなことが、指導を受けた高齢者はみんなできるという話には、びっくりしました。
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立川らく朝さんの「健康トーク」です。医学の知識もあるプロの落語家の話はやはり面白いです。
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落語は、高齢化社会や振り込め詐欺をネタにした新作でした。
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はや晩秋

2017/11/11 22:13
 先月末以降、毎朝目を覚まして必ず最初にしたことは、寝室の窓から外を眺めることです。木々の葉の色が日々変化していく様は、まるで魔法を見ているようで、楽しみでしかたがなかったからです。ひと晩で極彩色に変化する日もあり、「おっ、すごい眺めになったぞ」と思わず跳ね起きてしまうこともしばしばでした。
 浅間山麓の紅(黄)葉は一気に進み、今週のはじめごろには、森も公園も家のまわりも、どこもかしこも紅(黄)葉状態に。いつもの散歩道ですら、まるで紅葉名所のようでした。しかし、季節の移ろいは、超特急です。昨日まで美しく色づいていた木が、あっという間に葉を落とし、枝の先にわずかばかり残った葉が、寂しく風にゆれているといった、晩秋の風景を目にすることが多くなりました。
 とはいえ、浅間山麓の紅(黄)葉ショーが終わったわけではありません。フィナーレを飾ってくれる真打がいるのです。それはカラマツ(落葉松)。黄金色に輝くその姿はとても美しく、間もなくやってくる厳しい冬を前に、これでもかというぐらい存在感を主張してくれます。
 カラマツの葉が落ちて、樹形が幹と枝のみのシルエットになると、いよいよ冬将軍の到来です。昔からの住民は、浅間嶺に三度雪を見ると、里にも雪が降るといいます。浅間山はすでに二度冠雪していますから、次はもう・・・。カラマツの黄葉に浮かれているわけにはいきません。そろそろスタッドレスタイヤに履き替えねばと、そのタイミングを探りはじめたポン太でした。

山から里へと下りてきた紅葉が、集落を飲み込もうとしているように見えます。(御代田町塩野付近)
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いつもの散歩道も紅葉のトンネルに。ここは春先に桜の花を愛でた開拓集落です。
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住宅地も紅葉と黄葉に囲まれてしまいました。
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いつもの水辺(軽井沢町追分の御影用水)も、晩秋の雰囲気です。
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「長野牧場」(佐久市)のカラマツの黄葉です。
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見事に黄葉したカラマツの後ろに連なる八ヶ岳連峰。
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黄金色の「カラマツ屏風」という舞台装置付きの農作業。パワーアップ間違いなしでしょうね。
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黄金色のカラマツの散歩道。こんなところを歩いていると、思い出すのは白秋の『落葉松』の詩。「からまつの林を出でて、からまつの林に入りぬ・・・」
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同じく白秋の「からまつの林を出でて、浅間嶺にけぶり立つ見つ」とは、こんな感じでしょうか。
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菅平(上田市)です。平地のカラマツの黄葉もきれいですが、山の黄葉は圧倒的なスケールでせまってきます。
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菅平ダム。このあたりはカラマツの黄葉一色ですが、十分見応えがあります。
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カラマツの丘を背に快走する小海線。車窓も黄金色に染まりそう。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その20

2017/11/07 08:50
<22日目、10月17日> 木曽八景「小野の滝」から「水舟」の須原宿へ画像

 桟(かけはし)温泉に泊まった翌朝、目を覚まして外を眺めると、朝日を浴びた木曽の桟の絶景がひろがっていました。桟そのものは現存していませんが、江戸期の石積のみ確認できます。
 上松駅にもどり、街道歩きを再開。町はずれの下町バス停から旧道に入りました。上り坂がありその上から振り返ると上松宿の家並みが見渡せますが、そこの地名は見帰と書いて「みかり」でした。さらに進むと寝覚という集落に入ります。茶屋本陣の「たせや」と江戸時代からの蕎麦屋である「越前屋」という、二軒の古い建物が残っており、旧道らしい良い雰囲気を漂わせています。実は、この「たせや」には学生時代に同好会の合宿で泊まったことがあるのです。その記憶はかなり薄れていましたが、40年余の時を経て、改めて眺めてみると、江戸時代そのもののような素晴らしい建物でした。今は民宿の営業はしていません。

