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浅間山麓のブラタヌキ
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浅間山麓に移り住んだタヌキのポン太のブログです。どんなタヌキかって?それはプロフィールをご覧下さい。
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忘れ難き終着駅(4)〜北恵那鉄道下付知駅

2019/02/13 21:17
第4回 北恵那鉄道下付知駅(岐阜県)

 日本の鉄道に全部乗りたい、そんなことを考えはじめたころ、最初に目標としたのは国鉄線全線乗車でした。ベストセラーとなった『時刻表2万キロ』の著者である宮脇俊三氏も同じことを考えたようですが、その後の著作の中で、これは失敗であったという主旨のことを述べています。 ポン太も同感で、私鉄を優先すべきであったと思います。なぜなら、国鉄ローカル線の廃止が本格化したのは、1980年代に入ってからですが、ローカル私鉄はそのだいぶ前から廃線への流れが加速しており、国鉄に目をむけている間に、乗る機会を逸してしまった私鉄のなんと多いことか。
 そんな中で、幸運にも廃止直前に乗ることができた路線の1つが北恵那鉄道です。それは、岐阜県東濃地方の中心都市である中津川市(旧中津町)と木曽川の支流付知川沿いの恵那郡付知町(現在は中津川市域)とを結ぶ、全長(営業キロ)22.1kmの電気鉄道でした。画像
 この鉄道の建設には福沢諭吉の娘婿である福沢桃介が深く関わっています。桃介が力を注いだ事業の中心にあったのが、木曽川水系における電源開発(水力発電所の設置)でした。木曽川本流の大井発電所(大井ダム)の建設により、付知川流域からの筏による木材搬出ができなくなるため、その代替輸送手段として、この鉄道の建設が必要になったのです。大井発電所の竣工年と同じ1924(大正13)年8月5日に、中津町〜下付知(しもつけち)間を開業し、桃介自ら社長に就任しています。1937(昭和12)年には、終点の下付知で接続する付知森林鉄道が敷設され、北恵那鉄道は木材輸送に大いに役立ったものと思われます。
 しかし、1959(昭和34)年に森林鉄道は廃止され、高度成長期以降、モータリゼーションの進行とともに利用客も減少。元々沿線人口が多い地域ではなかったこともあり、厳しい経営を余儀なくされたことは想像に難くありません。
 ポン太が訪れたのは、1978(昭和53)年8月24日です。同線の廃止は同年9月18日ですから、かろうじて間に合ったといえましょう。国鉄中央西線の中津川駅で下車し、北恵那鉄道に乗り換える際に、興味深かったのは、同線の起点駅が国鉄駅からはだいぶ離れた中央線の線路の反対側にあり、駅名も昔の町名の中津町を名乗っていたことです。地方私鉄の場合、国鉄線のホームの片隅から発着するようなケースが多いのですが、堂々とした自前のターミナルを有し、国鉄駅とは異なる名称を堅持していたことに、ある種の感動を覚えました。
 駅の佇まいも年季の入った車両も、ローカル電車のイメージそのもの。道床に雑草が生い茂り、その中をかき分けるようにして走るところもあり、文字通り草深い路線でした。それは、厳しい台所事情の証でもあったわけで、ガタンゴトンとよく揺れる電車に乗って、終点の下付知駅に到着した時には、この時代(1970年代末)までよくがんばりましたね、長い間ご苦労様でしたと、頭を下げたい気持ちになったポン太でした。

 北恵那鉄道の起点、中津町駅です。このような立派な駅舎でした。(1978年8月24日撮影、以下同様)
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 中津町駅のホームに停車している7:03発の下付知行一番電車です。電車が走るのは朝夕のみで、この電車の次はなんと16:15。その後4本の電車がありますが、日没後になってしまいます。なんとしてもこの電車に乗らねばと、長野発の夜行列車で朝4時に中津川駅に着き、駅待合室で待機していたのです。
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 途中の並松駅で上り電車と交換しました。どこに線路があるのかわからないほど雑草が繁茂しており、ローカル電車の悲哀を感じてしまいました。中津町から乗車した電車(デ563)もこの電車(デ565)も、名鉄から譲り受けた電車です。
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 終着駅下付知駅に着いた電車です。構内は広く、貨物輸送が盛んだった時代を偲ばせます。
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 下付知の駅舎も予想外に大きなものでした。付知町の中心部からは少し離れた場所にあり、延伸を予定したもののかなわなかったということです。
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 北恵那鉄道の車内補充券です。中津町〜下付知の所要時間は53分、運賃は420円でした。
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可愛いわら馬ひき

2019/02/10 22:27
 何もかも、すべてが可愛らしい伝統行事を見てきました。それは、真田の里(上田市真田町)の戸沢という集落に伝わる「ねじ行事」です。「ねじ」というのは、米粉でつくった蒸し餅に彩色をして餡を入れ、花や動物の形に仕上げたもの。それを道祖神に供えるという行事ですが、前年に子供が生まれた家では、祭の前日に親類縁者が集まり「ねじ」をつくってお祝いするということです。
 道祖神へのお供えの仕方に特色があります。家毎にわら馬をつくり、その背中に「ねじ」を背負わせて台車に乗せ、それを子供たちが曳いて道祖神へとむかうのです。その何ともいえない可愛らしさ。道祖神に「ねじ」を供えて無病息災を祈るだけでなく、母親たちは重箱に入れて「ねじ」を持ち寄り交換します。お互いの子供の成長を願うというわけです。
 この「ねじ行事」のように、一般には知られていなくても、小さな集落に引き継がれている伝統行事の中には、思わず微笑んでしまったり、驚いたり、感心したりするものが少なくありません。しかし、それを実際に見たり体験したりするのはかなり大変です。テレビや新聞で報道されることがあっても、その時点ではすでに「後の祭」。どうすれば事前にその情報をつかむことができるのでしょうか。
 今回は、たまたまネットでその写真を見たことがきっかけでした。市のホームページでも詳しいことはわからず、地元の公民館に問い合わせて、ようやく開始時刻や正確な場所を知ることができました。
 そんなわけで、当該地域外から見に来ていた人はごく僅か。もったいないと思う反面、観光行事化していないからこそ、間近に見ることができ、感じるところが多いともいえます。やはり、地域の地域による地域のための行事であることが、その内容を変質させず、長く続けていられる理由かもしれません。
 ふだん見ることができないものを見ると、ぞくぞくワクワクするようなところがあります。チコちゃんも言っていました。高齢になるほど月日の経つのがはやいと感じるのは、子供の頃と比べて「ときめき」が少ないからだと。確かに、思う存分徘徊し、目新しいものを見つけて気分が高揚した日は、一日が長く感じられます。そうだ、そのとおりだ、徘徊は金、家でのんびりは糞だ、と宣言し、今度はポン子に叱られたポン太でした。


 この行事が行われた戸沢集落の入口です。戸沢は、猿飛佐助の師匠である甲賀流忍術の達人、戸沢白雲斎が住んでいた場所ともいわれています。地名の表示板には当然のことながら真田の六文銭が描かれています。
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 わら馬をひいて、子供たちが出てきました。準備はいいかな。
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 ひく方もひかれる方も可愛いらしいわら馬ひきです。
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 晴れ着を着て道祖神へむかう家族もいます。
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 がんばれ、あと一息だ。
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 道祖神の近くまでやってきました。
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 道祖神に到着です。
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 「ねじ」を供えて無病息災を祈ります。
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 道祖神に供えられた「ねじ」。これまた可愛いらしいですね。
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 お母さんたちは、お互いの子供の成長を願い、持ち寄った「ねじ」を交換します。
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 子供はおんぶにだっこ。親にひかれていくわら馬も。
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 家にもどるわら馬たち。この後、わら馬は屋根に放り投げられます。わら馬が災厄を背負って天にのぼってくれるからだとか。
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夕陽はマジシャン

2019/02/07 09:53
 かつて大阪〜札幌間に、「トワイライトエクスプレス」という名の寝台特急列車が走っていました。日本海の夕景を堪能できるというのがウリで、ポン太も一度は乗ってみたいと思っていたのですが、実現しないうちに廃止されてしまいました。
 旅先で見る夕景ほど心に染みるものはありません。豪華列車ではなくても、列車の車窓からみる夕景は最高のごちそうのような気がします。太陽が大地を朱に染めながら沈んでいく。その燃えるような一瞬が過ぎると、山の端がシルエットとなって浮かびあがります。次第にあたりは暗くなり、小さな集落の家々の窓に、ぽつりぽつりと灯りが点り始めます。そのうちには道路も畑も見分けがつかなくなってきます。所々にある街灯の下だけがぽっと明るくなっていて、人影がみえたりすると、この土地の人たちはどんな暮らしをしているのだろうか、などと想像してしまいます。
 黄昏時は寂しくていやだという人もいますが、ポン太にとっては、このトワイライトタイムこそ至福の時間といっても過言ではありません。雪のある場所でのトワイライトシーンはとりわけ印象深く、半世紀も前になりますが、冬の北海道を蒸気機関車のひく普通列車で旅した際、雪原に沈む夕陽と機関車の吐き出す煙のシルエットに感動したことが、今も忘れられません。かの啄木も「うす紅く雪に流れて入日影 曠野(あらの)の汽車の窓を照らせり」と歌に詠んでいます。辺境の地釧路へむかう車中の歌であり、悲しみと希望の入り交じった心境を重ねあわせたものといわれています。
 先月末、浅間山麓にようやくまとまった雪が降ったということをブログに書きました。その後もう一度積雪があり、きれいな雪景色となったので、日没間近な時間にウォーキングにでかけました。林も山も水辺も、夕陽に照らされると、ふだん見ているものとはまったく別物に変身です。雪が舞台芸術家だとすれば、夕陽はマジシャンと言うことができるかもしれません。
 わが家のまわりで見た、印象的なシーンをいくつかご紹介したいと思います。


 陽が傾いてきました。いざ、ウォーキングへ。
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 夕陽を浴びた水辺。いつもと違った雰囲気です。
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 落葉松林のむこうに、陽が沈もうとしています。
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 浅間山も夕陽に紅く染まっています。
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 中山道も黄金の道に変身です。
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 いよいよ日没です。ここはふだんはなんということのない空き地で、バスの廃車体が置いてあったりするのですが、雪と夕陽が別世界に変えてくれます。
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 わが家の西方、美ヶ原に沈む夕陽です。
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 陽が沈んだ後の山のシルエットも見応えがあります。浅間山麓のテレビの電波は、すべてこの美ヶ原から送信されてきます。目を凝らすと、山頂に電波塔が林立しているのがわかります。
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 落日の余韻。シルエットになった木々の雰囲気もよく、いつまでも眺めていたい気分になります。
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 ここまで暗くなると、さすがに寂しさの方が勝ります。身体も冷えてきました。そろそろ引き上げるとしましょう。
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 ※このところの気温上昇で雪が溶けてしまい、残念ながら現在は上記のような状況ではありません。
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浅間山麓のスゴすぎる節分事情

2019/02/03 19:08
 「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうですが、何かを達成したという実感もないままに、1月はあっという間に過ぎ去り、今日は節分。子供たちが小さかったころは、わが家でも毎年ささやかな「豆まき」をしていましたが、その後はとんとご無沙汰です。有名な寺社で芸能人が「豆まき」をしている姿をテレビのニュースで見て、「へぇー、そうか今日は節分か」と意識するだけで、自らアクションを起こすことなどありませんでした。
 ところが、信州の節分事情を知るにつれ、これは結構な地域イベントではないかと興味をそそられました。盛大な「豆まき」をする寺社がすこぶる多いのです。それも単に豆をまくのではなく、殻付きピーナッツやチョコレート菓子といった食べ物から軍手、スポンジのような日用品に至るまで、何でもまきまくる(投げまくる?)。それをゲットしようとするジイバアが、ビニール袋を手に大フィーバー。そんなことを聞けば、その様子をちょっと覗いてみたくなります。
 節分といえば、地元スーパーのツルヤも本日限りの「節分だるま福引」を開催。2000円以上購入すれば、空くじなしで景品が当たるというもので、今年で54回目という恒例行事です。当選確率が半分以上もある4等でも「福だるま」が貰えます。ただし、景品が終わり次第終了ということなので、いつもよりはやい9時の開店時から買い物客が続々入店。ポン太もそれに加わり、無事「福だるま」をゲットしました。
 「豆まき」の方は、どこの寺社へ行くべきか迷ったのですが、できるだけ賑やかなところがよかろうと、ぴんころ地蔵で有名な佐久市野沢の成田山薬師寺へ出かけました。その狙いは的中。日曜日と重なったこともあり、大勢の家族連れが境内を埋め尽くしていました。子供たちという強敵を前に、ジイやバアもヒートアップ。そのパワーとテンションの高さをみれば、ぴんころ地蔵などお参りしなくても大丈夫ですよ皆さん、と言いたくなってしまったポン太でした。


 これがツルヤの折り込み広告の一部です。同店のイベントは、抽選とはいっても、ゲットできる可能性の高いものが多いので、出かけてみる価値が十分あります。ちなみに、わが家の部屋に飾ってある観葉植物は、すべて同店のイベントでいただいたものです。
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 9時の開店時には、すでに駐車場はクルマでいっぱい。今日は朝から良く晴れて、浅間山がきれいに見えました。
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 ツルヤの福だるまを飾り、恵方巻きでランチとしました。
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 午後はいよいよ野沢の成田山へ。「ぴんころ通り」を歩いて成田山へむかいましたが、誰一人歩いている人はいません。本当に節分のイベントがあるのだろうかと不安になります。
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 成田山の参道に入るとようやく人が現れました。おっ、結構来ているじゃないか。
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 これが近年人気抜群のぴんころ地蔵です。ツアーバスまで立ち寄るそうです。
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 境内に入ると、あっとおどろく人また人。
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 子供たちも、ビニール袋を手にスタンバイです。
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 待つことしばし、「豆まき」が始まりました。なんと同時に三ヵ所からです。あまりに種類が多すぎて、何が空中を飛んでいるのかよくわかりません。
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 トイレットペーパーやサンダルもまかれているようです。
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 マスクを飛ばしてナイスキャッチ。大物をゲットしたようですね。おめでとうございます。
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 戦利品を手に成田山を後にするジイバアたち。みんなよく捕るものですね。
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 さて、ポン太たちの戦利品はといえば、この8点。まあまあの成果ではないでしょうか。ツルヤのだるまの弟分のような小さなダルマもゲットし、満足しました。それにしても、この内容はほとんど日用品。これって、「豆まき」なのでしょうか。ゲットできたのですから文句は言いませんが・・・。
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雪あればこそ

2019/01/30 19:06
 この冬、浅間山麓は極端に雪が少ない状態が続いておりましたが、先週末にようやくまとまった雪が降りました。積雪は数センチといったところでしたが、冬らしい景色にはなりました。
 雪化粧とはよく言ったもので、殺風景だった森や野原が、あっという間にメルヘンのような世界へ変身してしまう面白さ。この大変貌には、森の動物たちも浮かれてしまうようです。窓から雪景色を眺めていたポン子が「あれっ、キツネが遊んでいる!」と大騒ぎ。部屋の奥の方にいたポン太にはキツネの姿は見えませんでしたが、裏庭から森の方へと続くそれらしい足跡がありましたから、キツネが現れたことは間違いなさそうです。雪上の足跡から、どんな動物が徘徊したのか想像して楽しむことができるのも雪あればこそです。
 雪がやみ、日差しが出てきたところで、ウォーキングに出かけました。クルマの通行量が多いところは、雪が踏み固められてツルツルになっていたりするので要注意ですが、林の中の雪の小径を歩くのは、本当に気持ちがよいものです。いつも歩いている場所なのに、まったく違う世界に来たような気がして、飽きることがありません。浅間山も、水辺の景観も、雪があるとないとでは大違いです。
 浅間山麓がいわゆる「雪国」ではないからこそ、こんなのんきなことを言っていられるわけですが、同じ信州でもメートル単位で雪が積もり、その対策に悩まされている北部(北信地方)の人たちからは、ふざけるなとお叱りをうけるかもしれませんね。申し訳ないとは思いつつ、久々の雪景色に熱くなってしまったポン太でした。

 ポン太の森も雪化粧しました。
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 この足跡は?キツネだと思うのですが・・・。
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 まずは家の近くの雪道を抜けてウォーキングへ。幹線道路以外はこんな感じです。
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 ここは中山道。クルマが圧雪状態にしたところが少し溶けてから凍ると、このようなツルツル状態になってしまいます。歩くのも怖いのですが、クルマの方だって、急ブレーキでもかけようものなら大変なことになりますね。
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 森の中に入るとほっとします。クルマの来ない雪道散歩は快適そのものです。
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 風が吹くと雪が舞い上がり、そこに陽が差し込むと、きらきら輝いてまるでダイヤモンドダストのよう。
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 国木田独歩の「武蔵野」ではありませんが、道に迷うことをためらうなという気分になります。この角はどちらに行っても雰囲気がよさそう、左かな、それとも直進かな・・・。
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 生け垣にできた氷柱も目を楽しませてくれます。
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 水辺も雪があると雰囲気が違います。散歩に出てきた人も多いようで、雪の上には足跡がいっぱいです。
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 麓に雪があると浅間山も一段と輝いてみえます。
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忘れ難き終着駅(3)〜勝田線筑前勝田駅

2019/01/27 09:08
 第3回 勝田線筑前勝田駅(福岡県)

 子供のころ(60年も前の話ですが)、小学校の社会科の教科書に必ず載っていたのが、石炭産地の分布図でした。当時、石炭はまだエネルギーの主役の地位にあり、教室のストーブにも石炭が用いられていましたから、その産地に関する知識は、小学生にとっても必須のものだったわけです。九州の北部に産出量の多さを示す大きな黒丸がたくさんついていたのが印象深く、どんなところだろうかと、興味をもちました。画像
 残念ながら、九州はあまりに遠く、石炭産業全盛時にその地を訪れることはできませんでしたが、その名残の鉄道路線には、いくつも乗車することができました。今回とりあげた勝田線もその1つです。勝田線は鹿児島本線の吉塚(博多駅の隣)駅と筑前勝田駅を結んでいた13.8kmの路線です。開業時は筑前参宮鉄道という私鉄で、1919(大正8)年5月20日に全通(前年の9月19日に宇美〜筑前勝田間は貨物線として開業)しています。1942年に西日本鉄道(西鉄)に統合された後、1944(昭和19)年5月1日、戦時買収により国鉄勝田線となりました。
 沿線の糟屋(かすや)郡一帯には、かつて大小50以上の炭鉱があり、糟屋炭田とよばれていました。とりわけ規模が大きかったのが志免(しめ)炭鉱(志免鉱業所)と三菱勝田炭鉱です。前者は国有の炭鉱で海軍艦艇の燃料を確保するために開発され、戦前は海軍の管轄下にありました。戦後は国鉄の管轄となり蒸気機関車の燃料等に用いられました。エネルギー革命の進展により、前者は1964年、後者は1963年に閉山。志免鉱業所には、全国最大規模といわれた大型竪坑櫓(1943年竣工)があり、2009年に国の重要文化財に指定されています。
 ポン太が勝田線に乗車し筑前勝田駅に降り立ったのは1976(昭和51)年7月31日ですが、実はこれには前段があります。その3年前の1973年8月25日、香椎線に乗車した際に、宇美で乗り換えて筑前勝田まで行き、折り返して吉塚へ向かおうと考えました。これなら1回で両線に乗ることができるからです。ところが、なんとその前の月に発生した集中豪雨被害により勝田線は不通になっており、乗車はかないませんでした。復旧には1年以上かかったということで、それから3年後の再訪でようやく乗車できたというわけです。
 勝田線の列車本数は、一日7往復(うち1往復は土日のみ運転)。ほかに吉塚〜志免間には平日のみ運転の区間列車が1往復があったものの、運転間隔が開きすぎて使い勝手の悪い路線であったことは間違いありません。1985(昭和60)年4月1日に廃止となりました。
 路線の廃止後に、一度、現地を尋ねたことがあります。2011年秋のことですが、筑前勝田駅跡だけでなく志免町の志免鉱業所竪坑櫓などを見て回りました。かつての沿線エリアは福岡都市圏の近郊住宅地として発展しており、福岡市内とを結ぶ路線バスが頻繁に行き交っていました。もし勝田線が大都市近郊路線と位置づけられ、それなりの方策が講じられていれば、存続できた可能性がないとはいえません。財政再建問題に苦しんでいた当時の国鉄の余裕のなさ、無為無策を想起させるという点でも、ポン太にとって忘れ難き終着駅なのです。


 ありし日の筑前勝田駅です。停車している車両はキハ20439、土日運転の6829D列車(折り返して6830D列車となる)です。朝夕には客車列車(ディーゼル機関車牽引)が運転されていたので、機回し線があります。(1976年7月31日撮影)
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 道路より低い位置にあった筑前勝田駅駅舎です。この雰囲気からすると、筑前参宮鉄道として開通して以来の駅舎だったのかもしれません。(上に同じ)
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 かつての筑前勝田駅跡です。小公園になっていました。駅跡を示すものは何もありませんが、地形と周囲の山々の形から、ここで間違いなさそうです。(2011年11月21日撮影。以下同様)
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 勝田線からも見ることができた志免鉱業所の巨大な竪坑櫓です。高さはなんと47.6mもあり、国の重要文化財に指定されています。現存するものは、世界でも、こことベルギーのブレニー、中国の撫順しかないということですが、建築年代が比較的新しい(1943年竣工)ことから、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成要素とならなかったのが残念です。
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 勝田線志免駅の跡地は「志免鉄道記念公園」として整備されていました。後方に竪坑櫓が見えます。
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 志免駅ホームの跡です。中央部を道路が横切っていますが、駅の雰囲気は感じます。
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 石壁にはめ込まれていた志免駅の写真です。廃止直前のようで、ホームに大勢の人がいます。
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 廃線跡のかなりの部分が遊歩道化されていました。
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厳冬の軽井沢を歩く

