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浅間山麓のブラタヌキ
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浅間山麓に移り住んだタヌキのポン太のブログです。どんなタヌキかって?それはプロフィールをご覧下さい。
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開花宣言

2019/04/20 13:28
 ポン太の森で、春の訪れを実感させてくれる花、それは桜ではなく、アンズです。アンズが咲くのとほぼ同時にコブシが咲き、アンズの開花を合図に、レンギョウ、ボケ、水仙、チューリップなど、様々な花が咲き始め、木々の芽吹きもはじまります。庭や森が一気に明るくなる、そんな感じです。
 本日、待ちに待ったそのアンズが開花しました。昨年は4月7日に開花しましたから、なんと13日も遅い開花です。4月に入ってからの寒波と雪の影響かと思われます。アンズと桜の開花はかなりの時差があるのが普通ですが、今年はアンズが異常に遅かったので、あまり間をおかずに桜が開花するかもしれません。浅間山麓では、ゴールデンウィークのころが桜の見頃になりそうなので、それもまた楽しみです。
 アンズの写真を撮ろうと外に出ると、頭上からウグイスの鳴き声が聞こえてきました。まさに、アンズとともに春がやって来たことを実感したポン太でした。

 浅間を背にしたポン太の森のアンズです。
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 開花宣言はまだ早すぎると思われるかもしれませんが、枝によっては数輪開いているところもあり、「開花」と判定しました。
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 これなら、開花宣言しても許されるのではないでしょうか。それにしても可愛い花です。
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 コブシも咲き始めました。
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 レンギョウも開花です。
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 目立たない花ですが、ボケも咲き始めました。
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 日当たりのよい場所では水仙も咲いています。
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 チューリップもいくつか咲き始めました。
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 冬を越したビオラも元気いっぱい花を咲かせています。殺風景だった庭が明るくなりました。
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 芽吹きはじめたウワミズザクラです。垂直に立っているのが花芽で、まもなく筒状の白い花が咲きます。
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 リンゴも芽吹きの準備が整った感じです。花芽もいっしょにでてきますから、ゴールデンウィークには、可憐な花を愛でることができそうです。
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《佐久平では桜が満開》
 アンズの開花に大喜びのポン太でしたが、午後になって佐久平へ買い物に出かけたところ、なんと佐久平周辺では桜が満開になっていました。ここ2〜3日の暖かさで、一気に開花したのでしょう。標高が200m弱低いだけで、ずいぶん違うものです。これは佐久平駅付近の桜並木です。
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 桜の上を行く、小海線のイベント列車「ハイレール1375」です。
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寒さのご褒美

2019/04/16 20:51
 4月に入ってから、真冬のような寒い日が続いたことや、予想外の積雪があったことについては、以前のブログで触れたとおりです。しかしこの寒さのぶりかえしが、思わぬ幸運をもたらしました。それは、4月も半ばを過ぎたこの時期に、アンズの里のみごとな眺めを楽しむことができたことです。
 アンズの開花は桜よりもずっと早く、桜が咲くころには散ってしまうのがふつうです。千曲市のアンズの里では、3月中に開花し、先々週の週末には満開になったと報じられていました。満開のアンズを眺めることができる期間は短く、今年は無理かなとあきらめていたのですが、開花後に寒い日が続いたことで、なんと今もまだ見頃な状態だというのです。これはチャンスと出かけてみることにしました。出かけた場所は、長野市松代の尼厳山(あまかざりやま)の麓。千曲市の森地区ほど有名ではないのですが、知る人ぞ知るアンズの里で、観光地化されていないところが最大の魅力です。花見のイベントは先週末に終ったようで、見物客は皆無状態。ピンクに染まったアンズ畑の大景観を独り占めして、大満足のポン太でした。
 一方、上田からは上田城のソメイヨシノが満開になったというニュースも届きました。こちらはほぼ例年どおりということですが、同じ日に、アンズと桜を、どちらも良い状態で眺めることができるという機会は、そうそうあるものではありません。上田城にも立ち寄り、東信(東信州)地方最初の花見を楽しんだことは、いうまでもありません。

《アンズの里》
尼厳山(あまかざりやま)を背に広がるアンズ畑です。
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 近寄って見るとこの可愛らしさ。桜とはまた違った風情があります。
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 アンズの里は、集落も絵になります。
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 誰もいないアンズ畑の中の道を登っていくと、山の上に月がでていました。気持ちのよい風景です。
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 しっかり手入れされたアンズの木は見応えがあります。
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 奇妙山という面白い名前の山ををバックにして咲くアンズです。この山にはまだ登ったことはありませんが、形がよく、登ってみたくなる山です。
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満開のレンギョウとアンズのコラボも素敵でした。
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全体がピンクに染まったアンズの里の大景観です。来た甲斐がありました。
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《上田城と桜》
 上田城は桜名所として知られているところですが、ポン太の印象としては、他の名所と比べて豪華絢爛という感じはしません。桜の数も驚くほど多いというわけではありません。しかし、不思議な魅力があり、何度も見に来てしまうのはなぜでしょうか。それは、徳川の大軍を二度にわたって撃退した「真田のオーラ」ではないでしょうか。
 桜に囲まれたのどかな城というよりも、どこか風雲急を告げているように感じられます。
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 攻め寄せる敵をにらみつけているような櫓です。
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 ここは尼ヶ淵と呼ばれているところで、かつてはこの下を千曲川が流れていました。どうみてもここから攻め登るのは無理ですね。
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 石垣の上に翻る六文銭の旗。徳川の大軍なにするものぞ、といったところでしょうか。
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 城内にある真田神社です。この絵、いくらなんでもかっこ良すぎませんか。
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 お堀の桜も満開でした。正面に見える山は、上田市民の山として親しまれている太郎山です。
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 東京と同じように、花見客の中に外国人をたくさんみかけました。上田市は県内で最も在住外国人の多い都市ということなので、あたりまえかもしれませんが・・・。
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 東京の桜名所と違うのは、場所取りの心配がないこと。ファミリーがゆったりと花見を楽しんでいましたが、これだけまわりに人がいないと、ちょっと寂しいかも。
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 愛想のよい三匹のワンちゃん。お花見は楽しい? 答えは、楽しいワン、ワン、ワン、かな。
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 枝にはつぼみの状態の花もあり、満開になったとはいえ、まだしばらくは楽しめそうな上田城です。
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それぞれの桜 −武州・上州・越後−

2019/04/13 15:14
 例年並、あるいは例年より少し遅い。そんなところに落ち着きそうな感じになってきました。今年は2月から3月にかけて比較的暖かな日が多かったので、いつもより季節の進み方が早いのではと思っていたのですが、4月に入ってからの寒さは予想外でした。
 東京の桜が早かったこともあり、信州(特に浅間山麓一帯)の桜との時差がひどく開いてしまったように感じます。今年は東京の桜を見ていないので、まだ先になりそうな信州の桜を見る前に、下界の桜も少しは楽しみたいと、2回に分けてバスと電車の乗り歩きをしてきました。
 碓氷峠を下った横川の鉄道文化村あたりの桜はすでに満開。高崎では盛りを過ぎて桜吹雪となっていました。標高差恐るべしです。それより少し前になりますが、熊谷の荒川土手(桜堤)にも立ち寄ってみました。見渡す限り続く満開の桜はまるで大河のような大迫力。
 高崎から上越線で北上すると、沼田あたりまでは桜が咲いていたのですが、その先はまだまだという感じで、水上では桜どころか雪景色となり、「国境の長いトンネルを抜けた」先は、今も「雪国」のままでした。同じ越後でも平野部の長岡あたりでは、桜が咲いているところもあり、上越市の有名な桜の名所である高田城(高田公園)では、雪山を背にした満開の桜がむかえてくれました。
 わずか1日の移動でこの変化。日本列島が平坦ではなく、高峻な脊梁山脈が存在するがゆえに生じている多様性。それぞれの桜を眺めて、改めてその面白さを感じたポン太でした。

《武州の桜》
熊谷の荒川土手は、中山道踏破の際に訪れた場所ですが、桜を見るのは初めてです。ここは河口まで76.0キロの地点。このまま河口までずっと続いているのではないかと思えるほどの桜のボリュームに驚きました。
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土手の上も下も人また人。上野公園に劣らない人出でした。さすがは県内トップクラスの桜名所です。
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みんな楽しそうですね。
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屋台もたくさん出ていて、たいへんな賑わいでした。
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《上州の桜》
碓氷峠を下ったところにある横川の「鉄道文化村」です。レールと腕木式信号機の背後に満開の桜。このシーンを「いいね」と感じる人は、たぶん鉄道好きです。ポン太もそうですから。
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保存車両と桜のコラボ。「いいね」「いいね」です。
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高崎駅から徒歩数分のところにある高崎城址の桜です。全国的に知られた桜名所ではありませんが、やはりお城と桜はベストマッチングです。
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盛りは過ぎていましたが、お堀に浮かぶ花筏もまた良きかなです。
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新クラスの記念撮影でしょうか。桜の下でスタートした新学期。高崎の生徒たちはラッキーですね。
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 上越線で沼田を過ぎ後閑までくると、咲いている桜も三分咲きか五分咲きのレベル。満開になるのはまだ先という感じでした。
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 桜どころか雪が目立つ水上駅です。ここで乗り換えた長岡行電車は2両編成。かつて上野と新潟を結ぶ特急列車が頻繁に行き交った長いホームは昔のままですから、この電車の短さが際立ちます。
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《越後の桜》
かつて国内最長を誇った清水トンネルを抜けた先は、文字通り「雪国」でした。しばらく桜とはお別れ。これは越後中里付近の車窓風景です。
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長岡を経由して、上越市高田へ。高田城址は全国的にも名の知れた桜の名所で、三大夜桜のひとつに数えられています。しかし、途中の車窓からは、ほとんど桜を目にすることがなかったので、本当に咲いているのか心配でした。とにかく行ってみなければと、名物の雁木風アーケードが連なる商店街をぬけて城址へむかいました。
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おっ、街中の川のほとりに満開の桜が咲いています。期待感が高まります。
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高田城址に近づくと桜また桜。お花見の準備をしている親子でしょうか。お子さんのもつ傘が粋ですね。
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広いお堀が見えてきました。満開の桜と背後の雪山。これを見ただけでもう十分という感じですが、この先にはさらに素晴らしい桜が待っていました。
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城址のまわりの道も桜で埋め尽くされていました。
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こんな桜ロード、誰だって歩きたくなりますね。
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出店のスケールも大きく、なんとお化け屋敷までありました。桜を見て肝を冷やすって、ありなのでしょうか。
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もちろん城内も素敵です。全国レベルの名所だけに、かなりの人出ではありましたが、首都圏の名所と比べればゆったり散策することができます。
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この景観は、高田ならではでしょう。
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これまた絶景ですね。
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この景色を見て、素晴らしいと言わない人はいないと思います。
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あたりが暗くなってくると、ますます雰囲気が良くなります。
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帰りの電車の都合があり、完全な「夜桜」になるまで留まることはできませんでしたが、三大夜桜といわれるだけのことはあると実感しました。
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後ろ髪をひかれる思いで城址を後にしましたが、ふりかえるとこの眺め。立ち去るのはもったいないと誰でも思うのではないでしょうか。
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駅にもどる途中にもこんなところがあり、思わずカメラをむけてしまいました。すごいぞ高田の桜。
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なんとか発車の5分前に駅にもどることができました。駅舎もこんなに素敵な高田でした。
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おっとどっこい春はお預け

2019/04/10 15:14
 このブログを開設したのは、一昨年(2017年)の4月9日です。ということは、丸二年が経過し、今日のブログが3年目に入って最初となるわけで、少しは華やいだ感じのものにしたいと思っておりました。
 春一番に華やぐものといえばもちろん桜。信州の桜はまだこれからですが、近県では見頃になったところが多く、昨日はその様子を見がてら、信越線と上越線を乗り歩いてきました。今回のブログは、各地の華やかな桜の写真を中心に構成しようと考えていたのですが、今朝起きてびっくり仰天。なな、なんと一面の雪景色です。それも春の淡雪といった感じではなく、吹雪の様相すら呈する本格的な雪。昼前には大雪警報がでました。
 この冬は雪が少なく、美しい雪景色を楽しむことができないと嘆いていたポン太ですが、この時期の雪は御免被りたいですね。何より心配なのは、先日植えたばかりのレタス。いくら寒さに強いといっても、これだけの雪の下に埋もれてしまっては・・・。やっと膨らみ始めた水仙やチューリップの花芽もどうなるか心配です。これでは、アンズやコブシの開花もだいぶ先になりそうです。
 そんなわけで、今回は冬に戻ってしまったようなポン太の家の周りの様子をお伝えすることにします。桜の話は改めて次回以降で取り上げることにしたいと思いますので、乞うご期待!

 野菜や肉などのストックが寂しくなっていたので、やむなく雪の中を買い物に出かけました。これは国道18号の様子です。
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 スーパーの駐車場もご覧の通り。タイヤを冬用のままにしておいてよかったと、胸をなで下ろしたポン太でした。
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 脇道に入ると、路面にもかなりの積雪があります。
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 いつもの水辺(御影用水)も冬景色に逆戻りです。
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 ポン太の家のまわりも、吹雪に霞んでいます。
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 レタスを植えたばかりの家庭菜園も雪の下になってしまいました。
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 もう少しで花が咲きそうになっていた水仙も、雪の上にかろうじて葉先が出ているだけ。
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 ポン太の森の雪景色です。きれいではあるのですが、今は困ります。
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家庭菜園始動

2019/04/07 09:29
 4月になったので、例年同様小さな家庭菜園を始動させました。真っ先に植え付けるのはジャガイモです。ポン太のお気に入りは、果肉まで赤いノーザンルビーという品種。まずはホームセンターで種芋を購入する必要があるのですが、今年はどこを探しても入手することができず、やむなくシャドウクイーンという黒色の品種を購入しました。ところがそれから間もなくして、佐久市の南端にあるタネ屋さんで、偶然ノーザンルビーを発見。やはりこちらが良さそうだと、1キロ入りを一袋購入してしまいました。その結果、小さな家庭菜園には余る量の種芋を抱え込むことになったのです。捨てるのは忍びないので、植え付け間隔を30センチ弱まで縮めることで対処しました。「超密植」状態ですから果たしてどうなるでしょうか。
 ジャガイモの次に植えたのはレタスです。4月初めは寒さが厳しく雪が舞うような状態でしたので、少し見合わせていたのですが、5日あたりから急速に気温が上昇。もうよかろうと苗を植え付けることにしました。レタス以外の作物の植え付けや種まきはまだだいぶ先ですが、それに備えて土を起こし、堆肥を入れるという作業だけはやっておかなければなりません。まわりの森を見回してみると、まだダンコウバイ以外に咲いている花はありません。もちろん芽吹きもまだです。それでも、枯れ葉の下からギョウジャニンニクやルバーブが顔を出しており、本格的な春は間近。そう思うと、土を掘る手にも力が入ったポン太でした。

 これがノーザンルビー(右)とシャドウクイーン(左)の種芋です。
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 ノーザンルビーは、皮だけでなく、中も赤いのが特徴です。
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 目玉焼きと一緒に盛り付けると、見た目はベーコンエッグのようですが、食べてみるともちろん味はジャガイモ。このフェイクな感じがポン太は大好きです。
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 こちらは植え付けたばかりの(結球)レタスです。順調に育ってくれれば、5月下旬には口に入るはず。
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 昨年大成功だったサニーレタスも植えました。
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 森の中では枯れ葉の下からギョウジャニンニクが顔をだしていました。昨年より株が少し増えたようです。
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 千曲市からは見頃になったという便りが届いているアンズですが、ポン太の森ではまだ固いつぼみの状態です。開花は10日後ぐらいでしょうか。
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 コブシもこの状態では開花はまだまだですね。
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「おやき」の故郷

2019/04/03 11:21
 信州の郷土食の代表といえば、「おやき」をあげる人が多いと思います。東京のデパ地下にも、「おやき」の店が進出していますから、いまや全国的にも知られた存在かもしれません。ただ、信州は広いので、「おやき」が県内全域で日常的に食されているかといえば、必ずしもそうではありません。「おやき」を好む人が特に多いのは、北部の長野市を中心とした一帯ではないでしょうか。
 元々、「おやき」は家庭でつくるものであり、地域や各家庭によって、つくり方や具の内容は異なっています。ポン太が子供のころ、現在の千曲市域に住む親戚を訪ねた際に、つくってもらって食べたのが、ポン太にとっては、「おやき」初体験でした。その「おやき」のスタイルは、具を入れて蒸した後、油をひいたフライパンで焼くというもの。お店で売られているような饅頭形ではなく、平べったい形をしていました。ねちゃねちゃした食感が子供にとっては心地よいものではなく、しかも中に入っていた具が、ポン太の苦手とするナス(この地域独特の丸ナス)であったこともあり、ポン太の頭の中には、嫌いな食べ物としてインプットされてしまいました。
 その後長い間、「おやき」を食べることはありませんでしたが、10年ほど前、虫倉山に登ろうと長野市の中条地区(旧中条村)を訪れた際に、ポン太のイメージとはまったく異なる「おやき」を目にしました。試しに食べてみたところ、その美味しいこと。表面はカリっとしているのに、中はしっとりしており、たっぷり入っていた具がこれまた美味。ポン太の「おやき」観は見事にひっくり返され、また食べたい、何度でも食べたい、に変わりました。
 その「おやき」は、囲炉裏の灰を使って蒸し焼きにするというタイプ(灰焼きおやき)で、どうやらこれが「おやき」の原形のようです。長野市の西方に位置する旧中条村や小川村などの山間地域は西山地方とよばれていますが、その西山地方で食べられていた「おやき」が里へ降り、囲炉裏とは無縁な家庭へ普及する過程で、蒸すタイプや蒸して焼くタイプ等に枝分かれし、中に入れる具も様々に変化。その結果、食感も味も異なる、バリエーション豊かな信州の「おやき」文化が形成されたというわけです。そのようなことを知ると、いろいろな場所で「おやき」の食べ比べをしてみたい、そんな気持ちになりました。1箇所、あるいは1店舗の「おやき」を食べただけで、「おやき」とはこういうものだと判断するのは大間違いなのです。