茶屋本陣であった「たせや」
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石畳の旧道を下りました。復原したものかもしれませんが、ちょっときれいすぎる感じです。
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 上松中学のグランド脇からは中央アルプスが見事に見渡せました。木曽三大橋のひとつといわれた滑川の橋を渡り、道なりに進んで国道19号に出ると間もなく、左手に小野の滝があらわれました。木曽八景のひとつであり、浮世絵にも描かれ、多くの文人墨客が賛辞を送った滝です。今はその真上を中央線の橋梁が跨いでおり、滝自体は昔と変わらぬものの、いまいひとつ精彩に欠ける感じがしました。
 その後しばらくは19号を進みましたが、このあたりは、19号と旧道さらに中央線がもつれ合うような形になっているので、注意深く進まないと旧道への入口を見逃しそうになります。人家の庭先を通り抜けるような箇所など、これが中山道かと思えるような細く頼りないところもありましたが、なんとか歩くことができました。
 旧中山道は倉本駅の手前で線路を横断していたようですが、今はその道はなく、駅前の坂を登って倉本の集落へ。狭い道に面して古い民家が軒を並べ、なかなかよい雰囲気です。庚申塔や石造物の並ぶ一角を過ぎ、中央線をくぐり19号へ。その先もまた旧道と19号がからみあっており、右へ左へとめまぐるしくルートが変化します。

「木曽八景」の1つに数えられた小野の滝。今はその上を中央線が跨いでいます。
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こんな民家の庭先のようなところが旧中山道でした。
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このあたりは旧道(右端)と中央線、国道19号が並行しています。新旧の交通路を一望できる絶景です。
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ここで線路を渡るのが本来の中山道ですが、「横断禁止」の立て札を無視するわけにもいかず・・・。

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 須原宿の標識のところで左手の旧道に入ると間もなく須原駅です。明治42年の開業以来の古い駅舎があり、駅前に幸田露伴の碑がありました。駅からほど近い須原宿は、水舟の里といわれるように水が豊富で、いたるところに「水舟」とよばれる水場があります。思ったより長い宿場で、古い町並みも残り、宿場の背後には中央アルプスが顔をのぞかせるなど、雰囲気のよい宿場でした。
 第9中仙道踏切で中央線の東側に出て、そこからしばらくは線路から離れ、三角形の二辺を経由するような道となります。清水寺のような舞台をもつ岩出観音の近くを通り、英泉の絵に描かれたという伊奈川橋を過ぎると、すこし上り勾配となりますが、沿道の山里の風景は秀逸で飽きることがありません。天長院という古刹を過ぎるとゆるやかな下り坂となり、15分ほどで、本日の終着点大桑駅に着きました。

木曽路を行く中央線には開業以来という古い駅舎が多いのですが、須原駅にはなつかしい木製の改札柵が残っていました。

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趣のある須原宿の街並みと「水舟」
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須原から大桑へむかう旧中山道は、中央線を離れて山の中を迂回しますが、沿道の眺めはすばらしく、歩くのがまったく苦になりません。木曽路は本当に街道歩きの醍醐味を満喫できるところです。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その19

2017/11/05 00:02
<21日目、10月16日> ついに中山道中間点を突破画像
 本日の出発点、原野駅から歩き出して間もなく、道路際に中山道中間点の碑をみつけました。石碑は比較的新しいもののようですが、側面に、江戸へ67里28町、京へ67里28町と同じ距離が記されていました。日本橋から21日目にして、ようやく中山道歩きも半ばを過ぎたことになります。
 ところで、中央線の宮ノ越駅〜原野駅間には「中央線接続記念碑」があります。ここで東西双方から建設が進められてきた鉄路が結ばれ、中央本線が全通したというわけです。当初、東西両京を結ぶ幹線鉄道は、中山道ルートで建設することになっていたのですが、地形が予想以上に険しく、東海道ルートに変更されたという歴史があり、中山道中間点が鉄道の接続点となったというのも、どこか因縁めいていて面白い話です。
 さて、畑の中の気持ちの良い旧道を歩いていくと、あれっとおもうような細道に中山道の標識がありました。人一人がやっと通れる道を下り、林の中をぬけると川沿いの道となり、正沢川に架かる人道橋(昔ははねかけ橋だった由)を渡りました。川の水は澄み、昔を偲ばせるようなのどかな景観が目を楽しませてくれます。川から離れてしばらく進むと、手習天神がありました。木曽義仲の学問の神様ということですが、このあたりはとにかく、木曽義仲ゆかりの地のオンパレードといった感じです。