2019/01/23 22:25
 浅間山麓では、年が明けてからもずっと雪の無い状態が続いています。いつもの年ですと、アイスバーンと化した道を、恐る恐る歩かなければならないのですが、今のところ、どこでも普通にウォーキングをすることができます。寒さは厳しいものの、防寒着さえあれば、歩きやすいことは間違いなく、先日は、旧軽井沢から碓氷峠往復のウォーキングを楽しんできました。
 クリスマスシーズンとは異なり、さすがにこの時季に軽井沢を訪れる人は少なく、旧軽銀座ですら人影はまばらです。別荘エリアや碓氷峠へ通じる遊歩道で、人に出会うことはまずありません。聞こえてくるのは風の音のみという静かな軽井沢。古くからの在住者に聞くと、この季節が一番よい、一番好き、と答える人が多いそうです。
 葉を落としている木々の間から、浅間山をはじめ周囲の山を見渡すことができるのも、この季節ならでは。クマの心配もなく、安心して歩いていられるというメリットもあります。花も緑も紅葉もなく、殺風景といえば殺風景ですが、「静寂」に価値を求めるなら、確かに軽井沢はこの季節が一番といえるかもしれません。
 
 旧軽井沢のロータリーも閑散としており、人影はありません。
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 旧軽銀座も歩いている人は数えるほどで、夏の賑わいがウソのようです。
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 旧軽銀座からショー記念礼拝堂へむかう旧道(中山道)もごらんのとおり、誰も歩いていません。
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 碓氷峠へむかう遊歩道沿いの川は半分凍っていました。
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 夏は森の中をひたすら登るといった感じの遊歩道ですが、葉が落ちているこの季節は、まわりの風景がよく見えます。
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 樹間から顔をのぞかせた浅間山が背中を押してくれます。
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 誰もいない碓氷峠の見晴台。雄大な景色を独り占めです。 
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鉄道唱歌に「鉾か剣か鋸か 獅子か猛虎か荒鷲か 虚空に立てる岩のさま」とある妙義山ですが、まさにそのとおりの眺めです。
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 見晴台からみた浅間山です。南麓のポン太の家から見る浅間山とは、だいぶ形が違います。
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 別荘地内の道も静まりかえっていて、人の気配はありません。これを寂しくていやだと感じるか、静かで安らぐと感じるか、後者であれば、軽井沢は冬が一番ということになります。
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 冬の軽井沢といえばスケート。これは野鳥の森に隣接する天然氷のケラ池スケートリンクです。スケートを楽しんでいる人の姿をみると、ちょっとやってみたくなりますね。滑れるのかって? 大丈夫、入試以来滑るのは得意のポン太ですから。
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山城を攻略〜砥石、米山、枡形城

2019/01/21 00:14
 体力なし、技術なし、気力なしの古ダヌキにとって、冬場に山歩きが可能なのは低山のみ。同じ山ばかりではさすがに飽きてしまいますので、できればまだ足を踏み入れたことのない山に登りたいもの。しかし、浅間山麓とその周辺の山は、ほぼ行き尽くしていますから、この時季に登って面白そうな低山はなかなか見つかりません。そこで目を付けたのが山城です。戦国時代の山城は、実戦に備えて険しい山の頂につくられていることが多いので、史跡めぐりを兼ねた山歩きが楽しめるのではないかと考えました。
 上田市近郊の伊勢山という地区に、砥石(といし)城という山城があります。地形図によれば、山の標高は788.7m、頂上には三角点が置かれています。戦国時代の歴史が好きな方ならご存知と思いますが、砥石城を攻略しようと攻め寄せた武田信玄が大敗し、「砥石崩れ」などといわれている戦い(天文19年=1550年)が行われた場所です。単独の山城ではなく、すぐ隣の峰には米山城があり、砥石城から尾根伝いに北へ進むと、「本城」と枡形城があります。これら一群の山城によって、強固な山岳要塞が形成されていたのです。麓の集落と最高地点である枡形城の比高は約200mありますし、すべての城跡を見て回るとおよそ2時間の行程となりますので、それなりの山歩きができます。
 ここを守っていたのは、葛尾城(現在の坂城町)を本拠地とする豪族、村上義清配下の諸将でした。実際に歩いて見れば、この山城を正攻法で攻め落とすのは至難だということがよくわかります。しかし、「砥石崩れ」の翌年、信玄の命を受けた真田幸隆(昌幸の父であり、幸村の祖父)の調略によりあっけなく陥落してしまいます。「乗っ取り」ともよばれるこの戦功で、幸隆は信玄の信頼を得、武田の有力な家臣になったということです。調略、謀略、寝返り等、何でもありで戦国の世をしぶとく生き抜いた真田一族。その戦いの原点がここにあったのかと思うと気分が高揚します。
 ちなみに、砥石城陥落の2年後、武田勢に攻められて葛尾城を追われた村上義清が、越後の上杉謙信に助けを求めたことから、あの有名な川中島合戦が起きたわけです。義清は落城寸前の葛尾城から奥方と侍女たちを逃がしました。その一行が千曲川を渡ろうとした際、危険を顧みずに船を出してくれた船頭に感謝し、船賃のかわりに、髪に挿していた笄(こうがい)を与えたと伝えられています。そのことから、「笄の渡し」という名がついたという話を、ポン太は子供のころに、(現在の千曲市出身の)父親から何度も聞かされました。そんなことから、この地の戦国時代がとても身近な気がしていたので、この山城めぐりは、単なる山歩き以上に楽しいものとなりました。

 砥石城南側の櫓門というところから入山しました。駐車場、トイレが整備されていて、立派な案内板もありました。これはその一部ですが、砥石城というのが、単独の山城ではなく、いくつもの山城で構成されたものであることが、よくわかります。
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 登山道の入口にはこんな石碑が。登ってみれば、確かに「なめんなよ!」です。
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 登山口の櫓門はまったくのイミテーションですが、山城に登るぞという気分にはさせてくれます。
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 登山道から見上げた砥石城です。美しい松林に囲まれています。
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 最初にむかったのは米山城。頂上直下には滑りやすい箇所もあり、なめてかかると痛い目にあいます。
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 米山城跡に立つ村上義清公の碑です。武田信玄を二度も撃退した英雄として、敵味方の違いはあれ、真田一族とともにリスペクトされています。
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 米山城の標高は734m。この一帯の山城群の中では最も低いのですが、見晴らしは抜群で、敵の動きが手に取るようにわかったのではないでしょうか。天気がよければ富士山も見ることができるようです。
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 米山城跡からみた槍ヶ岳です。
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 米山城跡から一旦鞍部の分岐までもどり、砥石城跡へむかいました。ここはかなりきつい登りです。
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 砥石城跡です。米山城と比べると狭い感じがします。
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 標高が高い分だけ、遠くまで見通せます。景観図や「関東の富士見百景」の標柱が設置されていました。
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 砥石城跡から北へ尾根伝いにしばらく進んだところが本城(本丸にあたる場所)跡。石垣やから堀の跡などがみられ、城跡らしい雰囲気が漂っていました。
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 最も標高の高い場所(830m)にあるのが、枡形城跡です。
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 枡形城跡からは、御屋敷や真田本城など、「真田の里」が一望できます。
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 帰りは大手口とよばれる東側へ下りました。陽泰寺という大きなお寺があり、そこは、真田一族の本家、海野氏の菩提寺だということです。
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 伊勢山の集落を抜けて、櫓門前の駐車場にもどりました。伊勢山は、真田が砥石城を支配するようになってから誕生した城下町だということで、趣があります。砥石城は、その麓にもみどころがたくさんあり、山歩き+αが楽しめます。
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 櫓門付近で面白いものをみつけました。一見したところバス停のようなのですが、時刻が書かれていません。通りかかった地元の方に聞くと、この場所がアニメ映画「サマーウォーズ」の舞台となったことに因んで設置されたものだということです。つまりフェイク。本物のバス停だと信じて、ここでバスを待つ観光客がいたら困りますね。そんな間抜けはポン太ぐらいだろうって? そうかなぁ・・・。
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忘れ難き終着駅(2)〜日中線熱塩駅

2019/01/17 22:02
第2回 日中線熱塩駅(福島県)
 ラーメンと「蔵の町」で知られる福島県喜多方市。現在の喜多方駅は、磐越西線の途中駅に過ぎませんが、かつてはそこから分岐して北方の熱塩に至る11.6kmの盲腸線がありました。それが日中線です。
 初めてこの線に乗車したのは、1971(昭和46)年正月の家族旅行の折です。終点の熱塩駅から徒歩数分のところに熱塩温泉があり、そこが旅の目的地でした。宿泊したのは笹屋本館という老舗の純和風旅館。熱塩という名のごとく、湯は熱くしかも塩分が濃いので身体がよく温まったことを覚えています。画像
 この温泉に行くのに日中線の列車を利用する人は、ほとんどいなかったと思います。なぜなら、列車本数が一日たったの3往復と少なく、日中線という線名とは裏腹に、日中は列車がまったくないというダイヤだったからです。
 喜多方発6:12が始発で、その次は10時間後の16:04、最終が18:25でしたから、東京を朝出発し、夕食前に旅館にチェックインするには、16:04発の623列車を利用する以外に選択肢はありません。623列車を牽引していたのはC11形蒸気機関車(C1164)。乗車した客車は、背ずりが板張りのオハフ612520でした。残念だったのは、冬場のこの時間帯ですと、終点の熱塩に着くころにはすっかり暗くなってしまい、ほとんど景色が見えなかったことです。撮ることができた写真も、途中の会津加納駅に停車中の1枚のみ。帰路は、バスを利用せざるを得ず、なんとなくすっきりしない乗車体験となりました。
 やはり全線の風景を目に焼き付けておかねばと、それから11年後の1982年春に、もう一度乗りに出かけました。蒸気機関車の時代は去り、機関車はディーゼル(DE10)に替わっていましたが、客車は同じタイプでしたから、硬い背ずりの感触とローカル線旅情を満喫することができました。同線が廃止されたのは、その2年後の1984年4月1日です。
 それにしても、どうしてこのような路線が敷設されたのか、なぜ日中線という名前だったのか、そんな疑問をもたれる方が多いのではないでしょうか。建設の根拠となったのは、1922(大正11)年に公布された(改正)鉄道敷設法です。その別表の予定線の中に、「山形県米沢ヨリ福島県喜多方ニ至ル鉄道」が含まれていたからです。明治時代から、栃木県の今市と米沢を結ぶ野岩羽線(下野―岩代―羽後)構想があり、それを引き継いだものでした。完成すれば、東北本線の西側にもう1本、東北縦貫線ができあがるという夢のような話です。
 1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、その翌年以降、国鉄の新線建設工事は中止もしくは繰り延べを余儀なくされます。そんな中で、完成間近なところだけは工事が継続され、1938(昭和13)年8月18日、喜多方〜熱塩間が開業に至ったというわけです。 線名は、熱塩から4キロほど先にあった日中温泉(現在はダム湖の底に沈んでおり、昔とは別の位置に同名の温泉が再建されています)に由来します。上記の野岩羽線構想の実現を目指すなら、「岩羽(南)線」のような線名をつけてもおかしくないはずですが、想像するに、現実的にみて米沢への延伸は困難なので、せめて日中温泉までは延伸開業させたい、という思いがあったのではないでしょうか。


 初めて日中線に乗車した際に会津加納駅で撮影した写真がこれです。この機関車(C1164)は、喜多方〜会津村松間の廃線跡に保存されていて、今も見ることができるそうです。終点の熱塩駅には転車台がなかったので、下りはバック運転、上りは正方向での運転でした。(1971年1月1日撮影)
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 終着駅の熱塩です。到着するとすぐに機関車を切り離し、先頭(喜多方側)につけかえます。これはちょうどその連結が終わり、上りの624列車となった状態です。(1982年3月26日撮影。以下同様)
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 これは北側から熱塩駅を見たところです。右側が機まわり線(機関車を反対側につけかえるのに用いる線路)です。
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 駅のまわりは、このようなのどかな雰囲気でした。
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 客車はオハフ61とオハ61の二両編成。数人の乗客がいましたが、いずれも、この線に乗ること自体を目的とした人のようでした。通学の高校生(この日は春休み中なのでいませんでしたが)以外、日常的に利用する一般の乗客はほとんどいなかったのでしょう。この何のクッションもない板の背ずりがずらりと並んだオハフ612528の車内風景、ポン太には涙が出るほど懐かしいものですが、今の若い人たちはどう思うでしょうか。「これって、日本の鉄道ですか?」と言われてしまうかもしれませんね。
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遠い日の記憶で大成功の甘酒づくり

2019/01/14 09:40
 テレビの健康番組などで、老化を防ぎ美容と健康に絶大な効果を発揮する食品として紹介されることが多いのが甘酒です。「飲む点滴」といわれるほどの実力の持ち主だそうですが、効能はともかく、冬の寒い日に、ちょっと飲みたくなるものであることは間違いありません。時々、市販されているものを買ってきて飲んではいるのですが、当たり外れが結構あります。自分でつくってみたらどうだろうか、ふとそんなことを考えました。
 甘酒の原料は糀(こうじ)と米。佐久地域は酒どころであり、味噌や醤油を手造りする人も多いので、糀(こうじ)は身近な存在です。スーパーでも簡単に入手できます。ネットでレシピを探したところ、どうやら炊飯器利用が一番簡単そうです。めんどうな温度管理を炊飯器がやってくれるからです。そこで、まずはそれを試してみました。結果は不成功ではないものの、ベタベタした感じで、望んでいたものとはだいぶ違っていました。
 思い出したのは、遠い昔、母親がこたつの余熱で甘酒をつくってくれたことです。糀をうまく発酵させるには温度を60度に保つ必要があるというのですが、こたつの中で、それほど厳密な温度管理ができていたとは思えません。糀も生き物ですから、ある程度の温かさ(40度以上?)を維持できれば、それなりにがんばってくれるのではないかと考えました。わが家にはこたつが無いので、湯たんぽを熱源にして、上から毛布をかぶせ、ひと晩放置しておくという方法をとったところ、おどろくほど美味しい甘酒ができました。これはもう甘酒は手造りに限る、そう確信したポン太でした。


 道端でこんな看板を見ると「こうじ」を使ってみたくなります。
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 今回用いた糀は、スーパーで売っていた安曇野産です。パッケージが気に入ってこれにしました。
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 1合のご飯を鍋に入れ、水を加えて加熱し、五分がゆ状態にします。
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 およそ200gの糀をボールに用意しました。
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 ご飯が60度ぐらいまで冷えたところで、糀を加えてよくまぜます。
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 湯たんぽ(のケース)の上に鍋を置き、その上から毛布をかけてひと晩寝かせます。
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 12時間後、鍋のフタを開けてみると、甘酒ができていました。甘さは十分です。あとは、発酵を止めるために加熱すれば完成です。
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 できたばかりの甘酒を朝食のホットケーキにのせてみました。マイルドな甘さで美味です。トーストでもよいかもしれません。
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 プレーンヨーグルトにトッピングしてみました。ヨーグルトの酸味とよく合います。自家製のアサマブドウ(クロマメノキ)のジャムを加えると、ちょっとしたスイーツです。
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 水で二倍程度に薄め、加熱して飲む定番の甘酒が美味しいことはいうまでもありません。すり下ろしたショウガを少し加えると、味が良いだけでなく身体が温まります。氷点下のウォーキングから帰った後に飲めば、生き返ったような気分になること請け合いです。
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忘れ難き終着駅(1)〜白糠線北進駅

2019/01/09 23:55
 浅間山麓の冬の夜、星空はプラネタリウムのようにきれいですが、底冷えのする寒さの中、出歩ける場所はほとんどありません。長く寒い夜をネガティブにとらえれば、「こんなところに住んでいられるか」となりますが、ポジティブにとらえれば、「暖房の効いた部屋の中で、落ち着いて読書や資料整理に取り組めるチャンス」ともいえます。
 この冬こそなんとかせねばと思っていることの1つが、古い写真の整理です。劣化が心配なフィルムをデジタル化し、タイトルやデータをつけて検索しやすいようにするといった作業ですが、結構な手間がかかります。おまけに、フィルムのひとコマひとコマには、それを撮影した時の思い出がありますから、ついつい感慨にふけってしまい、作業は遅々として進みません。それでも、懐かしいシーンがパソコン画面に少しずつ甦ってきていますので、それらを利用した連載企画を始めることにしました。題して「忘れ難き終着駅」です。

 第1回 白糠線北進駅(北海道)
 白糠(しらぬか)線というのは、根室本線の白糠駅から分岐し北進(ほくしん)駅に至る33.1キロの盲腸線(行き止まりの路線)です。国鉄末期、利用者の少ないローカル線は赤字の元凶とみなされ、1980年のいわゆる「国鉄再建法」の成立により、次々と姿を消していきました。白糠線は同法施行後の特定地方交通線廃止第1号となった路線です。画像
 白糠線には一日僅か3往復の列車しか運転されておらず、極めて乗りにくい路線の1つでした。白糠発の始発は6:38、その後は13:50、そして17:40発が最終です。札幌方面からは夜行列車を使っても始発には間に合いません。そこで札幌発7:05の急行「狩勝1号」で白糠へむかい、13:50発の列車に乗ることにしました。そのためだけに札幌に1泊するのはもったいないので、青函連絡船で北海道に渡った後、函館発23:40の夜行急行「すずらん4号」に乗り、札幌で「狩勝1号」に乗り継ぐというプランを立てました。今考えると、かなりのハードスケジュールですが、当時はこのぐらいの旅は当たり前でした。
 13:50発の白糠線533D列車は、気動車(キハ22242)の単行(一両編成)。通学時間帯ではないので、ローカル線の主役ともいえる高校生の姿はなく、乗客は数人のみ。当時のメモには「牧場のような風景が続く」とあります。終点の北進は、片面ホームだけがポツンと存在している駅舎もない無人駅で、周辺に人家らしきものは見当たりません。北海道の国鉄線で唯一の未乗路線でしたから、乗車できて嬉しい反面、これでは存続は難しいのではと少しばかり暗い気分になりました。
 どうして人家のないようなところが終点なのか。実は、この路線は、白糠と池北線の足寄(あしょろ)駅を連絡するというのが当初の目的で、1964(昭和39)年10月7日に白糠から上茶路(かみちゃろ)まで開通。それから8年後の1972(昭和47)年9月8日に、北進まで延長開業しました。「北進」という駅名は、地名ではなく、鉄路よ北へ進めという願望を込めたネーミングだったようです。しかし皮肉なことに、北へ進むどころか、1983年(昭和58年)10月23日、全通から僅か11年で廃止されてしまいました。当初連絡を予定した池北線も、第三セクター化された後に廃止されていますから、仮に足寄まで開通していたとしても、生きのびることは難しかったでしょう。元々の計画に無理があったといえばそれまでですが、僅かな間とはいえ「夢」を見させてくれた存在、そう思えば「北進駅」も浮かばれるのではないでしょうか。

 これが終点の北進駅です。乗ってきた気動車(キハ22242)が停車しています。16分後に上り534D列車として折り返していきます。(1977年7月25日撮影、以下同様)
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 白糠側からみるとこうです。どこからともなく(といった感じがしましたが)乗客が一人やってきました。
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 開業からまだ5年というのに、駅名板は文字が読めないほどぼろぼろになっていました。
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 北進は無人駅ですから乗車券も入場券も買うことはできません。記念に車掌さんから購入した車内補充券がこれです。地図式ではなく手書きでした。
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遊び場難民

2019/01/05 10:48
 久しぶりにやって来た孫は可愛いけれど、相手をするのは大変で、長時間ともなれば疲れ果ててしまう。そのような悩みは、全国のジイバアに共通するものではないでしょうか。遊ばせ方にも工夫が必要なのでそれなりに頭を使います。正月のこの時期、とりわけ苦労するのが、屋外の遊び場探しです。
 遊具を備えた児童公園が近くにないわけではありません。しかし、日中でも零度前後という気温ですから、短時間遊ばせただけで身体が冷え切ってしまいます。日差しがあればまだしも、曇り空で少しでも風があろうものなら、その場に居続けることすら困難です。
 日当たりがよく、安心して長時間遊ばせることができる公園はないものかと探してみたところ、小諸市に南城公園(みなみじょうこうえん)という評判のよい公園があることがわかりました。軽井沢町や御代田町に比べれば標高が低いので、気温が高めという点も魅力です。実際に行ってみたところ、南向きの斜面に、いかにも子供が喜びそうな遊具が立体的に配置されていて、さながら「遊具城」のよう。遊具の前面には広大な芝生広場があり、天気が良ければ一日遊ばせていられます。国道18号に設置されていた温度計の数値は2℃でしたが、この公園は日当たり抜群で、寒さはほとんど感じません。孫は大喜びで飛び回り、その後の午睡も爆睡状態に。「遊び場難民」状態から解放され、ほっと一息ついたポン太でした。 
 この公園を「発見」する前夜、イルミネーションを見せに佐久平へ連れていきました。佐久でイルミネーションといえば、佐久平駅前の「SAKU BLOOM」と真空機器メーカーとして知られる樫山工業(本社敷地内)が有名です。寒さは強烈で、手袋をしていても指がかじかむほどでしたが、イルミネーションそのものは、例年より見応えがあるように感じました。孫も大喜びしていましたので、ジイジの選択は正しかったと評価されること間違いなし。えっ、誰が評価するのかって? 自分です。


 南城公園に着くと、こんな大きな遊具が目に飛び込んできました。これはすごいぞ!都会の児童公園では考えられないと娘もびっくり。もちろん無料で利用できます。
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 子供向けのボルダリング設備もあり、滑り台も多種多様。遊び放題といった感じです。
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 幼児から小学生まで、年齢層に応じた遊具を完備していることにも感心しました。看板にもそう書いてあります。
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 こちらば幼児ゾーンです。
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 長いローラー滑り台。孫はこれが気に入ったようで、何度も何度も滑り降りていました。
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 佐久平駅前の巨大イルミネーション「SAKU BLOOM」です。
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 奥行きの広さを感じさせるイルミネーションです。
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 子供が喜びそうな仕掛けもあります。
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 こちらは樫山工業のイルミネーションです。ここが工場敷地内とはとても思えません。
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新年は霧氷とともに