 旧中条村の「やきもち家」という温泉付きの施設で、「灰焼きおやき」を食べることができます。そこは、はっきり言ってとんでもない山の中。初めて訪れた際には、なかなかたどり着くことができず、この道でよいのだろうかと不安になりました。これが、途中の道から見下ろした「やきもち家」の全景です。
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 「やきもち家」の本館は、古民家を移築したという茅葺きの趣のある建物です。
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 食堂のすぐ隣に囲炉裏があります。この雰囲気もまたご馳走の一部といえましょう。
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これが、「やきもち家」の「おやき」です。 写真に写っている「おやき」の具は、切干大根です。ポン太の好みからいえば、これと野沢菜入りのものが絶品です。
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旧中条村には、絵に描いたような山里の風景が広がっています。
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 小さな棚田の縁に、フキノトウがたくさん顔を出していて、山里にも確実に春がきていることを感じました。
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ここは山姥の里ということですが、一般的な昔話に出てくるような怖い存在ではなく、子供を可愛がり危険から守ったやさしい山姥であった由。とても山姥とは思えないこのような像が設置されています。
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 虫倉山の麓には、不動滝という立派な滝があります。 
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このあたりの沢にはサンショウウオが生息しているようで、その保護をよびかけるこんな看板がでていました。よく読むと、三番目の項に、驚きの文言が。えっ、飲む人がいるの?
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「信州環状鉄道」を楽しむ

2019/03/30 22:38
 信州にも環状鉄道があります。といっても、山手線や大阪環状線のように電車がグルグル回っている路線があるわけではありません。列車を乗り継げば信州(の中央部)を一周できる形に線路がつながっているという話です。浅間山麓の小諸駅からでしたら、小諸→(小海線)→小淵沢→(中央東線)→塩尻→(篠ノ井線)→篠ノ井→(しなの鉄道)→小諸(またはその逆コース)と乗り継げばよいわけです。
 1963年から75年まで、長野を起終点として、上記のルートをたどる「循環急行」(設定当初は準急)なるものが運転されていたことがありますから、「信州環状鉄道」はあながち無理なこじつけとはいえません。ただし、小海線の南端部分は山梨県に属しており、純粋に信州内で完結はしていません。このルート上には、美しい車窓風景を楽しめるところや、途中下車したくなるような名所が多く、「信州周遊券」(→信州ワイド周遊券)が発売されていたころは、フリー乗降エリアの要のような存在でした。
 しばらくご無沙汰していた「信州環状鉄道」に、つい先日乗車してきました。その動機となったのは、篠ノ井線明科〜西条間の旧線跡遊歩道です。以前からぜひ歩いてみたいと思っていたのですが、樹木の葉がまだ出ていないこの時期なら、鉄道遺産の観察にはもってこい。目的地をそこに定め、時計回りに一周してみたというわけです。
 篠ノ井線旧線跡には、明治期に建設された煉瓦積みのトンネルや橋梁が遺されていて、スイッチバック式だった信号場の跡もあります。昔を偲びながら深い森の中を行く旧線跡ウォーキングは、想像していた以上に気持ちの良いものでした。
 「信州環状鉄道」の車窓展望が、今も満足できるものであることを確認することができたのも「成果」といえましょう。雪を戴く山々の眺めは信州ならではの素晴らしさ。お洒落な特別車両を用意し、供食サービス付きの「循環列車」を運転したら、相当な人気を博するのではないか、そんなことまで考えてしまったポン太でした。

 まずは小海線からスタートです。この羽黒下駅あたりから山間部に入って行きます。ちなみに、羽黒下駅の駅舎は、佐久鉄道として開業した当時のままで、見応えがあります。
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 小海線きっての秘境駅といわれている佐久広瀬駅です。こういうのどかな雰囲気が味わえるのも、ローカル線ならではです。
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 野辺山駅付近の車窓に広がる八ヶ岳。これぞ高原鉄道、ザ・小海線、といった風景ではないでしょうか。
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 これは、往時の循環急行「すわ」号です。長野から出発し反時計回りで長野にもどる列車でした。時計回りで運転されていた列車には「のべやま」号という愛称がついていました。(清里〜野辺山間にて、1970年8月28日撮影) 
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 観光名所にもなっている、海抜1375mのJR最高地点です。列車から前方を見ていると、踏切のところがサミットになっていることがよくわかります。
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 小淵沢で中央東線に乗り継いで茅野までやってきました。この353系の特急「あずさ」に追い越されましたが、今月16日のダイヤ改正により、特急「あずさ」はすべて353系電車で統一され、自由席が消滅。駅によっては停車本数が減って利用しにくくなった面もあり、今回のダイヤ改正に対する地元の評判は必ずしも良くないようです。
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 篠ノ井線の明科駅です。1902(明治35)年、篠ノ井線の開通と同時に開業した古い駅ですが、現駅舎は1927(昭和2)年の建築ということです。
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 明科駅前には「廃線敷遊歩道」の立派な案内板が立っていました。1988年9月に新線に切り替えられて廃線となった明科〜西条間のうち、明科から旧第二白坂トンネルまでの区間が遊歩道として整備されています。
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 ここは、遊歩道の明科駅側の入口付近です。左側(西側)の展望がよく、北アルプスの常念岳等がよく見えます。旧線時代はビューポイントでしたが、新線は明科駅を出るとすぐにトンネルに入ってしまうので展望はありません。
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 廃線跡遊歩道には、通り抜けることができるトンネルが2箇所あります。これは全長125mの三五山(さごやま)トンネル。篠ノ井線のこの区間が開業したのは明治35(1902)年6月15日ですから、この煉瓦積みのトンネルは明治30年代前半の建造物ということになります。一見煉瓦のようには見えませんが、これは、電化に際して水滴が電線に付着するのを防ぐために、モルタルを吹き付けたためだということです。
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 トンネル内に入ると煉瓦積みであることがよくわかります。
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 踏切がそのまま残されているところもあり、廃線跡であることを実感します。この場所のように、僅かでもレールが存在していると嬉しいものです。
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 斜面災害を防止するための鉄道防備林が、全国に先駆けて整備されたということで、それもこの廃線跡遊歩道の見どころの1つです。当初はニセアカシアが、戦後はケヤキが植えられた由。見事なケヤキ林が続きます。
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 旧線跡の土手に咲いていた福寿草です。思わぬところで春を感じました。
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 今も前方を睨んだまま立ち続けている信号機が、廃線跡歩きの気分を盛り上げてくれます。
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 赤煉瓦の小沢川橋梁です。胸壁上部の仕上げ方が極めて特殊(小口の段が鋸歯状)ということなのですが、近寄ってみて、その形状を確認することができました。
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 三五山トンネルと同じく煉瓦積みの漆久保トンネルです。こちらは一見して煉瓦積みとわかり、明治期に建設された鉄道らしい雰囲気が漂っています。
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 スイッチバック式だったという潮沢信号場付近です。左側が本線、右手の少し高いところがスイッチバック線の跡ではないでしょうか。
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 遊歩道はここでおしまい。前方に旧第二白坂トンネルの入口がみえますが、入口が閉鎖されていて、通り抜けることはできません。明科にもどり、篠ノ井線の旅を続けました。
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 篠ノ井線きっての鉄道名所といえば姨捨駅。この付近からの眺めは、日本三大車窓の1つといわれています。
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 今回の目玉は篠ノ井線旧線の廃線跡歩きでしたが、「信州環状線」の沿線には見どころがたくさんあり、切り口を変えれば何度訪れても楽しめる、そう感じたポン太でした。
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そこまで来た春

2019/03/25 22:11
 浅間山麓の生活実感として、3月はまだ冬です。木々の葉がほとんど落ちてしまう11月下旬から、芽吹きが始まる4月下旬までの5ヶ月間が冬で、残りの7ヶ月弱に春夏秋の3つのシーズンが凝縮されている、そんなところでしょうか。それでも、温暖化の影響からか、昔ほど長く厳しい冬を耐えて春を待つといった感じはしません。今年は特に暖冬で、雪が極端に少なかったせいか、3月でも春の訪れを感じるような日が多いように思います。
 東京からはすでに桜の便りが届いていますが、さすがにこちらではそれはまだ先の話。それでもいままで彩りのなかった庭にビオラが咲き始め、森の中ではダンコウバイの花をちらほら見かけるようになりました。道端にはフキノトウが顔を出しています。平尾山のスキー場は、昨日で今季の営業を終え、白いマルチシートがセットされたレタス畑では、苗の植え付けが始まったところもあります。本格的な春便りの発信には、まだ時間が必要ですが、冬から春へ、間違いなく季節は動いている、そんなことを感じるこのごろです。

 咲き始めたビオラです。寒さにめっぽう強く、雪の下で冬を越し、わが家の庭で一番早く花を咲かせてくれる、有り難い存在です。
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 庭のシャクナゲの花芽がこんなに大きくなっていました。開花は1ヶ月以上先ですが、立派に咲いてくれそうで楽しみです。
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 いつもの散歩コースの道端にフキノトウがでていました。
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 森の中で真っ先に花を咲かせるダンコウバイです。
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 小さな花ですが、近寄ってみると、こんな感じです。
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 昨日店じまいした平尾山のスキー場(パラダ)です。気温の高い日が多かったせいか、ゲレンデの雪がやせ細っています。今季は雪の管理が大変だったのではないでしょうか。
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 浅間山麓の畑には白いものが目立つようになりました。レタスを栽培するためのマルチシートです。
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 ヤマツツジの枝に天蚕(の繭)がついたままになっているのを見つけました。芽吹きにはほど遠いこの時期、新緑を思わせるこんなにきれいな色のものはほかにはありませんから、思わず見とれてしまいました。ちなみに天蚕の糸だけを用いた織物も製造されているそうですが、たいへん高価だということです。
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 芽吹きの季節をむかえる前に、わが家の近くの森が大規模に伐採されてしまいました。ここに何ができるのか、ちょっと心配なポン太です。
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同和鉱業花岡線花岡駅〜忘れ難き終着駅(7)

2019/03/21 12:28
第7回 同和鉱業花岡線花岡駅(秋田県)

 ポン太が十代のころの話です。家の近くに劇団幹部の女優さんが住んでおり、その方からチケットを入手した父が、これはなかなか良さそうだからと、私に観劇をすすめてくれたのです。それまで「新劇」というものを見たことが無かったので、良い機会と思い出かけてみました。会場は六本木の俳優座劇場、タイトルは「勲章の川」であったと思います。「花岡事件」を扱ったかなりシリアスな内容でした。
 「花岡事件」というのは、第二次大戦末期、秋田県花岡鉱山鹿島組出張所に強制連行されて来ていた中国人労働者たちが、虐待に耐えかねて暴動を起こし逃走した事件です。捕らえられた後の扱いは過酷で、拷問によるものを含め、400人以上が死亡したとされます。こんな事件があったことを初めて知り、劇団員たちのリアルな演技にも衝撃を受けました。捕らえられた中国人たちに、多くの住民が石を投げつける中で、茹でたジャガイモをそっと渡した女性がいたという話もあったように思います。どんな状況下でも「良心」や「慈愛」を失わない人がいることに、救われた思いがしたように記憶しているのですが、そんな話だったような気がするという程度の記憶にすぎません。画像
 それから10年以上経ってから、鉄道乗車を目的に花岡を訪れる機会がありました。雪の降りしきる花岡駅に着いた時に、ふと思い出したのが上記の劇のことです。事件が起きたのは夏ですから、目の前の風景とはまったく異なっているはずです。それなのに、なぜかこの重く湿った春の雪と事件とが、自分の中では融合してしまい、切ない気持ちになりました。そんな意味で忘れ難い終着駅、それが花岡なのです。
 花岡線は大館〜花岡間4.8km、全線単線非電化の路線でした。花岡鉱山の専用鉄道として開通した後、譲渡された小坂鉄道(後の同和鉱業小坂鉄道)の手により1916(大正5)年1月26日に開業。当初はいわゆる軽便サイズの762mm軌間でしたが、1951年に国鉄線と同じ1067mmに改軌しています。1985(昭和60)年4月1日に廃止となりました。

 雪の降りしきる花岡駅とその構内です。(1978年3月30日撮影、以下3枚同様)
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 花岡駅は、大鉱山を有する駅だけあって、このような立派な駅舎でした。
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 花岡線の始発駅だった大館です。これは小坂線のホームで、左側が花岡線のホームでした。ちなみに小坂線の方は1994年まで旅客営業が行われていました。
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 5年ほど前、久しぶりに大館を訪れました。大館といえば秋田犬の故郷。可愛い銅像がむかえてくれました。(2013年7月4日撮影、以下同様)
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 同和鉱業の大館駅跡と思われるところに行ってみると、こんな看板が目に入りました。しかし、かつての旅客駅の面影や痕跡をみつけることはできませんでした。
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 小坂線の方は、旅客営業を廃止した後も、2009年に全線廃止となるまで貨物輸送を続けていましたので、広い大館駅構内には、まだたくさんのレールが残されていました。
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 駅跡から少し歩いてみましたが、小坂線のレールは撤去されずに、ずっと続いていました。左側に線路1本分のスペースがありますが、それが花岡線の廃線跡と思われます。
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国道18号、小さな「発見」

2019/03/18 12:04
 浅間山麓の幹線道路の筆頭といえば、もちろん国道18号です。どこへ出かけるにもこの道路のお世話になることが多いのですが、そこを歩いてみようという気にはなかなかなりません。猛スピードで行き交うクルマの脇を歩くのは不安でもあり、排気ガスや騒音も気になります。静かな森の中や水辺のエリアに足がむいてしまうのは当然でしょう。
 しかし、クルマで通行しているだけでは、国道沿いの変化に気がつかないこともあります。そこで、ポン太のねぐらから比較的近い部分(軽井沢町と御代田町の境界付近)を歩いてみることにしたのですが、やはり変化は起きていました。オープンして間もないカフェが閉店していた一方、かつては運送会社の駐車場だったところに花屋がオープン。閉店したローソンの建物が取り壊されて更地化されるなど、沿道の風景もいままでとは違った感じになっていました。やはりクルマの中から見るのと、歩いて見るのとでは、地域の見え方が相当違いますし、徒歩でないと気がつかないことも多いのです。
 国道18号といえば、最近、ユーチューブで、「国道18号線」というタイトルの歌があったことを知りました。フランク永井と松尾和子のデュエット曲で、リリースされたのは1964(昭和39)年とのこと。ポン太の記憶にまったく残っていないところをみると、大ヒット曲ではなかったようですが、今聴いてみると、ムードのあるそれなりに良い曲だと思います。歌詞の中に、「東京〜軽井沢、切ない愛を、はこぶ 国道18号線」というくだりがあります。 高速道路が無かった時代には、国道18号(高崎からは17号経由)が首都圏と信州を結ぶ道路交通のメインルートでした。しかし、1964年の段階では碓氷バイパスすら整備されていませんから、碓氷峠越えはかなり大変で、快適なドライブとはいえません。「ヘッドライトも届かぬ闇に」というフレーズも出てきます。まったくそのとおりで、現在でも夜間に旧道を走行するには勇気がいります。ロマンより恐怖を感じさせるような道であった上、東京〜軽井沢を行き来する車の絶対数も少なく、共感を得にくかったことが、ヒットしなかった理由かもしれません。


 18号沿いに出現したこの建物、何に見えますか。この冬、建設中の様子をクルマから何度も眺めていたのですが、ウィスキーの樽のようなものが並べられていることと、建物自体は断熱効果の期待できない簡易なもののようでしたので、ワインや野菜、果物などの直売場ではなかろうかと想像しておりました。看板には「GATE」とあるだけで、今回歩いてみて初めて、オープンしたのが花屋さんであることがわかりました。
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 お店の入口はこんな感じで、クルマからですと中は見えません。
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 扉の中を覗いてみて、はじめて花屋さんだとわかりました。
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 国道を背にした売り場もありました。
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 新しく生まれるものがあれば消え去るものもある。コンビニのローソンがあったところが更地化され、妙に広々した景色となりました。次に何かできるのでしょうか。
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 こちらはガソリンスタンドを改装して、昨年オープンしたカフェですが、よくみると、「貸店舗」の表示がでていました。駐車場が一杯になっていた日もあり、繁盛しているのかと思っていたのですが・・・。何がダメだったのか、勝手な想像ですが、店舗の装飾は凝っていたものの、手前の屋根がガソリンスタンド感丸出しで、アンバランスな印象を受けたことは否めません。
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 えっ、この場所にこのお店って何、と驚いたのが、元家具屋の店舗を改装して2年前にオープンしたその名も「What?」というお店。西洋アンティーク家具や小物を扱っており、年中クリスマスのような雰囲気です。
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 こちらは昔からあるコイン精米所です。その前で立ち止まって見ていると、次から次へと車がやってきます。やはりこういうものは根強い需要があり、廃れないですね。
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 需要といえば、浅間山麓では薪ストーブを愛用している家も多く、国道沿いにはその専門店があり、繁盛しているように見えます。
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 いろいろなお店ができたり消えたりしていますが、変わらぬものはその盛衰を眺めている浅間山。何年か前にこのような瀟洒な葬祭場がオープンしましたが、時代の趨勢を考えれば、浅間山麓でもマーケットは広がっているということでしょう。
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 今はいろいろなお店がある国道18号沿いですが、半世紀前には原野が広がっているだけで、お店どころか民家もほとんどありませんでした。これは1963年ごろの、軽井沢町から御代田町に入ったあたりの国道風景です。
車もほとんど走っていません。
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 上の写真と同じ場所の現在の風景です。右手にあるのは生コンの工場です。
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 碓氷峠を越える区間の国道18号は、こんな感じでした。車が走ってはいますが、カーブだらけで狭く走りにくい道でした。並走しているのは、アプト式時代(最後の年)の信越本線の列車です。
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海野宿でお雛さま三昧

