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浅間山麓のブラタヌキ
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浅間山麓に移り住んだタヌキのポン太のブログです。どんなタヌキかって?それはプロフィールをご覧下さい。
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浅間山麓 さくら点描

2018/04/17 21:38
 先週ひいた風邪がなかなかぬけず、遠出をひかえているうちに、桜の開花はどんどん進み、ポン太の住む標高900m〜1000mエリアが、今まさに花の季節を迎えました。例年と比べると10日以上はやい感じで、GWまで花が残っていてくれるか心配です。
 浅間山麓(の標高の高いエリア)には、いわゆる「桜の名所」はありません。されど、量より質。芽吹き始めた落葉松林を背に凛と咲く風情は、他では味わえないものですし、民家や畑の傍らに、形のよい枝垂れ桜が1株だけ咲いている姿も絵になります。まだ戸が閉まったままの別荘地の中に、人知れず可憐に咲いている桜も、よきかなです。
 高原の桜は、華やかというよりも、楚々と咲く姿が美しいと言えるのではないでしょうか。そんな桜の風情を見逃してしまうのはもったいないので、カメラ片手に、ポン太の森の周辺をひとめぐりしてみました。

 中山道、追分宿〜小田井宿間にある一里塚の桜です。老木で樹勢の衰えが気になっていたのですが、今年は見事な花を咲かせてくれました。
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 中山道沿いの桜も満開になりました。
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 水辺(御影用水)の桜も咲きました。
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 別荘地内では、レンギョウと桜の競演です。
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 桜の園と化した開拓集落を、郵便配達のバイクが駆け抜けて行きました。
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 御代田町の雪窓湖です。あまり訪れる人のいない池畔にも、桜が咲いていました。
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 隣接する雪窓公園の桜です。すでに花は盛りを過ぎ、平日は人も少ないので、結婚式用の写真?を撮るには最適かも。
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 こちらはワンちゃんの写真撮影のようです。桜もいろいろな楽しみ方があるのですね。
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 御代田駅(旧駅)に保存されているD51も桜に包まれていました。
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 植え付けの準備が進むレタス畑です。桜の後には芽吹き始めた落葉松林が広がるという、浅間山麓らしい風景です。
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 ポン太の森ではボケの花が咲き始めました。
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 昨年、試しに植えてみた桃も開花しました。春が一気にやってきた感じです。
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待ってくれ、山の桜

2018/04/14 09:24
 今年は全国的に桜の開花がはやく、3月下旬に東京で満開の桜を堪能できたのは良かったのですが、浅間山麓にもどってみると、信州でも桜の開花は異常なはやさで進んでいました。長野、松本、上田などでは、すでに盛りを過ぎたところも多く、急がないと見逃してしまうのではないかと、焦りを感じ始めた矢先、ノドの傷みに襲われ、熱も出てダウン。どうやら風邪をひいてしまったようなのです。
 浅間山麓での生活では、人混みの中に身を置くことはほとんどありません。しかし、東京へ出かければそうはいきません。どこかで風邪の菌をもらってきてしまった可能性大です。マスクを着用すべきだったと後悔してもすでに遅し。こじらせないためには無理は禁物なので、毎年楽しみにしている上田城の桜も、今年は見ないで終わりそうです。
 ニュースを見ておりましたら、佐久平でもすでに満開になったところが多いとのこと。準地元でもあり、全く見ないまま散ってしまっては悔しいので、せめて長野牧場(正式名称は家畜改良センター茨城牧場長野支場)だけでもと出かけてみました。どうにもすっきりしない体調で眺めてみても、ここの桜とそれをとりまくロケーションは、例年のことながら素晴らしいものでした。
 風邪が癒えたら、もっともっと桜めぐりをしたいところです。この先期待できそうな標高の高いエリアの桜には、それまで開花を待って欲しい。そう願うポン太でした。

 毎年素晴らしい姿を見せてくれる長野牧場の桜です。
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 一番奥まったところにある枝垂れ桜も見事に咲いていました。
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 桜の下で美味しそうに草を食むヤギさん。裏の牧舎では子ヤギがたくさん生まれていました。
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 周辺の広々とした景観も長野牧場の魅力です。
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 昨年からバーベキューが禁止になったので、「花見の宴」をしている人はほとんどいません。この日が平日だったせいもあるかもしれませんが・・・。
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 帰路に立ち寄った鼻面稲荷神社の桜も咲いていました。
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 桜の数はそんなに多くありませんが、朱塗りの建物とのコントラストがよく、きれいに見えます。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その30(最終回)

2018/04/12 10:11
中山道踏破達成へ

<38日目、4月11日>栗東から大津へ 
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 いよいよ中山道歩きも大詰めです。前夜は近江八幡のビジネスホテルに投宿。朝食後すぐに、電車で栗東へとむかいました。栗東駅から綣(へそ)交差点にもどり、中山道歩きを開始。昨日は一日中ぐずついた天気でしたが、今日はすっきり晴れて絶好のウォーキング日和です。
 静かな旧道を草津宿へむかって進みました。綣という地名はかなり広範囲に及んでいるようで、綣○丁目の標識が続き、綣と刻まれた石柱まであります。道の傍らに一等水準点標識があり、旧中山道が、そのまま国道として利用されていた時代があったことがうかがえます。
 東海道線の下に設けられた小さな煉瓦アーチ橋をくぐりぬけ、線路に並行して進むと間もなく草津駅前。その先が草津宿の入口ですが、なんと目の前にあらわれたのはアーケード街でした。中山道がアーケード商店街に変身しているところは他にはありません。その、アーケードとアーケードの間が、中山道と東海道の分岐点になっていて、覚善寺の門前に、「右東海道、左中仙道」と記された明治の追分道標が立っていました。
 天井川である砂川(旧草津川)の下を隧道で抜けたところが、草津宿の中心です。隧道はもちろん後年のもので、江戸時代には土手を登り、橋が無かったので、歩いて水量の少ない川を渡った由。
 草津宿は東海道、中山道の分岐点にあたる重要な宿場で本陣も2つあったということですが、そのうちの1つが現存し、内部を見ることができます。立派な建物で、一番奥に大名が泊まった上段の間がありますが、そこに至るまでの部屋数がとても多く、台所の広さもからも、賄の大変さがうかがい知れます。宿帳には、吉良上野介と浅野内匠頭が、僅か数日違いで宿泊していたという記録や、新選組の土方歳三が隊士集めに江戸へ出かけた帰りに宿泊した記録などが残されていて、歴史が実感できます。

 アーケードになっていた草津の中山道
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 東海道と中山道の分岐点道標
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 天井川である旧草津川の下をトンネルで抜けると、草津宿の中心部です。
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 草津宿の本陣にて
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 とにかく広い本陣です。ここに浅野内匠頭や吉良上野介、土方歳三等が泊まったのかと思うと、歴史が身近に感じられます。
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 草津宿を出ると、道沿いの標識が「中山道」ではなく「東海道」に変わり、以後、中山道の文字を見ることはありませんでした。草津〜京都三条大橋間は、東海道と中山道が重複し、草津と次の大津は、東海道53次にも中山道69次にも含まれますから、中山道歩きをしている者としては、中山道の文字も併記して欲しいと思いました。
 まもなく矢倉立場の跡に着きました。そこがかつて、草津名物の姥が餅屋のあった場所です。今もこの場所に姥が餅屋が現存し、一休みすることができたなら、現代の街道歩きの人にも喜ばれるだろうにと思います。ポン太なら必ず寄るはずですから。
 国道1号と交差する矢倉南交差点付近は、旧道がどこへつながっているのかわかりにくく、しっかりした標識が欲しいところです。地図で間違いなく旧道であることを確認した道を進んでいくと、野路という集落に入りました。その中ほどに「萩の玉川」という場所がありました。野路は平安から鎌倉時代にかけて存在した宿駅で、「萩の玉川」は日本六玉川の1つといわれた由。今は人工的な小公園に過ぎませんが、休憩するのにちょうどよいので、持参した弁当で昼食をとりました。
 午後は、弁天池、月の輪池という、かつては、旅人の目を楽しませたであろう場所を眺めつつ歩みを進めました。まだ散らずに残っている桜もあり、快適な道中です。一里山という町に入ってまもなく、一里山一丁目の交差点脇に、一里塚跡の碑がありました。その先は瀬田にむかって下り勾配の道となりますが、家並みのむこうには、比叡山へと続く山並みが望まれ、いよいよゴールの京都が近づいてきたことを実感しました。
 自動車道路に合流すると瀬田の唐橋はもうすぐです。唐橋周辺には古い商店や民家が多く、京都の町中に入ったような雰囲気でした。唐橋周辺の桜はまだ見頃で、水に浮かんだ競技用のボートと桜のコラボは、一幅の絵のようでした。
 京阪石山線の踏切を渡り、東海道線の下をくぐり抜けた先が粟津の原。木曽義仲終焉の地ですが、今は工場地帯になっていて、沿道にわずかに残る松だけが、往時を偲ばせます。沿道に1つぐらいは義仲関連の碑なり像なりあってもよいと思うのですが、何もありません。そこから先は、膳所城の城下町に入るため桝形が連続し、京阪電車の踏切を越えた先でまた踏切を渡るという複雑なルートを歩くことになります。膳所城の城門跡を示す碑があちらこちらにあり、巨大なお城であったことがわかります。
 狭い旧道は風情があってよいのですが、大津市街地に入ると、車の通行量が多くなり、ゆっくり街道歩きを楽しめる感じではありません。一方通行にするなど対策はないものかと思います。クルマを避けながら歩いていると、ふいにという感じで左手にあらわれたのが義仲寺。中に入り、木曽義仲の墓(木曽塚)、芭蕉の墓と句碑、巴塚などを見ました。芭蕉はここを好み、遺言で墓が建てられた由。資料室には遺品の杖などがおかれ、門前には長生きした巴御前にあやかろうという地蔵堂もあり、なかなか面白いところでした。
 午後5時過ぎに、中央大通りとの交差点に到達しました。今日の中山道歩きはここまでとし、大津駅から電車で今宵の宿へとむかいました。

 かつては草津名物の姥が餅屋があった矢倉立場の跡
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 日本六玉川のひとつといわれた萩の玉川跡にて
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 前方に比叡の山並みが見え、道路脇には、「京都三条大橋まで五里余り」という道標が立っていました。
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 いよいよ瀬田の唐橋を渡ります。まだ桜も残っていて美しい風景でした。
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 京阪石山線の踏切です。
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 木曽義仲公が討たれた粟津の原。鉄道唱歌41番の歌詞には「粟津の松にこととえば答えがおなる風の声、朝日将軍義仲のほろびし深田はいずかたぞ」とあります。それはこのあたりでしょうか。
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 今は少し寂れてしまった感じのする膳所(ぜぜ)の商店街を進みました。
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 木曽義仲公と芭蕉翁の墓所、義仲寺です。
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 義仲公の墓前にて。信州では、義仲公は大変なヒーローです。ぜひ、大河ドラマでとりあげてもらいたいものです。
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 芭蕉の句碑。「行く春をあふみ(近江)の人とおしみける」 桜が終わりかけているこの時期に、中山道を歩いて近江に到達。明日は京都へという、ポン太とポン子の心情にマッチしているように思えなくもありません。
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<39日目、4月12日>逢坂山を越えて三条大橋へ
 ついに中山道歩きを完結させる日がやってきました。天気は午前中晴れ、午後は曇りという予報なので心配はなさそうです。大津駅から昨日の到達点である交差点にもどり、京都三条大橋をめざして歩き始めました。
 ほどなく大津事件の碑に到達。当時は国道だった狭い道での出来事であったことがわかります。それにしてもそっけない碑です。これではロシア皇太子(後の最後の皇帝ニコライ)も形無しでは…。旧道が国道161号に突き当たったところが札ノ辻で、そこを左折したあたりが大津宿の中心です。宿場的な雰囲気はほとんど残っておらず、国道沿いの本陣跡も、碑があるのみ。むしろ、通りの真ん中を走る京阪電車(京津線)の方に興味をそそられます。
 本陣碑の手前で、電車は専用軌道へと入っていきます。その先の線路際に蝉丸神社(下社)がありました。境内には蝉丸型とよばれる灯篭(重要文化財)もあるのですが、本殿はちょっと荒れた感じで、訪れる人はそう多くなさそうです。蝉丸の哀れな生涯(史実ははっきりしませんが)を偲ぶにはふさわしい場所かもしれません。
 ここ逢坂の地は、古くからの交通の要衝で、今も各種の交通が集まり、実に興味深いところです。東海道線をまたぐ京阪の煉瓦積跨線橋、旧逢坂山隧道など、鉄道遺産のみどころも多く、わくわくした気分で歩きました。
 旧道の跨線橋と一体化した京阪電車の坑門は、コンクリートながらすばらしい意匠です。そのすぐ前に、逢坂の関の碑(関所の本当の所在地は不明)や清少納言、蝉丸の歌碑があり、旧道沿いの蝉丸神社(上社)入口には、交通遺産として重要な「車石」(荷車の通行用に道路に敷き詰めた石。車輪のあたる場所が摩耗してU字形の溝にになったもの)が保存されています。「車石」はその先の閑栖寺の門前や、民家の前などにもありました。
 道路標識に京都市の文字が現れ、山科エリアに入りました。山科駅前のレストランで腹ごしらえをし、ゴールの三条大橋を目指しました。東海道線のガードをくぐると、右手に天智天皇陵がありました。その前を左に入る狭い道が旧東海道です。まるで路地のようですが、昔の東海道はこの程度の幅しかなかったということでしょう。多くの歴史上の人物が、都を目指して歩いたであろう同じ道を、今まさにたどっているのかと思うと、気分が高揚してきました。東山にむかって登り一方の道が続きますが、ここが最後の峠越えと思うと、疲れは感じません。
 登りきって、三条通りと合流したところが日岡峠で、そこには「車石」の通行を再現したモニュメントがありました。その先の道路擁壁にも車石が再利用されており、どれほど大量の車石が敷かれ、荷物輸送に大きな役割をはたしていたのか理解できます。
 蹴上の浄水場脇を過ぎると、いよいよ京都の市街地です。歩いている観光客の数がどんどん増え、外国人の姿も多くみかけるようになりました。都ホテルを左に見て、三条通をひたすら進みました。右手奥に平安神宮の朱色の大鳥居を望み、新緑の白川を渡ると、三条大橋まであと僅かです。三条京阪駅前を通り過ぎ、15時5分、ついに三条大橋に到達。中山道69次踏破達成の瞬間です。思わず親柱にタッチしてしまいました。京都市内の桜はほとんど散ってしまい、葉桜となっていましたが、鴨川の土手の枝垂れ桜だけは満開で、文字通り花の都へゴールインという形になりました。
 まだ日は高く、宿のチェックインには早すぎるので、比較的遅くまで桜が楽しめるという平安神宮へもどり、桜の園を鑑賞することにしました。建物と樹木そして桜がみごとに調和しており、さすがは京都のお庭です。中山道を踏破して都に着いた感激を、神苑の桜がより一層高めてくれたことは、いうまでもありません。
 感激といえば、宿の夕食もそうでした。デザートまで入れると全10品の京料理フルコース。冷酒で祝杯をあげ、美味しい料理に舌鼓をうち、いつまでも中山道踏破達成の余韻に浸ったポン太とポン子でした。

 これが大津事件の碑です。教科書に載っているような大事件にしては目立たない碑です。
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 かつての大津宿の中心部です。道路の真ん中を京阪京津線が走っています。
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 蝉丸神社(下社)にて。百人一首でポン太が最初に覚えた歌が、蝉丸の「これやこの・・・」でした。
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 東海道線を跨ぐ京阪京津線の煉瓦積み橋梁は実に良い雰囲気です。
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 安養寺(山号は逢坂山)の門前に立つ「逢坂」の碑。この地は昔も今も変わらぬ交通の要衝です。
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 旧逢坂山隧道は、外国人に頼らず、日本人の技術者が主体となってつくりあげた、初の山岳トンネルで、鉄道記念物に指定されています。坑門の扁額は時の太政大臣・三条実美が揮毫したものです。
 
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 峠のサミットに立つ蝉丸神社(上社)です。
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 蝉丸神社境内に保存されている車石です。江戸時代の舗装道路の遺構というわけで、車輪のあたる部分が摩耗してU字形の溝になっています。旧東海道だけでなく、竹田街道や鳥羽街道でも、このようなスタイルの街道整備が行われたということです。
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 山科入口の分岐までやって来ました。右が旧東海道(中山道)で、左は宇治へつながる道です。京都市まであと一息。
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 山科駅前を通過し、天智天皇陵の前から、細い道に入りました。路地のように見えますが、これが旧東海道です。この先は、いよいよ最後の峠越え、日岡峠への坂道となります。
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 この狭さがなんともよい雰囲気を醸し出している日岡峠付近の旧道です。
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 日岡峠の頂上に、車石の時代を再現したモニュメントがありました。こんな感じで荷車を押したのでしょうか。
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 日岡峠を下れば蹴上です。右手は南禅寺で、観光客が増えてきました。
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 白川を渡れば、三条大橋はもうすぐです。
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 ついに三条大橋に到達。やったぁー中山道踏破!
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 満開の枝垂れ桜と、弥次喜多の像が私たちの「快挙」を祝福してくれているようでした。
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 踏破の後、平安神宮の桜を楽しみました。屋根からこぼれるばかりの桜に、入苑する前から期待が高まります。
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 京都のお庭は、なぜかくも美しいのか。計算し尽くされ、寸分の隙もない完璧な美に、驚嘆するしかないポン太でした。むかしの人が都に憧れ、都を目指したのもむべなるかなです。
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 祝賀の宴。いくらなんでも食べ過ぎではないかって?まあ、この日ばかりはご容赦下さい。食べて食べて食べまくったポン太とポン子でした。

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 日本橋から京都三条大橋まで、要した日数はのべ39日、歩行時間(含休憩)の合計は、206時間52分でした。中山道の距離は、135里35丁といわれていますので、キロに換算すると533.6kmとなります。しかし、廃道となっていて迂回を余儀なくされたところや、街道以外に歩かねばならないところ(鉄道の駅から街道への行き来など)も含めると、実際に歩いた距離はそれよりもずっと長くなります。
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アンズが咲いた、ブログは二年目へ

2018/04/09 11:09
 浅間山麓でも季節はものすごいはやさで進んでおり、しばらく留守にしていた森の家にもどってみると、アンズが咲き、レンギョウが咲き、一部の低木では芽吹きも始まっていました。コブシも8分咲きとなり、すっかり春らしい雰囲気です。ホームセンターの園芸コーナーには、野菜の苗がたくさん並ぶようになりました。すでにレタスの植え付けを始めた農家もあります。浅間山麓は心浮き立つ季節を迎えたといっても過言ではないでしょう。
 高校時代の友人(静河さん、ブログ名は「ギャラリー静河」)に、背中を押されてブログを開設してから、今日(4月9日)でちょうど1周年となります。なんとか続けてこられたのは、このブログを見て下さる皆様のおかげです。自分自身の頭の整理や、記録として残すという意味ももちろんありますが、やはり、見て下さる方があればこそ、書く意欲も湧いてくるのです。
 タヌキといえども、いきなり「ドロン」するようなことはせず、二年目も気まぐれに続けていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 アンズが咲きました。去年と比べると10日以上早い開花です。ポン太の森で、最初に咲くピンク系の花ですから、この花が咲くと、森の中が一気に明るくなります。
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 いつもの散歩道のコブシは満開でした。昨年も同じ場所で写真を撮りましたが、日付は4月19日となっており、やはり10日以上はやく季節が進んでいる感じです。
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 レンギョウも咲きました。
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 このまま一気に春から初夏へ、とはいかないのが浅間山麓です。昨日は短時間ながら雪が舞い、開き始めたコブシの花や、芽吹いたばかりのリンゴの木もうっすらと雪化粧しました。行きつ戻りつしながら、それでも例年よりはやく季節は進んでいます。
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新緑の多摩〜片倉城跡公園を歩く

2018/04/07 22:36
 孫タヌキの世話を頼まれ、東京郊外の古巣へ出かけていたポン太ですが、その間の季節の進み具合は、まさにあれよあれよという感じでした。満開だった桜はあっというまに散ってしまい、野山は一気に新緑モードです。吹く風は初夏を思わせるほどで、「おんも、おんも」と叫ぶ孫ならずとも外へ出かけたくなります。
 多摩地域のよいところは、気持ちよく散策できる公園が比較的近いところにたくさんあることです。そのひとつである片倉城跡公園(八王子市)に出かけてみました。片倉城が存在したのは、15世紀後半〜16世紀頃。築城主や築城年代の特定は難しいということですが、空堀や土塁などが残っており、城跡らしい趣があります。カタクリ、ヤマブキソウ、ニリンソウ、スミレなどいろいろな花(野草)を楽しめるのも、この公園の魅力の1つです。
 今年は春の訪れが早かったこともあり、例年なら見頃のはずのカタクリの花はほんの僅かしか残っていませんでしたが、それに取って代わるようにたくさん咲いていたのがヤマブキソウ。大群落を形成し、丘の斜面を埋め尽くさんばかりに咲いている様は見事でした。同公園には桜も多く、主役のソメイヨシノはすっかり葉桜となっていたものの、枝垂れ桜はまだ十分楽しむことができました。
 植物以外のみどころもあります。その1つは入口近くの広場に置かれている彫刻群。迫力満点の作品やコミカルな作品などバラエティーに富んでいて、ちょっとした野外美術館です。もうひとつは、城跡内にある住吉神社の算額です。算額とは数学(和算)の絵馬のことで、数学の問題が解けたことを感謝し、更なる向上を祈願する目的で神社に奉納したもの。全国にはおよそ800枚の算額が現存しているそうです。住吉神社の算額は江戸末期の1851年に奉納されたものですが、現物は劣化が激しいため郷土資料館で保存の措置がとられており、神社には、同じ内容を書き写したものが掲げられています。そこに記された内容を解読し、現代数学に置き換えて解いてみたら、すべて正解であったとか。地域の人々の知的レベルの高さには驚かされますし、江戸時代=鎖国=低級文化では決してなかったと、改めて思うポン太でした。