2019/01/01 23:45
 新年おめでとうございます。本年も「浅間山麓のブラタヌキ」をよろしくお願いいたします。
 元日の天気予報は、太平洋側は晴れ、日本海側は雪ということでした。ここ浅間山麓の天候はどちらかといえば太平洋側に近く、全国版の天気予報で「長野」と表示されるものとは別物です。よって、初日の出が見られるのではないかと期待しました。
 朝早く起きてみると、どんよりした曇り空。浅間も見えません。これでは初日の出は無理かなと思ったのですが、家の周囲の森を見渡すと、霧氷が出現しています。たとえ初日の出が拝めなくても、霧氷の良い写真が撮れれば、まあいいかと考え、カメラ片手にわが家より少し標高の高い、御影用水へとむかいました。
 水辺の霧氷は予想通りのすばらしさでした。大気と水の温度差のせいか、水面からは湯気のような霧が立ちのぼり、幻想的な雰囲気を漂わせています。霧氷の写真を撮っているうちに周囲がだいぶ明るくなってきました。すると、落葉松林のむこうから、ふいに太陽が顔をのぞかせたのです。あきらめかけていた初日の出です。山上から見るご来光のような迫力はありませんが、これはこれで美しく、十分満足したポン太でした。


 中山道沿いの霧氷です。そんなに冷え込んだようには思えなかったのですが、氷点下10度前後まで下がっていたようです。
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 水辺周辺には、夜明け前から犬の散歩をする人がいました。
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 冷え込みの厳しさを思わせる水辺の風景です。
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 見事な霧氷です。
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 落葉松林の間から太陽が顔を出しました。
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 これが水辺の初日の出です。
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 凍てついた大地も陽を浴びて輝いています。
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 日の出から30分ほど経って、ようやく浅間山が姿を現しました。やはり浅間山があってこその当地です。山岳信仰というわけではないのですが、しっかり我等を見守って欲しいという気持ちになります。
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今年も楽しめた山歩き〜「山じまい」は太郎山

2018/12/31 10:56
 この一年の山歩きを振り返ってみました。本年最後に登った山は上田の太郎山でしたが、それが60回目の山行となりました。年間50回を越えたのは3年ぶりですから、よくがんばったといえそうです。ただし、大半が1〜2時間で登れるような里山です。
 信州には日本100名山クラスの名峰がたくさんありますので、わざわざ里山に登る必要があるのかと思われるかもしれませんが、里山には里山の魅力があるのです。そのことに気づかされたのは、インターネットで中嶋豊氏のホームページ『信州山歩き地図』を閲覧するようになってからです。同氏は長野県警の元警視で、山岳遭難救助のエキスパートとして活躍された方です。信州の山を知り尽くした同氏作成のイラストマップは大変魅力的で、ぜひこの山に登ってみたいと思わせるものでした。里山の中には、登山道が地形図に記されていないところもあり、実際に登る際にも大いに役立ちました。現在は出版物(信濃毎日新聞社刊)として発売されており、ホームページ上でマップを見ることはできません。
 同氏が紹介している山は285座ですが、これまでに、70座に登ることができました。気に入って何度も登っている山もあります。その中から、ポン太おすすめの里山ベスト5を選んでみました。
@平尾山(平尾富士)<1155m>・・・登山回数最多の山ですから、ここをはずすことはできません。山頂からの眺めがすばらしく、何度登っても飽きません。佐久では一押しの里山です。
A太郎山<1164m>・・・上田市民に愛されている、里山の代表格です。展望は抜群。カモシカにもよく出会います。冬でも登れる有り難い山です。
B雁田山<786m>・・・小布施の裏山で、北斎の天井絵で有名な岩松院が登山口です。標高は低いのですが、縦走すると3時間以上かかります。展望園地というピークからみた北信五岳の眺めはみごとです。 
C尼厳山<781m>・・・読み方は「あまかざりやま」です。長野市松代地区ある山で、その麓はアンズの里として有名。ピンク色に染まった里の風景は絶景といってよいでしょう。 
D虫倉山<1378m>・・・ 長野市中条(旧中条村)にある山です。北アルプスの好展望台として知られ、チロル風の山里の景観は絵のような美しさです。
 いずれも期待を裏切ることはない山です。ぜひ登ってみてください。
 それでは皆様、どうぞよいお年をお迎えください。来年(2019年)も「浅間山麓のブラタヌキ」をよろしくお願いいたします。

 空気が澄んだ日の平尾山山頂からは、北アルプス全体が見渡せます。もちろん、蓼科、八ヶ岳方面の展望もすばらしく、ポン太が何度登っても飽きない理由がおわかりいただけると思います。
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 ズームアップしてみると、穂高(左)や槍がこのように鮮明に見えます。
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 「山じまい」をした太郎山山頂からの上田市街地の眺めです。帯状に光っているのは千曲川です。
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 この1年間、無事に60回も山歩きを楽しむことができたことへの感謝をこめて、太郎山に、そして全ての山にバンザーイ!
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 太郎山に登った後の楽しみは蕎麦です。上田の名店「刀屋」に立ち寄り、早めの年越し蕎麦を味わいました。
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 最近のお気に入りは、この「冷やしたぬき」。写真ではわかりにくいかもしれませんが、天ぷらがてんこ盛りで、えっ、これが「たぬき」なのと、タヌキもびっくりの内容と量です。ちなみに、これは「大盛」ではなく「普通」です。
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 小布施の岩松院の背後に連なるのが雁田山です。簡単に登れそうに見えますが、急登の連続で思いのほか時間がかかります。
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 雁田山の「展望園地」というピークからは、小布施の街並みと北信五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山)が見渡せます。ただし、斑尾山だけは少し離れた位置にあるので写真には入っていません。
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 アンズの里から見上げた尼厳山です。
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 こちらは尼厳山からアンズの里を見下ろしたところです。4月上旬にはこの里全体がピンク色に染まります。
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 虫倉山山頂からの大展望です。
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 虫倉山周辺の山里の風景です。どこを切り取っても絵のような美しさで、何度訪れても感動します。
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記憶を残す再開発〜渋谷の新風景

2018/12/29 10:49
 かつてはあたりまえのように眺めていた東京の風景が、久しぶりに出かけてみると、すっかり変わってしまっていて、浦島太郎のような心境になることがあります。その代表例ともいえるのが渋谷です。現在再開発の真っ最中で、馴染みのある風景が次々と失われ、全く別の町になりつつあると言ってよいでしょう。
 先日、といってもひと月ほど前になりますが、東京へ出かけた折に、渋谷駅周辺を徘徊してみました。驚いたのは、渋谷川沿いの高架線を走っていた東横線の跡地を利用した再開発が進展し、実にユニークな街区が誕生していたことです。
 駅跡地の一部には、東急渋谷駅の象徴でもあった逆三角形のような外壁のデザインがそのまま取り入れられ、旧駅の面影を留めるような工夫がなされていました。そこから続く旧線跡の商業施設「渋谷ストリーム」の真ん中にはレールが敷設されていて、鉄道の跡であることがわかるような仕掛けになっています。更にその先、渋谷川沿いの遊歩道化された部分には、かつての高架線に用いられていたと思われるコンクリート片が、モニュメントのように配置されていました。代官山に近いエリアでは、線路跡地に建てられた複合施設「渋谷ブリッジ」のベンチがレール形をしていたり、柱の装飾画が東横線の懐かしいシーンであったりと、「ここに東横線ありき」というコンセプトで全体が統一されていることに、感銘を受けました。
 再開発というと、かつての痕跡を完全に消し去ってしまうことが多く、それでは地域の歴史が後世に伝わらなくなってしまうと嘆くことの多いポン太ですが、このような形であれば大歓迎です。浦島太郎も途方にくれずに済みます。その昔、渋谷駅の総合駅化を推進し、渋谷=東急の町というイメージをつくりあげた五島慶太氏も、草葉の陰で喜んでいるのでは、などと余計なことまで考えてしまいました。

 東急渋谷駅(旧駅)跡の現在の姿です。この壁面、懐かしい感じがします。
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 地下化される前の東急渋谷駅はこのようでした。
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 再開発で出現した「渋谷ストリーム」へ続く通路には、レ-ルが埋め込まれていました。
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 商業施設の中をレールが貫いています。
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 線路を見ながら一杯? いい雰囲気じゃありませんか。
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 渋谷川沿いの遊歩道にもレールが設置されていて、ここが東横線の旧線跡だと気づかせてくれます。
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 「渋谷ブリッジ」へと続く遊歩道には、レールはありませんが、芝生の中に置かれている「石」は、かつての高架線のコンクリート片のようです。
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 「渋谷ブリッジ」のレール形をしたベンチ? こういうこだわり、嬉しいですね。
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 柱には郷愁をさそうような装飾画もありました。
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 ここはニューヨークの地下鉄? 壁の案内板もお洒落です。
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軽井沢のクリスマス

2018/12/25 16:21
 浅間山麓でクリスマスを実感できるのは、軽井沢をおいてほかにありません。いろいろなイベントがある中で、ポン太が一番気に入っているのが、一般公開されている新島学園のクリスマスコンサートです。ハンドベルの演奏が見事なことと、一部が簡素な礼拝形式になっていることで、クリスマスらしさを味わうことができるからです。
 例年同様、少し早めに家を出て、クルマで会場の大賀ホールへとむかいました。ところが、軽井沢町内の道路が大渋滞。開演10分前にようやく会場近くに到達したのですが、いつも駐車するホール前の大駐車場だけでなく、周辺の駐車場が全て満車。コンサートへの入場を断念せざるを得ませんでした。こんなことは初めてです。
 このままでは終われないと、その翌日、クリスマスタウンを標榜している星野エリアへ出かけてみました。お目当ては、「キャンドルナイト」と軽井沢高原教会のハンドベル&ハープのミニコンサートです。幸い駐車場は確保できたのですが、軽井沢高原教会周辺は人また人。ミニコンサートはすでに定員に達していて入れないことがわかり、これまた断念せざるを得ませんでした。冬の軽井沢人気が、これほど沸騰していたとは驚きです。外国人旅行客も増えており、今までとは様子が違ってきているのかもしれません。
 コンサートにはふられましたが、「キャンドルナイト」自体はとてもすばらしいものでした。森の中に散りばめられた無数のランタンと大小様々なスタイルのクリスマスツリー。幻想的かつメルヘンのような世界が演出されていて魅了されます。見上げれば、空には満天の星。1時間ほど歩き回って気が済んだポン太でした。

 クリスマスタウンのシンボルのような「もみの木ひろば」です。
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 ハルニレテラスもクリスマスバージョンになっていました。
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 やどり木をイメージしたというイルミネーションです。
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 ハルニレテラスのクリスマスツリーです。まわりが暗いので、とても目立ちます。
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 「キャンドルナイト」にやってきました。えっ、クリスマスイブに結婚式?
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 ランタンの中でゆらめくキャンドルの灯り。電球やLEDとは異なる自然でやわらかな光は、癒やし効果抜群です。
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 森の中で出会う様々なクリスマスツリー。なかなかのアイデアですね。
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 こちらはランタンを吊した「ランタンツリー」です。
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 高原教会の前には大勢の人が集まっていました。
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 大きなツリーのまわりは、写真を撮る人でいっぱいです。それでも喧噪といった感じにならないのは、やはり森の中だからでしょう。
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 ランタンは無料で貸し出していて、それを吊して森の中を散策することもできます。
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 色とりどりの落ち葉の上に置かれているランタンも風情があります。
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冬こそ碓氷峠へ〜姿を現した第13橋梁ほか

2018/12/22 15:37
 冬こそ訪ねたい鉄道遺産。今回は碓氷峠です。
 アプト式鉄道時代の構造物の多くが、「旧碓氷峠鉄道施設」として国の重要文化財に指定され、廃線跡は「アプトの道」という名の遊歩道になっていることをご存知の方は多いと思います。しかし、遊歩道化されているのは、旧熊ノ平より東側(横川側)だけです。それより西側(軽井沢側)はどうなっているのかとえいえば、アプト式廃止後の複線化工事の際に、大半が下り線用に改築され、アプト式時代の構造物はほとんど残っていません。それでも、すべてが改築の対象となったわけではなく、第16隧道から碓氷第13橋梁までの区間は、下り線ルートから少し位置がずれていたことで、取り壊しを免れました。それらの鉄道遺産は、注目されることがないまま、放置に近い状態に置かれていましたが、なんと今年(2018年)、碓氷第13橋梁と第17隧道が、熊ノ平変電所および碓氷第7橋梁とともに、重要文化財に追加指定されたのです。
 葉が落ちて、全体が見やすくなった碓氷第13橋梁とその周辺を眺めに出かけてみました。碓氷第13橋梁は、見応えのある面白い橋梁です。レンガ造りの5連アーチ橋でその長さは51.7m。高さは10.1mと低いのですが、第3橋梁と第6橋梁に次ぐスケールです。中尾川を跨いでいるだけでなく、かつてはその下(第1径間と第5径間)を国道(旧18号線)がひも状にくぐり抜けていて、ポン太の記憶の中にも、そのころの様子が僅かながら残っています。
 碓氷第13橋梁の横川側にあるのが第17隧道で、今はその中を通り抜けることはできませんが、内部は荒れてはいないようです。煉瓦造の坑門は両側ともしっかりしています。重要文化財に追加指定されなかった第16隧道は、下部が土砂で埋まった状態ですが、それを取り除けば往時の姿を取り戻すことができそうです。両隧道間には可愛らしい煉瓦アーチ橋(溝渠)も残されており、遊歩道化も可能ではないかと期待してしまいます。
 ポン太の更なるのぞみは、レールが残っているかつての下り線を利用し、横川〜軽井沢間に観光列車を運行することです。鉄道遺産見学に便利な駅(停留所)を何カ所か設ければ、観光資源としての価値も高まるでしょうし、軽井沢に抜けられとなれば、より一層多くの人が訪れるのではないでしょうか。観光列車それ自体も人気のある乗り物になると思いますが・・・。

 自動車道路側から見た碓氷第13橋梁です。葉が生い茂っていると真横からはほとんど見えません。
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 近づいて見るとこんな感じです。一番手前と一番奥のアーチの下を、かつては国道が通っていましたが、今は半分ほど土砂で埋まっています。
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 この下を国道がくぐり抜けていました。その名残の警戒塗色のペンキが、アーチの上部に少し残っているのがわかります。
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 碓氷第13橋梁の軽井沢側には第18隧道がありましたが、今は坑口がコンクリートでふさがれています。右側は下り線用につくられた第10隧道です。
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 碓氷第13橋梁に隣接している下り線(軽井沢側を見たところ)です。架線は盗難にあったということで残っていませんが、レールはしっかりした状態で残っています。この線路に観光列車を走らせ、この場所に駅(停留所)を設ければ、鉄道遺産探訪のバリエーションが豊かになることは間違いありません。横川からここまでウォーキングを楽しみ、帰りは列車でもどるもよし、軽井沢へむかうもよし。
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 碓氷第13橋梁の横川側にある第17隧道の坑門です。この隧道も重要文化財に追加指定されました。
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 第17隧道(左)と第16隧道の坑門(右)です。
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 両隧道の間にある可愛らしい煉瓦アーチ橋(溝渠)です。
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 第16隧道の軽井沢側坑門です。下の方が土砂で埋まっています。
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 熊ノ平以東の鉄道遺産も、葉の落ちた状態で眺めると、そのスケール感が際立ちます。これは前後の巨大な擁壁が印象的な碓氷第6橋梁です。
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 碓氷峠の鉄道遺産のシンボル、碓氷第3橋梁も、4連のアーチ全てが一望できます。
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 まさに天空の架け橋といった感じのこの迫力。
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 陽を浴びた煉瓦アーチ橋は見事としか言いようがありません。重機もない明治20年代に、これほどのものを建設した先人のパワーに脱帽です。
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高原に眠る草軽電鉄の遺産〜柳川橋梁

2018/12/17 12:39
 日中でも気温が氷点下、もしくはせいぜい2〜3度という、浅間山麓らしい正しい冬が到来しました。浅間山も中腹以上が雪化粧し、見た目も本格的な冬という感じです。
 こんな時期にこそ出かけたい場所があります。それは、鉄道の廃線跡。草木が生い茂っている季節には見えなかったものが、葉がすっかり落ちた今なら見えるというメリットがありますし、そこが人里離れた山中である場合には、クマとの遭遇を心配しなくてもすみます。ただし、雪がたくさん積もってしまうと、歩くこと自体が難しくなるので、その直前の今がチャンスなのです。
 先週末、軽井沢町北部の草軽電鉄の廃線跡を歩いてきました。お目当ては、同電鉄で最も高い橋梁であった柳川橋梁です。絵葉書にも登場しているほど有名な橋梁ですが、自動車道路からはかなり離れた場所にあり、これまで行ったことがありませんでした。事前に調べたところでは、草軽交通の「ライジングフィールド軽井沢」というバス停からアクセスするのが一番容易なようです。
 オートキャンプ場の脇を通り抜け、まずは、林道に転用された廃線跡を進みました。入口にゲートがあり、一般車は入れないようになっています。しばらく歩くと、林道から左手へ離れていく小径があり、それが廃線跡だと確信。藪になっていたり、倒木の多い箇所もあり、クマが出没する季節であれば、一人で行くのは躊躇してしまうことでしょう。多少の不安はありましたが、廃線跡自体は途切れることなく続いていて、迷うことはありませんでした。いつの間にか寒さは吹き飛び、気分が高揚してきました。
 歩くことおよそ20分。あれっ、道が無くなっていると思った瞬間、目の前に柳川橋梁の橋脚が姿を現しました。絵葉書で見ていたのと同じ、石積みの橋脚が三本屹立しています。廃線後58年も経過しているにもかかわらず、これだけしっかり残っていたことに驚きを禁じ得ず、谷底まで降りたり、対岸に渡ったりと、いろいろな角度から「鑑賞」してしまいました。この橋梁を渡っていた列車の様子などを想像し、満足感に浸っていると、人の声が聞こえてきました。ハスキーで低音の女性の声で、「だぁれ〜」と言っているようです。えっ、えっ、ほかに誰か見に来ている人がいるのかしらと、あたりを見回してみたのですが、誰もいません。ちょっと背筋に寒いものを感じてしまいました。
 帰り道、森の中で立ち止まって耳を澄ますと、風の音に混じって時折「ギー」という樹木が擦れる音が聞こえてきます。どうやらそれを人の声と聞き間違えたようなのです。前の晩にテレビでホラーシーンを見たせいかもしれません。廃線跡や廃墟探訪の前には、怖いテレビを見てはいけない。教訓が1つ増えたポン太でした。

 雪化粧した浅間山です。凛として美しいですね。
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 旧軽井沢銀座通りの入口、ロータリーの前に、草軽電鉄の旧軽井沢駅がありました。現在の商業施設も「駅舎旧軽井沢」という看板を掲げており、廃線から半世紀以上経つ今でも、地域住民に親しみをもたれている存在であることがわかります。
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 旧軽井沢から重要文化財の旧三笠ホテルへむかう道の片側は、草軽電鉄の軌道敷跡です。
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 このバス停の右手奥に小瀬温泉駅がありました。この駅を舞台とする、森繁久彌主演の映画「山鳩」(1957年公開)が制作されましたが、映画の中では駅名が「落葉松沢」となっていたそうです。おそらくそれに因んだのでしょう。このバス停の名は「唐松沢」です。
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 ライジングフィールド軽井沢のバス停です。ここから柳川橋梁へとむかいました。
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 長倉山支線林道入口ゲートです。この林道の一部も草軽電鉄の廃線跡です。
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 林道を離れ廃線跡を進みましたが、倒木が多く歩きにくいところもあります。
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 倒木の先のカーブはいかにも廃線跡といった感じです。
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 行く手に、突然姿を現した柳川橋梁です。
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 沢に降りてみるとこんな感じでした。結構な高さがあります。
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 対岸(長日向駅側)からは、三本の橋脚がよく見えます。
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 柳川橋梁から長日向駅方面へと続く廃線跡です。ここを列車で走ったら気分爽快ではないでしょうか。
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 軽井沢駅前に保存されている草軽電鉄のデキ13電気機関車です。こんな機関車が1、2両の客車、貨車をひいてあの橋梁の上を走っていた姿を想像するだけでもワクワクしてしまいます。
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 帰路、国道の温度計を見ると−1℃を表示していました。まだ明るい午後3時でもう氷点下。これぞ浅間山麓の冬です。
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やっぱり美味しい伝統食品