中山道中間点の碑。京へ67里28丁と記されていますが、裏側には江戸へ67里28丁とあります。
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中間点碑前の中山道(旧道)です。
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中央東西線鉄路接続点記念碑とその説明板。碑の後ろを線路が通っていますが、車窓から確認するのは困難です。
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こんなところを入っていくのかと、一瞬たじろいだ旧道への入口
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正沢川に沿った細道を進みました。前方の橋を渡りましたが、昔ははねかけ橋だったそうです。
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旧道沿いにある木曽義仲の手習天神。当地では木曽義仲は歴史上最も偉大な人物(英雄)ですから、様々な形で顕彰されています。
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 19号との合流点付近は、旧道をそのままたどることはできず、一旦19号に出て跨線橋をわたり、すぐにまた右手の旧道に入り、どんどん進むと福島宿の入口に到達。大きな冠木門をくぐったところが福島関所跡でした。関所のすぐ東側を中央線の線路が通っていますが、元はそこも関所の敷地であったということです。関所跡から坂を下りたところが木曽福島宿ですが、大火にあったということで、中心部に古い建物は残っていません。商店街をぬけ、左手に折れて坂を上がると高札場の跡にでました。水場もあり、よい雰囲気です。その先の「上の段」には古い建物が残り、ミニ奈良井といった感じがしました。木曽福島駅の方へ向かう旧道は鍵の手になっていて、これまた風情があります。
 中山道歩きをするまでは気付かなかったのですが、町はずれに位置している木曽福島駅の前を通っている道が中山道の旧道でした。したがって列車で来た人が町へ行くには必ず旧街道をたどることになるわけです。
 塩淵という集落に一里塚跡の碑があり、江戸より70里京へ67里と刻まれていました。中間点を過ぎたのですからあたりまえですが、もう京の方が近いということを確認することができて嬉しくなりました。その先のルートは少し複雑で、本来の旧道をみつけるのに難儀をしました。中央線のガードをくぐり、旧道を進んで少し坂を登ったところに御嶽遥拝所がありました。鳥居のある階段を上ってみましたが、今は残念ながら御嶽山は見えません。手前の山の樹木が視界を遮ってしまったせいでしょうか。その先へ少し歩いたところに、中央線と道の駅木曽福島を見下ろせる場所がありましたが、そこからは御嶽山を望むことができました。
 有名な木曽の桟(かけはし)付近は紅葉が真っ盛り。夕日を浴びてすばらしい景観となっていました。対岸に今宵の宿「桟温泉」が見えましたが、ひとまず通過し上松をめざしました。十王橋交差点付近で上松宿の旧道へ入ると、しばらくは古い建物が残る上町とよばれる街並みが続きます。本町一里塚碑を確認して大通りへ出て、上松駅へ。本日はここまでとし、先ほど通過してきた桟温泉にもどって投宿。冷鉱泉を加熱している温泉ですが、泉質がすばらしく、身体がよく温まり、街道歩きの疲れが癒されました。

福島宿入口の冠木門をくぐり、関所跡へ。
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木曽路で最も重要な関所であった福島関跡
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福島宿「上の段」の趣のある街並み
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紅葉がすばらしかった「木曽の桟(かけはし)」付近。桟は険阻な木曽路の代名詞ともいえるもので、当初は絶壁に丸太や板を藤づるで結んでつくられたということです。
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尾張藩が桟を石垣に改造し、1741年には全部が石垣になって、安全に通行できるようになったということです。道路下の石積みはその遺構です。
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日没がせまってきたので、木曽川沿いの中山道を上松宿へと急ぎました。
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往時の面影が残る上松宿の上町
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なんといっても雲場池

2017/11/01 00:41
 たび重なる台風の襲来で、どうなることかと心配した浅間山麓の紅葉ですが、紅葉前線は無事軽井沢周辺まで到達し、街路樹はもちろん、公園や別荘地の中の木々もみごとに色づいています。どこを歩いても、秋の風情を楽しむことができますが、ここだけは外せないという紅葉名所といえば、雲場池です。観光ガイドブックに必ず載っていますので、タヌキごときにいわれなくてもわかっているという声が聞こえてきそうですね。されど、何といわれようとも、ポン太の一押しはここです。
 浅間山麓の紅葉は、どちらかといえば黄色系が主ですが、雲場池のまわりには、真っ赤に紅葉する樹木が多いのです。水面に映る紅葉は息を飲むほど美しく、この紅葉を見ないことには、秋になった気がしないと、毎年必ず訪れています。先週末に眺めた今年の紅葉は、ここ数年で最高の部類に入ると言って良いものでした。
 紅葉の絶頂期は短く、同じ場所を訪れても数日違いで印象が変わってしまいます。本当にすばらしい紅葉を見ることができた時の達成感は、猟師が狙っていた獲物を射止めた時と同じかもしれません。眺めるだけなのに「紅葉狩り」と呼ぶのは、そういう意味ではないかと、勝手に解釈して悦に入っているポン太でした。

軽井沢駅から旧軽井沢に通じる「軽井沢本通り」の街路樹も紅葉していました
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紅葉真っ盛りの雲場池
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鴨たちも赤く染まってしまいそう
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 軽井沢を徘徊したついでに、白糸の滝まで足をのばしてみました。
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 峰の茶屋付近からみた浅間山です。このあたりまで来ると、紅葉の主役はカラマツです。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その18