2019/03/12 15:06
 今まで見た中で一番といってもよいほど、インパクトのある「ひな祭り」を見てきました。それは、東御市で現在開催中(3月3日〜24日)の「北国街道 海野宿 ひな祭り」です。
 町おこしの一環として、雛人形を飾る催しは各地で行われており、いささか食傷気味の感がありましたが、この海野(うんの)宿の「ひな祭り」は、他所とは異なる特長があり、大変興味深いものでした。その第一はビッグスケールの宿場町というロケーションです。
 信州で宿場町といえば、木曽路の奈良井宿と妻籠宿が有名で、とくに最近は外国人に大人気の観光スポットであることは、周知のとおりです。それと比べると全国的知名度は劣るかもしれませんが、旧北国街道沿いに、およそ700mにわたって伝統的建造物が連なる海野宿のスケールは、前二者と遜色がなく、信州における見応えのある宿場町御三家の1つと言って間違いないでしょう。明治以降、宿場としての機能を失った後も、蚕種の生産や取引で栄えたことから、江戸時代の旅籠建築以外に、蚕糸業が盛んであった時代の立派な建物が残っていることも海野宿の大きな特色です。
 特別なイベントがなくても訪れる価値のある場所ですが、そこに「ひな祭り」が加わったことで、わくわく感が増幅されたように思います。雛人形が飾られていた家はなんと45軒。部屋の中に入って鑑賞するスタイルではなく、海野格子とよばれる特徴的な格子戸越しに雛飾りを眺めて歩くというのも、実に風情があります。格子の中に気をとられて、最初は気がつかなかったのですが、ふと見上げると、建物の二階の窓が開いていて、そこにもたくさんの雛人形が鎮座していました。こちらが人形を見るのではなく、人形たちに見下ろされているという感じも、今までにないもので、よいアイデアです。極めつけは、毎土曜日の夜に行われる行灯の点灯。格子から漏れる光と行灯のやわらかな明かりが見事にミックスして、昼間とは異なる幻想的な世界に様変わりするのです。
 パンフレットによれば、第5回となっていましたので、まだ若いイベントです。PR不足なのか、訪れていた人は少なく、その分ゆったり散策することができたのですが、ちょっと残念な気がしました。今後の隆盛を心より願ったポン太でした。 

 ここが海野宿の入口です。歴史を感じさせる街並みが続いていますが、普通の暮らしが営まれている場でもあります。
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 街道の中央には昔と同じように用水が流れています。旅人が足を洗ったり、馬に水を飲ませたりしたのでしょう。こんな時代劇のセットのような風景が残っていることに、まずもって感動してしまいます。
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 まだ明るい時間でしたが、地元の方々が行灯のセットを始めていました。
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 まずは宿場内を一巡。このように戸口に雛人形を飾っている家もありました。
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 海野宿の「ひな祭り」の最大の特色は、雛人形を格子越しに眺めることです。風情がありますね。
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 格子の中を覗くと、こんなにたくさんの雛人形が並べられていた家もあります。
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 見上げると二階の窓にもお雛さまが。
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 こちらのお宅の二階にも。
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 上を見ても下を見てもお雛さま。こんな展示は、今まで見たことがありません。
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 1階と2階の展示が対角のようになっているところが、なんともお洒落です。
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 雛人形を見にお邪魔したお宅の入口から外を眺めると、タイムスリップしたような気分になります。
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 あたりが薄暗くなってくると、格子から漏れる明かりが、独特の雰囲気を醸しだします。
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 行灯に灯が点りました。
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 すっかり暗くなると、こんな幻想的な雰囲気に。
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 海野宿のひな祭りのポスターです。最終日の3月24日には、流しびなやクラフトマーケットといった催しがあり、着物の貸出し着付けも行われるということなので、また違った雰囲気が味わえるかもしれません。
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アパート症候群

2019/03/09 11:46
 最近の浅間山麓、とくにポン太の住む南麓一帯で目につく動きといえば、建設ラッシュといってもよいほどのアパートの増加です。ポン太がよく散歩しているエリアでも、現在建設中のアパートがいくつも目につきますし、ここ数年の間に建設されたアパートの数は、十指に余るどころか、足の指を入れても足りないほどです。いままで、落葉松やコナラ、赤松の林だったところが、突然切り開かれて、何ができるのかなと思っていると、たいていがアパート。そうでなければ太陽光発電施設、というのが最近のお決まりパターンです。
 この背景に何があるのか。あくまで推測に過ぎませんが、土地所有者の高齢化、あるいは代替わりなどを機に、所有地の有効利用をはかりたいという意思が生じていたところへ、業者からの働きかけがあって、そのようなことになっているのではないでしょうか。税金だけ払って土地を遊ばせておくわけにはいかない、というわけです。
 大都市周辺でもない高冷地で、アパート経営が成り立つのかと、素朴な疑問を抱く人も多いはず。ポン太もそう思っておりました。ところが、新築アパートの前に、「満室」の札が掲げられているところが意外に多いのです。いったいどんな人が入居しているのでしょうか。これまた推測ですが、軽井沢やその周辺にはホテルやレストランが多く、佐久平には多くの工場や大規模商業施設が存在しています。この地域にはそれなりの雇用があるわけです。家賃が安く自然環境のよい浅間山麓に住んで、クルマで職場へという、独身者や単身赴任者が、案外多いということではないでしょうか。
 昨年、長野県内77の自治体の中で、人口が増加したのは8町村でしたが、そのうちの2つが浅間山麓の軽井沢町と御代田町でした。人口(とくに若い人)が増えたことで、介護保険料が下がり、スーパーやホームセンターが充実し、医療の心配もない等、ポン太もその恩恵を十分受けているわけです。したがって、この動きを歓迎したいと思う気持ちがないわけではありません。しかし、その一方で、森や畑の中に家屋が点在するという、のどかな高原の雰囲気が失われ、大都市周辺のような住宅地化が進んでしまうことには、不安があります。アパートの入居者も、豊かな自然環境ゆえにこの地を選んだという人が少なくないはずですから、建設にあたっては、環境や景観への慎重な配慮が望まれます。なにより心配なのは、このままの勢いでアパートが増え続けた場合、遠からず供給過剰となり、建築主自身が、厳しい状況に陥ることです。老婆心ならぬ古狸心ながら、そう思ってしまいます。

 浅間山を背にしたアパートです。ここは元々開拓民の家と畑があったところです。
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 散歩の途中で見かけたアパート群です。すでに出来上がって入居済みのアパートの前では、新たな建設が始まっていました。後ろに浅間山がなければ、ここは東京郊外の新興住宅地?と思ってしまいます。
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 入居済みのアパート前には、満室の看板が。
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 新しいアパートとその前に並ぶ太陽光発電パネル。近年目立つようになった、浅間山麓の風景です。
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 こちらは昨年、中山道沿いに完成したホテル従業員用のアパート。このような施設も増えています。
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 これは、平屋の1戸建てを並べたアパート(貸家群)。「庭付き一戸建て」は、独身者にはアピールしなかったようで、完成して1年以上経ちますが、満室になっているようには見えません。
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 ポン太の家の近くでも二棟のアパートが建設中です。
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 そこは2年前まで空き地だったところで、このような月見草の群落がありました。
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 建設中のアパートのすぐ後ろでも、樹木の伐採が始まりました。ここもアパートになるのでしょうか。
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 これは、現在建設中のアパート付近の40年以上前の風景です。左手奥に見えているのは平尾山。このあたり一帯は、ほぼ原野といってもよいところでした。(1975年7月撮影)
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鹿島臨海鉄道臨港線鹿島港南駅〜忘れ難き終着駅(6)

2019/03/06 23:23
第6回 鹿島臨海鉄道臨港線鹿島港南駅(茨城県)

 何のための終着駅だったのか、事情に通じた人以外理解に苦しむような終着駅でした。鹿島港南駅が開業したのは1978(昭和53)年7月25日、廃止されたのが1983(昭和58)年12月1日ですから、存続期間は僅か5年余。しかも列車本数は1日3往復でしたから、いったい誰が利用していたのか、そもそもどういう人の利用を前提にしてこの駅を設けたのか、わけがわからない駅と言っても過言ではないでしょう。
 鹿島臨海鉄道は、元々鹿島臨海コンビナートの物流を担う目的で設立された貨物鉄道でした。1978年5月に成田空港が開港した際、燃料輸送に利用するはずのパイプライン建設が間に合わず、鹿島港から空港への燃料輸送に同鉄道が用いられることになったのです。ご承知のとおり、成田空港建設をめぐっては激しい反対運動があり、周辺地域にもピリピリした空気が漂っていました。そこで燃料輸送の見返りに旅客輸送を行うことになり、その終点として開業したのが鹿島港南駅だったわけです。国鉄線との接続駅である北鹿島駅から鹿島港南駅までが同鉄道の旅客営業区間となったのですが、北鹿島は貨物駅であったため乗降することはできず、国鉄線の鹿島神宮が事実上の始発駅でした。鹿島神宮〜鹿島港南間の営業キロは18.6km(鹿島臨海鉄道の部分は15.4km)で、乗車券には、鹿島神宮から400円、(北鹿島)→鹿島臨海線300円と表記されていました。JTB時刻表には、乗降できない北鹿島の駅名はなく、索引の地図も、国鉄線と臨港線が駅の無いところでスイッチバックする形でつながるという、面白い描き方になっていました。画像
 パイプラインの完成により、見返りの必要性が(あったかどうか疑問ですが)無くなり、旅客営業は廃止されました。1985年に、鹿島臨海鉄道は水戸〜北鹿島間を開業し、旅客営業を復活。北鹿島駅は1994年に鹿島サッカースタジアム駅と改称して旅客営業を開始しました。しかし、列車が停車するのはサッカー開催日のみ。この駅で乗降するのは、今もそう簡単ではありません。
 短命で実際に利用した人が極めて少なく、今となっては存在していた意味さえわからない終着駅。だからこそ忘れ難い、それが鹿島港南駅なのです。


 同線を訪れたのは開業から3ヶ月ほど経った11月23日。鹿島神宮駅発13時14分の列車に乗りました。車両はキハ1002の単行で、乗客は3人。下の写真は鹿島神宮駅で発車を待つ、鹿島港南行列車です。(1978年11月23日撮影、以下同様)
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 これが終着駅の鹿島港南駅です。駅前には電話ボックス以外何もありません。片面ホームのみの無人駅です。
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 鹿島港南駅ホームと去って行く列車です。
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 鹿島港南駅に着いた列車は、乗客を乗せて折り返すことはなく、無人のまま一旦引きあげてしまいます。次の上り列車は16時45分発でそれが最終。3時間も待たなければならないので、帰路はバスを利用せざるを得ませんでした。
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 当日利用した乗車券です。
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リンゴ可愛や

2019/03/03 15:31
 信州で暮らすようになってから、一番よく食べている果物はおそらくリンゴです。何しろ全国第二位の大産地ですから、農産物直売所や道の駅、温泉施設など、どこに行っても「食べないと損ですよ」といわんばかりに大量のリンゴが並んでいます。保存方法が進化しているのか、収穫から3〜4ヶ月経った今でも、まったくボケていない、新鮮なリンゴを入手することが可能です。
 ご承知のとおり、リンゴにもいろいろな種類があり、もちろん味も違います。信州生まれの品種で「シナノ三兄弟」と呼ばれているのが、「秋映」「シナノスイート」「シナノゴールド」。率直な感想をいわせてもらうと、「秋映」は見た目が抜群で、リンゴの絵を描くには最適ですが、味はいまひとつです。「シナノスイート」はその名のとおりとにかく甘く、果物は甘いのが一番という方にはおすすめ。「シナノゴールド」は黄色いリンゴで、甘味も酸味もともに強く、果肉も硬めでパンチ力を感じます。生食でもジャムにしても美味しいというのがポン太の評価です。
 生食で文句なく美味しいのは、「サンふじ」ではないでしょうか。それもシーズンの最晩期に収獲されたものには、蜜がたっぷり入っていて、満足度マックスです。最近よく目にするようになったのが、新品種の「あいかの香り」。甘味と酸味がほどよくミックスした、とても美味しいリンゴです。「ふじ」と「つがる」から生まれたものだそうで、「あいか」は開発した園主の娘の名とか。「サンふじ」のように目に見える形で蜜が存在しているわけではないのに、果肉にまんべんなく甘味がいきわたっている感じがします。
 この「あいかの香り」とやや酸味の強い「シナノゴールド」を半々の割合で用いてジャムをつくってみたところ、これまでで一番かもしれないという美味しいジャムができました。
 「リンゴはなんにも言わないけれど〜♪」・・・、実に奥が深いのです。

 昨秋のリンゴ畑の風景です。真っ赤に実ったリンゴは、見るからに美味しそうですが、色と味はあまり関係がありません。食べてみないことには、本当のところ、どんな味なのかわからないのです。
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 「シナノゴールド」(左)と「あいかの香り」(右)です。ジャム用にと小さなサイズを選びました。もちろんそのまま食べても美味です。
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 適当な大きさに刻んで鍋の中へ。この姿になってしまえば、リンゴの種類が何であるかわからないですね。
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 少量の水と砂糖を投入し、1時間ほど煮込むとこのようになります。だいぶジャムらしくなってきました。ここから先、どのように仕上げるかは「企業秘密」なので、公開はここまでです。もちろん添加物や着色料の類は一切使用しておりません。
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 満足のいくレベルに仕上がったジャムを、お気に入りのパンにたっぷりのせての朝食。至福のひとときです。
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湯ノ丸山〜春めく雪山へ

2019/02/28 00:08
 冬は雪があってこそと、雪を賛美するような話ばかりしているポン太ですが、この先、浅間山麓できれいな雪景色を望むことは、もう無理ではないかという気になっています。このところ暖かな日が続いていて、なんと、庭の花壇に植えておいたチューリップの芽がはやくも顔を出し始めたからです。2月中にこんなことが起きたのは初めてです。季節の進み方が年々はやくなっているのかもしれません。
 このまま春になってしまえば、標高の高い山の雪も早晩消えてしまうことでしょう。今季、一度も本格的な雪山を見ずに終わってしまうのは、なんだか物足りない気がして、浅間連峰の1峰である湯ノ丸山(2101m)へトレッキングに出かけました。登山口の地蔵峠の標高が1732mもありますから、山頂との高低差は369m。無雪期であれば1時間半程度で登れるハイキングレベルの山です。しかし、雪山となれば話は別。あまりに雪が深いようなら、無理をせずに途中で引き返えすつもりでスタートしました。
 里山とはちがい、2000m級の山となれば、最初から最後まで雪の上を歩くことになります。斜面で万一滑り落ちるようなことになったら大変ですから、今季初めてアイゼンを装着することにしました。幸い、登山道はよく踏まれていて歩きやすく、2時間弱で山頂に到達。天候にも恵まれて、八ヶ岳や北アルプスはもちろん、遠く富士山や越後の山々まで360度の大展望を楽しむことができました。雪を戴く山々の眺めは神々しいまでに美しく、老骨に鞭打って(というほど大げさではありませんが)、登った甲斐がありました。昨年の高峯山に続いて、今年も2000m級の雪山に1つ登頂できたことは、冬山経験がほとんど無いポン太にとって、大成果といってよいでしょう。
 雪山とはいっても、樹木の先端が芽吹きにそなえて少し赤くなっていたり、雪の表面が溶けてゆるんでいるところがあったりと、春のきざしを随所に感じた山行でもありました。標高の高い山でも春はすぐそこまで来ているのです。山全体がパステル調の淡い緑色に染まる落葉松の芽吹きも、そう遠くはありません。それをどの山で見ようかと、はやくもそんなことを考えてしまったポン太でした。

 湯ノ丸高原も今冬は雪が少なかったようで、ガードレールにも達しない程度の積雪でした。
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 湯ノ丸キャンプ場からみた湯ノ丸山です。さあ、あの頂まで登るぞ!
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 烏帽子岳への道を分ける「中分岐」までやってきました。ここからツツジ平へむかいます。空は抜けるようなブルー。気持ちのよい道です。
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 初夏ならば、咲き誇るレンゲツツジで大地が真っ赤に染まるツツジ平ですが、上州の山々をバックにした雪景色も見応えがあります。
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 高度が上がると視界が広がり、気分も爽快。
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 頂上を目指して、ここはがんばりどころです。
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 振り返ると、浅間山の本体が見えます。
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 鹿沢の山々も一望できます。鹿沢温泉は、「雪山讃歌」(の歌詞)発祥の地。「雪よー岩よー♪」と口ずさみたくなります。
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 スキーでやってきた人もいました。登るのはちょっと大変そう。
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 ここを登り切れば湯の丸山頂です。
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 山頂からの眺めは申し分なし。眼前に迫るは四阿山、根子岳といった菅平の名峰です。
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 風が強いせいか、山頂の足下は積雪ゼロ。吹き飛ばされそうになりながら、記念写真を撮りました。ヒマラヤにでも登頂したような気分です。
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 山頂から烏帽子岳越しに見る北アルプスは、みごととしか言いようがありません。
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 戸隠、飯縄、黒姫、そして越後の妙高。北信の山々もまたみごとな眺めです。
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 こちらは蓼科・八ヶ岳連峰です。いつも見慣れている山ですが、視点が高くなったことで立体感が増し、思わず見とれてしまいました。山は登っただけの価値がある。つくづくそう思います。
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興浜北線北見枝幸駅〜忘れ難き終着駅(5)

