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浅間山麓のブラタヌキ
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浅間山麓に移り住んだタヌキのポン太のブログです。どんなタヌキかって?それはプロフィールをご覧下さい。
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山里に響く歓喜の歌声

2017/12/14 22:21
 地方で暮らすことのデメリットとみられることが多いのが文化行事の少なさ。それがいやで都会を離れられないという人もいると思います。しかし、幸いなことに、浅間山麓ではそんなことを感じることはほとんどありません。
 新聞のイベント欄をみると、演奏会、講演会、展覧会等が目白押し。図書館や公民館には、たくさんのイベント情報のチラシが置いてあり、その中にはポン太の興味を惹くモノがかなりあります。もちろん、人口が圧倒的に多い東京などと比較すれば、スケールとしては小さな催しが多いのですが、かえって、身近な感じがして親しめます。
 師走といえば、音楽イベントの定番は第九の演奏会。都会ではあちらこちらで行われているので、あえて出かけようという気になりにくいのですが、浅間山麓では数が限られています(おそらく1回です)から、この機会を逃すわけにはいかないと、かえってモチベーションが高まります。
 先週のことになりますが、佐久市の第九演奏会に出かけてみました。パンフレットには、<「第九」のまち佐久>とあり、今年で17回目ということです。演奏は佐久室内オーケストラ。アマチュアですが総勢55人の編成で迫力があります。ソリストは、全員がプロの声楽家。オペラ「夕鶴」で佐藤しのぶさんの相手役を務めるなど、大活躍中のテノール倉石真さん等の力強い歌声に魅了され、この曲ならではの高揚感を味わうことができました。帰りがけに駐車場を見ると、軽トラで乗りつけた人もいたようです。市民が気軽にクラシックを楽しむことができる、こんな雰囲気も悪くないと感じたポン太でした。
 同時期に佐久市内では演劇祭も行われており、そちらも覗いてみましたが、アマチュア劇団の熱演にびっくり。夜になると佐久平駅前には、華麗なイルミネーションが点り、地方都市にいることを忘れてしまいそうになりました。

「佐久第九演奏会」のパンフレットより
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佐久演劇祭会場の佐久創造館
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熱演中のアマチュア劇団「木炭自転車(すみちゃり)」
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佐久平駅前のイルミネーション「SAKU BLOOM 」です。
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背後の高架線を走っているのは小海線の列車です。車内からの眺めも良さそう。
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民間の工場にもイルミネーションが名物というところがあります。これは樫山工業の本社工場です。国道141号線沿いなので、車からもよく見えるのですが、運転中に見過ぎてしまうと危ないですね。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その26

2017/12/12 10:53
★年内歩き納めの巻
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<29日目、11月30日>宿場情緒たっぷりの太田宿を経て坂祝駅へ
 雪が降る前に、なんとか関ヶ原の手前までは行っておきたいと、前回から10日足らずで中山道歩きを再開。伏見宿から、国道21号を西へと歩き始めました。パチンコ屋、ラーメン屋といったどこにでもありそうな沿道風景が続きます。中山道を示す標識の類も少なく、街道歩きをしている実感はありません。一里塚も道路際に石碑があるのみ。岐阜県内に入ってから最も殺風景な区間と言ってもよいかもしれません。中恵土(なかえど)というところを過ぎ、しばらく進んだところで国道21号と分かれ、ようやく少しばかり旧道らしさの残る道に入りました。
 木曽川のほとりに、今渡の渡し場跡があり、木曽川のむこうに見えるのは広重の絵に描かれているような山々。今はその場所で川を渡ることはできないので、上流側にあるレトロな太田橋を渡りました。木曽川右岸の堤防に沿って進むと間もなく太田宿です。旧家が軒を連ね、かつての宿場町の情緒たっぷり。本陣は門のみですが、脇本陣は建物が残っており、内部を見学することができました。総じて、印象の良い宿場町で、宿場の出口には桝形も残っていました。

今渡の渡し場から見た木曽川と太田橋。対岸の左手方向に太田宿があります。
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宿場情緒たっぷりの太田宿を行く
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「うだつ」のあがった太田宿脇本陣。内部を見学することができました。
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 太田宿を出て、中濃大橋の下をくぐり、再び木曽川の堤防沿いを進みました。まだ紅葉の残る木曽川べりは風景もよく、気持ちよく歩くことができます。
 しばらく歩くと、坂祝町役場があり、その前の会館には「難読町村名坂祝」という表示がでていました。坂祝は「さかほぎ」と読みます。その近くに「飛騨木曽川国定公園 日本ライン」看板が出ていたので、木曽川の堤防に登ってみると、確かにすばらしい眺めでした。紅葉の山々をバックに奇岩の間を行く碧の木曽川。昔の旅人も、このあたりの景色には癒されたことでしょう。
 その少し先にJR高山線の坂祝駅があります。今日はここまでとし、列車でホテルのある美濃太田へもどりました。

木曽川の眺めが美しい「日本ライン」。中山道から木曽川の堤防に登るとこんな景色でした。
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町名同様読み方が難しいJR高山線の坂祝(さかほぎ)駅
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<30日目、12月1日>雨の木曽川沿いを行く
 ホテルの朝食はバイキングでしたので、本日の長丁場に備え、たっぷり食べてエネルギーを蓄積。美濃太田発の列車で坂祝駅へもどり、鵜沼(うぬま)宿をめざしました。今日はあいにくの雨。最初のうちは国道21号の車道歩きで、あまり面白みはありませんが、しばらく進むと旧道が残っている箇所がありました。旧道は、木曽川にせまる山の斜面を、上ったり下りたりしながら進む形になっています。
 木曽川と国道21号の間に「中山道 下りる」と書かれた標識を見つけました。その標識に従って階段を下りていくと、水がかなりの勢いで流れている沢があり、その脇に狭い歩道がつけられていました。国道21号線とJR高山線の下を潜り抜けるようになっており、その先には、うとう峠への山道が続いています。こんな雨の日にここを通る人などいそうもなく、ちょっと心細くなりますが、旧道を行くのが鉄則。「中山道いこいの広場」という名の休憩場所を通過して間もなくサミットとなり、そこを過ぎると団地や新興住宅地が現れ、景色は一変しました。大きな池もあります。その周りの紅葉が見頃で美しいのですが、激しい雨の中、ゆっくり眺めている気分ではありません。鵜沼台という住宅地の中を下っていくと、鵜沼宿を一望できる場所に出ました。雨に煙ってよくは見えないのですが、雰囲気の良さそうな街並みです。坂を下りきったところが桝形になっていて、そこから宿場町へと入っていきます。水路を渡った先が鵜沼宿の中心部。鵜沼宿は、電線の地中化がなされ、沿道の家々も宿場の雰囲気にあわせたつくりになっています。造酒屋の黒塀の先に並ぶ登録文化財の家並みも見応えがありました。

国道21号と高山線の間を行く旧道。かなりのアップダウンがあります。
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うとう峠の入口。この先はちょっとした山道です。
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峠を越えた反対側は住宅地でした。
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見事に修景されて、風情のある鵜沼宿。
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造り酒屋の黒塀の先には、登録文化財の家並みが
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 鵜沼宿からしばらく歩くと、道はふたたび国道21号と合流。この先は、各務原(かかみがはら)市の中心部を通っていくわけですが、完全に市街地化した道で、面白味はほとんどありません。名鉄線を跨ぐ三柿野付近には、川崎重工の広大な工場群がありました。その先で国道21号はバイパスとなって離れて行き、激しく行き交うトラックの風圧と跳ね上げる水に辟易していた状態からは解放されました。各務原市の市役所があるあたりは電線が地中化されており、すっきりと整った街並みが続きます。岐阜大農学部跡地の石碑がある市民公園は紅葉が真っ盛りでした。
 この各務原市のメインストリートと分かれ、旧道に入ると間もなく新加納。鵜沼宿と加納宿(岐阜)の間は17キロ余と距離が長いため、立場茶屋のあった新加納は、間の宿としての機能を有していたということです。道も枡形になっており、規模は小さいものの旧街道らしい好ましい町並みです。
 新加納を出ると畑や水田の中を行くのどかな道となりました。中山道と並行している名鉄各務原線がよく見えます。手力やその先の切通という集落の街並みは歴史を感じさせます。ようやく天気が回復し、薄暗い雨の中の歩行から解放されたところで、名鉄の細畑駅に着きました。時計をみると午後4時。このまま歩き続けても、加納宿に着く前に暗くなってしまいそうなので、本日はここまでとし、電車で宿泊先の岐阜へとむかいました。

各務原市中心部の中山道を行く。電柱がなくすっきりしています。
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新加納の枡形です。
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旧道と並行する名鉄各務原線
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<31日目、12月2日>長良川を越えて河渡宿、そして美江寺駅へ
 今日は雨の心配はないものの、冬型の気圧配置となった影響で風が強く、昨日と比べると格段の寒さです。岐阜から電車で細畑駅へもどり、年内最後の中山道歩きをスタート。
 細畑から加納に至る中山道は、古い街並みが続きます。領下というところには感じのよい地蔵堂と道標が立っていました。東海道線の下を潜り抜けると、名鉄の茶所駅。駅前には、中山道加納宿と記した石柱がありました。岐阜の市街地に吸収された加納宿には、古い建物はほとんど残っていません。本陣も脇本陣も標識があるだけですが、折れ曲がった道路の形状に宿場町らしさが感じられます。江戸期の石の道標もありました。旧加納町役場の古いビルが廃墟のように残っており、かつては岐阜とは別の町であったことがわかります。
 加納宿を抜け河渡(ごうど)宿へとむかう道は、ごく普通の都市周辺の住宅地の中を歩くといった感じで、あまり面白味はありません。鏡島と書いて「かがしま」と読ませる集落を抜けると、長良川の大きな堤防が見えてきました。その名も河渡橋という橋を渡った先が河渡宿です。橋の上からは岐阜城をはじめ長良川周辺の山々が一望でき、なかなかよい眺めでした。
 河渡宿は長良川の水面より低い「輪中」の中にある宿場です。堤防下に、「いこまい中山道河渡宿」と記した櫓が立っていました。その傍には馬頭観音堂がありました。河渡宿には、ほかにこれといった建造物や見どころはありません。しかし、背後には長良川の堤防が大きくそびえ立っており、川止めの際ににぎわった宿場であったことを実感することができます。
 穂積市の正津(なまづ)という、読み方が面白い地域を進みました。その先の本田という地域の街並みは旧街道らしい雰囲気があります。かつて代官所が置かれていたということです。
 広々とした水田の中を進むと、樽見鉄道の踏切が見えてきました。美江寺駅はすぐ先です。時計をみると、すでに予定した列車の発車時刻になっていました。無理かなと思いながらも急ぎ足で駅へむかったところ、2分遅れでやってきた列車に乗り込むことができました。年内はここまで。来春には必ず京都三条大橋に到達するぞ、という思いを胸に、帰途についたポン太とポン子でした。

名鉄茶所駅と「中山道加納宿」と記された石柱
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加納宿の枡形。かぎ型に曲がりくねっていて、どこを進めば良いかちょっと迷います。
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かつての加納町役場の建物です。
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河渡橋の上からの眺めはすばらしいものでした。この写真は長良川の上流側をみたところです。
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河渡宿と記された櫓と馬頭観音堂
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河渡宿と長良川の堤防
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本田代官所跡
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樽見鉄道の美江寺駅。少し遅れて到着した大垣行の列車に乗車することができました。
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師走の夜はイルミネーションめぐり

2017/12/08 22:19
 漆黒の闇に浮かび上がるイルミネーションは、まるで魔法の世界を見ているようです、とはちょっと言い過ぎかもしれませんが、浅間山麓の師走を彩るイルミネーションはかなりのインパクトがあります。
 もし、それがなければ、冬枯れの物寂しい世界が広がり、木々を振るわす風の音だけが聞こえてくるといった雰囲気ですから、とても出歩く気にはなりません。このような時期に点灯されるイルミネーションは何とも有り難い存在であり、師走の夜のささやかな楽しみということができます。もちろん、気温は氷点下と寒いのですが、あちらこちらに点された色とりどりのイルミネーションを見ていると、少なくとも心は暖かくなります。
 都会の明るく華やかなイルミネーションも魅力ですが、浅間山麓の凛とした空気の中で見るイルミネーションには、ひと味違う味わいがある、そう信じて、底冷えのする夜の巷を徘徊するポン太でした。

軽井沢駅前のイルミネーションです。
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旧軽井沢ロータリーのイルミネーションです。日が落ちると人通りは絶え、ポン太のためだけに点灯してくれているようでした。
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森の中のレストランです。さすがにテラスで食事をしている人はいませんが、そこだけが明るく輝いていました。
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人気のアウトレット、プリンスショッピングプラザ内のイルミネーションです。
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こちらは星野エリアの「ハルニレテラス」のイルミネーションです。派手さはまったくありませんが、周囲の闇と川音とのコラボが絶妙です。
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歩き回って冷え切った身体を温めるには温泉が一番です。最後にやってきた星野温泉トンボの湯にも大きなツリーが輝いていました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その25

2017/12/04 14:16
<28日目、11月21日>山の細久手宿から里の伏見宿へ 画像 
細久手宿では、タイムスリップしたような宿で一夜をすごし、その余韻がさめやらぬ中、御嵩(みたけ)宿を目指して大黒屋前を出発。今日は朝から晴天で、歩き旅には絶好のコンディションです。
 基本的には山地から平地への下りですが、まだまだかなりのアップダウンがあります。まずは秋葉坂越。そこにも昨日みたような三尊石窟がありました。鴨ノ巣一里塚には一対の塚が残っており、その先のふじあげ坂を過ぎてしばらく進んだところには、京都の嵯峨野のような美しい竹林がありました。一旦、津橋という山間集落に下りますが、さらに山道は続き、物見峠へと登って行きます。そこには、和宮を休息させるために設けられた御殿の跡である「御殿場」がありました。峠には現代人を楽しませるお洒落な喫茶店があり、ここまでは反対側からクルマで登ってくる人がかなりいるようです。
 坂を下ったところの集落は、謡(うとう)という由緒ありげな名前がついていましたが、人の気配がまったくありません。謡坂の一里塚を通過した先が、広重の描いた「御嵩」といわれている場所です。古い民家と坂のとりあわせがそれらしい雰囲気を漂わせていました。最後の石畳を通り、「牛の鼻欠け坂」と呼ばれる坂道を下りました。ここは、上方から江戸をめざした場合、最初に越えなければならない坂道であり、重い荷を背負った牛が鼻をぶつけるほどの急坂であったということからその名がついたそうです。京をめざすポン太とポン子にとっては、この坂を下れば山地が終わり、後は比較的平坦な道を進むだけということになるわけです。身体は楽になりそうですが、中山道らしい山道ともお別れかと思うと、ちょっとばかり寂しい気持ちになりました。

ふじあげ坂の先には美しい竹林の道が続いていました
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広重が描いた「御嵩」の場所。絵と見比べてみると、なるほどという感じがします。ポン子がポーズをとっているところには小川が流れていたようです。
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最後の坂道、「牛の鼻欠け坂」へ

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山地を脱し、平坦な道となった中山道です
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この地域に多い三面馬頭観音です
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 国道21号に合流すると間もなく右手に和泉式部の供養塔がありました。和泉式部といえば、百人一首の「あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」を思い出します。各地を旅した和泉式部は、この地で病を得て亡くなったということです。
 しばらく国道を歩き、左手の旧道に入ると間もなく御嵩宿です。本陣があった場所は駐車場になっており、標識があるだけですが、脇本陣は現存していました。その斜め前に露店をだしていた八百屋の御主人が、その場所からの眺めが御嵩一の景観だといいます。確かに脇本陣横の道の奥に地域のシンボルのような円錐形の山を望むことができ、良い眺めでした。
 御嵩駅を少し過ぎたところにあるお好み焼き屋で昼食をとりましたが、人気店のようでなかなかの美味。元気が出ます。御嵩宿と次の伏見宿との距離は比較的短く、国道を歩く部分と、湾曲した旧道を歩く部分が半々といった感じです。これまで歩いてきた山中と比べると単調な道であることは否めません。旧道から国道にもどり少し進んだところが伏見宿。旧中山道が国道に吸収されてしまったため、宿場町の面影はほとんどありません。本陣跡地は公民館となり、碑だけが立っていました。伏見宿へ入る少し前にすれ違った街道歩きの人から、無料の接待所があるという情報を得ていたので、その場所へ行ってみました。元伏見郵便局の建物を利用して、地元のおばさんたちがやっているお休み処で、茶菓子の接待がありました。伏見地区ふるさとづくり活動センターというのが正式名称のようです。岐阜県内の宿場町の中で、宿場の遺構がほとんど残っておらず、注目度の低い伏見宿をなんとかしたいと、雰囲気づくりに取り組んでいるということでした。
 伏見宿は、日本橋から50番目という節目の宿。中山道69次も残り19次となりました。思えば遠くまで来たものです。今回はここまでとし、最寄りの名鉄明智駅へとむかいました。

百人一首で知られる和泉式部の供養塔。中山道沿いのこの地で病に倒れたと聞けば、千年も昔の人なのに、まるで旅人同士であるかのように身近に感じられます。街道歩きの妙でしょうか。
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御嵩(みたけ)宿本陣跡前の街並みです
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御嵩一の景観だと教えられた場所はここです
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伏見宿で茶菓の接待を受けたお休み処です。
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伏見宿の接待所前の街並みです。日本橋から50番目という節目の宿場にしてはちょっと寂しい気がしました。
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冬の里山の楽しみ〜北アルプス大展望

2017/12/01 18:44
  首都圏や西日本では、まだまだ紅葉が見頃だというところも多いと思いますが、当地(浅間山麓)は、すっかり冬枯れの風景です。いつも徘徊している里山も、枯れ木の山と化し、登山道のまわりには見るものは何もありません。しかし、空気が澄んでくるこの季節ならではという楽しみもあるのです。それは、山頂からの遠くの山々の眺望です。とりわけ、白い屏風を立てたような北アルプス(飛騨山脈)は、神々しいまでに美しく、それを見ることができただけで、その日は一日中、良い気分ですごせるといっても過言ではありません。同じ県内とはいえ、浅間山麓から北アルプスまで、直線距離が80km前後ありますから、北から南まで、すべての山が鮮明に見えるという日は限られます。先日の平尾山は、まさにそんなラッキーデー。あれが穂高、あれが鹿島槍と、山座同定(山の名前の確認作業)に力が入ったポン太でした。

平尾山山頂からみた佐久平と北アルプス南部の山々です
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穂高岳(左)と槍ヶ岳(右端)の部分を拡大してみました。槍の尖った穂先を見つけると、なぜかいつも興奮してしまいます。
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こちらは北アルプス北部(後立山連峰)の山々です。左から順に、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬岳と雄峰が並ぶ様は圧巻です。
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双耳峰が特徴的な鹿島槍ヶ岳(左)と五竜岳(右)の部分を拡大してみました。
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東方の奥秩父方面の山々は墨絵のように見えました。これもまた絶景です。
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八ヶ岳連峰です。左の端が最高峰の赤岳です。
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われらがシンボル浅間山。いつ見ても端正で安定感があります。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その24

2017/11/28 17:29
<26日目、11月19日> 中津川宿から大井宿(恵那市)へ画像
 西へ進むにつれ、スタート地点への移動に時間がかかるようになりました。前回の到達点である中津川宿の本陣跡を出発したのは正午過ぎ。半日で行けるのは、次の大井宿(現・恵那市)までです。
 中津川宿の大井宿側には枡形が残り、その周辺には古い民家が集中していて、宿場町らしい雰囲気が漂っていました。中津川を渡り、のどかな旧道を進んで行くと、目の前に、「こでの木坂」が現れました。この坂は段丘上へのちょっとした高低差を登るだけですが、明治天皇巡幸の際には、地元青年が勾配緩和の道普請をした由。坂の上には、双頭一身道祖神という面白い形の道祖神が鎮座していました。
 国道19号に吸収されたごく一部を除き、中津川宿〜大井宿間の旧道は、右に左にとゆるやかなカーブを描いて下っていく感じで、後方にはいつも恵那山の大きな姿があります。実に気持ちの良い道です。茶屋本陣のある茄子川(なすびがわ)という集落も風情がありました。秋葉街道の分岐点として、往時はかなり賑わった場所です。茄子川集落のはずれからは、御嶽山を望むことができ、噴煙も確認できました。柿の実を収穫していた地元の人の話では、このあたりを近い将来リニア新幹線が通過するということでした。
 広重の「大井」のモデルになったという甚平坂の上からは、さらにはっきりと御嶽山を望むことができました。中央自動車道を越え、「鉄道省、昭和七年」の銘板がついた明智鉄道のガードをくぐると、間もなく大井宿です。桝形の先に本陣が見えてきました。本陣から続く街並みが大井宿の中心部で、無料公開中のひし屋資料館という商家を見学しました。その斜め前に残る旅籠には、巡幸の際に明治天皇が宿泊したそうです。玉座が残っていましたので、ポン太もそこに腰掛けて一休み。将来、「ポン太様御小休所」などという記念碑が建つことはないでしょうが・・・。大井宿の中を行く中山道は、枡形の連続といった感じで複雑ですが、しっかりした標識が出ているので迷うことはありません。一通り大井宿を見学した後、恵那駅近くのホテルに投宿しました。