2017/10/29 18:30
<20日目、10月8日> 鳥井峠を越えて画像
 早めに朝食を済ませ、鳥居峠へとむかいました。宿場のはずれの少し高い位置から振り返ってみた奈良井宿の眺めもすばらしく、いつどこからみても絵になる宿場です。これほど大きな宿場が今日まで残り、その街並み全体がしっかり保存されているのは、奇跡のようにさえ思えます。
 標高1197mの鳥居峠は、中山道の木曽路最大の難所といわれていますが、実際に歩いてみると、険しいところはまったくありませんでした。復原された石畳もあり、快適なハイキングロードといって良いでしょう。およそ1時間で、木曽平沢方面の眺めがよい峰の茶屋に着きました。鳥居峠には、明確なサミットをしめす標識がありません。おなじような標高のところをしばらく歩くと、御嶽の遥拝所があり、噴煙が立ち上る御嶽山を望むことができました。
 藪原へ下る道は、奈良井側よりさらにゆるやかで、だいぶ下ったところに石畳の路が復原されていました。そこを過ぎると、あっという間に麓の集落です。旧街道沿いにしては、新しい家が目立ち、カフェをやっていたらしい洒落た建物もありました。
 中央線の線路をくぐり抜けたところが薮原宿です。宿場の面影がないわけではありませんが、どちらかといえば生活感のある普通の町といった感じ。藪原といえば江戸時代からお六櫛が有名で、今もお六櫛を商う店がありました。

鳥居峠への道から振り返ってみた奈良井宿
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鳥居峠への道には石畳の箇所があり、旧街道らしい雰囲気です。
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快適な峠道です
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鳥居峠の峰の茶屋付近からみた平沢方面です。「木曽路はすべて山の中」を実感します。
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鳥居峠の遙拝所から、はるかに望む御嶽山。

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薮原側にもあった石畳
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鳥居峠を下り、旧中山道から見下ろした薮原宿
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薮原宿には今も「お六櫛」を商う店があります
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 藪原駅は、宿場とは反対側をむいており、中山道は駅の裏側を行くことになります。そこに藪原の一里塚跡の碑があり、その後ろに中央西線で活躍したD51形蒸気機関車が保存されていました。新旧の交通のシンボルという意味合いでしょうか。
 駅の南側で線路の下を通りぬけ、19号線に出ました。1キロほど進んだところから、「中部北陸自然歩道」の道標に従って進みましたが、はたしてこれが旧中山道と一致しているのかどうか、疑問が残りました。「中部北陸自然歩道」を整備するのは良いのですが、旧中山道との関係を明示してくれないと、中山道を歩こうという人はとまどいます。
 権兵衛街道の分岐点で国道19号と合流。しばらくは19号を進み、宮ノ越宿の看板のあるところを右折して旧道に入りました。ここから先はずっと旧道歩きとなります。木曽川沿いで景色も良く、快適そのものです。巴御前が子供時代に水泳の練習をしたという巴淵という場所がありました。確かに川が湾曲して淵のようになっており、そんなことがあってもおかしくはないと思わせるところです。このあたりは木曽義仲の本拠地であり、菩提寺もあります。
 宮ノ越駅入口を過ぎて、少し歩いた先が宮ノ越宿。うっかりしていると、いつの間にか通り過ぎてしまうような小さな宿場です。この先、原野駅まではほぼ中央線の線路沿いを進みます。時折通る列車の乗客の中で、そのすぐ脇の小路が旧中山道だとわかる人はほとんどいないでしょう。第五中仙道踏切で線路の反対側へ渡りました。ほどなく原野の集落です。正式な宿場町ではありませんが、この集落の古びた雰囲気は宮ノ越以上に旧街道であることを感じさせてくれました。まもなく原野駅に到着。今日はここまでです。

薮原の一里塚とD51
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巴御前が水泳をしたという巴淵。なんとなくそれっぽく見えます。
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小さな宮ノ越宿
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D51という屋号にはびっくり。元国鉄の機関士の家でしょうか。
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雰囲気のよい原野の集落。こういう道をたどることができるのが、旧道歩きの面白さといえましょう。
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軽井沢駅が変わった