2018/12/12 16:05
 年齢を重ねるにつれ、子供のころによく食べていたものに好みが回帰する、という話を聞いたことがあります。本当にそうでしょうか。古ダヌキのポン太は雑食ですから、和洋中華からエスニック系まで、何でも食べますし、どれにも甲乙つけがたい魅力を感じています。加齢により好みが変わってきたとは思えません。されど、子供のころはあたりまえすぎて何とも思わなかったものが、あまりにも美味しくて、こんなに素晴らしい食べ物だったのかと、感動してしまうことはよくあります。その典型が干し柿と乾燥芋です。
 そのままでは食べられない渋柿ですが、皮をむいて吊しておくだけで、極上のスイーツに変身。乾燥芋も同様で、蒸かしてスライスしたものを干すだけで、甘味が凝縮されて、和菓子に勝るとも劣らない食べ物になります。
 信州で軒先に柿を吊している家は、かなりポピュラーな存在といってよいでしょう。以前のブログにも書きましたように、高冷地では柿は育ちにくく、実っているのは小粒の渋柿が大半です。そこで、干し柿の出番となるわけです。ポン太もそのまねをして、干し柿づくりを実践しているわけですが、今年も、吊してから40日ほどで、トロ〜と甘い干し柿ができあがりました。
 一方の乾燥イモですが、信州ではサツマイモの栽培自体があまり盛んではないこともあって、それほど一般的な食べ物ではないようです。ポン太は、子供時代を栃木県で過ごしたので、冬のおやつの定番としてよく食べていました。すぐ隣が乾燥芋の大産地茨城ですから、その影響が大きかったのかもしれません。ちなみに、乾燥芋は「干し芋」とも呼ばれますが、栃木や茨城では、「乾燥芋」(発音は短く、かんいも)が一般的です。
 自分でつくってみて、浅間山麓は意外に乾燥芋づくりに適していることがわかりました。気温が低いのでカビの発生を心配せずにすみ、降水量が少なく晴天率が高いので、4〜5日干すだけで美味しい乾燥芋ができあがります。
 今朝早く初雪が降り、家のまわりはうっすらと雪化粧しました。窓から雪景色を眺めながら、出来上がったばかりの干し柿と乾燥芋で、極上のティータイムをと目論んだのですが、残念ながら雪は昼前に消えてしまいました。雪景色はさておき、手近な材料で砂糖菓子より甘いスイーツをつくり、お茶を楽しみながら冬を乗り切るという、昔の人の知恵のなんというすばらしさ。「回帰」ではなく、再発見したような気がしているポン太です。


 皮をむいて干したばかりのころはこんな感じでした。
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 二週間ほど経つと色が変わり、干し柿らしくなってきます。
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 1ヶ月経つと、体積が半分ぐらいになり、かなり美味しそうな感じに。干したころはまだ緑が残っていた庭も、枯れ木ばかりとなりました。
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 干してから40日が経過し、食べ頃に。早速試食してみましたが、自分でつくった干し柿の味は格別です。
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 雪の予報が出ていたので、全部ひもからはずして箱に収納しました。下にワラを敷いておくと、自然に粉が吹いて、お店で売っているようなきれいな姿になるということですが、例年、そこまで待てずに胃袋におさまってしまうので、本当の完成形をみたことがありません。
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 お次は乾燥芋づくりです。材料は「べにはるか」という種類のサツマイモですが、ここ数年、安価で大量にでまわるようになったので助かります。ねっとり感があり、蒸かしてそのまま食べても美味しいのですが、乾燥芋にすると驚くほど甘くなります。
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 1時間ほど蒸かし、熱いうちに皮をむいておき、冷えてから適当にスライスして、カゴに並べるだけ。つくり方は極めて簡単です。カゴは日当たりのよいところに吊しておきます。
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 1日干しただけで、こんな感じになります。この状態でも食べられます。
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 降雪の心配があるので、予定より1日はやい4日目にカゴから取り出しました。ねっとりして、美味しいこと。好みもあると思いますが、ポン太はこのぐらいの半乾燥状態の方が美味しいと思います。
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 今朝起きると、うっすらと雪が積もっていました。雪があると庭が明るくなります。大雪は困りますが、適度な雪なら大歓迎。来週末あたりに、ある程度の降雪があれば、文字通りホワイトクリスマスです。今年はどうでしょうか。
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横浜線開通110周年に因んで

2018/12/09 12:24
 日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開通したのは、今から146年前の1872(明治5)年でした。それから30〜40年で、全国の幹線鉄道網が概ねできあがりましたから、すでに開通から100年以上経過した路線が少なくありません。このような歴史の長さこそ、鉄道の魅力の1つではないかとポン太は考えます。鉄道の歴史は、近現代の社会のあゆみとリンクしており、地域形成にも深く関わっています。折々の鉄道風景が、自分史のひとコマとして、脳裡に刻みこまれている人も少なくないはずです。
 浅間山麓を走る信越本線(現、しなの鉄道線)が、本年、開通130周年をむかえたことについては何度もブログで触れましたが、今年、節目の年をむかえたのは信越線だけではありません。実は、ポン太にとって、かつては極めて身近な存在であった横浜線が、本年開通110周年をむかえました。
 桑都八王子と国際貿易港横浜を直結する鉄道は、八王子と横浜の生糸商等が熱望していたものであり、1886(明治19)年には、甲武鉄道(現、中央線)に対抗して武蔵鉄道(川崎〜八王子間)を出願したものの却下されてしまいました。その後、何度も申請に失敗した後、横浜の実業家たちが中心となって横浜鉄道を立ち上げ、明治41(1908)年9月23日、東神奈川〜八王子間を開業しました。ところが、経営不振(運賃併算で割高となる貨物輸送が振わず)で、1910(明治43)年4月1日には、鉄道院借り上げという形となり、1917(大正6)年10月1日に国有化されて、国鉄横浜線(1987年からJR東日本の路線)となったのです。
 ポン太は1976年から40年近く横浜線の沿線に住んでおりましたので、同線には懐かしい思い出がたくさんあります。近年、横浜線の各駅とその周辺の変貌は著しく、昔の情景を想像することすら難しくなってきているように思います。そこで、手元にある古い写真で、横浜線の近過去を振り返えってみることにします。写真は八王子〜町田間のみですが、そうそうこうだったね、へえーそうだったのか、と楽しんでいただければ幸いです。

 八王子駅の乗り換え階段に、横浜線110周年記念のペイントが出現していました。
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 ポン太が横浜線沿線に住み始めたころの八王子駅横浜線ホームです。まだ旧型国電が主役で、ローカル線的な雰囲気が漂っていました。(1976年6月12日撮影)
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 1988年(昭和63)3月に高架化され、新駅舎に移行して間もなくの片倉駅です。かつてはのどかな丘陵地帯であった片倉〜相原間ですが、沿線エリアの開発に拍車がかかったのは、このころからです。(1988年8月31日撮影)
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 片倉〜相原間に新駅が誕生したのは、1997(平成9)年4月1日です。これは開業したばかりの八王子みなみ野駅ですが、駅のまわりには建物はほとんどなく、しばらくは駅だけがポツンと建っている状態でした。(1997年4月5日撮影)
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 開業3年後の八王子みなみ野駅です。西側では建物が増えていますが、東側(左手)はまだ更地が目立ちます。
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 八王子みなみ野駅が開業する前年の風景です。駅はこの写真の右手方向になります。宅地の造成がかなり進展していますが、まだ家はほとんど建っていません。左手奥にみえる円形のビルは日野自動車の歴史館である「日野自動車21世紀センター」です。現在はこの造成地の大半が住宅で埋まっています。(1996年11月5日撮影)
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 開発が始まる前の八王子みなみの駅付近(相原側へ少し進んだあたり)です。現在とは全く異なるのどかな風景が広がっていました。(1977年6月9日撮影)
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 こんな踏切もありました。(1976年9月23日撮影)
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 八王子みなみの駅周辺が開発される以前の片倉〜相原間は、横浜線で唯一、山の中を行くといった感じのところでした。国道16号は御殿峠を越えますが、横浜線は相原トンネルで多摩丘陵を駆け抜けていきます。(81年11月15日撮影)
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 相原トンネルを抜けて、相原駅へとむかう上り電車(103系)です。八王子〜相原間は1988年3月まで単線でしたが、写真の右側には複線化に備えた路盤がすでに準備されている様子がうかがえます。
(1981年11月15日撮影)
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 相原駅は横浜鉄道開通と同時に開業した古い駅です。この駅舎は1934(昭和9)年に建設されたもの。2003年に橋上駅化されるまで存在しており、ポン太は、時が止まったような、こののどかな雰囲気が大好きでした。この駅舎が取り壊されたことで、横浜線内から戦前に建設された駅舎は全て姿を消しました。(1980年6月22日撮影)
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 相原〜橋本間の大山街道踏切です。(1976年6月12日撮影)
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 橋本駅は1980年に橋上駅化されるまで、このような姿でした。駅前広場の一角にはバスの乗降場や待合室があり、地方都市の駅のような雰囲気が漂っていました。(1978年11月4日撮影)
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 相模原駅に最初に降り立った時の印象は、市の名前を冠している駅にしてはいささか寂し過ぎるのでは、ということでした。駅前に繁華街とよべるほどのものがないせいですが、横浜鉄道開業時にはこの駅はなく、戦時体制下の軍都建設に伴って、その玄関口として1941(昭和16)年4月5日に開業したという経緯があります。元々大きな集落があったところではなかったのです。(1981年11月26日撮影)
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 相模原駅は、1996年に橋上駅化されましたが、その少し前はこのような姿でした。駅舎の本体は開業時のままだったと思われますが、外観はずいぶんお洒落になっていました。(1995年1月23日撮影)
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 原町田駅です。1980年に駅周辺の再開発により小田急寄りに移転するまで、国鉄は原町田、小田急は新原町田と称していました。橋本と同様、地方都市の駅という感じですが、元々駅の近くに原町田という集落があり、国鉄原町田駅がその最寄り駅でした。小田急の新原町田駅とは600mほどの距離があったため乗換は大変で、ラッシュ時には走る人も多く、「マラソン道路」などと呼ばれていました。(1979年4月22日撮影)
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 原町田駅のホームです。ローカル線の少し大きめの駅という雰囲気でした。(1979年4月22日撮影)
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 原町田駅の跨線橋から八王子側(小田急線側)を見たところです。線路際では再開発のための解体工事が行われている様子がうかがえます。(1979年4月22日撮影)
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 国鉄原町田駅の入場券(左)と小田急新原町田駅発の乗車券、新原町田行の特急券です。だいぶ変色しており、時の流れを感じます。
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初冬の富士登山

2018/12/05 10:27
 先日、ポン子と一緒に富士山に登ってきました。といっても日本一高いあの富士山ではありません。上田市の西方、塩田平の南縁に聳える独鈷山系の富士山です。標高は1029.6m。何だ、ただの里山ではないか、と思われるかもしれませんが、おそらく、日本で二番目に高い富士山なのです。
 全国に富士を名乗る山はたくさんありますが、いずれも「○○富士」といったように、富士の前に地域名がついていたり、富士は通称で本当の山名は別にあるというケースが大半です。しかし、この山はずばり富士山。国土地理院の地形図にも、しっかり富士山と記載されています。正式名称が富士山という山が他に無いわけではないのですが、地形図に表記されているものはごく少数です。ポン太の知る限りでは、この上田の富士山に次いで高い(地形図に表記されている)富士山は、福島県西会津町にあります。しかし、その標高は508.8mにすぎませんから、上田の富士山が堂々の第二位であるとみてよさそうです。
 さて、富士山という立派な本名をもつこの山ですが、地元では、付近にある鹿教湯(かけゆ)温泉の名を冠して、鹿教湯富士と通称されています。気軽に温泉客も登れる里山なのかというとそうではなく、観光パンフレットなどに登山案内やルートが掲載されていないのはもちろん、現地に行ってみると、登山口の標識も無く、山中には道標の類が1つもありませんでした。要するに登山・ハイキングの対象となるような山ではないのです。しかし、「日本で二番目に高い富士山」というところに惹かれるものがあり、あえてチャレンジしたというわけです。
 このあたりは、日本有数の松茸の産地ですから、シーズン中に山中をウロウロしていると、不法侵入者ではないかと疑われる心配があります。夏は暑すぎてこのような低山に登る気はしませんので、初冬の今がチャンスではあるわけです。南麓の国道254沿いにある高梨という集落から入山し、まずは富士山東側の鞍部、市峠を目指しました。獣除けの柵から登山道が始まるというロケーションが不安感をかき立てましたが、市峠への道は、一部に崩壊箇所はあったものの、全体としては幅広くしっかりしたものでした。道端のいたるところに石仏が鎮座しており、その中には江戸時代の年号が刻まれたものもありました。どうやら、市峠を越えるこの道は、松本から上田へ抜ける最短ルートとして、昔は利用する人が多かったようなのです。土留めの石積みが残っている箇所もあり、思いがけず古道の風情を楽しむことができました。
 1時間ほどで難なく市峠に到着しましたが、大変だったのはそこから。富士山頂へは市峠から西側へ続く尾根を登っていくのですが、落ち葉で道がほとんど見えません。所々の木の枝に巻き付けてある赤いテープだけが頼りです。尾根をはずさないように慎重に進みましたが、山頂が近づくにつれ、とんでもない急登となりました。斜面に積もった落ち葉は滑りやすく、足の置き場を間違えると滑落は必至です。つかむことのできるものは、枝でも岩でも何でもつかみ、なんとか切り抜けましたが、帰路は恐怖で足が震えました。
 山頂には、小さな石祠と三等三角点があるのみ。樹間から鹿教湯の温泉街を望むことはできますが、展望が良いとはいえません。滑落の危険を冒してまで登る価値のある山なのかといわれると、う〜ん、という感じです。されど、ポン太にとっては28年ぶりの「富士登山」であり、前回は日本一の、今回は二番目に高い富士山の頂に立てたのですから、達成感は十分得ることができたといえましょう。


 鹿教湯温泉街から見た富士山です。ただしこれは2月に撮影したもので、今回の登山時には雪はありません。
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 鹿教湯温泉と富士山の位置関係はこうなっています。赤い点線が今回登ったルートです。
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 この獣除けの柵が登山道の入口です。留め金を一旦はずして中に入りました。
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 その先に続く道は、それなりに整備されていて、岩の上には石仏が鎮座しています。
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 随所に石仏が置かれていて、この道が古い街道であることがよくわかります。この石仏には嘉永五年と刻まれていました。ペリーが浦賀に来航して日本中が大騒ぎになるのはこの翌年です。
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 全体としては歩きやすい道ですが、崩落した岩が道を塞いでいるところもあります。道端の石碑には「天保六年」と刻まれていました。天保といえば、江戸三大改革の1つ、水野忠邦による天保の改革が有名ですが、それが行われたのは、この6年後の天保十二年。こういうものを見ると、江戸時代が身近に感じられます。
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 斜面をトラバースしなければならない箇所もあり、転落しないように慎重に進みました。
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 大きな岩の下をまわり込むようなところもあります。
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 こんな立派な石積みが残っていました。単なる土留めではなく、建物があった名残のようにも見えます。茶店があり、峠を越える旅人がここで一息入れたのかもしれない、などと想像してしまいました。人や馬が頻繁に行き交った往時の情景が目に浮かんでくるようです。
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 ここが市峠です。この道は、塩田平を経て上田城下へと通じていました。山地を避けて大回りするよりは、この最短ルートを利用する人の方が多かったのではないでしょうか。昔の人にとっては、この程度の峠越えは苦にならなかったのかもしれません。
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 このあたり一帯は松茸山ですから、入山権の無いよそ者が立ち入らないように、テープが張られていました。こうした山を「止め山」といいます。「止め山につき、無断入山者は罰金20万円」などと書かれている場合もあります。
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 市峠から富士山へは、享和元年(西暦では1801年)と刻まれた古い石仏の後ろを登っていくのですが、どこが道なのかはっきりしません。
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 樹間から鹿教湯の温泉街を望むことができます。
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 傾斜がどんどんきつくなります。この先は、自分の身体を保持するのがやっとという急斜面となり、写真を撮る余裕はありませんでした。
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 ようやくたどりついた富士山の山頂です。
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 小さな山名プレートが、松の木に取り付けられていました。日本で二番目に高い富士山ですから、もう少し立派な表示があってもよさそうですが・・・。
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 下山後、鹿教湯温泉で汗を流し、今年まだ一度も口にしていなかった松茸を少しばかり賞味しました。松茸の握り寿司に松茸入茶碗むし、松茸御飯。本当は、そちらが目的だったのではないかって?「それも」ということにしておきましょう。
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台鉄自強号塗色の電車、浅間山麓を快走

2018/12/02 12:30
 しなの鉄道に、先月15日から、今まで見たことのない塗色の電車が走っています。初めて目にした人は、何だろうあの車両はと驚くのではないでしょうか。電車そのものはしなの鉄道が所有する115系電車ですが、1編成(3両)の塗色を台湾鉄路局(台鉄)の自強号(EMU100形交流電車、すでに定期営業運転は終了)をイメージしたものに変えて運行しているもの。本年3月に、しなの鉄道と台鉄は「友好協定」を結び、双方に同名の駅が存在する田中駅は姉妹駅となりました。そのような関係から、台鉄自強号塗色の電車の登場となったわけです。
 今年は、直江津から伸びてきた官設鉄道(のちの信越線)が軽井沢まで開通して130周年という節目の年です。それに因んだ様々なイベントが行われていることについては、以前のブログでも触れたとおりですが、上田〜軽井沢間の開業日である12月1日には、台鉄自強号塗色の電車を用いた臨時電車が運転されました。列車名は下りが「信越線軽井沢〜上田開業130年記念号」、上りは「台鉄・田中駅友好記念号」。それぞれにヘッドマークも付くというので、ポン太もカメラをもって出かけてみました。
 見慣れた浅間山麓の風景の中を走る台鉄自強号塗色の電車。違和感があるかと思いきや、冬枯れの野や森には、むしろこのような明るい雰囲気の電車が良く映えます。台鉄自強号色の電車は、この先3年間、普通電車や快速電車として運用されるということなので、目にする(利用する)機会はかなりありそうです。


 イベント列車の人気は衰えず、今回もたくさんのカメラの砲列ができていました。
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 浅間山麓(御代田〜平原間)を行く「信越線軽井沢〜上田開業130年記念号」です。
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 まわりの冬枯れた風景にこの色はよく映えます。
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 信濃追分の森の中(信濃追分〜御代田間)を行く「台鉄・田中駅友好記念号」です。
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 ヘッドマークに大きく「田中」の文字が入っています。台鉄の田中駅が姉妹駅であるということをアピールしているわけですが、田中駅では、この日が開業記念日であることに因んで、全国の田中さんに同駅に集合してもらうというイベントが行われました。田中姓であるということが証明できれば、『「田中さん」来駅記念プレート』と同日のみ有効な軽井沢・長野フリーきっぷを進呈するということでしたが、果たして何人の田中さんがそれをゲットしたのでしょうか。
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初冬は寂しきものなれど

2018/11/30 22:48
 浅間山麓に暮らしていて、1年中で一番寂しさを覚えるのは、11月下旬〜12月下旬ではないでしょうか。地元産の野菜は収穫が終わってしまい、賑わっていた直売所の多くが冬季閉鎖となります。別荘に滞在していた人たちもその大半が去り、ウォーキングをしていても誰にも出会わないことが多くなります。紅葉が美しかった山や森も枯れ木ばかり。日没がどんどん早くなっていくことも、寂寥感の一因です。雪が積もってくれれば、雪化粧した木々を眺めたり、冷え込みが厳しい日には、霧氷の出現を期待したりといった別の楽しみがあるのですが、初冬にはまだそれはかないません。
 殺風景な茶系一色のこの季節ですが、良いこともあります。それは空気が澄んできて、遠くの山、とりわけ北アルプスの山々を望むことがきることです。先日も西の空にくっきりと浮かんだ槍ヶ岳を見つけて、嬉しくなりました。夕焼けの色が一段と鮮やかに見えるのもこの季節ならではといえましょう。枯れ木もシルエットになると、まるで印象派の絵画のようです。そのようにポジティブにとらえれば、この季節もまんざら悪くはないかもしれません。寂しい初冬の黄昏時こそ絶好のウォーキングタイムと考え、今日も歩き回ったポン太でした。


 レタスやキャベツなどの高原野菜を栽培していた畑も、このように寂しくなりました。後ろに見える山は、ポン太がしばしば登っている平尾山です。
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 こちらの畑にも作物は何もありません。蓼科・八ヶ岳連峰のシルエットがなかったら、単なる冬枯れの寂しい風景になってしまいます。
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 浅間山の山頂部に少し雪がついています。ポン太が目視している限りでは、今季3度目の冠雪です。当地では「浅間に三度雪が降れば、里でも雪が降る」といわれていますが、今年はどうでしょうか。
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 黄昏時の水辺の風景は、さながら印象派の絵のようです。
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 ポン太のねぐらから一番近いところにあったコンビニ、ローソンが突然閉店してしまいました。こちらは冬枯れというわけではなく、何か事情があったのでしょうが、閉店後すぐに白く塗りつぶされてしまった看板を見ると、寂しさを禁じえません。
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 夕焼け空に浮かぶ槍ヶ岳です。こんな感じに見えるのはこの季節ならではです。
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 蓼科山も神々しく見えます。
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 霧ヶ峰方面のみごとな夕景です。上空を飛ぶ飛行機がアクセントになっていました。
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 中山道を歩いているうちに日没となりました。振り返ると燃えるような夕焼け。明日も天気は良さそうです。
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平原駅物語 〜浅間山麓の駅物語<その5>

2018/11/26 09:17
 平原駅と聞いてピンとくる人は少ないのではないでしょうか。しなの鉄道で軽井沢から4つ目、御代田と小諸の間にある駅ですが、この駅で乗降する人の姿を見ることは稀です。何しろ駅前にある人家は1軒のみで、ホームから見えるのは田と畑ばかり。最近はやりの「秘境駅」といっても過言ではないかもしれません。
 1日の乗降客数もしなの鉄道線内最少の181人(2017年度)。その次に少ない信濃追分駅の534人と比べても3分の1というレベルです。国鉄時代から無人駅でしたが、当時は木造駅舎がありました。今は、駅舎代わりの車掌車(ヨ14364)が置かれているのみです。
 平原駅は信越本線開業時には存在していません。同線の輸送力増強(単線時代、列車増発には交換設備が必要)をはかるために、1921(大正10)年10月10日に設置された信号所がそのルーツです。地元の人々から、列車が停車するのに利用できないのはどうかという不満が出て、特別に乗降が許されたという時代もあったようですが、1952(昭和27)年1月10に旅客駅として正式に開業しました。
 駅名は旧平原村(現在は小諸市の大字)に由来します。その主たる集落は旧北国街道沿いにあり、江戸時代には間の宿として栄えた歴史があります。その集落を経由して平原駅へ行こうとしたことがありますが、道がさっぱりわかりません。「駅入口」といった類の標識が一切ないのです。また、しなの鉄道を跨いでいる国道141号から駅へ通じる道の入口にも何の表示もありません。これほど行きにくい、いや行きたくても行けない駅は少ないと思います。
 駅のまわりは前述のとおり田と畑ですが、直線距離で数百メートルほどの高台には新興住宅地が形成されていたり、集合住宅もあるなど、かなりの人が住んでいます。ところがそうした住宅地から駅へ通じる道が全くといってよいほど整備されていないのです。眼下を電車が走っているのに利用できない。秘境ではないのに、秘境駅化している。これでいいのだろうかと思うポン太でした。