こでの木坂
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これが双頭一身道祖神です
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大きな恵那山を背に、のどかな旧道を下りました
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広重の「大井」のモデルになったという甚平坂からみた御嶽山
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大井宿の本陣。このまわりは宿場町らしい雰囲気です。
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<27日目、11月20日>中山道最後の難所、十三峠越えにいどむ画像
美濃路における中山道歩きのハイライトであり、中山道屈指の難所でもある、「十三峠」を歩く日がやってきました。大井宿を出ると、およそ20キロ先の細久手宿まで、宿泊施設はゼロ。商店すら1軒もなく、飲食物の調達はできないという話を聞いていたので、予備も含めて多めの食料を背負い、早朝にホテルを出発しました。
 大井橋を渡って恵那市内の中山道を進むと、ちょうど「のれんコンテスト」というイベントが行われており、沿道の各家の前に手作りののれんが下がっていました。どれも力作で、古い民家の通りにはのれんが良く似合います。アイデア賞を出してもよいようなイベントだと感心しました。中津川もそうですが、恵那市もまた中山道を地域の誇りとし、積極的にアピールしようという意欲が感じられます。
 中央線(上り線)の中仙道踏切を渡り、高速道路の下をくぐり抜けたところから山道が始まりました。「これより西 十三峠」と記された石標の先は、いきなり石畳の急坂でした。「十三峠」というのは固有の地名ではなく、この先、大湫(おおくて)宿まで、いくつもの峠を越えていかねばならないので、それらを総称して「十三峠」と呼んでいるわけです。昔の旅人にとって、険しくはないもののやっかいな骨の折れる道程であったことは間違いありません。坂を登り終え、槇ヶ根一里塚を過ぎたあたりから展望が開けて、まだ見頃といってもよい紅葉も含めて、すばらしい景色を楽しむことができました。
 槇ヶ根一里塚は両側の塚がしっかり残っていました。この先も、対をなした一里塚が連続して残されており、そうした場所は中山道全体でもここだけという貴重な存在です。緩やかな起伏をもつ高原状の丘陵地(地形的には隆起準平原に該当するようですが)を行く気持ちの良い道がずっと続きます。残丘の間のちょっと開けた場所には小さな集落が点在し、木曽路とはまた違った味わいがありました。
 道はアップダウンをくりかえしますが、それぞれの坂には名前がついており、息が乱れ、大名行列も乱れたところから「乱れ坂」という名がつけられた坂もありました。次の紅坂一里塚も原型そのままの一対の塚が健在。その先の深萱という山間集落には立場(休息所)の標識があり、間の宿のような役割を果たしていたようです。
 大井宿からおよそ4時間で、この地域のシンボルである権現山の登山口に着きました。今日の行程の中間点にあたるところです。絵のような山里風景が広がっており、気持ちのよい場所なので、道端の土手に腰をおろして、早めの昼食をとりました。

恵那市内の旧道沿いで行われていた「のれんコンテスト」

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いよいよここから十三峠が始まります。
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原形をとどめている槇ヶ根一里塚
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槇ヶ根一里塚の先には、こんな大展望が待っていました。
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隆起準平原上を行くこの道が旧中山道です。
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大名行列も乱れたという「乱れ坂」
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権現山登山口付近の山里。旧中山道と集落とが見事に調和している感じです。
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 樫の木坂一里塚を過ぎると、中山道の両側はゴルフ場として開発されていて、道のところだけが昔のまま残されていました。樹間からゴルフのカートなどが見えると、ちょっと違和感を感じますが、静かな歩きやすい道です。石窟の中に石仏が納められている三十三所観音を過ぎ、20分ほど歩くと大湫宿への下りとなりました。この地域は、石窟に石仏を納めることが一般的なようで、この先でもいくつかそのようなものを見かけました。また三つの顔をもつ馬頭観音も多いようです。
 大湫宿を見下ろす寺坂を下り、集落に入って枡形を左折したところが本陣跡。今は学校のグランドになっていますが、そこには皇女和宮の歌碑が立っていました。沿道には店がないという話でしたが、大湫宿の入口付近に小さな商店があり、パンぐらいは買えそうです。きれいな公民館のフロアには中山道関連の展示もありました。大湫は想像していたよりは大きな集落で、脇本陣も現存しており、宿場の雰囲気を十分感じることができます。ただし宿泊施設はありません。
 今宵の宿、細久手宿の大黒屋に電話をして、無事に大湫まで到達したことを告げました。大湫宿のはずれにも大きな高札場があります。その前を過ぎて少し歩いたところが、広重描く「大湫」の場所で、沿道には絵の中で強調されている大きな石(二つ石)が現存していました。大湫病院の先で再び山道へと入ります。本日最後の峠であり、日本一長い石畳が残る琵琶峠への登りが始まりました。それほどの苦労を感じることなく登り切った頂上で、この日はじめて中山道歩きの旅人とすれ違いました。6時間歩いて、出会ったのがたった一人というのは寂しいですが、市街地からも鉄道からも遠く離れた不便な場所であればこそ、旧中山道が原形に近い形で残ったともいえるわけです。日常生活でこの道をたどる人はほとんどいないでしょうから、中山道歩きを楽しむ人だけの楽園ロードというわけです。
 長い石畳を下りて里に近づくと、子供たちが叫んでいるような甲高いざわめきが聞こえてきました。こんな山中にも小学校があり、校庭で遊ぶ子供たちの声がこだましているのかと思ったのですが、とんだ勘違いで、その音源は巨大な鶏舎でした。八瀬沢という山間集落の近くには大きな養鶏場が立地しており、沿道には「国際犬訓練所」という施設もありました。鳴き声への苦情がでない山中を選んでそのような施設をつくったのでしょう。

大湫宿への道。風情がありますが、人に会うことはありませんでした。
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寺坂から見下ろした大湫宿
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広重が描いた「大湫」の場所はここ。大きな石(二つ石)が目印です。
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日本一長い石畳のある枇杷峠への入口
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枇杷峠のサミットです。皇女和宮の歌碑が立っていました。「住み馴れし都路出でてけふいくひ いそぐもつらき東路のたび」 とあります。こちらは京が近づくほど気分が高揚するような楽しい歩き旅ですが、和宮の降嫁の旅は、東へ進むにつれて寂しさが募るばかりだったのでしょうね。
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 琵琶峠の山道が終った後は、自動車も通れる舗装道路を歩くことになります。交通量は少ないものの、時折通る車に注意しなければならず、本日の行程の中では面白みの少ない区間です。それでも弁天池という池や、一対の塚が残る瑞浪一里塚があり、間違いなく街道を歩いていることがわかります。右手の藪の奥から、すさまじいエンジン音が聞こえてきて、暴走族がやりたい放題をやっているのかと緊張しましたが、道の分岐にYZサーキットという看板があったので、事情がわかりました。これまた騒音への苦情がでない場所を選んでいるわけです。
 そのエンジン音が遠ざかったところに細久手宿がありました。大火で古い建物はあまり残っておらず、宿場町の面影は希薄ですが、江戸時代以来の貴重な旅籠が1軒、今も営業しているのです。それが、今宵の宿、大黒屋です。早朝に出立したかいあって日没よりずっと前に到着することができてほっとしました。
 大黒屋は、昔の建物だけに、街道に面した格子の内側に薄いガラス窓があるだけで、雨戸はありません。狭い廊下、階段脇の吹き抜けなど、旅籠だった時代を偲ばせる構造になっています。現代の感覚では快適とは言い難いですが、タイムスリップの旅にはまことにふさわしい宿です。
 横川の旅館で出会った人たちから、料理が美味しいのでぜひ宿泊をと勧められた宿であり、出された料理は、確かにほかとは違うものでした。百合根、あまごの塩焼き、鯉の甘露煮、里芋まんじゅうなど、ふだん口にすることのないものばかり。昔の大名クラスに出された最高の料理に近いものではないかという思いがしました。
 今日の宿泊客は私たちのほかには、同じ中山道歩きをしている70代の二人組だけ。ここに泊まるのはほぼ中山道歩きの人に限定されるようです。宿の人の話では、明日からの三連休は満室とか。横川で噂を聞いた料理上手の90代の大女将にお目にかかることはありませんでしたが、ご健在で、今も調理をご担当とのこと。
 部屋の暖房は石油ストーブのみ。それも夜は消してしまうので、毛布や布団を多めに被って寝ました。幸い寒いと感じることはありませんでしたが、翌朝、隣に寝ていたポン子が、夜中に激しく戸をたたく音がしたというのです。疲れ果て、行き倒れになりかけた旅の人が開けて欲しいとアピールしていたのではないか、その人は大丈夫だっただろうかといいます。まさかと思いましたが、やはりそれは風の仕業だったようです。妄想も江戸時代にスリップした旅籠の一夜でした。

ようやく細久手宿に入りました
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今宵の宿、江戸時代から続く旅籠「大黒屋」です
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大黒屋のレトロで興味深い夕食はここからスタートです
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大黒屋の建物の中はこうなっていました。
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鉄道ミュージカル

2017/11/25 11:43
 地域のイベントにはポン太の興味を惹くものがいろいろあります。先週の日曜日、小海線の前身である佐久鉄道を題材にしたミュージカルが上演されるという情報を耳にし、佐久市のコスモホールへ出かけました。
 ミュージカルのタイトルは『時空をまたぐ汽笛〜佐久に鉄道敷こう〜』です。出演者はすべて佐久市民で、セミプロから純粋のアマチュア(子供たちを含む)まで、その数およそ130名。演技のレベルにばらつきがあるのはいたしかたのないことですが、上演時間3時間余という大作に取り組んだ熱意は半端ではなく、十分楽しませてもらいました。
 鉄道建設をめぐる地元有力者と中央資本との確執など、史実をある程度ふまえたストーリーもよくできていたと思います。ただ、中央資本の黒幕という扱いの雨宮敬次郎(軽井沢では開発の恩人です)が、ポン太の感覚では悪党に描かれすぎていたような気もします。 JR東日本が小海線の廃止を打ち出し、高校生たちが反対運動を展開するといった話(これはフィクションですが)も盛り込まれていて、小海線への「愛」を感じました。
 会場のロビーでは、小海線を題材にした写真展も行われていました。すばらしい作品を眺めているうちに、ポン太も急に鉄道写真が撮りたくなって、晩秋のしなの鉄道にカメラをむけてみたのですが…。凡作でもとりあえず鉄道は絵になりますね。

パンフレットの表紙です
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会場のコスモホールのエントランス。最寄り駅は小海線の臼田です。音楽系の公演が多く、読売日本交響楽団や地元の佐久室内オーケストラの演奏会など、何度か楽しませてもらっています。
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ロビーには小海線のお土産コーナーが設けられ、ご当地キャラの「ハイぶりっ子ちゃん」(小海線のハイブリッド気動車キハE200形に由来)が登場していました。
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小海線の写真展。すばらしい作品が並んでいました。
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以下はポン太の凡作です。しなの鉄道では、4〜9月に開催された信州デスティネーションキャンペーに合わせて、115系3編成が「なつかしのカラー」に変更されており、これはその第一弾、JR時代の 1989年に登場した「初代長野色」の編成です。御代田〜平原間で撮影。
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こちらは第三弾として登場した横須賀色の編成です。御代田〜平原間で撮影。
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しなの鉄道オリジナルの塗色の編成です。この赤とグレーのセンスはとてもよいとポン太はおもっています。
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晩秋の森の中を行く「初代長野色」の115系。信濃追分〜御代田間で撮影。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その23

2017/11/23 08:25
<25日目、11月13日> 木曽路に別れを告げ、中津川へ画像
 昨夜来の雨はやんだものの、気温は12月並に下がり、晴れ間が出るかと思うと雨がまたパラつくという、きわめて不安定な天気でした。
 馬籠宿から峠を越えて妻籠宿へむかう人に比べて、中津川へ下る人はかなり少ないようです。しかし、岐阜県側の中山道の風情もまたすばらしく、そこを歩かないのはもったいない話です。馬籠を過ぎてから気づいたことですが、旧道の舗装に著しい特色がありました。煉瓦や陶器のかけら?をまぶしたような独特の工夫がなされていて、ひと目で中山道であることがわかるのです。これなら道に迷う心配もなく、すばらしいアイデアだと感心しました。
 馬籠宿から少し下ると、展望が開け、恵那山や美濃の平野部を一望できる場所にでました。そこには、子規の句碑とともに「信州サンセットポイント百選」の標識が立っていました。2005年に馬籠宿を含む旧山口村が中津川市に越県合併したので、このあたりは、行政上は岐阜県です。しかし、旧国名の信濃(信州)の領域であることに変わりはありません。旧山口村合併時に、藤村が岐阜県の出身者になってしまうことを嘆いた長野県民もいたそうですが、馬籠生まれの藤村が信州人であることは間違いないのです。
 信濃と美濃の国境は、もう少し先の新茶屋というところで、藤村が揮毫したという「これより北木曽路」の碑がありました。そこを過ぎると十曲峠の石畳の道となります。雨で濡れた石は滑りやすく歩きにくいのですが、旧街道の風情をたっぷり味わうことができます。峠を下り終え、落合川を渡ったところが落合宿。本陣の建物が残っており、枡形もありました。
 その先の与坂、子野坂あたりは、山里ののどかな雰囲気がただよっていて、気持ち良く歩くことができました。地下道で国道19号をくぐりぬけると、中津川市郊外の住宅地となります。その地下道入口には「中山道」の立派な標識が掲げられ、地下道内には中山道の説明や歌が記されていました。地域の人々が中山道を誇りに思っている様子がうかがえます。
 旭が丘公園の脇を下ると高札場がありました。市街地に入り、中津川駅前へ通じる大通りを横切った先がかつての宿場の中心で、その名も本町。残念ながら、宿場時代の建物は少なく、本陣も碑があるのみですが、その斜め前に、旧庄屋宅(旧肥田家)の古い立派な建物が残っていました。庄屋は関東における名主(なぬし)と職制上は同じもので、西日本でそう呼ばれることが多いそうです。ということは、西日本の文化圏に一歩足を踏み入れたわけで、京都三条大橋が遠い世界ではなくなったような気がしてきました。
 まだ日は高いのですが、今日の行程はここまでとし、中津川駅から電車で帰途につきました。座席に腰を下ろすやいなや、ポン太とポン子の口から同時に出た言葉は、「また歩きたいね」。この三日間の行程は本当に素晴らしいものでした。

 さらば馬籠宿。これにて木曽11宿をすべて踏破したことになります。
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信州サンセットポイント100選の地を行く
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料亭のような佇まいの新茶屋
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藤村が揮毫したという「これより北木曽路」の碑。ここでいよいよ木曽路とも信州ともお別れです。
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十曲峠の石畳を下りましたが、かなりの急坂です。
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落合宿本陣前
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のどかな与坂の風景
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「中山道」と記された国道下の人道トンネル
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中津川宿中心部の中山道と旧庄屋宅
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その22

2017/11/21 14:49
<24日目、11月12日>感動の連続、妻籠宿から馬籠宿へ画像
 予報に反して、朝から小雨の降るあいにくの天気。せっかく阿寺(あでら)川の近くに泊まったので、阿寺渓谷を少し見てから南木曽にむかうことにしました。阿寺渓谷には森林鉄道の橋梁も残っており、ポン太にとってはそちらの方も興味深い存在です。悪天候にもかかわらず、紅葉に包まれた渓谷の水の色は、ちょっと形容が難しいほど神秘的なエメラルドグリーン、いわゆる「阿寺ブルー」でした。阿寺川が合流するあたりの木曽川もまたよい眺めで、木曽路の旅は本当に見飽きることがありません。
 南木曽駅にもどり、馬籠宿へむかって出発です。雨はなんとか収まってきて、歩くのに支障はありません。山道に入る手前に、SL公園があり、D51が置かれていました。旧線跡を利用した施設ということで、踏切の跡も残っていました。
 山道に入ると、竹林の中に石畳の道が現れ、一気に気分が高揚します。このエリアは、木曽路の、いや中山道のハイライトといってもよいところです。街道脇の民家の風情ある佇まい、街道を行く人を意識して整えられたのではないかと思えるような素敵な庭、ほどよい幅でゆるやかに登っていく誰しも散策したくなるような道、そして紅葉した木々。京都の名園の原形といっても良いようなところをずっと歩いて行く、そんなイメージでしょうか。外国人に大人気の場所というだけあって、歩いている人のおよそ半数は外国人でした。
 あまりに雰囲気がよいので、どんなに歩いても疲れをまったく感じません。伝統的建造物群保存地区に指定され、観光地化している妻籠(つまご)宿だけを訪れる人が多いようですが、そこに至る街道筋の集落には、また一段と素朴で奥深い趣きがあり、歩いてこその木曽路であると思います。妻籠宿の入口付近に大吉という民宿があり、そのあたりの古びた家並みは、ずばぬけてよい雰囲気でした。
 妻籠宿のスケールの大きさ、町並みの美しさはいわずもがなでしょう。復元された本陣や脇本陣を見た後、宿場の出口に近い茶店で、五平餅を食べました。さすがに本場だけあって、焼き具合がちょうどよくタレも美味。元気がでます。

神秘的な「阿寺ブルー」の流れ
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阿寺川に残る森林鉄道の橋梁
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旧線跡を利用した南木曽SL公園。旧中山道はこの横を通っています。
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妻籠へむかう旧道は、最初からこんなに素敵でした。
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沿道の「かぶと観音」境内の水舟。風情があります。
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石畳の道に入ると、気分も高揚します。
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旧道沿いの風景はどこまでも美しく、疲れを感じることはありません。
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妻籠宿が近づいてきました。
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妻籠宿入口付近の小集落。
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この大吉という民宿、ちょっと泊まってみたい気になります。
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妻籠宿本陣前に到着
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どこをみてもすばらしい妻籠宿の街並みです。
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妻籠宿の五平餅、美味しくいただきました。
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 妻籠宿を出ると、いよいよ馬籠峠への登りです。相変わらずまわりの景色はすばらしく、峠を下ってくる大勢の外国人に出会いましたが、立ち止まって眺めては「ビューティフル」と叫んでいる人もいました。大妻籠という小さな山間集落がまたよい雰囲気で、その先の下り谷の集落も絵のような美しさ。男滝女滝を迂回して旧中山道の山道を進みましたが、このあたりは深山幽谷の味わいがあります。山間の少し平らな場所に一石栃白木改番所跡がありました。そこはもう時代劇のセットといってもよいようなところでした。ここまでくれば、茶店のある馬籠峠の頂上はもうすぐです。
 峠から少し下ったところにある峠集落は家々の佇まいがすばらしいだけでなく、街道沿いの紅葉が実に見事で、落ち葉を箒で掃いていたお婆さんの姿まで一幅の絵になっていました。 美しい景色を眺めながら峠を下り、およそ1時間で馬籠宿に入りました。宿場の手前にある展望台からの眺めは雄大で、雲が少しかかってはいましたが、目の前に名峰恵那山を望むことができました。
 馬籠宿も大勢の観光客で賑わっており、人をかきわけるようにして宿場内を進み、本陣跡の藤村記念館へ。そこを見学してから、今日の宿、但馬屋へとむかいました。評判どおり風情のある民宿で、その日の泊まり客は7人でしたが、なんと半数以上の4人が外国人。ニューヨーク・タイムズ紙で紹介された宿というだけのことはあります。食堂の隣のテーブルで木曽の酒を味わっていた初老の紳士は、ハーバード大学の先生でした。
 馬籠は坂の宿場で有名ですが、改めて眺めてみると相当な勾配があります。これほどの急坂に立地している宿場は、これまで歩いてきた中山道のどこにもなく、貴重な存在です。大火により、大半の家屋が焼失したということですが、宿場の雰囲気を見事に復原できたのはこの特徴的な坂道のおかげでしょう。
 この日は本当に夢の中を歩いたような一日でした。

 大妻籠という山間集落
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馬籠峠への山道から振り返って見た大妻籠付近。「日本昔ばなし」に出てきそうな山里の風景です。
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馬籠峠への山道にも石畳がありました。
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絵のような「下り谷」の集落
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時代劇のオープンセットのような一石栃白木改番所跡
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馬籠峠山頂の茶店。レトロな良い雰囲気ですが、自販機が余計ですね。
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峠集落のみごとな紅葉。落ち葉掃きは大変でしょうが、絵になります。
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馬籠宿へ下って行く道も風情があります。
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馬籠宿の上部にある展望台からの眺め
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島崎藤村の生家、馬籠宿本陣前の風景。
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今宵の宿、但馬屋の前にて。夕陽を浴びた馬籠宿は、よりいっそうレトロ感が漂います。
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山の幸が並んだ但馬屋の夕食。これなら外国人も大満足でしょう。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その21

2017/11/19 22:29
<23日目、11月11日>野尻宿、三留野宿を経て南木曽駅へ
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 晴天が続くという予報を信じて、今回は2泊3日のスケジュールを組みました。大桑駅からスタートし、木曽11宿のうちの残り4宿と落合宿を通り、中津川駅をめざすという行程です。ポン太の本拠地の浅間山麓ではすでに終わってしまった紅葉が、このあたりではちょうど見頃をむかえていました。自動車の騒音がちょっと耳障りな国道19号を歩かなければならない区間もありましたが、木曽川の美しい眺めがそれを十分補ってくれます。第11中仙道踏切から先の旧道は中央線の線路に沿っていて、時折通る電車と旧道の風情の両方を楽しむことができるという、ポン太にとっては極上のロケーションでした。野尻宿の入口にあたる第12中仙道踏切付近には古民家が並んでおり、いかにも旧道といった雰囲気です。明治期に鉄道が開通して中山道に踏み切りができたころを偲ばせます。
 野尻宿は大火により古い建物はほとんど残っていません。しかし、この宿場の特徴とされる屈曲した道の姿は往時のままで、宿場町らしい風情が感じられました。野尻駅に立ち寄り、駅舎で昼食をとったのですが、この駅もまた明治41年の開業以来の駅舎が使われており、木曽路は、街道だけでなく鉄路もまた、歴史的建造物の宝庫といえるでしょう。
 読書(よみかき)ダムを過ぎ、中央線と絡みあいながら進むと、十二兼の駅がみえてきました。駅前広場のない殺風景な駅です。その下を過ぎると間もなく柿其(かきぞれ)峡の入口。木曽川のほとりには方状節理の岩が連なり、寝覚めの床のミニ版のような美しい景観を楽しむことができました。その先はまた国道19号を歩くことになりましたが、木曽川の対岸の紅葉が美しく、まったく苦になりません。