2019/02/24 22:27
第5回 興浜北線北見枝幸駅(北海道)

 新旧の地図を見比べて、鉄道路線網のあまりの縮小ぶりに、驚かされるのが北海道です。特に、オホーツク海の沿岸エリアは、鉄道空白地帯といってもよい状態になってしまいました。かつて、北海道ワイド周遊券を手に、各線を乗り歩いていた時代、稚内から網走まで、一部の区間を除いてオホーツク沿岸を鉄道で移動することが可能でした。その一部の区間というのは、興浜北線の北見枝幸(きたみえさし)駅と興浜南線の雄武(おむ)駅との間です。興浜線という線名からもわかるように、元々名寄本線の興部(おこっぺ)と天北線の浜頓別を結ぶ予定で建設された鉄道が結局つながらず、双方が盲腸線のままの状態になっていたわけです。北見枝幸と雄武の間には大きな町は無く、この間を結ぶバスは、夏季なら海岸沿いの原野と牧草地の中を、冬であれば真っ白な雪原をひた走るといった感じで、「オホーツク一本道」などと呼ばれていました。画像
 当時、旅行ガイド等にしばしば使われていたのが「最果て」という言葉です。「最果ての町」だの「最果て旅情」だのといった文言に惹かれて、北海道を旅をする若者も多かったように思います。かくいうポン太もその一人かもしれません。実際に乗ってみて、「最果ての鉄路」というイメージに最も合致していたのが興浜北線であり、「最果ての駅」は北見枝幸、そして「最果ての道路」は「オホーツク一本道」でした。
 海外に簡単に出かけられるようになった今日、国内なのに「最果て」とはなんだよ、といわれかねませんが、当時、首都圏から北海道の端まで行くのは、現在の海外旅行以上に時間のかかる大旅行でした。青函連絡船を介して列車を何度も乗り継ぎ、ようやくたどり着いた先は、十分「最果て」だったわけです。車窓から流氷を眺め、最果てムードに酔いしれた興浜北線の旅。北見枝幸で乗り継いだバスの車窓から見た「オホーツク一本道」の白一色の風景。忘れられない思い出です。
 興浜北線浜頓別〜北見枝幸間30.4kmが開業したのは1936(昭和11)年7月10日。廃止されたのは1985(昭和58)年7月1日です。同年7月15日には、南側の興浜南線も廃止され、さらにその4年後の1989(平成元)年5月1日には、興浜北線の接続先であった天北線も、興浜南線の本線にあたる名寄本線までもが全線廃止となり、このエリアから鉄路は完全に消滅してしまいました。あの日、「最果ての鉄路」を旅することができた幸せを思わざるをえません。

 浜頓別駅の天北線ホームから、発車を待つ北見枝幸行の列車を見たところです。当時の興浜北線には1日6往復(1往復は音威子府直通)の列車が設定されていました。この日乗車した列車は気動車(キハ2267)の単行(1両編成)でしたが、当時のメモには、「意外に乗客多く、座席はほぼ満席」とあります。(1972年3月7日撮影)
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 興浜北線からみたオホーツク海の流氷です。車窓から流氷を見たのはこれが初めてというわけで、大感激でした。(1972年3月7日撮影)
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 北見枝幸に到着した列車です。枝幸町はこの地方の中心をなす町で、当時の人口は1万を超えていましたから、それなりの利用者があったのもうなずけます。
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 最初の旅から10年後に再訪した際に撮影した北見枝幸駅の駅舎です。(1981年12月27日撮影)
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ようやく明るくなり始めたた北見枝幸駅構内です。ホームには始発列車が停車しています。(1981年12月27日撮影)
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 興浜南線に乗り継ぐために「オホーツク1本道」を走る宗谷バスに乗車しました。乗客は数名しかおらず、最前列の座席を確保して前方展望を満喫することができました。地吹雪になったら恐怖を感じるかもしれない道が続きます。
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 雄武町に入ったバス停には、「興浜南線を守ろう」という看板がありました。同線の廃止はこれから3年半後です。(1981年12月27日撮影)
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 もう一方の終着駅雄武です。面白かったのは、同じ字を書いて町の名は「おうむ」と読ませるのに、なぜか駅名は「おむ」だったことです。(1972年3月7日撮影)
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 雄武駅構内のこの広さ。水産物、農産物など貨物の取扱が多かったことをうかがわせます。(1981年12月27日撮影)
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古刹も冬がよし〜布引観音

2019/02/21 11:58
 ふいに、参道の急坂を登りたくなり、布引観音(布引山釈尊寺)へでかけてきました。このお寺は、千曲川の左岸、御牧ヶ原台地の縁に立つ天台宗の古刹で、桜と紅葉の名所としても知られているところです。昨年はそのどちらの季節にもでかけていませんし、それ以外にもでかけた記憶がありませんので、久しぶりの訪問ということになります。
 千曲河畔の参道入口から、最大の見どころである観音堂まで、高低差が100m以上あり、階段もしくはそれに準ずる急坂が続きますから、大人の足でたっぷり20分はかかります。冬場は凍結している箇所もあるので、それなりの注意が必要です。山登りとまでは言えませんが、山登りのような気分は味わえますし、ちょっとした運動にはなるので、ポン太にとって、魅力的な場所の1つであることは間違いありません。
 葉が落ちているこの時季は、殺風景ではあるものの、周囲の山や岩壁がよく見えるので、どのような地形の場所なのかわかるというメリットがあります。懸崖づくりの朱色の観音堂がより一層高く見えますし、展望を妨げる樹木の葉がないので、観音堂の舞台に立った際の高度感は半端ではありません。ちなみに観音堂は江戸期のものですが、その岩屋内にある宮殿(くでん)は 鎌倉時代の正嘉2年(1258年)に造られたものということで、重要文化財に指定されています。
 布引観音は昔から有名な場所、というよりも昔のほうが有名な場所であったと言う方が正しいかもしれません。無信心の老婆が千曲川で布をさらしていると、一頭の牛があらわれ、角にひっかけて走り出したので、その後を追いかけていくうちに善光寺に至り、信仰に目覚めるという説話「牛にひかれて善光寺参り」の場所としてよく知られていたからです。戦前の一時期、小諸駅から参道の入口付近を通り、島川原に至る布引電気鉄道という電車も走っていました。
 今は訪れる人もそれほど多くはなく、とりわけこの時季は静けさが際立つ感じですが、そこがまたよいのだと勝手に満足し、冷えた身体を温めようと近くの温泉へ急いだポン太でした。


 ここが参道の入口。布引観音はこの山の上です。
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 参道入口の前には、かつてここを走っていた布引電気鉄道布引駅のホーム跡が残っています。貴重な遺構なので、ぜひこのまま保存して欲しいものです。
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 ここは霊場ですから、参道には多数の石仏や地蔵が並んでいます。こんな素朴で可愛らしい地蔵もあります。
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 冬季ならではの楽しみは、このような氷瀑がみられること。
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 岩の後ろには氷の芸術も
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 参道はこのような急坂の連続です。
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 「牛にひかれて善光寺参り」にまつわる場所ももちろんあります。これは善光寺に通じているといわれる「善光寺穴」。善光寺が火災にあった際には、ここから煙がでたそうな。
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 こちらは、牛が岩の中にあらわれているという「牛岩」。見えるような見えないような・・・。
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 沿道の石仏を寄進したのは、東京の商家のようです。かつては広域に参拝者を集めていたことがうかがえます。
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 今は通れない昔の山門から見上げた観音堂です。
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 その山門前の石柱等を寄進したのも東京の商人たち。八丁堀、北品川宿といった地名が読み取れます。布引観音の名は全国に鳴り響き、東京からも大勢の参詣者が訪れる、現代風にいえば人気のパワースポットだったのでしょう。
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 参道を登り切ると、眼前にあらわれるのが、懸崖づくりの観音堂です。こんなとんでもないところに、よくつくったものです。宗教心のなせるワザなのか。それとも現代人と同じような「目立ちたい」精神の発露なのか。
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 観音堂へいたる途中にも、たくさんの岩屋があり、その中にお堂がつくられています。前方の岩をくりぬいたトンネルを抜けた先が観音堂です。
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 六道地蔵の脇をぬけていきますが、やましい気持ちがあると、この前は通りにくいでしょうね。
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 観音堂の舞台から下を見るとこんな感じです。高所恐怖症の人は遠慮した方がよいかも。
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 観音堂からみた釈尊寺の本堂です。このまわりには桜の木が多く、春はすばらしい景色となります。
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 これは4年前の桜の季節に撮影したものですが、桜が咲くと雰囲気が変わります。
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 同じく桜と観音堂です。冬もよいですが、やっぱり桜も見たいですね。
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里山も雪あればこそ

2019/02/17 17:54
 すでに何度も述べましたが、今冬の浅間山麓は雪が極端に少ない状態が続いています。雪はきをする必要がなく、ウォーキングや低山歩きが楽にできるという点では、助かっているともいえるのですが、見た目が冬らしくないだけでなく、あまりに降水量が少ないと、植物に悪影響がでるのではないかと心配になってしまいます。
 雪の少なさのおかげではあるのですが、今年になってからすでに10回、平尾山に登ることができました。そのすべてが無雪状態での登山というわけではなく、雪を踏む場面も何度かありました。雪が残っていると、そこには無数の動物の足跡があり、その主を判定したくなります。冷え込みが厳しい日であれば、山頂部が霧氷になっていないか期待してしまいますし、白銀に輝く遠くの山々の展望も楽しみです。
思いがけぬ拾いものがありました。それは天蚕、すなわち野性の蚕(ヤママユガの繭)です。養蚕農家が育てる一般的な蚕(家蚕)の繭が白いのに対して、天蚕は薄緑色をしています。天蚕の糸は丈夫な上しなやかで光沢もあり、繊維のダイヤモンドとよばれることもあるそうです。これまで、地面に落ちているものをみかけることがあっても、ひどく汚れている場合が多く、拾う気になりませんでした。しかし、雪の上では比較的きれいなものを見つけることができます。図鑑で調べてみたところ、ヤママユガの一種、ウスタビガの繭であることがわかりました。
 それにしても、野性の蛾の繭から糸がとれることに気づき、自ら蚕を育てて、大量に紡ぐ技術を発展させた人間様のすごさ。世界遺産、富岡製糸場のルーツのそのまたルーツを手のひらにのせて、たいしたものだと感じ入ったポン太でした。

 うっすらと雪化粧した平尾山の登山道です。まだ誰の足跡もありません。動物の足跡すらありません。自分が今日最初の訪問者かと思うと何だかうれしくなります。怖いクマ注意の看板がこちらをにらんでいますが、いまはまだその心配はなし。
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 北斜面には雪が残っているところが多く、滑らないように慎重に進みます。
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 見上げると、パラダスキー場の上部が霧氷になっていました。
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 日当たりのよい尾根は雪が少なく快適な山歩きが楽しめます。
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 山頂の木々も霧氷になっていました。
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 山頂からの北アルプス大展望。まるで白い屏風を立てたようです。何度見ても感動します。
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 雪の斜面の下りには神経を使います。念のためアイゼンを持参していますが、今冬は一度も出番がありません。
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 帰路の谷筋には雪が残っているところがあり、動物の足跡をたくさん確認することができました。これはキツネでしょうか。
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 これは間違いなくウサギです。ウサギは後ろ足ではねるようにして進みますから、足跡が2つそろっているのが後ろ足の分、そろっていない(1つになっている場合が多い)のが前足の分です。むこうから、こちらへむかって走ってきたものと思われます。
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 足跡が2つずつそろっていて、歩幅がかなり長い。これはカモシカあるいはシカではないでしょうか。
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 何の足跡かさっぱりわからないものもあります。人の足跡のようにも見えますが、こんなところを裸足で歩く人などいるのでしょうか。むむっ、もしや雪男。そんなバカな。
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 雪の上でひろった天蚕(の繭)です。きれいな薄緑色をしています。
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 家に持ち帰り、一般的な繭(家蚕)と並べてみました。こんなに違うのですね。
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北恵那鉄道下付知駅〜忘れ難き終着駅(4)

2019/02/13 21:17
第4回 北恵那鉄道下付知駅(岐阜県)

 日本の鉄道に全部乗りたい、そんなことを考えはじめたころ、最初に目標としたのは国鉄線全線乗車でした。ベストセラーとなった『時刻表2万キロ』の著者である宮脇俊三氏も同じことを考えたようですが、その後の著作の中で、これは失敗であったという主旨のことを述べています。 ポン太も同感で、私鉄を優先すべきであったと思います。なぜなら、国鉄ローカル線の廃止が本格化したのは、1980年代に入ってからですが、ローカル私鉄はそのだいぶ前から廃線への流れが加速しており、国鉄に目をむけている間に、乗る機会を逸してしまった私鉄のなんと多いことか。
 そんな中で、幸運にも廃止直前に乗ることができた路線の1つが北恵那鉄道です。それは、岐阜県東濃地方の中心都市である中津川市(旧中津町)と木曽川の支流付知川沿いの恵那郡付知町(現在は中津川市域)とを結ぶ、全長(営業キロ)22.1kmの電気鉄道でした。画像
 この鉄道の建設には福沢諭吉の娘婿である福沢桃介が深く関わっています。桃介が力を注いだ事業の中心にあったのが、木曽川水系における電源開発(水力発電所の設置)でした。木曽川本流の大井発電所(大井ダム)の建設により、付知川流域からの筏による木材搬出ができなくなるため、その代替輸送手段として、この鉄道の建設が必要になったのです。大井発電所の竣工年と同じ1924(大正13)年8月5日に、中津町〜下付知(しもつけち)間を開業し、桃介自ら社長に就任しています。1937(昭和12)年には、終点の下付知で接続する付知森林鉄道が敷設され、北恵那鉄道は木材輸送に大いに役立ったものと思われます。
 しかし、1959(昭和34)年に森林鉄道は廃止され、高度成長期以降、モータリゼーションの進行とともに利用客も減少。元々沿線人口が多い地域ではなかったこともあり、厳しい経営を余儀なくされたことは想像に難くありません。
 ポン太が訪れたのは、1978(昭和53)年8月24日です。同線の廃止は同年9月18日ですから、かろうじて間に合ったといえましょう。国鉄中央西線の中津川駅で下車し、北恵那鉄道に乗り換える際に、興味深かったのは、同線の起点駅が国鉄駅からはだいぶ離れた中央線の線路の反対側にあり、駅名も昔の町名の中津町を名乗っていたことです。地方私鉄の場合、国鉄線のホームの片隅から発着するようなケースが多いのですが、堂々とした自前のターミナルを有し、国鉄駅とは異なる名称を堅持していたことに、ある種の感動を覚えました。
 駅の佇まいも年季の入った車両も、ローカル電車のイメージそのもの。道床に雑草が生い茂り、その中をかき分けるようにして走るところもあり、文字通り草深い路線でした。それは、厳しい台所事情の証でもあったわけで、ガタンゴトンとよく揺れる電車に乗って、終点の下付知駅に到着した時には、この時代(1970年代末)までよくがんばりましたね、長い間ご苦労様でしたと、頭を下げたい気持ちになったポン太でした。

 北恵那鉄道の起点、中津町駅です。このような立派な駅舎でした。(1978年8月24日撮影、以下同様)
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 中津町駅のホームに停車している7:03発の下付知行一番電車です。電車が走るのは朝夕のみで、この電車の次はなんと16:15。その後4本の電車がありますが、日没後になってしまいます。なんとしてもこの電車に乗らねばと、長野発の夜行列車で朝4時に中津川駅に着き、駅待合室で待機していたのです。
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 途中の並松駅で上り電車と交換しました。どこに線路があるのかわからないほど雑草が繁茂しており、ローカル電車の悲哀を感じてしまいました。中津町から乗車した電車(デ563)もこの電車(デ565)も、名鉄から譲り受けた電車です。
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 終着駅下付知駅に着いた電車です。構内は広く、貨物輸送が盛んだった時代を偲ばせます。
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 下付知の駅舎も予想外に大きなものでした。付知町の中心部からは少し離れた場所にあり、延伸を予定したもののかなわなかったということです。
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 北恵那鉄道の車内補充券です。中津町〜下付知の所要時間は53分、運賃は420円でした。
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可愛いわら馬ひき