 片倉城跡のソメイヨシノは、ほぼ葉桜になっていました。
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 僅かに残っていたカタクリの花です。
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 見頃をむかえていたのはヤマブキソウでした。
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 可愛らしいニリンソウも咲いていました。
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 満開の枝垂れ桜の近くでは絵筆をとる人も。
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 片倉城跡公園の彫刻のひとつ「ダンシングオールナイト」。バブルのニオイを感じます。
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 「アテネの戦士」という作品ですが、アニメの主人公のようにも見えます。ポン太の記憶では、「酔っぱらい」と題した面白い像もあったと思うのですが、今回は見つけることができませんでした。
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 城跡内にある住吉神社です。右側の軒下に「算額」が掲げられています。
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 これが算額です。冒頭に関流と書かれていますので、和算の大家、関孝和を師と仰ぐ人々が奉納したものでしょう。
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東京の桜再び

2018/04/02 13:16
 ポン太の森にダンコウバイが咲きました。春一番に花を咲かせる樹木ですから、これが咲いているのを見ると心がウキウキしてきます。コブシも少し咲き始めましたので、例年より季節の進み具合が早いような気がします。とはいえ、桜はまだ固いつぼみのままで、開花の「か」の字もありません。浅間山麓から花便りをお届けするのは、しばらく先のことになりますので、その前に東京の桜を再度とりあげてみたいと思います。
 先月末、ポン子のお供で、国立新美術館の「至上の印象派展」に出かけた際に、都心の桜を眺めてきました。同館は六本木にあります。六本木と聞けば芸能人が豪遊(あるいは悪さ?)するところというイメージで、東京に住んでいたころもほとんど縁がなく、桜の時期に訪れたのは今回が初めてです。六本木界隈に桜があること自体意外な感じがしましたが、美術館の前はもちろん、東京ミッドタウン近くの街路樹も桜で、町中のいたるところで桜を見ることができました。東京は想像以上に桜が多い、みんな桜が好きなんだ、と改めて思ったポン太です。
 東京の桜名所の中でもナンバーワンの呼び声が高い、千鳥ヶ淵にも行ってみました。さすがは徳川将軍家の居城であった江戸城。堀も石垣もスケールが大きく、桜も見栄えがよいこと。ボートからの眺めはより一層すばらしいのではと思ったのですが、最低でも90分待ちと聞いてあきらめたポン太でした。桜より、やはり人が多いのです、東京は。

 国立新美術館へむかう道の街路樹も桜でした。ビル街の桜も風情があります。
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 美術館前の桜も見事に咲いていました。
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 館内の展示ももちろんすばらしかったです。「印象派」の作品は、美術に疎いポン太にも馴染みやすく、十分楽しむことができました。これは、モネの「睡蓮の池 緑の反映」です。ここだけはなぜか写真撮影OK。企画展のPR作戦の一環でしょうか。
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 千鳥ヶ淵の遊歩道は人また人。人気スポットだけに大混雑でした。
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 桜の花にはたくさんの小鳥が集まっていました。桜に吸い寄せられるのは、人も小鳥も同じかな?
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 「お花見」の国際化は益々進んでいるようです。お花見ツアーの入国者数は昨年の6割増しとか。
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 これぞ江戸城の桜。迫力満点です。
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 見に来て良かったと思う絶景でした。ボートからの眺めはどれほどすばらしいか・・・。やっぱり乗りたかったなぁ。
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中山道でブラタヌキ 〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その29

2018/03/31 11:40
<36日目、3月29日>愛知川宿から武佐宿へ
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 前回、愛知川宿の入口まで到達できたことで、いよいよゴールの京都三条大橋が射程内に入ってきました。あと1回(2泊3日)でゴールインできるのはないかという気持ちになったのですが、よくよくシミュレーションしてみると、その先の宿場間の距離が長く、3日間でゴールするにはかなりきつい日程になることが判明。前回、4日間歩き続けたことで足を痛めたこともあり、無理をせずに、間にもう1回1泊2日の行程を挟むことにしました。
 昼過ぎに、愛知川駅に着き、街道歩きを再開。残念ながら午後から天気が崩れてしまい、雨の中の歩行となりました。
 愛知川宿には、それほどのみどころはなく、本陣跡も街角の柱に小さな表示がなされているだけです。明治天皇が休憩したという竹平楼前の石碑(東郷平八郎の書)が一番目立つ存在でした。愛知川宿を出てしばらくすすむと、愛知川の橋梁です。並行する近江鉄道の橋梁は明治のイギリスタイプのトラス桁とこれまた明治のポーナル型プレートガーダで構成されるクラシックなもので、見応えがあります。
 雨の中を歩くのはつらいのですが、それでも、どことなく昔の雰囲気が残る旧道であれば、気分的にはずいぶん楽です。元郵便局だったという五個荘のモダニズム建築物や、茅葺きの伊香型とよばれる民家など、沿道にはそれなりに見どころがあり、助かります。清水鼻という名水の湧く立場跡を過ぎると、一旦、国道に出ますが、東老蘇(おいそ)という場所から先はずっと旧道歩きです。鎌宮とも呼ばれる荘厳な雰囲気の奥石(おいそ)神社の前を通り、石碑だけの西生来一里塚跡を過ぎると、間もなく武佐宿に入りました。中山道沿いに武佐小学校がありましたが、その建物の意匠には驚かされました。街道を意識した瓦屋根やコンクリート製ながら歴史を想起させる白塀はインパクトがあります。武佐小学校の生徒がつくった武佐宿に関する説明板が、主要な建物に設置されていたことにも感動しました。
 武佐宿にはべんがら格子の古い家がかなり残り、脇本陣跡には立派な門が建てられていました。本陣の門と塀も現存するなど、宿場の面影が濃厚です。下見板張りの近代建築である旧近江八幡警察署武佐分署庁舎(登録文化財)もよい雰囲気でしたし、雨の中をようやくたどりついた武佐駅の駅舎もまた、宿場町にふさわしい外観。雨の一日とはいえ、満足度の高い街道歩きでした。今日はここまでとし、電車で近江八幡のビジネスホテルへとむかいました。

愛知川宿の竹平楼前。明治天皇巡幸碑は中山道のいたるところ(そこで休憩したというだけの場所)にあり、時の政府(碑の大半は昭和初期に建てられたもの)が天皇の権威付けに利用したことがよくわかります。
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近江鉄道の愛知川橋梁です。明治期の典型的なイギリスタイプで、明治31年の同鉄道開業以来、原位置で使い続けられているという貴重な橋です。
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五個荘の元郵便局。田舎にしてはたいそう立派で意匠も凝っています。これも近江商人の里ゆえでしょうか。
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伊香型とよばれる茅葺きの民家も健在で、旧街道らしい風情があります。
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中山道沿いに立つ「てんびんの里」の像。これを見れば、ここが近江商人の里であることがすぐにわかります。
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奥石(おいそ)神社前の中山道です。旧街道らしい風情があります。
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武佐小学校の立派な校舎がみえてきました。
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武佐宿の中心部。左側が本陣です。
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旧近江八幡警察署武佐分署庁舎です。
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中山道沿いにある近江鉄道の武佐駅も宿場町らしい佇まいでした。
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<37日目、3月30日>武佐宿から栗東駅まで
 この日は朝から晴れ。近江鉄道の駅で、東京へむかって中山道を歩いているというベルギー人と出会いました。インターネットで調べたという英語版のガイドと地図を持参しており、やる気十分です。外国人で中山道に興味をもち、実際に歩いている人はかなりいるそうで、その人の情報では、すでにアメリカ人2人とフランス人1人が完全踏破を達成しているとか。
 武佐駅を出てしばらくの間、風情のある街並みが続きます。住友二代目の総理事で別子銅山の公害問題に取り組んだ伊庭貞剛翁生誕の地という家もありました。
 「住蓮坊首洗い池」を過ぎると、国道8号に出ました。そこは千僧供(せんぞく)という面白い地名の場所です。六枚橋交差点から旧道に入り、しばらく歩いて国道へ出、馬淵町から再び旧道へと入ると、その先は人通りの少ないのどかな道でした。沿道の桜もちらほら咲き始めており、気分よく歩くことができます。
 日野川の堤防に突き当たったところが、横関の舟橋跡で、広重描く武佐宿はこの場所ということです。土手の上から眺めた風景は、往時をしのばせる雰囲気でした。ただし、昔のようにここで川を渡ることはできないので、堤防上を歩いて国道8号までもどり、国道の橋を渡りました。
 その先は、三日月湖のように短区間だけ旧道が残っているところはあるものの、大半は、国道を歩かざるをえません。鏡というところは、源義経ゆかりの地で、義経が宿泊したという白木屋の跡や、烏帽子架けの松、元服池などがありました。それらはすべて国道沿いなので、頻繁に行き交う車の騒音で、歴史のロマンに浸りきれないのが難点です。沿道には「源義経元服の地」ののぼりがいくつもはためいていました。元服池の前には道の駅があったので、そこで早目の昼食をとりました。
 義経元服池の数百メートル先には、平家終焉の地があります。この地で平宗盛父子が打ち首となり、平家は滅亡したのですが、そこは、産廃処理施設の脇を入った荒れた雰囲気のところでした。宗盛父子があまりにも哀れであったことから、近くの池では蛙も鳴かなくなり、「蛙鳴かずの池」と呼ばれているそうです。しかし、周辺の荒れた現状をみると、今もなお哀れな姿をさらしているようで、気の毒になりました。
 鎌倉時代より前につくられたという灌漑池である西池の篠原堤の下を過ぎ、旧道に入りました。家棟川というかつての天井川を渡り、しばらく進むと、新幹線が接近してきました。そこには大岩山古墳群があり、桜生史跡公園として整備されています。野洲小学校脇を通り、少し進んだところには珍しい茅葺の寺、唯心寺あり、さらに進むと宇野勝酒造(宇野元首相の実家)の趣のある建物があらわれるなど、このあたりは、旧道歩きの楽しさが十分味わえるところです。
 車の通行量が多く、落ち着かない雰囲気の野洲川の橋梁を渡り、その先の吉身というところから守山宿への旧道に入ると雰囲気が一変。都市部とは思えないような静かで落ち着きのある街並みが続きます。随所に説明板があり、宿場としての雰囲気を残そうという意思が感じられました。守山宿には桝形が残り、古い道標もあります。本陣は失われていて碑のみですが、そこが江戸へむかう皇女和宮の最初の宿泊地であった由。土橋という小さな橋を渡ったところで守山宿は終わります。旧道をどんどん進んでいくと、綣(へそ)という面白い地名が現れました。今回の中山道歩きはここまでとし、綣交差点から栗東駅へとむかい、帰途につきました。次回はいよいよ三条大橋にゴールインする1泊2日の行程となります。

広重の描いた「武佐」の説明板が、日野川の堤防上にありました。
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べんがら色の板塀が美しい、近江路の中山道です。
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義経が宿泊したという、「鏡の宿」の白木屋があったのはこのあたりということです。
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鏡神社の参道にある義経烏帽子かけの松です。この少し先に、義経元服の池もありました。
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荒れた雰囲気の「平家終焉の地」。平宗盛父子はここで打ち首となりました。中山道を歩くと、歴史の「哀れ」まで身近に感じられます。

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雰囲気のよい茅葺の寺がありました。浄土宗唯心寺です。
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野洲川の国道橋を渡り、守山宿へとむかいます。
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修復された守山宿の町屋「うの家」です。
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守山宿本陣跡にて。建物はなく碑のみです。
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守山宿の枡形です。
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守山銀座と交差する中山道(真ん中の狭い道)です。
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栗東市の「綣(へそ)」交差点。ここを左に入ったところに東海道線の栗東駅があります。
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花見?ヒト見?

2018/03/26 09:44
 先週末、用事があって東京へでかけました。都心では桜が8分咲き、ところによっては満開となっており、まだ少し雪が残る浅間山麓と比べると別世界のようでした。せっかくなので、短時間ではありましたが、桜の名所2箇所に立ち寄ってみました。
 1つは定番の上野公園です。予想はしていたものの大変な人出で、改札口を出てから公園までたどり着くのも一苦労。洪水のような人の流れに身をゆだねるには相当な「覚悟」が必要でした。その人の流れの両脇では、どうやってその場所を確保したのだろうかと、その苦労話を聞くだけで1日が終わってしまいそうな、花見の宴が盛り上がっていました。きれいな着物を着て歩いている人もいて、混雑はいたしかたないとしても、それなりに風流だなと思ったのですが、近づいてみると全員が外国人。花見客全体をみても外国人の比率はかなり高く、まさに日本の花見から世界の花見へシフトしているのだということを実感しました。
 もう一箇所訪れたのは、都電荒川線の面影橋電停界隈です。ビルの谷間を流れる神田川縁の桜は、水面を埋め尽くすほどのボリュームがあり、都電が桜を背景に高戸橋を渡っていくところも風情がありました。なにより良かったのは人が少なかったことです。
 昔は桜が咲いたと聞いても、それほどの興味を感じることはなかったのですが、年のせいなのか、年々桜への執着心が強くなってきたような気がします。浅間山麓で桜を楽しむことができるのは、例年ですとまだ1ヶ月も先ですから、それまでの間、どこへ花見に行こうかと頭を悩ませるポン太でした。

 上野公園の桜はほぼ満開でした。この中へ入っていくには「覚悟」が必要です。和服の女性は全員外国人でした。
 
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 ここで花見の宴をするには、かなりの努力が必要でしょうね。
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 色の濃い桜もあり、見応えがあります。
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 こちらは神田川の桜です。水面が見えないほどの花のボリュームに圧倒されました。
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 本物の桜と桜色の都電のコラボ。絶景かな!
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 学習院下付近を行く都電です。桜はどう切り取っても絵になります。
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雨氷未満

2018/03/22 17:51
 このところの寒暖の差の大きさにはちょっとついて行けない感じがします。
 つい先日は5月のゴールデンウィークごろの陽気で、浅間の雪も僅かに残るだけという状態でした。西日本の各地や東京からは桜の便りが届き、ここ浅間山麓でも、いつもの散歩道の傍らに可愛らしいフキノトウが顔を出しました。ポン太の庭では、ビオラが咲き始めるなど、すっかり春の気分になっていました。
 ところが、一昨日は一転して冷たい雨。気温が0度前後を上下していましたので、雨氷が見られるかもしれないと期待したのですが、水滴が僅かに凍っただけという「雨氷未満」に終わりました。昨日は春分の日というのに朝から雪が降り続き、ポン太の森は冬景色に逆戻りです。
 季節は行ったり来たりといった感じですが、今週末以降は、本格的な暖かさがやってくるということなので、雪が消えたら、そろそろ家庭菜園の土起こしかな、と思いはじめたポン太です。

 ぽかぽか陽気で、浅間の雪もここまで少なくなっていました。
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 フキノトウも顔をだして春の到来を告げてくれたのですが・・・。
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 雨の後、少し気温が下がり、水滴が凍る状態にはなったのですが、枝全体が氷でコーティングされる「雨氷」には至りませんでした。
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 「春分の日」は冬景色に逆戻りしてしまいました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その28

2018/03/19 23:02
<34日目、3月18日>柏原宿から鳥井本宿へ画像
 昨日は電車の時間の都合で駅に直行したため、柏原宿を歩くのは今日が初めてです。伊吹山の麓の柏原宿といえば、昔から名物として有名なのが、お灸用の艾(もぐさ)。百人一首の「かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」の「さしも草」がそれです。かつては艾を売る店がたくさんあったそうですが、現在は、伊吹堂1軒のみ。歴史を感じさせる重厚な建物で、その周辺の街並みも宿場町らしい風情があり、見応えがありました。
 柏原宿を出て松楓並木を過ぎると、旧道の分岐があり、道標もありました。ところが、道標の示す旧道を進むと、やがて金網の柵があらわれ、通行不能に。やむなく舗装された「新道」を進んだのですが、旧道が残っているのであれば、街道歩きを楽しみにやって来る人のためにも、通行可能にするべきではないかと少々腹が立ちました。
 名神高速道路に並行して進むと、梓川の松並木があらわれました。残っているのはわずかな本数ですが、それでも旧街道の雰囲気は感じられます。12時ちょうどに醒ヶ井宿に到着。地名の由来となった居醒(いさめ)の清水に隣接した地蔵堂境内にベンチがあったので、そこで昼食休憩をとりました。こんこんと湧き出る水が、清流となって宿場の中を貫流し、涼しげな風景をつくりだしています。水の中には梅花藻が青々と育っていて、大変美しい眺めです。桜の並木もあるので、花見時には中山道でも極めつけの美しい宿場町となりそうです。
 醒ヶ井宿を出て、立場茶屋のあった樋口を過ぎたところで、東海道線から離れ、山間の小さな宿場である番場宿へとむかいました。名神高速道路が並行してはいますが、少し距離があるため、静かな街道歩きを楽しむことができます。桜楓並木の道を進むと間もなく番場宿です。問屋場跡があり、大きな石に番場宿と記した小公園もあります。その先には、彦根へ向かう道との分岐の道標が立っていました。
 番場の宿から小摺針峠へ、道はゆるやかに上っていきます。左手に名神高速道路が並行していることを除けば、昔と変わらないのどかな風景です。振り返ると、低い丘の向こうに伊吹山がひときわ大きく見えます。京から江戸へむかう旅人にとっては、いよいよこの先関ヶ原を越えて遠い東国へむかうという、覚悟を決める場所であったのかもしれません。
 小摺針峠を越えると、今度は摺針峠が待っています。峠としては小さなものですが、その頂上からは、琵琶湖や近江平野が一望できます。かつては望湖亭という大きな茶屋があり、中山道一の景観を誇ったということです。鳥居本へ下る途中には、人一人がやっと通れるような旧道が残されており、そこを下りました。最後は産廃処理場脇に出るというあまり好ましくないロケーションですが、まぎれもなくこれが旧道です。北国街道との分岐点を示す道標を過ぎると鳥居本宿。赤玉という薬が名物で、今も神教丸本舗が営業中です。実に立派な建物で驚きました。ほかには合羽を売る店が多かったということで、営業はしていないものの合羽の看板を掲げた家がありました。宿場に隣接する近江鉄道鳥居本駅に到着し、本日の行程は終了です。鳥井本駅駅舎は開業以来使われている腰折れ屋根のモダンなもので、鉄道遺産としても貴重な駅舎です。
 天気予報では、天気は下り坂で夕方には雨になるということでしたが、幸い雨に降られることはなく、計画通り歩みを進めることができました。今宵の宿は、中山道からは少し離れた琵琶湖畔。湖岸の絶景と温泉、近江の郷土料理、そして美味しい地酒に癒され、明日への活力を養うことができました。

柏原宿のすばらしい街並みと可愛い行列
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柏原宿に今も残る艾(もぐさ)屋の伊吹堂
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旧道は右という標識に従って行くとなんと通行止めになっていました。それはないよ!
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国道21号沿いの中山道です。
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水の流れが美しい醒ヶ井(さめがい)宿
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番場(ばんば)宿に入りました。
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番場宿を抜けたところで、ここが長谷川伸の名作『瞼の母』の主人公、(番場の)忠太郎の出身地であることを思い出し、ちょっとポーズを決めてみました。「たった一言、忠太郎と呼んでくだせえ、おっかさん」

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かつては琵琶湖を見下ろす絶景が広がっていたという摺針峠の頂上です。
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「赤玉」で有名な鳥居本宿に着きました。右側が神教丸本舗の建物です。
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昭和6年に建築された近江鉄道鳥居本駅の駅舎です。よく見るとなかなかお洒落です。
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<35日目、3月19日>鳥居本から近江商人の里へ

 昨夜来の雨が降り続いており、最悪の天気です。朝食バイキングをたっぷり食べ、覚悟を決めて出発しました。
 鳥居本駅を10時30分に出発。雨の中山道を粛々と進みました。まわりには水田が広がっており、豊かな近江平野のまっただ中を行く感じですが、雨に煙って眺望はよくありません。中山道は新幹線と並行しており、ひっきりなしに、高速列車が駆け抜けていきます。 小野小町塚の前を通り、昼前には芹川を渡りました。雨の日の方が、歩くことに集中するせいか歩行速度ははやいようです。近江鉄道の中仙道踏切(なぜかここも仙の字を使用)を渡ると間もなく高宮宿に入りました。雨の中で休める場所といえば、駅の待合室ぐらいしかないので、高宮駅に寄り、米原駅で購入した「湖北のおはなし」というおしゃれな弁当で昼食をとりました。
 高宮宿には、「うだつ」の上がった古い家が並び、風情があります。麻の布(高宮布)を扱っていたという「布惣」の家屋があり、円照寺という大きな寺には家康の腰掛石なるものが存在していましたた。高宮宿を出てすぐに渡る犬上川の橋は無賃橋といい、江戸時代の古い道標も残っています。
 葛籠(つづら)の松並木を過ぎ、30分ほど歩いたところが、伊藤忠・丸紅の創業者伊藤忠兵衛をはじめ、多くの実業家を輩出し近江商人の里として有名な豊郷です。「先人を偲ぶ館」という施設があったので、トイレ休憩も兼ねて見学しました。ほとんど訪れる人はいないようで、私たちが入ってから照明がつき、番をしていたおじさんは、「今日は館長がいないのでこれを見てください」と言いながらパンフレットを渡してくれまいた。その後は、テレビのドラマを夢中でみていて、こちらにはおかまいなし。道を急がねばならない当方としては、時間の節約にもなり、かえってよかったような気がしました。
 その施設のすぐ近くにある豊郷小学校の旧校舎は、当地出身の丸紅専務古川鉄治郎の寄付で建設されたものですが、とても小学校とは思えない大学並の立派な建物でおどろかされます。中山道の沿道には、丸紅関係者がつくったという「くれない園」があり、その中には伊藤忠兵衛の像を刻んだ大きな石碑が鎮座していました。その園の先には伊藤長兵衛生家の碑や、伊藤忠兵衛旧宅があり、さらに進んだところには、「あけぼの」缶詰につながる廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌の又十屋敷(豊会館)がありました。まさしく近江商人の里と称するにふさわしいところです。
 雨の中をなんとか歩き通して、愛知川(えちがわ)宿に到達しました。今回はここまでとし、近江鉄道愛知川駅から電車で米原へもどり、帰途につきました。

新幹線と並行する旧中山道です。昔の旅人には想像もできない光景でしょう。
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旧道沿いには、べんがら色の格子がついた家が多く、近江路らしい雰囲気が漂います。
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雨の高宮宿。こんな天気でなければ、間違いなく見応えのある街並みです。
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高宮布(麻布)を商っていた「布惣」の建物です。
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犬上川に架かる橋は、「無賃橋」とよばれ、江戸時代の道標も残っています。
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 とても小学校とは思えない豊郷小学校の旧校舎です。さすがは近江商人。故郷への錦の飾り方がすごいですね。
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中山道に面した「くれない園」。丸紅関係者がつくった公園です。近江商人の里らしいものが続々とあらわれます。
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雨の中を一日歩き続けて、なんとか愛知川(えちがわ)宿の入口まで到達しました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その27