国道19号からみた木曽川
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旧道と中央線がクロスする「第12中仙道踏切」付近の雰囲気は、明治の鉄道開業のころを偲ばせます。

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旧道からみた中央線の特急「しなの」
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くねくねと曲がっている道路が特徴的な野尻宿
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柿其峡の入口付近の木曽川は、「寝覚の床」に似たすばらしい景観です。
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木曽川の右岸のみごとな紅葉
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 金知屋というところから旧道に入り、線路を渡ると三留野(みどの)宿。ここも大火にあったということで、古い建物は残っていません。木造の建物が軒を連ねているのが宿場町ですから、ひとたび火災が発生すれば、あっというまに町全体が焼けてしまうということは容易に想像できます。それにしても、あまりにも大火により焼失した宿場が多いことに驚かされます。江戸時代以来の街並みがそのまま残っている奈良井宿やこれから訪ねる妻籠宿などは、奇跡のような存在だとつくづく思います。
 三留野宿を抜けたところに、台風による豪雨で土石流災害に見舞われた場所がありました。流された家の跡がまだなまなましく残っており、土石流の恐ろしさが伝わってきます。このあたりでは土石流を「蛇抜け」とよびます。南木曽駅裏には「蛇抜橋」があり、下を流れる沢は蛇抜沢です。南木曽駅裏の大きな貯木場を回りこんだところにある和合という集落を本日の到達点とし、跨線歩道橋で線路を渡り南木曽駅へとむかいました。同駅から電車と車で、今宵の宿「フォレスパ木曽あてら荘」へというわけですが、電車の待ち時間がだいぶあったので、木曽川に架かる桃介橋から天白公園、桃介記念館(別荘)を一周しました。こちらは、中山道歩きとは趣の異なる、近代化遺産めぐりです。桃介記念館に隣接する山の歴史館脇に、森林鉄道のディーゼル機関車が保存されているのを見つけて、思わぬ収穫に大喜びのポン太でした。

三留野(みどの)宿を行く
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土石流災害の跡
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蛇抜(じゃぬけ)橋の表示
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中央線の蛇抜沢橋梁
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桃介橋です。大正時代に架けられた長大な四径間の吊り橋で、当時の土木技術の粋を集めた近代化遺産です。
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「山の歴史館」脇に保存されていた森林鉄道のディーゼル機関車。かつて、南木曽(なぎそ)町の国有林には、本支線あわせて69.7キロもの森林鉄道が存在したということです。
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地域は学びの宝庫

2017/11/13 18:52
 地域というのは、過去から現在にいたる人間の営みが集積している場所です。それぞれに個性があり、その背景には様々な自然環境がありますから、観察対象としてこれほど面白いものはありません。
 浅間山麓で暮らしはじめてから、この地域独特の風習や慣行に、驚いたり、戸惑ったりしましたが、なるほどと感心したものも数多くありました。その1つが、ポン太も実際にその活動に関わっている「保健補導員」の制度です。他県ではまったく耳慣れない言葉でしょうが、これは、地域住民の健康保持、増進を目的とした地域住民のボランティア組織で、保健補導員は市町村から委嘱されます。
 長野県は男女とも全国1の長寿県として知られており、その中でも佐久地域は長寿エリアとされています。しかし、そうなったのは最近の話で、昭和30年代までは脳血管障害で命を落とす人の多い、むしろワーストな地域だったそうです。塩分の多い食事と寒冷な気候がその原因でした。そこで取り組まれたのが、生活改善を促す啓蒙活動で、「自分たちの健康は自分たちで守る」をスローガンに、保健師と協力し、保健予防活動を行う保健補導員の制度が設けられたのです。
 研修会等で、何度も聞かされたのは、長野県の長寿は努力してそうなったものだということです。したがって、これを維持し、単なる長寿ではなく、健康長寿を実現するためには、保健補導員の活動が欠かせないというわけです。研修会や講習会等への参加は、ちょっとダルいなと思う時もありますが、参加してみれば、なるほどと納得するような内容であることが多いと感じました。健康維持や老化防止に役立ちそうな面白い話を聞くと、家に帰って早速それを話したり、友人にまで知ったかぶりで話してしまったりします。健康意識の拡散。まさにこれですね、この制度の狙いは。
 保健補導員の研究大会といっても、硬い話ばかりではありません。先日の佐久地区大会の講演者は、医学博士にしてプロの落語家という立川らく朝さんでした。健康トークと落語の二本立てでしたが、どちらも説教臭はまったくなく、まさに笑いっぱなしの1時間半。「笑いこそ最良の健康増進薬、笑っている時に同時に悩み事をしている人などいませんよ」という話には100%納得しました。なお、「ストレスは健康の大敵ですが、ストレスなんか全く感じないという人もいるんですね。そういう人がいると、まわりがみんなストレスになるんですよ」とも。お後がよろしいようで。

佐久地区保健補導員等研究大会の様子です。これは、佐久穂町の事例研究発表における健康体操のシーンです。それぞれの地域ごとに独自の体操が考案されていて、同町のマスコットキャラクターである、「しらかばちゃん」も登場しています。
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音楽療法士による認知症予防の指導もありました。「ふるさと」を歌いながら、右手でグー、チョキ、パーの三拍子をとり、左手は指で三拍子のタクトを振る、さらには、それを左右交互に行う、といったようなことが、指導を受けた高齢者はみんなできるという話には、びっくりしました。
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立川らく朝さんの「健康トーク」です。医学の知識もあるプロの落語家の話はやはり面白いです。
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落語は、高齢化社会や振り込め詐欺をネタにした新作でした。
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はや晩秋

2017/11/11 22:13
 先月末以降、毎朝目を覚まして必ず最初にしたことは、寝室の窓から外を眺めることです。木々の葉の色が日々変化していく様は、まるで魔法を見ているようで、楽しみでしかたがなかったからです。ひと晩で極彩色に変化する日もあり、「おっ、すごい眺めになったぞ」と思わず跳ね起きてしまうこともしばしばでした。
 浅間山麓の紅(黄)葉は一気に進み、今週のはじめごろには、森も公園も家のまわりも、どこもかしこも紅(黄)葉状態に。いつもの散歩道ですら、まるで紅葉名所のようでした。しかし、季節の移ろいは、超特急です。昨日まで美しく色づいていた木が、あっという間に葉を落とし、枝の先にわずかばかり残った葉が、寂しく風にゆれているといった、晩秋の風景を目にすることが多くなりました。
 とはいえ、浅間山麓の紅(黄)葉ショーが終わったわけではありません。フィナーレを飾ってくれる真打がいるのです。それはカラマツ(落葉松)。黄金色に輝くその姿はとても美しく、間もなくやってくる厳しい冬を前に、これでもかというぐらい存在感を主張してくれます。
 カラマツの葉が落ちて、樹形が幹と枝のみのシルエットになると、いよいよ冬将軍の到来です。昔からの住民は、浅間嶺に三度雪を見ると、里にも雪が降るといいます。浅間山はすでに二度冠雪していますから、次はもう・・・。カラマツの黄葉に浮かれているわけにはいきません。そろそろスタッドレスタイヤに履き替えねばと、そのタイミングを探りはじめたポン太でした。

山から里へと下りてきた紅葉が、集落を飲み込もうとしているように見えます。(御代田町塩野付近)
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いつもの散歩道も紅葉のトンネルに。ここは春先に桜の花を愛でた開拓集落です。
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住宅地も紅葉と黄葉に囲まれてしまいました。
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いつもの水辺(軽井沢町追分の御影用水)も、晩秋の雰囲気です。
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「長野牧場」(佐久市)のカラマツの黄葉です。
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見事に黄葉したカラマツの後ろに連なる八ヶ岳連峰。
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黄金色の「カラマツ屏風」という舞台装置付きの農作業。パワーアップ間違いなしでしょうね。
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黄金色のカラマツの散歩道。こんなところを歩いていると、思い出すのは白秋の『落葉松』の詩。「からまつの林を出でて、からまつの林に入りぬ・・・」
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同じく白秋の「からまつの林を出でて、浅間嶺にけぶり立つ見つ」とは、こんな感じでしょうか。
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菅平(上田市)です。平地のカラマツの黄葉もきれいですが、山の黄葉は圧倒的なスケールでせまってきます。
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菅平ダム。このあたりはカラマツの黄葉一色ですが、十分見応えがあります。
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カラマツの丘を背に快走する小海線。車窓も黄金色に染まりそう。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その20

2017/11/07 08:50
<22日目、10月17日> 木曽八景「小野の滝」から「水舟」の須原宿へ画像

 桟(かけはし)温泉に泊まった翌朝、目を覚まして外を眺めると、朝日を浴びた木曽の桟の絶景がひろがっていました。桟そのものは現存していませんが、江戸期の石積のみ確認できます。
 上松駅にもどり、街道歩きを再開。町はずれの下町バス停から旧道に入りました。上り坂がありその上から振り返ると上松宿の家並みが見渡せますが、そこの地名は見帰と書いて「みかり」でした。さらに進むと寝覚という集落に入ります。茶屋本陣の「たせや」と江戸時代からの蕎麦屋である「越前屋」という、二軒の古い建物が残っており、旧道らしい良い雰囲気を漂わせています。実は、この「たせや」には学生時代に同好会の合宿で泊まったことがあるのです。その記憶はかなり薄れていましたが、40年余の時を経て、改めて眺めてみると、江戸時代そのもののような素晴らしい建物でした。今は民宿の営業はしていません。

茶屋本陣であった「たせや」
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石畳の旧道を下りました。復原したものかもしれませんが、ちょっときれいすぎる感じです。
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 上松中学のグランド脇からは中央アルプスが見事に見渡せました。木曽三大橋のひとつといわれた滑川の橋を渡り、道なりに進んで国道19号に出ると間もなく、左手に小野の滝があらわれました。木曽八景のひとつであり、浮世絵にも描かれ、多くの文人墨客が賛辞を送った滝です。今はその真上を中央線の橋梁が跨いでおり、滝自体は昔と変わらぬものの、いまいひとつ精彩に欠ける感じがしました。
 その後しばらくは19号を進みましたが、このあたりは、19号と旧道さらに中央線がもつれ合うような形になっているので、注意深く進まないと旧道への入口を見逃しそうになります。人家の庭先を通り抜けるような箇所など、これが中山道かと思えるような細く頼りないところもありましたが、なんとか歩くことができました。
 旧中山道は倉本駅の手前で線路を横断していたようですが、今はその道はなく、駅前の坂を登って倉本の集落へ。狭い道に面して古い民家が軒を並べ、なかなかよい雰囲気です。庚申塔や石造物の並ぶ一角を過ぎ、中央線をくぐり19号へ。その先もまた旧道と19号がからみあっており、右へ左へとめまぐるしくルートが変化します。

「木曽八景」の1つに数えられた小野の滝。今はその上を中央線が跨いでいます。
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こんな民家の庭先のようなところが旧中山道でした。
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このあたりは旧道(右端)と中央線、国道19号が並行しています。新旧の交通路を一望できる絶景です。
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ここで線路を渡るのが本来の中山道ですが、「横断禁止」の立て札を無視するわけにもいかず・・・。

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 須原宿の標識のところで左手の旧道に入ると間もなく須原駅です。明治42年の開業以来の古い駅舎があり、駅前に幸田露伴の碑がありました。駅からほど近い須原宿は、水舟の里といわれるように水が豊富で、いたるところに「水舟」とよばれる水場があります。思ったより長い宿場で、古い町並みも残り、宿場の背後には中央アルプスが顔をのぞかせるなど、雰囲気のよい宿場でした。
 第9中仙道踏切で中央線の東側に出て、そこからしばらくは線路から離れ、三角形の二辺を経由するような道となります。清水寺のような舞台をもつ岩出観音の近くを通り、英泉の絵に描かれたという伊奈川橋を過ぎると、すこし上り勾配となりますが、沿道の山里の風景は秀逸で飽きることがありません。天長院という古刹を過ぎるとゆるやかな下り坂となり、15分ほどで、本日の終着点大桑駅に着きました。

木曽路を行く中央線には開業以来という古い駅舎が多いのですが、須原駅にはなつかしい木製の改札柵が残っていました。

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趣のある須原宿の街並みと「水舟」
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須原から大桑へむかう旧中山道は、中央線を離れて山の中を迂回しますが、沿道の眺めはすばらしく、歩くのがまったく苦になりません。木曽路は本当に街道歩きの醍醐味を満喫できるところです。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その19

2017/11/05 00:02
<21日目、10月16日> ついに中山道中間点を突破画像
 本日の出発点、原野駅から歩き出して間もなく、道路際に中山道中間点の碑をみつけました。石碑は比較的新しいもののようですが、側面に、江戸へ67里28町、京へ67里28町と同じ距離が記されていました。日本橋から21日目にして、ようやく中山道歩きも半ばを過ぎたことになります。
 ところで、中央線の宮ノ越駅〜原野駅間には「中央線接続記念碑」があります。ここで東西双方から建設が進められてきた鉄路が結ばれ、中央本線が全通したというわけです。当初、東西両京を結ぶ幹線鉄道は、中山道ルートで建設することになっていたのですが、地形が予想以上に険しく、東海道ルートに変更されたという歴史があり、中山道中間点が鉄道の接続点となったというのも、どこか因縁めいていて面白い話です。
 さて、畑の中の気持ちの良い旧道を歩いていくと、あれっとおもうような細道に中山道の標識がありました。人一人がやっと通れる道を下り、林の中をぬけると川沿いの道となり、正沢川に架かる人道橋(昔ははねかけ橋だった由)を渡りました。川の水は澄み、昔を偲ばせるようなのどかな景観が目を楽しませてくれます。川から離れてしばらく進むと、手習天神がありました。木曽義仲の学問の神様ということですが、このあたりはとにかく、木曽義仲ゆかりの地のオンパレードといった感じです。

中山道中間点の碑。京へ67里28丁と記されていますが、裏側には江戸へ67里28丁とあります。
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中間点碑前の中山道(旧道)です。
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中央東西線鉄路接続点記念碑とその説明板。碑の後ろを線路が通っていますが、車窓から確認するのは困難です。
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こんなところを入っていくのかと、一瞬たじろいだ旧道への入口
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正沢川に沿った細道を進みました。前方の橋を渡りましたが、昔ははねかけ橋だったそうです。
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旧道沿いにある木曽義仲の手習天神。当地では木曽義仲は歴史上最も偉大な人物(英雄)ですから、様々な形で顕彰されています。
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 19号との合流点付近は、旧道をそのままたどることはできず、一旦19号に出て跨線橋をわたり、すぐにまた右手の旧道に入り、どんどん進むと福島宿の入口に到達。大きな冠木門をくぐったところが福島関所跡でした。関所のすぐ東側を中央線の線路が通っていますが、元はそこも関所の敷地であったということです。関所跡から坂を下りたところが木曽福島宿ですが、大火にあったということで、中心部に古い建物は残っていません。商店街をぬけ、左手に折れて坂を上がると高札場の跡にでました。水場もあり、よい雰囲気です。その先の「上の段」には古い建物が残り、ミニ奈良井といった感じがしました。木曽福島駅の方へ向かう旧道は鍵の手になっていて、これまた風情があります。
 中山道歩きをするまでは気付かなかったのですが、町はずれに位置している木曽福島駅の前を通っている道が中山道の旧道でした。したがって列車で来た人が町へ行くには必ず旧街道をたどることになるわけです。
 塩淵という集落に一里塚跡の碑があり、江戸より70里京へ67里と刻まれていました。中間点を過ぎたのですからあたりまえですが、もう京の方が近いということを確認することができて嬉しくなりました。その先のルートは少し複雑で、本来の旧道をみつけるのに難儀をしました。中央線のガードをくぐり、旧道を進んで少し坂を登ったところに御嶽遥拝所がありました。鳥居のある階段を上ってみましたが、今は残念ながら御嶽山は見えません。手前の山の樹木が視界を遮ってしまったせいでしょうか。その先へ少し歩いたところに、中央線と道の駅木曽福島を見下ろせる場所がありましたが、そこからは御嶽山を望むことができました。
 有名な木曽の桟(かけはし)付近は紅葉が真っ盛り。夕日を浴びてすばらしい景観となっていました。対岸に今宵の宿「桟温泉」が見えましたが、ひとまず通過し上松をめざしました。十王橋交差点付近で上松宿の旧道へ入ると、しばらくは古い建物が残る上町とよばれる街並みが続きます。本町一里塚碑を確認して大通りへ出て、上松駅へ。本日はここまでとし、先ほど通過してきた桟温泉にもどって投宿。冷鉱泉を加熱している温泉ですが、泉質がすばらしく、身体がよく温まり、街道歩きの疲れが癒されました。

福島宿入口の冠木門をくぐり、関所跡へ。
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木曽路で最も重要な関所であった福島関跡
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福島宿「上の段」の趣のある街並み
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紅葉がすばらしかった「木曽の桟(かけはし)」付近。桟は険阻な木曽路の代名詞ともいえるもので、当初は絶壁に丸太や板を藤づるで結んでつくられたということです。
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尾張藩が桟を石垣に改造し、1741年には全部が石垣になって、安全に通行できるようになったということです。道路下の石積みはその遺構です。
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日没がせまってきたので、木曽川沿いの中山道を上松宿へと急ぎました。
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往時の面影が残る上松宿の上町
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なんといっても雲場池

2017/11/01 00:41
 たび重なる台風の襲来で、どうなることかと心配した浅間山麓の紅葉ですが、紅葉前線は無事軽井沢周辺まで到達し、街路樹はもちろん、公園や別荘地の中の木々もみごとに色づいています。どこを歩いても、秋の風情を楽しむことができますが、ここだけは外せないという紅葉名所といえば、雲場池です。観光ガイドブックに必ず載っていますので、タヌキごときにいわれなくてもわかっているという声が聞こえてきそうですね。されど、何といわれようとも、ポン太の一押しはここです。
 浅間山麓の紅葉は、どちらかといえば黄色系が主ですが、雲場池のまわりには、真っ赤に紅葉する樹木が多いのです。水面に映る紅葉は息を飲むほど美しく、この紅葉を見ないことには、秋になった気がしないと、毎年必ず訪れています。先週末に眺めた今年の紅葉は、ここ数年で最高の部類に入ると言って良いものでした。
 紅葉の絶頂期は短く、同じ場所を訪れても数日違いで印象が変わってしまいます。本当にすばらしい紅葉を見ることができた時の達成感は、猟師が狙っていた獲物を射止めた時と同じかもしれません。眺めるだけなのに「紅葉狩り」と呼ぶのは、そういう意味ではないかと、勝手に解釈して悦に入っているポン太でした。

軽井沢駅から旧軽井沢に通じる「軽井沢本通り」の街路樹も紅葉していました
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紅葉真っ盛りの雲場池
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鴨たちも赤く染まってしまいそう
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 軽井沢を徘徊したついでに、白糸の滝まで足をのばしてみました。
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 峰の茶屋付近からみた浅間山です。このあたりまで来ると、紅葉の主役はカラマツです。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その18

2017/10/29 18:30
<20日目、10月8日> 鳥井峠を越えて画像
 早めに朝食を済ませ、鳥居峠へとむかいました。宿場のはずれの少し高い位置から振り返ってみた奈良井宿の眺めもすばらしく、いつどこからみても絵になる宿場です。これほど大きな宿場が今日まで残り、その街並み全体がしっかり保存されているのは、奇跡のようにさえ思えます。
 標高1197mの鳥居峠は、中山道の木曽路最大の難所といわれていますが、実際に歩いてみると、険しいところはまったくありませんでした。復原された石畳もあり、快適なハイキングロードといって良いでしょう。およそ1時間で、木曽平沢方面の眺めがよい峰の茶屋に着きました。鳥居峠には、明確なサミットをしめす標識がありません。おなじような標高のところをしばらく歩くと、御嶽の遥拝所があり、噴煙が立ち上る御嶽山を望むことができました。
 藪原へ下る道は、奈良井側よりさらにゆるやかで、だいぶ下ったところに石畳の路が復原されていました。そこを過ぎると、あっという間に麓の集落です。旧街道沿いにしては、新しい家が目立ち、カフェをやっていたらしい洒落た建物もありました。
 中央線の線路をくぐり抜けたところが薮原宿です。宿場の面影がないわけではありませんが、どちらかといえば生活感のある普通の町といった感じ。藪原といえば江戸時代からお六櫛が有名で、今もお六櫛を商う店がありました。

鳥居峠への道から振り返ってみた奈良井宿
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鳥居峠への道には石畳の箇所があり、旧街道らしい雰囲気です。
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快適な峠道です
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鳥居峠の峰の茶屋付近からみた平沢方面です。「木曽路はすべて山の中」を実感します。
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鳥居峠の遙拝所から、はるかに望む御嶽山。

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薮原側にもあった石畳
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鳥居峠を下り、旧中山道から見下ろした薮原宿
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薮原宿には今も「お六櫛」を商う店があります
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 藪原駅は、宿場とは反対側をむいており、中山道は駅の裏側を行くことになります。そこに藪原の一里塚跡の碑があり、その後ろに中央西線で活躍したD51形蒸気機関車が保存されていました。新旧の交通のシンボルという意味合いでしょうか。
 駅の南側で線路の下を通りぬけ、19号線に出ました。1キロほど進んだところから、「中部北陸自然歩道」の道標に従って進みましたが、はたしてこれが旧中山道と一致しているのかどうか、疑問が残りました。「中部北陸自然歩道」を整備するのは良いのですが、旧中山道との関係を明示してくれないと、中山道を歩こうという人はとまどいます。
 権兵衛街道の分岐点で国道19号と合流。しばらくは19号を進み、宮ノ越宿の看板のあるところを右折して旧道に入りました。ここから先はずっと旧道歩きとなります。木曽川沿いで景色も良く、快適そのものです。巴御前が子供時代に水泳の練習をしたという巴淵という場所がありました。確かに川が湾曲して淵のようになっており、そんなことがあってもおかしくはないと思わせるところです。このあたりは木曽義仲の本拠地であり、菩提寺もあります。
 宮ノ越駅入口を過ぎて、少し歩いた先が宮ノ越宿。うっかりしていると、いつの間にか通り過ぎてしまうような小さな宿場です。この先、原野駅まではほぼ中央線の線路沿いを進みます。時折通る列車の乗客の中で、そのすぐ脇の小路が旧中山道だとわかる人はほとんどいないでしょう。第五中仙道踏切で線路の反対側へ渡りました。ほどなく原野の集落です。正式な宿場町ではありませんが、この集落の古びた雰囲気は宮ノ越以上に旧街道であることを感じさせてくれました。まもなく原野駅に到着。今日はここまでです。