2019/02/10 22:27
 何もかも、すべてが可愛らしい伝統行事を見てきました。それは、真田の里(上田市真田町)の戸沢という集落に伝わる「ねじ行事」です。「ねじ」というのは、米粉でつくった蒸し餅に彩色をして餡を入れ、花や動物の形に仕上げたもの。それを道祖神に供えるという行事ですが、前年に子供が生まれた家では、祭の前日に親類縁者が集まり「ねじ」をつくってお祝いするということです。
 道祖神へのお供えの仕方に特色があります。家毎にわら馬をつくり、その背中に「ねじ」を背負わせて台車に乗せ、それを子供たちが曳いて道祖神へとむかうのです。その何ともいえない可愛らしさ。道祖神に「ねじ」を供えて無病息災を祈るだけでなく、母親たちは重箱に入れて「ねじ」を持ち寄り交換します。お互いの子供の成長を願うというわけです。
 この「ねじ行事」のように、一般には知られていなくても、小さな集落に引き継がれている伝統行事の中には、思わず微笑んでしまったり、驚いたり、感心したりするものが少なくありません。しかし、それを実際に見たり体験したりするのはかなり大変です。テレビや新聞で報道されることがあっても、その時点ではすでに「後の祭」。どうすれば事前にその情報をつかむことができるのでしょうか。
 今回は、たまたまネットでその写真を見たことがきっかけでした。市のホームページでも詳しいことはわからず、地元の公民館に問い合わせて、ようやく開始時刻や正確な場所を知ることができました。
 そんなわけで、当該地域外から見に来ていた人はごく僅か。もったいないと思う反面、観光行事化していないからこそ、間近に見ることができ、感じるところが多いともいえます。やはり、地域の地域による地域のための行事であることが、その内容を変質させず、長く続けていられる理由かもしれません。
 ふだん見ることができないものを見ると、ぞくぞくワクワクするようなところがあります。チコちゃんも言っていました。高齢になるほど月日の経つのがはやいと感じるのは、子供の頃と比べて「ときめき」が少ないからだと。確かに、思う存分徘徊し、目新しいものを見つけて気分が高揚した日は、一日が長く感じられます。そうだ、そのとおりだ、徘徊は金、家でのんびりは糞だ、と宣言し、今度はポン子に叱られたポン太でした。


 この行事が行われた戸沢集落の入口です。戸沢は、猿飛佐助の師匠である甲賀流忍術の達人、戸沢白雲斎が住んでいた場所ともいわれています。地名の表示板には当然のことながら真田の六文銭が描かれています。
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 わら馬をひいて、子供たちが出てきました。準備はいいかな。
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 ひく方もひかれる方も可愛いらしいわら馬ひきです。
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 晴れ着を着て道祖神へむかう家族もいます。
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 がんばれ、あと一息だ。
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 道祖神の近くまでやってきました。
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 道祖神に到着です。
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 「ねじ」を供えて無病息災を祈ります。
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 道祖神に供えられた「ねじ」。これまた可愛いらしいですね。
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 お母さんたちは、お互いの子供の成長を願い、持ち寄った「ねじ」を交換します。
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 子供はおんぶにだっこ。親にひかれていくわら馬も。
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 家にもどるわら馬たち。この後、わら馬は屋根に放り投げられます。わら馬が災厄を背負って天にのぼってくれるからだとか。
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夕陽はマジシャン

2019/02/07 09:53
 かつて大阪〜札幌間に、「トワイライトエクスプレス」という名の寝台特急列車が走っていました。日本海の夕景を堪能できるというのがウリで、ポン太も一度は乗ってみたいと思っていたのですが、実現しないうちに廃止されてしまいました。
 旅先で見る夕景ほど心に染みるものはありません。豪華列車ではなくても、列車の車窓からみる夕景は最高のごちそうのような気がします。太陽が大地を朱に染めながら沈んでいく。その燃えるような一瞬が過ぎると、山の端がシルエットとなって浮かびあがります。次第にあたりは暗くなり、小さな集落の家々の窓に、ぽつりぽつりと灯りが点り始めます。そのうちには道路も畑も見分けがつかなくなってきます。所々にある街灯の下だけがぽっと明るくなっていて、人影がみえたりすると、この土地の人たちはどんな暮らしをしているのだろうか、などと想像してしまいます。
 黄昏時は寂しくていやだという人もいますが、ポン太にとっては、このトワイライトタイムこそ至福の時間といっても過言ではありません。雪のある場所でのトワイライトシーンはとりわけ印象深く、半世紀も前になりますが、冬の北海道を蒸気機関車のひく普通列車で旅した際、雪原に沈む夕陽と機関車の吐き出す煙のシルエットに感動したことが、今も忘れられません。かの啄木も「うす紅く雪に流れて入日影 曠野(あらの)の汽車の窓を照らせり」と歌に詠んでいます。辺境の地釧路へむかう車中の歌であり、悲しみと希望の入り交じった心境を重ねあわせたものといわれています。
 先月末、浅間山麓にようやくまとまった雪が降ったということをブログに書きました。その後もう一度積雪があり、きれいな雪景色となったので、日没間近な時間にウォーキングにでかけました。林も山も水辺も、夕陽に照らされると、ふだん見ているものとはまったく別物に変身です。雪が舞台芸術家だとすれば、夕陽はマジシャンと言うことができるかもしれません。
 わが家のまわりで見た、印象的なシーンをいくつかご紹介したいと思います。


 陽が傾いてきました。いざ、ウォーキングへ。
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 夕陽を浴びた水辺。いつもと違った雰囲気です。
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 落葉松林のむこうに、陽が沈もうとしています。
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 浅間山も夕陽に紅く染まっています。
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 中山道も黄金の道に変身です。
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 いよいよ日没です。ここはふだんはなんということのない空き地で、バスの廃車体が置いてあったりするのですが、雪と夕陽が別世界に変えてくれます。
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 わが家の西方、美ヶ原に沈む夕陽です。
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 陽が沈んだ後の山のシルエットも見応えがあります。浅間山麓のテレビの電波は、すべてこの美ヶ原から送信されてきます。目を凝らすと、山頂に電波塔が林立しているのがわかります。
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 落日の余韻。シルエットになった木々の雰囲気もよく、いつまでも眺めていたい気分になります。
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 ここまで暗くなると、さすがに寂しさの方が勝ります。身体も冷えてきました。そろそろ引き上げるとしましょう。
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 ※このところの気温上昇で雪が溶けてしまい、残念ながら現在は上記のような状況ではありません。
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浅間山麓のスゴすぎる節分事情

2019/02/03 19:08
 「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうですが、何かを達成したという実感もないままに、1月はあっという間に過ぎ去り、今日は節分。子供たちが小さかったころは、わが家でも毎年ささやかな「豆まき」をしていましたが、その後はとんとご無沙汰です。有名な寺社で芸能人が「豆まき」をしている姿をテレビのニュースで見て、「へぇー、そうか今日は節分か」と意識するだけで、自らアクションを起こすことなどありませんでした。
 ところが、信州の節分事情を知るにつれ、これは結構な地域イベントではないかと興味をそそられました。盛大な「豆まき」をする寺社がすこぶる多いのです。それも単に豆をまくのではなく、殻付きピーナッツやチョコレート菓子といった食べ物から軍手、スポンジのような日用品に至るまで、何でもまきまくる(投げまくる?)。それをゲットしようとするジイバアが、ビニール袋を手に大フィーバー。そんなことを聞けば、その様子をちょっと覗いてみたくなります。
 節分といえば、地元スーパーのツルヤも本日限りの「節分だるま福引」を開催。2000円以上購入すれば、空くじなしで景品が当たるというもので、今年で54回目という恒例行事です。当選確率が半分以上もある4等でも「福だるま」が貰えます。ただし、景品が終わり次第終了ということなので、いつもよりはやい9時の開店時から買い物客が続々入店。ポン太もそれに加わり、無事「福だるま」をゲットしました。
 「豆まき」の方は、どこの寺社へ行くべきか迷ったのですが、できるだけ賑やかなところがよかろうと、ぴんころ地蔵で有名な佐久市野沢の成田山薬師寺へ出かけました。その狙いは的中。日曜日と重なったこともあり、大勢の家族連れが境内を埋め尽くしていました。子供たちという強敵を前に、ジイやバアもヒートアップ。そのパワーとテンションの高さをみれば、ぴんころ地蔵などお参りしなくても大丈夫ですよ皆さん、と言いたくなってしまったポン太でした。


 これがツルヤの折り込み広告の一部です。同店のイベントは、抽選とはいっても、ゲットできる可能性の高いものが多いので、出かけてみる価値が十分あります。ちなみに、わが家の部屋に飾ってある観葉植物は、すべて同店のイベントでいただいたものです。
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 9時の開店時には、すでに駐車場はクルマでいっぱい。今日は朝から良く晴れて、浅間山がきれいに見えました。
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 ツルヤの福だるまを飾り、恵方巻きでランチとしました。
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 午後はいよいよ野沢の成田山へ。「ぴんころ通り」を歩いて成田山へむかいましたが、誰一人歩いている人はいません。本当に節分のイベントがあるのだろうかと不安になります。
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 成田山の参道に入るとようやく人が現れました。おっ、結構来ているじゃないか。
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 これが近年人気抜群のぴんころ地蔵です。ツアーバスまで立ち寄るそうです。
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 境内に入ると、あっとおどろく人また人。
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 子供たちも、ビニール袋を手にスタンバイです。
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 待つことしばし、「豆まき」が始まりました。なんと同時に三ヵ所からです。あまりに種類が多すぎて、何が空中を飛んでいるのかよくわかりません。
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 トイレットペーパーやサンダルもまかれているようです。
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 マスクを飛ばしてナイスキャッチ。大物をゲットしたようですね。おめでとうございます。
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 戦利品を手に成田山を後にするジイバアたち。みんなよく捕るものですね。
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 さて、ポン太たちの戦利品はといえば、この8点。まあまあの成果ではないでしょうか。ツルヤのだるまの弟分のような小さなダルマもゲットし、満足しました。それにしても、この内容はほとんど日用品。これって、「豆まき」なのでしょうか。ゲットできたのですから文句は言いませんが・・・。
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雪あればこそ

2019/01/30 19:06
 この冬、浅間山麓は極端に雪が少ない状態が続いておりましたが、先週末にようやくまとまった雪が降りました。積雪は数センチといったところでしたが、冬らしい景色にはなりました。
 雪化粧とはよく言ったもので、殺風景だった森や野原が、あっという間にメルヘンのような世界へ変身してしまう面白さ。この大変貌には、森の動物たちも浮かれてしまうようです。窓から雪景色を眺めていたポン子が「あれっ、キツネが遊んでいる!」と大騒ぎ。部屋の奥の方にいたポン太にはキツネの姿は見えませんでしたが、裏庭から森の方へと続くそれらしい足跡がありましたから、キツネが現れたことは間違いなさそうです。雪上の足跡から、どんな動物が徘徊したのか想像して楽しむことができるのも雪あればこそです。
 雪がやみ、日差しが出てきたところで、ウォーキングに出かけました。クルマの通行量が多いところは、雪が踏み固められてツルツルになっていたりするので要注意ですが、林の中の雪の小径を歩くのは、本当に気持ちがよいものです。いつも歩いている場所なのに、まったく違う世界に来たような気がして、飽きることがありません。浅間山も、水辺の景観も、雪があるとないとでは大違いです。
 浅間山麓がいわゆる「雪国」ではないからこそ、こんなのんきなことを言っていられるわけですが、同じ信州でもメートル単位で雪が積もり、その対策に悩まされている北部(北信地方)の人たちからは、ふざけるなとお叱りをうけるかもしれませんね。申し訳ないとは思いつつ、久々の雪景色に熱くなってしまったポン太でした。

 ポン太の森も雪化粧しました。
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 この足跡は?キツネだと思うのですが・・・。
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 まずは家の近くの雪道を抜けてウォーキングへ。幹線道路以外はこんな感じです。
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 ここは中山道。クルマが圧雪状態にしたところが少し溶けてから凍ると、このようなツルツル状態になってしまいます。歩くのも怖いのですが、クルマの方だって、急ブレーキでもかけようものなら大変なことになりますね。
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 森の中に入るとほっとします。クルマの来ない雪道散歩は快適そのものです。
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 風が吹くと雪が舞い上がり、そこに陽が差し込むと、きらきら輝いてまるでダイヤモンドダストのよう。
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 国木田独歩の「武蔵野」ではありませんが、道に迷うことをためらうなという気分になります。この角はどちらに行っても雰囲気がよさそう、左かな、それとも直進かな・・・。
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 生け垣にできた氷柱も目を楽しませてくれます。
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 水辺も雪があると雰囲気が違います。散歩に出てきた人も多いようで、雪の上には足跡がいっぱいです。
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 麓に雪があると浅間山も一段と輝いてみえます。
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勝田線筑前勝田駅〜忘れ難き終着駅(3)

2019/01/27 09:08
 第3回 勝田線筑前勝田駅(福岡県)

 子供のころ(60年も前の話ですが)、小学校の社会科の教科書に必ず載っていたのが、石炭産地の分布図でした。当時、石炭はまだエネルギーの主役の地位にあり、教室のストーブにも石炭が用いられていましたから、その産地に関する知識は、小学生にとっても必須のものだったわけです。九州の北部に産出量の多さを示す大きな黒丸がたくさんついていたのが印象深く、どんなところだろうかと、興味をもちました。画像
 残念ながら、九州はあまりに遠く、石炭産業全盛時にその地を訪れることはできませんでしたが、その名残の鉄道路線には、いくつも乗車することができました。今回とりあげた勝田線もその1つです。勝田線は鹿児島本線の吉塚(博多駅の隣)駅と筑前勝田駅を結んでいた13.8kmの路線です。開業時は筑前参宮鉄道という私鉄で、1919(大正8)年5月20日に全通(前年の9月19日に宇美〜筑前勝田間は貨物線として開業)しています。1942年に西日本鉄道(西鉄)に統合された後、1944(昭和19)年5月1日、戦時買収により国鉄勝田線となりました。
 沿線の糟屋(かすや)郡一帯には、かつて大小50以上の炭鉱があり、糟屋炭田とよばれていました。とりわけ規模が大きかったのが志免(しめ)炭鉱(志免鉱業所)と三菱勝田炭鉱です。前者は国有の炭鉱で海軍艦艇の燃料を確保するために開発され、戦前は海軍の管轄下にありました。戦後は国鉄の管轄となり蒸気機関車の燃料等に用いられました。エネルギー革命の進展により、前者は1964年、後者は1963年に閉山。志免鉱業所には、全国最大規模といわれた大型竪坑櫓(1943年竣工)があり、2009年に国の重要文化財に指定されています。
 ポン太が勝田線に乗車し筑前勝田駅に降り立ったのは1976(昭和51)年7月31日ですが、実はこれには前段があります。その3年前の1973年8月25日、香椎線に乗車した際に、宇美で乗り換えて筑前勝田まで行き、折り返して吉塚へ向かおうと考えました。これなら1回で両線に乗ることができるからです。ところが、なんとその前の月に発生した集中豪雨被害により勝田線は不通になっており、乗車はかないませんでした。復旧には1年以上かかったということで、それから3年後の再訪でようやく乗車できたというわけです。
 勝田線の列車本数は、一日7往復(うち1往復は土日のみ運転)。ほかに吉塚〜志免間には平日のみ運転の区間列車が1往復があったものの、運転間隔が開きすぎて使い勝手の悪い路線であったことは間違いありません。1985(昭和60)年4月1日に廃止となりました。
 路線の廃止後に、一度、現地を尋ねたことがあります。2011年秋のことですが、筑前勝田駅跡だけでなく志免町の志免鉱業所竪坑櫓などを見て回りました。かつての沿線エリアは福岡都市圏の近郊住宅地として発展しており、福岡市内とを結ぶ路線バスが頻繁に行き交っていました。もし勝田線が大都市近郊路線と位置づけられ、それなりの方策が講じられていれば、存続できた可能性がないとはいえません。財政再建問題に苦しんでいた当時の国鉄の余裕のなさ、無為無策を想起させるという点でも、ポン太にとって忘れ難き終着駅なのです。


 ありし日の筑前勝田駅です。停車している車両はキハ20439、土日運転の6829D列車(折り返して6830D列車となる)です。朝夕には客車列車(ディーゼル機関車牽引)が運転されていたので、機回し線があります。(1976年7月31日撮影)
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 道路より低い位置にあった筑前勝田駅駅舎です。この雰囲気からすると、筑前参宮鉄道として開通して以来の駅舎だったのかもしれません。(上に同じ)
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 かつての筑前勝田駅跡です。小公園になっていました。駅跡を示すものは何もありませんが、地形と周囲の山々の形から、ここで間違いなさそうです。(2011年11月21日撮影。以下同様)
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 勝田線からも見ることができた志免鉱業所の巨大な竪坑櫓です。高さはなんと47.6mもあり、国の重要文化財に指定されています。現存するものは、世界でも、こことベルギーのブレニー、中国の撫順しかないということですが、建築年代が比較的新しい(1943年竣工)ことから、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成要素とならなかったのが残念です。
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 勝田線志免駅の跡地は「志免鉄道記念公園」として整備されていました。後方に竪坑櫓が見えます。
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 志免駅ホームの跡です。中央部を道路が横切っていますが、駅の雰囲気は感じます。
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 石壁にはめ込まれていた志免駅の写真です。廃止直前のようで、ホームに大勢の人がいます。
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 廃線跡のかなりの部分が遊歩道化されていました。
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厳冬の軽井沢を歩く