2018/03/17 10:05
★いよいよ完結編スタート

<32日目、3月16日>美江寺駅から赤坂宿へ画像
 もう雪の心配も無さそうなので、3ヶ月ぶりに中山道歩きを再開しました。今回は3泊4日の予定で、関ヶ原を越えて近江をめざします。まずは前回の到達点である樽見鉄道の美江寺駅へ。13時49分に同駅に到着し、早速、目の前の中山道踏切から街道歩きをスタートしました。
 美江寺は、カギ型をした宿場で、規模はそれほど大きくありません。明治の濃尾大地震で1軒を除き全壊してしまったということで、古い建物はほとんど残っておらず、本陣も碑のみです。宿場を出ると、のどかな田園風景が広がり、犀川という小さな川の周辺には、特産の柿(富有柿)がたくさん植えられていました。柿が大好きなポン太にとっては、秋はきっとよだれの出るような景観になることでしょう。ちなみに、広重の「美江寺宿」はこのあたりで描かれたものだそうです。
 水田の中の一本道を進むと揖斐川の堤防が見えてきました。すでに菜の花が咲いており、季節が確実に春になったことを感じさせます。鷺田橋を渡ったところが呂久というかつての渡し場の跡。皇女和宮を記念した小簾(おず)紅園がありました。御座船で揖斐川を渡った際に、対岸の美しく紅葉しているもみじが目にとまり、その一枝を所望し、「おちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」という歌を詠んだといいます。15歳にして和宮は歌の達人ですね。
 平野井川という川を渡ったところで、道は輪中堤防の上へとむかいます。堤防上からみると、家屋の屋根がはるか下にあり、堤防で守られていなければ生活できない低地であることがよくわかります。 地形図によれば、集落のあるあたりは海抜8mほど、堤防上が15mです。堤防下の日当りのよい斜面には、気の早い桜が咲いており、今季初の花見となりました。
 のどかな雰囲気の旧道を歩くことおよそ2時間半で、養老鉄道の東赤坂駅に着きました。ここまでくれば赤坂宿はもうすぐです。前方には石灰山として有名な金生山が見えます。小さな水路を渡ると、きれいに修景された赤坂港跡があり、交通の要衝として繁栄した時代をしのばせます。金生山へ通じる西濃鉄道の線路を渡ったあたりが宿場の中心で、本陣跡は公園になっていました。本日の行程はここまでとし、JRの美濃赤坂駅へむかう脇道に入りましたが、その道沿いの建物の板壁のすばらしいこと。
 美濃赤坂駅は大正8年開業時の駅舎が健在で、ほとんど時が止まったような世界です。石灰石の搬出でにぎわった広い構内には、一台の貨車もおらず、線路だけのわびしい風景が広がっていました。

樽見鉄道の中山道踏切から、中山道歩きを再開しました。
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美江寺宿の中心部です。江戸時代からの建物は残っていませんが、旧街道らしい街並みです。
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呂久の小簾(おず)紅園前の中山道です。和宮はこの道を通って江戸へむかいました。
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輪中堤防下の中山道の碑です。「輪中」という独特の地形を旧中山道からも眺めることができました。
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交通の要衝だった赤坂港の跡。
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広重が描いた赤坂宿はこのあたりのようです。
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赤坂宿から美濃赤坂駅へ至る道沿いの風景です。板壁がみごとでした。
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黄昏の終着駅美濃赤坂。レトロな駅舎が健在です。
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<33日目、3月17日>関ヶ原を越え柏原宿へ
 今日はこの4日間の中山道歩きの中で、最も長い距離を歩く日です。大垣の宿から電車で美濃赤坂へとむかい、駅前を8時45分にスタートし中山道へ。東海道線の新垂井回りの別線下をくぐり抜けると、青墓という集落に入りました。「平清盛」のドラマにも出てきた白拍子(傀儡=くぐつ)の里として知られるところです。今は歌舞音曲どころか歩いている人もみかけないような静かな集落でした。このあたりが、かつては美濃の国の中心地だったということで、そのすぐ先に国分寺の跡があります。国分寺跡へ通じる道の入口近くに、当地の領主であった稲葉石見守の碑がありました。あまり知られてはいませんが、江戸城内で大老堀田正俊を刺殺した人物です。浅野内匠頭と異なり、周到に準備して本懐を遂げたということで、地元では評価が高いそうです。
 赤坂から2時間ほどで垂井宿の入口、大垣への道を分ける垂井追分に到着。暴れ川として知られていたという相川を渡れば垂井宿です。相川の河川敷には花がいっぱい植えられていて、背後の雪をいただく伊吹山の姿とあいまって、すばらしい眺めを楽しむことができました。土手には桜の並木もあるので、あと2週間もすれば、絶景となることは間違いありません。
 垂井宿にも桝形が残っていました。そこには脇本陣格だったという亀丸屋という旅館があり、今も営業を続けています。宿場の道沿いには旅籠屋や油屋だったという小林家住宅などの古い建物が残り、宿場町の名残がかなり感じられる宿場です。宿場の出口付近に、「あんま」と大書した、今ではめずらしい看板が出ていました。

白拍子の里として知られていた青墓集落の入口です。
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稲葉石見守の碑。このあたりがかつての美濃の中心でした。
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垂井宿で今も営業している脇本陣格の旅館亀丸屋。
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今ではちょっとめずらしい「あんま」の看板がありました
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 垂井宿を出て東海道線の踏切を渡ったところが垂井の一里塚です。そこには関ヶ原合戦の浅井幸長の陣跡という説明板があり、いよいよ関ヶ原合戦の舞台に足を踏み入れたことを実感しました。東海道線と国道21号との間にある旧中山道を進んで行くと、間もなく野上という集落に入りました。その集落の家並みは豪邸だらけといっても過言ではないほど立派なもので驚きました。しかし、かなりの家はすでに人が住んでいないようなので、この先どうなってしまうのか心配です。野上の集落のはずれには立派な松並木があり、そこからは並行する東海道線が眺められます。間もなく関ヶ原合戦の際の家康最初の陣地とされる桃配山の下に着きました。昼食場所を探したのですが、食堂の類はまったくありません。食べ物を売る店さえなく、腹ぺこのまま関ヶ原宿をめざしました。街道歩きには食料と飲み物が必携ということはわかっていたのですが、関ヶ原のような歴史的に有名な場所ならなんとかなるのではと甘く考えていたのが間違いでした。
 昼すぎに関ヶ原宿に着きました。宿場の中心部の中山道は、国道21号として使われているため、車が頻繁に行き交い、殺風景な宿場町となり果てていました。クマ肉、シシ肉入荷を知らせる看板を出している店はありましたが、営業している飲食店は見当たらず、地元の人に教えてもらった中山道から少し南へ入ったところにあるレストランで、ようやく昼食にありつくことができました。
 昼食後、いったん宿場の中心部にもどり、わずかに残る脇本陣門を確認。宿場を出たところに、西軍将兵の首を埋めたという「西首塚」があり、その参道には石田三成はじめ西軍の諸大名の旗が掲げられていました。ちょどその北側あたりが、関ヶ原合戦の開戦地で、そこはまた、壬申の乱の際も合戦場となったところということでした。国道21号と分かれて旧道に入ったところには、大海人皇子の兜掛石・沓脱石などというものが存在していました。その少し先が不破の関跡。壬申の乱の際には、その下の藤古川を挟んで両軍が対峙したそうです。国道21号を横切って進むと、西軍で最も勇敢に戦ったとされる大谷吉継の陣跡がありました。そのあたりは山中という地名ですが、その名のとおり、山に挟まれた狭い場所で、東海道線、旧中山道、新幹線、国道21号が全部束のように集まり、少し南側には名神高速道路も走っています。戦略的な要地であることは、素人目にもわかります。沿道には、この地で殺害されたという常盤御前の墓もありました。黒血川という小さな川を渡りましたが、壬申の乱の初戦が行われたところで、血で岩が黒く染まったのが地名の由来ということです。
 今須峠という小さなサミットを越え、今須宿へと下りました。今須宿は、宿場町の雰囲気は感じられますが、本陣、脇本陣は残っておらず、いずれも碑のみ。とりたてて見るものはなく、次の柏原宿へと歩を進めました。東海道線を渡りその北側を線路に並行して少し進んだところが、岐阜と滋賀の県境です。美濃近江両国の国境では、宿舎の壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので、そこは「寝物語の里」とよばれています。なんとも面白いネーミングです。ついに、美濃(岐阜県)を横断し、京に隣接する近江の国までやってきたのかと思うと嬉しさがこみ上げてきました。
 楓並木の道を進み、東海道線を渡ると間もなく柏原宿です。今日はここまでとし、柏原駅へとむかいました。宿にもどってゆっくり休み、明日はまたここからスタートです。

東海道線を横切り、いよいよ関ヶ原に足を踏み入れました。
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立派な家が多い野上の集落です。かつては、この道が名神高速道路と新幹線を足した以上の交通路だったわけですから、沿道の繁栄、富の蓄積は相当なものだったのでしょう。
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今も残る野上の松並木です。
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関ヶ原宿の現状です。中山道がそのまま国道になってしまったため、旧街道らしさという点ではいまひとつです。
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西軍将兵の首を埋めたという「西首塚」です。
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「不破の関」前の中山道です。この関所があった故に「関ヶ原」という地名が生まれ、ここから西が「関西」となるわけです。
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山中付近の旧中山道と東海道線。このあたりは、いくつもの新旧交通路が束のようになって走っています。
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美濃と近江の国境です。「寝物語の里」とよばれています。ついに岐阜県を横断し滋賀県に入りました。
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柏原駅と伊吹山です。新幹線からも良く見える伊吹山ですが、日本橋から歩いてその麓に到達することができたとは・・・。京の都まであとひとがんばりという気になりました。
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※ この道中記は、実際に中山道を歩いた時の様子を、回想して記しているものです。臨場感を高めるために、歩いた時期に合わせてアップしております。










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レトロな遊園地

2018/03/14 11:04
 ポン太が子供のころは、遊園地は娯楽の殿堂でしたから、休日にそこへ出かけると聞いただけで、もう心がウキウキしたものです。近年は、大規模なテーマパークに押されて、昔ながらの遊園地は衰退の一途といってよいでしょう。首都圏でも、かつては定番の施設だった電鉄系遊園地が次々と閉園してしまいました。
 そんな中、小規模ながら浅間山麓でがんばっている遊園地があります。懐古園に隣接した小諸市営の児童遊園地です。藤村の「小諸なる古城のほとり・・・」の詩で知られる懐古園の方は、昔ほどではないにせよ、観光客で賑わっていますが、隣地でありながら観光客の目を遠ざけるかのように存在しているのがこの遊園地。高冷地のため、冬場はお休みしていましたが、3月10日に営業を再開しました。
 先週末からポン太の家に孫がやってきていたので、連れて出かけました。入園料は無料で乗り物に乗る時だけ料金が必要です。乗り物料金は一回200円と廉価ですが、イベント開催日は500円ですべての乗り物が乗り放題になるそうですから、そんな日に出かければ、すこぶるお得です。遊具は、メリーゴーランド、豆汽車、コーヒーカップといった昔ながらのものが中心。以前は、デパートの屋上にもこんな感じの「遊園地」があったなぁ、と懐かしさを覚えながら孫を遊ばせたポン太でした。

懐古園入口にひっそりと立つ遊園地の看板
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まずは定番の豆汽車です。バッテリー駆動であるため、線路のほかに集電用の第三軌条のようなものはありません。平日は来場者が少なく、どの乗り物も貸切状態です。
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これまた定番のメリーゴーランドですが、予想していたよりも回転スピードが速いので驚きました。
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「ジェットスター」という乗り物ですが、自分で操作して上下させることができるので、子供たちの満足度は高いようです。
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自分でペダルを踏んで動かす「人力スカイレール」。これもどこかで見たような。
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これはもうレトロ中のレトロかもしれません。
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 <余談>古い写真を整理しておりましたら、見慣れない遊園地の写真が出てきました。撮影年は1962年か1963年だと思われるのですが、撮影地に関するメモがなく、どこで撮影されたものか、なかなか思いだせませんでした。しかし、巨大な人工芝(タワシ状)スキー場が写っていましたので、その当時、首都圏でそのような施設があったところはないか調べてみましたら、「船橋ヘルスセンター」であることがわかりました。「長生きしたけりゃちょっとおいで」のキャッチフレーズで一世を風靡したあの総合レジャー施設です。あまりに有名なので、一度は行ってみようかと家族で出かけたことを思い出しました。遊園地よりも、縁日のような雰囲気の屋内商店街の方が印象深く、それは良く覚えていたのですが、遊園地の様子は記憶から消えていました。「船橋ヘルスセンター」の営業期間は1955年〜1977年ですから、最盛期といってもよい時代に訪れたことになります。当時はまだ高かったカラーフィルムで撮影しており、貴重な記録といえるかもしれません。
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いつもうっとりする山の夕景

2018/03/11 12:02
 四方を山に囲まれた信州では、山を見ないで過ごす日はありません。山の景色ばかりで飽きてしまうのではないかと思われるかもしれませんが、同じ山でも、季節、天候、時間などによりその表情は変化しますから、見飽きるなどということはないのです。
 浅間山麓に住むポン太にとって、一番身近な山はもちろん浅間山。スーパーで買い物をして、外に出た時に、目に飛び込んでくる浅間山の大きさと美しさに感動し、「今日の浅間はいいね」などと口走ることがしばしばです。噴煙の上がり具合も気になり、「今日はおとなしいね」とか「ちょっと活性化しているかな」などといった会話を交わすこともあります。
 一日のうちで、山の表情の変化が一番大きいのは夕暮れ時です。夕陽に赤く染まったり、茜色の空にシルエットになって浮かぶ山の姿は、神々しいまでに美しく、思わず見とれてしまいます。浅間山麓からみて西の方角にあたるのが美ヶ原から北アルプスにかけての山々です。晩秋から春先にかけて、気温が低く空気が澄んだ日には、それらの山々がくっきりと見え、夕暮れ時のシルエットになった姿は息を飲むような美しさです。
 ポン太が見とれてしまった山々の夕景をいくつかご紹介しましょう。

まずは夕陽を浴びた浅間山から。
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薄暮の北アルプス。左側が穂高連峰、右端の突起が槍ヶ岳です。
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蓼科山の近くに日が沈むと、円錐形の山容が際立ちます。
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このような淡い感じの夕景もまた素敵です。
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北アルプス北部(後立山連峰)の鹿島槍ヶ岳(左側の双耳峰)と五竜岳(右)です。上空がグラデーションになっていたので、おもわずカメラをむけました。
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同じ北アルプスでも見る角度を少し変えると違う印象になります。手前のヘッドライトは、しなの鉄道の電車です。
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信濃追分駅物語〜浅間山麓の駅物語<その2>

2018/03/08 08:31
 浅間山麓の駅の中で、今回は信濃追分駅をとりあげてみたいと思います。中山道と北国街道の分岐点として栄えた追分宿ですが、明治21(1888)年に鉄道(当初の名称は直江津線、のちの信越本線)が開通した際に、駅が設けられることはありませんでした。
 寒村と化したこの地を救ったのは、避暑客の存在です。軽井沢の隣接地でありながら、湿気が少なくカラッとして爽やか、ハイソなニオイが鼻につく軽井沢とは異なる牧歌的な雰囲気が学者や文化人の好みに合い、この地で夏を過ごす人が増えていったのです。堀辰雄を始めとして、立原道造、福永武彦、加藤周一、佐多稲子、加賀乙彦など追分を愛した文化人が多いことはよく知られているとおりです。追分に最初に別荘を建てたのは、平井晴二郎鉄道院副総裁(当時)といわれており、明治41(1908)年のことでした 避暑客の行き来に供するため、明治42(1909)年6月25日追分仮停車場が設けられました。列車が停車するのは夏季のみ。その場所は、現在地より300mほど御代田寄りの切り通しの下で、片面ホーム1つだけの簡素なものでした。画像
 大正12(1923)年10月1日、ようやく本格的な駅が開業しましたが、それが現在の信濃追分駅です。この駅を一躍有名にしたのは、昭和26(1951)年の新東宝映画『高原の駅よさようなら』です。実際にこの映画を見たわけではない(年齢的に無理です)ので、本当のストーリーはよく知らないのですが、映画の宣伝文句に「再会を誓って別れた白衣の天使(香川京子)と若き植物学者(水島道太郎)の恋・・・」とあり、別れのシーンがこの映画のハイライトだったのではないかと想像されます。その場所が信濃追分駅というわけです。同名の歌がヒットし、今もユーチューブでその歌を聴くことできますが、興味深いのは、森昌子さんがカバーしている歌のバックに、信濃追分駅でロケした映画の映像が流れることです。D50形蒸気機関車牽引の上り列車が到着し、植物学者を乗せて発車して行きます。それに間一髪間に合って、窓越しに別れを惜しむヒロイン。なかなか見応えのある場面です。この映像により、70年ほど前の信濃追分駅はこのようであったのかと認識することができるのです。駅名板の次駅の表示が「くつかけ」となっていますが、同駅は映画の封切りから5年後の昭和31年に中軽井沢と改称されているので、それもまた貴重なショットといえましょう。。画像
 車両がSLから電車へ、砂利道だった駅前の道路は舗装道路へといった変化はあるものの、全体的な雰囲気という点では、信濃追分駅とその周辺は、今も70年前とあまり変わっていないように思います。こういう駅の存在に、おもわず頬がゆるむポン太でした。

 現在の信濃追分駅の駅舎です。この駅舎の建築年は不明ですが、もしかすると大正12年の開業時以来のものかもしれません。
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 ポン太が信濃追分駅で撮影した最も古い写真です。すでに信越線は電化されており、EF62形電気機関車が牽引する貨物列車がホームに停車しています。右の方に引き込み線(現存していません)のようなものが見えますが、農産物もしくは木材の積み込み用だったのでしょうか。<1966年12月28日撮影>
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 上の写真と同じ場所で撮影した現在の様子です。しなの鉄道の電車は2〜3両編成ですから、信越本線だった時代の名残をとどめるホームがやたらに長く見えます。
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 「高原の駅よさようなら」にもこれと同じアングルで撮影された場面が登場します。上りホームに入ってきた電車を蒸気機関車に、右側の坂道を砂利道に置き換えれば、ほとんど同じ風景となります。その坂道をヒロインを乗せた馬が勢いよく駆け下りてきます。
 
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 信濃追分駅の少し御代田寄りに、雄大な浅間山を間近に望むすばらしい景観の場所があります。その景観は今も変わらず、しなの鉄道の乗客の目を楽しませています。電車を撮影するのにも絶好の場所です。<2016年1月26日撮影>
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 信濃追分の大カーブは、かつては蒸気機関車撮影の名所として知られていたようです。残念ながら、その時代にポン太はこの地を訪れることができませんでした。しかし、その後1回だけ、蒸気機関車撮影のチャンスが訪れました。新幹線の開業に伴い在来線(信越線)がJRから分離されるのを前に、名残りを惜しむイベントとして、D51498牽引の「浅間山」号が運転されたのです。これを逃してはなるものかと、撮影にでかけ、見事ものにした(と自分で悦に入っている)のがこの1枚です。25‰という急勾配が連続する区間ですから、蒸気の吐き出す煙は迫力満点でした。<1996年11月3日撮影>
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霧氷と雨氷

2018/03/04 16:29
 昨日の朝、国道に設置されている温度計に、0度という表示がでていました。冬の間は、ずっと氷点下の数字が続いていましたので、朝の通勤時間帯にここまで気温が上がるのは久しぶりです。浅間山麓にも確実に春がやってきていることを実感しました。
 冬から春へ移り変わるこの時期に、もしかすると見られるかもしれないと期待しているのが雨氷(うひょう)です。雨氷というのは、雨水が木の枝にたっぷりついた状態で気温が下がり、それが凍って木の枝が氷でコーティングされたような姿になったものです。アイスキャンディーが森を埋め尽くしているような、なんとも不思議な景観ですが、めったに見ることはできず、実はポン太も1度しか見たことがありません。
 空気中の水蒸気が氷の結晶となって樹木に付着してできる霧氷であれば、厳冬期に何度か目にすることはできます。しかし、雨氷の場合は、降るのが雪ではなく雨であり、かつ気温が氷点下に下がるという微妙な条件下でしかあらわれませんから、大変貴重なわけです。果たして今年は見ることができるのか。次に寒さがもどった際が、ラストチャンスかもしれません。もし見られれば、ウヒョウテンいや有頂天になりそうなポン太です。

 これは霧氷です。
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 こちらが雨氷です。
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 ポン太の森が雨氷の森になった8年前の風景です。
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 いつもの平尾山からみた浅間山です。このところの暖かさで、雪がだいぶ少なくなりました。
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 北アルプス(穂高連峰)も真冬のようにすっきりとは見えず、霞んでいました。
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お雛さまづくしの北国街道

2018/03/01 09:44
 まもなくやってくる桃の節句。ポン太の家でも、娘たちが子供のころは、お雛さまを飾り、「あかりをつけましょ ぼんぼりに〜」などと歌っていたものですが、このところすっかりご無沙汰。お雛さまは箱の中に20年間蟄居したままです。同様のご家庭も多いのではないでしょうか。最近は、家庭で飾られなくなったお雛さまを、町おこしに活用しようというところが増えてきているように思われます。小諸でもそのようなイベントをやっていると聞き、出かけてみました。イベントのタイトルは「北国街道小諸宿のお人形さんめぐり」(2/17〜3/4開催)です。
 小諸は城下町ですが、北国街道の宿場町でもあり、この地域随一の商都として繁栄した歴史を刻んできた町です。ところが、近年は、新幹線のルートからはずれたこともあり、すっかり活気を失った感があります。このイベントは、そうした状況を改善しようという意図で始められたものでしょう。パンフレットに第14回とありましたので、すっかり定着し、年中行事化したイベントといえそうです。
 レトロな家並みが続く本町を歩くと、各商店のウィンドに大小様々なお雛さまが飾られいました。店頭だけでなく家の奥にもお雛さまを飾り、外から見えるようにしている家もあり、なんとなく華やいだ気分になります。メイン会場である「ほんまち町屋館」の中には、江戸期から現代にいたる大量の雛人形が並べられていました。頭上にもおびただしい数のつるし雛が飾られており、予想以上の見応えがありました。
 華やかで、春の訪れを感じさせるイベントであることは間違いありませんが、残念だったのは人の少なさ。「ほんまち町屋館」の中にはかなりの見物客がいましたが、通りは人影もまばらで、寂しい感じは否めません。町おこしには、何かもう一押しが欲しい。そんな気持ちを抱いたポン太でした。