薮原の一里塚とD51
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巴御前が水泳をしたという巴淵。なんとなくそれっぽく見えます。
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小さな宮ノ越宿
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D51という屋号にはびっくり。元国鉄の機関士の家でしょうか。
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雰囲気のよい原野の集落。こういう道をたどることができるのが、旧道歩きの面白さといえましょう。
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軽井沢駅が変わった

2017/10/28 22:42
 しなの鉄道の軽井沢駅は、これまで、北陸新幹線軽井沢駅の添え物のような感じでしたが、昨日(10月27日)、そのイメージを大きく変える出来事がありました。それは、(旧)軽井沢駅舎記念館を軽井沢町から借り受け、駅舎としての利用を開始したからです。
 かつての軽井沢駅舎は、避暑地にふさわしい洋風の垢抜けた建物で、駅前にあった説明板には「1912(大正元)年に改築され、外観の造りは大正時代の面影を残し、内部については改修されたところが多い」と記されていました。
 1997(平成9)年の新幹線開業時に旧駅舎は取り壊されたのですが、それを惜しむ声が高まったことで、軽井沢町が往時の外観を忠実に復元した「駅舎」を建設し、(旧)軽井沢駅舎記念館(内部は資料館)として2000(平成12)年にオープンしました。
 この建物に目をつけたのがしなの鉄道で、開業20周年を機に、本物の駅舎として利用することになったというわけです。駅舎に隣接した旧1番線ホームと現在使用中のホーム(1・2番線)との間をウッドデッキでつないだことで、改札口から水平移動で列車に乗降できるようになりました。駅舎内には駅事務所のほかカフェが設置され、二階の旧貴賓室は、「ろくもん」利用者の専用ラウンジとなりました。ウッドデッキには子連れで遊べる有料待合室が設けられており、今後、遊具や店舗なども整備するということです。
 しなの鉄道がその起点にふさわしい駅舎を開設したことは喜ばしい限りですが、これまで(旧)軽井沢駅舎記念館の屋外展示物として、間近に見学することができた保存車両の扱いが気になります。現状は見学不可ですが、アプト式最古の10000形電気機関車(鉄道記念物)などは、鉄道史や軽井沢のあゆみを語る上で、欠くべからざる貴重な遺産ですから、適切な保存と誰にもその意義がわかるような展示を望みたいものです。


 しなの鉄道が駅舎としての使用を開始した「(旧)軽井沢駅舎記念館」。この建物は、新幹線開業以前の駅舎を、建設された当時の姿に復元したものです。取り壊される前の軽井沢駅舎には屋根にドーマーがありませんでしたが、古写真をみるとそれがありますので、それに倣ったものと思われます。建物がシンメトリーであるのも、古写真のとおりです。
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 取り壊される2年前の軽井沢駅舎です。(1995年10月29日撮影)
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 新たに設けられた出札口と改札口
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ウッドデッキで結ばれた改札口前の旧1番線ホームと現行ホーム
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駅舎の入り口で取材中のテレビ局のクルー
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(旧)軽井沢駅舎記念館時代には、近づいて見学することができたアプト式最初の電気機関車10000形。ラックレールと第三軌条がセットで保存されていました。
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浅間山初冠雪

2017/10/26 22:51
 待ちに待ったそのシーンがやってきました。昨夜の雨が、高山では雪となり、当地のシンボルである浅間山も初冠雪。雪化粧した部分と、中腹から麓にかけての紅葉とのコラボは、実に素晴らしい眺めでした。麓の畑には、まだ緑の野菜が残っているところもあり、白、赤(黄)、緑の三段染めという贅沢な景観になったところもありました。
 浅間山だけではなく、はるか西方には、真っ白な峰を連ねた北アルプスを望むことができ、今日は一日中幸せ気分のポン太でした。

 「龍神の杜公園」(御代田町)の紅葉は今が見頃。雪を戴く浅間山とのコントラストはすばらしく、遊びに来ていた親子連れも、満足したことでしょう。
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 三段染めの景観です。
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紅葉前線

2017/10/25 18:10
 このところ秋雨前線や台風の影響でずっと天気が悪かったことと、同窓会等でねぐらを留守にしていたこともあり、先々週に志賀高原を散策して以来、「紅葉見頃」と報じられた山に出かける機会はありませんでした。しかし、登らなくてもむこうから下りてきてくれるのが紅葉前線。今はどのあたりかと浅間山を眺めて見たところでは、標高1200m前後まで山裾の色が暖色系に変わっていました。このまま推移すれば、あと数日でポン太の生活エリアである海抜900m前後に到達するものと思われます。
 地域全体が赤や黄色に染めあげられる風景は圧巻ですが、紅葉と青葉が混在していたり、一部だけが紅葉して遠目にはグラデーションのように見える風景もまたよいものです。浅間山麓の現状は、まさにそんな感じでしょうか。ポン太がふだん徘徊しているエリアで目に留まった紅葉シーンを、いくつかご紹介します。

 まずはポン太の森から。この時期の紅葉の主役は、ツリバナ、イロハモミジ、ニシキギ、ヤマウルシ、ツタウルシ、ヤマザクラなど。高木はまだ青葉のままですが、その足元はかなり賑やかになってきました。
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 御代田町にある雪窓公園です。夕陽を浴びた桜の紅葉がきれいです。
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 雪窓公園前の大通りの紅葉が見頃になっていました。
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 追分宿でも紅葉が始まっていました。
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 追分宿の堀辰雄文学記念館前。移設された本陣門の上のもみじのグラデーションがみごとです。
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 追分宿の泉洞寺の鐘楼。京都や鎌倉の古刹を思わせる雰囲気です。境内には全国唯一の「カーリング地蔵」があります。
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中山道と北国街道の「分去れ」も色づいています。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その17

2017/10/19 11:38
<19日目、10月7日> いよいよ木曽路へ、奈良井宿へ画像
 いよいよ中山道歩きのハイライトである木曽路へ。今日は、日出塩駅前をスタートし、木曽路の宿場の代名詞ともいえる奈良井宿をめざすという行程ですから、朝からもうわくわく気分でした。
 日出塩の集落をぬけたところで国道19号に合流。まもなく、初期中山道との合流点があり説明板が立っていました。大久保長安によって整備された初期中山道はここから小野を経て岡谷に至っていた由。長安の没後、現行ルートに変更されたということです。
 しばらくは、自動車道路わきの歩道歩きですが、眼下に奈良井川の清流を眺めることができ、まったく苦になりません。まもなく右手に「これより南、木曽路」の碑があらわれました。ついに木曽路に足を踏み入れたわけです。旧道はそのあたりから左手の山を高巻きします。頼りないような細道ですが、樹間から奈良井川の清流が見え、なんともいえないよい雰囲気。再び19号に合流したところが櫻澤という場所で、茶屋本陣があり、明治天皇巡幸がらみの石碑が立っていました。
 国道19号を歩いたかと思うと旧道に入り、また19号にもどるといったややこしいルートを進みました。贄川駅の手前まで、旧道は国道19号より高い位置にあり、国道と中央西線を見下ろせます。面白い風景ですが、もちろん江戸時代にはなかったもの。
 旧道を下り、国道19号に出たところに中央線の贄川(にえかわ)駅があり、待合室を借りて早めの昼食をとりました。贄川駅舎は明治42年の中央本線開業以来のもので風情があります。駅の少し南側に関所橋という橋があり、名前の通りそれを渡った先に贄川の関所跡がありました。中央線開業時につくられた橋を一新し平成元年に完成したと説明板には書いてありましたが、新しくなったのは上部のみで、下部は煉瓦アーチ橋の形態をとどめています。
 贄川の関所の建物は復元されたものです。贄川宿は、木曽11宿最初の宿ですが、昭和初期に大火にあったということで、重要文化財の深沢家住宅以外には、古い建物はあまり残っていません。贄川宿の南側の桝形らしき狭い路地のようなところをたどると、歩行者専用の跨線橋がありました。そこで線路を渡って19号線へもどり、しばらく歩いた先の諏訪坂という切通のところから左手の旧道へ入るはずでした。ところが19号はちょうど道路工事中でずっと先まで横断できそうもありません。そこで、そこにいた警備員に旧道への行き方を尋ねたところ、「トラックに引っかけられると他の車の迷惑になるから国道を歩かないでくれ」と言われて、唖然。人間よりクルマを心配する警備員がいるとは…。
 なんとか横断できそうなところを見つけて旧道に入りました。少し歩いた先には栗の木があり、大きな栗がたくさん落ちていて思わぬ大収穫。その先ものどかな道で、先ほどの不愉快な気分が癒されました。一旦19号と合流した後、長瀬というところから、左手の旧道に入りました。龍門堂という大きな漆器店(工場)があり、その裏を行くことになります。このあたり、19号と旧道がもつれ合うような感じで、旧道への入口を見落とさないようにかなりの気をつかいました。

「これより南木曽路」の碑。いよいよ木曽路に入りました。
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国道より高いところを行く旧道。樹間から奈良井川の清流が見えました。
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国道19号(左)ともつれ合うように存在する旧道(右)
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国道と中央線を見下ろすこんな細道が旧中山道でした。

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贄川駅舎は開業以来の古い駅舎で趣きがあります。
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贄川の関所前からみた中央線の線路
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 木曽平沢の集落へと続く旧道は風情があり、漆器店がずらりと並ぶ美しい街並みには感動しました。集落をぬけたところで、第三中仙道踏切を渡り、またまた19号へ。道路からみえる楢川中学校の立派なこと。木曽らしい二階建ての木造校舎でデザインもすばらしいものでした。
 奈良井宿の案内板のあるところを右折して奈良井川を渡ります。中央線の踏切を渡り少し進むと奈良井駅が見えてきました。その背後には、今日の終着点奈良井宿の家並みもみえています。奈良井千軒といわれていたように、とても大きな宿場で、ほぼ1キロにわたって家並みが続きます。電線が地中化されているため、上空がすっきりしていて、まさに江戸時代にタイムスリップした感じがします。どこをみてもすばらしいので、写真を撮りまくってしまいました。
 今日の宿は伊勢屋という古い旅館。かつては牛馬宿を兼ねた問屋であったということです。奈良井宿の中心部といってもよいところにあり、すぐ近くに本陣跡がありました。案内された部屋は中山道に面しており、窓から格子越しに見下ろす街道の風景は時代劇のセットのようです。風呂は温泉ではないものの、木の香漂う浴槽は気持ちよく、地元の山の幸を中心とした夕食もまたすばらしいものでした。宿場そのものに泊まるのはこれが初めてでしたが、やはり泊まるだけの価値があると、つくづく思ったポン太でした。

漆器の町、平沢の美しい街並み
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楢川中学校の木造校舎。さすがは木曽と思わせる立派なものです。
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どこをみても絵になる奈良井宿の街並み。
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今宵の宿、伊勢屋。よい雰囲気です。
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格子越しに見下ろした街並みは時代劇のセットのようでした。
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紅葉の森をぬけて幽玄な山頂へ

2017/10/17 13:21
 信州の紅葉は長く楽しめるのが特徴です。紅葉は、桜とは逆に山の上から麓にむかって下りて来ますが、その速度は1日50mといわれます。信州には3000m級の山々もあれば、500m前後の里もあり、その標高差はおよそ2500m。単純計算ですが、50日間は県内のどこかが紅葉の見頃になっているというわけです。
 テレビのローカルニュースでは、毎日、紅葉情報が報じられていますので、どこが見頃なのか把握することができます。また県の観光サイト「さわやか信州旅net」にも、「信州紅葉だより」というコーナーがあり、見頃情報が随時アップされています。
 そんな情報に接すれば、出かけたくなるのがあたりまえ。とういわけで、先週は、「見頃」と報じられた志賀高原に出かけてみました。山歩きの好きなポン太ですから、ただの紅葉見物ではちょっと物足りません。やはり1つは山に登ってみたいもの。ところが、志賀高原は開発されすぎていて、登山の対象となる山が少ないのです。そんな中で、今回選んだのは焼額山(やけびたいやま、2009m)。
 ここまでやるかというほど全山スキー場と化しており、山肌が痛々しいほどに露出し、スキーバブルのころの人間の傲慢さを見せつけられているような気さえする山です。スキーシーズンなら、ゴンドラで労せずして山頂に立つことできる山に、なんでわざわざ汗水垂らして登る必要があるのか。こんな山、絶対登ってやるものか、と思っていたのですが、あるブログに「秋晴れの日に訪れていただきたい静かな名勝です」という書き込みがあるのを見て、気が変わりました。
 登山ルートにはゲレンデの中を通る箇所もあるのですが、それ以外の森の中の道は、まさに紅葉のトンネル。どんなに傷つけられようとも、この山の自然力はすばらしいものなのです。頂上にある稚児池とそのまわりの湿原も、幽玄な感じがして登った甲斐がありました。紅葉シーズンにもかかわらず、ほかの登山者には一人も出会いませんでした。静かに、心ゆくまで紅葉を楽しむことができる山。お見それしました焼額山。

 志賀高原で定番の丸池。紅葉はちょうど見頃でした。
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 焼額山の登山道。いつまでも歩いていたいような気分になります。
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 白樺とモミジのコラボも素敵です。
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 焼額山の中腹から望む岩菅山
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 焼額山山頂の稚児池。山上にこんなに広い池があるのは意外な感じがします。
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 山田牧場(高山村)に下る道路から見上げた志賀高原のシンボル笠ヶ岳。
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山歩きの後はやはりこれ。七味温泉の少し白濁したエメラルド色の湯はポン太のお気に入りです。湯舟からみる紅葉も見事。
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 紅葉名所の松川渓谷は、色づきはじめたところで、見頃はもう少し先といった感じでした。
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乾燥いもづくりにチャレンジ

2017/10/14 10:26
 都会暮らしをしていたころは、美味しいものは、それを売っているお店を見つけて買ってくるのが基本でした。しかし、山暮らしになってからは、美味しいものや食べたいものは、自分でつくることが多くなったように思います。都会のようにお店の数が多いわけではなく、選択の余地が少ないというのもさることながら、美味しいものができそう、と思わせるような原材料が豊富にあり、かつ安価に(場合によってはタダで)手に入れることができるからです。ご近所の方からレシピを教わることもあり、モチベーションが自然に高まってしまうというわけです。
 秋が深まると食べたくなるのが乾燥いも。子供のころ、おやつによく食べていましたし、叔母の知り合いに茨城の乾燥いもづくりの名人がいて、極上の品を送ってもらっていたこともあり、ポン太にとっては思い出深い食べ物です。しかし、市販されているものは高価である上、ねっとり感に欠けるものが多く、買ってまで食べる気がしませんでした。
 1週間ほど前、丸々と太った「紅はるか」という種類のサツマイモが、スーパーの店頭に山積みになっているのを目にしました。地域の寄り合いで、「乾燥いもは自分でつくった方が美味しいわよ」といわれた言葉を思い出し、これはチャンスとばかり、乾燥いもづくりにチャレンジすることにしました。
 蒸かしてスライスし、乾燥用のカゴに入れて干すだけ。思ったより簡単です。3日目に食べてみると、ねっとり感があり、甘みもたっぷりで美味。3分の1ほどを冷凍保存することにしました。表面が乾いて粉が吹いたような状態になるにはもう少し時間が必要ではないかと考え、残りは干し続けました。6日目、だいぶ乾燥がすすみ、いい感じになってきました。森の木々も色づいてきて、干している様子は「絵になる」感じ。しめしめと思い、夕方、中を覗いてみると、なんとイモの表面に青い斑点が…。青カビです。ありゃぁ〜、トホホの全滅でした。異常気象で気温が上がりすぎたせいなのか、単なるタイミングの問題なのか、理由はよくわかりません。
 手づくりに失敗はつきもの。気を取り直し、次回を期するポン太でした。

丸々と太った「紅はるか」。おいしい乾燥いもができそう。
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スライスし、干し始めました。
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一日干して中を覗くと、なかなかいい感じ。
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3日目、少し食べてみたところ、ねっとりして甘味も凝縮されている感じです。
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6日目。紅葉が少し進み、雰囲気が良くなった森に干したのですが、トホホの結果でした。
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山岳写真展と天空の芸術祭

2017/10/10 11:48
 「芸術の秋」というわけで、連休最終日に、2つのアートイベントに出かけてきました。
 1つは地元の山岳写真家、丸山純一氏の写真展「天地−自然の光響詩」(今月14日まで開催)です。会場は小諸市の高原美術館。この美術館はおどろくほどロケ−ションの良いところにあり、遠目には教会のように見えます。「白鳥映雪館」と併記されているように、常設展示は白鳥映雪や伊東深水といった日本画がメインです。収蔵作品自体はすばらしいのですが、この美術館の佇まいとは合わないような感じがしていました。今回の企画展はまさにこの美術館にぴったり。ポン太も登ったことのある山々を、こんなにも美しく詩情豊かに表現することができるのかと、作者のセンスと技量、そして悪天候や極寒すら味方にする努力に脱帽しました。
 もう1つは、東御市の御牧ヶ原地域を舞台にした「天空の芸術祭」です。同市と東京芸大が連携した現代アートの一大イベントで、10月29日まで、およそ1ヶ月にわたり行われています。御牧ヶ原というのは広大な台地ですから、その野原や森に潜んでいる作品を探すだけでも大変。やっと見つけて眺めてみても、今度はそれが何を意味しているのか、何が言いたいのか、しばらく考えてもよくわからない。???という感じですから、正直疲れます。しかし、ただ見て美しいというのではなく、そうやって作品と格闘させるのが、現代アートなのかもしれません。ポン太のボケた頭には、ちょうどよい刺激となった一日でした。

 ロケーションがすばらしい小諸高原美術館
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 エントランスの階段には雑草がいっぱい。そこまで手が回らないのかもしれませんが、建物がすばらしいだけにちょっと残念です。
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 美術館からの展望も抜群。浅間山を背景とした棚田の風景も素敵です。
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 東御市の「天空の芸術祭」へ。まず見つけたのが、御牧ヶ原の「芸術むら公園」の一角にあったこの作品。なんだかバラックのようですが、中は迷路になっていて、作品名は「Spirit Gate」(作家名:豊福亮)です。中に入るとちょっと不気味な雰囲気。
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 その近くで見つけたのが、作品名「雨の音を聞く家」(作家名:保科豊巳)。ただの東屋のように見えますが、下に傘が置いてあり、「雨音の聞ける時間帯は下記のとおりです」という表示が。これはひょっとして・・・。
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 一番アート作品らしい感じがしたのがこれ。作品名「大地の翼」(作家名:李偉)。現地の子供たちとつくりあげたパブリックアートということです。青空にあがる凧を仏塔に見立てているようです。
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 浄水場の広場で見つけたのが、作品名「ダンパリウム」(作家名:岩井優)。インパクトのある球形の作品ですが、近づいてみると、不法投棄されたようなモノがいっぱい。「ある場所や状況からフレームアウトしたものを、新たにフレームインさせることで、<自然>との対峙のありかたを探ります」と記されていました。う〜ん、なるほど、現代アートだなぁ。
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 作品を探して移動中に、見事に紅葉している森を見つけました。凡人いや凡タヌキのポン太には、こちらの方が芸術作品に見えたりして・・・。
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いよいよ始まった紅葉ショー まずは白駒池から

2017/10/06 11:04
 山国の秋の楽しみといえば紅葉。ポン太の生活圏である東信エリアで、最もはやく紅葉が見頃をむかえるのが、北八ヶ岳の白駒池です。この紅葉を見ると、いよいよ本格的な秋がやってきたという気分になれるので、どうしても都合がつかなかった年を除き、ほぼ毎年訪れています。
 今年は例年より紅葉の進み具合が少し遅かったのですが、10月初めには見頃となりました。池畔を真っ赤に染める紅葉の主はドウダンツツジです。白駒池は海抜2115mという高地にあり、寒暖の差が大きいため、その鮮やかさは息を飲むほど。今年の色づき具合は、今まで見た中で一番といってもよいほどでした。あと数日が紅葉のピークと思われますので、7日からの三連休は大変な人出となるかもしれません。
 池のまわりは、コメツガやシラビソの原生林で、昼なお暗い苔の世界。幽玄な雰囲気が魅力です。また、背後にそびえる山の頂には、高見石という、巨岩が積み重なった展望スポットがあり、そこから見下ろす白駒池や周囲の山々の眺めは、まさに絶景です。
 このエリアの魅力の全てを短時間で味わえるのが、白駒池駐車場→白駒池(一周)→高見石→丸山→麦草峠→白駒池駐車場というハイキングコース。危険なところや迷いやすいところはなく、山歩きの基本的装備さえあれば、初心者でも安心して歩くことができます。今回も、このゴールデンルートを歩いて大満足のポン太でした。