2017/10/28 22:42
 しなの鉄道の軽井沢駅は、これまで、北陸新幹線軽井沢駅の添え物のような感じでしたが、昨日(10月27日)、そのイメージを大きく変える出来事がありました。それは、(旧)軽井沢駅舎記念館を軽井沢町から借り受け、駅舎としての利用を開始したからです。
 かつての軽井沢駅舎は、避暑地にふさわしい洋風の垢抜けた建物で、駅前にあった説明板には「1912(大正元)年に改築され、外観の造りは大正時代の面影を残し、内部については改修されたところが多い」と記されていました。
 1997(平成9)年の新幹線開業時に旧駅舎は取り壊されたのですが、それを惜しむ声が高まったことで、軽井沢町が往時の外観を忠実に復元した「駅舎」を建設し、(旧)軽井沢駅舎記念館(内部は資料館)として2000(平成12)年にオープンしました。
 この建物に目をつけたのがしなの鉄道で、開業20周年を機に、本物の駅舎として利用することになったというわけです。駅舎に隣接した旧1番線ホームと現在使用中のホーム(1・2番線)との間をウッドデッキでつないだことで、改札口から水平移動で列車に乗降できるようになりました。駅舎内には駅事務所のほかカフェが設置され、二階の旧貴賓室は、「ろくもん」利用者の専用ラウンジとなりました。ウッドデッキには子連れで遊べる有料待合室が設けられており、今後、遊具や店舗なども整備するということです。
 しなの鉄道がその起点にふさわしい駅舎を開設したことは喜ばしい限りですが、これまで(旧)軽井沢駅舎記念館の屋外展示物として、間近に見学することができた保存車両の扱いが気になります。現状は見学不可ですが、アプト式最古の10000形電気機関車(鉄道記念物)などは、鉄道史や軽井沢のあゆみを語る上で、欠くべからざる貴重な遺産ですから、適切な保存と誰にもその意義がわかるような展示を望みたいものです。


 しなの鉄道が駅舎としての使用を開始した「(旧)軽井沢駅舎記念館」。この建物は、新幹線開業以前の駅舎を、建設された当時の姿に復元したものです。取り壊される前の軽井沢駅舎には屋根にドーマーがありませんでしたが、古写真をみるとそれがありますので、それに倣ったものと思われます。建物がシンメトリーであるのも、古写真のとおりです。
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 取り壊される2年前の軽井沢駅舎です。(1995年10月29日撮影)
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 新たに設けられた出札口と改札口
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ウッドデッキで結ばれた改札口前の旧1番線ホームと現行ホーム
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駅舎の入り口で取材中のテレビ局のクルー
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(旧)軽井沢駅舎記念館時代には、近づいて見学することができたアプト式最初の電気機関車10000形。ラックレールと第三軌条がセットで保存されていました。
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浅間山初冠雪

2017/10/26 22:51
 待ちに待ったそのシーンがやってきました。昨夜の雨が、高山では雪となり、当地のシンボルである浅間山も初冠雪。雪化粧した部分と、中腹から麓にかけての紅葉とのコラボは、実に素晴らしい眺めでした。麓の畑には、まだ緑の野菜が残っているところもあり、白、赤(黄)、緑の三段染めという贅沢な景観になったところもありました。
 浅間山だけではなく、はるか西方には、真っ白な峰を連ねた北アルプスを望むことができ、今日は一日中幸せ気分のポン太でした。

 「龍神の杜公園」(御代田町)の紅葉は今が見頃。雪を戴く浅間山とのコントラストはすばらしく、遊びに来ていた親子連れも、満足したことでしょう。
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 三段染めの景観です。
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紅葉前線

2017/10/25 18:10
 このところ秋雨前線や台風の影響でずっと天気が悪かったことと、同窓会等でねぐらを留守にしていたこともあり、先々週に志賀高原を散策して以来、「紅葉見頃」と報じられた山に出かける機会はありませんでした。しかし、登らなくてもむこうから下りてきてくれるのが紅葉前線。今はどのあたりかと浅間山を眺めて見たところでは、標高1200m前後まで山裾の色が暖色系に変わっていました。このまま推移すれば、あと数日でポン太の生活エリアである海抜900m前後に到達するものと思われます。
 地域全体が赤や黄色に染めあげられる風景は圧巻ですが、紅葉と青葉が混在していたり、一部だけが紅葉して遠目にはグラデーションのように見える風景もまたよいものです。浅間山麓の現状は、まさにそんな感じでしょうか。ポン太がふだん徘徊しているエリアで目に留まった紅葉シーンを、いくつかご紹介します。

 まずはポン太の森から。この時期の紅葉の主役は、ツリバナ、イロハモミジ、ニシキギ、ヤマウルシ、ツタウルシ、ヤマザクラなど。高木はまだ青葉のままですが、その足元はかなり賑やかになってきました。
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 御代田町にある雪窓公園です。夕陽を浴びた桜の紅葉がきれいです。
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 雪窓公園前の大通りの紅葉が見頃になっていました。
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 追分宿でも紅葉が始まっていました。
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 追分宿の堀辰雄文学記念館前。移設された本陣門の上のもみじのグラデーションがみごとです。
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 追分宿の泉洞寺の鐘楼。京都や鎌倉の古刹を思わせる雰囲気です。境内には全国唯一の「カーリング地蔵」があります。
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中山道と北国街道の「分去れ」も色づいています。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その17