 小諸市内を貫く北国街道です。「お人形さんめぐり」ののぼりが掲げられています。正面のお寺は、藤村の作品にも登場する光岳寺です。
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 英語教室の中にもお雛さまが鎮座していました。
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 店内に飾られたお雛さま。通りからも眺めることができます。
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 メイン会場である「ほんまち町屋館」(左側)前の本町通りです。このあたりが北国街道小諸宿の中心でした。
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 「ほんまち町屋館」内に飾られていた江戸時代(享保)のお雛さまとつるし雛です。
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 同館に大集合した雛人形。数は力なりというわけではありませんが、迫力があります。
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 二階にもお雛さま。こちらは昭和のお雛さまが中心です。
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 つるし雛の下に、荷物運搬用トロッコのレールが見えますが、ここが昔は味噌醤油の醸造所だった名残です。
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 小諸駅前のメインストリート、相生町です。人影がほとんどなく、寂しい風景が広がっていました。小諸市民ならずとも、賑わいが戻るように願いたいものです。
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カーリングの聖地

2018/02/26 17:56
 「そだねー」の大活躍で、人気急上昇のカーリング。 実は、ポン太はカーリングにはちょっとした思い出があり、今回の快挙を大変喜んでおります。
 カーリングとの出会いは20年前の長野オリンピックです。冬の競技にさほど関心があったわけではなく、わざわざ寒い思いをして見に行くことはないと当初は思ったのですが、子供たちにとっては国内でオリンピックを見る最初で最後のチャンスになるかもしれないと思い直し、連れていくことにしました。ところが、チケット販売開始からだいぶ時間が経過していたこともあり、高額なものを除けば、入手可能なチケットはカーリングのみ。それだけ人気がなく売れ残っていたわけです。長野オリンピックで初めて正式競技として採用された競技で、ほとんど馴染みがないわけですから当然かもしれません。
 ルールもろくに知らぬままに、軽井沢の競技場へとでかけました。端の方にある円(ハウスという呼び名も知りませんでした)の中心に近いところに、ストーンを残せば勝ちということだけはわかりましたが、試合中、どっちが優勢なのかよくわかりませんでした。しかし、得点を重ねる強豪チームの戦いぶりをみているうちに、ただ単に円の中に上手に投げ入れればよいというわけではなく、相手とのかけひき、先の先を読む知力が必要なものだとわかりました。経験の浅い日本チームがメダルをとるのは容易ではなさそうだと感じたのですが、あれから20年後にメダルに手が届くとは・・・。
 競技を見た後、近くのレストランに行ったところ、外国の選手たちも食事をしていて、オリンピックが身近に感じられました。また結氷した池には、カーリング体験コーナーが設けられていて、ポン太も子供たちと一緒にチャレンジしてみましたが、ストーンをコントロールすることの難しさは想像以上でした。
 「そだねー」の女子は北見のチームですが、ピョンチャンオリンピックに出場した男子は軽井沢のチームです。カーリング専用施設は全国に僅か11箇所しかないということですから、練習や試合をする場所は限られます。11箇所の内訳は北海道が8箇所、青森に1箇所、残りの2箇所は浅間山麓の軽井沢と御代田です。ということは、この競技に関しては、これからも、北海道vs浅間山麓という形での切磋琢磨が続いていくことになりそうです。
 本州におけるカーリングの聖地と呼んでもおかしくない浅間山麓。追分の泉洞寺には、カーリング地蔵尊まで存在していますので、カーリングに興味が湧いた方はぜひどうぞ。
  
 軽井沢の施設と比べると見栄えはしませんが、隣の御代田町にもカーリング場があります。ここから世界で活躍する選手がでるかもしれません。
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 1998年の長野オリンピック、カーリング競技の様子です
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 観客席も小さく、オリンピックとは思えないアットホームな雰囲気でした。
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 その時のチケットがこれです。かなり安かったような気がしていたのですが、入場料金は2100円と記載されています。他の競技はこんな値段ではなかったのでしょうね。
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 初めてのカーリング体験。ストーンを前に投げるだけでも大変で、誰もが転倒します。
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若い人の方が慣れるのがはやく、形だけは様になりますが、ストーンのコントロールは至難です。
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 軽井沢町追分の泉洞寺にあるカーリング地蔵尊です。カーリングの漢字表記は定まっていないということですが、ここでは「氷環」としています。その下に「慈石」がついているところが、お寺っぽいですね。ちなみに中国語でカーリングは「冰壷」です。ハウスを(ものを入れる)壺に見立てているのでしょうか。
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オリンピックの陰で

2018/02/24 10:47
  メダルラッシュに沸くピョンチャンオリンピック。選手たちの活躍はもちろん歓迎すべきことであり、それに水を差すわけではありませんが、オリンピックのような大きなイベントには、必ず陰の部分があるものです。新しいものをつくらなければならない、何もかも立派に整備しなければならないというベクトルが強く働き、それに便乗したものも含め、スクラップ&ビルドが激しく進行します。その結果、歴史的建造物や優れた景観が失われてしまうようなケースが少なくありません。1964年の東京オリンピックに際して首都高速道路が建設され、江戸以来の東京のシンボルであった日本橋の景観が、あのような惨めなものになってしまったのをご存知の方は多いと思います。
 都市の発展を否定するわけではありません。新しいものも必要です。しかし、それと同時に、都市の歩みを物語ってくれる建造物や景観には最大限の配慮をする、という姿勢が大切ではないかと思うのです。あれが残っていればなぁ、という思いをすることが多い古ダヌキのポン太としては、オリンピックのような大イベントには警戒心をもたざるをえません。
 20年前、長野で冬季オリンピックが開催されました。それを機に高速道路や新幹線が建設され、その恩恵に浴しているポン太ではありますが、長野駅の仏閣型駅舎や碓氷峠の鉄路が失われたことについては、今でも残念だと思っています。
 2020年の東京オリンピックでは何が生まれ何が失われるのか。後者が気になるポン太ですが、1964年の東京オリンピックのメイン会場となり、中学生だったポン太も観戦した国立競技場はすでに取り壊され、新たな施設が建設中です。アジアで最初のオリンピック開催施設という歴史的価値や高度成長期のシンボル的建築物であったことなどを考えると、壊さずに活用する道はなかったのかと思います。キャパシティー云々という話もありますが、極度に肥大化し、開催都市が特定の大国に限定されてしまうような、今のオリンピックのあり方こそ問題にすべきではないかと思うポン太です。
 余談ですが、次の冬季大会が開かれる北京は、史上初の夏冬両方のオリンピック開催地になるといわれています。しかし、軽井沢では、総合馬術競技(1964年の東京オリンピック)とカーリング競技(1998の長野オリンピック)が行われていますから、史上初の夏冬オリンピック競技開催地は軽井沢ということになるのではないでしょうか。

 なつかしの長野駅。善光寺を有する仏都の玄関にふさわしい仏閣型の駅舎で知られていました。この駅舎は、1936年に建築されたもので、60年以上市民や観光客に親しまれていました。駅前広場のシンボルだった如是姫の像は、現駅舎の前に健在です。<1966年3月30日撮影>
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 現在の長野駅です。和のテイストは感じますが、あの仏閣型駅舎ほどのインパクトはありません。如是姫も台座が低くなり、存在に気づかない人が多いようです。
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 オリンピックとは直接関係ありませんが、長野駅舎の写真を探していた時に出てきた地上線時代の長野電鉄長野駅付近の写真です。1981年3月1日に長野駅から善光寺下駅先までの区間が地下化され、市街地の景観も変わりました。<1974年7月27日撮影>
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 大きな上屋で覆われていた地上線時代の権堂駅です。<1976年8月24日撮影>
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 急勾配区間専用の電気機関車(EF63)を連結して碓氷峠を登る特急「あさま23号」です。新幹線の開業とともにこの鉄路は消えてしまいました。京都の嵯峨野観光鉄道のように、観光鉄道として残す方法はなかったのでしょうか。今も復活の望みを捨てていないポン太ですが・・・。<1992年8月10日、熊ノ平駅跡付近にて撮影>
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 横川駅に到着した列車を、お辞儀をしてむかえる駅弁販売員。「峠の釜めし」だけでなく、この風景もまた横川駅の名物でした。
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 列車が着くたびに、「峠の釜めし」を買い求める大勢の乗客たちで、横川駅のホームは賑わっていました。<1997年9月22日撮影>
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 1964年の東京オリンピック開催時の国立競技場です。聖火台に点されたオレンジ色の炎が印象的でした。集団観戦する中学生の一団の中にポン太もおります。すでにこの施設も取り壊されてしまい、残るは思い出のみというのも寂しいですね。
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 ちょうど男子200mの表彰式が行われていました。星条旗が2つ揚がっていますが、金メダルはアメリカのヘンリー・カー、銀もアメリカ、銅はトリニダード・トバゴ(右端の旗がそうです)の選手でした。
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 2020年のオリンピックにむけて、山手線原宿駅も大改造されるという話ですが、大正生まれのあのすばらしい木造駅舎はどうなるのでしょうか。まさか解体しておしまいということにはならないでしょうねJRさん。
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浅間山麓のコーヒーはなぜ美味しい

2018/02/19 21:13
 浅間山麓で飲むコーヒーは本当に美味しいと思います。ところが、同じ豆でも、東京で入れたコーヒーは、しまりのない味になってしまいがっかりすることがしばしばでした。その反対に、かなり高級な茶葉でも、浅間山麓で飲むお茶は美味しく感じません。どうしてなのかと不思議に思っていたのですが、その理由がわかりました。それは水のせいなのです。
 浅間水系の水は、大量のミネラル分(カルシウムやマグネシウム)を含む硬水で、硬度が150〜200mg/lもあり、これはヨーロッパの諸都市と同じレベルだそうです。ポン太の家の水道の蛇口やシンクに、いつのまにか白い結晶のようなものがこびりついており、何だろうかと最初は驚きましたが、カルシウムの結晶でした。日本の水は圧倒的に軟水が多いので、浅間山麓は日本では稀な硬水地域といってよいでしょう。
 硬水はコーヒーの味を引き立たせてくれる有り難い存在です。しかし、お茶にはむきませんし、旨味が抽出されにくいので、ダシもとりにくく、和風料理には不適です。そのかわり、肉の旨味を閉じ込めてくれるので、シチューなどには最適です。要するに、浅間山麓の水は、コーヒーや洋風料理に適しているわけです。軽井沢が避暑地として西洋人に好まれたのは、冷涼な気候だけでなく、水も関係していたのではないでしょうか。そんな文脈で考えると、軽井沢周辺にフレンチなどの洋食系レストランが多いというのもうなずけます。
 もうひとつ水が深く関係するものに酒造りがあります。中硬水(硬度60〜120mg/l)は、辛口の酒造りに適するといわれ、灘の「宮水」がそれに該当しますが、浅間水系のような硬水は清酒の醸造には不適です。しかし、ビールにはむいています。特に濃い色をしたエール系のビールには最もふさわしいとされ、浅間山麓には、クラフトビール(地ビール)の有力な醸造所が3つあります。各社の製品の中で、ピカイチはやはり芳醇なエールビールです。
 面白いのは、佐久平です。信州を代表する酒所といわれ、小海線の沿線には数多くの造り酒屋がありますが、そこの水はどうなっているのでしょうか。浅間山からそれほど離れているわけではないのに、八ヶ岳水系の水は、なんと硬度20〜60mg/lの軟水なのです。灘の「男酒」に対して、そのまろやかさから「女酒」と称せられるのが伏見ですが、湧水の硬度は40mg/l前後で、八ヶ岳水系とほぼ同じ。佐久が酒所になったのは、やはりよい水に恵まれていたからです。
 まさに、水は文化の母ですね。今日も美味しいコーヒーを味わいながら、ブログの文案を練っているポン太でした。

 浅間山麓の森の中はカフェだらけ、といっては言い過ぎかもしれませんが、このようなカフェがたくさんあります。もっとも、カフェに行かなくても家の水道水で美味しいコーヒーを入れることができるので、ポン太が実際に利用したカフェはそう多くはありません。
 
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浅間山麓のコーヒーのブランドといえば軽井沢の丸山珈琲が有名です.。ここは焙煎施設もある丸山珈琲の小諸店です。豆を購入するために立ち寄ったところ、高級な?コーヒーを試飲させていただくことができました。帰りがけには、どうぞお持ち帰り下さいとカフェラテのサービスもあり、ちょっと得をした気分になりました。ちなみに、2017年のJBrC(ジャパンブリュワーズカップ)で優勝したバリスタは、ここ小諸店の店員さんです。
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 こちらは、中山道小田井宿の近くにあるヤッホーブルーイングのビール工場です。主力ブランドの「よなよなエール」は全国的にも人気があるそうで、いまやクラフトビール界の最大手とか。
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 浅間山麓の最強コンビかもしれない、丸山珈琲と「よなよなエール」です。
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 浅間連峰湯ノ丸山の麓の東御市には、「オラホビール」という面白い名前のクラフトビール醸造所があり、隣接した直営レストランでは、できたての美味しいビールを味わうことができます。ポン太の一押しは「アンバーエール」です。
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 同じ浅間山麓でも、小諸市内には、軟水が湧出しているところがあります。ここは弁天清水といい、お茶や和食の汁物に最適なので、ポン太も時々汲みに行きます。
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 軟水エリアの小海線沿線には酒蔵が多いのですが、列車の後に見えるのは、佐久穂町(旧八千穂村)の黒澤酒造です。黒澤家は佐久鉄道(現小海線)と関わりが深く、国有化前の佐久鉄道最後の社長は黒澤陸之助氏でした。また同家の黒澤鷹次郎氏は、長野県のメインバンクである八十二銀行のルーツ、第十九銀行の創業者として知られています。
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 佐久鉄道開業100周年・小海線全通80周年記念で売り出されたお酒です。ポン太も美味しくいただきました。
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御代田駅物語

2018/02/16 18:22
 今年は、しなの鉄道の路線(かつての信越本線←直江津線)が全通して、130周年をむかえます。そこで、浅間山麓の鉄道の歴史について熱く語りたいと思うポン太ですが、その第一弾として、御代田駅をとりあげることにします。
 まず注目すべきはその古さです。御代田駅は、明治21(1888)年12月1日、直江津線(のちの信越本線)上田〜軽井沢間開通と同時に開業しています。沓掛(現中軽井沢)、信濃追分、平原の各駅は後年の開業ですから、軽井沢、小諸と並んで、浅間山麓では最も古く、全国的にみても古い駅の1つということができます。御代田駅開業時点では、東海道線ですらまだ全通はしていません。これほど早く鉄道の恩恵に浴することができたのは、当初、東西両京を結ぶ幹線鉄道が、中山道ルートで建設され、直江津線はその資材運搬のために必要な路線とみなされたからです。
 『官報』(明治21年11月29日付)の「廣告」欄に、運輸開始にあたっての賃金(運賃)と列車時刻が掲載されていますが、御代田という駅名の下に「中山道」という添え書きがあります。中山道とのクロス地点であることを考慮してこの地に駅が設けられたのではないか、そんなことがうかがえる表記です。確かに、御代田で下車し、中山道をたどれば、岩村田をはじめ現在の佐久市域の主要な集落へ容易に到達できますから、御代田駅は佐久の玄関口にふさわしい、必要性の高い駅であったわけです。ちなみに、開業時に設定された列車は、上下僅かに3本ずつでした。
 佐久地域を南北に貫く小海線(旧佐久鉄道)は、小諸で分岐していますが、そのルーツである東信軽便鉄道が、大正2(1913)年に免許を取得した際の路線は、小諸〜小海、御代田〜岩村田、岩村田〜中津となっており、御代田がもう1つの分岐駅となる可能性もありました。免許取得後まもなく、佐久鉄道の路線は小諸〜中込間に変更され、実現はしませんでしたが、そんな話にも、御代田が佐久平のゲートと意識されていたことを感じます。
 佐久平を周遊するために、御代田駅を利用した著名人も少なくありません。例えば、若山牧水は、「(大正11年の)10月14日夜8時信州北佐久郡御代田駅に汽車を降りた」と『みなかみ紀行』に記していますし、昭和11年5月14日には、種田山頭火が御代田駅に降り立ち、浅間山や佐久の風物を題材に、いくつも句を残しています。
 御代田駅のもう一つの注目点は、スイッチバックを採用した長野県内で最初の駅であったことです。このあたりは25‰(1000m進むと25mの高度差が生じる)という急勾配が連続しており、そこにホームを設けた場合、蒸気機関車のパワーでは、一旦停車すると、引き出せなくなってしまう恐れがあります。また貨物の取扱をする上でも、駅の部分はできるだけフラットにする必要があり、スイッチバックを採用したわけです。電気機関車や電車であれば、勾配区間にホームを設けても支障がないことから、電化(1963年)、複線化(1968年)後、スイッチバックを解消するため、駅を移設することになり、1971年4月26日に新駅(現在の御代田駅)が開業しました。その際に貨物の取扱はなくなり、旅客駅化されています。スイッチバック時代の旧駅構内は、町営駐車場などに転用されていますが、今でもその名残を感じることができます。懐かしいスイッチバック時代の御代田駅と現在の状況を、写真でご紹介することにしましょう。

まずはスイッチバック時代の駅舎と駅前風景です。駅舎は、現在の駅とは逆に、北側(浅間山の側)をむいていて、駅前には千曲バスの営業所がありました。1962年(昭和37年)の夏に撮影したものです。
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上の二枚の写真と同じ場所の現在の様子です。千曲バス御代田営業所の跡地は更地になっていますが、隣の商店だった家の前には現在も自動販売機が置かれています。

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 駅前にあった観光案内板の一部です。右側が軽井沢方面、左側が小諸方面で、御代田駅がスイッチバックの形に描かれています。

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画質が悪く、ブレてもいて恐縮ですが、御代田駅のホームの様子がわかる写真です。跨線橋はなく、ホームの端の階段を降り、線路を横断して、駅舎のあるホームと行き来していました。D50形蒸気機関車牽引の上り貨物列車が写っていますが、すでに電化が完成して二ヶ月ほど経ったころの写真です。<1963年(昭和38)年8月8日撮影>
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 上り列車の場合、一旦スイッチバック線に入った後、バックで駅へ進入します。客扱いが終わり駅を出発すると、本線に入って信濃追分方向へ進んで行きます。下り列車はその逆の動きをするわけです。以下の4枚の写真は、上り上野行326列車が御代田駅に到着し出発していく様子を撮影したものです。<1966年12月26日撮影>

 326列車がやってきました。このあと進行方向右手(画面では左端)のスイッチバック線へと入っていきます。画面の右手奥が御代田駅です。
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スイッチバック線(手前)からバックで御代田駅に進入する326列車です。
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客扱いを終え、御代田駅を出発して信濃追分へとむかう326列車です。
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信濃追分へと去って行く326列車です。右側がスイッチバック線です。
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御代田駅のスイッチバックは、通過可能なスタイルでしたので、優等列車は駅にもスイッチバック線にも入らず通過していきました。これは、この年の10月に運転開始したばかりの電車特急下り「第1あさま」(181系電車)が通過して行く様子です。<1966年12月26日撮影>
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スイッチバック線があった場所の現状です。線路の一部が残っており、往時の姿をとどめています。
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326列車が折り返していたクロッシングのあった場所の現状です。中山道の踏切も撤去され地下道(人と自転車用)化されました。
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かつての御代田駅への進入路(右側)は雑草に覆われています。左手に見えているホームは、現在の御代田駅です。
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新駅に移転して4ヶ月後の御代田駅です。<1971年8月21日撮影>
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同じ日の旧駅の様子です。線路は撤去されたものの、ホームや待合室は残っていました。<1971年8月21日撮影>
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浅間山を背にした現在の御代田駅です。
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旧駅の構内は、町営駐車場になっています。
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旧駅跡に運び込まれて保存されることになったD51787です。<1971年8月21日撮影>
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D51787が保存された場所の現状です。レールは撤去されましたが、かつての面影は残っています。
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ホームの煉瓦積みも一部残っています。
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ダルマ市で賑わった初午祭〜鼻面稲荷神社

2018/02/12 23:27
 浅間山麓を代表するお稲荷さんといえば、佐久市の岩村田地区にある鼻面稲荷(はなづらいなり)神社です。五大稲荷の1つともいわれており、湯川(軽井沢の白糸の滝や千ヶ滝から流れてくる千曲川の支流)の絶壁の上に建つ懸崖づくりの社殿は、見応えがあります。
 昨日は同神社の初午祭があり、物見高いポン太も出かけてみました。神社の周辺は、いつもは人の気配が感じられないほど静かなところですが、この日はまったく違っていました。市街地から神社へむかう参道(といってもごく普通の住宅街の中の道です)には、食べ物や縁起物を売る露店が並び、人の波が途切れることはありません。境内に入ると、おびただしい数のダルマ、またダルマです。それを買い求める参詣客の数も尋常ではありません。
 以前、この祭の存在を知らずに岩村田の市街地を車で通った際に、ダルマをぶら下げた人が次から次へと歩いてくるので、何だこれは、と驚いた記憶があります。それだけ、初午祭のダルマ市は人気があり、ダルマを買う人が多いのです。
 飛ぶように売れていくダルマですが、その一方では、お役御免となって廃棄されるダルマもあります。湯川の河原で、古くなったダルマを燃やす「奉焼祭」があると聞き、そちらも見物することにしました。あたりが薄暗くなるころ、キツネの面をつけ、提灯を手にした子供たちが集まってきました。ちょっと不気味でもありますが、その子供たち(の一部)が、火付け係となり、積み上げられたダルマを燃やすのです。燃え上がる炎とライトアップによって浮かび上がった社殿、水面にゆらめく明かり。なんとも幻想的な風景に、寒いのを忘れて見入ってしまったポン太でした。