駐車場から白駒池へ通じる遊歩道に入れば、早速あらわれるコケの森。最近はコケ人気が高まっているそうで、ガイドの説明に熱心に耳を傾けるツアー客を大勢見かけました。
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白駒池に着いた時は、少し霧が出ていましたが、それもまた幻想的ですばらしい眺めでした。
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みごとな紅葉とご対面。
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少し晴れ間がでてきて、いっそう鮮やかに。
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池を一周する遊歩道のまわりはコケの森です。
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どの位置から見てもすばらしい紅葉
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高見石に登り、霧が晴れるのを待つカメラマンたち。
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ほんの一時霧が晴れて、白駒池を見渡すことができました。
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不思議な世界に迷い込んだような丸山付近の登山道
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随所にコケの説明板が設置されていて、コケの種類の多さに驚かされます。
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これがチシマシッポゴケか?最近はコケがお目当ての「コケガール」が増えているとか。ポン太もコケ好きになったかって?う〜ん、それはどうでしょう。「コケダヌキ」でコケまくっていては、山は歩けませんから。
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「白駒の奥庭」は自然がつくった日本庭園。いろいろな景観が楽しめるのが、このエリアのすばらしさです。
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相撲といえば御嶽海

2017/10/04 22:32
 信州で相撲の話題といえば御嶽海。場所中には、御嶽海の勝敗が優勝争いをしている力士より大きく報道され、ポン太の家ですら、「今日の御嶽海はどうかな」といった会話が交わされているほどです。
 信州出身の関取は極めて数が少なく、1978年に大鷲(最高位西前頭三枚目)が引退して以来、37年間皆無という状態が続いていました。御嶽海(現在東関脇)のように三役まで昇進した力士となると、戦前の高登以来、実に84年ぶりだそうですから、信州の人々が熱烈に応援するのも無理からぬこと。
 先週末、佐久市の駒場公園で開催された「ぞっこん!さく市」に、その御嶽海がやってきました。「御嶽海杯わんぱく相撲」のゲストとして招かれたのです。ポン子はちゃっかり握手会に参加し、しっかり手を握って激励の言葉を述べたそうです。
 信州出身で強い力士といえば、江戸時代に活躍した大関雷電が有名です。当時の大関は事実上の最高位で、その強さは天下無双。在位は16年に及びました。ほとんど負け知らずで、勝率はなんと9割6分2厘。まさに伝説の力士です。雷電の故郷は浅間山麓の大石村(現・東御市)。今も地元の誇りであり、浅間サンライン沿いの道の駅は、「雷電くるみの里」という名称です。資料館が併設され、その入口付近に置かれている等身大の像には、197cmと記されていました。現代の角界でもそれだけの身長の力士は稀ですから、大変な大男だったようです。それに比べれば、御嶽海は178cmと小兵ですが、得意の突き押しで、雷電以来の大関昇進を実現して欲しいものです。

佐久市駒場公園に設けられたわんぱく相撲会場
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御嶽海と並んで緊張気味のわんぱく相撲の力士たち
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見合って見合って
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握手会にはポン子も参入
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子供たちに囲まれて質問に答える御嶽海
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天下無双の力士、雷電の像。今年は生誕250年ということで、市内では様々なイベントが行われています。
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資料館に展示されている雷電の化粧まわし
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道の駅「雷電くるみの里」。相撲やぐらのような看板が目印です。
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豊穣の里 荒涼たる政界

2017/10/01 12:42
 里を歩けば、「豊穣」の二文字を実感することの多いこのごろです。佐久平は、地形的には山に囲まれた盆地ですが、黄金色に輝く広々とした田園風景は平野に劣らず、閉塞感などみじんもありません。信州では、「盆地」ではなく「平」と呼び習わされてきたのもむべなるかなです。
 里山も実りの季節。ちょっとした山歩きにも、ビニール袋が必携です。なぜなら、思いがけないところにたくさんの栗の実が落ちていて、山歩きが栗拾いに転じる可能性が高いからです。たくさん拾えたら、栗ご飯が定番。ただし、栗とはいっても小粒の山栗ですから、味は良いものの、皮むきなどの下ごしらえは大変です。こちらはポン子の担当ですが、労苦をいとわず、よくがんばってくれます。当地のホームセンターでは、栗の皮むき専門の道具を売っていて、それを使うことで、幾分楽にはなったそうですが…。
 秋晴れと豊かな実りには心が弾みます。されど、最近の政治ニュースには心が沈みます。そこから思い浮かぶのは、荒涼とした風景のみ。「狡猾」「権謀術数」という湿気をたっぷり含んだ「緑の風」に翻弄され、右往左往する政界のタヌキさんたち。ポン太に言わせれば、タヌキ界の恥さらし。意地やプライドはないのでしょうかね。この風は、リベラルという防風林を立ち枯れにする毒をもっているようなので、「保守勢力ばかりが肥大化し、多元性を失う。政治はそんな終着駅に向かうのか」(『信濃毎日新聞』)といった懸念が、現実のものになるやもしれません。脳裏をよぎるのは戦前の大政翼賛会。その先にあるものは…。
 ニュースをみてあれこれ考えている間に、せっかくの栗ご飯が冷めてしまいました。

 まさに豊穣の佐久平。すべてが黄金色に染まる黄昏時はとりわけ絶景なり。
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 小海線の車窓も黄金色一色。
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 どこまでも続く一本道。誰にも会うことなく歩いていると、「まっすぐな道でさみしい」という山頭火の句を思い出してしまいました。
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 これを見たら、山歩きが栗拾いに転じるのも当然です。
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 栗ご飯には十分な量をゲットすることができました。
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 夢中で栗を拾い、目を上げると、野菊が微笑んでいました。「きれいな野菊うすむらさきよ−♪」だなぁ。
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待ち遠しい新蕎麦

2017/09/27 22:34
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 信州といえば蕎麦。蕎麦屋の数が全国一という蕎麦王国であることは周知のとおりです。ポン太も蕎麦は大好きで、外食の半分以上は蕎麦です。しかし、そうなったのはそれほど古い話ではなく、せいぜいここ10年ぐらいでしょうか。それ以前は、蕎麦は間に合わせに食べるようなものという意識でした。
 浅間山麓を生活拠点とするようになり、信州各地を歩いてみると、どこへ行っても蕎麦屋の看板が目につきます。人気店には行列もできているので、まずは食べてみようかということになりました。いろいろな店で食べてみてわかったことは、蕎麦の味や食感は、店によって相当な差異がある(それだけ奥が深い)ということです。「かえし」にも特色があり、この店ではどんな蕎麦が食べられるのか、店主の腕前はどうかと、暖簾をくぐるのが楽しみになりました。間に合わせどころか、たとえ山奥であっても、わざわざ食べに行くだけの価値があるものへと変化したわけです。。画像
 全部の店が美味しいというわけではなく、えっ、これでよくお金がとれるね、と思うような店もないわけではありません。個人の好みもあり、口コミ情報を信じて出かけてがっかりする場合や、逆に、ごく普通の町の蕎麦屋なのに、その味が気に入ってしまい、リピーターになったケースもあります。当たり外れはずれがあるからこそ、蕎麦の食べ歩きは面白いともいえますし、それができるのは、とにかく蕎麦屋の数が多い信州ならではです。
 旅行で浅間山麓へ来られて、いきなりハズレに当たってがっかりということにならないように、ポン太の知っている範囲で、ここなら満足できるのではないかと思われるお店をいくつかご紹介しましょう。
 旧軽井沢では、旧軽銀座入口のロータリー脇にある「川上庵」。値段はやや高めですが、万人に好まれる味です。中軽井沢駅前の「かぎもとや」は、明治三年創業という老舗で、店構えにも味にも昔ながらの良さを感じます。追分エリアでは、追分宿の中心部にある「ささくら」。料理が美味しいので、蕎麦定食もおすすめです。追分から浅間サンラインを4キロほど進んだ、御代田町「普賢山落」交差点近くの「地粉や」もなかなかのもの。食感が抜群で、昨年オープンしたばかりなのに、すでに人気店です。

中軽井沢駅のすぐ前にある老舗の「かぎもとや」
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追分宿の真ん中に位置する「ささくら」
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御代田町の浅間サンライン沿いにある「地粉や」。展望抜群のテラス席に置かれているのは、ポン太の好きな「おろしそば」です。
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                                                                                                             小諸は蕎麦屋の数が多く、好みが分かれそうですが、名物の「くるみ蕎麦」を食べるなら懐古園入口の「草笛」。トロ〜としたクルミだれはくせになる味です。「草笛」は佐久平駅の近くに支店(店名は「佐久の草笛」)をだしていますが、蕎麦そのものは「佐久の草笛」の方が小諸の本店よりもコシがあって美味しいと感じます。同じ粉を使っているはずなのに、店(打つ人?それとも水?)によって味が違うというのもまた、蕎麦の面白さかもしれませんね。
まもなく新蕎麦の季節。どこで食べようかと、よだれが出かけているポン太です。

 建物が新しくなった小諸の「草笛」本店。「くるみ蕎麦」が名物ですが、ほかに甘くて美味しい「くるみおはぎ」もあります。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その16

2017/09/24 23:15
<18日目、9月17日(水)> ブドウの香りに包まれて、木曽路の入口へ

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 前回の到達点である塩尻宿入口の仲町交差点を出発。ほどなく右手には重要文化財の旅籠「いてふ屋」(小野家住宅)が、その斜め前方には本陣跡の立派なモニュメントが見えてきました。塩尻宿には古い建物がかなり残っており、宿場町らしい街並みではあるのですが、旧中山道がそのまま国道153号になってしまっているため、自動車の通行量が多く、ゆっくりその風情を味わうことができないのが残念です。
 宿場の西側で旧道に入りました。阿礼神社の脇をぬけたところに、なんとも雰囲気のよい民家があり、庭に入って見学できるということなので、立ち寄ってみました。そこは、豪農の屋敷(堀内家住宅)で、18世紀後半ごろの「本棟づくり」とよばれる建物でした。
 一旦国道153号に合流した後、下大門交差点から再び旧道へと入りました。旧道沿いには立派なつくりの家が多く、中にはかつては郵便局ではなかったかと思われるような和洋折衷のモダン建築もありました。中央東線の下をくぐりぬけると、右側一帯は昭和電工の工場となり、その塀が延々と続きます。それが終わり、のどかな田園風景が広がったところに、平出の一里塚がありました。日本橋起点59番目の一里塚です。さらに進むと信州一のワインの産地として有名な桔梗が原です。
 レタス畑とブドウ畑が混在する独特の景観の中を進みます。甘いブドウの香りが漂い、ワイン工場の中を歩いているような気分になりました。中央西線の踏切を渡り、長野県野菜花き試験場の脇を通り、ブドウ園をいくつか過ぎると、国道19号に出ます。ブドウ園の直売所が並ぶ国道をしばらく歩き、右手の旧道へと入れば間もなく洗馬(せば)宿です。
 宿場の入口付近に、将軍秀忠が肘をかけて休んだと伝わる赤松の銘木「肘掛松」がありました。そこから道標に従って細い道を下りたところが、中山道と善光寺道との分岐点である追分(分去れ)です。鉄道では、中央東線・中央西線と篠ノ井線のジャンクションである塩尻が重要な駅ですが、鉄道以前の街道交通においては、ここ洗馬(せば)の方が重要な場所であったことを改めて認識させられました。

重要文化財に指定されている塩尻宿の旅籠「いてふ屋」(小野家住宅)と中山道(国道153)

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塩尻宿の旧道沿いにあった豪農の家(堀内家住宅)。すばらしい本棟づくりで、この地域の特色である「雀おどし」の立派な棟飾りがついています。
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日本橋から59番目となる平出の一里塚。塚の上の松はみごとな樹形をしていました。
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信州を代表するワイン用ブドウの産地、桔梗ヶ原を行く。中山道にもブドウの甘い香りが漂っていました。
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洗馬宿入口の銘木「肘掛松」。徳川秀忠が肘をかけて休んだとか。
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洗馬の追分(分去れ)。左が善光寺道、右が中山道(江戸方面)。
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 洗馬宿は、大火により江戸期の建物は失われてしまっていますが、宿場の面影は感じられますし、大火後に建てられたと思われる民家も1階はかつての旅籠風、2回のガラス戸は凝った意匠で趣があります。本陣、脇本陣の庭園は、「中山道に稀な」名園であったということですが、明治42年の中央線開通時に、駅用地とされてしまいました。洗馬駅には開業時以来の木造駅舎が健在で、それはそれで価値があります。
 洗馬宿を出ると間もなく、国道19号に合流します。国道19号には歩道があり、歩くのはそれほど苦にはなりませんが、自動車道路脇の風景はどこも同じようで単調さは否めません。
 次の本山宿は、国道19号から旧道に少し入ったところにありました。宿の入口付近にある石造群は江戸期のもののようです。このあたりには蕎麦畑が多いのですが、説明板によれば、本山宿がそば切り発祥の地だということです。古い建物が比較的よく残っており、屋号が掲げられた街並みも風情があります。非公開ですが、本陣も現存し、その前には登録文化財になっている川口屋、池田屋、若松屋という3軒の旅籠がありました。
 中央西線には本山宿に対応する駅は無く、中山道を少し進んだ先の日出塩に駅があります。今日の行程は日出塩駅までとし、電車で帰途につきました。本山宿は日本橋から32番目の宿場。次の贄川(にえかわ)宿は、木曽11宿の北端に位置する宿場です。あこがれの木曽路はもう目の前。元気がでてきました。

大火で古い建物が残っていない洗馬宿の脇本陣跡前。
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脇本陣の庭園の上につくられたという中央西線洗馬駅。この駅舎は開業時(明治42年)からのものです。
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一面に広がる蕎麦畑の中を行く中央西線の列車(中山道より撮影)。この先の本山宿はそば切り発祥の地ということです。
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本山宿の旅籠「川口屋」と中山道
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屋号を掲げた本山宿の民家。宿場町らしい、とても良い雰囲気でした。
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写真のメッカ、誕生か

2017/09/20 11:27
 浅間山麓にはたくさんの美術館・博物館があります。興味をひく企画展があれば見学にでかけることも多く、ポン太にとって有り難い存在です。しかし、すべての館の運営が順風満帆かといえばそうではありません。御代田町にあったメルシャン軽井沢美術館(御代田町なのに名前は軽井沢)は、運営していたメルシャンがキリンに吸収合併されてしまったことで、2011年に閉館となりました。元々、ウイスキーの蒸留所(ルーツは大黒葡萄酒→オーシャン軽井沢蒸留所)に併設された美術館で、大変雰囲気が良かっただけに、もったいないことだと思っておりました。
 蒸留所も同時に廃止されましたが、製造していたウィスキーの品質は高く、いまでは幻の軽井沢モルトとしてオークションでは世界のトップレベルの高値(10本セットでなんと50万香港ドル=778万円)がついているとか。やめなければ良かったのにと、ど素人のポン太は思ってしまいます。
 美術館と蒸留所の跡地は御代田町が買収し、現在、旧蒸留所エリアに新庁舎を建設中です。美術館エリアの利用方法については検討中でしたが、本年1月、写真・映像製作会社のアマナに委託することで基本合意し、写真美術館として再生されることになりました。浅間山麓には、写真専門の美術館はこれまで存在せず、全国的にも数少ないと思われますので、差別化という意味でも良い選択であるように思います。
町の公報には「日本で一番、写真が愉しめる町、御代田へ」と記されており、2019(もしくは2020)年の開館にむけて、様々なプレイベントが計画されているようです。すでに、龍神の杜公園には、何点かの写真作品が展示されていました。写真好きのポン太は、この動きを期待感をもって眺めているところです。

蒸留所時代の遺産である蒸留器(ポットスチル)の後ろで建設が進む御代田町新庁舎
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まだ整備に着手されていない美術館エリア
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閉鎖後も美しい姿を保っていた美術館周辺。これがどう活用されていくのか楽しみです。
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龍神の杜公園を飾る写真作品
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プルーンの日

2017/09/16 21:33
 ポン太がいつも徘徊している里山の麓に、突然テント村のようなものが出現したので驚きました。近づいてみると、それはプルーンの木にかぶせられたビニールシートでした。収穫期のプルーンの実は、雨にあたると実が割れてしまうそうで、それを防ぐための措置とのこと。リンゴやブドウなどもそうですが、美味しく形も立派な果実を育てるには、それ相当の手間と努力が必要です。その様子を間近に見る機会が増えたことで、フルーツを食べる際には、生産者に感謝と尊敬の念を抱かざるをえなくなりました。
 ところで、今日、9月16日が「佐久プルーンの日」であるということをご存知でしょうか。実は、日本でプルーンという果実の栽培を始めたのは佐久が最初ということです。長野県は生産量で全国シェアの7割を占めているそうですが、その先駆けであり主産地でもあるのが佐久というわけです。栽培開始40周年にあたる2005年に、出荷が最盛期をむかえる9月16日を「佐久プルーンの日」と定め、イベントなどを開催するようになった由。
 ポン太は今日初めて、そのような事実を知りました。ふだんプルーンにはそれほど関心はなく、食べた記憶すらないのですが、今日はとても食べたい気分になり、直売所に走ってしまいました。

あれっ、このテント村はいったい何だ?
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近づくとこのとおり
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ビニールシートの中を覗くと、プルーンがたわわに実っていました。
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買ってきたプルーンを早速ヨーグルトと一緒にいただきました。完熟した実は、想像した以上に甘く、ヨーグルトともよく合います。抗酸化作用がずば抜けて高い果物ということなので、アンチエイジングにも良さそうです。
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モーモー大行進

2017/09/14 09:08
 秋晴れに誘われて、上信国境エリア(妙義荒船国定公園)をめぐってきました。今回初めて訪れたのが神津牧場です。日本の酪農の草分けであり、その名はよく知っているにもかかわらず、これまで訪れたことがなかったのは、それが県境を越えた向こう側(群馬県)にあるせいでしょうか。地元(信州)のテレビや新聞は、県内の出来事については、詳しく伝えますが、ほんの僅かでも他県に入った場所に関しての情報はほぼゼロ。情報を耳にすることがなければ、出かけようという気持ちにはなりにくいのです。
 所在地が群馬県であるとはいえ、実は、神津牧場は信州と深いつながりがあります。創設者の神津邦太郎は佐久(旧志賀村)の人です。同じ神津一族の神津藤平は、長野電鉄を立ち上げ、志賀高原を開発した人物として知られています。藤平も鉄道に関わる前には、北佐久産牛馬組合長として馬産の改良に尽力し、国の馬政局種馬所(以前のブログで桜の名所として紹介した長野牧場)を誘致しており、村の人々は「牛の邦太郎、馬の藤平」と呼んだとか。
 可愛い羊たちを眺めながら弁当を食べていると、「牛が放牧場から戻ってきます」というアナウンスがありました。そこで、その様子を見ようと牛舎の近くへ移動。しばらくすると、それこそゾロゾロといった感じでたくさんの牛が山から下りてきました。引率されているわけでもないのに、あまりに整然とした「大行進」に、牧場を訪れていた人々は大人も子供もモー大興奮。まるでディズニーランドのパレードを見ているような気分でした。

おっ、来たぞ来たぞ
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隊列を組んで整然と下ってきた牛たち
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通い慣れているのか一目散に牧舎へとむかいます
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しんがりの牧童の姿も様になっていました
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山上の放牧場。こんなすばらしい環境で育てば、よいミルクがでるのも道理。
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牧場で食べるソフトの味は格別でした。
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上信国境の内山峠へむかう国道254号。これぞまさしく「コスモス街道」です。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その15

2017/09/11 21:19
<16日目、9月9日> ついに越えたぞ和田峠
 
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  前回の到達点である唐沢下を朝早く出発するためには、その前夜はどうしても長久保に宿泊する必要があります。以前キャンセルした民宿のお世話になり、そこの車で出発地点まで送ってもらうことにしました。
 峠の直下に位置する唐沢は、峠越えを前に人々が一息いれたところ。茶屋本陣の跡(表札に本陣と記された家)があります。新和田トンネルへむかう有料道路と分かれ、旧国道を少し進んだところが、和田峠へ至る旧中山道の入口です。
 その道に一歩踏み入ると、そこはまさに別世界。古道というよりも緑の絨毯の上を行く快適なハイキングロードといった感じです。木漏れ日が美しい道を40分ほど歩くと接待茶屋につきました。そこは、冬場の厳しい寒さの中で峠越えをする旅人の安全を確保するため、粥の接待をしたところだそうです。小屋の前には清水が湧き、のどを潤すことができます。この先東餅屋までずっと谷合を登って行くのですが、美しい渓流とからみあいながらの道は、ミニ奥入瀬のようでもあります。苔むした石畳の上を行く箇所もあり、このあたりは和田峠越えのまさにハイライト。原型をとどめている広原の一里塚を過ぎると高原状の明るい雰囲気となりました。一旦旧国道に出たところが東餅屋。かつては茶店が何軒も並んでいたそうですが、現代の茶店(食堂)もすでに廃墟となっており、営業している店はひとつもありません。しばらく旧国道を歩き、再び旧中山道に入りました。旧中山道は、旧国道やビーナスラインを串刺しにしながらどんどん登っていきます。総じてよく整備された道です。スタートから3時間余りで和田峠(古峠)に到着。そこは広々として見晴らしもよく、昼食をとるには最適の場所でした。

和田峠直下の唐沢集落。ここからスタートしました。
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和田峠へむかう旧中山道の入口。ここからいよいよ本格的な山道です。
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しばらくは緑の絨毯のような快適な道を登ります。
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旅人に粥の接待をしたという接待茶屋
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石畳が残っているところもあり、中山道を歩いているという実感がわきます。