 国道141号の橋の上から見下ろした平原駅とその周辺です。田畑以外何もない、秘境駅のムードが漂っています。
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 車掌車が平原駅の「駅舎」です。昔は貨物列車の最後尾に必ず連結されていた車両なので、懐かしい雰囲気ではあります。
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 ホーム側からみたところです。
 
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 車掌車の中はこうなっています。
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 こんな張り紙がありました。静かなので読書にうってつけとは・・・。小諸市青少年補導センターが掲示したものですが、利用者を増やそうという方向性は感じられません。
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 平原駅を発車した下り列車です。晴れていればこのように右手前方に北アルプスを望むことができます。その手前の高台に新しい住宅がいくつも建っていますが、そこから直接駅へ行く道はありません。
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 平原駅の少し御代田寄りからは浅間山がよく見えます。斜面を登っていく道がありますが、そこをたどっていくと平原の集落(かつての平原宿)にでます。駅から徒歩圏内の家の数は決して少なくはありません。
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 旧街道(北国街道)らしい趣のある平原の街並みです。
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 平原の集落から駅へと下る道の入口ですが、何の標識もなく、この道を進んでよいものか迷ってしまいます。
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 こちらは、国道141号です。平原駅へは、青地に白矢印の道路標識がある角を左に曲がらなければならないのですが、これまた何の表示もなく、多くのドライバーは駅の存在を認識することなく通り過ぎて行きます。
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 これが国道141号と平原駅を結ぶ道(メインルート)です。対向車が来たらすれ違えない狭さですから、この先に駅があるのだろうかと不安なってしまいます。
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「まんぷく」と小諸

2018/11/24 09:18
 このところ毎朝8時になると、NHKの連ドラ『まんぷく』に釘付けになってしまうポン太です。これほど熱心に連ドラを見るのは、3年前の『あさが来た』以来でしょうか。『まんぷく』の主人公、立花萬平のモデルは、インスタントラーメンの発明者にして日清食品の創業者である安藤百福。このような実在の人物をモデルとし、歴史的背景をからめながら展開していくドラマがポン太は好きなのです。『あさが来た』もそうでした。各場面に登場する小道具類などが、本当にその時代に合っているものなのか、時には「これはおかしいぞ」などとつぶやきながら楽しめるのが、この手のドラマが好きな理由かもしれません。
 実はポン太は、このドラマが始まるだいぶ前から、安藤百福の名をしばしば目にしておりました。それは、小諸の日帰り温泉施設「あぐりの湯」の近くに、「安藤百福センター」という施設があるからです。百福は「食とスポーツは健康を支える両輪である」という理念の持ち主で、自然体験活動をとりわけ重視していたということです。その遺志を受け継ぎ、生誕百年記念事業として設立されたのが、安藤百福記念自然体験活動指導者養成センター(通称安藤百福センター)でした。自然環境に恵まれた小諸は、そうした活動を行うのにふさわしい場所として選ばれたわけです。
 ラーメンがそれほど好物ではないポン太でも、インスタントラーメンのお世話になることはあります。数あるインスタントラーメンの中で、比較的食べる回数が多いのが日清の「ラ王」。最近気づいたのは、パッケージが変わったことと麺の著しい進化です。ほとんど生麺のような食感になっていて驚きました。日清食品の企業理念の1つに、百福の言葉である食創為世(世の中のために食を創造する)というのがあるそうです。麺の進化は百福の理念のなせるワザなのか、などと思いながらラーメンをすすり、「まんぷく」したポン太でした。
 
 小諸の「あぐりの湯」を目指してクルマを走らせると、このような標識が目に飛び込んできます。「安藤百福センター」とは何だろうか、誰でもそう思うのではないでしょうか。
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 その先には、もう少し詳しいこんな看板もでています。
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 ここが安藤百福センターの入口です。
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 入口から坂道を少し登ると、自然体験活動指導者養成センターが見えてきます。周囲の環境にマッチしたお洒落な建物です。
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 センターの裏には御牧ヶ原台地が広がっています。この自然も学習対象なのでしょうね。
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 安藤百福センター付近からは浅間山や浅間連峰の山々が一望できます。百福自身が、生前に、この地に立ったことがあるかどうかはわかりませんが、この景観を見れば、誰しも自然はすばらしいと感じるはずです。
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 ポン太が紹介するまでもありませんが、これが「ラ王」担々麺のパッケージです。
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 本日つくったのは担々麺そのものではなく、ポン太特製の「唐揚ラーメン」です。ピリ辛で、寒い日は身体が温まります。
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漬け物はやっぱり野沢菜

2018/11/22 00:18
 この季節、農産物の直売場で最も目立つ野菜は野沢菜です。店頭にうずたかく積み上げられていて、こんなに買う人がいるのだろうかと思うほどです。信州では、野沢菜漬けは極めてポピュラーな漬け物で、冬の訪れを前に、多くの家庭であたりまえのように漬けている、と見て間違いないでしょう。 
 浅間山麓に移住する前は、すでに漬け物になっている野沢菜を買ってきて食べることはあっても、自分で漬けようなどと考えたことはありませんでした。そもそも、生の野沢菜を八百屋やスーパーで売っているのを見たことがないのですから当然です。しかし、直売場に山積みされている野沢菜を目にすると、漬けてみようかな、漬けたほうが良さそうだ、いやこれは漬けねばならぬ、という脅迫観念が生じてしまいます。元々、野菜が乏しくなる厳寒期を乗り切るための保存食だったわけですから、信州の冬の食卓に無くてはならぬものであり、お茶請けにも欠かせない必須の食べ物といえましょう。ここはもう、「郷に入らば」の精神を発揮して、漬けるしかありません。
 一般的な野沢菜漬けといえば塩漬けですが、樽で大量に漬けても、わが家ではとても消費しきれませんし、塩分の摂り過ぎになるのも心配です。少量で美味しく漬けられるのは醤油漬けだと聞いて、そちらをつくってみることにしました。レシピは、直売所のおばさんに教えてもらいましたから、この地域のみんなが食べている、浅間山麓の味ということになります。
 結果はどうだったか。これが想像以上の美味で驚きました。やっぱり漬け物は野沢菜だね、と自慢げに話したくなってしまったポン太です。

 量が少な目の束を購入したつもりですが、このボリューム。これで値段は300円でした。
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 まずはよく水で洗わねばなりませんが、なにしろ丈が高いので、ふつうのバケツにはおさまらず、一苦労です。
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 洗った後は、3〜5センチほどの長さに刻み、樽の中へ投入しました。葉が多すぎると美味しくないということでしたので、先端部分(4分の1程度)は取り除き、豚肉と炒めておいしくいただきました。
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 後は、砂糖、酒、醤油、酢を教わったとおりの比率で入れ、少量の昆布と鷹の爪を加えるだけです。これがすべて投入した後の姿です。
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 重しを置けば漬け込み完了。ふたをして、外気と同じ温度になる場所に保管しました。
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 それから二日後、はやくも水があがってきました。順調です。
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 これが漬け込んでから1週間後の状態ですが、もう食べられそうです。
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 待ちきれずに少しお皿にとって食べてみました。う〜んいける。まだちょっと浅漬けの感じですが、味は上々。この先どこまで美味しくなるのか楽しみです。
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秋はフィナーレ

2018/11/19 10:52
 美しかった紅葉の季節は去り、間もなく長く寒い冬がやってこようとしています。山はすでに枯れ木ばかりになってしまいましたが、里ではまだ落葉松や白樺の黄葉を見ることができます。とりわけ見事なのが、佐久平の長野牧場(正式名称は家畜改良センター茨城牧場長野支場)。この牧場の落葉松の葉がすっかり落ちてしまうと、冬将軍の到来は待ったなしということになり、冬用タイヤへの交換、厳冬期用衣類やグッズの準備等、冬対策を急がねばなりません。
 今年は面白いことに気づきました。それは牧場の脇を走る道路沿いに桜の花がたくさん咲いていたことです。えっ、晩秋に桜?と驚きましたが、すぐ近くに「長野牧場創立百周年記念植樹 カンザクラ」という説明板があり、納得。苗木を植えてから12年が経過したようですが、今は背丈以上の大きさに育ち、花をたくさん咲かせるだけの体力がついたということでしょう。それにしても紅葉(黄葉)した木々をバックに咲く桜というのは、美しいだけでなく、手品を見ているような面白さがあります。



春は桜の名所として知られる長野牧場ですが、秋も風情があります。
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 落葉松の黄金色の黄葉はみごとです。
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 道路沿いの白樺並木も黄葉していました。
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 まるで北海道のような、この開放感が長野牧場の魅力です。
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 地元の人々の散歩コースになっている白樺と落葉松の並木道です。
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 浅間山と紅葉(黄葉)した木々をバックに咲くカンザクラです。
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 こうして写真に撮ると、季節はいったいいつなのかと思ってしまいますね。
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軽井沢で山登り

2018/11/17 12:43
 三年前に放映されたNHKの「ブラタモリ」軽井沢編で、避暑地軽井沢ができたのは離山のおかげという話を取り上げていました。現在の浅間山ができるよりもずっと昔、離山付近で大噴火が起き、その噴出物によって以前は湖だったところが埋め尽くされて、高地でありながら、広く平らな土地がつくられたというのです。
 離山の標高は1256m。そんなに高いわけではありませんが、火山は火山。お椀を伏せたようなその山容(鐘状火山or溶岩ドーム)は独特で、軽井沢のシンボルと言ってもよいでしょう。旧軽井沢と中軽井沢(沓掛)の中間に位置し、他のどの自治体とも境を接していない、正真正銘の軽井沢の山でもあります。
 軽井沢の市街地との標高差は300mほどですから、登山の対象としては、物足りないと思われるかもしれませんが、頂上からの展望もよく、登ってみる価値のある山だと思います。ただし、簡単に登れるからといって、甘くみてはいけません。ここは野性動物の生息地であり、ポン太も、目の前を、イノシシの親子がドタドタと駆け抜けていく場面に遭遇したり、猿の群れに囲まれて往生した経験があります。もちろん熊もいますから、注意するにこしたことはありません。
 登山ルートは東側からと南側からの2つがあります。東口ルートは、別荘地の中をゆるやかに登っていく道で、一般車は通行止めとはいえ、頂上付近まで車が通れるような広い道が通じています。南口は、軽井沢町歴史民俗資料館の裏手からいきなり山に入るルートで、細く険しい登山道が続きます。後者の方が山登りらしい感じがして、ポン太はそちらを選択することが多いのですが、先日は、最終盤の紅葉見物も兼ねて、前者のルートで登ってみました。いつもならつまらないと思う別荘地内の舗装道路も、紅葉に彩られていると別物になります。葉の落ちた樹間から望む旧軽井沢の街並みも意外性があり、東口ルートで登るならこの時期をおいてほかにないと思ったポン太でした。


 軽井沢東部小学校の前が東口登山道の入口です。
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 別荘地の庭では、残り少なくなったモミジが真っ赤に燃えていました。
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 別荘地内にも、登山道の標識が随所にあり、道に迷うことはありません。
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 別荘地の後ろに、これから登る離山が見えます。
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 登山者心理としては嫌なものである舗装道路が続きますが、この景観なら許してやりましょう。
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 別荘地が尽きたところに記帳場があり、ここからが山登りです。
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 でました、熊注意の看板。無視してはいけません。
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 その先もずっとこんな道が続きます。樹間からの旧軽井沢方面の眺めが救いです。
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 頂上まであと900メートルというところから、ようやく山道らしい感じになりました
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 展望台からみた軽井沢駅周辺の街並みです。プリンスのスキー場は、すでに一部がオープンしています。
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 頂上付近は台地状になっていて予想以上に広いのと、落ち葉で道が見えにくくなっているので、標識を見落とさないようにしないと迷ってしまいます。
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 わずかに残っていた紅葉です。
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 ここが離山の山頂です。
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 山頂からは、浅間山の迫力ある眺めが楽しめます。
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 少し霞んでいますが、八ヶ岳・蓼科方面の眺めもみごとでした。
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 下山後、雲場池に寄ってみました。紅葉シーズンが去り、池畔は静寂に包まれていました。腐っても鯛、枯れても雲場池ですね。
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心に栄養補給、芸術の秋

2018/11/13 15:35
 秋は、展覧会やコンサート、演劇などのイベントが目白押し。田舎は自然には恵まれているものの、文化的な活動が低調でイベントも少なく退屈だ、という話をよく聞きますが、浅間山麓に限ってはそのようなことはありません。都会で生活していたころと比べて、むしろ文化的行事に出かける回数は増えました。会場へのアクセスが容易であることや、入場料が廉価である(もしくは無料の)場合が多いので、気軽に参加することができるのです。
 望月宿で古楽器の演奏を聴いたことについては以前のブログで触れたとおりですが、そのほかにも、軽井沢町の追分宿郷土館で行われたリゾートコンサートや御代田町「エコール御代田」のサロンコンサート、佐久市「コスモホール」の佐久室内オーケストラの定期演奏会(曲目はウェーバーのファゴット協奏曲ほか)など、この秋もいろいろなイベントに参加し、楽しませてもらっています。
 先週の日曜日には、「コスモホール」で市民ミュージカルの公演があり、ポン子とでかけてきました。この催しは、今年で10回目ということですから、恒例行事として市民に定着しているといってよいでしょう。今年の内容は、佐久出身の社会運動家で、農村婦人の解放と女性の地位向上に尽力した丸岡秀子にスポットをあて、その苦難の半生を描いたものでした。題して「心の中の光となって〜人間物語丸岡秀子」です。
 昭和30(1955)年、ようやく実現にこぎ着けた第一回母親大会(議長は羽仁説子)で、丸岡秀子が「夫を主人と呼ぶのはやめましょう」と演説するシーンから物語りは始まりました。当時の熱気が伝わってくる演出で、最初から舞台に引き込まれます。造り酒屋の長女として生まれながら、母親の死で里子に出され、辛酸をなめた秀子の子供時代。それを演じた子役のセリフ回しや仕草が堂々としており、かつ自然であることにも目を見張りました。随所で演奏された篠笛も効果的で、その演奏の見事さに感動しましたが、東京芸大で邦楽専攻というプロフィールを見て納得。出演者の総数100人以上という、躍動感溢れる舞台に圧倒され続けた3時間でした。まさに市民の市民による市民のためのミュージカル。佐久の文化の底力と地元愛の深さを感じたポン太でした。

 
 これは追分郷土館で開催されたリゾートコンサートの様子です。琴の演奏会でしたが、実はポン太にとって、琴の演奏を聴くのは初体験。なんとなく、良家の娘さんが優雅かつ上品に演奏する楽器というイメージでしたが、実際の演奏は変幻自在。音域もおどろくほど広く、何も知らないくせに何だと叱られそうですが、ハープ以上に表現力のある楽器ではないかと、感動してしまいました。
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 三台の琴のコラボ(琴の場合にそれを何というのかわかりませんが)は迫力満点で、音が激しく上下して緊張感が高まるところなどは、現代音楽を聞いているような気分になりました。
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 この日は、近くの旧油屋旅館の庭で「ホンモノ市」が開催されていて、テントの中には販売者自身が制作した作品が並んでいました。
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 有志によるものでしょうか。ジャズバンドの生演奏も行われていて、そちらも楽しめました。
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 こちらは、市民ミュージカルが上演されたコスモホールのロビーです。大きなポスターが掲出され、後ろの壁際では、丸岡秀子関連のパネル展示が行われていました。
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 パネル展示を熱心に見る人が多く、中には「丸岡先生のおかげで私の両親は結ばれた」というような会話をしている人もいました。丸岡秀子は、政治家の井出一太郎や作家の井出孫六の異母姉にあたる人ですから、パネルの中には井出家の人々が一堂に会した写真もありました。
 
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 井出家が営む佐久市臼田の橘倉酒造です。この家の長女として生まれた秀子ですが、里子に出されてしまったので、ここで育ったわけではありません。
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 パネルの写真の中には、志を同じくする平塚らいてう(右)と語らう丸岡秀子の姿もありました。
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 ロビーの掲示をみていますと、冬場も様々なイベントが行われるようですので、次は何を見に来ようかと、はやくもそんなことを考えてしまいました。佐久だけでなく、軽井沢や上田でもいろいろな催しがありますから、「芸術の秋」が終わっても、心の栄養補給に困るということはなさそうです。
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柿は寒いのが苦手?

2018/11/10 10:03
 柿はポン太の大好物です。数ある果物の中で、どれか1つを選べと言われたら、たぶん柿と答えるのではないでしょうか。味はもちろんですが、晴れ渡った秋空に良く映えるあの色(柿色)もすばらしく、古民家の傍らにたくさんの実をつけた柿の木があるだけで、原田泰治の絵のような風情を感じます。
 大好きな柿を自分でも育ててみたいと考え、浅間山麓に移住して最初に植えた果物が柿でした。しかしこれは大失敗。1年足らずで枯れてしまいました。氷点下15度にもなる冬の寒さに耐えられなかったようです。改めて、近隣の家の庭を眺めてみると、柿の木のある家は1軒もありません。やはりここでは無理だったのです。
 佐久平や小諸まで下れば、柿の木を見かけることはありますが、ほとんどは小粒の渋柿です。干し柿も大好きなポン太は、直売所で調達した渋柿の皮をむいてベランダに吊してみました。気温が低いせいか、カビが生えることもなく、順調にしぼんでいきます。寒いのが苦手な柿ですが、干し柿づくりにとっては寒さは味方というわけです。
 先日、東京の友人から、自宅の庭で収穫した大量の甘柿が届きました。そのあまりに見事な形と色に感激し、お盆に載せて鑑賞してしまいました。さらには、庭に持ち出し、紅葉とコラボ。まずは目で晩秋の風情を味わったポン太でした。


 友人から届いた柿を庭に置いて「鑑賞」しました。柿は見た目も美しい果物です。
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 紅葉とのコラボ。これぞ日本の秋という感じがします。
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 佐久平パーキングエリア付近で見つけた柿。あまりに小粒でしかも渋柿なので、収穫されることもなく放置状態です。柿好きのポン太から見れば、もったいないような気がしますが・・・。
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 直売所で調達した渋柿を「柿すだれ」にしてベランダに吊してみました。小さいので皮むきが大変ですが、飾り物のようで絵になります。
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 柿と古民家と紅葉した山。これぞ「ふるさとの秋」という感じですが、これは北信の高山村で撮影したもの。浅間山麓では、残念ながら、このような風景を見ることはほとんどありません。
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古城には紅葉がよく似合う

2018/11/06 19:01
 紅葉の話ばかりで恐縮ですが、どうしてもこの時期は、紅葉狩りのスイッチが入ってしまっているので、ご容赦ください。
 前のブログに記したとおり、今年の紅葉の進み方ははやく、軽井沢周辺はすでに「色あせはじめ」という状況になっています。しかし、それよりも標高の低いところは、いまが盛り。昨日、来客を案内して小諸の懐古園(小諸城址)へでかけてみましたところ、これ以上は望めないほどの見事な紅葉を楽しむことができました。小諸の標高は650m前後ですから、ちょうどそのあたりまで、紅葉前線が降りて来ているわけです。
 紅葉の時期に懐古園を訪れたのは3年ぶり。懐古園自体は何も変わっていませんが、赤や黄色の葉に彩られた城跡というのは、実に趣があり、これぞ秋という感じがします。山の紅葉も、軽井沢のちょっとお洒落な紅葉もすばらしいのですが、城跡というのは人の世の栄枯盛衰を強く感じさせるところであり、紅葉が華やかであるほど哀感が漂うところに、他の場所とは異なる魅力を感じます。
 小諸は武田信玄の信州攻略の拠点となったところです。山本勘助が築城したともいわれていますが、現在の形に整備したのは、江戸幕府開府後、初代小諸藩主となった仙石秀久とのこと。城下町よりもお城の方が低い位置にある「穴城」という珍しい形をしています。自然の深い谷(田切地形)を巧みに利用しているところから、そうした谷を彩る紅葉もまた魅力の1つです。
 小諸は、島崎藤村ゆかりの地であり、城址を散策していると、あの有名な「千曲川旅情のうた」の一節が頭に浮かんできます。「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ・・・」
 気持ちの良い秋の一日を味わうことができた懐古園でした。

 懐古園入口の三の門を入り、坂を登ると二の丸跡があります。その上からの眺めは見事でした。
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 赤い色が目立つ北の丸跡付近の紅葉です。
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 石垣の曲がり角からみた紅葉も風情があります。
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 藤村記念館前にある大ケヤキとそのまわりの紅葉です。
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 馬場の跡に昔からある東屋ですが、紅葉の季節にはその鄙びた味わいが一層増すように感じます。かつて、草笛を吹く禅僧がいたのはこのあたりです。ポン太もその音色を何度か聞いたことがありますが、みすぼらしい身なりでしたので、物乞いと間違われることもあったようです。1958(昭和33)年から亡くなる直前まで、22年間にわたり毎日草笛を吹き続けていた由。その僧侶が、横山祖道という方であるということを知ったのは、ずっと後になってからです。
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 空堀のかわりをしていた谷も、紅葉に彩られています。
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 千曲川を眼下に望む「水の手展望台」です。懐古園の名所の1つで、この近くに「千曲川旅情のうた」の碑があります。
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 千曲川の畔や周囲の山々も良い感じに色づいて、満足できる眺めになっていました。「千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて・・・」という心境になるかどうかはわかりませんが。
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 廃城となって荒れていくお城を憂いた元藩士たちが、本丸跡に懐古神社を祀り、公園として整備したそうです。その神社脇の池のまわりも、きれいに紅葉していました。
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 天守台下のもみじの色があまりにも赤いので驚きました。
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 これも天守台下の風景ですが、古城の石垣と紅葉は、本当によく似合います。
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浅間山麓の紅葉ピークに