 湯川の清流を見下ろす、懸崖づくりの鼻面稲荷神社です。
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 露店が並んだ参道です。
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 ここからが神社の境内ですが、人が溢れています。
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 このダルマどうかね
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 ダルマさんがならんだ
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 鼻面稲荷の本殿です。
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 中に入るとお参りの順番を待つ行列ができていました。
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 お参りを終え、ダルマを買ったら、鳥居をくぐって帰途へ。
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 あたりが暗くなり「奉焼祭」が始まりました。まずは神官による神事です。
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 子狐たちが登場しました。
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 いよいよ点火です。
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 燃えろ燃えろ
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 燃えさかる炎に呼応して打ち上げられた花火。祭のクライマックスです。
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 少し離れて眺めてみると、こんな幻想的な風景でした。
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鹿教湯温泉探訪

2018/02/10 23:21
 「あそこは中気の湯だ」という亡父の言葉を聞いたのは、ポン太が子供のころのことです。その意味がわからず、よほど変わった温泉なのかなと思ったのを覚えています。中気という言葉は、今では死語に近いかと思いますが、脳血管障害の後遺症を意味します。その快復に卓効のある温泉、リハビリの名湯だと言いたかったのでしょう。
 ふいにそんな亡父の言葉を思い出したポン太ですが、その温泉には1度も行ったことがありません。旅館のコマーシャルをテレビで見て、ほかの温泉とどれほどの違いがあるのか、確かめたくなってしまいました。予約を入れるとすんなりOKでしたので、出かけてみたというわけです。
 その温泉の名は鹿教湯(かけゆ)。上田と松本の中間に位置し、開湯は1200年以上前といわれる古い温泉場です。信心深い猟師に、鹿(実は文殊菩薩の化身)がその場所を教えたという伝説があり、それが地名の由来とされます。
 温泉の効能書きを見ると、高血圧症、動脈硬化症、脳卒中の後遺症等と記されています。なるほど、「中気の湯」であることに間違いはなさそうです。温泉街は予想していたよりも大きく、大小の旅館、ホテルが立ち並んでいましたが、その中心にあったのが、鹿教湯病院の建物。リハビリテーション専門の病床をもつ大きな病院で、この温泉の歴史と性格を如実に示してくれる存在といえそうです。
 レトロな感じのする温泉街を歩くと、いたるところに道標があり、その表示が距離ではなく、歩数で示されていることに興味をもちました。リハビリ中の人にとっては、歩く目安となり、励みにもなるわけです。
 内村川沿いの外湯(現在は共同浴場「文殊の湯」)へは湯坂という坂を下って行きます。その先の内村川に架かる高台橋を渡り、少し登ったところに文殊堂と薬師堂があり、それらをめぐる遊歩道も整備されています。温泉で身体をほぐし、適度なアップダウンのある気持ちのよい道を歩くことで、身体機能を回復させる。リハビリという言葉さえなかった時代の知恵が感じられました。
 高台橋は、珍しい屋根付きの橋で趣があります。遊歩道は除雪されていたので、今の季節でも難なく歩くことができました。随所にベンチが置かれているなど、確かにここは人にやさしい温泉場だと実感しました。やさしいといえば、お湯そのものも無色透明かつ無臭でクセがなく、やさしくやわらかな感じがします。湯治のおかげで、帰るころには杖に頼らなくてもよくなるので「杖要らずの湯」と称された由。確かに身体に良さそうな湯です。
 いざとなったらここで療養するか。そんなことを言いましたら、「冗談じゃない」とポン子に叱られてしまいました。転ばぬ先の杖、体調管理を心がけ、時折このような温泉でのんびり、やはりそれが一番ですね。

 山々に囲まれた鹿教湯温泉の全景です
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 温泉街の中心、温泉の守り神「温泉祖神」前の通りは、レトロな雰囲気です。
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 温泉のメインストリートを行くバス。バス停前に「鹿教湯病院」の大きな看板が見えます。
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 旧源泉に通じる湯坂の入口。老舗旅館が並んでいますが、看板に「内湯開祖」とあり、歴史を感じさせます。
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 屋根のある五台橋。前方の階段の上が薬師堂です。階段を迂回する遊歩道もあります。
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 距離ではなく歩数を示した道標。
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 文殊堂へと続く遊歩道です。
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 病気平癒の仏様、薬師如来が安置されている薬師堂です。治癒を感謝してたくさんのぞうりや草鞋が奉納されていたそうですが、改修工事中のため、今はありません。
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 薬師堂の裏には家族の健康や幸せを願うたくさんの地蔵が並んでいました。
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 温度計は氷点下1度を示していましたが、遊歩道を歩いていると寒くは感じません。
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 遊歩道には、紅葉橋という吊り橋もあります。その名のとおり、秋にはすばらしい景色が楽しめそうです。
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反骨の信州

2018/02/06 10:36
 青木村は上田市の西方に位置する人口四千ほどの小さな村です。村の入口に「義民の里」と大書した標柱が立っていることに興味を感じたポン太は、村の歴史文化資料館を訪ねてみました。画像
 一般的な郷土資料館と異なり、ここの目玉は、「義民」と「栗林一石路」に関する展示です。なぜ義民の展示が主なのかといえば、この地から、何度も一揆が起こり、リーダーとして死地に赴いた農民、すなわち「義民」を数多く生んだ土地柄であるからです。展示されていたパネルを読み進むにつれ、村人の窮状を救わんと立ち上がった彼等の崇高な精神に胸を打たれました。
 最も大規模な宝暦の一揆では、領内の農民一万数千が一斉に上田城下に押し出し、農民側の要求をほぼ認めさせるということで決着しましたが、「発頭人」として夫神村組頭の浅之丞と百姓半平が死罪となりました。彼等のような義民を顕彰し、その精神を受け継いでいこうというのがこの村の基本姿勢なのです。顕彰活動の一環として「義民太鼓」がつくられ、イベントなどで演奏されるということですが、「圧政に抗して立ち上がった農民が最後の手段として生きる権利を主張し、竹に挟んだ訴状を掲げ、訴状を掲げた男が倒れると次の者が、力尽きると又他の者が、仲間の屍を乗り越えていく」といった説明文を読んだだけで、ポン太などはもうウルウルしてしまいます。

 これが青木村歴史文化資料館です。隣接する図書館から入館できます。入館料は無料です。
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 義民資料展示室の中です。
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 一揆の首謀者が斬首される場面を描いた絵です。
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 これは明治2年に勃発した「世直し一揆」の際に、農民と役人が交わした議定書の展示です。村役人は入れ札(選挙)によるとの記載があり、農民たちの要求の一端がうかがい知れます。

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 宝暦の義民半平の墓です。「いさぎよく散るや此世の花ふぶき」という辞世の句を残したそうです。
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 宝暦の義民の墓の近くに建立された義民追悼句碑です。「信に開き義に散る花や蓮二輪」と刻まれています。
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 もう一方の「栗林一石路」に関する展示ですが、一石路は村出身の自由律俳句の俳人です。といってもただの俳人ではなく、同盟通信(戦後、共同通信と時事通信に分離)の社会部長を務めたジャーナリストでもあり、戦争へとむかう時代と向き合い、抗った人物です。治安維持法により検挙され投獄されてもいます。「大砲が巨きな口をあけて俺に向いている初刷」といった反戦句や、ふるさとを慈しむ句を数多く残しています。義民とともに、こういう気骨のある人物を顕彰していることに、感銘を受けました。
 青木村に限らず、権力に抗った人物を顕彰したり、記憶に留めようという活動が、信州では盛んであるように感じます。青木村に隣接する別所温泉(上田市)には、戦前の労働農民党(労農党)の代議士で、治安維持法の強化に反対し右翼に殺された山本宣治の碑があります。戦時中、警察から取り壊し命令が出た際に、その碑を自宅の庭に伏せて隠し通したという、老舗旅館主の顕彰碑も併置されています。

 義民資料室と隣り合わせの栗林一石路資料室
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 別所温泉の山本宣治の碑。ラテン語で、座右の銘であったという「生命は短し科学は長し」と記されています。殺される四日前に、上田で同氏の講演を聞いて感激した農民たちが、その死を悼んで建立したということです。
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 長いものに巻かれない、巻かれてはいけないという気風。信州からジャーナリストや評論家、出版人、映画監督といった人材が輩出している背景には、それがあるのではないか、青木村を歩いて、そんなことを感じたポン太でした。ちなみに、財政上の優遇策というアメを用意して、政府が強力に推進した「平成の大合併」ですが、信州では合併せずに自立を選んだ町村も多く、現在でも「村」が35(その数は全国1)もあります。ここにも、そうした気風があらわれているように思うのですが、どうでしょうか。
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待ってました冬景色

2018/02/03 08:47
 人に会えば、「今年は雪が少なくて助かりますね」とか、「このところ暖かな日が多くてほっとしますね」といった言葉を発することが多いポン太ですが、実は本音は違います。冬は冬らしく、雪景色や霧氷をたっぷり楽しみたい。雪よ降れ降れもっと降れ、寒気よ来たれもっと来い!です。
 以前にも記したとおり、浅間山麓は元々雪の少ないところです。東京と同じように、太平洋岸を低気圧が進んだ際に雪が降るケースが多く、冬型の気圧配置で大量の雪が降る北信地域とは事情がまったく異なっています。それにしても、この冬は雪が少なく、積雪もほとんど無かったのですが、ようやく昨日、ポン太待望のまとまった雪が降りました。森も水辺も白銀の世界となり、いつもの散歩道が別世界のようです。早速、カメラ片手にウォーキングにでかけたことはいうまでもありません。
 夜も雪景色を楽しみたいと、昨夜はプライベート「氷燈祭」を企画。火山の噴火口に見立てた雪穴に、ローソクを立てて点灯するだけという極めてシンプルなものですが、いつもの庭とは思えない幻想的な雰囲気に、これぞ冬のロマンなりと自画自賛のポン太でした。

 いつのまにか窓の外は雪景色。ポン太の森も白銀の世界に変わりました。
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 降りしきる雪に水辺(御影用水)の景色も一変。
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 雪化粧したいつもの散歩道。絵本の中を歩くような気分です。
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 雪が止むと、ワンちゃんの散歩に出てくる人が増えました。この景色をみれば、人もワンちゃんも歩きたくなりますね。
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 気がつくと軒先に大きなつららができていました。やはり冬はこうでなくちゃ。
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 プライベート「氷燈祭」です。氷のランタンを用いているわけではないので、「雪燈祭」が正しいかもしれませんね。
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D51787物語

2018/02/01 09:29
 しなの鉄道で軽井沢から3駅目の御代田駅。その旧駅(スイッチバック時代の駅)跡に保存されている機関車がD51787です。この機関車は、今にも走り出すのではないかと思えるほどきれいに整備されていて、初めて見た人は驚くのではないでしょうか。画像
 D51形は、製造両数最多を誇る日本を代表する蒸気機関車で、「デコイチ(またはデゴイチ)」の愛称でよばれていることをご存知の方は多いと思います。このD51787は、戦時中の1943(昭和18)年に汽車製造大阪工場で製造されました。水戸機関区に配置された後、木曽福島機関区に移り、中央西線で長く用いられた機関車です。1971年に廃車となった後、御代田町に無償貸与され、同年4月23日から現在地で保存されています。
 この機関車がずばぬけて美しい姿を保っている背景には、一人の男性の執念、いや機関車愛がありました。その方に初めて出会ったのは、2004年の夏だったと思います。近くを通りかかったポン太が、この機関車を眺めていたところ、作業着を着た男性が現れ、「機関車に興味があるのですか」と声をかけてくれました。そして、「この機関車は現在復原整備中で間もなく動くようになりますよ」というのです。最初は半信半疑で聞いていたのですが、修復方法など詳しいお話を伺うにつれ、これは大変なことにチャレンジされている方だと理解しました。その方の名は、大日方孝仁。同氏はかつて国鉄長野機関区に庫内手として勤務されていた由。後日、耳にした話では、国鉄を退職後、ダンプカーの運転手をされていたということですが、偶然通りかかった御代田で、この機関車を発見。関わりのある懐かしい機関車が、傷み始めている様子をみて修復を決意し、自分にそれをやらせて欲しいと町役場に直訴したのが発端ということです。
 庫内手として蒸気機関車に接した経験が活かせるということでしたが、工場のような設備もないこの場所で、独力でそれを成し遂げるのは容易なことではありません。手弁当どころか、貯えていた国鉄の退職金まで投入したそうですから、まさに心血を注いで取り組まれていたわけです。
 その翌年、動かすことに成功したとの連絡をいただきました。2005年1月16日22時43分のことだったそうです。実際に火を焚いて蒸気を発生させるのではなく、圧縮空気を外部からシリンダーに送り込み、ピストンを動かすという手法です。
 その年の11月、御代田を訪ね、D51787を隅々まで見学させていただきました。修復の経緯や、ピカピカに磨き上げられた機関車の各部の機能についても、詳しく解説していただき、動かした際の映像も見ることができました。残念だったのは、その場で実際に動くところを見られなかったこと。大日方氏のお話では、動かすことに町が難色を示しているので、もう無理かもしれないとのことでした。

 見事に磨き上げられた走り装置。まるで新品のようです。
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 見学者にわかりやすく丁寧に解説して下さった大日方氏(2005年11月)
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 その後、大日方氏にD51の修復を依頼する自治体が現れました。群馬県の川場村です。大日方氏は依頼に応じ、村に保存されていたD51561を見事に復原。動くD51は村の観光の目玉となりました。ポン太も2007年の夏に川場村を訪ねたことがありますが、その施設の職員となった大日方氏は、整備と運転を一手に引き受け、まさに水を得た魚のごとく大活躍されていました。
 大日方氏が先鞭をつけた、圧縮空気を用いて蒸気機関車を動かすという方式は、その後、若桜町(鳥取県)のC12167、真岡市(栃木県)の49617へと広がっていきました。神奈川県山北町でも、保存していたD5270を動態化することになり、依頼を受けた大日方氏は、現地の旅館に泊まり込み、寸暇を惜しんで修復に取り組まれた由。一昨年(2016年)の10月14日(鉄道の日)に「復活祭」が行われ、D52の動く姿が町民やファンに披露されたそうです。ところが、その僅か9日後の23日未明、中国自動車道で発生した不慮の事故により、大日方氏は帰らぬ人となりました。享年61歳でした。

 川場村のD51は子供たちに大人気でした。
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 残念なことに、D51561の運転は継続できなくなってしまいました。「SL駅入口」の前に張り出された運行終了の掲示です。 
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 大日方氏が最後に整備された山北町のD5270です。こちらは若桜鉄道機関士の協力を得て、イベント時の運転が継続されるそうです
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 御代田のD51787は、今は動くことはありませんが、ボランティアの方々の手により、大日方氏が修復した当時のままの美しい姿を保っています。その前を通る度に、D51への熱い思いを語っていた大日方氏の笑顔が思い出され、思わず頭を下げてしまうポン太です。
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「安養寺らーめん」を食す

2018/01/29 22:12
 国民食ともいわれ、最近では外国人にも大人気のラーメン。しかし、ポン太にとっては、ちょっと苦手な食べ物です。子供のころの印象が悪かったせいかもしれません。昔はラーメン専門店などなく、そば屋で提供されるラーメンは、醤油味が濃い上に、トッピングは、極薄のチャーシュー、鳴門、メンマ、僅かなネギに海苔ぐらいで、見た目からして貧相な食べ物。こんなもので食事をした気にはとてもなれないという感じでした。齢を重ねて、血圧が気になりだすと、塩分の多いラーメンを食べる気はますます無くなりました。ラーメン観が少し変わったのは、以前住んでいた家の近くに横濱家という店が開業した時です。お付き合いで食べに行ったのですが、トッピングの野菜が山のように盛られていたのと、塩分や油分を希望により調節してくれるのが嬉しく、こんなラーメンなら食事と考えてもよいかなと思うようになりました。
 最近の佐久で、ご当地グルメとして売り出しているのが、「安養寺らーめん」です。安養寺は、佐久市の北部に実在する臨済宗妙心寺派のお寺ですが、鎌倉時代に覚心という僧が中国から味噌作りを伝えたといわれ、「信州味噌発祥の地」とされています。その話をもとに考案されたのが「安養寺らーめん」というわけです。「安養寺みそ」をスープのタレに80%以上使用したものであれば、麺やトッピングは自由。現在、市内の15店舗ほどで提供されています。
 このところ昼間でも氷点下という寒い日が続いていて、外を出歩いていると身体が冷え切ってしまいます。そこで、「安養寺らーめん」とやらを食べて暖まろうかと、国道141号沿いの「桃花」という中華料理店に入ってみました。その店の「安養寺らーめん」は、野菜がたっぷりで、味噌の風味も良く、塩分は控えめ、ポン太にとっては馴染みやすい味でした。満足度が高かったせいか、ほかの店はどうなのだろうか、食べ歩きも悪くないのではと、思うポン太でした。あれ、ラーメンは苦手のはずでは…。タヌキは気まぐれです。

 こののぼりが、「安養寺らーめん」を提供しているお店の目印です。
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 佐久平の国道141号に面している桃花という中華料理店です。
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 これが、このお店の「安養寺らーめん」です。野菜がたっぷりで嬉しくなりました。
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 麺が選べるので、ポン太は太麺を選択。かなりの極太ですが、細麺がとにかく苦手で、とくに「ソーメン」が大嫌いなポン太にとっては好ましい太さです。
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 信州味噌発祥の地とされる安養寺です。山門や鐘楼がよい雰囲気を漂わせています。ここはまったくの山里で、まわりには1軒の店もなく、もちろん「安養寺らーめん」を食べることはできません。
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世界遺産級の小諸の風穴

2018/01/25 22:10
 今朝は全国的に冷え込み、東京では48年ぶりという氷点下4度を記録した由。テレビで寒い寒いと大騒ぎしている様子が映しだされていましたが、こちら浅間山麓の最低気温は氷点下14度。最高気温が氷点下5度でしたから、氷点下4度程度はごく普通の寒さということができます。だから、そのぐらいがまんしろ、なんていうことは言いません。(言っているのと同じじゃないかって?そうかも)
 閑話休題、この寒い日に「氷」の話で恐縮ですが、小諸市の千曲川の左岸に、氷という集落があります。地図でそれを見つけた時には、ずいぶん変わった地名があるものだと思い、どんなところなのかと興味をひかれました。それが風穴に由来するものであることを知ったのは比較的最近のことです。樹木の葉が落ちているこの時期なら、遺構を確認しやすいのではないかと考え、訪ねてみました。 
 その場所は火山の噴出物からなる御牧ヶ原台地のフチにあたるところでした。地下に石室を設ければ、礫の隙間を流れてくる空気により、その中は一年中一定の温度(夏でも3℃ということです)に保たれます。天然の冷蔵庫である氷室(氷風穴)のある里ゆえに、「氷」という地名がついたと想像できます。
 風穴の主たる貯蔵品は、蚕種とよばれるカイコの卵でした。低温で保存することで孵化を抑制するわけです。それにより繭をつくらせる時期をコントロールすることが可能となり、蚕糸業の発展に大いに寄与しました。群馬県の荒船風穴は、富岡製糸場とともに世界遺産に登録されています。
 同様の役割を果たしたと考えられる小諸の風穴ですが、行ってみて驚いたのはそのスケールの大きさ。まだ現役で使用中の一ヵ所以外に、目視できる範囲で数カ所、立ち入りが難しいところも含めれば、十数カ所あるということですから、これは「風穴群」と呼ぶにふさわしいものでしょう。荒船の風穴と比べて、遜色がないどころか、それを上回る規模の、世界遺産級の産業遺産であるように思います。よいものを「発見」して、有頂天になったポン太でした。

「氷」集落の入口です。立派な石の標識が建てられていました。
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ここが「氷」集落です。裏山に風穴が存在しています。この先は山道なので車で行くことはできません。
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現在も使用されている唯一の風穴です。
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風穴の入口です。明治7年3月に創設されたと記されています。
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上屋が失われた状態の風穴です。かなりの容積があることがわかります。
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たくさんある石積みは、すべて風穴の遺構です。
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高い位置にあった風穴の遺構です。ここから吹き出る風の温度は16℃と高め。温風穴と呼ばれているそうです。温度測定中の札が立っていました。
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風穴群の中央にある神社です。ちょっと読みにくいのですが、鳥居には「氷室稲荷大明神」と記されています。
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これは以前訪ねた世界遺産の荒船風穴です。構造がよく似ていることがわかります。
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「氷」集落の帰りに立ち寄った本物の氷です。布引観音の参道脇に見事な氷瀑ができていました。
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えっ、本白根山が噴火?