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一里塚もしっかり残っていました。
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広々とした和田峠(古峠)の頂上に着きました。標高1600m、中山道の最高地点です。
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 峠から下諏訪宿へ下る道は細く、和田宿側と比べると急峻です。その入口に、「地図です、どうぞ」と書かれた箱があり、その中に和田峠〜下諏訪宿間の道筋を詳細に紹介した「下諏訪中山道を守る会」作成のパンフレットが入っていました。足下に気をつけながら、ジグザグの細道を下っていくと、まもなく柳原清水の水飲み場があらわれました。さらに進むと、苔むした石垣がありました。人馬の待避所として設けられた石小屋の跡ということで、冬場は除雪隊にあたる「雪割り人足」も出動したということです。その先の旧道は、細いだけでなく沢と一体化したような頼りない部分もありましたが、「下諏訪中山道を守る会」が立てたと思われる「中山道」の道標が随所にあるため、安心して進むことができました。それにしても、こんな道を皇女和宮一行が通ったというのは驚きです。
 二度旧国道を横切り、どんどん下っていくと西餅屋茶屋跡に着きました。いまは何も残っておらず単なる広場にすぎません。そこで国道142号を横断し、崖沿いのガレた悪路を下りました。薄暗い樹間に一里塚碑がひっそりと立っています。陰気な雰囲気の道であるだけでなく、国道から投げ捨てられたらしいペットボトルなどが林間の斜面に散乱しており、ちょっと興ざめです。
 峠から1時間半ほど歩いたところで国道142号に合流。ここから2キロ弱の間は、びゅんびゅん飛ばしてくるクルマに注意しながら歩道もない国道脇を歩かねばなりません。身の危険を感じるという意味では、和田峠最大の難所といえるかもしれません。
 「浪人塚」付近から、142号とからみあうようにして残されている旧道をたどり、峠からおよそ2時間で樋橋茶屋本陣跡に着きました。その先にも旧道が残されているところがありますが、草ぼうぼうで使われなくなった農道のような雰囲気。道標がなければルートを間違えそうです。しばらく歩いた先で再び142号にもどりましたが、ここから先は国道にも歩道が設置されているので安心です。
 雰囲気の良くない廃棄物処理場の横を抜けてひたすら下り、町屋敷バス停のところで旧道に入りました。住宅地の中を進み坂を上ると、御柱(おんばしら)祭で有名な「木落坂」の上に出ました。階段状の坂を下り注連掛(しめかけ)というところで142号に合流。そこからしばらくは、また国道142号を歩くことになります。だいぶ疲れが出てきて、足が悲鳴をあげはじめました。
 左手に導水管をみたところで右側の旧道へ。しばらくして142号にもどり、春宮の標識をみたところから、いよいよ下諏訪宿へ下る最後の旧道歩きです。やがて前方が開けて、眼下に諏訪湖と下諏訪の町を望むことができました。下諏訪にやってきた実感がわく瞬間です。昔の旅人もこの眺めをみてほっとしたことでしょう。古刹慈雲寺の脇の坂を下ると旧宿場町らしい雰囲気の町並みとなり、御休処の看板を掲げた旧家「伏見屋邸」があらわれました。疲れが頂点に達しつつあったので、そこで休ませてもらうことに。なんと、お茶と漬け物、お菓子の無料接待があり、有り難いかぎりです。少し元気をとりもどし、下諏訪宿の中心部へと進みました。唐沢を出てから8時間10分で、なんとか下諏訪宿本陣前に到着。この周辺には今も営業している古い旅籠が何軒かあり、実によい雰囲気です。西にL字に曲がる角は甲州街道との合流点で「甲州道中・中山道合流之地」碑が立っていました。
 下諏訪は中山道で唯一、温泉のある宿場です。ここに宿泊して温泉に浸かりたいと思ったのですが、当てにしていた宿はなんと満室。やむなくお隣の上諏訪に泊まることにしました。上諏訪の宿も幸いにして温泉付。たっぷり湯に浸かって疲れをとり、翌日の塩尻峠越えに備えたことはいうまでもありません。

和田峠から下諏訪宿へ下る道に入りました。
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沢と一体化したようなところもあり、「中山道」の標識がなければ、不安になります。
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西餅屋跡。昔はここに茶店があったので、峠越えの旅人も一息いれることができたはず。今は営業している茶店や食堂は皆無ですから、飲食物を持参していないと大変なことになります。
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国道を横断した先には、こんな歩きにくいところもありました。
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旧中山道が国道142号に吸収されてしまっている部分を歩くのは命がけです。歴史的価値のある道なのに、人が安全に歩ける歩道なしとは、ひどすぎないか国土交通省!大臣も一度ここを歩いてみて欲しいですね。
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中山道は右へという標識はあるものの、その先は草ボウボウ。本当に中山道なの?といった感じです。もちろんここを進みましたが・・・。
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踏み分け道のような中山道。歩く分には面白い道ですが、大名行列も通った昔の方がはるかに立派な道だったに違いありません。
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御柱祭のハイライトである木落しが行われる坂。思っていた以上の急斜面でした。
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ついに諏訪湖と下諏訪の町が見えてきました。ここまで来ればあと一息です。

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下諏訪宿の入口付近にあった御休処「伏見屋邸」。茶菓子の接待をしていただき感激しました。

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なんとかたどり着くことができた下諏訪宿。しっとりとした趣のある街並みです。甲州街道との合流地点であることを示す碑が立っていました。
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<17日目、9月10日> 塩尻峠を越えて塩尻宿へ

 前日の到達点である下諏訪宿にもどり、街道歩きをスタート。少し歩いたところで左手の旧道に入りました。旧道は砥川で分断されており、北側の富士見橋を迂回することになります。その先の旧道は、まるで民家裏の路地のような細い道です。地元の有志が案内板を掲げてくれているので、間違えることなくその道へ入ることができましたが、そういうものがなければたぶん通り抜けることはできないでしょう。
 県道と交差するところに、「右中山道、左いなみち」と記された大きな石の道標が立っていました。その先の道沿いにはきれいに刈り込まれた生け垣が続き、その後ろには旧家の建物が並んでいます。実によい雰囲気です。出早口交差点で国道20号を斜めに横切り、しばらく進んだあたりで、前方にこれから越えていく塩尻峠とその周辺の山々が見えてきました。横河川を渡るとまもなく今井という集落に入りました。塩尻峠の麓にあたるその場所には立派な茶屋本陣の建物が残っており、その向かい側の旧家の前には穀留番所の碑が立ち、旧街道らしい雰囲気が漂っていました。
 岡谷インターチェンジの北側から、塩尻峠への坂道が始まります。石船観音の階段下に、旅人ののどを潤したであろう水場がありました。金明水とよばれ、和宮もその水を飲んだということです。。旧道はクルマ一台がやっと通れるほどの道幅ですが、峠の上まで舗装されていました。追いはぎが隠れていたと伝わる大岩もあり、昔は人里離れた寂しい場所だったのでしょう。先ほどの今井から約1時間で塩尻峠に着きました。明治天皇が休んだ場所という碑はありますが、塩尻峠と表記されたものはありません。中山道の峠から北側に少し登ったところに展望台があります。せっかくなので、立ち寄ってみましたが、諏訪湖を見下ろす大展望はすばらしく、晴れていればその後ろに富士山も望めるとか。
 塩尻宿へ下る道は、諏訪側よりゆるやかです。下りはじめてすぐに茶屋本陣の建物があらわれました。今は誰も住んでいる人はいないようです。森の中に「伝説夜通道」という立て札があり、その隣にはペア?の地蔵が鎮座していました。南側のみ現存している東山一里塚を過ぎると開けた景色となり、見晴らしのよい山里の一角に、街道歩きの人のための私設?休憩所が設けられていました。ベンチもあったので、そこで昼食休憩としました。 その先も美しい山里の風景が続き、旧道沿いに広がる蕎麦畑には白い蕎麦の花が満開でした。国道20号の下を地下道で抜け、中央道を跨ぐと塩尻宿が近づいてきます。出発から5時間ほどで、塩尻宿入口の仲町交差点に着きました。今日はここまで。中山道を離れて中央線のみどり湖駅へとむかい、帰途につきました。

下諏訪の街中の中山道には、路地裏を行くような箇所もあり、間違えないように進むのが大変です。
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塩尻峠の麓に位置する今井という集落の茶屋本陣
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和宮も喉を潤したという金明水。
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塩尻峠への道。和田峠と比べればはるかに楽ちんな坂道です。
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塩尻峠からの大展望。
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峠から少し下ったところに「夜通道」なる表示がありました。村の美しい娘が親しくなった岡谷の男のもとへ、この峠道を毎夜通ったという伝説があるそうです。
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塩尻峠の塩尻宿側には蕎麦畑が広がっていました。心和む風景です。
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なにやら色っぽい感じの双体道祖神。様々な表情の双体道祖神を見ることができるのも、中山道歩きの楽しみの1つといえそうです。
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塩尻宿入口の仲町。のべ17日で、日本橋から30番目の宿場に到達しました。
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コスモス街道

2017/09/08 23:02
 初秋の花といえばコスモス。ポン太の好きな花のひとつです。コスモスで思い出すのが、兄弟デュオで人気のあった狩人の「コスモス街道」という歌。その歌詞には「右は越後へ行く北の道 左は木曽までいく中仙道 続いてるコスモスの道が」とあります。これは明らかに北国街道と中山道の分岐点である追分宿の「分去れ」を意味しています。ポン太の徘徊エリアの歌というわけですから、ちょっと嬉しくなります。
 ここ数日、どこを歩いても、コスモスの花が目につくようになりました。民家の庭はもちろんですが、中山道沿いにも、キャベツ畑の傍らにも、森の小径にも、ほぼ満開のコスモスが咲いています。そのどれもが美しく、立ち止まって眺めてしまうこともしばしばです。しかし、街道に沿ってコスモスが連続して咲いている場所はなく、「コスモス街道」とは言いがたいような気もします。もちろん、歌の方は表現の問題でしょうし、心象風景かもしれませんから、どうこういう話ではありませんが。
 現在の佐久で「コスモス街道」といえば、群馬県境の内山峠へむかう国道254号でしょう。沿道のおよそ9キロにわたり、ほとんど隙間なくコスモスが咲いていて圧巻です。また、内山牧場の「大コスモス園」は、「大」と名乗るにふさわしいスケールで、一見の価値があるとポン太は思います。ちなみに、佐久市の市花はコスモスだそうです。

中山道沿いのコスモス
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いつもの散歩道に咲くコスモス
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見慣れたキャベツ畑も、傍らにコスモスの花が加わると、とても美しく見えます。
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中山道69次資料館の「コスモス街道」の碑。同館は、中山道に惚れ込んで四国から移住してこられた岸本豊氏の私設資料館です。同氏の著書『中山道69次を歩く』(信濃毎日新聞社刊)は、ポン太の中山道歩きのバイブルとなりました。
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内山牧場の大コスモス園(昨年撮影したもの)。今年の見頃はこれからです。
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水ノ塔山から東籠ノ登山へ〜気持ちのよい縦走路を歩く

2017/09/05 21:24
 一昨日の日曜日は久しぶりに朝から晴天。そんな日は山へ出かけたくなります。今年のポン太の山歩きは低調を極めており、登山回数は里山を含めてもまだ20数回。年間100回を越えた年もあったことを思うと情けないぐらい歩いていません。体力維持のためにも登らねばと、馴染みの浅間連峰へ出かけました。選んだ山は、6月に勝手に山開きをした水ノ塔山。1山だけでは物足りないので、東籠ノ登山まで縦走し、同じ道を戻るという所要約4時間のコースにしました。
 登山道沿いには、夏の名残のタカネマツムシソウがまだ咲いており、一方では秋の到来を告げるリンドウも咲き始めていて、この季節らしい山の雰囲気を味わうことができました。この2山を結ぶ標高2200m前後の稜線は、眺めがすばらしく、またちょっとした岩場もあるので、山らしい山に登ったという満足感を得ることができます。危険なところはないので、シニアにもファミリーにもおすすめのコースです。

水ノ塔山(右端、2202m)と東籠ノ登山(左端、2228m)。この稜線を歩きました。
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アキノキリンソウ、ヤマハハコ、タカネマツムシソウがコラボしていた登山道
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秋は実りの季節です。山の植物も可愛い実をつけていました。これはゴゼンタチバナの実です。
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口に含むと甘酸っぱい味がするクロマメノキ(アサマブドウともいいます)の実。山のブルーベリーです。
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ソフトクリームやジェラートでお馴染みのコケモモの実も熟していました。
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東籠ノ登山(前方)への縦走路。ちょっとしたアルペン気分が味わえます。
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東籠ノ登山付近の登山道にはリンドウがたくさん咲いていました。
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東籠ノ登山山頂に着いて達成感を味わっていたファミリー。小さな子供たちもきっと山好きになることでしょう。
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東籠ノ登山の1等三角点。浅間連峰で1等三角点はここだけです。後方は水ノ塔山へ続く稜線。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その14

2017/09/04 11:20
 <15日目、8月28日> 和田峠越えの前哨戦、まずは和田宿の先まで
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 前回、長久保宿まで到達し、次はいよいよ和田峠越えにチャレンジと意気込んだのですが、ことはそう簡単ではありません。昔の旅であれば、麓の和田宿に泊まり、峠を越えて下諏訪宿に至るということになるわけですが、現在の和田宿には宿泊施設がないのです。長久保宿からスタートして下諏訪宿までとなると、その距離は30キロ余。平地でも大変なのに、長久保宿と和田峠(標高1600m)の標高差は900m、峠の頂上と下諏訪宿との標高差も800m強ありますから、ポン太の体力では厳しすぎます。思案の末に得た結論は、まずは和田宿の先の唐沢下というところまで歩き、コミュニティーバスで長久保にもどり1泊、翌朝、宿泊先の車で唐沢下まで送ってもらい、そこからスタートするというもの。それならなんとか下諏訪までたどり着けそうです。
 方針が決まり、前回の到達点である長久保宿を出発しました。国道とは別になっている旧道を歩き、国道142号に合流後、しばらく行くと、「国史跡、歴史の道、中山道」といった石碑が並んでいる小公園のようなところがありました。そこからは和田宿へと続く旧道をずっと進むことになります。車が頻繁に行き交う国道とは違って、のんびり歩くことができ、蕎麦畑が広がる沿道の風景もよく、街道歩きの醍醐味をたっぷり味わえる道でした。バス停の待合室も「歴史の道」にふさわしく凝ったものが多く、「ミミズ道祖神」や「三千僧接待碑」など興味深い石碑も存在していました。所々に、わき水を利用した水飲み場が設けられていましたが、なんと優しい配慮でしょうか。ポン太も飲んでみましたが、まろやかでとても美味しい水でした。

和田宿への旧道分岐地点に並ぶ石碑
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雰囲気のあるバス停。ネコバスが来てもおかしくないですね。
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旧中山道のまわりに広がる蕎麦畑。癒される風景です。
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面白いミミズ道祖神
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 まわりの風景がすばらしいので、ほとんど疲れを感じることなく気持ちよく歩いているうちに、和田宿の入口に着きました。大きな石に「是より和田宿」と刻まれています。屋根の上にさらに屋根をのせたような面白い形状の八幡宮の前を過ぎると、和田宿の核心部です。資料館になっている旅籠「かわちや」の周辺の街道風景は秀逸でした。その少し先にある本陣との共通入館券を買い、旅籠の内部を見学。和宮の下向に合わせて新築した建物ということで、旅籠の中では大規模なものだそうです。二階の道路際の部屋は板の間になっていて、畳の間に入れなかった旅人たちが、そこで雑魚寝をした様子を想像することができました。和田宿の本陣は、一旦は村役場として使用した後に、復原工事を施し、資料館的に整備したものです。石置き屋根の大きな建物で、奥行きもあり、さすがは本陣という感じがしました。
 雰囲気の良い和田宿を後にしばらく進むと、鍛冶足という面白い地名の場所があり、国道とクロスします。そこには江戸より五〇里の一里塚碑や「右諏訪街道、左松澤歩道」と刻まれた石標がありました。とにもかくにも50里を踏破したのかと思うと嬉しくなります。さらに500mほど進むと、旧中山道は国道142号に吸収され、その先は国道の脇を歩くことになります。歩道がないので、車に轢かれないように細心の注意を払う必要があり、その緊張感は疲れを増幅させました。現代の和田峠越えも、往時とは別の意味で大変です。
 なんとか目標とした唐沢下バス停に到達しましたが、空模様が怪しくなってきたので、天気予報を確かめると、明日は一日中雨になりそう。そんな日に峠越えはしたくないので、予定していた長久保での宿泊を一旦取り止め、出直すことにしました。

和田宿の中心部へ
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大きな旅籠だった「かわちや」
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「かわちや」の2階から見下ろした和田宿の街並み。なんという雰囲気の良さでしょうか。
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和田宿本陣の前にて
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レトロな商店の前を行く
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和田宿から和田峠へとむかう旧道
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つらい国道歩き。恐怖の国道142号を行く。
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それでいいのか軽井沢

2017/09/02 11:30
 浅間山麓の市町村の中で、特別な存在と思われているのが軽井沢です。物価が高い、ハイソ臭が鼻につく、地価が異常に高い等、ネガティブなつぶやきをしてしまうことの多いポン太ですが、軽井沢の自然環境の素晴らしさは文句のつけようがありません。避暑地としての長い歴史が育んだ品格のある別荘地の佇まいは、その所有者でなくても癒されます。また大賀ホールや教会、公民館など町内の各地で行われる音楽イベントは、レベルも高く心底楽しめます。伝統ある夏季大学では、気軽に碩学の話を聞くことができるなど、軽井沢は間違いなく魅力いっぱいの「国際観光文化都市」です。
 ところが、昨日の新聞で、軽井沢町がミサイル想定の住民避難訓練を10月に実施するという記事を読んだときは、「なんじゃこれは」と驚きました。そのような意向を示している自治体は県内で唯一。すでに8月には碓氷峠の旧信越本線のトンネルを避難場所として使うため、所有者である安中市と覚え書きを取り交しているそうです。
 北朝鮮の弾道ミサイルに備えるという話ですが、冷静に考えれば、森の中に別荘地が点在するだけで、基地も軍事施設も軍需工場もない軽井沢が標的とされる可能性は限りなく低いといってよいでしょう。太平洋戦争中には、戦火を避けて大勢の外国人が軽井沢に移り住んだ歴史があります。当時スイス公使館として使用された建物(深山荘)が現存しており、ポン太もその見学会に参加しました。そんな軽井沢でなぜ?と強烈な違和感を感じざるを得ません。
 空襲警報まがいのJアラートやミサイル避難訓練などを重ねることで、国民の危機感、恐怖心をあおり、まるで非常時(準戦時下)であるかのような気持ちにさせ、国民に根付いている平和主義の意識を払拭する、そんな政治的思惑がうごめいているのではないか。猜疑心の強い古ダヌキのポン太はそう感じます。「国際観光文化都市」の軽井沢がそのお先棒を担ぐとは・・・。血迷うな、頭を冷やせ、と言いたいですね。
 自然環境の良さに惹かれ、静かな生活に憧れて浅間山麓にやってきたポン太ですから、生臭い時事ネタをブログで取り上げたくはないのですが、このニュースには反応せざるを得ませんでした。率直な気持ちを記しただけですから、賛同は求めませんし、批判や反論もお受けいたしませんので念のため。

 旧スイス公使館(深山荘)とその内部(一昨年の見学会より)
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 避難場所に使用するという碓氷峠の旧信越本線のトンネル(熊ノ平駅跡から軽井沢側を見たところ)。横川〜軽井沢間の鉄道復活に望みを託してレールと架線がそのまま残されていたのですが、その架線の3分の1が何者かに盗まれていることが4年ほど前に判明しました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その13

2017/09/01 10:04
<14日目、8月19日> 松並木が美しい笠取峠を越えて長久保宿へ
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 開始当初は、暑さと単調さにめげそうになった日もあった中山道歩きですが、信州に入ってからは、どちらを向いても美しい山が見え、風もさわやか、そして何よりも旧街道らしい雰囲気が残っているところが多いので、歩く気力が増してきたような気がします。
 この日の予定は、望月宿から芦田宿を経て長久保宿まで。望月には江戸中期の建築という大和屋をはじめ、旅籠の名残を留めた家がかなりあり、商店の佇まいもレトロで、街道歩きでなくても訪ねる価値のある町だと思います。望月宿を抜けたところで、旧道は自動車道路を離れ、左手の山の斜面へと登っていきます。細い道ですが、「中山道→」と記した道標が設置されていたので迷うことはありませんでした。
 「間の宿茂田井」の説明板が設置されている分岐を過ぎると、道は下り坂となり、茂田井宿へと入っていきます。「間の宿」ですから、中山道69次には数えられていませんが、その雰囲気の良さは特筆に値するものです。ほどよい狭さの道、傍らを流れる澄んだ用水、道沿いには格子のついた古い家屋がずらりと並んでいます。中心に位置する造り酒屋の白壁も趣があり、電柱がなければまさにタイムスリップしたような世界です。宿場の出口には石割坂という急坂がありますが、その途中で振り返ってみた茂田井の街並みもまたすばらしいものでした。

望月から茂田井へむかう旧道
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タイムスリップしたかのような茂田井宿の街並み。いつまでも歩いていたい気分になります。
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 茂田井宿を過ぎたところから一般道を歩くことになりますが、青々とした水田のむこうには浅間連峰の山々がくっきりと見え、車道歩きでも単調さを感じることはありません。
 芦田宿では、資料館を兼ねたお休み処「ふるさと交流館」で一休み。その少し先が本陣で、建物が現存しており、庭を自由に見学することができます。この本陣をはじめ芦田宿にも古い建物がかなり残っており、宿場町の雰囲気を十分感じることができますが、先ほどの茂田井宿のインパクトが強すぎて、有難味が感じられなかったのが残念です。
 芦田宿を出ると間もなく、笠取峠の松並木にさしかかります。数百メートルにわたり旧道が整備保存され、見た目にも美しく、歩きやすい道です。峠の入口と一里塚には何とも愛らしい双体道祖神が置かれていました。途中の東屋で昼食をとり、笠取峠の頂上をめざしました。青々と育った棚田の稲が、風が吹くたびに浪のように揺らぐ姿も美しく、疲れが癒されます。松並木が終わると、峠までは自動車道路の脇を歩くことになりますが、歩道が整備されているので安心です。
 標高910mの笠取峠のサミットから少し下ったところに峠の茶屋がありました。そのまた少し先、長和町に入ったところに笠取峠立場図が掲示されていましたが、大きな茶店が描かれたその図からは、往時のにぎわいが偲ばれます。さらに少し下ったところが、旧中山道の入口。歩行者のみが通れる細い道で、入口に「中山道原道」という表示がでていました。国道142号の旧道を串刺しにしたようなルートで、地形図には記載されていません。勾配は少しきついのですが、自動車道路と比べれば短い距離で長久保宿に至ることができます。踏み分け道のような感じで、倒木が道をふさいでいるところもありました。下りきると、松尾神社の境内に出ました。その前を流れる五十鈴川を渡ると、間もなく長久保宿です。