2018/11/03 19:23
 いま信州で紅葉がピークをむかえているのは、標高およそ700〜1000mのエリアです。ポン太がねぐらにしている森の標高は900mですから、今まさに紅葉真っ盛り。窓の外へ目をやれば、居ながらにして、日々刻々色合いが変化する紅葉を楽しむことができます。一年中で一番幸せな時間を過ごしていると言っても過言ではないかもしれません。
 散歩に出かけるのが楽しく、歩きたくてしかたなくなるのもこの時期です。紅葉がきれいなのは、有名なスポットだけではありません。公園はもちろん、一般住宅や別荘の庭の木々も見事に紅葉していますので、散歩をしながらそれらを見て回るというのも楽しみの1つです。
 ポン太の個人的な感覚としては、今年は、色づいてから落葉するまでのスピードが、例年より速いような気がします。もし、浅間山麓の紅葉散歩を計画中という方がいらっしゃいましたら、できる限り早くお越しいただくのが良いかと思います。


 本日の浅間山と山麓の様子です。浅間山の中腹より下の方が紅葉していることがわかります。
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 窓から見たポン太の森の紅葉です。
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 これは先週撮影した、ポン太の森です。真っ赤に色づいていたツタは、今は散ってしまいありません。
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 ポン太の家のすぐ脇のもみじが見頃になりました。
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 いつもの散歩道からみた風景です。後方に八ヶ岳がみえます。
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 こういう脇道を見つけると、入って行きたくなります。
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 水辺(御影用水)一帯も紅葉が進んでいます。
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 散歩道のあちらこちらが紅葉しています。
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 すばらしいもみじの庭です。見とれてしまいました。
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  中山道沿いの木々も紅葉しており、この時期の街道歩きは快適そのものです。
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 御代田町のスポーツゾーン、雪窓公園付近の街路樹もきれいに色づいていました。
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 孫を遊ばせようとやってきた龍神の杜公園も色づいていました。巨大な龍の滑り台は、一見怖そうですが、2歳の孫と滑り降りることができました。
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 遊具のまわりもこの紅葉です。
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 御代田町の露切峡です。遊歩道などはなく、橋の上から眺めるだけですが、なかなかの景観です。
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 定番の紅葉名所、軽井沢の雲場池へやってきました。期待を裏切らない紅葉です。
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 モデルを使っての撮影でしょうか。ベトナムかタイの方のようでした。外国人にも大人気の雲場池です。
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 ワンちゃんにも紅葉はきれいに見えるのでしょうか。
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 池の奥のカフェも良い雰囲気です。
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 京都のお庭を思わせる風景ですが、これは別荘地内の池です。
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 雲場池は、その周辺の別荘地の雰囲気もすばらしく、みごとな紅葉に出会うことができます。
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 軽井沢駅前の大通りです。周囲の山々の紅葉も進んでいることがわかります。
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おみそれしました聖山

2018/10/30 07:45
 聖山と聞いてすぐにどこにある山かわかる人は少ないでしょう。山の名は知らないが、聖高原なら知っているという方は多いかと思います。篠ノ井線に聖高原という駅があり、その北方、善光寺街道の猿ヶ馬場峠一帯が、聖高原と呼ばれている場所です。別荘地、リゾート地として開発されたのは1960年代からで、一般受けしそうな名称として採用されたのが、近くに聳える聖山でした。
 聖山の標高は1447m。筑北三山の1つとして、地元ではかなり知名度の高い山ではありますが、頂上付近まで自動車道路が通じ、山頂には電波塔が林立していると聞けば、正直登ってみたいという気持ちにはなりません。しかし、いろいろ調べてみると、信州百名山の1つであり、1等三角点峰でもあること、電波塔が設置されるほど見通し(展望)が良いこと、紅葉も美しいことなど、プラス評価も多いことがわかり、行くなら紅葉シーズンの今しかないと出かけてみることにしました。
 クルマで山頂まで行ったのでは山登りにならないので、麻績(おみ)村の坊平登山口から聖峠経由で山頂を目指しました。この選択は大正解でした。全行程の3分の2ぐらいが紅葉の真っ盛り。すでに葉が落ちていた頂上からの眺めは、まさに360度の大展望でした。この日は残念ながら雲が多く、山座同定をすることはできませんでしたが、案内板によれば、信州の著名な山の大部分を眺めることができるようです。
 下山後に一周した聖高原には、興味をひく場所が2つありました。1つは、紅葉が水面に映えて美しい「すずらん湖」、もう1つは川島浪速別荘跡です。川島は、戦前の日本の大陸政策と関わりの深い人物で、「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」などと呼ばれた川島芳子の養父であると聞けば、ピンとくる方も多いのではないでしょうか。
 松本藩士の子として生まれた川島浪速は、陸軍の中国語通訳として大陸を渡り歩く中で、清朝の皇族と親交を深め、義兄弟の契りを結んだ粛親王の第14王女を養女としてもらい受けました。それが川島芳子です。その血筋故に、真偽のほどは定かではありませんが、諜報活動に利用され、時代の寵児としてもてはやされたようです。敗戦後、国民党政権から漢奸(売国奴の意)とみなされ、銃殺刑に処せられています。その芳子も過ごしたとされる山荘「無聖庵」が復原されていたのですが、今は訪れる人も少ないようで、山荘への入口さえ不明瞭で少し荒れた状態になっていました。
 聖高原が開発された1960〜70年代には、まだ戦前を知る世代の人が多く、川島浪速や芳子は知名度があり、看板がわりにする「利用価値」があったのでしょう。内実とは関係なく、利用できるものは利用する、軍部も観光業者も変わらないなあ、などと皮肉な見方をしたくなるポン太でした。

ここが坊平登山口です。この一帯も別荘地になっていて、しばらくは自動車も通れる道を進みます。
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 別荘地の一角から見上げた聖山の稜線です。
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 別荘地を過ぎると、気持ちのよい山道となりました。
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 みごとな紅葉の森です。
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 豪華絢爛なふすま絵のようです。
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 聖峠です。ここから尾根歩きとなります。
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 標高が高くなるにしたがって、枯れ木が目立つようになりますが、その中にすこし残っている紅葉もまたきれいでした。
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 まもなく頂上です。
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 これが標高1447mの聖山の頂上です。立派な一等三角点の標柱がありました。
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 頂上にはこのような電波塔がたくさんあります。ここから眺めることができる山々の説明板が、すべての方向にむけて設置されていて、いかに展望のよい山であるかわかります。
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 霞か雲か、この日の眺望はこのようにすっきりせず、残念ながら遠方の山を確認することができませんでした。
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 聖高原の「すずらん湖」の紅葉です。
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 これが、復原された川島浪速の別荘、無聖庵です。
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 聖高原の中心、聖湖です。
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 聖湖の近くに、善光寺街道の旧道が残っていました。このあたりが猿ヶ馬場峠で、かつては大勢の参拝者がここを越えて善光寺へとむかったのでしょう。
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錦秋の横谷渓谷を逍遙す

2018/10/26 21:45
 信州の秋は盛りをむかえつつあります。高山から始まった紅葉が、いよいよ里に近づいてきました。テレビでは連日、○○あたりが見頃というニュースが流れています。それを聞くと、見逃すわけにはいくまい、という気分になってしまいます。とはいえ、信州は広いので、すべてを見て回るなどということは不可能ですから、今年はどこへ行くべきかと、かなり頭を悩ませることになります。
 以前訪ねた際の好印象が頭にこびりついていた場所の1つが、蓼科高原の横谷渓谷です。調べてみたら、それはもう5年も前のことでしたので、無性に再訪してみたくなりました。 横谷渓谷には、一番上流の「おしどり隠しの滝」から下流の「乙女滝」まで、3.2キロの遊歩道が整備されています。途中には横谷観音という渓谷の好展望台があり、そこの駐車場からスタートすれば、3時間程度で、渓谷の紅葉をすべて堪能することができます。高度差がかなりあるので、紅葉の進み具合が異なり、前回は、中流域の「王滝」あたりが見頃でしたが、今回は、上流の「おしどり隠しの滝」付近が見事に紅葉していました。下流の「乙女滝」あたりが見頃になるのはもう少し先のようですから、長期間にわたり、紅葉を楽しむことができるというのも、横谷渓谷の魅力かもしれません。 
 浅間山麓から蓼科高原へ行くには、どのルートをとっても峠越えが必要です。その道沿いの紅葉もまたすばらしく、まさに紅葉三昧の一日となりました。どうして人はかくも紅葉を見ると気分が高揚してしまうのでしょうね。おっと、人ではないはずのポン太も紅葉で高揚しておりますが…。

 往路は麦草峠を経由しました。その手前に広がるのが八千穂高原です。日本一という白樺の群生地で知られていますが、白樺林の中のもみじの紅葉もきれいです。
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 麦草峠から蓼科高原へ下っていく道路沿いの落葉松林です。みごとな黄金色になっていました。
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 落葉松ごしに南アルプスの山々がみえます。
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 横谷観音の駐車場の前がすでにこの紅葉です。テンションが上がります。
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 横谷観音の展望台から見下ろした横谷渓谷です。これからこの谷筋を歩きます。
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 横谷観音の展望台からは王滝を見下ろすことができます。
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 遊歩道に入り、まずは「おしどり隠しの滝」をめざしました。遊歩道沿いの紅葉もなかなかのものです。
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 紅葉真っ盛りの「おしどり隠しの滝」です。
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 次々とハイカーがやってきます。この眺めをみれば誰しも満足するはず。テレビ局の取材クルーも来ていました。
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 「おしどり隠しの滝」の下流側の紅葉もきれいでした。
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 「おしどり隠しの滝」から明治旅館の前を通り、御射鹿池(みしゃがいけ)まで往復しました。その途中からみた「おしどり隠しの滝」周辺の山の紅葉です。遠景は蓼科山、谷間の赤い屋根の建物が明治旅館です。
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 御射鹿池に着いてびっくり。幽玄な雰囲気が漂い、とても良い印象をもっていた御射鹿池ですが、いつの間にかその前の道路が整備され、広大な駐車場まで設置されて、雰囲気が一変していました。次々とツアーバスがやってきて、池の前は人また人です。人気がでれば仕方のないことなのかもしれませんが、これほど整備されてしまうと、「幽玄」な雰囲気は吹っ飛び、ただの池にしか見えません。もう、ここには来る必要がない、とつぶやいたポン太でした。
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 これは、前回訪問時(5年前)に撮影した御射鹿池です。今となっては、すばらしい思い出です。
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 再び、渓谷の遊歩道へもどり、王滝のすぐ近くへ。やはり横谷渓谷の主役はこの王滝と言って良いでしょう。
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 横谷温泉(乙女滝)へ下る道からみた渓流と紅葉です。ずっとこんな景色が続きます。
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 これが乙女滝です。名前とは異なり、かなり迫力のある滝です。このあたりはまだほとんど紅葉していませんでした。
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 帰路はすずらん峠を経由し、蓼科牧場から立科町、佐久市へと下りました。振り返ると夕陽を浴びて蓼科高原が燃えているようでした。
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 黄昏の牧場で草を食む牛。もうそろそろ牧舎にもどらなければいけないはずですが、どうしたのでしょう。
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信越線開業130周年記念列車、浅間山麓を走る

2018/10/23 21:20
 直江津からのびてきた信越線(当初の名称は直江津線)が、軽井沢まで開業して今年で130年になります。正確な開業日は、関山〜長野間が1888年5月1日、長野〜上田間が同年8月15日、上田〜軽井沢間が同年12月1日です。ポン太も、これに因んで、浅間山麓の駅物語と称するブログを何度かアップしました。
 この区間の大部分を継承したしなの鉄道でも、いろいろなイベントを実施中ですが、今月の目玉は、開業130周年記念列車の運転でした。用いた車両は、かつて特急「あさま」などに使用された189系電車。碓氷峠の急勾配区間を挟んだ区間で運用するため、補助機関車と協調運転ができる装置を搭載した特急用電車です。新幹線開業と同時に碓氷峠を越える在来線が廃止されたことで、この電車の特長を活かすことはできなくなり、廃車への流れとなりました。現在、JR東日本長野総合車両センターの6両編成のみが走行可能であり、それを用いての運転というわけです。
 189系電車が浅間山麓を走るのは久しぶりとあって大勢のファンがつめかけ、沿線の撮影ポイントはクルマの置き場に困るような状態でした。正直申しますと、ポン太はイベント列車にはあまり興味がなく、どちらかといえば日常的な鉄道の方が好きなのです。しかし、今回の記念列車は、イベントとはいえ、かつて、東京と信州を行き来する際によく利用していた189系電車ですから、昔なじみに会いに行くような感覚で撮影に出かけてみました。往時の様子とあわせてご覧下さい。

 ポン太が昔からよく撮影している場所(御代田〜平原間)へ行ってみると、驚くほど大勢の人が集まっていました。その人々の前を下り759M小諸行が通過して行きます。それにしても、ポン太の感覚としては、どうしてこうも皆同じ位置から撮りたがるのか不思議です。他人と似たりよったりの写真になってしまっては面白くないのではないでしょうか。この日この列車をこのアングルで撮影したのは自分だけ、というスタンスで撮影したいなぁ、とポン太なら思いますが。
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 いよいよ記念列車がやってきました。列車の背後の森の中にある三角屋根の建物は、今年の5月に竣工した御代田町役場です。これを入れることで時代がわかる、というのがポン太のねらいですが、このアングルで撮影している人は他にはいませんでした。(シメシメ)
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 小諸方向へ下っていく記念列車の後ろ姿です。(いずれも10月20日撮影)
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 往時の189系特急「あさま5号」です。(1990年8月20日撮影)
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 同じ「あさま」でも、こちらは489系の特急「あさま9号」です。(1992年8月9日撮影)
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 今、しなの鉄道は、いろいろな記念塗色の電車を走らせています。これはいわゆるスカ色(かつての横須賀線色)の電車です。ポン太には、かつてこの区間でこの塗色の115系電車に乗った(見た)記憶はありません。
(軽井沢行2602M、2018年10月20日撮影)
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りんごの話

2018/10/20 09:24
 実りの秋ですが、この夏の猛暑とその後の長雨の影響がいろいろな形で表れています。良かったのはキノコ類で、松茸が大豊作であることは以前のブログで触れたとおりです。悪かったものの代表は山栗ではないでしょうか。いつもの年ですと、1回のウォーキングで、ビニール袋がいっぱいになってしまうほどの収穫があるのですが、今年はさっぱり。ポン太の森の栗も、数えるほどしか拾うことができませんでした。そういうわけで、いつも楽しみにしている栗ご飯は、あきらめざるを得ません。
 果物はどうでしょうか。信州で果物の王様といえば、全国第二位の生産量を誇るりんごです。プロの農家が栽培しているりんごについては、いまのところ問題はなさそうですが、ポン太の庭の「アルプス乙女」という姫りんごは、ここ数年で最低の収穫量でした。それでもおよそ50個は収穫できましたので、形のよいものを選んで、ブランデー煮をつくることにしました。いろいろ試した中では、これが「アルプス乙女」の一番美味しい食べ方だと思います。ちょっとお洒落な自家製スイーツ。これなら一流パティシエにも負けないのではと自画自賛のポン太ですが・・・。

 春は花を楽しむことができる「アルプス乙女」です。
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 収穫直前の「アルプス乙女」です。実の数は例年の半分以下。ちょっと寂しい実りです。
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 皮をむかずに丸ごと利用しますので、まずは良く洗ってきれいにします。
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 次に芯の部分を抜く作業が必要ですが、これが結構大変です。力を入れすぎると割れてしまうので、慎重に行います。これが芯を抜いた状態です。
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 鍋に並べて煮込みます。入れるものは水、砂糖、ハチミツ、ブランデー、レモン果汁ですが、その量や比率、入れるタイミングは「企業秘密」です。(へへへ)
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 いい感じになりました。まもなく出来上がりです。
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 あら熱がとれたら冷蔵庫で冷やし、さらに冷凍しておけば、いつでも取り出しで食べることができます。これはプレーンヨーグルトにトッピングし、アイスクリームを添えたスイーツ。甘味と酸味がほどよく混じり合って、とても美味しいです。
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やはり外せない白駒池の紅葉

2018/10/14 09:49
 八ヶ岳エリア随一の紅葉名所である白駒池。標高2115mという高所に位置しているため、北アルプスなどを除けば、信州で最も早い時期に紅葉が楽しめる場所です。近年、全国にその名が知られるようになり、シーズン中は、遊歩道入口の駐車場へ到達することすら困難な大渋滞が発生することも稀ではありません。
 今年は例年より1週間ほどはやく紅葉が始まり、先週末の三連休あたりが、最後の見頃になるのではと予想されていました。渋滞覚悟で出かけたくはないので、今年はパスでも仕方が無いかと思っておりました。ところが、三連休が終わった後の平日も、予報に反して晴天が続き、「落葉しきり」という情報は伝わってきません。それなら、様子を見に出かけても良いのではという気になりました。
 平日の午後という選択がよかったようで、難なく駐車場に到着。もちろん、それなりの数の観光客は来ていましたが、遊歩道が歩きにくくなるほどの混雑ではありません。肝心の紅葉ですが、ピークを過ぎてはいたものの、まだ十分楽しむことのできるレベルでした。何度も訪れている場所ではありますが、駐車場から苔の森の遊歩道をたどり、池畔に出た瞬間に目に飛び込んでくる鮮やかな紅葉には、いつも感動させられます。
 白駒池の紅葉は間違いなく天下一品です。今秋も何とか間に合って見ることができ、本当に良かったと思うポン太でした。白駒池の紅葉をまだ見たことがないという方は、ぜひ来年の秋にお出かけください。

 今年は訪れるのが遅かったことで、今までとは違った楽しみもありました。そのひとつは、白駒池へ至る途中の国道沿いの山腹がすでに紅葉しており、その眺めがとても良かったことです。
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 もうひとつは、駐車場から苔の森をぬけて白駒池に至る遊歩道沿いにも紅葉している木があり、苔の森がより一層美しく見えたことです。
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 苔と紅葉した木々の絶妙なコントラスト。このまま額に入れて飾っておきたいようです。
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 池畔に至ると、こんな景色が目に飛び込んできました。水際のドウダンツツジの紅葉は終わりかけていましたが、その上の白樺がみごとに紅葉しており、やはり、紅葉名所だけのことはあります。
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 このあたりは、紅葉の最盛期には水面が真っ赤に染まるところです。落葉がすすみ、赤い葉は僅かに残る程度でしたが、良い景色であることに変わりはありません。
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 池畔の周回路を進むと、樹間から真っ赤な紅葉と水面が見え隠れします。これまた良い眺めです。
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 少し開けたところからの眺めは雄大で、標高2000m以上の場所にある天然の池としては、全国最大であることが実感できます。
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 水面に浮かぶ落ち葉もきれいです。野辰之作詞、岡野貞一作曲の「もみじ」。その2番の歌詞がメロディーとともに浮かんできます。「波にゆられて離れてよって・・・水の上にも織る錦」
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 池を離れて森の中を歩いても、これまたすばらしい紅葉に出会うことができます。
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 スタートしたのが遅かったので、池を一周しているうちに日が傾いてきました。山小屋の灯りが水面に映っているのをみると、「たそがれの灯は ほのかにともりて・・・」と歌いたくなります。紅葉に気分も高揚したところで、家路についたポン太でした。
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山の紅葉は今が盛り〜展望抜群の八間山へ

2018/10/10 12:42
 紅葉前線がだいぶ下がってきました。現在は標高1500〜2000m前後の亜高山帯が見頃になっています。
 先週末の三連休は秋晴れが続きましたが、その先の天気は下り坂という予報でしたので、なんとか連休中に1度は山の紅葉を楽しみたいと考えました。しかし、考えることはみな同じでしょうから、紅葉名所はどこも混雑が予想されます。そこで、比較的マイナーな山で紅葉が楽しめるところはないかと、地図を眺めていて見つけたのが、八間山(はちけんざん)でした。標高は1934.5mとかなりの高さがある山ですが、ポン太の意識の中には今まで存在していなかったというのが正直なところです。その山があるのは、志賀高原の裏側(これは信州から見ての話で、群馬の方には失礼な言い方になると思いますが)、野反(のぞり)湖の東岸。群馬百名山の1つということなのですが、あまり知名度は高くないと思われます。
 野反湖を訪ねること自体が初めてでした。ダム建設によって生じた人造湖とはいえ、元々湿原があった場所ということで、天然湖と変わらない美しさを感じました。山に登らなくても十分満足できる景観といえましょう。八間山へは、その野反湖の南端、野反峠(富士見峠)から登ります。
 ポン太の狙いは的中して、連休中にもかかわらず野反峠の駐車場はガラガラ。登山者も数えるほどでしたから、ゆったりマイペースで山歩きを楽しむことができました。野反湖を取り巻く山々はちょうど紅葉の真っ盛り。尾根につけられた登山道からは、どちらを眺めても紅葉また紅葉です。八間山がこれほど展望の良い山であったとは、なんたるベストチョイスなのかと、思わずニンマリしてしまったポン太です。