2017/10/19 11:38
<19日目、10月7日> いよいよ木曽路へ、奈良井宿へ画像
 いよいよ中山道歩きのハイライトである木曽路へ。今日は、日出塩駅前をスタートし、木曽路の宿場の代名詞ともいえる奈良井宿をめざすという行程ですから、朝からもうわくわく気分でした。
 日出塩の集落をぬけたところで国道19号に合流。まもなく、初期中山道との合流点があり説明板が立っていました。大久保長安によって整備された初期中山道はここから小野を経て岡谷に至っていた由。長安の没後、現行ルートに変更されたということです。
 しばらくは、自動車道路わきの歩道歩きですが、眼下に奈良井川の清流を眺めることができ、まったく苦になりません。まもなく右手に「これより南、木曽路」の碑があらわれました。ついに木曽路に足を踏み入れたわけです。旧道はそのあたりから左手の山を高巻きします。頼りないような細道ですが、樹間から奈良井川の清流が見え、なんともいえないよい雰囲気。再び19号に合流したところが櫻澤という場所で、茶屋本陣があり、明治天皇巡幸がらみの石碑が立っていました。
 国道19号を歩いたかと思うと旧道に入り、また19号にもどるといったややこしいルートを進みました。贄川駅の手前まで、旧道は国道19号より高い位置にあり、国道と中央西線を見下ろせます。面白い風景ですが、もちろん江戸時代にはなかったもの。
 旧道を下り、国道19号に出たところに中央線の贄川(にえかわ)駅があり、待合室を借りて早めの昼食をとりました。贄川駅舎は明治42年の中央本線開業以来のもので風情があります。駅の少し南側に関所橋という橋があり、名前の通りそれを渡った先に贄川の関所跡がありました。中央線開業時につくられた橋を一新し平成元年に完成したと説明板には書いてありましたが、新しくなったのは上部のみで、下部は煉瓦アーチ橋の形態をとどめています。
 贄川の関所の建物は復元されたものです。贄川宿は、木曽11宿最初の宿ですが、昭和初期に大火にあったということで、重要文化財の深沢家住宅以外には、古い建物はあまり残っていません。贄川宿の南側の桝形らしき狭い路地のようなところをたどると、歩行者専用の跨線橋がありました。そこで線路を渡って19号線へもどり、しばらく歩いた先の諏訪坂という切通のところから左手の旧道へ入るはずでした。ところが19号はちょうど道路工事中でずっと先まで横断できそうもありません。そこで、そこにいた警備員に旧道への行き方を尋ねたところ、「トラックに引っかけられると他の車の迷惑になるから国道を歩かないでくれ」と言われて、唖然。人間よりクルマを心配する警備員がいるとは…。
 なんとか横断できそうなところを見つけて旧道に入りました。少し歩いた先には栗の木があり、大きな栗がたくさん落ちていて思わぬ大収穫。その先ものどかな道で、先ほどの不愉快な気分が癒されました。一旦19号と合流した後、長瀬というところから、左手の旧道に入りました。龍門堂という大きな漆器店(工場)があり、その裏を行くことになります。このあたり、19号と旧道がもつれ合うような感じで、旧道への入口を見落とさないようにかなりの気をつかいました。

「これより南木曽路」の碑。いよいよ木曽路に入りました。
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国道より高いところを行く旧道。樹間から奈良井川の清流が見えました。
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国道19号(左)ともつれ合うように存在する旧道(右)
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国道と中央線を見下ろすこんな細道が旧中山道でした。

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贄川駅舎は開業以来の古い駅舎で趣きがあります。
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贄川の関所前からみた中央線の線路
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 木曽平沢の集落へと続く旧道は風情があり、漆器店がずらりと並ぶ美しい街並みには感動しました。集落をぬけたところで、第三中仙道踏切を渡り、またまた19号へ。道路からみえる楢川中学校の立派なこと。木曽らしい二階建ての木造校舎でデザインもすばらしいものでした。
 奈良井宿の案内板のあるところを右折して奈良井川を渡ります。中央線の踏切を渡り少し進むと奈良井駅が見えてきました。その背後には、今日の終着点奈良井宿の家並みもみえています。奈良井千軒といわれていたように、とても大きな宿場で、ほぼ1キロにわたって家並みが続きます。電線が地中化されているため、上空がすっきりしていて、まさに江戸時代にタイムスリップした感じがします。どこをみてもすばらしいので、写真を撮りまくってしまいました。
 今日の宿は伊勢屋という古い旅館。かつては牛馬宿を兼ねた問屋であったということです。奈良井宿の中心部といってもよいところにあり、すぐ近くに本陣跡がありました。案内された部屋は中山道に面しており、窓から格子越しに見下ろす街道の風景は時代劇のセットのようです。風呂は温泉ではないものの、木の香漂う浴槽は気持ちよく、地元の山の幸を中心とした夕食もまたすばらしいものでした。宿場そのものに泊まるのはこれが初めてでしたが、やはり泊まるだけの価値があると、つくづく思ったポン太でした。