芦田宿の街並み(上)と現存する本陣(下)

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笠取峠入口の可愛らしい双体道祖神
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笠取峠の美しい松並木を行く。英人アーネスト・サトウは、中山道において最も美しい風景の1つと絶賛したそうです。
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サミットを少し過ぎたところにある現在の茶店
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笠取峠の長久保側の中山道原道。こういうところを歩くと、往時の厳しい旅が偲ばれます。

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長久保宿へと下る道です。このなんともいえない風情。街道歩きのわくわく感が増します。
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 長久保宿は坂道に沿ったL字形の宿場で風情があります。まず目についたのは一福処濱屋。明治初頭に旅籠として建築されながら、実際には使用されずに終わったものということで、今は長久保宿資料館になっています。館内の掲示によれば、長久保宿は、公式には長窪宿ということですが、「窪」ではイメージが悪いので、地元民は長久保と表記することを好んだ由。一福処濱屋の少し先に、真田幸村(信繁)の娘が嫁いだという本陣がありました。後日、大河ドラマ『真田丸』でその話がとりあげられた際は、あっ!あそこだと嬉しくなりました。
 長久保宿は、木造三階建てのレトロな旅館「濱田屋」の角をL字に曲がってさらに続いています。その前の道標に「↑京方」の文字をみて、何が何でも京都三条大橋へ到達してやるぞという気持ちが高ぶってきました。次回はいよいよ中山道最大の難所といわれる和田峠越えです。

坂に沿った長久保宿
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一福処濱屋前の中山道。この坂を登って行くと笠取峠に至ります。
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真田幸村(信繁)の娘が嫁いだ長久保宿本陣。現存している本陣建築としては、中山道最古ということです。
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今も営業している木造三階建ての旅館「濱田屋」。道標に「京方」の文字。京はまだはるか先ですが、ちょっと嬉しい気分になります。

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束の間の賑わいとはじけるパワー〜浅間山麓の夏祭り

2017/08/30 11:42
  この夏、ポン太が見た浅間山麓のお祭りの中から、印象に残ったシーンを集めてみました。大都市のイベントと比べれば、規模は小さいかもしれませんが、地域の人々の力が結集された祭りには、地域の底力とでもいうべきエネルギーが感じられ、見ているこちらも元気になります。
 今年初めて見たのが、小諸の祇園祭。ふだんは人通りも少なく、寂びれた印象がぬぐえない小諸市の中心市街地ですが、どこにこんなに人がいたのかと驚くほどの賑わいと活気がありました。祇園祭といっても京都の祇園祭のように山車を引き回すわけではなく、主役は神輿です。その形がちょっと雅で興味をひかれました。祇園祭という名の夏祭りは、佐久市の岩村田や野沢でも行われており、それぞれ伝統と特色があるようなので、来年はぜひ、そちらの方へも出かけてみたいと思ったポン太でした。
 以前のブログでご紹介した、御代田町の「龍神祭り」と「小田井宿祭り」についても、今年のハイライトシーンをアップすることにします。

 小諸市の「祇園祭」(7月15日)
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 御代田町の「龍神祭り」(7月29日)
真楽寺の石段を登る「昇り龍」
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龍神太鼓の響きにのって境内を駆け巡る「龍神の舞い」
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二匹の龍が仲良く並んで石段を降るシーンを演出したのが、今年の新趣向でした。
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小田井宿祭り(8月16日)
「和宮」行列出発
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問屋跡(安川家住宅)の前を進む「警護の侍」
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小田井宿本陣に到着した「和宮」。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その12

2017/08/28 16:13
<13日目、8月15日> 千曲川を渡り望月宿へ
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 前回の到達点である佐久平の浅間総合病院前をスタート。相生の松の脇をぬけ、国道141を横断すると、水田の中の道となります。浅間山の上半分は雲の中でしたが、左右ともに広々とした開放感あふれる風景で気分爽快。
 根々井塚原という、いかにも旧街道沿いらしい雰囲気を留めた集落を通り、駒形神社を過ぎると、道は下り坂となり、千曲川のほとりの塩名田宿へと下りて行きます。「塩名田」バス停のあたりが宿場の中心で、問屋本陣の建物が残っていました。道路の反対側の公民館前に、大きな観光案内板が設置されており、その説明を読むと、かつては相当な規模の「花街」も存在していたそうです。その名残か、いまも川魚料理を食べさせる大きな料亭が営業しています。千曲川畔に至る本来の中山道沿いには、木造三階建ての建物が並び、実に風情があります。江戸時代には千曲川には橋がなく、舟を横に並べてつなぎ、橋がわりとしていました。その舟をつないだ、「舟つなぎ石」が今も残っていました。
 橋を渡った対岸が御馬寄(みまよせ)という集落。そこもまた古い家屋が残り、旧街道らしい雰囲気です。次の八幡宿との間は中山道で最も宿場間の距離が短いところ。八幡宿の入口付近に、その名の由来と思われる八幡神社があります。驚くほど立派な門があり、本殿の装飾もみごとなので、境内で一休みすることにしました。八幡宿は小さな宿場で、塩名田と比べると、宿場町の名残が濃厚とはいいがたいですが、本陣跡のまわりには、古い建物もいくつか残っており、それなりの風情があります。

旧中山道からみた佐久平駅周辺のビル群。浅間山は雲の中。
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旧街道らしい雰囲気の根々井塚原の集落を行く
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宿場町であったことを感じさせる塩名田の街並み

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木造3階建ての料亭の建物などが残る塩名田宿。この先が千曲川。
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千曲川の川原に残る「舟つなぎ石」。綱を結んだ穴が空いている。
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                        現在の千曲川の橋梁。対岸が御馬寄。

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八幡宿の八幡神社
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 国道142号に合流したあたりから雲行きが怪しくなり、間もなくパラパラと雨が降り出しました。お昼時ですが、営業中の飲食店はなく、そのまま歩き続けました。百沢東交差点から、旧道の細道に入りましたが、その道の両側には古い建物が並び、まさに旧街道そのもの。坂の途中に、祝言道祖神という双体道祖神が鎮座していました。
 布施温泉入口付近の旧道はわかりにくく、狭い草むした道が続き、道標がなければ不安になります。国道を横断したところから、瓜生坂への道が始まりました。瓜生坂の途中には一里塚もあります。峠を越えて望月宿へと降りていくところには、舗装道路とは別に、歩行者のみ通行できる旧道が残されており、中山道を歩いているという実感がわきます。坂の途中には、可愛らしい双体道祖神ほかたくさんの石仏、石像があり、長坂石仏群とよばれているそうです。
 鹿曲川の橋を渡り、望月宿に入りました。望月は大きな町ですが、現在のメインルートである国道142号からはずれているため、古い街並みが残っていて、映画のロケにふさわしいようなところですが、ひときわ目立つ、木造3階建ての井出野屋旅館は、かつて「犬上家の一族」のロケに使われたそうです。その前の御宿山城屋も古くて味のある建物でした。
 遅い昼食をとった食堂の大女将から面白い話を聞きました。倉賀野の造り酒屋のお嬢さんだったというお姑さんの話です。お爺さん(舅)が芸者遊びに夢中になり、塩名田の花街へ入り浸って困った由。いましがた通ってきた塩名田で、花街の存在を知ったばかりでしたので、その話が妙に現実味を帯び、身近に感じられました。お姑さんは賢い人で、直接注意することなく人を動かしたという数々のエピソードの持ち主とのこと。例えば、舅が芸者遊びをしている当日、同じ料亭で派手な宴席を設けて大盤振る舞いをした後、「お代はむこうに景気のいいお大尽(舅)がいらっしゃるので、あの方が払います」と言い残して去ったということです。それ以降、芸者遊びがピタリとやんだとか。
 今日は望月町の奇祭、「榊祭り」の日。主役である「榊神輿」が、町を練り歩く様子も見ることができました。
 今日の街道歩きは、眺めも雰囲気もそして話も面白く、充実した一日でした。中山道歩きもいよいよ佳境に入ってきたようです。

布施温泉入口付近の趣のある旧道
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祝言道祖神。信州の街道沿いに多い双体道祖神は、どれをみても表情が豊かで癒されます。
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瓜生坂へと通じる旧道は草むしていてわかりにくく、道標が頼り。
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瓜生坂を下り望月へ
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眼下にひろがる望月の町
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望月の古い街並みを行く
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「犬神家の一族」のロケに使われたという井出野屋旅館
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「榊祭り」の準備をする子供たち
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※「中山道でブラタヌキ」は、冒頭(その1)に記した通り、一昨年に達成した中山道踏破の回想記です。実際に歩いた季節に合わせてブログにアップしております。リアルタイムで進行しているものではありませんのでご承知ください。
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夏は行く

2017/08/27 00:04
例年のことですが、お盆を過ぎると、吹く風の感触が変わってきます。涼しいというよりもひんやりした感じになり、朝晩は半袖では過ごせません。今年は夏らしい晴天に恵まれた日が少なく、このまま夏が終わってしまうのかと思うと、なんだか寂しい気分になります。
 先週末、1度は高原らしいサマーナイトを味わっておきたいと、中軽井沢の星野エリアにでかけました。無数のランタンが幻想的な景観をつくり出している軽井沢高原教会周辺の森を散策し、ハルニレテラスで開催された「水辺の音楽会」へ。夏のシーズンが盛りを過ぎたせいか、予想した混雑はまるでなく、用意された椅子にゆったりと腰を下ろし、コーヒーを片手に、バイオリンとギターの音色に耳を傾けることができました。屋外でのこうした催しに参加したのはこれが初めてです。楽器の調べと川のせせらぎとが、夜の闇の中にふんわりと吸い込まれていく雰囲気は大変心地よく、すばらしい時間を過ごすことができました。ちなみに、この音楽会は無料です。軽井沢の物価の高さを「軽井沢値段」と揶揄しているポン太ですが、無料で楽しめるイベントが多いのも軽井沢。利益が出るからサービスもできる、そう考えるべきかと、ほんの少し思ったポン太でした。
 今日の浅間山の上空はすっかり秋空です。ウォーキングの途中で出会う草花も、秋らしいものが増えました。気温が下がったせいか、いつもポン太が徘徊している水辺(御影用水)周辺では、大勢の人が散歩を楽しんでいました。その中には、なんと馬に乗って散歩している人もいて、一瞬目を疑いました。これはタヌキに化かされたに違いないと。いやいや化かすのはポン太の方ですから、そんななずはないとよくみると、騎乗していたのは外国人の少女でした。

無数のランタンが置かれた軽井沢高原教会周辺の森
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ハルニレテラスの「水辺の音楽会」
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今日の浅間山。上空は秋空です。
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道端に咲く秋の七草のひとつ、オミナエシ(女郎花)
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近所の農家が出荷用に栽培しているキキョウも咲き始めました。
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水辺を馬でお散歩。なんだか気持ちよさそう。
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「野菜生活」その2〜変わった野菜との出会い

2017/08/21 22:06
 以前のブログで、地元産の野菜が美味しく、また安価であるため、浅間山麓に移住してから野菜をたくさん食べるようになったことについて触れました。実は、野菜摂取量増加の理由がもうひとつあります。それは、今まで見たことのない変わった野菜と出会い、頻繁に食べるようになったということです。
 例えば、ロシア料理のボルシチに欠かせないビート(ビーツ)が、当地の直売所やスーパーではごく普通に売られています。ビートは甜菜(サトウダイコン)の仲間で、形はカブによく似ていますが、包丁を入れた瞬間、鮮血のような真っ赤な汁がほとばしります。「飲む輸血」とよばれるほど栄養価が高く、免疫力を高める効果や老化を防ぐ抗酸化作用があるそうです。それを聞いて、ポン太の家ではボルシチ(見よう見まねですが)をつくる機会が増えました。茎や葉も利用価値があります。豚肉、ジャガイモと一緒に炒め、塩、こしょう、マヨネーズで味を調えると美味しく食べられるのです。今では、ビートを使った料理は、ポン太の食卓にすっかり定着しているといってよいでしょう。
 先日、佐久平のショッピングモールに出かけた際、「血管年齢測定器」なるものが置かれていたので、試しに測ってみたところ、実年齢より10歳若いという数値が出てびっくり。もしや、ビートのおかげ?と、思わずにんまりしたポン太でした。

 買ってきたばかりのビートです。これはスモールサイズで、ソフトボールぐらいの大きさが普通です。
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茎と葉を炒めるために切った状態です。茎はかなり硬いので、しっかり火を通す必要があります。
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出来上がったビートの茎と葉の炒め物。ジャガイモはわが家で収穫した「キタアカリ」です。茎や葉にも赤い色素がたっぷり含まれているので、ジャガイモがピンク色に染まってしまいます。
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 このほかにも、浅間山麓の直売所で初めて目にした変わった(珍しい)野菜がたくさんありますので、いくつかご紹介しましょう。
 ラグビーボールのようなロロンかぼちゃ(右)とバターナッツかぼちゃ(左)。ロロンかぼちゃは甘みが強く、焼いても天ぷらにしても美味。一方のバターナッツかぼちゃはスープに最適です。
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白なす(右)と紅オクラ(左)です。何といっても見た目のインパクトが大きいですね。
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ハンサムグリーンという名前で売られているレタス。フリルレタスの一種のようですが、葉がゴワゴワしているのが特徴です。
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これは何でしょうか?ポン太はかぼちゃだと思って買い物カゴに入れたのですが、なんとズッキーニの一種でした。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その11

2017/08/18 22:25
 <12日目、8月11日> 浅間山麓の追分宿から佐久平の岩村田宿へ下る
 
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 ねぐらに近い追分宿まで到達したことで、気が緩んだのか、はたまた暑さにめげたのか、モチベーションが低下し、しばらくの間、中山道歩きから遠ざかっていたポン太でした。ところが、ある出来事をきっかけに、何が何でも京都三条大橋まで歩きたいと思うようになりました。
 その出来事というのは、散歩中に、追分宿付近の中山道を京都方向へ歩いている老夫婦に出会ったことです。年齢は70代半ばと思われます。御亭主が片足を引きずるようにしていましたので、声をおかけしたところ、脳梗塞の後遺症のリハビリを兼ねて中山道歩きをしているということでした。野宿覚悟でかなりの荷物を背負い、不自由な足を一生懸命動かして一歩でも前へと努力している姿に、頭をガツンとやられたような気がしました。
 一度決めたことは貫徹せねばタヌキが廃ると、8月11日、中山道歩きを再開。追分から岩村田にかけての中山道は、ポン太にとっては生活道路のようなものですが、「街道歩き」の気構えで眺めてみると、なんだか見るものすべてが新鮮にみえるから不思議です。
 御代田の一里塚も、これまでその存在を認識していたのは桜の巨木が生えている塚(西塚)のみでしたが、それと対をなす東塚の方もその姿をしっかり留めていることを知りました。
 しなの鉄道を地下道でくぐりぬけ、御代田町の荒町上宿あたりまですすむと、旧街道の雰囲気が一段と濃くなります。前方の蓼科山や、道端に咲く女郎花(オミナエシ)などを眺めながらの道中は、実によい気分です。
 下り一方の道なので、たいして汗をかくこともなく、小田井宿に到着。小田井宿は、本陣、脇本陣各1軒のほか旅籠が5軒という小さな宿場ですが、今も古い建物が残っており、往時の雰囲気をよく留めています。歓楽的な要素がなかったことから、姫君や女官の宿泊、休憩場所として用いられることが多く、「姫の宿」と呼ばれたそうです。

 御代田の一里塚。街道を挟んで左右1対の塚があるのが一里塚の基本形ですが、道路の拡幅などにより、消滅したり片方のみとなっているところが少なくありません。ここは、現在の道路が本来の街道からずれたところ通っているため、畑の中に取り残されたようにして両方の塚が現存しています。上が西塚、下が東塚です。

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小田井宿本陣前を行く
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小田井宿問屋跡(安川家住宅)。これはお祭りの日に撮影したものです。ふだんは雨戸が閉じられた状態で、内部を見ることはできません。
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 旧中山道が県道9号線に合流するあたりを皎月原(こうげつはら)といいます。いわくありげな地名です(実際に皎月という官女にまつわる伝説があるようです)が、道路沿いにはラーメン店などの飲食店が雑然と並び、特別な場所であるという雰囲気は感じられません。インターウェーブという大規模なショッピングセンターの手前に、一里塚が残っていました。上信越道を跨ぎ、佐久インターの入口を過ぎると間もなく岩村田宿です。左手の住吉神社境内には、かつては道路際にあった「善光寺道」の道標や道祖神などが置かれていました。
 1万5千石の城下町であった岩村田には、本陣も脇本陣も存在しなかったそうです。高度成長期に近代的な商店街に生まれ変わった街並みからは、かつての宿場町の面影は消え失せていました。それでも、酒蔵や味噌蔵の存在が、この町の古い歴史を伝えてくれます。商店街の南端が、中山道と佐久甲州街道の分岐点となっており、右折して西へむかうのが中山道。小海線の踏切を越えると間もなく、浅間総合病院が見えてきました。今日はここまで。ほとんど散歩の延長線上のような街道歩きながら、気分は新鮮。やはり街道歩きは楽しいと改めて思ったポン太でした。

皎月原(こうげつはら)を行く
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住吉神社境内の「善光寺道」道標。側面に享保二十年とあります。
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商店街となっている岩村田宿の現状。
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岩村田商店街の中に、「日本一小さな酒蔵」があります。寒竹というお酒をつくっている戸塚酒造です。佐久は酒どころとして有名で、数多くの造り酒屋が存在します。
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 「生活改善」のお盆

2017/08/15 06:58
  お盆のシーズンですが、その過ごし方や風習は地域によって様々です。今まで暮らしていた地域から他の地域に移住したような場合、その地域の風習がわからず、戸惑うことが多いと思われます。浅間山麓エリアも、首都圏とはかなり異なっており、ポン太も最初は戸惑いました。
 ポン太の住む町の8月の広報誌には、かなりのスペースを割いて「新盆見舞いは生活改善で」という記事が掲載されています。その内容は、「香典料は頂かない」「お返しはしない」「祭壇は家に上がらなくても良い場所に設置する」「飲食のもてなしはしない」「必要がある場合はご芳名を記帳していただく」「新盆見舞いについて(上記の趣旨)の張り紙を掲示する」といったもの。
 「生活改善運動」というのは戦後の経済的負担を軽減するために始まったということで、葬儀や新盆見舞いに関しては、今も多くの住民がそれに従っています。その事を知ったのは、ご近所の方が亡くなってこの地域の葬儀に初めて参列した時のことです。ちなみに、葬儀に関する申し合わせ事項は、「香典料は1000円以内」、「灰寄せは、近親者を中心にして簡素に行う」というもの。「灰寄せ」というのは耳慣れない言葉ですが、首都圏における「精進落とし」に該当するものです。告別式は火葬後に行われますが(これもポン太にとっては驚きでした)、前段(焼香のみ)と後段(僧侶の読経その他の儀式あり)に分かれており、近親者以外の一般参列者は、一律1000円の香典をもって前段の焼香に訪れます。その後、近親者のみで後段の本葬儀(という表現でよいのかどうかはわかりませんが)が行われ、終了後「灰寄せ」となるわけです。後段に参列する近親者の場合は一般的な概念の香典が必要です。
 「生活改善方式」の最大のメリットは、ご近所やちょっとした知り合いでも、経済的負担を気にすることなく、葬儀に参列したり、新盆見舞いに訪れたりできることでしょう。都会に住む高齢者で生活に不安のある方などは、親しい友人が亡くなっても葬儀に出席してお別れすることもできないという話を聞いたことがあります。「生活改善方式」であれば、そのようなことはなく、地域の幅広い人間関係(コミュニティ)を維持し続けることができるというわけです。まだまだ地域の深い事情まで理解できているとはいえないポン太ですが、「生活改善」に肯定的な気持ちになっていることは間違いありません。 
 
 お盆のころになると、蕎麦畑では蕎麦の白い花が咲き始めます。
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 近所の空き地には月見草の群落が出現しました。「売り地」の表示が出て久しいのですが、このまま売れずにいてくれた方が良いなどと勝手なことを考えているポン太でした。
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花の宝庫、高峰山にも秋の気配

2017/08/10 18:39
 この夏は天候不順で、カラッと晴れた日が少なく、とくに、ここ数日は台風がもたらした湿気でジメジメとした気分の悪い状態が続いていました。台風が去った昨日は、久しぶりの晴天。湿度も下がり、窓を開けると爽やかな風が吹き込んできて、ようやく浅間山麓の夏らしい気分を味わうことができました。もっとも暦の上ではすでに秋です。しばらく登っていない高い山の方はどうなっているのかと気になり、ポン子の洗濯がひとくぎりついた午後から高峰山(2106m)へ出かけてきました。高峰山はポン太のねぐらから車で35分、そこから約1時間で山頂という、山登りというよりは山稜散策といったイメージの山です。
 稜線にはクルマユリがたくさん咲いており、また晩夏を代表するタカネマツムシソウも咲き始めていました。ワレモコウが色づいていたり、赤トンボ(アキアカネ)が群れ飛んでいるのを見ると、秋がすぐそこまで来ているように感じます。
 高峰山は、田中澄江著『花の百名山』にリストアップされている山です。「数えると50近い種類が歩いて僅か1時間の稜線の左右の山腹を埋めていた」と記し、花の名を列記して、その数の多さを絶賛しています。薄弱な知識しかないポン太は、記載されている花の中で、認識できるのはせいぜい4分の1程度にすぎませんが、この山の花の種類がずば抜けて多いということについては全く同感です。もう1つ同感したのは、「80になっても90になっても登れるところ」であり、「花々の中をゆっくり歩けたらいいな」と記していること。齢を重ね、登山がままならなくなっても、この山だけは手放したくないという思い、それはポン太も同じです。