2019/01/23 22:25
 浅間山麓では、年が明けてからもずっと雪の無い状態が続いています。いつもの年ですと、アイスバーンと化した道を、恐る恐る歩かなければならないのですが、今のところ、どこでも普通にウォーキングをすることができます。寒さは厳しいものの、防寒着さえあれば、歩きやすいことは間違いなく、先日は、旧軽井沢から碓氷峠往復のウォーキングを楽しんできました。
 クリスマスシーズンとは異なり、さすがにこの時季に軽井沢を訪れる人は少なく、旧軽銀座ですら人影はまばらです。別荘エリアや碓氷峠へ通じる遊歩道で、人に出会うことはまずありません。聞こえてくるのは風の音のみという静かな軽井沢。古くからの在住者に聞くと、この季節が一番よい、一番好き、と答える人が多いそうです。
 葉を落としている木々の間から、浅間山をはじめ周囲の山を見渡すことができるのも、この季節ならでは。クマの心配もなく、安心して歩いていられるというメリットもあります。花も緑も紅葉もなく、殺風景といえば殺風景ですが、「静寂」に価値を求めるなら、確かに軽井沢はこの季節が一番といえるかもしれません。
 
 旧軽井沢のロータリーも閑散としており、人影はありません。
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 旧軽銀座も歩いている人は数えるほどで、夏の賑わいがウソのようです。
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 旧軽銀座からショー記念礼拝堂へむかう旧道(中山道)もごらんのとおり、誰も歩いていません。
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 碓氷峠へむかう遊歩道沿いの川は半分凍っていました。
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 夏は森の中をひたすら登るといった感じの遊歩道ですが、葉が落ちているこの季節は、まわりの風景がよく見えます。
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 樹間から顔をのぞかせた浅間山が背中を押してくれます。
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 誰もいない碓氷峠の見晴台。雄大な景色を独り占めです。 
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鉄道唱歌に「鉾か剣か鋸か 獅子か猛虎か荒鷲か 虚空に立てる岩のさま」とある妙義山ですが、まさにそのとおりの眺めです。
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 見晴台からみた浅間山です。南麓のポン太の家から見る浅間山とは、だいぶ形が違います。
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 別荘地内の道も静まりかえっていて、人の気配はありません。これを寂しくていやだと感じるか、静かで安らぐと感じるか、後者であれば、軽井沢は冬が一番ということになります。
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 冬の軽井沢といえばスケート。これは野鳥の森に隣接する天然氷のケラ池スケートリンクです。スケートを楽しんでいる人の姿をみると、ちょっとやってみたくなりますね。滑れるのかって? 大丈夫、入試以来滑るのは得意のポン太ですから。
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山城を攻略〜砥石、米山、枡形城

2019/01/21 00:14
 体力なし、技術なし、気力なしの古ダヌキにとって、冬場に山歩きが可能なのは低山のみ。同じ山ばかりではさすがに飽きてしまいますので、できればまだ足を踏み入れたことのない山に登りたいもの。しかし、浅間山麓とその周辺の山は、ほぼ行き尽くしていますから、この時季に登って面白そうな低山はなかなか見つかりません。そこで目を付けたのが山城です。戦国時代の山城は、実戦に備えて険しい山の頂につくられていることが多いので、史跡めぐりを兼ねた山歩きが楽しめるのではないかと考えました。
 上田市近郊の伊勢山という地区に、砥石(といし)城という山城があります。地形図によれば、山の標高は788.7m、頂上には三角点が置かれています。戦国時代の歴史が好きな方ならご存知と思いますが、砥石城を攻略しようと攻め寄せた武田信玄が大敗し、「砥石崩れ」などといわれている戦い(天文19年=1550年)が行われた場所です。単独の山城ではなく、すぐ隣の峰には米山城があり、砥石城から尾根伝いに北へ進むと、「本城」と枡形城があります。これら一群の山城によって、強固な山岳要塞が形成されていたのです。麓の集落と最高地点である枡形城の比高は約200mありますし、すべての城跡を見て回るとおよそ2時間の行程となりますので、それなりの山歩きができます。
 ここを守っていたのは、葛尾城(現在の坂城町)を本拠地とする豪族、村上義清配下の諸将でした。実際に歩いて見れば、この山城を正攻法で攻め落とすのは至難だということがよくわかります。しかし、「砥石崩れ」の翌年、信玄の命を受けた真田幸隆(昌幸の父であり、幸村の祖父)の調略によりあっけなく陥落してしまいます。「乗っ取り」ともよばれるこの戦功で、幸隆は信玄の信頼を得、武田の有力な家臣になったということです。調略、謀略、寝返り等、何でもありで戦国の世をしぶとく生き抜いた真田一族。その戦いの原点がここにあったのかと思うと気分が高揚します。
 ちなみに、砥石城陥落の2年後、武田勢に攻められて葛尾城を追われた村上義清が、越後の上杉謙信に助けを求めたことから、あの有名な川中島合戦が起きたわけです。義清は落城寸前の葛尾城から奥方と侍女たちを逃がしました。その一行が千曲川を渡ろうとした際、危険を顧みずに船を出してくれた船頭に感謝し、船賃のかわりに、髪に挿していた笄(こうがい)を与えたと伝えられています。そのことから、「笄の渡し」という名がついたという話を、ポン太は子供のころに、(現在の千曲市出身の)父親から何度も聞かされました。そんなことから、この地の戦国時代がとても身近な気がしていたので、この山城めぐりは、単なる山歩き以上に楽しいものとなりました。

 砥石城南側の櫓門というところから入山しました。駐車場、トイレが整備されていて、立派な案内板もありました。これはその一部ですが、砥石城というのが、単独の山城ではなく、いくつもの山城で構成されたものであることが、よくわかります。
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 登山道の入口にはこんな石碑が。登ってみれば、確かに「なめんなよ!」です。
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 登山口の櫓門はまったくのイミテーションですが、山城に登るぞという気分にはさせてくれます。
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 登山道から見上げた砥石城です。美しい松林に囲まれています。
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 最初にむかったのは米山城。頂上直下には滑りやすい箇所もあり、なめてかかると痛い目にあいます。
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 米山城跡に立つ村上義清公の碑です。武田信玄を二度も撃退した英雄として、敵味方の違いはあれ、真田一族とともにリスペクトされています。
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 米山城の標高は734m。この一帯の山城群の中では最も低いのですが、見晴らしは抜群で、敵の動きが手に取るようにわかったのではないでしょうか。天気がよければ富士山も見ることができるようです。
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 米山城跡からみた槍ヶ岳です。
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 米山城跡から一旦鞍部の分岐までもどり、砥石城跡へむかいました。ここはかなりきつい登りです。
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 砥石城跡です。米山城と比べると狭い感じがします。
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 標高が高い分だけ、遠くまで見通せます。景観図や「関東の富士見百景」の標柱が設置されていました。
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 砥石城跡から北へ尾根伝いにしばらく進んだところが本城(本丸にあたる場所)跡。石垣やから堀の跡などがみられ、城跡らしい雰囲気が漂っていました。
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 最も標高の高い場所(830m)にあるのが、枡形城跡です。
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 枡形城跡からは、御屋敷や真田本城など、「真田の里」が一望できます。
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 帰りは大手口とよばれる東側へ下りました。陽泰寺という大きなお寺があり、そこは、真田一族の本家、海野氏の菩提寺だということです。
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 伊勢山の集落を抜けて、櫓門前の駐車場にもどりました。伊勢山は、真田が砥石城を支配するようになってから誕生した城下町だということで、趣があります。砥石城は、その麓にもみどころがたくさんあり、山歩き+αが楽しめます。
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 櫓門付近で面白いものをみつけました。一見したところバス停のようなのですが、時刻が書かれていません。通りかかった地元の方に聞くと、この場所がアニメ映画「サマーウォーズ」の舞台となったことに因んで設置されたものだということです。つまりフェイク。本物のバス停だと信じて、ここでバスを待つ観光客がいたら困りますね。そんな間抜けはポン太ぐらいだろうって? そうかなぁ・・・。
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日中線熱塩駅〜忘れ難き終着駅(2)

2019/01/17 22:02
第2回 日中線熱塩駅(福島県)
 ラーメンと「蔵の町」で知られる福島県喜多方市。現在の喜多方駅は、磐越西線の途中駅に過ぎませんが、かつてはそこから分岐して北方の熱塩に至る11.6kmの盲腸線がありました。それが日中線です。
 初めてこの線に乗車したのは、1971(昭和46)年正月の家族旅行の折です。終点の熱塩駅から徒歩数分のところに熱塩温泉があり、そこが旅の目的地でした。宿泊したのは笹屋本館という老舗の純和風旅館。熱塩という名のごとく、湯は熱くしかも塩分が濃いので身体がよく温まったことを覚えています。画像
 この温泉に行くのに日中線の列車を利用する人は、ほとんどいなかったと思います。なぜなら、列車本数が一日たったの3往復と少なく、日中線という線名とは裏腹に、日中は列車がまったくないというダイヤだったからです。
 喜多方発6:12が始発で、その次は10時間後の16:04、最終が18:25でしたから、東京を朝出発し、夕食前に旅館にチェックインするには、16:04発の623列車を利用する以外に選択肢はありません。623列車を牽引していたのはC11形蒸気機関車(C1164)。乗車した客車は、背ずりが板張りのオハフ612520でした。残念だったのは、冬場のこの時間帯ですと、終点の熱塩に着くころにはすっかり暗くなってしまい、ほとんど景色が見えなかったことです。撮ることができた写真も、途中の会津加納駅に停車中の1枚のみ。帰路は、バスを利用せざるを得ず、なんとなくすっきりしない乗車体験となりました。
 やはり全線の風景を目に焼き付けておかねばと、それから11年後の1982年春に、もう一度乗りに出かけました。蒸気機関車の時代は去り、機関車はディーゼル(DE10)に替わっていましたが、客車は同じタイプでしたから、硬い背ずりの感触とローカル線旅情を満喫することができました。同線が廃止されたのは、その2年後の1984年4月1日です。
 それにしても、どうしてこのような路線が敷設されたのか、なぜ日中線という名前だったのか、そんな疑問をもたれる方が多いのではないでしょうか。建設の根拠となったのは、1922(大正11)年に公布された(改正)鉄道敷設法です。その別表の予定線の中に、「山形県米沢ヨリ福島県喜多方ニ至ル鉄道」が含まれていたからです。明治時代から、栃木県の今市と米沢を結ぶ野岩羽線(下野―岩代―羽後)構想があり、それを引き継いだものでした。完成すれば、東北本線の西側にもう1本、東北縦貫線ができあがるという夢のような話です。
 1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、その翌年以降、国鉄の新線建設工事は中止もしくは繰り延べを余儀なくされます。そんな中で、完成間近なところだけは工事が継続され、1938(昭和13)年8月18日、喜多方〜熱塩間が開業に至ったというわけです。 線名は、熱塩から4キロほど先にあった日中温泉(現在はダム湖の底に沈んでおり、昔とは別の位置に同名の温泉が再建されています)に由来します。上記の野岩羽線構想の実現を目指すなら、「岩羽(南)線」のような線名をつけてもおかしくないはずですが、想像するに、現実的にみて米沢への延伸は困難なので、せめて日中温泉までは延伸開業させたい、という思いがあったのではないでしょうか。


 初めて日中線に乗車した際に会津加納駅で撮影した写真がこれです。この機関車(C1164)は、喜多方〜会津村松間の廃線跡に保存されていて、今も見ることができるそうです。終点の熱塩駅には転車台がなかったので、下りはバック運転、上りは正方向での運転でした。(1971年1月1日撮影)
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 終着駅の熱塩です。到着するとすぐに機関車を切り離し、先頭(喜多方側)につけかえます。これはちょうどその連結が終わり、上りの624列車となった状態です。(1982年3月26日撮影。以下同様)
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 これは北側から熱塩駅を見たところです。右側が機まわり線(機関車を反対側につけかえるのに用いる線路)です。
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 駅のまわりは、このようなのどかな雰囲気でした。
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 客車はオハフ61とオハ61の二両編成。数人の乗客がいましたが、いずれも、この線に乗ること自体を目的とした人のようでした。通学の高校生(この日は春休み中なのでいませんでしたが)以外、日常的に利用する一般の乗客はほとんどいなかったのでしょう。この何のクッションもない板の背ずりがずらりと並んだオハフ612528の車内風景、ポン太には涙が出るほど懐かしいものですが、今の若い人たちはどう思うでしょうか。「これって、日本の鉄道ですか?」と言われてしまうかもしれませんね。
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遠い日の記憶で大成功の甘酒づくり

2019/01/14 09:40
 テレビの健康番組などで、老化を防ぎ美容と健康に絶大な効果を発揮する食品として紹介されることが多いのが甘酒です。「飲む点滴」といわれるほどの実力の持ち主だそうですが、効能はともかく、冬の寒い日に、ちょっと飲みたくなるものであることは間違いありません。時々、市販されているものを買ってきて飲んではいるのですが、当たり外れが結構あります。自分でつくってみたらどうだろうか、ふとそんなことを考えました。
 甘酒の原料は糀(こうじ)と米。佐久地域は酒どころであり、味噌や醤油を手造りする人も多いので、糀(こうじ)は身近な存在です。スーパーでも簡単に入手できます。ネットでレシピを探したところ、どうやら炊飯器利用が一番簡単そうです。めんどうな温度管理を炊飯器がやってくれるからです。そこで、まずはそれを試してみました。結果は不成功ではないものの、ベタベタした感じで、望んでいたものとはだいぶ違っていました。
 思い出したのは、遠い昔、母親がこたつの余熱で甘酒をつくってくれたことです。糀をうまく発酵させるには温度を60度に保つ必要があるというのですが、こたつの中で、それほど厳密な温度管理ができていたとは思えません。糀も生き物ですから、ある程度の温かさ(40度以上?)を維持できれば、それなりにがんばってくれるのではないかと考えました。わが家にはこたつが無いので、湯たんぽを熱源にして、上から毛布をかぶせ、ひと晩放置しておくという方法をとったところ、おどろくほど美味しい甘酒ができました。これはもう甘酒は手造りに限る、そう確信したポン太でした。


 道端でこんな看板を見ると「こうじ」を使ってみたくなります。
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 今回用いた糀は、スーパーで売っていた安曇野産です。パッケージが気に入ってこれにしました。
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 1合のご飯を鍋に入れ、水を加えて加熱し、五分がゆ状態にします。
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 およそ200gの糀をボールに用意しました。
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 ご飯が60度ぐらいまで冷えたところで、糀を加えてよくまぜます。
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 湯たんぽ(のケース)の上に鍋を置き、その上から毛布をかけてひと晩寝かせます。
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 12時間後、鍋のフタを開けてみると、甘酒ができていました。甘さは十分です。あとは、発酵を止めるために加熱すれば完成です。
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 できたばかりの甘酒を朝食のホットケーキにのせてみました。マイルドな甘さで美味です。トーストでもよいかもしれません。
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 プレーンヨーグルトにトッピングしてみました。ヨーグルトの酸味とよく合います。自家製のアサマブドウ(クロマメノキ)のジャムを加えると、ちょっとしたスイーツです。
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 水で二倍程度に薄め、加熱して飲む定番の甘酒が美味しいことはいうまでもありません。すり下ろしたショウガを少し加えると、味が良いだけでなく身体が温まります。氷点下のウォーキングから帰った後に飲めば、生き返ったような気分になること請け合いです。
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白糠線北進駅〜忘れ難き終着駅(1)

2019/01/09 23:55
 浅間山麓の冬の夜、星空はプラネタリウムのようにきれいですが、底冷えのする寒さの中、出歩ける場所はほとんどありません。長く寒い夜をネガティブにとらえれば、「こんなところに住んでいられるか」となりますが、ポジティブにとらえれば、「暖房の効いた部屋の中で、落ち着いて読書や資料整理に取り組めるチャンス」ともいえます。
 この冬こそなんとかせねばと思っていることの1つが、古い写真の整理です。劣化が心配なフィルムをデジタル化し、タイトルやデータをつけて検索しやすいようにするといった作業ですが、結構な手間がかかります。おまけに、フィルムのひとコマひとコマには、それを撮影した時の思い出がありますから、ついつい感慨にふけってしまい、作業は遅々として進みません。それでも、懐かしいシーンがパソコン画面に少しずつ甦ってきていますので、それらを利用した連載企画を始めることにしました。題して「忘れ難き終着駅」です。

 第1回 白糠線北進駅(北海道)
 白糠(しらぬか)線というのは、根室本線の白糠駅から分岐し北進(ほくしん)駅に至る33.1キロの盲腸線(行き止まりの路線)です。国鉄末期、利用者の少ないローカル線は赤字の元凶とみなされ、1980年のいわゆる「国鉄再建法」の成立により、次々と姿を消していきました。白糠線は同法施行後の特定地方交通線廃止第1号となった路線です。画像
 白糠線には一日僅か3往復の列車しか運転されておらず、極めて乗りにくい路線の1つでした。白糠発の始発は6:38、その後は13:50、そして17:40発が最終です。札幌方面からは夜行列車を使っても始発には間に合いません。そこで札幌発7:05の急行「狩勝1号」で白糠へむかい、13:50発の列車に乗ることにしました。そのためだけに札幌に1泊するのはもったいないので、青函連絡船で北海道に渡った後、函館発23:40の夜行急行「すずらん4号」に乗り、札幌で「狩勝1号」に乗り継ぐというプランを立てました。今考えると、かなりのハードスケジュールですが、当時はこのぐらいの旅は当たり前でした。
 13:50発の白糠線533D列車は、気動車(キハ22242)の単行(一両編成)。通学時間帯ではないので、ローカル線の主役ともいえる高校生の姿はなく、乗客は数人のみ。当時のメモには「牧場のような風景が続く」とあります。終点の北進は、片面ホームだけがポツンと存在している駅舎もない無人駅で、周辺に人家らしきものは見当たりません。北海道の国鉄線で唯一の未乗路線でしたから、乗車できて嬉しい反面、これでは存続は難しいのではと少しばかり暗い気分になりました。
 どうして人家のないようなところが終点なのか。実は、この路線は、白糠と池北線の足寄(あしょろ)駅を連絡するというのが当初の目的で、1964(昭和39)年10月7日に白糠から上茶路(かみちゃろ)まで開通。それから8年後の1972(昭和47)年9月8日に、北進まで延長開業しました。「北進」という駅名は、地名ではなく、鉄路よ北へ進めという願望を込めたネーミングだったようです。しかし皮肉なことに、北へ進むどころか、1983年(昭和58年)10月23日、全通から僅か11年で廃止されてしまいました。当初連絡を予定した池北線も、第三セクター化された後に廃止されていますから、仮に足寄まで開通していたとしても、生きのびることは難しかったでしょう。元々の計画に無理があったといえばそれまでですが、僅かな間とはいえ「夢」を見させてくれた存在、そう思えば「北進駅」も浮かばれるのではないでしょうか。