 野反湖の南端、野反峠からみた野反湖です。とてもダム湖とは思えない美しさです。
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 野反峠の駐車場の前が八間山への登山口です。頂上までポン太の足で1時間45分(含休憩)でしたから、気軽に登れるハイキングの山といった感じです。
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 登るにつれて、野反湖を眺める角度が変わり、その美景に、思わず歓声をあげてしまいました。
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 登山道はずっと尾根道なので、野反湖とは反対側の景色も楽しめます。全山紅葉し、これぞ山の紅葉という眺めです。
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 とにかく気分のよい登山道で、見飽きることがありません。
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 高度が上がると野反湖の眺めはこのようになります。
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 こんなところを歩くのが申し訳ないような、紅葉のど真ん中を行く道です。
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 いろいろな木々が紅葉していましたが、白樺の紅葉もみごとでした。
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 ドウダンも真っ赤に紅葉していました。まるでとコマクサのような可憐な花が咲いていて驚きました。
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 少しガスがでてきました。その中に見え隠れする八間山山腹の紅葉も、高山らしい雰囲気で迫力がありました。
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 八間山の頂上付近は笹に覆われていて、その中を登って行きます。
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 頂上付近の尾根から、ガスが晴れた谷を見下ろすと、極彩色の絵画のようでした。
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 八間山の頂上です。かなり広いスペースがあり、ランチには最適です。
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 八間山頂から、堂岩山、白砂山方面へと連なる尾根です。自然の造形のすばらしさには驚嘆するしかありません。
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 この白樺の幹の面白さ。厳しい自然がつくりだした造形美です。
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 帰路、振り返ってみた八間山山腹の紅葉です。日が当たって、より一層鮮やかさを増しました。
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 下山後に眺めた、野反湖畔の紅葉です。信州のすぐ隣であるにもかかわらず、こんなすばらしい紅葉名所があることに、今まで気づかなかったとは・・・。
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教会のある風景

2018/10/06 22:22
 浅間山麓には教会がたくさんあります。宣教師によって拓かれた避暑地という歴史的背景があることが一番の理由だと思われますが、それに加えて、ブライダル産業のメッカであるということも関係しているのではないでしょうか。いうまでもなく、教会はキリスト教徒のための宗教施設ですが、ここ浅間山麓では、地域を特徴づける存在として、欠かせないものになっているといっても過言ではないでしょう。
 作曲家の故武満徹氏は、御代田町の別荘を創作活動の拠点としていました。同氏が作詞作曲した「小さな空」という作品は、子供のころの記憶をセンチメンタルかつお洒落に描いているのですが、そこには、浅間山麓をイメージしたのではないかと思われる次のような歌詞がでてきます。「夕空みたら 教会の窓の ステンドグラスが 眞赫に燃えてた」
 冷涼で北欧や中欧を思わせる浅間山麓の自然景観には、確かに教会の建物が良く似合います。建物のデザインも、周囲の環境にマッチするように考えられていて、教会の存在が、地域のイメージアップにつながっている面があるのは否めません。著名な建築家が手がけた教会建築も少なくありませんので、これからの季節、紅葉狩りを兼ねての教会ウォッチングも悪くないのではと思うポン太です。

 軽井沢最古の教会、ショー記念礼拝堂です。聖公会(イギリス国教会)の宣教師であったショーが、この地に別荘を建てたことが、避暑地軽井沢の始まりとされます。礼拝堂の裏にある別荘(ショーハウス)は、1888(明治21)年の建築で、軽井沢最初の洋風別荘です。礼拝堂の原形となるものがつくられたのは1895(明治28)年で、その後、1922年までに増改築され、現在の姿になったということです。
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 こちらは、1897(明治30)年に軽井沢合同基督教会として設立されたユニオン・チャーチです。その名のとおり、避暑に訪れた外国人たちが、国籍や宗派を問わず集えるようにという目的でつくられたもの。改築設計を手がけたのは著名な建築家ウィリアム・ヴォーリズで、1918年(大正7)年の建築物です。 
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 ユニオン・チャーチの内部はいたって簡素です。
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 ユニオン・チャーチのすぐ近くにある軽井沢集会堂もヴォーリズの設計で、1922(大正11)年の建築です。ヴォーリズは、メンソレータムを日本に普及させた近江兄弟社の創立者の一人で、建築家としての代表作には、関西学院大学西宮上ケ原キャンパスの建築群があります。
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 ユニオン・チャーチ(左の建物)のすぐ裏が諏訪神社です。両者の間には面白い境界杭があります。「西洋教會所」と読めますが、神社の境内の一部を教会に提供した名残とみられます。神様が仲良く棲み分けた形ですが、わざわざ「西洋教會」と表記したのは、キリスト教会に馴染みがなかったせいなのかもしれません。
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 こちらは旧軽井沢のシンボルのような聖パウロカトリック教会です。アントニン・レーモンドが設計し、1934(昭和9)年に竣工したもの。レーモンドは、チェコ出身の建築家で、モダニズム作品により、日本の建築界に大きな影響を与えたとされます。
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 旧軽井沢銀座とこの教会との間に設けられている商業施設(モール)は、その名も「チャーチ・ストリート」です。
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 星野エリアにある軽井沢高原教会です。1921 (大正10)年の「芸術自由教育講習会」を原点に誕生したということですが、結婚式でよく知られている教会です。キャンドルナイトなど様々な催しが行われており、毎週日曜日(13:30〜)にはゴスペル礼拝があります。
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 同じく星野エリアにある「石の教会」の夜景です。設計はアメリカ人建築家ケンドリック・ケロッグで1988(昭和63)年に竣工しました。地上は礼拝堂、地下は内村鑑三記念堂になっています。とにかくお洒落で、こちらも結婚式の人気スポットです。
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 なにしろブライダル産業のメッカですから、雲場池あたりでは、しばしばこのような光景を目にします。
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 ここは教会ではありません。教会関係者のための宿泊・集会施設「軽井沢恵みシャレー」です。コンサートが開催されることもあります。クリスマスのイルミネーションは有名です。
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 クリスマスには、人間がクリスマスツリー状態になって賛美歌を歌う、「シンギングツリー」というイベントが行われています。
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 軽井沢だけでなく、その周辺にもたくさんの教会および関連施設があります。こちらは御代田町にあるバプテスト系の宿泊施設「めぐみの村」内にあるチャペルです。まわりの自然に溶け込むような佇まいは、絵になります。
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記録は活力の素

2018/10/03 22:45
 記録にこだわったり、記録達成をめざしてがんばろうする行為、これはまさに人間である証ではないでしょうか。スピード記録を狙っているサルなどいませんし、何かのコレクションに夢中になっているサルも、もちろんいません。
 世界一の記録を集めたギネスブックを面白がり、その記録に挑戦しようなどと考えるのは人間だけです。世界一かどうかは別にして、自分が目標とした記録を達成した時の満足感は大きく、生きている実感を得ることができるといっても過言ではないと思います。
 ひとくちに記録といっても、その内容は様々で、関心のない人からみれば、なんと馬鹿げたことにチャレンジしているのだ、といったケースも多いと思います。しかし、自分の好みに合い、がんばればなんとか達成可能な記録であればこそ、飽きずに取り組むことができ、その過程を楽しむこともできるのです。
 ポン太の興味の対象である鉄道のジャンルにも、いろいろな記録が存在します。その1つが全路線完全乗車です。好きな鉄道に全部乗ろうというわけですから、それ自体が楽しいことであり、1980年に、当時の国鉄私鉄全線乗車を達成することができました。その後も新線が開業する度に必ず乗車して記録を維持していますから、これはもう命のある限り続けることになると思います。
 手軽な運動であるウォーキングでも、何か目標とするものがあると、がんばろうという気持ちがより強くなるものです。ポン太が目をつけたのは中山道踏破でした。歴史探訪の要素もあり、行程を調べる段階から興味が湧きました。自分がコマになって双六をやっているような感じで、「あがり」の京都三条大橋に到達した時の満足感は、言葉で言い表せないほど大きなものでした。ポン太がこれまでに達成した比較的大きな記録(ではないかと自己満足しているもの)はこんなところです。
 ポン太の友人は、日本の全ての市区町村(含離島)訪問を間もなく達成します。最後に残った埼玉県鳩ヶ谷市を訪れる日には、ポン太もお祝いに駆けつける予定です。同君は、すでに日本百名山完登(都道府県最高峰完登も)を成し遂げており、ポン太と同じ鉄道全線乗車も達成していますので、山(自然)、地域(文化)、鉄道(交通)という異分野にまたがる三冠達成となるわけです。
 これほどの大記録ではなくても、自分にとって価値ある記録には、今後もチャレンジしたいし、そうすることで元気も出るような気がするポン太です。

 ポン太が日本の鉄道全線乗車を達成したのは、群馬県の上信電鉄下仁田駅においてでした。乗車後に廃止されてしまった路線がかなりある中で、同電鉄が今も元気に走り続けているのは嬉しいことです。(1980年8月16日)
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 当時の下仁田駅です。今もそれほど大きく変わってはいません。
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 乗車後に廃止された路線の中で、強く印象に残っているシーンを、ポン太の「懐かしのアルバム」からいくつかご紹介します。
 まずは北海道の深名線です。深川と名寄を結ぶ路線でしたが、1995年に全線廃止となりました。ポン太が乗車した混合列車にはダルマストーブが設置されていました。乗客はポン太のほかには1人しかおらず、途中駅での乗降客はゼロでした。(深名線8990列車車内にて、1972年3月4日撮影)
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 こちらは九州の室木線です。筑豊エリアの運炭路線の1つですが、当時としても時代離れしていると感じた路線でした。1985年に廃止となりました。(1971年7月3日、終点の室木駅で撮影)
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 九州最南端の私鉄であった鹿児島交通南薩線。南国らしい独特の雰囲気があり、もう一度乗りに来たいと思わせる路線でしたが、1984年に廃止されてしまいました。(終点の枕崎駅にて、1978年8月6日撮影)
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 中山道を踏破して、京都三条大橋に到達した際の記念写真です。京の都に着いた感激はひとしおでした。(2015年4月12日)
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 中山道は途中の景色や雰囲気が良いので、もう一度歩きたいと思うところが多々ありました。これは木曽路の中山道(妻籠宿の手前)です。どうです、歩きたくなりませんか?
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 中山道の最高地点、和田峠を越えた際にも、難所を突破できたという達成感を得ることができました。碓氷峠などもそうですが、達成感を得られるところがたくさんあるのも中山道の魅力ではないでしょうか。
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 三年前のことですが、友人の日本百名山完登達成に同行して、群馬県の武尊山に登りました。山頂はあいにくの雨でしたが、同行者全員で快挙達成を祝いました。ポン太も、自分が達成したわけではないのに、それなりの達成感を感じてしまいました。
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 下山の途中で雨が上がり、みごとな紅葉を眺めることができました。このような写真を見ると、紅葉の時期に山歩きをしないわけにはいかなくなります。
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秋色加速

2018/09/29 23:07
 足早に進む季節。今年は特にそれを感じます。あの暑い夏が去った後の気温の下がり方はおどろくほどで、9月中に暖房が必要になるなどということは、今まで経験したことがありません。
 秋といえば、何といっても楽しみなのは紅葉です。浅間山麓の本格的な紅葉シーズンはまだ先ですが、すでに色づき始めた木々の様子を見ていますと、例年より早く紅葉の見頃がやって来そうな気がします。
 中山道沿いの小径をたどり、追分宿まで歩いてみました。夏のシーズンが終わり、誰もいなくなった山荘の庭に、みごとに紅葉した木をいくつも見かけました。追分宿の中心部も少しずつ赤い色が増してきています。浅間山麓全体が紅葉に包まれる時期ももちろん美しいのですが、まだ緑が支配的な中に、赤い色が少し混じっている、紅葉の始まりの時期というのも、それはそれで、また良いものです。
 暑い夏とその後の多雨が、キノコには最適の環境であったようで、森の中はキノコがいっぱい。食べられるものだけでなく毒キノコも大繁殖しています。膨らんだビニール袋を手に、森から出てくる人によく出会いますが、わかる人にはわかるのでしょうね。ポン太にはもちろん無理な話で、うらやましく見ているだけです。キノコといえば、今年は松茸も大豊作とか。信州には松茸の産地が多く、この季節、新聞記事やテレビのニュースでよく取りあげられるのが、小学校や保育園の松茸給食です。地元産の松茸がたっぷり入った給食に、舌鼓を打つ児童や園児たち。ポン太の孫がもしそんな保育園に通っていたら、味見をさせろと押しかけてしまうかも。何?タヌキ汁持参ならOKだと、それは困ります。

 人が去った山荘の庭に、きれいに紅葉している木がありました。
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 道端のドウダンも色づいてきました。
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 色づき始めたこんなに素敵なお庭を、見る人がいないというのはもったいないですね。
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 真っ赤に色づいたたくさんの実。何だろうかと近付いてみるとヤマボウシでした。その後ろには、ムクゲの花が咲いていました。
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 全体的には、終わりかけているコスモスですが、追分宿では、まだきれいな花を咲かせていました。
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 色づき始めた追分宿の様子です。
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 股旅物のドラマでもはじまりそうな雰囲気です。
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 森に入るとキノコが目につきます。美味しそうにもみえますが、アブナイ、アブナイ。
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 草間彌生ワールドのようなキノコです。毒、それとも? いや、これはやはり毒でしょう。
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中山道の宿場町で古楽器を聴く

2018/09/26 15:49
 中秋の名月。旧街道の宿場町で、月待ちをしながら古楽器の音色を楽しむ。なんとお洒落なイベントなのでしょうか。新聞でその情報を得たポン太は、開催場所である、中山道(日本橋から25番目)の宿場町、望月宿の歴史民俗資料館へと出かけてみました。望月は宿場町として栄えただけではなく、平安時代から官牧(望月ノ牧)の所在地として知られ、紀貫之の和歌にもその名が詠まれているという、古い歴史を有する土地です。演奏用ステージが設けられていたのは、資料館内の古民家コーナーの囲炉裏端。外の街並みも演奏会場も、このようなイベントにふさわしい雰囲気のところでした。
 古楽器と聞いて、当初想像したのは、雅楽などに用いられる和楽器です。しかし、この演奏会の主役は、西欧の古楽器、ヴィオラ・ダ・ガンバとリュートでした。前者はチェロに似た擦弦楽器(ただし弦は6弦)で、音域の異なる様々なサイズのものがあり、合奏を楽しむために、宮廷や貴族の家には常備されていたということです。後者は琵琶のような形をした撥弦楽器で、ギターの元祖のような感じでした。演奏された曲の大半は、16世紀以前に作曲されたもので、なじみはないものの、素朴で温もりのあるその音色は心地よく、やわらかな弦の響きに魅了されました。
 プログラムの中に、「天正遣欧少年使節」の足跡を、古楽器の演奏を交えて語るという内容のものがありました。遣欧使節が持ち帰った古楽器は、豊臣秀吉の前で演奏されたということです。演奏曲とされる「千々の悲しみ」という曲を聴くことができました。安土桃山時代の日本と、ルネサンス時代のヨーロッパが同時代であり、当時の天下人がこのような演奏を耳にしていたのかと思うと、歴史のロマンを感じないわけにはいきません。
 演奏会の後は、中秋の名月を愛でるはずでしたが、残念ながら、お月様は雲の中に隠れたままで姿を見せてくれませんでした。されど、雅な企画であることは間違いなく、改めてこの地域の文化の奥深さ、文化度の高さに感じ入ったポン太でした。

 ここが中山道望月宿です。今も往時をしのばせる街並みが残っています。
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 映画「犬神家の一族」のロケが行われた、井出野屋旅館もあります。
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 コンサートの会場、望月歴史民俗資料館です。ここは、望月宿本陣の跡で、再建された本陣門から入場します。
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  囲炉裏を囲んでの古楽器の演奏風景です。6人の演奏者からなる「佐久古楽合奏団」は、この資料館に縁のある古楽器愛好者が集まり、2年前に結成されたということです。メンバーの中には、古楽器を製作している方もいました。
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 ヴィオラ・ダ・ガンバとリュート(中央)の演奏です。
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 リュートの伴奏による歌唱もありました。「サリーガーデン」というアイルランド民謡は、情感のある良い歌でした。
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 演奏者が曲目によって楽器を持ち替えて演奏するのもこのコンサートの特色でした。この曲では、先ほどまでヴィオラ・ダ・ガンバを演奏していた方が太鼓を担当し、ハープシコード代用のキーボードを弾いていた方が大きなヴィオラ・ダ・ガンバを担当しています。
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 「天正遣欧少年使節」の足跡が演奏を交えて語られた場面です。スライドによる画像付です。
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 演奏者の中には、尺八の名手でもあるという方がいて、「もののけ姫」の演奏では尺八を担当。日本の古楽器と西欧の古楽器とのコラボも見事でした。
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 コンサートの後は望遠鏡も用意されて、資料館の前庭で月の出を待ったのですが、空は厚い雲に覆われていて見ることができませんでした。
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 これは3年前の「スーパームーン」の際に撮影した写真です。このような月を期待したのですが、残念でした。
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ツリバナの妙

2018/09/23 22:32
 ポン太の森に自生する樹木の中で、特に気に入っているのがツリバナです。辞書で調べてみると、ニシキギ科ニシキギ属の落葉低木とあり、北海道から九州まで全国の落葉広葉樹林帯に分布しているとのこと。そんなに珍しい樹木ではなさそうですが、ポン太は浅間山麓に移住するまで、その名前はもちろん、存在さえ知りませんでした。
 幹は細長く、ちょっとなよなよした感じですが、台風が来ても倒れることはなく、案外丈夫です。葉は鮮やかな黄緑色で、新緑の季節が過ぎ、夏になっても、新緑のようなみずみずしさを保っています。花はとても小さいのですが、長い柄の先にちょこんと咲いている様は実に可愛らしく感じられます。秋になると、熟して真っ赤になった実が、葉の間から吊り下がり、最後ははじけてタネが飛びだしてきます。それはまるで、秋の到来を祝って、くす玉が割れたかのようです。
 紅葉もみごとです。個体によってその時期にはかなりずれがあり、8月下旬から色づいているものもあれば、実が真っ赤になっているのに、葉は青々としているものまで様々。紅葉した葉の色も、桃色から深紅に近いものまでいろいろで、遠目には、あれっ、何が紅葉しているのかな、と思うことがしばしばです。
 世話をしているわけでもないのに、春から秋まで、これだけの変化を楽しませてくれるのですから、自然の恵みに感謝するしかないポン太です。
 
 小さくて可愛いらしいツリバナの花です。
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 真夏のツリバナの葉です。緑が濃すぎず、新緑のようにも見えます。
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 初秋には実が目立つようになります。
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 真っ赤に熟した状態です。
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 くす玉のように割れ始めました。
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 少し淡い感じの紅葉もきれいです。
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 こんなに赤くなる葉もあります。
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美景てんこもりの飯盛山

2018/09/20 22:24
 家の近くの平尾山に何度か登っているうちに、身体が山に慣れてきました。足の筋肉の反応もよくなり、久しぶりに登った際に感じたような痛みも出ません。やはり、身体はいくつになっても鍛えないとだめだ、つくづくそう思います。このところ、平尾山へは週に2回程度のペースで登っていますので、そのレベルを維持したいところですが、同じ山ばかりではさすがに飽きてしまいます。そこで、少し気分を変えてみようと出かけたのが、佐久地域の南端に位置する標高1643mの飯盛(めしもり)山です。登山口の平沢峠の標高がおよそ1450mですから、標高差は200m足らず。山登りとしては物足りないような気がして、これまで1度も登ったことがありませんでした。
 里山の範疇に入るとはいえ、標高1643mはそれなりの高さです。日本百名山に選ばれている山の中にも、これより低い山が12座もあります。例えば、東北の名山である岩木山の標高は1625mですから、飯盛山より低いのです。山は単に高ければよいというわけではないのですが、高さによって植生や展望も変わってきますから、ある程度の高さがあると登る楽しみが増すことは否定できません。
 平沢峠から、落葉松林の明るい登山道を50分ほど登ると稜線にでました。その先の展望は抜群で、八ヶ岳連峰はもちろん、南アルプス、富士山、金峰山、瑞牆山等々、文句のつけようのない大パノラマの世界です。展望だけではなく、沿道にはたくさんの種類の花が咲いていて目を楽しませてくれます。その中に、大好きなタカネマツムシソウを見つけ、カメラをむけていると、下山してきた方が、「この先に大群落がありますからお楽しみに」と教えてくれました。展望と花の両方を楽しみつつ、20分ほど歩くと、ご飯を茶碗に盛ったような円錐形をした飯盛山の直下に到達。そこには教えてもらったとおりのタカネマツムシソウの大群落がありました。頂上に着くころには、富士山に少しかかっていた雲もとれて、端正なシルエットが眼前に浮かんでいました。まさに絶景です。
 幼児でも簡単に登れる山ですが、登ってみる価値のある山だと思います。飯盛山だけに、展望にも花にも「大満腹」のポン太でした。
 
 飯盛山への登山口、平沢峠です。ここからの眺めもすばらしく、「フォッサマグナ発想の地」という説明板もありました。この地を訪れたエドムント・ナウマン博士(ドイツ人)が、ここから南アルプスの景色を眺めたことをきっかけに、本州を東西に分ける構造体(地溝帯)の存在に注目し、そう命名したということです。
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 明るく気持ちの良い登山道を登って行きます。
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 稜線に出ると一気に展望が開けました。
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 ふりかえると八ヶ岳が大きく見えます。
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 道端には野菊が咲き乱れていました。秋ですね。
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 そうかと思うと、わずかながらまだフウロも咲いていました。
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 これはヤマラッキョウの花でしょうか。浅間山麓ではあまり見かけない花です。
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 飯盛山が近付いてきました。
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 円錐形の山同士、富士山とのコラボも絵になります。
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 タカネマツムシソウの群落があらわれました。盛りは過ぎていましたが、まだ十分きれいです。
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 蜜を求めて蝶もやってきます。この花と蝶、絶妙な色の取り合わせではないでしょうか。
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 ウメバチソウも咲いていました。
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 おっと、これは猛毒のトリカブトです。
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 飯盛山山頂から見た富士山です。この景色を見ることができたただけでも満足してしまいます。
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 こちらは金峰山(右)と瑞牆山(左)。金峰山頂のシンボル、五丈岩がよく見えます。
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 南アルプス方面の眺めです。フォッサマグナも実感できます。
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 これだけの展望を欲しいままにしての山上ランチ。おにぎりとわずかなおかずだけでしたが、一流レストランの食事よりも美味しく感じられました。
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 小さな子供たちもがんばって登ってきました。短時間で登れて展望が良い、まさにファミリーハイキングにふさわしい山です。
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五島慶太の故郷