 登山者を歓迎してくれているようなクルマユリ
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 高峰山の稜線からみた黒斑山。こちらも『花の百名山』にリストアップされています。
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 夏の終わりを告げるタカネマツムシソウ。ポン太はなんとも表現しがたいこの花の色が大好きですが、写真に撮るとホンモノとはどこか違ってしまいます。
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 タカネマツムシソウとヒョウモンチョウ
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 ツリガネニンジン(ハクサンシャジンかもしれません)。この花を見ると、子供の頃に見たディズニーアニメの森のシーンを思い出します。
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 派手な色をしているので遠くからでもすぐわかるマルバダケブキ
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 ミネウスユキソウ(日本のエーデルワイス)。この花をみると「Edelweiss」の歌を口ずさみたくなりますね。
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 高山植物のシモツケソウです。平地でもみられるシモツケとは異なる植物です。
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 ワレモコウとツリガネニンジンのコラボ。秋の訪れを感じます。
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 残り少なくなったニッコウキスゲの花の蜜を吸うキアゲハ
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 高峰山頂の高峰神社。上空を赤トンボが舞っていました。
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 下界では見ることが少なくなった赤トンボ(アキアカネ)が、山頂の岩にとまっていました。
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 昆虫のことはよくわからないポン太ですが、ノアザミにとまっているこの蝶は、ミヤマシロチョウというかなり貴重な蝶(絶滅危惧種?)のようです。
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その迫力に大興奮の「上田大花火大会」

2017/08/07 01:00
 5日の土曜日、孫ダヌキを連れて、「上田大花火大会」に出かけてきました。信州ではトップクラスの花火大会(打ち上げ数約1万発)ということなので、一度は見ておきたいと思ったからです。
 会場(打ち上げ場所)は千曲川の河川敷。絶好の観覧場所である千曲川の土手まで、上田駅から歩いて5分ほどです。これほどアクセスのよい花火大会も珍しいのではないでしょうか。ポン太たちが現地に着いたのは、花火が始まる僅か15分前でしたが、かなり良いポジションを確保することができました。
 実はポン太は、これまで、本格的な花火大会というものを見たことがありません。もちろん、これほどの至近距離で見るというのも初めてです。他所の花火大会と比較することはできませんが、目の前で打ち上げられる花火の迫力は凄まじく、特に音楽に合わせて、次々と打ち上げられる多種類の花火のコラボは、文句なしの素晴らしさでした。「夏の夜の風物詩」といったのどかなイメージは一掃され、夜空を舞台にした壮大なパフォーマンスに大興奮、大満足のポン太でした。
 
 夜空に様々な花が咲き、蝶まで現れる演出はなかなかのものだと感心しました。
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 多種類の花火を、速射砲のように打ち上げる派手な演出にはびっくり。火の粉が頭上に降ってくるのではないかと恐怖心を抱いたほどの大迫力でした。
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恐るべし学校登山

2017/08/04 21:06
 山国の信州では伝統的に学校登山が盛んです。特に、中学校では大半の学校で実施されており、中には奥穂高岳のような3000mクラスの高峰をめざす学校もあります。ポン太も八ヶ岳の稜線で学校登山の集団と遭遇したことがあります。ポン太とポン子が道を譲ろうと待避していたら、「ラブラブだね!」と冷やかされ、古ダヌキにむかってなんだよと思いましたが、そんな軽口をたたけるのはバテていない証拠。全員元気に登頂できたとすれば慶賀の至りです。佐久地方の中学校では、小屋泊まりで八ヶ岳(硫黄岳2760m)に登る学校が多いと聞きました。
 小学校や幼稚園・保育園で山登りをしているところも少なくないようです。以前、黒斑山の登山道で、深い霧の中から突然大勢の「こびと」が現れたので驚きましたが、よく見ると色とりどりのレインウェアを着た保育園児でした。黒斑山は大人でも登頂に2時間はかかりますし、ガレ場もあります。園児の脚力はたいしたものだと感心しました。
 子供のころから山の世界に親しませることは悪いことではありません。子供たちにとっては、親がよほどの山好きでもない限り、本格的な登山を体験する機会は少ないでしょうから、学校や園の果たす役割は重要です。ポン太は東京(区立)の中学でしたが、希望者を募って行われた北八ヶ岳(天狗岳・北横岳)登山に参加し、下界とは全く異なる山の世界の素晴らしさを知りました。もしその体験がなければ、その後のファミリー登山やキャンプはもちろん、浅間山麓の森の中への移住など考えもしなかったかもしれません。

  浅間連峰の烏帽子岳に登山中の小学生たち。皆元気に山頂をめざして登っていました。
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  佐久地方の中学の学校登山では、定番のようになっているという八ヶ岳の硫黄岳(2742m)。山頂付近にはコマクサの群落もあり、達成感と同時に山の自然の美しさも味わえる良い山だと思います。
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 信州では中学生全員が高峰登山を体験をすると聞いた時には、なんとも羨ましい話だと思ったのですが、体験者に話を聞くと、「もう山はこりごり」と山嫌いになっている人が多いようなので、ちょっと考えさせられます。
 山登りという行為は決して楽なものではなく、苦しみも伴いますが、それをはるかに上回る素晴らしい世界が待っていてくれるのが魅力です。それに気づく(気づかされる)ことなく、ただただ苦しい思いをさせられたというのでは、山嫌いになるのも当然でしょう。登山を集団訓練の場や単なる体育行事ととらえると、そのようなことになってしまいます。登山はスポーツではなく、他人と体力を競うようなものではないとポン太は思っています。そうでなければ、運動が苦手で、体力も根性もまるでなしのポン太が好きになるはずはありません。
  山が好きになるのも嫌いにもなるのも学校登山。山の素晴らしさが十分伝わるような行事として、継続して欲しいと願っています。

  最近はこの山をめざす学校が多いと聞く北アルプスの唐松岳(2696m)。ポン太は二回登っていますが、途中の景観もすばらしく、三回目を計画してもよいのではと思うような山です。
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  中信地方では、爺ヶ岳(2670m)に登る学校もかなりあるようです。これは山頂付近から立山方面を見たところです。この雄大な景観に接すれば、きっと山が好きになると思うのですが・・・。
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  伊那谷では、圧倒的に木曽駒ヶ岳(2958m)に登る学校が多いようです。中央アルプスの最高峰であり、貫禄があります。
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 以上、学校登山と縁の深い山の写真をアップしてみました。いずれも魅力的な山ばかりですから、登ってみれば誰しもきっと気に入ると思います。ちょっと苦しいところがあるかもしれませんが、元気いっぱい登って欲しいですね。ポン太も応援しています。




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草軽電鉄の記憶は消えず

2017/07/30 17:59
 廃止から半世紀以上経っているにもかかわらず、これほど愛惜の念をもって語られている鉄道がほかにあるでしょうか。新軽井沢〜草津温泉間55.5 km。「かぶと虫」と呼ばれた特異な風貌の電気機関車に牽かれ、美しい高原風景の中をのどかに走っていた草軽電気鉄道。1959年の台風で吾妻川の橋梁が流され、嬬恋〜上州三原間をバス代行として営業を続けたものの、1960年に軽井沢〜嬬恋間を廃止。1962(昭和37)年の上州三原〜草津温泉間廃止により、完全にその姿を消しました。
 ポン太が初めて軽井沢に降り立ったのは1963年8月です。新軽井沢駅は廃止から3年が経っていたものの、まだホームは形を留めており、草軽電鉄の残り香が漂っていました。
あと何年か存続していれば、乗車できたかもしれないと思うと、いまでも悔やしい気持ちになります。そんなこともあって、草軽に関連したイベント情報には、敏感に反応してしまうのですが、今年は、嬬恋村郷土資料館で、『草軽電鉄と嬬恋村』という企画展が開催されていると聞き、出かけてきました。

 下の写真は、企画展のパンフレットの一部です。
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 ポン太が見た廃止から3年後の新軽井沢駅です。(1963年8月7日撮影)
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 嬬恋郷土資料館の展示の規模はそれほど大きなものではありませんでしたが、草軽電鉄への思い入れの深さは十分伝わってきました。企画展にあわせて販売していた『草軽電鉄全路線図<詳細版>』(\100)を購入しました。これは、草軽電鉄の廃線跡探訪にはなかなか便利な資料です。同館見学後、早速、嬬恋駅跡と小熊川橋梁跡を見てきました。

 嬬恋駅跡。説明板のみで、ホームや駅舎は現存していません。
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 小熊川橋梁の跡。石積みの橋台が片側のみ現存しています。
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 北軽井沢駅舎にも立ち寄ってみました。現存している貴重な駅舎(2005年に保存のため改修)で、登録有形文化財に指定されています。木製のレプリカながら機関車も置かれており、現役当時の同駅の雰囲気を感じることができます。隣の「北軽井沢ふるさと館」(観光案内所)には、模型や駅名板、時刻表、乗車券等、草軽電鉄関連資料の展示コーナーがあります。

 北軽井沢駅舎正面。欄間のHの飾りは、寄贈者である法政大学村に因んだもの。
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 北軽井沢駅舎ホーム側
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 知れば知るほど魅力いっぱいのこの鉄道を、一部の区間だけでも復活させることはできないものかと思ってしまいます。タヌキの妄想の世界では、すでに高原の風を浴びて走るその姿が浮かんでいますが・・・。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その10

2017/07/25 23:54
 
<11日目、7月23日> ルンルン気分で追分宿へ

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  碓氷峠越えの難所を乗り切ったことで、この日はもうほとんどお散歩気分です。夏休みのシーズンに入ったとはいえ、朝の軽井沢は人影もまばら。吹き渡る風は涼しく、絶好のウォーキング日和。旧軽銀座から離山の麓にかけての沿道は、ほぼすべて別荘地化しており、お洒落なレストランも点在しています。旧街道の雰囲気はまるでありませんが、緑のトンネルのような道で、とにかく涼しく快適です。
  離山交差点の先で、しなの鉄道の踏切を渡り線路の南側へ。そこからは先は細い旧道が生きていて、湯川の橋まで歩くことができました。しかし、その沿道も別荘地となっており、「旧中山道」の標識の類は一切ありません。別荘に来ている人たちも、家の前の道が、大名行列も通った旧道だということをご存知ないのではないでしょうか。
 湯川を渡り、国道18号に合流すれば、その先は、中軽井沢と改名されてしまったかつての沓掛宿です。大火にあったということで、古い建物などは残っておらず、宿場町の面影はほとんどありません。中山道の宿場でその名前まで失ってしまったのはここだけです。しかし、その名を惜しむ気持ちはあるようで、中軽井沢駅に併設されている地域交流センター(図書館や集会施設など)の名称は「くつかけテラス」です。

離山付近で唯一旧街道らしさを感じさせてくれた石仏
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ここが旧中山道だとは思えないような道です
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元は沓掛宿だった中軽井沢駅付近の街並み
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 しばらく進んだところで、国道18号と分かれ、左側の旧道へ。道端には可愛らしい双体道祖神があり、旧道らしい雰囲気になってきました。古宿という集落をぬけていくのですが、道路際をきれいな疎水が流れていて、気持ちの良い道です。一旦18号と合流しますが、18号バイパスとの合流点で再び左手へと分かれ、借宿という集落の中を進みます。そこは沓掛宿と追分宿の間の「間の宿」。碓氷の関所を避けて下仁田へと抜ける裏街道=「女街道」の入口があり、それを示す説明板が立っていました。杉玉を吊るした旧造り酒屋などの古い建物もあります。街道の右手には大きな馬頭観音があり、中馬稼ぎ(農民が馬を使って行った運送業)が盛んであったことをうかがわせます。借宿の集落をぬけると再び18号に合流します。18号線最高地点を過ぎると間もなく、右手に日本橋から39番目、すなわち江戸から39里、京へは91里14町という一里塚がみえてきました。道路の両側に一対の一里塚がしっかり残っています。その先のガソリンスタンドのところを右手に入れば追分宿です。
 追分宿は北国街道の分岐点であることから、浅間三宿の中で最も旅籠の数が多く、参勤交代の大名をはじめ、善光寺詣での人々などでたいそう賑わったそうです。中山道で最も標高の高い宿場でもあります。
 このあたりはポン太が日常的に徘徊しているところですが、軽井沢宿からずっと歩いてきたのはもちろん初めて。電線の地中化やタイル舗装がなされているため、いままでのどの宿場町よりもきれいに見えます。というよりむしろきれいすぎると言ったほうがよいかもしれません。浅間神社の裏に、追分宿郷土館があり、見学がてら、信州東部の中山道に関する資料を入手しました。本陣の建物は現存していませんが、旧本陣の門が堀辰雄記念館の入口に移設されています。脇本陣であった「油屋」や高札場の前を通り、北国街道との分岐点である「分去れ」に到着。本日はここまでです。これまでで一番気が楽で涼しい街道歩きでした。
 ところで、ポン太の古い記憶では、「分去れ」には、手水鉢風の石の小さな道標があり、「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という素敵な文言が記されていました。ところが、それが見当たらなくなって久しいので、博物館にでも収納されたのかと思っていたところ、なんと盗まれたという話を耳にしました。手水鉢を盗むなんて、とんでもないバチあたりがいたものです。

18号(右)と分かれ旧道(左)へ
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可愛らしい双体道祖神
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借宿の古い街並み
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「女街道」の入口
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追分の一里塚
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追分宿中心部
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「分去れ」。手前が中山道、右が北国街道。
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ポン太が初めて追分宿を訪れた50年前の写真です。常夜燈の基部の前に確かに手水鉢のようなものが写っています。

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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その9

2017/07/23 12:32
  
<10日目、7月21日> 血染めの碓氷峠越え
 

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  さあ、今日はいよいよ、天下にその名が轟く碓氷峠越え。高揚感も緊張感もマックス状態です。不気味なタイトルをつけてしまいましたが、その訳はのちほど。
 この日の碓氷峠は霧に包まれ、時折雨がぱらつくといった、あいにくのお天気でした。それでもカンカン照りよりはましなので、予定どおり横川駅を出発。まずは碓氷の関所跡に立ち寄り、おじぎ石なるものに伏して通行許可を願い出ました。返ってきたのは山びこだけでしたが、通行OKと解釈して関所を通過。薬師坂を登ると、ほどなく国道18号(旧道)に出ます。自動車の通行量も少なく閑散とした道を進み、上信越自動車道の下をくぐり抜けると坂本宿です。「中山道坂本宿」と大書した下木戸跡が目に飛び込んできました。
 幕府の命により計画的につくられたという坂本宿は、碓氷峠直下に位置しており、峠越えに備えて多くの旅人がここに宿をとりました。大名行列も上り下りの二組を同時に泊めることができたというメガ宿場です。各家には今もかつての屋号が掲げられ、説明板も数多く設置されているので、街道歩きの気分は一層盛り上がります。
 坂本宿の出口となる上木戸跡を過ぎ、しばらく進むと、峠への入口(登山口)です。ここから先は本格的な山道になるので、ヒル対策の酢を塗ったり、手袋を着用するなどして身支度を整えました。

碓氷の関所の「おじぎ石」
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坂本宿下木戸跡
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坂本宿を行く。行く手の碓氷峠は霧の中。
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ここからいよいよ本格的な山道です。右手の休憩小屋で身支度を整えました。
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 山中に入ってまもなく、堂峰番所跡を通過。その少し先から刎石(はねいし)坂の急登が始まります。相変わらず天気は好転せず、薄暗く、じめっとした空気の中での山歩きです。気温はそれほど高くはないものの、急登の連続で大汗をかきました。古道だけに、沿道のいたるところに、いわれのあるモノやポイントがあり、説明板も設置されているので、歩いていて飽きるということありません。往時であれば、茶店も営業していたわけで、苦しい山道とはいえ、一息いれたり、気を紛らわしたりすることができたと想像されます。刎石坂の上部には多数の石仏があり、柱状節理の岩もみられました。一茶が「坂本や袂の下の夕ひばり」という句をよんだという「覗」からは、坂本宿を眼下に望むことができましたが、そこが碓氷峠越えで唯一の眺望の開けた場所でした。
 刎石坂を登り切り、刎石茶屋跡を過ぎると道は平坦となり、大昔の碓氷坂の関所跡に着きました。その裏にこぎれいな東屋が設置されていたので、横川からかついできた「峠の釜めし」で昼食。本物の峠道で食べるその味は格別です。
その先は比較的ゆるやかな登りで、テンポ良く歩くことができ、戦国時代の遺構である「堀り切り」を通過。しばらく進むと「座頭ころがし」という恐ろしげな名のついた坂道にさしかかりました。石がごろごろしていて歩きにくいところですが、危険というほどではありません。ゆるやかな登りが続いた後、少し開けたところが山中茶屋跡。最盛期には13軒もの茶店があり、明治に入ると学校もでき、明治天皇巡幸の際には25人の児童がそこで学んでいたということです。
 空腹では登れないのでその名がついたという「めし喰い坂」も、刎石坂に比べればたいしたことはなく、難なく登り切りました。その少し先が「一つ家跡」。そこには老婆がいて旅人を苦しめたということですが、はたしてどんな老婆だったのでしょうか。
 子持山のすぐ下の陣場ヶ原というところで、碓氷峠への道が二つに分かれていました。右は皇女和宮下向の際につくられた道、左はそれ以前からの中山道です。旧道にこだわって左の方の細道を進みましたが、これが意外に険しい道で、人馬施行所跡というところには徒渉箇所もありました。その先も急登が続き、峠を目前にかなりの体力を消耗。和宮の大行列を通過させるには、この道では困難と判断して新道をつくらせたのもうなずけます。和宮道と合流してしばらく進むと碓氷峠のサミットである熊野神社に着きました。横川駅からの所用時間は、昼食休憩を含み5時間10分でした。

刎石(はねいし)坂を登る
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「覗」から見た坂本宿。計画的につくられた宿場であることがよくわかります。
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大昔の碓氷坂の関所付近

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 両脇が切り取られて道が狭くなっている「掘り切り」の跡
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陣場ヶ原から峠へと続く和宮下向以前の旧道
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旧道を登り切った地点。峠のサミットはもうすぐです。
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碓氷峠の「峠町」を行く。文字通り峠の頂上にあり、「力餅」などを売る茶店が並んでいます。昔の旅人も、ここまで登ってきてほっとしたことでしょう。

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 峠の見晴台に立ち寄って小休止の後、軽井沢へと下りました。軽井沢宿の入口に位置する「つるや旅館」前あたりが、軽井沢で唯一宿場の雰囲気が感じられるところです。玄関先には「軽井沢宿」の石碑もあり、碓氷峠を越えて軽井沢宿に着いたことを実感しました。
 避暑客や行楽客で賑わう旧軽銀座を抜け、やれやれと帽子を脱いだところ、指先がぬるっとしたように感じたので、おかしいと思ってポン子に見てもらうと、帽子のすぐ下、耳の後ろから首にかけて、血糊がべっとり。気をつけていたはずのヒルに、思う存分吸われていたのです。ポン太ほどではありませんが、ポン子もやられていました。今日はどんよりとした曇り空の一日で、峠道は薄暗く、ミストの中を歩いているような感じでしたので、ヒルにとっては、絶好の活動日だったのでしょう。碓氷峠最強の敵は坂道ではなく、ヒルでした。
 何はともあれ、日本橋からのべ10日で軽井沢まで到達できたことは、この先の踏破へむけての大きな自信となったことは間違いありません。

軽井沢宿の入口にあたる「つるや旅館」の前。
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山の格好ではちょっと場違いな感じがする旧軽銀座を行く。ここが宿場町であったことなど、一般の行楽客で意識している人はほとんどいないでしょうね。
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夏だ、それいけお祭りだ!

2017/07/21 11:01
 ポン太はもともと派手なイベントを好まない「ひねダヌキ」ですから、お祭り好きとはいえません。しかし、お祭りには地域の歴史や風土が関係しており、地域を知るという意味で、見ておいて損はないと考えるようになりました。浅間山麓の夏を彩るお祭りの中で、ポン太を惹きつけ、ほぼ毎年見物しているものを3つご紹介します。

 <追分宿の「馬子唄道中」> 追分節発祥の地に因んだものです。侍や行商人、旅芸人、馬子などに扮した参加者が宿場内をパレードし、往時の宿場の様子を再現します。開催日は毎年7月の第4日曜(今年は7月23日)です。
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 <龍神まつり> 甲賀三郎の龍神伝説をモチーフにした御代田町のお祭りです。全長45mという日本一の龍をはじめ、女性の担ぐ「姫龍」や子供の龍などが、町内各所で「龍の舞」を披露します。開催日は毎年7月の最終土曜日(今年は7月29日)です。
スタート地点の古刹真楽寺の階段を下る「龍」
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 御代田駅前をいく「姫龍」
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<小田井宿まつり> 皇女和宮下向の際の空前絶後の大行列に因んだもので、和宮一行を模した行列が、往時の面影を留めている宿場内を進む姿は、一見の価値があります。惜しまれるのは見物客が少なすぎること。こんな素敵な行事を見に行かないのは損だとポン太は思います。開催日は毎年8月16日。小田井宿へは、御代田駅より中山道を歩いて30分です。
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