 これが終点の北進駅です。乗ってきた気動車(キハ22242)が停車しています。16分後に上り534D列車として折り返していきます。(1977年7月25日撮影、以下同様)
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 白糠側からみるとこうです。どこからともなく(といった感じがしましたが)乗客が一人やってきました。
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 開業からまだ5年というのに、駅名板は文字が読めないほどぼろぼろになっていました。
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 北進は無人駅ですから乗車券も入場券も買うことはできません。記念に車掌さんから購入した車内補充券がこれです。地図式ではなく手書きでした。
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遊び場難民

2019/01/05 10:48
 久しぶりにやって来た孫は可愛いけれど、相手をするのは大変で、長時間ともなれば疲れ果ててしまう。そのような悩みは、全国のジイバアに共通するものではないでしょうか。遊ばせ方にも工夫が必要なのでそれなりに頭を使います。正月のこの時期、とりわけ苦労するのが、屋外の遊び場探しです。
 遊具を備えた児童公園が近くにないわけではありません。しかし、日中でも零度前後という気温ですから、短時間遊ばせただけで身体が冷え切ってしまいます。日差しがあればまだしも、曇り空で少しでも風があろうものなら、その場に居続けることすら困難です。
 日当たりがよく、安心して長時間遊ばせることができる公園はないものかと探してみたところ、小諸市に南城公園(みなみじょうこうえん)という評判のよい公園があることがわかりました。軽井沢町や御代田町に比べれば標高が低いので、気温が高めという点も魅力です。実際に行ってみたところ、南向きの斜面に、いかにも子供が喜びそうな遊具が立体的に配置されていて、さながら「遊具城」のよう。遊具の前面には広大な芝生広場があり、天気が良ければ一日遊ばせていられます。国道18号に設置されていた温度計の数値は2℃でしたが、この公園は日当たり抜群で、寒さはほとんど感じません。孫は大喜びで飛び回り、その後の午睡も爆睡状態に。「遊び場難民」状態から解放され、ほっと一息ついたポン太でした。 
 この公園を「発見」する前夜、イルミネーションを見せに佐久平へ連れていきました。佐久でイルミネーションといえば、佐久平駅前の「SAKU BLOOM」と真空機器メーカーとして知られる樫山工業(本社敷地内)が有名です。寒さは強烈で、手袋をしていても指がかじかむほどでしたが、イルミネーションそのものは、例年より見応えがあるように感じました。孫も大喜びしていましたので、ジイジの選択は正しかったと評価されること間違いなし。えっ、誰が評価するのかって? 自分です。


 南城公園に着くと、こんな大きな遊具が目に飛び込んできました。これはすごいぞ!都会の児童公園では考えられないと娘もびっくり。もちろん無料で利用できます。
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 子供向けのボルダリング設備もあり、滑り台も多種多様。遊び放題といった感じです。
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 幼児から小学生まで、年齢層に応じた遊具を完備していることにも感心しました。看板にもそう書いてあります。
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 こちらば幼児ゾーンです。
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 長いローラー滑り台。孫はこれが気に入ったようで、何度も何度も滑り降りていました。
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 佐久平駅前の巨大イルミネーション「SAKU BLOOM」です。
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 奥行きの広さを感じさせるイルミネーションです。
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 子供が喜びそうな仕掛けもあります。
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 こちらは樫山工業のイルミネーションです。ここが工場敷地内とはとても思えません。
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新年は霧氷とともに

2019/01/01 23:45
 新年おめでとうございます。本年も「浅間山麓のブラタヌキ」をよろしくお願いいたします。
 元日の天気予報は、太平洋側は晴れ、日本海側は雪ということでした。ここ浅間山麓の天候はどちらかといえば太平洋側に近く、全国版の天気予報で「長野」と表示されるものとは別物です。よって、初日の出が見られるのではないかと期待しました。
 朝早く起きてみると、どんよりした曇り空。浅間も見えません。これでは初日の出は無理かなと思ったのですが、家の周囲の森を見渡すと、霧氷が出現しています。たとえ初日の出が拝めなくても、霧氷の良い写真が撮れれば、まあいいかと考え、カメラ片手にわが家より少し標高の高い、御影用水へとむかいました。
 水辺の霧氷は予想通りのすばらしさでした。大気と水の温度差のせいか、水面からは湯気のような霧が立ちのぼり、幻想的な雰囲気を漂わせています。霧氷の写真を撮っているうちに周囲がだいぶ明るくなってきました。すると、落葉松林のむこうから、ふいに太陽が顔をのぞかせたのです。あきらめかけていた初日の出です。山上から見るご来光のような迫力はありませんが、これはこれで美しく、十分満足したポン太でした。


 中山道沿いの霧氷です。そんなに冷え込んだようには思えなかったのですが、氷点下10度前後まで下がっていたようです。
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 水辺周辺には、夜明け前から犬の散歩をする人がいました。
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 冷え込みの厳しさを思わせる水辺の風景です。
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 見事な霧氷です。
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 落葉松林の間から太陽が顔を出しました。
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 これが水辺の初日の出です。
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 凍てついた大地も陽を浴びて輝いています。
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 日の出から30分ほど経って、ようやく浅間山が姿を現しました。やはり浅間山があってこその当地です。山岳信仰というわけではないのですが、しっかり我等を見守って欲しいという気持ちになります。
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今年も楽しめた山歩き〜「山じまい」は太郎山

2018/12/31 10:56
 この一年の山歩きを振り返ってみました。本年最後に登った山は上田の太郎山でしたが、それが60回目の山行となりました。年間50回を越えたのは3年ぶりですから、よくがんばったといえそうです。ただし、大半が1〜2時間で登れるような里山です。
 信州には日本100名山クラスの名峰がたくさんありますので、わざわざ里山に登る必要があるのかと思われるかもしれませんが、里山には里山の魅力があるのです。そのことに気づかされたのは、インターネットで中嶋豊氏のホームページ『信州山歩き地図』を閲覧するようになってからです。同氏は長野県警の元警視で、山岳遭難救助のエキスパートとして活躍された方です。信州の山を知り尽くした同氏作成のイラストマップは大変魅力的で、ぜひこの山に登ってみたいと思わせるものでした。里山の中には、登山道が地形図に記されていないところもあり、実際に登る際にも大いに役立ちました。現在は出版物(信濃毎日新聞社刊)として発売されており、ホームページ上でマップを見ることはできません。
 同氏が紹介している山は285座ですが、これまでに、70座に登ることができました。気に入って何度も登っている山もあります。その中から、ポン太おすすめの里山ベスト5を選んでみました。
@平尾山(平尾富士)<1155m>・・・登山回数最多の山ですから、ここをはずすことはできません。山頂からの眺めがすばらしく、何度登っても飽きません。佐久では一押しの里山です。
A太郎山<1164m>・・・上田市民に愛されている、里山の代表格です。展望は抜群。カモシカにもよく出会います。冬でも登れる有り難い山です。
B雁田山<786m>・・・小布施の裏山で、北斎の天井絵で有名な岩松院が登山口です。標高は低いのですが、縦走すると3時間以上かかります。展望園地というピークからみた北信五岳の眺めはみごとです。 
C尼厳山<781m>・・・読み方は「あまかざりやま」です。長野市松代地区ある山で、その麓はアンズの里として有名。ピンク色に染まった里の風景は絶景といってよいでしょう。 
D虫倉山<1378m>・・・ 長野市中条(旧中条村)にある山です。北アルプスの好展望台として知られ、チロル風の山里の景観は絵のような美しさです。
 いずれも期待を裏切ることはない山です。ぜひ登ってみてください。
 それでは皆様、どうぞよいお年をお迎えください。来年(2019年)も「浅間山麓のブラタヌキ」をよろしくお願いいたします。

 空気が澄んだ日の平尾山山頂からは、北アルプス全体が見渡せます。もちろん、蓼科、八ヶ岳方面の展望もすばらしく、ポン太が何度登っても飽きない理由がおわかりいただけると思います。
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 ズームアップしてみると、穂高(左)や槍がこのように鮮明に見えます。
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 「山じまい」をした太郎山山頂からの上田市街地の眺めです。帯状に光っているのは千曲川です。
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 この1年間、無事に60回も山歩きを楽しむことができたことへの感謝をこめて、太郎山に、そして全ての山にバンザーイ!
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 太郎山に登った後の楽しみは蕎麦です。上田の名店「刀屋」に立ち寄り、早めの年越し蕎麦を味わいました。
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 最近のお気に入りは、この「冷やしたぬき」。写真ではわかりにくいかもしれませんが、天ぷらがてんこ盛りで、えっ、これが「たぬき」なのと、タヌキもびっくりの内容と量です。ちなみに、これは「大盛」ではなく「普通」です。
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 小布施の岩松院の背後に連なるのが雁田山です。簡単に登れそうに見えますが、急登の連続で思いのほか時間がかかります。
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 雁田山の「展望園地」というピークからは、小布施の街並みと北信五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山)が見渡せます。ただし、斑尾山だけは少し離れた位置にあるので写真には入っていません。
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 アンズの里から見上げた尼厳山です。
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 こちらは尼厳山からアンズの里を見下ろしたところです。4月上旬にはこの里全体がピンク色に染まります。
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 虫倉山山頂からの大展望です。
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 虫倉山周辺の山里の風景です。どこを切り取っても絵のような美しさで、何度訪れても感動します。
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記憶を残す再開発〜渋谷の新風景

2018/12/29 10:49
 かつてはあたりまえのように眺めていた東京の風景が、久しぶりに出かけてみると、すっかり変わってしまっていて、浦島太郎のような心境になることがあります。その代表例ともいえるのが渋谷です。現在再開発の真っ最中で、馴染みのある風景が次々と失われ、全く別の町になりつつあると言ってよいでしょう。
 先日、といってもひと月ほど前になりますが、東京へ出かけた折に、渋谷駅周辺を徘徊してみました。驚いたのは、渋谷川沿いの高架線を走っていた東横線の跡地を利用した再開発が進展し、実にユニークな街区が誕生していたことです。
 駅跡地の一部には、東急渋谷駅の象徴でもあった逆三角形のような外壁のデザインがそのまま取り入れられ、旧駅の面影を留めるような工夫がなされていました。そこから続く旧線跡の商業施設「渋谷ストリーム」の真ん中にはレールが敷設されていて、鉄道の跡であることがわかるような仕掛けになっています。更にその先、渋谷川沿いの遊歩道化された部分には、かつての高架線に用いられていたと思われるコンクリート片が、モニュメントのように配置されていました。代官山に近いエリアでは、線路跡地に建てられた複合施設「渋谷ブリッジ」のベンチがレール形をしていたり、柱の装飾画が東横線の懐かしいシーンであったりと、「ここに東横線ありき」というコンセプトで全体が統一されていることに、感銘を受けました。
 再開発というと、かつての痕跡を完全に消し去ってしまうことが多く、それでは地域の歴史が後世に伝わらなくなってしまうと嘆くことの多いポン太ですが、このような形であれば大歓迎です。浦島太郎も途方にくれずに済みます。その昔、渋谷駅の総合駅化を推進し、渋谷=東急の町というイメージをつくりあげた五島慶太氏も、草葉の陰で喜んでいるのでは、などと余計なことまで考えてしまいました。

 東急渋谷駅(旧駅)跡の現在の姿です。この壁面、懐かしい感じがします。
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 地下化される前の東急渋谷駅はこのようでした。
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 再開発で出現した「渋谷ストリーム」へ続く通路には、レ-ルが埋め込まれていました。
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 商業施設の中をレールが貫いています。
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 線路を見ながら一杯? いい雰囲気じゃありませんか。
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 渋谷川沿いの遊歩道にもレールが設置されていて、ここが東横線の旧線跡だと気づかせてくれます。
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 「渋谷ブリッジ」へと続く遊歩道には、レールはありませんが、芝生の中に置かれている「石」は、かつての高架線のコンクリート片のようです。
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 「渋谷ブリッジ」のレール形をしたベンチ? こういうこだわり、嬉しいですね。
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 柱には郷愁をさそうような装飾画もありました。
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 ここはニューヨークの地下鉄? 壁の案内板もお洒落です。
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軽井沢のクリスマス

2018/12/25 16:21
 浅間山麓でクリスマスを実感できるのは、軽井沢をおいてほかにありません。いろいろなイベントがある中で、ポン太が一番気に入っているのが、一般公開されている新島学園のクリスマスコンサートです。ハンドベルの演奏が見事なことと、一部が簡素な礼拝形式になっていることで、クリスマスらしさを味わうことができるからです。
 例年同様、少し早めに家を出て、クルマで会場の大賀ホールへとむかいました。ところが、軽井沢町内の道路が大渋滞。開演10分前にようやく会場近くに到達したのですが、いつも駐車するホール前の大駐車場だけでなく、周辺の駐車場が全て満車。コンサートへの入場を断念せざるを得ませんでした。こんなことは初めてです。
 このままでは終われないと、その翌日、クリスマスタウンを標榜している星野エリアへ出かけてみました。お目当ては、「キャンドルナイト」と軽井沢高原教会のハンドベル&ハープのミニコンサートです。幸い駐車場は確保できたのですが、軽井沢高原教会周辺は人また人。ミニコンサートはすでに定員に達していて入れないことがわかり、これまた断念せざるを得ませんでした。冬の軽井沢人気が、これほど沸騰していたとは驚きです。外国人旅行客も増えており、今までとは様子が違ってきているのかもしれません。
 コンサートにはふられましたが、「キャンドルナイト」自体はとてもすばらしいものでした。森の中に散りばめられた無数のランタンと大小様々なスタイルのクリスマスツリー。幻想的かつメルヘンのような世界が演出されていて魅了されます。見上げれば、空には満天の星。1時間ほど歩き回って気が済んだポン太でした。

 クリスマスタウンのシンボルのような「もみの木ひろば」です。
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 ハルニレテラスもクリスマスバージョンになっていました。
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 やどり木をイメージしたというイルミネーションです。
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 ハルニレテラスのクリスマスツリーです。まわりが暗いので、とても目立ちます。
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 「キャンドルナイト」にやってきました。えっ、クリスマスイブに結婚式?
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 ランタンの中でゆらめくキャンドルの灯り。電球やLEDとは異なる自然でやわらかな光は、癒やし効果抜群です。
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 森の中で出会う様々なクリスマスツリー。なかなかのアイデアですね。
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 こちらはランタンを吊した「ランタンツリー」です。
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 高原教会の前には大勢の人が集まっていました。
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 大きなツリーのまわりは、写真を撮る人でいっぱいです。それでも喧噪といった感じにならないのは、やはり森の中だからでしょう。
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 ランタンは無料で貸し出していて、それを吊して森の中を散策することもできます。
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 色とりどりの落ち葉の上に置かれているランタンも風情があります。
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冬こそ碓氷峠へ〜姿を現した第13橋梁ほか

2018/12/22 15:37
 冬こそ訪ねたい鉄道遺産。今回は碓氷峠です。
 アプト式鉄道時代の構造物の多くが、「旧碓氷峠鉄道施設」として国の重要文化財に指定され、廃線跡は「アプトの道」という名の遊歩道になっていることをご存知の方は多いと思います。しかし、遊歩道化されているのは、旧熊ノ平より東側(横川側)だけです。それより西側(軽井沢側)はどうなっているのかとえいえば、アプト式廃止後の複線化工事の際に、大半が下り線用に改築され、アプト式時代の構造物はほとんど残っていません。それでも、すべてが改築の対象となったわけではなく、第16隧道から碓氷第13橋梁までの区間は、下り線ルートから少し位置がずれていたことで、取り壊しを免れました。それらの鉄道遺産は、注目されることがないまま、放置に近い状態に置かれていましたが、なんと今年(2018年)、碓氷第13橋梁と第17隧道が、熊ノ平変電所および碓氷第7橋梁とともに、重要文化財に追加指定されたのです。
 葉が落ちて、全体が見やすくなった碓氷第13橋梁とその周辺を眺めに出かけてみました。碓氷第13橋梁は、見応えのある面白い橋梁です。レンガ造りの5連アーチ橋でその長さは51.7m。高さは10.1mと低いのですが、第3橋梁と第6橋梁に次ぐスケールです。中尾川を跨いでいるだけでなく、かつてはその下(第1径間と第5径間)を国道(旧18号線)がひも状にくぐり抜けていて、ポン太の記憶の中にも、そのころの様子が僅かながら残っています。
 碓氷第13橋梁の横川側にあるのが第17隧道で、今はその中を通り抜けることはできませんが、内部は荒れてはいないようです。煉瓦造の坑門は両側ともしっかりしています。重要文化財に追加指定されなかった第16隧道は、下部が土砂で埋まった状態ですが、それを取り除けば往時の姿を取り戻すことができそうです。両隧道間には可愛らしい煉瓦アーチ橋(溝渠)も残されており、遊歩道化も可能ではないかと期待してしまいます。
 ポン太の更なるのぞみは、レールが残っているかつての下り線を利用し、横川〜軽井沢間に観光列車を運行することです。鉄道遺産見学に便利な駅(停留所)を何カ所か設ければ、観光資源としての価値も高まるでしょうし、軽井沢に抜けられとなれば、より一層多くの人が訪れるのではないでしょうか。観光列車それ自体も人気のある乗り物になると思いますが・・・。