漆器の町、平沢の美しい街並み
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楢川中学校の木造校舎。さすがは木曽と思わせる立派なものです。
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どこをみても絵になる奈良井宿の街並み。
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今宵の宿、伊勢屋。よい雰囲気です。
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格子越しに見下ろした街並みは時代劇のセットのようでした。
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紅葉の森をぬけて幽玄な山頂へ

2017/10/17 13:21
 信州の紅葉は長く楽しめるのが特徴です。紅葉は、桜とは逆に山の上から麓にむかって下りて来ますが、その速度は1日50mといわれます。信州には3000m級の山々もあれば、500m前後の里もあり、その標高差はおよそ2500m。単純計算ですが、50日間は県内のどこかが紅葉の見頃になっているというわけです。
 テレビのローカルニュースでは、毎日、紅葉情報が報じられていますので、どこが見頃なのか把握することができます。また県の観光サイト「さわやか信州旅net」にも、「信州紅葉だより」というコーナーがあり、見頃情報が随時アップされています。
 そんな情報に接すれば、出かけたくなるのがあたりまえ。とういわけで、先週は、「見頃」と報じられた志賀高原に出かけてみました。山歩きの好きなポン太ですから、ただの紅葉見物ではちょっと物足りません。やはり1つは山に登ってみたいもの。ところが、志賀高原は開発されすぎていて、登山の対象となる山が少ないのです。そんな中で、今回選んだのは焼額山(やけびたいやま、2009m)。
 ここまでやるかというほど全山スキー場と化しており、山肌が痛々しいほどに露出し、スキーバブルのころの人間の傲慢さを見せつけられているような気さえする山です。スキーシーズンなら、ゴンドラで労せずして山頂に立つことできる山に、なんでわざわざ汗水垂らして登る必要があるのか。こんな山、絶対登ってやるものか、と思っていたのですが、あるブログに「秋晴れの日に訪れていただきたい静かな名勝です」という書き込みがあるのを見て、気が変わりました。
 登山ルートにはゲレンデの中を通る箇所もあるのですが、それ以外の森の中の道は、まさに紅葉のトンネル。どんなに傷つけられようとも、この山の自然力はすばらしいものなのです。頂上にある稚児池とそのまわりの湿原も、幽玄な感じがして登った甲斐がありました。紅葉シーズンにもかかわらず、ほかの登山者には一人も出会いませんでした。静かに、心ゆくまで紅葉を楽しむことができる山。お見それしました焼額山。

 志賀高原で定番の丸池。紅葉はちょうど見頃でした。
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 焼額山の登山道。いつまでも歩いていたいような気分になります。
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 白樺とモミジのコラボも素敵です。
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 焼額山の中腹から望む岩菅山
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 焼額山山頂の稚児池。山上にこんなに広い池があるのは意外な感じがします。
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 山田牧場(高山村)に下る道路から見上げた志賀高原のシンボル笠ヶ岳。
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山歩きの後はやはりこれ。七味温泉の少し白濁したエメラルド色の湯はポン太のお気に入りです。湯舟からみる紅葉も見事。
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 紅葉名所の松川渓谷は、色づきはじめたところで、見頃はもう少し先といった感じでした。
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乾燥いもづくりにチャレンジ