2018/09/16 22:59
 大手私鉄の雄、東京急行電鉄(東急)を築きあげた人物して、五島慶太の名を知る人は多いと思います。多くの鉄道会社を合併統合した辣腕ぶりから、「強盗慶太」と呼ばれたこともありましたが、電鉄経営者の中で、ひときわ異彩を放つ人物であることは間違いないでしょう。その五島慶太が、信州の出身であることはあまり知られていないように思います。
 五島(旧姓小林)慶太は、1882(明治15)年に小県郡殿戸村(現在の青木村)で生まれました。青木村は、以前のブログで、「義民の村」として取りあげたことがありますが、反骨精神を尊ぶ村です。横紙破りとみられなくもない豪腕経営者が、この村の生まれであると聞けば、なるほどと思ってしまいます。
 殿戸の生家は、慶太の没後も往時の姿のまま残されていました。ところが、本年8月14日に発生した火災(落雷が原因とみられています)で、屋根や2階の壁、床などが焼けてしまい、解体されることになったという記事が、最近の信濃毎日新聞に掲載されていました。村では、焼け残った部分を移築保存し、再建を視野に活用策を検討するそうです。
 鉄道史に大きな足跡を残した五島慶太ですが、その故郷に鉄道(厳密には電気軌道)が通じたのは、1921(大正10)年6月17日のことでした。上田市郊外(千曲川対岸)の三好町から青木に至る上田温泉電軌青木線です。殿戸にも駅(停留所)が設けられましたので、五島慶太も帰省の際に利用したかもしれません。青木線が特許を得た1919年当時、五島慶太は鉄道院監督局総務課長の職にありました。特許に影響力を行使したかどうかははわかりませんが、敷設への動きは認識していたでしょう。五島が鉄道経営に関する知識を集積したのは、鉄道院(1920年に鉄道省に昇格)で全国の鉄道軌道の監督行政に携わったことによるといわれています。
 青木線は県道を借用して敷設したため、早期に開業することができたようです。ところが、それが仇となり、1938(昭和13)年にその借用期限が切れたことで廃止に追い込まれています。青木線の終点であった青木バスターミナルの待合室に青木線の写真が掲げられているのを見て、この短命だった電車に興味が湧きました。何か遺構が残っていないか、沿線を歩いてみたくなります。五島慶太の生家が今後どのような形で活用されるのか、村として五島慶太の業績をどう評価して顕彰していくのか、といったことももちろん興味深く、青木村から目を離すことはできないと感じているポン太です。


 ポン太が五島慶太の生家を訪ねたのは、今から35年も前の1983年で、下の写真はその時に撮影したものです。
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 「俺は信州の水呑百姓の次男坊だと、語っているが、・・・・千戸あまりの村では一番の資産家であった」(三鬼陽之助著『五島慶太伝』)ということで、生家の建物はかなり大きなものでした。
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 生家の近くに設けられた「五島慶太翁記念公園」内の頌徳碑です。
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 五島慶太が、生前に地元に寄付した五島公民館です。
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 青木村の中心に位置する青木バスターミナルです。ここにはかつて、上田温泉電軌青木線の終点、青木駅がありました。
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 1931(昭和6)年ごろの青木駅と青木線の電車です。
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 青木線と同時に開業した上田温泉電軌川西線(のちに別所線と改称)は、上田電鉄別所線として健在です。これは、五島慶太の生家を訪ねた際に利用した1983年当時の別所温泉駅です。
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 これは現在の別所温泉駅です。車両は変わりましたが、駅は昔のままです。このレトロで風情のある佇まいは、東信地域でピカイチではないかとポン太は思います。
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 かつての別所線は、丸窓電車(モハ5250形)で有名でした。これは上田駅で撮影したモハ5250形(5251)です。現在の別所線上田駅は高架化されていて、風景は一変しています。
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里山で蝶と戯る

2018/09/13 17:29
 9月に入ってから、涼しい日が続いているので、1ヶ月ぶりに里山歩きを再開しました。まずは、いつもの平尾山へとでかけたのですが、たった1時間で登れる山頂が、こんなに遠かったかと思えるほどつらく感じました。年齢的に山登りはもう難しくなりつつあるのかなと、暗い気分になったのですが、その後、何度か登っているうちに、身体が楽になり、所要時間も少しずつ短くなってきました。毎日ウォーキングはしていても、山で使う筋力(心肺機能も)はまったく別物であり、山登りに必要な体力は山で養うしかないということがよくわかりました。
 平尾山の山頂から見渡した佐久平は、全体が黄金色に変わりつつあり、すっかり秋の風情です。ベンチで持参したお茶を飲んでいると、まわりを無数の蝶とトンボに取り囲まれていることに気づきました。あまり人を警戒する様子もなく、目の前を舞ったり、帽子にとまったりしています。しばらくその様子を眺めているうちに、のどかだなぁ、なんて平和なんだ。つくづくそう思いました。
 人間世界では相変わらずいさかいが絶えません。パワーゲームに明け暮れている権力者たちは、こんな静かな里山に登って一時を過ごすようなことはないに違いない、などと勝手に想像しながら山を降りたポン太でした。

 平尾山から見下ろした佐久平は、実りの季節をむかえつつあります。
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 静かな平尾山の山頂です。
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 まだ日暮れには遠いのですが、「夕焼け小焼けの赤とんぼ、とまっているよ竿の先」と口ずさみたくなりますね。
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 もちろん赤とんぼ以外のとんぼもたくさん舞っていました。
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 すぐ近くの花にやってきた蝶。よくみると可愛らしい顔をしています。
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 羽を広げた姿はやはり絵になります。
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 こちらはちょっとくたびれた感じの蝶。最後の力をふりしぼって蜜を吸っています。がんばれ!
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たまごの女王

2018/09/11 21:18
 食欲の秋。何を食べても美味しい季節ですが、たまにはシンプルに「卵かけご飯」というのも悪くないでしょう。
 浅間山麓エリアで卵といえば、「ちゃたまや」の「浅間小町」が有名です。「ちゃたまや」は、佐久の山中に広大な養鶏場を有する「ブラウンエッグファーム」の直営店で、 本店があるのは佐久市浅科(旧浅科村)。幹線道路沿いではあるものの、まわりは見渡す限りの水田で、建物も地味。こんなところで商売になるのかなと思いきや、次から次へとクルマがやって来て、どんな時間帯でもお店に人が入っていないということはありません。
 卵そのものが美味しいだけでなく、プリン、シュークリーム、ジェラートといった加工品も、味が良いのはもちろん、ボリューム満点でしかもリーズナブル。というわけで、近くを通りかかった際には、ついつい立ち寄ってしまいます。
 今回はシュークリームと「浅間小町」を購入しました。だいぶ前に食べたロールケーキがとても美味しかったので、本当はそれが欲しかったのですが店頭にはなく、確実に入手するには予約をということでしたので、次回のお楽しみとあきらめました。
 さて、家に帰ってから食したシュークリームと卵のお味は?下の写真から察していただけると思いますが、十分満足したポン太でした。


 佐久平から望月方面へむかうと、こんな看板が目に飛び込んできます。
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 その反対側にはこんな看板も。たまごのジェラート、美味しそうに見えますね。見えるだけでなく本当に美味しいです。
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 ちゃたまや本店の建物は、見過ごしてしまいそうになるほど地味ですが、次々とクルマがやってきます。
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 これがお店の入口です。
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 持ち帰った「浅間小町」です。もっと大きなサイズもありますが、今回はこれにしました。
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 シュークリームはボリューム満点。これは生クリームとカスタードのダブルですが、カスタードだけのタイプもあります。
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 「浅間小町」をご飯にかけてみました。ふだんはあまり卵かけご飯を食べないので、正確な評価は難しいのですが、ねっとり感があり、美味しく食べられました。すき焼きと一緒に食べたら、もっと美味しいかもしれませんので、試してみたくなりました。
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 なんと黄身を箸で持ち上げることもできました。
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中軽井沢駅物語 〜浅間山麓の駅物語<その4>

2018/09/08 16:35
 おそらく、現在の避暑客や行楽客の多くは、中軽井沢駅の旧称が沓掛であることをご存知ないと思います。その沓掛駅が開業したのは1910(明治43)年7月15日。信越本線(当初は直江津線)上田〜軽井沢間が開通してから22年後のことでした。沓掛の名は、中山道で日本橋から19番目の宿場であった沓掛宿に由来します。浅間三宿のひとつとして栄え、皇女和宮下向の際には宿泊地となるなど、それなりの規模を有する宿場でした。
 沓掛駅の開業からしばらくして、この地を別荘地として開発しようという人物が現れます。後に西武グループの総帥となる堤康次郎です。外国人や上流階層の避暑地として発展しつつあった軽井沢の隣地であることに目をつけ、庶民にも手が届く別荘地開発を目論んだのです。1918(大正7)年に沓掛区有林ほか60万坪を買収。千ヶ滝一帯は別荘地へと姿を変えていきました。ねらいは当たり、昭和に入るころには、千ヶ滝の名は、軽井沢の新たな別荘地、行楽エリアとして知られるようになります。鉄道省が1936(昭和11)年に刊行した『鉄道旅行案内』の「沓掛」の項には、「千ヶ滝遊園地」の記載があり、「土地高燥、気澄み水清い避暑地で、園内には貸別荘、旅館、倶楽部、共同浴場、運動用具などがある」とあります。余談ですが、最近、軽井沢の「うたう会」という集いに参加したところ、当時人気絶頂であった藤山一郎と渡辺はま子のデュエットソング『千ヶ滝小唄』(久米正雄作詞、藤山一郎作曲、ビクター、1935年)まで売り出されていたという話を聞き、驚きました。一番の歌詞は「碓氷越えれば気も軽井沢、降りる支度を降りる支度を千ヶ滝」とかけことばになっていて、CMソングのような存在だったのではないかと感じます。
 戦後はさらに開発が進み、1956(昭和31)年には軽井沢スケートセンター(2009年に閉鎖)が開業しました。同じ年の4月10日、沓掛駅は、中軽井沢駅へと改称され、何と字名まで中軽井沢となり、沓掛は地名としても消滅してしまいました。これは中山道69次の中で唯一のケースだそうです。地名はその土地の歴史を物語る文化財のようなものだと考えるポン太としては、愚劣な改名としか思えませんが、観光開発には資するところがあったのでしょう。
 碓氷峠のアプト式が解消されてからは、中軽井沢を終着(始発)駅とする、避暑客、行楽客輸送のための準急(のち急行)「軽井沢」号や特急「そよかぜ」号が運転されるようになりました。観光地として開発された「鬼押し出し」や、万座草津方面へのバスに乗り継ぐ人も多く、軽井沢のもうひとつの玄関口となったのです。
 1997(平成9)年の新幹線開業後は、ローカル列車のみが発着するしなの鉄道の駅となり、いささか寂れた感は否めません。そこで、賑わいを取り戻すべく取り組まれたのが、橋上駅化と、駅と一体化した地域交流施設(町立図書館等)の建設です。前者は2012年に、後者は2013年4月1日にオープンしました。これにより駅とその周辺の雰囲気は一変しましたが、地域交流施設が「くつかけテラス」と命名されたことには、ちょっとした嬉しさを感じているポン太です。

 中軽井沢駅と一体化した地域交流施設「くつかけ」テラスです。2013年にオープンし、町立図書館などが入っています。
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 入口の表示はこうなっています。「くつかけ」の名が公の場に復活したのは喜ばしいことです。
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 駅への出入口前がバスのりばになっています。昔のように、大勢の行楽客が並んでバスを待つという光景は見られませんが、今も西武観光バス(旧称は西武高原バス)が発着していますし、町内循環バスもやってきます。
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 橋上駅化されただけでなく、構内の様子も大きく変わりました。上下線が1本ずつという単純な相対式ホームになり、昔の面影はありません。上りホームに、しなの鉄道の看板列車「ろくもん」が入ってきたところです。
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 以前の中軽井沢駅は、島式ホーム(上り本線+中線)と片面ホーム(下り本線)というスタイルでした。この写真は、高崎行326列車が進入してきたところです。上の写真とほぼ同じ場所です。(1975年7月6日撮影)
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 上野駅で発車を待つ中軽井沢行の準急「軽井沢」号です。1962年に同名の列車が運転開始した際は、横川止まりで、軽井沢へはバス連絡という形をとっていたと思います。碓氷峠にアプト式ではない新線が開通した1963年7月から中軽井沢行になりました。(1965年9月25日撮影)
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 中軽井沢始発の特急「そよかぜ」号の特急券です。ポン太も何度か利用しましたが、当時、軽井沢を訪れたことがある方は、懐かしく感じられることと思います。
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 沓掛の地名が失われた後も、沓掛の存在を主張していたのが、長倉神社境内の「沓掛時次郎の碑」です。長谷川伸の同名作品に登場する架空の人物ですが、沓掛の名を世に知らしめた「功績」は大きく、今も「時次郎饅頭」という銘菓が販売されています。
 「千両万両曲げない意地も、人情からめば弱くなる、浅間三筋の煙の下で、男沓掛時次郎」
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 沓掛宿の建物は、1951年の大火で大半が焼失し、残念ながら宿場町の面影はほとんど残っていません。このような石碑が、かろうじて宿場だったことを伝えてくれます。
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 千ヶ滝の旧スケートセンターエリアの丘には、開発者である堤康次郎の像があります。しかし、その周辺にあったスケート場やテニス場、商業施設(夏季には西武デパートが営業していたこともあります)、ホテルなどは現存せず、残るは日帰り温泉施設(千ヶ滝温泉)のみ。千ヶ滝の別荘地は今も健在ですから、観光客が歩きまわらなくなったことで、静かな環境が保たれているということはいえるでしょう。
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初秋の風情

2018/09/01 12:45
 一昨日、気象庁は、浅間山の噴火警戒レベルを、2から1に引き下げると発表しました。火口周辺500m以内には立ち入れないものの、前掛山(2524m)までは登山できるようになったわけです。夏山シーズンには間に合いませんでしたが、朗報であることは間違いありません。本格的な夏山に登らないうちに秋をむかえてしまったポン太としても、久しぶりに登ってみようかなという気持ちになります。
 さて、その浅間山を毎日眺めて過ごしているポン太ですが、山麓一帯は、「初秋の侯」という手紙の冒頭の挨拶にふさわしい雰囲気になってきました。風に揺れている芒の穂や、一面に白い花を咲かせている蕎麦畑を見たりすると、もうすっかり秋だなぁと思います。その一方では、ヒマワリや百日草など、夏の名残を感じさせる花もまだたくさん咲いています。この夏と秋とが交錯する風情、それがまさに初秋なのでしょう。
 ポン太の森やその周辺の様子をカメラでスケッチしてみました。

 雲海に浮かぶ浅間山です。頂上は台形のように見えますが、右手奥の少し高いところが噴火口のある火口丘で、左手の稜線上のピークが前掛山です。
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 芒と紅葉し始めた木々。秋になったことを感じさせます。
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 秋の七草のひとつ、萩の花も咲いています。
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 コスモスとヒマワリのコラボ。秋と夏が同居している、まさに「初秋」です。
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 庭の百日草はまだ盛り。蜜を吸いに、こんな蝶もやってきます。
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 道端には秋の使者、アキアカネ(赤トンボ)がとまっていました。
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 サンショの実が赤く色づいています。
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 ポン太の森の栗の実も大きくなってきました。あと1ヶ月もすれば収穫できそうです。
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 近くの蕎麦畑では、蕎麦の花が満開。新蕎麦のシーズンまであと1ヶ月半といったところでしょうか。
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 近くで見ると、意外にきれいな蕎麦の花です。
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 初秋の味覚といえばやはりこれ。不漁から一転豊漁に変わり、値段が下がったので、さっそく庭で焼いてみました。油の焦げるニオイが食欲をそそります。都会でこんなことをやったら苦情がでそうですが、直火で豪快に焼いて食べる秋刀魚はひと味違います。
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 チェーンソーアートにチャレンジしてみました。おサルのジョージのつもりですが・・・。
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野辺山SLランドの終焉

2018/08/27 17:50
 野辺山高原の国道141号沿いに、「SLランド」と称するテーマパークがあります。その看板は国道からもよく見えますし、小さな蒸気機関車が動いている姿を目にした方も多いと思います。1986年の開園以来、32年の長きにわたり来場者を楽しませてきた同園が、なんと今月末で閉園することになりました。ポン太は、以前に1度訪ねたことはありますが、だいぶ記憶も薄れていたので、閉園前にもう一度じっくり見ておきたいと思い、出かけてきました。
 同園の目玉は、350mほどの周回レール(軌間762mm)上を走る蒸気機関車362号です。元は台湾糖業公司で使用されていた機関車で、1948年のベルギー(アングロフランコベルジ社)製。2両の客車を牽いて走りますが、それらもサトウキビ運搬用の貨車を改造したものです。ここは、信州で動く蒸気機関車を見ることができる唯一の場所であり、海抜1386mの「日本で一番高いところを走る蒸気機関車」でもありましたから、閉園してしまうというのは実に残念です。これを引き継いで運営してくれるところはないのでしょうか。
 同園を訪れた日は、国立天文台野辺山宇宙電波観測所の特別公開日でもあり、そちらも見学してきました。同所は、直径45mという世界最大級の電波望遠鏡を有する施設として有名で、野辺山高原のシンボル的な存在です。ところが、財政難から遠隔操作態勢への移行方針が示されており、今回が最後の特別公開になるかもしれないということでした。初めて間近に見た電波望遠鏡の巨大さには驚かされましたが、それ以上に驚いたのが、観測所構内に「超広軌鉄道」があったことです。それはミリ波干渉計アンテナを移動させるためのもので、東西方向に560m、南北方向に520m、合計1080mの「路線網」が形成されていました。両線の交点にはターンテーブルが設けられていて、方向転換ができるようになっています。さて、そのゲージですが、手元のパンフレットを物差し代わりにして測ってみたところ4000mmもありました。これは新幹線(国際標準軌=1435mm)の2.8倍です。以前、JFEスチールの京浜製鉄所を見学した際に、溶銑輸送用の「鉄道」が、1676mmゲージであることを知り、それが日本で一番の超広軌鉄道であろうと思っていたのですが、それをはるかに上回るものがあろうとは。この「大発見」に有頂天になったポン太でした。
 
 SL列車への乗車を待つ人の列です。間もなく閉園ということで、子供連れだけでなく、名残を惜しむ大人の姿も少なくありません。
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 「野辺山高原駅」を発車した362号です。
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 周回ルート上には、こんなメルヘンのような風景もあります。
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 高原の涼風を浴びながらの短い汽車旅です。
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 コスモスとのコラボも絵になりますが、この風景もあと僅か。
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 真横からみた362号です。キャブの後ろの大きな箱のような部分には蒸気発生装置が積まれています。見栄えは悪くなってしまいましたが、機関車本来のボイラーを使用せずに動態化するためには、やむを得ない措置だったのでしょう。
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 これが蒸気発生装置です。こうした方法で動態化した例がほかにあるでしょうか。
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 周回路線には踏切があり、警報器も遮断機も作動します。
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 SLランドは小さなテーマパークですが、ほかにも乗り物がいくつかあります。その中でかなり本格的なのが、「スイスレーティッシュ鉄道」と称する5インチゲージの鉄道。線路の長さが一周360mもあります。自分でノッチを入れてスタートします。
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 スピード感もあり、とても楽しそう。
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 こんなところも走るのですね。乗ってみたいと思いましたが、ポン太一人ではちょっと・・・・。
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 さてこちらは国立天文台野辺山宇宙電波観測所です。45mの電波望遠鏡はさすがに大きいです。
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 「45mにタッチ」というイベントをやっていて、皆さんタッチしていました。もちろんポン太も。総重量は700トンあるそうです。
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 これがミリ波干渉計とその移動のために設けられたレールです。
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 超広軌のレールがのびています。
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 東西線と南北線の交点にあるターンテーブルです。
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 レールの終端部に「車両基地」があり、ミリ波干渉計運搬用の車両(台車)がその中に入っていました。
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 これは名古屋大学の電波へリオグラフだということです。子供たちが「可愛い〜」と叫んでいました。
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 ひまわりとのコラボです。どちらもむきが大切、かな。
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 野辺山は何かと鉄道の話題の多いところです。ある種の鉄道の「聖地」といえるかもしれません。ここはJRの最高地点で、観光名所にもなっています。
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 そのすぐ近くには鉄道神社もあります。鳥居は枕木、ご神体はレールです。最高地点の標高は1375m。「ひとみなこうふく」または「ひとみなごうかく」とも読めるので、御利益があるそうな。
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 野辺山駅はJRで最高所にある駅です。海抜は1345.67m。2がないだけで、数字が順番に並びます。なんというわかりやすさ。
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 野辺山駅前の公園には小海線で活躍したSL、C56形(C5696)蒸気機関車が保存展示されています。
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 野辺山といえばヤツレンの牛乳が有名です。美味しいのでポン太も毎日飲んでいますが、その商品名は「ポッポ牛乳」。何かと鉄道とは縁の深い野辺山です。
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ヤツレンの直売所で売っているソフトクリームは、濃厚で美味。満足度はいつも100%です。この日も、一日歩き回った後でしたので、格別でした。
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 鉄道の「聖地」ともいえる野辺山の地から、SLランドが消えてしまうのはやはり寂しいですね。



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