2018/01/23 22:38
 大雪で首都圏が大混乱というニュースに驚いていたのも束の間、今度は草津白根山が噴火し、犠牲者がでているというニュースにびっくり。浅間山という日本を代表する活火山の麓にいるポン太ですから、火山情報には敏感にならざるをえません。草津白根山は、浅間山のお隣さんであり、何度も訪れている山ですからなおさらです。
 今回の噴火は、大勢の観光客が訪れる湯釜のある白根山ではなく、その南方3キロほどのところに位置する本白根(もとしらね)山の鏡池付近で起きたということです。深田久弥は、著書『日本百名山』の中で、「こちらのほうが十数米高いから、これを草津白根の本峰と見なすべきかもしれない」と記しており、登山者には人気の山です。ポン太も二回登っていますが、旧火口の巨大なクレーターや、神秘的な雰囲気を漂わせる池など、バラエティーに富んだ景観を楽しむことができます。しかし、そうした地形はすべて火山活動によってつくられたもの。噴気ガスのニオイを感じるような場所もあり、生きている火山という実感はありました。
 それにしても、まさかあの場所で噴火が起きるとは。噴火の予知や噴火時の対応の難しさを、あらためて痛感させられます。 御嶽山もそうですが、登山時にこのようなことが起きれば、ポン太だって犠牲者となる可能性があり、とても他人事とは思えません。

 本白根山に登った際の写真をいくつかご紹介します。これは登山口近くの弓池と白根山です。
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 雄大な景観を楽しみながらの山歩きです。
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 旧噴火口の1つ、カラ釜です。
 
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 この大きなクレーターも旧噴火口です。
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 今回噴火が起きたとされる場所の近くの鏡池です。いまどうなっているのでしょうね。
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見ている方が震えてしまう「寒の水」

2018/01/21 10:19
 浅間山麓を代表する奇祭といえば、御代田町の草越地区で行なわれる「寒の水」ではないでしょうか。一年で一番寒いとされる「大寒」の日に行われる行事で、ふんどし一つの男たちが、「兎巾(ときん)」と呼ばれるワラの冠にわらじ履きといういでたちで行う寒行の一種です。御嶽信仰の行の名残といわれ、県の無形民俗文化財に指定されています。
 まずは出発地点の公民館前に置かれた大桶の水を浴びます。その後、集落内を駆け抜けますが、路上にも数ヵ所に大桶が置かれており、そこでも水を浴び、集落のはずれにある熊野神社をめざします。神社に到着すると、兎巾を奉納して「無病息災」「五穀豊穣」を祈願するというものです。
 今年も、大寒の1月20日に行われました。このところ少し寒さが緩んで、雪も全くないという、参加者にとっては幾分救いのある状況でした。それでも標高900mの高地ですから、水行が始まったころの気温は恐らく氷点下。ポン太の手はかじかみ、カメラのシャッターがうまく切れません。防寒着を着ていても身体の芯まで冷えてしまいました。
 水行の主役はこの草越区の青壮年ですが、公募(ただし同区の紹介が必要)も行われていました。手をあげた方の勇気には脱帽するしかありません。どうせ寒い思いをするなら、ポン太も手をあげたらどうかって?いえいえ、ロートルダヌキでは、神社に到達する前に天国行きとなってしまいますよ。

 「寒の水」が行われた御代田町の草越集落。高原野菜の産地で、レタス畑に囲まれています。
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 見物客には、御代田町の名物「おにかけうどん」が振る舞われました。祭りが始まる前に、まずはこれで暖をとります。
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 威勢の良いかけ声とともに、いよいよ「寒の水」が始まりました。
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 路上でも水を浴び続けます。うー寒そう。
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 どうだ!このくらい浴びなくちゃ気合いが入らないよ。
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 熊野神社前に到着。神妙な面持ちで階段を登ります。
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 本殿に兎巾を奉納します。この順番を待つ間が一番つらい、水を浴びて走っているほうがずっと楽、というのが水行者の感想でした。
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 神社から戻る際にもまた水を浴びます。奉納してしまったので兎巾はありません。こうなったら思いっきりいくぜ、えい!
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 公民館前にもどり、ワラのたき火で身体を温める水行者たち。お疲れ様でした。
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「温泉でほっこり」にも裏技

2018/01/19 22:03
 志賀高原の地獄谷には、世界でも珍しい温泉に入るサルがいます。「スノーモンキー」として外国人に大人気ですが、サルならずとも、この季節には温泉でほっこりしたいもの。 幸いなことに、信州は日帰り温泉施設の数が全国一多く、温泉入浴が生活の一部になっている感じがします。入浴料金の相場は500円前後ですから、東京の公衆浴場(銭湯)と同程度。それでもしょっちゅう出かけるとなると、少しでも安く入浴できる方法を考えたくなります。
 回数券をはじめ、ポイント制度や割引券、クーポン券などを利用すれば、1回あたりの料金を銭湯より安くすることが可能ですが、実はもっとすごいものがあるのです。長野県観光機構というところが発行している、『信州物味湯産手形』を購入すれば、なんと一回あたり108円で入浴することができます。この手形は、購入日から1年間有効で、登録されている県内49ヵ所の入浴施設(年度によって入れ替えあり)の内の12ヵ所に1回ずつ入浴できるという優れもの。購入額は税込みで1300円ですから、使いきれば1回あたり108円となります。3カ所めぐるだけで、通常入浴料金の合計より安くなりますから、その先はタダで入浴しているような気分です。10回目ぐらいになると、手形で入浴するのが申し訳なく思えて、食堂で飲食したり、売店で農産物を買ったりしてしまいます。ムムッ、それが狙いなのかな? それでも湯巡りは楽しいので、現在、4冊目となる手形を使用中のポン太です。

 地獄谷のサルたちです。気持ち良さそうに温泉に入っています。タヌキだって入りたいよ〜。
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 これが『信州物味湯産手形』のパンフレットです。
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 ポン太の生活圏である東信地域だけでも、現時点で14カ所の施設が登録されていて、その中には、以前のブログで美肌の湯としてご紹介した「ささらの湯」(上田市)も含まれています。下の写真は、東御市の「湯楽里(ゆらり)館」ですが、ここも登録施設の1つです。
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 湯楽里館の露天風呂からは、美しが原方面の大展望を楽しむことができます。
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雪山トレッキング

2018/01/17 10:41
 山歩きが好きなポン太ですが、原則として冬(雪)山はやりません。技術も体力もないからです。されど、雪のある山自体は魅力ですし、せっかく信州に住んでいるのですから、雪山の雰囲気だけでも味わいたいもの。そこで、冬季以外に何度も登っていて、登山道の様子もよくわかっている高峯山へトレッキングに出かけました。
 浅間山麓はもともと雪の少ない地域ですが、それにしてもこの冬は拍子抜けするぐらい雪が降りません。ポン太の家のまわりの積雪はゼロです。しかし、浅間連峰の2000m級の山となれば話は別で、それなりの積雪があります。車で高峯山の登山口である車坂峠まで行ってみたところ、積雪はおよそ30〜40cmといったところでした。踏み跡のある登山道であれば、かんじきやスノーシューがなくてもなんとか登れそうです。念のために軽アイゼンをリュックに入れて山に入りました。
 雪の上を歩く気分は爽快ですが、無雪期と比べると倍のエネルギーが必要です。気をつけて歩いているつもりでも、時々膝ぐらいまで雪の中に潜ってしまったりするので、足腰の疲労度も全然違います。雪に足をとられて体力を消耗し遭難に至ったというニュースをよく耳にしますが、冬山では大いにあり得ることだと実感します。
 疲れはしましたが、往復2時間半の雪山トレッキングは、里山とは全く異なる面白さがありました。やり過ぎて遭難などということにならない程度の雪山トレッキングは、古ダヌキでもまだしばらくはチャレンジできそうな気がします。
 ※以前のブログ(昨年の8月10日付)では「高峰山」と表記しましたが、国土地理院の地形図で確かめたところ、「高峯山」となっていましたので、訂正します。ガイドブックなどでは「高峰山」となっている場合もあり、「高峰高原」「高峰温泉」いった表記もみられますので、ちょっとまぎらわしいですね。
 

車坂峠です。車坂峠までの道は除雪されていて、難なく到達しました。
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高峯山への登山口です。半分雪に埋まっている鳥居の右側から登り始めました。
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気持ちの良い雪道です。
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尾根に出ると左手前方に高峯山が見えてきました。
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尾根道を進みます。振り返ると黒斑山がよく見えます。
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ますます展望が良くなってきました。ビバ雪山!
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尾根越しにみえる雪山は、上越国境の山々のようです。中央の双耳峰は谷川岳かもしれません。
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どこが登山道かわかりにくいところもありますが、木の枝に目印の赤い布が結ばれていて助かりました。
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この足跡は?野ウサギでしょうか。
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標高2106mの高峯山の頂上です。
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登頂成功を祝って万歳!ヒマラヤに登頂したかのような雰囲気ですが、冬山ど素人のポン太たちにとっては、ここがエベレストです。
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山頂からの黒斑山方面の眺めもなかなかのものでした。
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霧氷ふたたび

2018/01/16 00:33
 このところの冷え込みは厳しく、最低気温は、連日氷点下10度を下回っています。そうなると期待感が高まるのが霧氷です。予想に違わず、昨日は、今季2度目となる霧氷をみることができました。水分量の関係か、ポン太の家の回りの霧氷は、前回ほどきれいな感じではなかったのですが、佐久市の平尾山では、中腹以上が見事な霧氷の世界になっていました。
 霧氷がつくと同じ場所とは思えないほど景観が変わります。おとぎ話の世界に迷い込むような感じとでも言いましょうか、純白の森の中の徘徊は心が浮き立ちます。同じ事を考える御仁はかなりいるようで、大勢の登山者とすれ違いました。予報によれば、明日あたりから、暖気が入ってきて気温が上昇するということなので、この先当分の間、霧氷をみることはできないかもしれません。そんなこともあって、今のうちにと登った人が多かったのかもしれません。

登山道のまわりは、まるで飾り物のような白い森でした。
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小さな子供たちも元気に登っていました。
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頂上付近の松も別物になっていました。
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まるで白い珊瑚礁のような森です。
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初日の出を眺めた方向の尾根も、一面に霧氷の花が咲いていました。
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どこか懐かしいどんど焼

2018/01/14 18:18
 どんど焼は、松飾りやしめ飾りといった正月の飾り物を集めて焚く小正月の習俗で、全国的に広く行われています。しかし、ポン太にとっては馴染みのあるものとはいえません。浅間山麓にやってくるまで、一度も本物を見たことがなかったからです。
 そもそも、家屋が密集している都会では、どんど焼を安全に行えるような場所は限られますし、野焼きの類は条例等で禁止されており、例外的に認められるケースでも、近隣住民からの苦情が少しでもあれば実施できません。東京でほとんど行われていないのは、江戸時代に火災を恐れる幕府により禁止されたことが影響しているのではないかという説もあるようです。
 浅間山麓では、どんど焼は町内各地区の行事で、ポン太の地区の公民館の庭でも、本日(14日)行われました。やぐら状に組まれた竹の間にいろいろな正月飾りを差し込んで火をつけると、ものすごい勢いで燃えあがります。その迫力はなかなかのものですし、燃えさかる炎を見ていると、気持ちが高ぶることは否めません。広辞苑には「小正月に村境などで行った火祭」と記されています。なるほど、どんど焼とは「火祭」の一種なのですね。
 火の勢いがおさまると、子供たちが柳の枝に刺した団子(「繭玉」と呼んでいます)を熾(おき=燃えて炭火のようになった状態)にかざして焼きます。それを食べると1年間無病息災とか。御利益の類を信じない古ダヌキのポン太ですが、こうした素朴な光景を眺めていると、どこか懐かしく微笑ましい感じがします。

 竹のやぐらに正月飾りを投入し準備完了。何が始まるのかと、浅間山が覗いています。
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 点火しました。
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 あっという間に激しい炎に包まれました。これはまさしく「火祭」です。
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 「繭玉」を持った子供たちが集まってきました。
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 火の勢いが収まると「繭玉」の出番です。
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 かざしているのはどれもカラフルな「繭玉」。聞いてみると、ほとんどはスーパーで買ってきたものでした。この時期には、スーパーの店頭で枝にセットした状態の「繭玉」を大量販売しているのです。マシュマロをつけて焼いている子供もいて、「こっちの方が美味しいよ」と言っていました。
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 これはポン太の隣の地区のどんど焼です。なぜかダルマがいっぱい積み上げられています。地区によって少しやり方が異なるようです。
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寒冷なれど雪は無し

2018/01/11 23:20
 冬休み期間中は、それなりの賑わいを見せていた浅間山麓ですが、一昨日あたりからすっかり静かになりました。この冬は、うっすらと白くなるレベルの降雪が数回あっただけで、今のところ積雪とよべるほどのものはありません。散歩(ウォーキング)も支障なく遂行できています。
 テレビの気象情報で、よく耳にするのは、「西高東低の冬型の気圧配置となり、新潟、富山、長野では積雪への警戒が必要です」といったこと。長野に雪マークがついている画面をみれば、浅間山麓も大雪で大変なことになりそうだと思ってしまう方も多いのではないでしょうか。これはとんでもない勘違いです。テレビで「長野」と言っているのは、長野市とその周辺(北信地域)のこと。長野県は広い県(全国第4位)ですし、高い山で隔てられているため、地域差が大きく、浅間山麓を含む東信地域の天気は、長野市周辺とは全く別物です。長野市以北は大雪でも、上田や佐久地域は快晴というのが通常のパターン。東信地域は全国的にみても晴天率の高いエリアで、雪も雨も少ないのです。ただし、標高が高く気温は低いので、少しの雪でもその後の凍結は厳しいものがあり、車の運転には注意を要します。
 因みに測候所(現在の名称は特別地域気象観測所)のある軽井沢の昨年の最低気温は−15.0度で、札幌の−12.8度より低い値でした。年平均気温も、軽井沢の8.2度に対して札幌は8.9度(東京は15.8度)。ポン太の住む森は、一年を通じて札幌よりも冷涼というわけです。冬場のウォーキングはつらいのではと思われるかもしれませんが、慣れというのはたいしたもので、温度計の値が氷点下1度ぐらいなら、今日は絶好のウォーキング日和と笑みがこぼれてしまうポン太です。

 昨夜はだいぶ気温が下がったようで、散歩の途中で見た池も結氷していました。
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 何の動物の足跡でしょうか。
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 雪はほんの少し降っただけですが、こんなつるつる状態になってしまったところもあります。ここは坂道ですから、ノーマルタイヤでは大変なことになります。
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 いつもの水辺(御影用水)です。雪はほんの少し残っているだけで、このまま春が来てしまいそうな感じさえしました。そんな甘いことはないでしょうが・・・。
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コブシの花芽が少しふくらんでいました。開花はまだ三ヶ月も先ですが、春の兆しだけは感じられます。
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ど迫力に驚いた道祖神祭り 

2018/01/08 22:49
 道祖神とは路傍に置かれている民間信仰の石仏のこと。村の守り神であり、街道沿いでは旅の守り神としても信仰されています。全国的に広く分布しているものですが、とくに多いのは関東甲信越で、信州などは道祖神だらけといってもよいほどです。道祖神の祭礼も各地で行われており、浅間山麓では、小諸市の御影新田で行われる道祖神祭りが有名です。長野県の無形民俗文化財にもなっており、江戸時代以来300年以上続いている伝統行事ということなのですが、地元以外での知名度は低く、実はポン太がそれを知ったのも最近のこと。一度は見ておく価値があるのではと、開催日の1月7日、氷点下3度の夜道を歩いて現地へむかいました。
 御影新田が開発されたのは、江戸時代の初期(17世紀半ば)で、軽井沢の千ヶ滝と湯川を水源とする御影用水の開削によるものです。追分の御影用水のほとりはポン太のお気に入りの散歩コースですから、御影新田という地名にはなんとなく親しみを感じてしまいます。新田開発の結果、豊穣の地となったことから、幕府直轄の天領となり、御影陣屋が置かれました。陣屋の建物は失われましたが、代官の宿所と陣屋稲荷は現存しており、道祖神祭りはその前の通りで行われます。
 祭りのハイライトは、上宿と下宿の壮麗な2台の山車が勢いよくぶつかり合うことです。10名余の押し手が、力一杯山車を押し、正面衝突させるのですから、その衝撃は大変なもの。それが何度も繰り返されます。見ているだけでも恐怖を感じるほどですが、屋台の上に乗っている数人の子供たち(小学生)は、よほど度胸があるのか、毎年のことで慣れているのか、意外にけろっとした表情でした。一番驚き衝撃を受けたのは、この祭りを初めて見たポン太かもしれません。 

道祖神祭り当日の陣屋稲荷です。ちょっと不気味な感じがします。
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陣屋稲荷に隣接した代官の宿所の中です。貴重な資料(お宝?)がいろいろありそうです。
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武田信玄(右)と勝頼の文書を見せていただきました。
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子供たちを乗せた山車が登場しました。
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もう一台の山車もスタンバイです。
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二台の山車が接近し向かい合いました。
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押せ押せ!
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激突した瞬間です。衝撃で提灯が激しく揺れています。写真ではわかりにくいのですが、ガツンというものすごい音とともに、お互いの先頭部が浮き上がった感じになります。
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衝突の後も、押せ!押せ!というかけ声とともに押し合いが続きます。その後、それぞれ30mほど後退し、再び勢いをつけてぶつかり合うということが、何度も繰り返されるのです。
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手強いそり遊び

2018/01/06 23:47
 寒冷地で小さな子供を遊ばせることのできる場所は、ショッピングセンターのキッズコーナーぐらいしかありません。しかしそれでは味気ないので、孫サービスにと連れ出したのがスキー場。一歳半の孫にスキーはまだ無理ですが、今時のスキー場には、「キッズランド」と称するそり遊び専用のゲレンデがあり、そこなら楽しめるのではないかと考えたわけです。ベルトコンベア式のオートスロープが設置されているので、上部のスタート地点へのアクセスは楽ちんです。
 見た目はゆるやかな斜面ですし、小さな子供たちがすいすい滑っているので、何の心配もせずに、孫を抱えて滑り出したのですが、身体を後に倒しすぎてしまったせいか、みるみる加速して制動不能に。コースの終端で止まることができず、クッションを持って待機していた係員に激突してしまいました。そのはずみで宙を舞いそうになった孫は、よほど怖かったようで、ジイジと滑るのはいやだと、首を強く振って以後の滑走を拒否。母親とのみ何回か滑っておしまいと相成りました。世のジイジ諸君、そりを甘く見てはいけませんぞ。

 出かけたのは佐久市のパラダスキー場。佐久平は降水量(降雨、降雪とも)の少ない地域ですから、ゲレンデの雪は全て降雪機による人工雪です。それでも、上信越自動車道の佐久平パーキングエリアに直結というアクセスの良さから、ファミリー層に人気があり、この日もかなりの人出でした。
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 これが「キッズランド」のそり専用ゲレンデです。
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 孫を抱えて元気に滑り出したのですが・・・。
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 係員の持つクッションに激突。トホホ。
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信濃の餅つき

2018/01/04 23:37
 今や田舎でも、臼と杵で餅をついている家庭は稀ではないでしょうか。冠着山(別名姥捨山)の麓にあるポン太の親戚の家は、その稀なケースに該当します。毎年1回行われる餅つきに、役立たずの助っ人として、ポン太も参加することができましたので、その様子をご紹介することにします。
 ポン太の住む東信エリアとは異なり、そこは田畑も山も一面の銀世界でした。パチパチと勢いよく燃える薪、セイロから立ち上る湯気と芳香、餅をつく際に出るスポンスポンという小気味よい音、雪景色とそれらが一体化した風情は、これぞ信濃の餅つきといっても過言ではないと思います。
 さて、その手順ですが、蒸し上がった米を臼に入れ、まずは杵で丁寧にこね、米粒をつぶします。この作業をしっかりやることが大切で、かなりの労力を要します。餅つきといえば、杵を振り下ろすシーンを思い浮かべますが、実は前段の「こね」が大変だということを、実際に体験して初めて知りました。「つく」段階では、重い杵をリズミカルに正確に振り下ろすことと、その合間に餅をすばやく裏がえして中央に寄せる「合いの手(合い取り)」とのコンビネーションが大切で、そう簡単ではありません。「つく」作業はかなりの重労働ですから交代要員も必要です。セイロの火の番や、つき上がった餅の処理(のし餅や丸餅にする)作業など、様々な役割分担があり、餅つきは大勢の家族の協力がなければ成り立たない一大行事なのです。今回は6臼分の餅をつきましたが、全部つき終わるまで半日がかりでした。

当日の朝のまわりの風景です。すこしガスで煙っている一番高い山が冠着(かむりき)山です
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庭に立派な木の臼と杵が用意されました。
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洗った餅米(もちろん自家栽培のものです)をセイロに入れます。
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お湯が煮たっている羽釜の上に、セイロを二段重ねでセットしました。この火の番もなかなか大変です。
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米が蒸し上がったようです
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臼の中へ蒸し上がった米をセットし、いよいよ餅つきのスタートです
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まずは「こね」ることから。米をよくつぶして、杵で付ける状態にします。二人がかりで行いますが、かなりの力が必要です。
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いよいよ杵でつく段階へ
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ベテランがつくとこうなります。リズミカルで力強く、合い取りとの息もぴったりあっています。餅つきの様子を冠着山が見守っています。
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つき上がった状態です
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このすごい粘り!餅を臼から取り出すのも一苦労です。つきたては美味しいかって?当然です。
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山上のご来光

2018/01/01 23:54
 明けましておめでとうございます。本年も浅間山麓のブラタヌキをよろしくお願いいたします。
 ポン太が新年最初にしたことは、元旦登山。ご来光を見ようと佐久の平尾山へでかけました。馴染みの里山とはいえ、暗い時間帯の登山というのは初めてです。ヘッドランプを頼りに恐る恐る登ってみたのですが、星空も佐久平の夜景も、黎明の山並みも、そしてもちろんご来光も、すばらしいものでした。
 山頂には200人ほどの登山者がいましたが、ご来光の瞬間、期せずして万歳の声がわき起こりました。太陽が姿を現すというただそれだけのことなのに、神々しい気分になり、有り難さを感じてしまう。我々は皆太陽の恵みによって生かされている、そんな思いが心のどこかにあるからでしょうか。
荘厳なご来光ショーが終わり、明るくなった周囲を眺めてみると、いつのまにか佐久平一帯は雲海に覆われていました。神々しさと幻想的な雰囲気をともに味わった元旦でした。

ご来光を待つ間、たき火で暖をとる人々。
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東の空が明るくなってきました。
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まだかまだかとご来光を待つ大勢の登山者
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ご来光です。荒船山の近くから太陽が昇ってきました。
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浅間連峰に打ち寄せる雲海の波
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佐久平の南方、八ヶ岳の山麓も幻想的な雰囲気です
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雲海に浮かぶ浅間山です
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あると嬉しい道標(みちしるべ)

2017/12/30 22:57
  散歩コースとしてしばしば利用している中山道で、真新しい道標をみつけました。ポン太が確認したのは御代田町内と軽井沢町内の数カ所です。いずれも「東信州 歩いて触れて 中山道」というロゴが入った同じスタイルのものでしたので、東信州エリアのほかの市町村でも同じような道標が建てられた可能性があります。観光キャンペーンの一環かもしれませんが、こうした動きは大歓迎です。
 実際に街道歩きをした経験からいえば、地図で確認し確信をもって歩いているつもりでも、万が一という不安は常にあるのです。そんな時、道端に道標があると、やっぱりこの道でよかったのだという安心感が得られると同時に、その先へ歩き続ける意欲もわいてきます。
 道標が必要なのは街道だけではないでしょう。世界を見渡せば、きな臭さい話ばかり。自分や自国のことしか考えない指導者、偏狭なナショナリズムの台頭、不寛容な精神の蔓延など、不安材料がいっぱいです。この先、世界はどこへむかうのか。来年こそは、不安解消へとつながる道標をみつけたいと願うポン太でした。
 4月から始めたポン太のブログに、いつもお付き合いいただき有り難うございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

最初に見つけた御代田町内の道標です
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歩いていると必ず目につき、この道が中山道だと確認できます
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旧軽井沢銀座のど真ん中にもこのような道標が建てられていました。これなら、街道歩きの人だけでなく、一般観光客にも、避暑地となる前の軽井沢が宿場町であったことをアピールできます。
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これは、岐阜県中津川市で目にした道標です。非常にわかりやすく、デザインも素晴らしいと思います。道標のモデルにして欲しいようなものでした。
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これは埼玉県上尾市で見かけた道標です。こんな旧道とは思えないような道でも、道標が1本あるだけで、中山道を歩いているという実感がわきます。道標は有り難きかなです。
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霧氷は天からの贈り物