2017/10/14 10:26
 都会暮らしをしていたころは、美味しいものは、それを売っているお店を見つけて買ってくるのが基本でした。しかし、山暮らしになってからは、美味しいものや食べたいものは、自分でつくることが多くなったように思います。都会のようにお店の数が多いわけではなく、選択の余地が少ないというのもさることながら、美味しいものができそう、と思わせるような原材料が豊富にあり、かつ安価に(場合によってはタダで)手に入れることができるからです。ご近所の方からレシピを教わることもあり、モチベーションが自然に高まってしまうというわけです。
 秋が深まると食べたくなるのが乾燥いも。子供のころ、おやつによく食べていましたし、叔母の知り合いに茨城の乾燥いもづくりの名人がいて、極上の品を送ってもらっていたこともあり、ポン太にとっては思い出深い食べ物です。しかし、市販されているものは高価である上、ねっとり感に欠けるものが多く、買ってまで食べる気がしませんでした。
 1週間ほど前、丸々と太った「紅はるか」という種類のサツマイモが、スーパーの店頭に山積みになっているのを目にしました。地域の寄り合いで、「乾燥いもは自分でつくった方が美味しいわよ」といわれた言葉を思い出し、これはチャンスとばかり、乾燥いもづくりにチャレンジすることにしました。
 蒸かしてスライスし、乾燥用のカゴに入れて干すだけ。思ったより簡単です。3日目に食べてみると、ねっとり感があり、甘みもたっぷりで美味。3分の1ほどを冷凍保存することにしました。表面が乾いて粉が吹いたような状態になるにはもう少し時間が必要ではないかと考え、残りは干し続けました。6日目、だいぶ乾燥がすすみ、いい感じになってきました。森の木々も色づいてきて、干している様子は「絵になる」感じ。しめしめと思い、夕方、中を覗いてみると、なんとイモの表面に青い斑点が…。青カビです。ありゃぁ〜、トホホの全滅でした。異常気象で気温が上がりすぎたせいなのか、単なるタイミングの問題なのか、理由はよくわかりません。
 手づくりに失敗はつきもの。気を取り直し、次回を期するポン太でした。

丸々と太った「紅はるか」。おいしい乾燥いもができそう。
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スライスし、干し始めました。
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一日干して中を覗くと、なかなかいい感じ。
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3日目、少し食べてみたところ、ねっとりして甘味も凝縮されている感じです。
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6日目。紅葉が少し進み、雰囲気が良くなった森に干したのですが、トホホの結果でした。
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山岳写真展と天空の芸術祭

2017/10/10 11:48
 「芸術の秋」というわけで、連休最終日に、2つのアートイベントに出かけてきました。
 1つは地元の山岳写真家、丸山純一氏の写真展「天地−自然の光響詩」(今月14日まで開催)です。会場は小諸市の高原美術館。この美術館はおどろくほどロケ−ションの良いところにあり、遠目には教会のように見えます。「白鳥映雪館」と併記されているように、常設展示は白鳥映雪や伊東深水といった日本画がメインです。収蔵作品自体はすばらしいのですが、この美術館の佇まいとは合わないような感じがしていました。今回の企画展はまさにこの美術館にぴったり。ポン太も登ったことのある山々を、こんなにも美しく詩情豊かに表現することができるのかと、作者のセンスと技量、そして悪天候や極寒すら味方にする努力に脱帽しました。
 もう1つは、東御市の御牧ヶ原地域を舞台にした「天空の芸術祭」です。同市と東京芸大が連携した現代アートの一大イベントで、10月29日まで、およそ1ヶ月にわたり行われています。御牧ヶ原というのは広大な台地ですから、その野原や森に潜んでいる作品を探すだけでも大変。やっと見つけて眺めてみても、今度はそれが何を意味しているのか、何が言いたいのか、しばらく考えてもよくわからない。???という感じですから、正直疲れます。しかし、ただ見て美しいというのではなく、そうやって作品と格闘させるのが、現代アートなのかもしれません。ポン太のボケた頭には、ちょうどよい刺激となった一日でした。

 ロケーションがすばらしい小諸高原美術館
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 エントランスの階段には雑草がいっぱい。そこまで手が回らないのかもしれませんが、建物がすばらしいだけにちょっと残念です。
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 美術館からの展望も抜群。浅間山を背景とした棚田の風景も素敵です。
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 東御市の「天空の芸術祭」へ。まず見つけたのが、御牧ヶ原の「芸術むら公園」の一角にあったこの作品。なんだかバラックのようですが、中は迷路になっていて、作品名は「Spirit Gate」(作家名:豊福亮)です。中に入るとちょっと不気味な雰囲気。
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 その近くで見つけたのが、作品名「雨の音を聞く家」(作家名:保科豊巳)。ただの東屋のように見えますが、下に傘が置いてあり、「雨音の聞ける時間帯は下記のとおりです」という表示が。これはひょっとして・・・。
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 一番アート作品らしい感じがしたのがこれ。作品名「大地の翼」(作家名:李偉)。現地の子供たちとつくりあげたパブリックアートということです。青空にあがる凧を仏塔に見立てているようです。
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 浄水場の広場で見つけたのが、作品名「ダンパリウム」(作家名:岩井優)。インパクトのある球形の作品ですが、近づいてみると、不法投棄されたようなモノがいっぱい。「ある場所や状況からフレームアウトしたものを、新たにフレームインさせることで、<自然>との対峙のありかたを探ります」と記されていました。う〜ん、なるほど、現代アートだなぁ。
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 作品を探して移動中に、見事に紅葉している森を見つけました。凡人いや凡タヌキのポン太には、こちらの方が芸術作品に見えたりして・・・。
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