2017/12/28 18:17
 浅間山麓のような寒いところによく住んでいられますね、きっと寒いのがお好きなのですね。そう言われることがありますが、決して寒いのが好きで住んでいるわけではありません。好きなのは高冷地ならではの雰囲気です。雪をいただく山々、凛とした空気、霧氷の花咲く森、そういったものにロマンを感じますし、四季の変化を味わいたいポン太にとって、冬らしい冬のある当地は、その意にかなっているといえます。
 枯れ木の森が純白の森に劇的に変身する霧氷は、何度見てもすばらしいものです。空気中の水蒸気が氷の結晶となって付着する現象ですから、低温だけでなく空気中に適量の水分がなければ発生しません。したがって、ポン太の森でも頻繁にそれが見られるというわけではありません。
 このところの冷え込みで、期待はしていたのですが、今朝、起きてみると、窓の近くのコブシの枝が白い棒のようになっていました。オッ霧氷だ!と口走りながら、カメラを手に、慌てて外に飛び出したポン太でした。

屋根の上に見える木々にも霧氷が
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樹形の良い木に霧氷がつくと、まるでつくりもののようです
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霧氷がつくと、枯れ草もオブジェのようにみえます
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常緑樹の松の霧氷も悪くありません
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霧氷咲く山です
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ハンドベルに癒されるクリスマス

2017/12/23 22:51
 森の中の古ダヌキとはいえ、この季節にはクリスマス気分も味わってみたいもの。それにはコンサートが一番と、毎年のようにお邪魔しているのが、「新島学園のクリスマスコンサートin軽井沢」です。新島学園は群馬県にある学校で、その名のとおり、同志社を創設した新島襄の精神を基盤とするミッションスクールです。大賀ホールで行われるコンサートは一般公開されており、誰でも無料で入場することができます。
 数年前に、たまにはクリスマスソングや賛美歌でも聴いてみようかと、軽い気持ちで出かけてみたのですが、聖歌隊の生徒たちによるハンドベルの演奏があまりにも素晴らしく、すっかりはまってしまいました。それまで、ハンドベルの演奏といえば、単純なメロディーを奏でるだけというイメージしかなかったのですが、この聖歌隊の演奏は、変幻自在なアンサンブル。テクニックもなかなかのものだと思います。
 コンサートの一部は、簡素化したクリスマス礼拝形式になっていて、牧師による説教もあります。「人間は元々助け合うようにつくられているのです」といった話を聞いていると、宗教心のないポン太も心が洗われます。
 ハンドベルに癒され、商業的ではないクリスマスのひとときを過ごし、会場の外に出た時の気分は何ともさわやかでした。

コンサートのチラシの抜粋です
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開場前のロビーには人が溢れていました。例年より入場者が増えているようで、席がないのではと心配になりましたが大丈夫でした。
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開演前の大賀ホール内の様子です。(開演後の撮影は不可でした)
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軽井沢周辺に雪はなく、大賀ホールの背後の浅間山だけがホワイトクリスマスでした。
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コンサートの帰りに立ち寄ったスーパー「ツルヤ」軽井沢店です。1ヶ月ほど休業し、今月12日にリニューアルオープンしたのですが、ポン太の目には、どこがリニューアルされたのかよくわかりませんでした。同じツルヤの他の店舗と比べると確かに品揃えが豊富ですが、その傾向は以前もそうでしたので・・・。
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里山の王者 上田の太郎山

2017/12/21 21:48
 上田市民で太郎山を知らない人はいません。「市民の山」として親しまれている、東京でいえば高尾山のような存在です。四季を問わず登山者で賑わっており、この山に登ることを日課にしている人もたくさんいます。太郎山神社の社務所には登山記録の板(額)が掲げられていますが、驚くべきことに、19年間で5000回登頂を達成した方が二名います。平均すれば年間263回。ため息が出るような大記録ということができます。実はそのうちのお一人に偶然山中でお会いしたことがあります。記録達成からすでに数年が経過していて、80代半ばというお年でしたが、もう一人の方へのライバル意識もあって、登り続けているということでした。
 太郎山山頂の標高は1164mで、登山口との標高差が580m強あります。高尾山は標高599mで、登山口との標高差が400m足らずですから、太郎山の方がかなりハードです。それだけに達成感があり、山頂からの展望もすばらしいので、何度も登りたくなるわけです。
 登山者を喜ばせるしかけもあります。それが丁石(石祠)の存在です。登山道に沿って、そこが何丁かを示す丁石が置かれていて、どこまで登ったかを知ることができます。ちなみに、表登山道入口のすぐ先が「三丁」、山頂近くにある太郎山神社の石段前が「二十三丁」です。
 ポン太にとって、太郎山に登る楽しみはほかにもあります。下山後、お気に入りの「刀屋」の蕎麦を味わい、肌がツルツルになる「室賀温泉ささらの湯」に浸かるというのが、ポン太の「太郎山フルコース」。多い年は数回これをやっているのですが、今年は残念ながら、今回が最初でたぶん最後です。それなのに、湯舟でみる顔は、ここ数年変わらない見覚えのある顔ばかり。どうなっているのかって?そうなんです、365日同じ時間に、同じ場所に浸かっている方が何人もいるのです。それだけ魅力的な泉質だということでしょうね。

上田の市街地の後方に聳える太郎山です
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太郎山の登山道は一つではありませんが、最も一般的な表登山道の入口はここです。クマ注意の看板がいつも掲示されていて、今年は7月にこの場所で目撃情報ありということでした。ポン太は幸いこの山でクマに遭遇したことはありませんが、カモシカとは何回も出会っています。
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登山道の丁石は「三丁」から始まります。後方は上信越自動車道です。
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「八丁」です。だんだん山らしくなってきました。
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40分ほど歩くと鳥居が現れます。ここが「十四丁」で、数字の上では中間点のようにみえますが、丁石は等間隔ではなく、まだ全行程の四割程度といった感じです。
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「十七丁」まで登ってきました。ここまで来ると樹間からまわりの山々を望むことができます。
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岩が現れ、坂も少し急になった「十九丁」。このあたりが一番のがんばりどころです。
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「二十二丁」の丁石です。丁石はあと一つとなりました。
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太郎山神社下の大鳥居です。「二十三丁」と刻まれた丁石復元記念碑が立っています。丁石の表示があるのはここまでですが、太郎山神社はまだこの上です。
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太郎山神社の本殿です。神社の創建がいつなのかは不明ということですが、この本殿は明治6年に再建されたもの。社務所の太い梁は、女侠客「おじょめん」が先頭に立って引き上げたと言い伝えられているそうです。人望のある侠客だったのでしょうか?境内の小さな鳥居をくぐると厄除けになるというのですが、ポン太のお腹では無理ですね。
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社務所に掲げられている最多登山記録です。
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神社=山頂ではなく、その裏のこの尾根をたどったところに本当の山頂があります。
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広々とした太郎山山頂です。
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今日はいま一つのお天気でしたが、晴れていれば、北アルプス方面のこんな大展望が楽しめます。
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白く光っている川は千曲川。その手前が上田の市街地で、その中の黒っぽく見えるところが上田城です。徳川の大軍を二度も撃退し、真田の名を天下に轟かせたその地を一望することができます。
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山頂には、太郎山を愛した反戦・反核詩人長田三郎氏の詩碑があります。そこには、「“人間を取り戻せ”の叫び声が地の底から聞こえてはこないか」と記されています。静かな山頂に立っていると、確かにそんな声が聞こえてくるような気がします。どんな理由をつけようとも核はダメだとポン太も思います。
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下山後の楽しみのひとつは、刀屋の蕎麦。手前はポン太一押しの「冷やしたぬき」です。「共食い」になってしまいそうですが、そんなことは言っていられないほど美味です。とにかく量が多く、これで普通サイズですが、東京の一般的な蕎麦屋の倍ぐらいの量があります。コシの強さも半端ではなく、アゴが相当疲れますが、それでも食べたくなる蕎麦です。
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泉質の良さでは、おそらく東信地域随一と思われる「室賀温泉ささらの湯」です。石鹸をつけたわけでもないのに、お湯に入った瞬間、肌はヌルヌル状態に。ここは、大河ドラマ「真田丸」にも登場した室賀氏の本拠地でもあります。
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美人の湯? 美人になるのは無理でしょうが、誰でも美肌にはなると思います。
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大変貌していた橋本駅とその周辺

2017/12/20 09:47
 政令指定都市といえば大都市の代名詞のような印象ですが、いまや全国で20都市もあり、いささかインフレぎみ。神奈川県などは、同一県内に三都市も存在しています。横浜、川崎は誰でもわかりますが、もう一つはどこかといえば、それは相模原市です。人口こそ岡山や熊本に匹敵する70万都市ではあるのですが、中心市街地がどこにあるのかよくわからない都市の筆頭といえるのではないでしょうか。JTB時刻表の索引地図は、「市の代表(中心)駅」を二重丸で示していて、その印がついているのはJR横浜線の相模原駅です。しかし、そこに市役所はあるものの、繁華街とよべるほどのものはありません。人が多く集まる場所=中心市街地と考えれば、北は横浜線・京王相模原線の橋本駅、南は小田急線の相模大野駅周辺とみるのが妥当でしょう。
 近年の橋本駅周辺の発展はすさまじく、建設中のリニア新幹線の駅も設置されることになっていますので、相模原市の中心は橋本という時代になりつつあるような気がします。 ポン太はその橋本に、40年ほど前に住んでいたことがあります。そのころは京王相模原線はまだ開通しておらず、相模線は非電化。横浜線も橋本以北は単線で、電車の本数も、ラッシュ時を除けば1時間に3本程度でした。駅舎はいかにも地方の駅といった感じで、駅前広場の片隅には津久井方面へ行くバスの待合所がありました。目立つような高いビルもなく、総じてのどかな雰囲気でした。
 先日、東京へ出かけた際に、久しぶりに橋本駅に立ち寄ったのですが、駅周辺には高層マンションが林立し、駅前広場はペデストリアンデッキ化、そのまわりをビルが取り囲むという変貌ぶりに驚かされました。懐かしい場所であるだけに、この先どう変化していくのか、ちょっと気になるポン太でした。

およそ40年前の橋本駅前です。正面奥に見えるのが駅舎です。(1979年3月21日撮影)
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ほぼ同じ場所から見た現在の風景です。橋上駅化されたため駅舎は見えません。
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かつての駅舎です。(1979年3月21日撮影)
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駅前広場はこんな感じでした。(1978年11月4日撮影)
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ペデストリアンデッキ化された現在の駅前です。周辺には高層マンションが林立しています。
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かつての横浜線上り(1番線)ホームです。反対側の下りホームには103系電車が停車していますが、ちょうど、旧形国電から103系電車に代わりつつある時代でした。(1978年11月4日撮影)
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ほぼ同じ場所で撮影した現在の1番線ホームです。中線の存在に、昔の名残が感じられます。
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かつての相模線ホーム(3番線)です。相模線は電化しておらず、キハ30形気動車が主役でした(1978年11月4日撮影)
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横浜線では旧形国電もまだ活躍していました。西側(相原側)にあった跨線橋の下を行く八王子行の電車です。(1977年4月12日撮影)
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おかえりなさい井上勝

2017/12/18 14:51
 先週末、東京へ出かけた際に、東京駅前に立ち寄ってみました。駅前広場の整備工事が完了し、12月7日から全面的に使用が開始されたというニュースを聞いたからです。どうしても確認したかったのは、10年ぶりに再設置されたという井上勝の像です。井上勝は「日本の鉄道の父」と称せられる人物ですから、ご存知の方も多いと思います。最初の像は東京駅開業時に設置されましたが、戦時中の供出で失われ、戦後の1959年に二代目の像が設置されました。その後、総武地下駅工事の際に一時撤去されたものの復活したのですが、赤煉瓦駅舎の復原工事着工の際に再び撤去され、今度はどうなるのかと心配しておりました。「鉄道の父」の像が無くては、せっかく整備された東京駅も画竜点睛を欠くと思っておりましたので、復活と聞いて安心すると同時に、これはぜひ見ておかねばと思ったわけです。
 今回復活した像は、広場の西北端にありました。以前は駅舎を背に皇居の方を向いていましたが、今回は駅舎の中央部を向いており、鉄道の行く末を見守っているかのような姿になったのは、好ましいことです。井上像と同時に撤去されていた平和祈念の「愛の像」も復活しており、これで東京駅と駅前広場の整備も一段落ということになります。
 しかし、実は復活していない記念碑もあるのです。それは北口高架下にあった「丸の内記念塔」で、東京駅の北側、外堀(日本橋川)に架かる鉄道橋の石造りの橋頭を保存したものでした。その橋梁は、大正8年に日本で最初に架設された長大スパンの鉄骨鉄筋コンクリートアーチ橋で今も使用されています。橋頭部分が中央線ホームの高架化工事に支障したため撤去され、保存の措置がとられたわけです。その由来を記した説明板もついていたのですが、いつの間にか姿が消えてしまいその後どうなったのか、まったく情報がありません。記念碑は、歴史的出来事やモノの存在を後世に伝えるために設置するものですから、邪魔になったからつぶすというのはおかしな話です。どこかに保管されていて井上像のように復活してくれると良いのですが・・・。
 それはさておき、整備された駅前広場自体はたいへん綺麗でした。訪れたのが黄昏時でしたので、すぐに暗くなって街灯が点り、さらにはイルミネーションが輝くという、様々なシーンを眺めることができました。明るくても暗くても、東京駅は絵になります。いかにも都会的な丸の内界隈のイルミネーションやクリスマスデコレーションもすばらしく、大満足のポン太でした。

美しく整備された東京駅前広場です。あまりに綺麗すぎて、バーチャル世界のように見えてしまいます。
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復活した井上勝の銅像です。
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視線の先にあるのは、復原された東京駅丸の内駅舎。鉄道の行く末を見守っているような形になりました。
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撤去される前は、このように駅舎をバックに皇居の方を向いていました。(1999年12月22日撮影)
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暮れなずむ風景も味があります。
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イルミネーションが点灯されるとまた雰囲気が変わりました。
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いつのまにか失われてしまった「丸の内記念塔」です。(2008年3月28日撮影)
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こちらは丸ビル内に出現した巨大クリスマスツリー
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KITTE(旧東京中央郵便局)の中にも、雪景色のような純白のクリスマスツリーが飾られていました。
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恒例になっている丸の内仲通りのイルミネーション。丸の内オリジナルカラーのシャンパンゴールドということです。背後のオフィスビルとの組み合わせに都心らしさを感じます。
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帰路は高速バス利用のためバスタ新宿へ。隣接するサザンテラスの桜色のイルミネーションも見事でした。
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山里に響く歓喜の歌声

2017/12/14 22:21
 地方で暮らすことのデメリットとみられることが多いのが文化行事の少なさ。それがいやで都会を離れられないという人もいると思います。しかし、幸いなことに、浅間山麓ではそんなことを感じることはほとんどありません。
 新聞のイベント欄をみると、演奏会、講演会、展覧会等が目白押し。図書館や公民館には、たくさんのイベント情報のチラシが置いてあり、その中にはポン太の興味を惹くモノがかなりあります。もちろん、人口が圧倒的に多い東京などと比較すれば、スケールとしては小さな催しが多いのですが、かえって、身近な感じがして親しめます。
 師走といえば、音楽イベントの定番は第九の演奏会。都会ではあちらこちらで行われているので、あえて出かけようという気になりにくいのですが、浅間山麓では数が限られています(おそらく1回です)から、この機会を逃すわけにはいかないと、かえってモチベーションが高まります。
 先週のことになりますが、佐久市の第九演奏会に出かけてみました。パンフレットには、<「第九」のまち佐久>とあり、今年で17回目ということです。演奏は佐久室内オーケストラ。アマチュアですが総勢55人の編成で迫力があります。ソリストは、全員がプロの声楽家。オペラ「夕鶴」で佐藤しのぶさんの相手役を務めるなど、大活躍中のテノール倉石真さん等の力強い歌声に魅了され、この曲ならではの高揚感を味わうことができました。帰りがけに駐車場を見ると、軽トラで乗りつけた人もいたようです。市民が気軽にクラシックを楽しむことができる、こんな雰囲気も悪くないと感じたポン太でした。
 同時期に佐久市内では演劇祭も行われており、そちらも覗いてみましたが、アマチュア劇団の熱演にびっくり。夜になると佐久平駅前には、華麗なイルミネーションが点り、地方都市にいることを忘れてしまいそうになりました。

「佐久第九演奏会」のパンフレットより
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佐久演劇祭会場の佐久創造館
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熱演中のアマチュア劇団「木炭自転車(すみちゃり)」
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佐久平駅前のイルミネーション「SAKU BLOOM 」です。
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背後の高架線を走っているのは小海線の列車です。車内からの眺めも良さそう。
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民間の工場にもイルミネーションが名物というところがあります。これは樫山工業の本社工場です。国道141号線沿いなので、車からもよく見えるのですが、運転中に見過ぎてしまうと危ないですね。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その26

2017/12/12 10:53
★年内歩き納めの巻
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<29日目、11月30日>宿場情緒たっぷりの太田宿を経て坂祝駅へ
 雪が降る前に、なんとか関ヶ原の手前までは行っておきたいと、前回から10日足らずで中山道歩きを再開。伏見宿から、国道21号を西へと歩き始めました。パチンコ屋、ラーメン屋といったどこにでもありそうな沿道風景が続きます。中山道を示す標識の類も少なく、街道歩きをしている実感はありません。一里塚も道路際に石碑があるのみ。岐阜県内に入ってから最も殺風景な区間と言ってもよいかもしれません。中恵土(なかえど)というところを過ぎ、しばらく進んだところで国道21号と分かれ、ようやく少しばかり旧道らしさの残る道に入りました。
 木曽川のほとりに、今渡の渡し場跡があり、木曽川のむこうに見えるのは広重の絵に描かれているような山々。今はその場所で川を渡ることはできないので、上流側にあるレトロな太田橋を渡りました。木曽川右岸の堤防に沿って進むと間もなく太田宿です。旧家が軒を連ね、かつての宿場町の情緒たっぷり。本陣は門のみですが、脇本陣は建物が残っており、内部を見学することができました。総じて、印象の良い宿場町で、宿場の出口には桝形も残っていました。

今渡の渡し場から見た木曽川と太田橋。対岸の左手方向に太田宿があります。
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宿場情緒たっぷりの太田宿を行く
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「うだつ」のあがった太田宿脇本陣。内部を見学することができました。
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 太田宿を出て、中濃大橋の下をくぐり、再び木曽川の堤防沿いを進みました。まだ紅葉の残る木曽川べりは風景もよく、気持ちよく歩くことができます。
 しばらく歩くと、坂祝町役場があり、その前の会館には「難読町村名坂祝」という表示がでていました。坂祝は「さかほぎ」と読みます。その近くに「飛騨木曽川国定公園 日本ライン」看板が出ていたので、木曽川の堤防に登ってみると、確かにすばらしい眺めでした。紅葉の山々をバックに奇岩の間を行く碧の木曽川。昔の旅人も、このあたりの景色には癒されたことでしょう。
 その少し先にJR高山線の坂祝駅があります。今日はここまでとし、列車でホテルのある美濃太田へもどりました。

木曽川の眺めが美しい「日本ライン」。中山道から木曽川の堤防に登るとこんな景色でした。
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町名同様読み方が難しいJR高山線の坂祝(さかほぎ)駅
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<30日目、12月1日>雨の木曽川沿いを行く
 ホテルの朝食はバイキングでしたので、本日の長丁場に備え、たっぷり食べてエネルギーを蓄積。美濃太田発の列車で坂祝駅へもどり、鵜沼(うぬま)宿をめざしました。今日はあいにくの雨。最初のうちは国道21号の車道歩きで、あまり面白みはありませんが、しばらく進むと旧道が残っている箇所がありました。旧道は、木曽川にせまる山の斜面を、上ったり下りたりしながら進む形になっています。
 木曽川と国道21号の間に「中山道 下りる」と書かれた標識を見つけました。その標識に従って階段を下りていくと、水がかなりの勢いで流れている沢があり、その脇に狭い歩道がつけられていました。国道21号線とJR高山線の下を潜り抜けるようになっており、その先には、うとう峠への山道が続いています。こんな雨の日にここを通る人などいそうもなく、ちょっと心細くなりますが、旧道を行くのが鉄則。「中山道いこいの広場」という名の休憩場所を通過して間もなくサミットとなり、そこを過ぎると団地や新興住宅地が現れ、景色は一変しました。大きな池もあります。その周りの紅葉が見頃で美しいのですが、激しい雨の中、ゆっくり眺めている気分ではありません。鵜沼台という住宅地の中を下っていくと、鵜沼宿を一望できる場所に出ました。雨に煙ってよくは見えないのですが、雰囲気の良さそうな街並みです。坂を下りきったところが桝形になっていて、そこから宿場町へと入っていきます。水路を渡った先が鵜沼宿の中心部。鵜沼宿は、電線の地中化がなされ、沿道の家々も宿場の雰囲気にあわせたつくりになっています。造酒屋の黒塀の先に並ぶ登録文化財の家並みも見応えがありました。

国道21号と高山線の間を行く旧道。かなりのアップダウンがあります。
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うとう峠の入口。この先はちょっとした山道です。
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峠を越えた反対側は住宅地でした。
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見事に修景されて、風情のある鵜沼宿。
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造り酒屋の黒塀の先には、登録文化財の家並みが
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 鵜沼宿からしばらく歩くと、道はふたたび国道21号と合流。この先は、各務原(かかみがはら)市の中心部を通っていくわけですが、完全に市街地化した道で、面白味はほとんどありません。名鉄線を跨ぐ三柿野付近には、川崎重工の広大な工場群がありました。その先で国道21号はバイパスとなって離れて行き、激しく行き交うトラックの風圧と跳ね上げる水に辟易していた状態からは解放されました。各務原市の市役所があるあたりは電線が地中化されており、すっきりと整った街並みが続きます。岐阜大農学部跡地の石碑がある市民公園は紅葉が真っ盛りでした。
 この各務原市のメインストリートと分かれ、旧道に入ると間もなく新加納。鵜沼宿と加納宿(岐阜)の間は17キロ余と距離が長いため、立場茶屋のあった新加納は、間の宿としての機能を有していたということです。道も枡形になっており、規模は小さいものの旧街道らしい好ましい町並みです。
 新加納を出ると畑や水田の中を行くのどかな道となりました。中山道と並行している名鉄各務原線がよく見えます。手力やその先の切通という集落の街並みは歴史を感じさせます。ようやく天気が回復し、薄暗い雨の中の歩行から解放されたところで、名鉄の細畑駅に着きました。時計をみると午後4時。このまま歩き続けても、加納宿に着く前に暗くなってしまいそうなので、本日はここまでとし、電車で宿泊先の岐阜へとむかいました。

各務原市中心部の中山道を行く。電柱がなくすっきりしています。
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新加納の枡形です。
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旧道と並行する名鉄各務原線
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<31日目、12月2日>長良川を越えて河渡宿、そして美江寺駅へ
 今日は雨の心配はないものの、冬型の気圧配置となった影響で風が強く、昨日と比べると格段の寒さです。岐阜から電車で細畑駅へもどり、年内最後の中山道歩きをスタート。
 細畑から加納に至る中山道は、古い街並みが続きます。領下というところには感じのよい地蔵堂と道標が立っていました。東海道線の下を潜り抜けると、名鉄の茶所駅。駅前には、中山道加納宿と記した石柱がありました。岐阜の市街地に吸収された加納宿には、古い建物はほとんど残っていません。本陣も脇本陣も標識があるだけですが、折れ曲がった道路の形状に宿場町らしさが感じられます。江戸期の石の道標もありました。旧加納町役場の古いビルが廃墟のように残っており、かつては岐阜とは別の町であったことがわかります。
 加納宿を抜け河渡(ごうど)宿へとむかう道は、ごく普通の都市周辺の住宅地の中を歩くといった感じで、あまり面白味はありません。鏡島と書いて「かがしま」と読ませる集落を抜けると、長良川の大きな堤防が見えてきました。その名も河渡橋という橋を渡った先が河渡宿です。橋の上からは岐阜城をはじめ長良川周辺の山々が一望でき、なかなかよい眺めでした。
 河渡宿は長良川の水面より低い「輪中」の中にある宿場です。堤防下に、「いこまい中山道河渡宿」と記した櫓が立っていました。その傍には馬頭観音堂がありました。河渡宿には、ほかにこれといった建造物や見どころはありません。しかし、背後には長良川の堤防が大きくそびえ立っており、川止めの際ににぎわった宿場であったことを実感することができます。
 穂積市の正津(なまづ)という、読み方が面白い地域を進みました。その先の本田という地域の街並みは旧街道らしい雰囲気があります。かつて代官所が置かれていたということです。
 広々とした水田の中を進むと、樽見鉄道の踏切が見えてきました。美江寺駅はすぐ先です。時計をみると、すでに予定した列車の発車時刻になっていました。無理かなと思いながらも急ぎ足で駅へむかったところ、2分遅れでやってきた列車に乗り込むことができました。年内はここまで。来春には必ず京都三条大橋に到達するぞ、という思いを胸に、帰途についたポン太とポン子でした。

名鉄茶所駅と「中山道加納宿」と記された石柱
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加納宿の枡形。かぎ型に曲がりくねっていて、どこを進めば良いかちょっと迷います。
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かつての加納町役場の建物です。
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河渡橋の上からの眺めはすばらしいものでした。この写真は長良川の上流側をみたところです。
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河渡宿と記された櫓と馬頭観音堂
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河渡宿と長良川の堤防
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本田代官所跡
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樽見鉄道の美江寺駅。少し遅れて到着した大垣行の列車に乗車することができました。
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師走の夜はイルミネーションめぐり

2017/12/08 22:19
 漆黒の闇に浮かび上がるイルミネーションは、まるで魔法の世界を見ているようです、とはちょっと言い過ぎかもしれませんが、浅間山麓の師走を彩るイルミネーションはかなりのインパクトがあります。
 もし、それがなければ、冬枯れの物寂しい世界が広がり、木々を振るわす風の音だけが聞こえてくるといった雰囲気ですから、とても出歩く気にはなりません。このような時期に点灯されるイルミネーションは何とも有り難い存在であり、師走の夜のささやかな楽しみということができます。もちろん、気温は氷点下と寒いのですが、あちらこちらに点された色とりどりのイルミネーションを見ていると、少なくとも心は暖かくなります。
 都会の明るく華やかなイルミネーションも魅力ですが、浅間山麓の凛とした空気の中で見るイルミネーションには、ひと味違う味わいがある、そう信じて、底冷えのする夜の巷を徘徊するポン太でした。

軽井沢駅前のイルミネーションです。
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旧軽井沢ロータリーのイルミネーションです。日が落ちると人通りは絶え、ポン太のためだけに点灯してくれているようでした。
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森の中のレストランです。さすがにテラスで食事をしている人はいませんが、そこだけが明るく輝いていました。
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人気のアウトレット、プリンスショッピングプラザ内のイルミネーションです。
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こちらは星野エリアの「ハルニレテラス」のイルミネーションです。派手さはまったくありませんが、周囲の闇と川音とのコラボが絶妙です。
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歩き回って冷え切った身体を温めるには温泉が一番です。最後にやってきた星野温泉トンボの湯にも大きなツリーが輝いていました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その25

2017/12/04 14:16
<28日目、11月21日>山の細久手宿から里の伏見宿へ 画像 
細久手宿では、タイムスリップしたような宿で一夜をすごし、その余韻がさめやらぬ中、御嵩(みたけ)宿を目指して大黒屋前を出発。今日は朝から晴天で、歩き旅には絶好のコンディションです。
 基本的には山地から平地への下りですが、まだまだかなりのアップダウンがあります。まずは秋葉坂越。そこにも昨日みたような三尊石窟がありました。鴨ノ巣一里塚には一対の塚が残っており、その先のふじあげ坂を過ぎてしばらく進んだところには、京都の嵯峨野のような美しい竹林がありました。一旦、津橋という山間集落に下りますが、さらに山道は続き、物見峠へと登って行きます。そこには、和宮を休息させるために設けられた御殿の跡である「御殿場」がありました。峠には現代人を楽しませるお洒落な喫茶店があり、ここまでは反対側からクルマで登ってくる人がかなりいるようです。
 坂を下ったところの集落は、謡(うとう)という由緒ありげな名前がついていましたが、人の気配がまったくありません。謡坂の一里塚を通過した先が、広重の描いた「御嵩」といわれている場所です。古い民家と坂のとりあわせがそれらしい雰囲気を漂わせていました。最後の石畳を通り、「牛の鼻欠け坂」と呼ばれる坂道を下りました。ここは、上方から江戸をめざした場合、最初に越えなければならない坂道であり、重い荷を背負った牛が鼻をぶつけるほどの急坂であったということからその名がついたそうです。京をめざすポン太とポン子にとっては、この坂を下れば山地が終わり、後は比較的平坦な道を進むだけということになるわけです。身体は楽になりそうですが、中山道らしい山道ともお別れかと思うと、ちょっとばかり寂しい気持ちになりました。

ふじあげ坂の先には美しい竹林の道が続いていました
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広重が描いた「御嵩」の場所。絵と見比べてみると、なるほどという感じがします。ポン子がポーズをとっているところには小川が流れていたようです。
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最後の坂道、「牛の鼻欠け坂」へ

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山地を脱し、平坦な道となった中山道です
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この地域に多い三面馬頭観音です
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 国道21号に合流すると間もなく右手に和泉式部の供養塔がありました。和泉式部といえば、百人一首の「あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」を思い出します。各地を旅した和泉式部は、この地で病を得て亡くなったということです。
 しばらく国道を歩き、左手の旧道に入ると間もなく御嵩宿です。本陣があった場所は駐車場になっており、標識があるだけですが、脇本陣は現存していました。その斜め前に露店をだしていた八百屋の御主人が、その場所からの眺めが御嵩一の景観だといいます。確かに脇本陣横の道の奥に地域のシンボルのような円錐形の山を望むことができ、良い眺めでした。
 御嵩駅を少し過ぎたところにあるお好み焼き屋で昼食をとりましたが、人気店のようでなかなかの美味。元気が出ます。御嵩宿と次の伏見宿との距離は比較的短く、国道を歩く部分と、湾曲した旧道を歩く部分が半々といった感じです。これまで歩いてきた山中と比べると単調な道であることは否めません。旧道から国道にもどり少し進んだところが伏見宿。旧中山道が国道に吸収されてしまったため、宿場町の面影はほとんどありません。本陣跡地は公民館となり、碑だけが立っていました。伏見宿へ入る少し前にすれ違った街道歩きの人から、無料の接待所があるという情報を得ていたので、その場所へ行ってみました。元伏見郵便局の建物を利用して、地元のおばさんたちがやっているお休み処で、茶菓子の接待がありました。伏見地区ふるさとづくり活動センターというのが正式名称のようです。岐阜県内の宿場町の中で、宿場の遺構がほとんど残っておらず、注目度の低い伏見宿をなんとかしたいと、雰囲気づくりに取り組んでいるということでした。
 伏見宿は、日本橋から50番目という節目の宿。中山道69次も残り19次となりました。思えば遠くまで来たものです。今回はここまでとし、最寄りの名鉄明智駅へとむかいました。

百人一首で知られる和泉式部の供養塔。中山道沿いのこの地で病に倒れたと聞けば、千年も昔の人なのに、まるで旅人同士であるかのように身近に感じられます。街道歩きの妙でしょうか。
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御嵩(みたけ)宿本陣跡前の街並みです
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御嵩一の景観だと教えられた場所はここです
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伏見宿で茶菓の接待を受けたお休み処です。
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伏見宿の接待所前の街並みです。日本橋から50番目という節目の宿場にしてはちょっと寂しい気がしました。
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冬の里山の楽しみ〜北アルプス大展望

2017/12/01 18:44
  首都圏や西日本では、まだまだ紅葉が見頃だというところも多いと思いますが、当地(浅間山麓)は、すっかり冬枯れの風景です。いつも徘徊している里山も、枯れ木の山と化し、登山道のまわりには見るものは何もありません。しかし、空気が澄んでくるこの季節ならではという楽しみもあるのです。それは、山頂からの遠くの山々の眺望です。とりわけ、白い屏風を立てたような北アルプス(飛騨山脈)は、神々しいまでに美しく、それを見ることができただけで、その日は一日中、良い気分ですごせるといっても過言ではありません。同じ県内とはいえ、浅間山麓から北アルプスまで、直線距離が80km前後ありますから、北から南まで、すべての山が鮮明に見えるという日は限られます。先日の平尾山は、まさにそんなラッキーデー。あれが穂高、あれが鹿島槍と、山座同定(山の名前の確認作業)に力が入ったポン太でした。

平尾山山頂からみた佐久平と北アルプス南部の山々です
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穂高岳(左)と槍ヶ岳(右端)の部分を拡大してみました。槍の尖った穂先を見つけると、なぜかいつも興奮してしまいます。
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こちらは北アルプス北部(後立山連峰)の山々です。左から順に、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬岳と雄峰が並ぶ様は圧巻です。
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双耳峰が特徴的な鹿島槍ヶ岳(左)と五竜岳(右)の部分を拡大してみました。
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東方の奥秩父方面の山々は墨絵のように見えました。これもまた絶景です。
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八ヶ岳連峰です。左の端が最高峰の赤岳です。
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われらがシンボル浅間山。いつ見ても端正で安定感があります。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その24

2017/11/28 17:29
<26日目、11月19日> 中津川宿から大井宿(恵那市)へ画像
 西へ進むにつれ、スタート地点への移動に時間がかかるようになりました。前回の到達点である中津川宿の本陣跡を出発したのは正午過ぎ。半日で行けるのは、次の大井宿(現・恵那市)までです。
 中津川宿の大井宿側には枡形が残り、その周辺には古い民家が集中していて、宿場町らしい雰囲気が漂っていました。中津川を渡り、のどかな旧道を進んで行くと、目の前に、「こでの木坂」が現れました。この坂は段丘上へのちょっとした高低差を登るだけですが、明治天皇巡幸の際には、地元青年が勾配緩和の道普請をした由。坂の上には、双頭一身道祖神という面白い形の道祖神が鎮座していました。
 国道19号に吸収されたごく一部を除き、中津川宿〜大井宿間の旧道は、右に左にとゆるやかなカーブを描いて下っていく感じで、後方にはいつも恵那山の大きな姿があります。実に気持ちの良い道です。茶屋本陣のある茄子川(なすびがわ)という集落も風情がありました。秋葉街道の分岐点として、往時はかなり賑わった場所です。茄子川集落のはずれからは、御嶽山を望むことができ、噴煙も確認できました。柿の実を収穫していた地元の人の話では、このあたりを近い将来リニア新幹線が通過するということでした。
 広重の「大井」のモデルになったという甚平坂の上からは、さらにはっきりと御嶽山を望むことができました。中央自動車道を越え、「鉄道省、昭和七年」の銘板がついた明智鉄道のガードをくぐると、間もなく大井宿です。桝形の先に本陣が見えてきました。本陣から続く街並みが大井宿の中心部で、無料公開中のひし屋資料館という商家を見学しました。その斜め前に残る旅籠には、巡幸の際に明治天皇が宿泊したそうです。玉座が残っていましたので、ポン太もそこに腰掛けて一休み。将来、「ポン太様御小休所」などという記念碑が建つことはないでしょうが・・・。大井宿の中を行く中山道は、枡形の連続といった感じで複雑ですが、しっかりした標識が出ているので迷うことはありません。一通り大井宿を見学した後、恵那駅近くのホテルに投宿しました。

こでの木坂
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これが双頭一身道祖神です
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大きな恵那山を背に、のどかな旧道を下りました
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広重の「大井」のモデルになったという甚平坂からみた御嶽山
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大井宿の本陣。このまわりは宿場町らしい雰囲気です。
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<27日目、11月20日>中山道最後の難所、十三峠越えにいどむ画像
美濃路における中山道歩きのハイライトであり、中山道屈指の難所でもある、「十三峠」を歩く日がやってきました。大井宿を出ると、およそ20キロ先の細久手宿まで、宿泊施設はゼロ。商店すら1軒もなく、飲食物の調達はできないという話を聞いていたので、予備も含めて多めの食料を背負い、早朝にホテルを出発しました。
 大井橋を渡って恵那市内の中山道を進むと、ちょうど「のれんコンテスト」というイベントが行われており、沿道の各家の前に手作りののれんが下がっていました。どれも力作で、古い民家の通りにはのれんが良く似合います。アイデア賞を出してもよいようなイベントだと感心しました。中津川もそうですが、恵那市もまた中山道を地域の誇りとし、積極的にアピールしようという意欲が感じられます。
 中央線(上り線)の中仙道踏切を渡り、高速道路の下をくぐり抜けたところから山道が始まりました。「これより西 十三峠」と記された石標の先は、いきなり石畳の急坂でした。「十三峠」というのは固有の地名ではなく、この先、大湫(おおくて)宿まで、いくつもの峠を越えていかねばならないので、それらを総称して「十三峠」と呼んでいるわけです。昔の旅人にとって、険しくはないもののやっかいな骨の折れる道程であったことは間違いありません。坂を登り終え、槇ヶ根一里塚を過ぎたあたりから展望が開けて、まだ見頃といってもよい紅葉も含めて、すばらしい景色を楽しむことができました。
 槇ヶ根一里塚は両側の塚がしっかり残っていました。この先も、対をなした一里塚が連続して残されており、そうした場所は中山道全体でもここだけという貴重な存在です。緩やかな起伏をもつ高原状の丘陵地(地形的には隆起準平原に該当するようですが)を行く気持ちの良い道がずっと続きます。残丘の間のちょっと開けた場所には小さな集落が点在し、木曽路とはまた違った味わいがありました。
 道はアップダウンをくりかえしますが、それぞれの坂には名前がついており、息が乱れ、大名行列も乱れたところから「乱れ坂」という名がつけられた坂もありました。次の紅坂一里塚も原型そのままの一対の塚が健在。その先の深萱という山間集落には立場(休息所)の標識があり、間の宿のような役割を果たしていたようです。
 大井宿からおよそ4時間で、この地域のシンボルである権現山の登山口に着きました。今日の行程の中間点にあたるところです。絵のような山里風景が広がっており、気持ちのよい場所なので、道端の土手に腰をおろして、早めの昼食をとりました。

恵那市内の旧道沿いで行われていた「のれんコンテスト」

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いよいよここから十三峠が始まります。
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原形をとどめている槇ヶ根一里塚
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槇ヶ根一里塚の先には、こんな大展望が待っていました。
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隆起準平原上を行くこの道が旧中山道です。
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大名行列も乱れたという「乱れ坂」
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権現山登山口付近の山里。旧中山道と集落とが見事に調和している感じです。
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 樫の木坂一里塚を過ぎると、中山道の両側はゴルフ場として開発されていて、道のところだけが昔のまま残されていました。樹間からゴルフのカートなどが見えると、ちょっと違和感を感じますが、静かな歩きやすい道です。石窟の中に石仏が納められている三十三所観音を過ぎ、20分ほど歩くと大湫宿への下りとなりました。この地域は、石窟に石仏を納めることが一般的なようで、この先でもいくつかそのようなものを見かけました。また三つの顔をもつ馬頭観音も多いようです。
 大湫宿を見下ろす寺坂を下り、集落に入って枡形を左折したところが本陣跡。今は学校のグランドになっていますが、そこには皇女和宮の歌碑が立っていました。沿道には店がないという話でしたが、大湫宿の入口付近に小さな商店があり、パンぐらいは買えそうです。きれいな公民館のフロアには中山道関連の展示もありました。大湫は想像していたよりは大きな集落で、脇本陣も現存しており、宿場の雰囲気を十分感じることができます。ただし宿泊施設はありません。
 今宵の宿、細久手宿の大黒屋に電話をして、無事に大湫まで到達したことを告げました。大湫宿のはずれにも大きな高札場があります。その前を過ぎて少し歩いたところが、広重描く「大湫」の場所で、沿道には絵の中で強調されている大きな石(二つ石)が現存していました。大湫病院の先で再び山道へと入ります。本日最後の峠であり、日本一長い石畳が残る琵琶峠への登りが始まりました。それほどの苦労を感じることなく登り切った頂上で、この日はじめて中山道歩きの旅人とすれ違いました。6時間歩いて、出会ったのがたった一人というのは寂しいですが、市街地からも鉄道からも遠く離れた不便な場所であればこそ、旧中山道が原形に近い形で残ったともいえるわけです。日常生活でこの道をたどる人はほとんどいないでしょうから、中山道歩きを楽しむ人だけの楽園ロードというわけです。
 長い石畳を下りて里に近づくと、子供たちが叫んでいるような甲高いざわめきが聞こえてきました。こんな山中にも小学校があり、校庭で遊ぶ子供たちの声がこだましているのかと思ったのですが、とんだ勘違いで、その音源は巨大な鶏舎でした。八瀬沢という山間集落の近くには大きな養鶏場が立地しており、沿道には「国際犬訓練所」という施設もありました。鳴き声への苦情がでない山中を選んでそのような施設をつくったのでしょう。

大湫宿への道。風情がありますが、人に会うことはありませんでした。
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寺坂から見下ろした大湫宿
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広重が描いた「大湫」の場所はここ。大きな石(二つ石)が目印です。
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日本一長い石畳のある枇杷峠への入口
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枇杷峠のサミットです。皇女和宮の歌碑が立っていました。「住み馴れし都路出でてけふいくひ いそぐもつらき東路のたび」 とあります。こちらは京が近づくほど気分が高揚するような楽しい歩き旅ですが、和宮の降嫁の旅は、東へ進むにつれて寂しさが募るばかりだったのでしょうね。
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 琵琶峠の山道が終った後は、自動車も通れる舗装道路を歩くことになります。交通量は少ないものの、時折通る車に注意しなければならず、本日の行程の中では面白みの少ない区間です。それでも弁天池という池や、一対の塚が残る瑞浪一里塚があり、間違いなく街道を歩いていることがわかります。右手の藪の奥から、すさまじいエンジン音が聞こえてきて、暴走族がやりたい放題をやっているのかと緊張しましたが、道の分岐にYZサーキットという看板があったので、事情がわかりました。これまた騒音への苦情がでない場所を選んでいるわけです。
 そのエンジン音が遠ざかったところに細久手宿がありました。大火で古い建物はあまり残っておらず、宿場町の面影は希薄ですが、江戸時代以来の貴重な旅籠が1軒、今も営業しているのです。それが、今宵の宿、大黒屋です。早朝に出立したかいあって日没よりずっと前に到着することができてほっとしました。
 大黒屋は、昔の建物だけに、街道に面した格子の内側に薄いガラス窓があるだけで、雨戸はありません。狭い廊下、階段脇の吹き抜けなど、旅籠だった時代を偲ばせる構造になっています。現代の感覚では快適とは言い難いですが、タイムスリップの旅にはまことにふさわしい宿です。
 横川の旅館で出会った人たちから、料理が美味しいのでぜひ宿泊をと勧められた宿であり、出された料理は、確かにほかとは違うものでした。百合根、あまごの塩焼き、鯉の甘露煮、里芋まんじゅうなど、ふだん口にすることのないものばかり。昔の大名クラスに出された最高の料理に近いものではないかという思いがしました。
 今日の宿泊客は私たちのほかには、同じ中山道歩きをしている70代の二人組だけ。ここに泊まるのはほぼ中山道歩きの人に限定されるようです。宿の人の話では、明日からの三連休は満室とか。横川で噂を聞いた料理上手の90代の大女将にお目にかかることはありませんでしたが、ご健在で、今も調理をご担当とのこと。
 部屋の暖房は石油ストーブのみ。それも夜は消してしまうので、毛布や布団を多めに被って寝ました。幸い寒いと感じることはありませんでしたが、翌朝、隣に寝ていたポン子が、夜中に激しく戸をたたく音がしたというのです。疲れ果て、行き倒れになりかけた旅の人が開けて欲しいとアピールしていたのではないか、その人は大丈夫だっただろうかといいます。まさかと思いましたが、やはりそれは風の仕業だったようです。妄想も江戸時代にスリップした旅籠の一夜でした。

ようやく細久手宿に入りました
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今宵の宿、江戸時代から続く旅籠「大黒屋」です
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大黒屋のレトロで興味深い夕食はここからスタートです
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大黒屋の建物の中はこうなっていました。
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