 自動車道路側から見た碓氷第13橋梁です。葉が生い茂っていると真横からはほとんど見えません。
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 近づいて見るとこんな感じです。一番手前と一番奥のアーチの下を、かつては国道が通っていましたが、今は半分ほど土砂で埋まっています。
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 この下を国道がくぐり抜けていました。その名残の警戒塗色のペンキが、アーチの上部に少し残っているのがわかります。
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 碓氷第13橋梁の軽井沢側には第18隧道がありましたが、今は坑口がコンクリートでふさがれています。右側は下り線用につくられた第10隧道です。
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 碓氷第13橋梁に隣接している下り線(軽井沢側を見たところ)です。架線は盗難にあったということで残っていませんが、レールはしっかりした状態で残っています。この線路に観光列車を走らせ、この場所に駅(停留所)を設ければ、鉄道遺産探訪のバリエーションが豊かになることは間違いありません。横川からここまでウォーキングを楽しみ、帰りは列車でもどるもよし、軽井沢へむかうもよし。
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 碓氷第13橋梁の横川側にある第17隧道の坑門です。この隧道も重要文化財に追加指定されました。
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 第17隧道(左)と第16隧道の坑門(右)です。
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 両隧道の間にある可愛らしい煉瓦アーチ橋(溝渠)です。
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 第16隧道の軽井沢側坑門です。下の方が土砂で埋まっています。
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 熊ノ平以東の鉄道遺産も、葉の落ちた状態で眺めると、そのスケール感が際立ちます。これは前後の巨大な擁壁が印象的な碓氷第6橋梁です。
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 碓氷峠の鉄道遺産のシンボル、碓氷第3橋梁も、4連のアーチ全てが一望できます。
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 まさに天空の架け橋といった感じのこの迫力。
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 陽を浴びた煉瓦アーチ橋は見事としか言いようがありません。重機もない明治20年代に、これほどのものを建設した先人のパワーに脱帽です。
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高原に眠る草軽電鉄の遺産〜柳川橋梁

2018/12/17 12:39
 日中でも気温が氷点下、もしくはせいぜい2〜3度という、浅間山麓らしい正しい冬が到来しました。浅間山も中腹以上が雪化粧し、見た目も本格的な冬という感じです。
 こんな時期にこそ出かけたい場所があります。それは、鉄道の廃線跡。草木が生い茂っている季節には見えなかったものが、葉がすっかり落ちた今なら見えるというメリットがありますし、そこが人里離れた山中である場合には、クマとの遭遇を心配しなくてもすみます。ただし、雪がたくさん積もってしまうと、歩くこと自体が難しくなるので、その直前の今がチャンスなのです。
 先週末、軽井沢町北部の草軽電鉄の廃線跡を歩いてきました。お目当ては、同電鉄で最も高い橋梁であった柳川橋梁です。絵葉書にも登場しているほど有名な橋梁ですが、自動車道路からはかなり離れた場所にあり、これまで行ったことがありませんでした。事前に調べたところでは、草軽交通の「ライジングフィールド軽井沢」というバス停からアクセスするのが一番容易なようです。
 オートキャンプ場の脇を通り抜け、まずは、林道に転用された廃線跡を進みました。入口にゲートがあり、一般車は入れないようになっています。しばらく歩くと、林道から左手へ離れていく小径があり、それが廃線跡だと確信。藪になっていたり、倒木の多い箇所もあり、クマが出没する季節であれば、一人で行くのは躊躇してしまうことでしょう。多少の不安はありましたが、廃線跡自体は途切れることなく続いていて、迷うことはありませんでした。いつの間にか寒さは吹き飛び、気分が高揚してきました。
 歩くことおよそ20分。あれっ、道が無くなっていると思った瞬間、目の前に柳川橋梁の橋脚が姿を現しました。絵葉書で見ていたのと同じ、石積みの橋脚が三本屹立しています。廃線後58年も経過しているにもかかわらず、これだけしっかり残っていたことに驚きを禁じ得ず、谷底まで降りたり、対岸に渡ったりと、いろいろな角度から「鑑賞」してしまいました。この橋梁を渡っていた列車の様子などを想像し、満足感に浸っていると、人の声が聞こえてきました。ハスキーで低音の女性の声で、「だぁれ〜」と言っているようです。えっ、えっ、ほかに誰か見に来ている人がいるのかしらと、あたりを見回してみたのですが、誰もいません。ちょっと背筋に寒いものを感じてしまいました。
 帰り道、森の中で立ち止まって耳を澄ますと、風の音に混じって時折「ギー」という樹木が擦れる音が聞こえてきます。どうやらそれを人の声と聞き間違えたようなのです。前の晩にテレビでホラーシーンを見たせいかもしれません。廃線跡や廃墟探訪の前には、怖いテレビを見てはいけない。教訓が1つ増えたポン太でした。

 雪化粧した浅間山です。凛として美しいですね。
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 旧軽井沢銀座通りの入口、ロータリーの前に、草軽電鉄の旧軽井沢駅がありました。現在の商業施設も「駅舎旧軽井沢」という看板を掲げており、廃線から半世紀以上経つ今でも、地域住民に親しみをもたれている存在であることがわかります。
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 旧軽井沢から重要文化財の旧三笠ホテルへむかう道の片側は、草軽電鉄の軌道敷跡です。
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 このバス停の右手奥に小瀬温泉駅がありました。この駅を舞台とする、森繁久彌主演の映画「山鳩」(1957年公開)が制作されましたが、映画の中では駅名が「落葉松沢」となっていたそうです。おそらくそれに因んだのでしょう。このバス停の名は「唐松沢」です。
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 ライジングフィールド軽井沢のバス停です。ここから柳川橋梁へとむかいました。
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 長倉山支線林道入口ゲートです。この林道の一部も草軽電鉄の廃線跡です。
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 林道を離れ廃線跡を進みましたが、倒木が多く歩きにくいところもあります。
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 倒木の先のカーブはいかにも廃線跡といった感じです。
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 行く手に、突然姿を現した柳川橋梁です。
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 沢に降りてみるとこんな感じでした。結構な高さがあります。
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 対岸(長日向駅側)からは、三本の橋脚がよく見えます。
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 柳川橋梁から長日向駅方面へと続く廃線跡です。ここを列車で走ったら気分爽快ではないでしょうか。
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 軽井沢駅前に保存されている草軽電鉄のデキ13電気機関車です。こんな機関車が1、2両の客車、貨車をひいてあの橋梁の上を走っていた姿を想像するだけでもワクワクしてしまいます。
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 帰路、国道の温度計を見ると−1℃を表示していました。まだ明るい午後3時でもう氷点下。これぞ浅間山麓の冬です。
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やっぱり美味しい伝統食品

2018/12/12 16:05
 年齢を重ねるにつれ、子供のころによく食べていたものに好みが回帰する、という話を聞いたことがあります。本当にそうでしょうか。古ダヌキのポン太は雑食ですから、和洋中華からエスニック系まで、何でも食べますし、どれにも甲乙つけがたい魅力を感じています。加齢により好みが変わってきたとは思えません。されど、子供のころはあたりまえすぎて何とも思わなかったものが、あまりにも美味しくて、こんなに素晴らしい食べ物だったのかと、感動してしまうことはよくあります。その典型が干し柿と乾燥芋です。
 そのままでは食べられない渋柿ですが、皮をむいて吊しておくだけで、極上のスイーツに変身。乾燥芋も同様で、蒸かしてスライスしたものを干すだけで、甘味が凝縮されて、和菓子に勝るとも劣らない食べ物になります。
 信州で軒先に柿を吊している家は、かなりポピュラーな存在といってよいでしょう。以前のブログにも書きましたように、高冷地では柿は育ちにくく、実っているのは小粒の渋柿が大半です。そこで、干し柿の出番となるわけです。ポン太もそのまねをして、干し柿づくりを実践しているわけですが、今年も、吊してから40日ほどで、トロ〜と甘い干し柿ができあがりました。
 一方の乾燥イモですが、信州ではサツマイモの栽培自体があまり盛んではないこともあって、それほど一般的な食べ物ではないようです。ポン太は、子供時代を栃木県で過ごしたので、冬のおやつの定番としてよく食べていました。すぐ隣が乾燥芋の大産地茨城ですから、その影響が大きかったのかもしれません。ちなみに、乾燥芋は「干し芋」とも呼ばれますが、栃木や茨城では、「乾燥芋」(発音は短く、かんいも)が一般的です。
 自分でつくってみて、浅間山麓は意外に乾燥芋づくりに適していることがわかりました。気温が低いのでカビの発生を心配せずにすみ、降水量が少なく晴天率が高いので、4〜5日干すだけで美味しい乾燥芋ができあがります。
 今朝早く初雪が降り、家のまわりはうっすらと雪化粧しました。窓から雪景色を眺めながら、出来上がったばかりの干し柿と乾燥芋で、極上のティータイムをと目論んだのですが、残念ながら雪は昼前に消えてしまいました。雪景色はさておき、手近な材料で砂糖菓子より甘いスイーツをつくり、お茶を楽しみながら冬を乗り切るという、昔の人の知恵のなんというすばらしさ。「回帰」ではなく、再発見したような気がしているポン太です。


 皮をむいて干したばかりのころはこんな感じでした。
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 二週間ほど経つと色が変わり、干し柿らしくなってきます。
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 1ヶ月経つと、体積が半分ぐらいになり、かなり美味しそうな感じに。干したころはまだ緑が残っていた庭も、枯れ木ばかりとなりました。
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 干してから40日が経過し、食べ頃に。早速試食してみましたが、自分でつくった干し柿の味は格別です。
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 雪の予報が出ていたので、全部ひもからはずして箱に収納しました。下にワラを敷いておくと、自然に粉が吹いて、お店で売っているようなきれいな姿になるということですが、例年、そこまで待てずに胃袋におさまってしまうので、本当の完成形をみたことがありません。
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 お次は乾燥芋づくりです。材料は「べにはるか」という種類のサツマイモですが、ここ数年、安価で大量にでまわるようになったので助かります。ねっとり感があり、蒸かしてそのまま食べても美味しいのですが、乾燥芋にすると驚くほど甘くなります。
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 1時間ほど蒸かし、熱いうちに皮をむいておき、冷えてから適当にスライスして、カゴに並べるだけ。つくり方は極めて簡単です。カゴは日当たりのよいところに吊しておきます。
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 1日干しただけで、こんな感じになります。この状態でも食べられます。
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 降雪の心配があるので、予定より1日はやい4日目にカゴから取り出しました。ねっとりして、美味しいこと。好みもあると思いますが、ポン太はこのぐらいの半乾燥状態の方が美味しいと思います。
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 今朝起きると、うっすらと雪が積もっていました。雪があると庭が明るくなります。大雪は困りますが、適度な雪なら大歓迎。来週末あたりに、ある程度の降雪があれば、文字通りホワイトクリスマスです。今年はどうでしょうか。
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横浜線開通110周年に因んで

2018/12/09 12:24
 日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開通したのは、今から146年前の1872(明治5)年でした。それから30〜40年で、全国の幹線鉄道網が概ねできあがりましたから、すでに開通から100年以上経過した路線が少なくありません。このような歴史の長さこそ、鉄道の魅力の1つではないかとポン太は考えます。鉄道の歴史は、近現代の社会のあゆみとリンクしており、地域形成にも深く関わっています。折々の鉄道風景が、自分史のひとコマとして、脳裡に刻みこまれている人も少なくないはずです。
 浅間山麓を走る信越本線(現、しなの鉄道線)が、本年、開通130周年をむかえたことについては何度もブログで触れましたが、今年、節目の年をむかえたのは信越線だけではありません。実は、ポン太にとって、かつては極めて身近な存在であった横浜線が、本年開通110周年をむかえました。
 桑都八王子と国際貿易港横浜を直結する鉄道は、八王子と横浜の生糸商等が熱望していたものであり、1886(明治19)年には、甲武鉄道(現、中央線)に対抗して武蔵鉄道(川崎〜八王子間)を出願したものの却下されてしまいました。その後、何度も申請に失敗した後、横浜の実業家たちが中心となって横浜鉄道を立ち上げ、明治41(1908)年9月23日、東神奈川〜八王子間を開業しました。ところが、経営不振(運賃併算で割高となる貨物輸送が振わず)で、1910(明治43)年4月1日には、鉄道院借り上げという形となり、1917(大正6)年10月1日に国有化されて、国鉄横浜線(1987年からJR東日本の路線)となったのです。
 ポン太は1976年から40年近く横浜線の沿線に住んでおりましたので、同線には懐かしい思い出がたくさんあります。近年、横浜線の各駅とその周辺の変貌は著しく、昔の情景を想像することすら難しくなってきているように思います。そこで、手元にある古い写真で、横浜線の近過去を振り返えってみることにします。写真は八王子〜町田間のみですが、そうそうこうだったね、へえーそうだったのか、と楽しんでいただければ幸いです。

 八王子駅の乗り換え階段に、横浜線110周年記念のペイントが出現していました。
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 ポン太が横浜線沿線に住み始めたころの八王子駅横浜線ホームです。まだ旧型国電が主役で、ローカル線的な雰囲気が漂っていました。(1976年6月12日撮影)
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 1988年(昭和63)3月に高架化され、新駅舎に移行して間もなくの片倉駅です。かつてはのどかな丘陵地帯であった片倉〜相原間ですが、沿線エリアの開発に拍車がかかったのは、このころからです。(1988年8月31日撮影)
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 片倉〜相原間に新駅が誕生したのは、1997(平成9)年4月1日です。これは開業したばかりの八王子みなみ野駅ですが、駅のまわりには建物はほとんどなく、しばらくは駅だけがポツンと建っている状態でした。(1997年4月5日撮影)
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 開業3年後の八王子みなみ野駅です。西側では建物が増えていますが、東側(左手)はまだ更地が目立ちます。
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 八王子みなみ野駅が開業する前年の風景です。駅はこの写真の右手方向になります。宅地の造成がかなり進展していますが、まだ家はほとんど建っていません。左手奥にみえる円形のビルは日野自動車の歴史館である「日野自動車21世紀センター」です。現在はこの造成地の大半が住宅で埋まっています。(1996年11月5日撮影)
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 開発が始まる前の八王子みなみの駅付近(相原側へ少し進んだあたり)です。現在とは全く異なるのどかな風景が広がっていました。(1977年6月9日撮影)
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 こんな踏切もありました。(1976年9月23日撮影)
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 八王子みなみの駅周辺が開発される以前の片倉〜相原間は、横浜線で唯一、山の中を行くといった感じのところでした。国道16号は御殿峠を越えますが、横浜線は相原トンネルで多摩丘陵を駆け抜けていきます。(81年11月15日撮影)
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 相原トンネルを抜けて、相原駅へとむかう上り電車(103系)です。八王子〜相原間は1988年3月まで単線でしたが、写真の右側には複線化に備えた路盤がすでに準備されている様子がうかがえます。
(1981年11月15日撮影)
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 相原駅は横浜鉄道開通と同時に開業した古い駅です。この駅舎は1934(昭和9)年に建設されたもの。2003年に橋上駅化されるまで存在しており、ポン太は、時が止まったような、こののどかな雰囲気が大好きでした。この駅舎が取り壊されたことで、横浜線内から戦前に建設された駅舎は全て姿を消しました。(1980年6月22日撮影)
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 相原〜橋本間の大山街道踏切です。(1976年6月12日撮影)
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 橋本駅は1980年に橋上駅化されるまで、このような姿でした。駅前広場の一角にはバスの乗降場や待合室があり、地方都市の駅のような雰囲気が漂っていました。(1978年11月4日撮影)
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 相模原駅に最初に降り立った時の印象は、市の名前を冠している駅にしてはいささか寂し過ぎるのでは、ということでした。駅前に繁華街とよべるほどのものがないせいですが、横浜鉄道開業時にはこの駅はなく、戦時体制下の軍都建設に伴って、その玄関口として1941(昭和16)年4月5日に開業したという経緯があります。元々大きな集落があったところではなかったのです。(1981年11月26日撮影)
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 相模原駅は、1996年に橋上駅化されましたが、その少し前はこのような姿でした。駅舎の本体は開業時のままだったと思われますが、外観はずいぶんお洒落になっていました。(1995年1月23日撮影)
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 原町田駅です。1980年に駅周辺の再開発により小田急寄りに移転するまで、国鉄は原町田、小田急は新原町田と称していました。橋本と同様、地方都市の駅という感じですが、元々駅の近くに原町田という集落があり、国鉄原町田駅がその最寄り駅でした。小田急の新原町田駅とは600mほどの距離があったため乗換は大変で、ラッシュ時には走る人も多く、「マラソン道路」などと呼ばれていました。(1979年4月22日撮影)
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 原町田駅のホームです。ローカル線の少し大きめの駅という雰囲気でした。(1979年4月22日撮影)
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 原町田駅の跨線橋から八王子側(小田急線側)を見たところです。線路際では再開発のための解体工事が行われている様子がうかがえます。(1979年4月22日撮影)
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 国鉄原町田駅の入場券(左)と小田急新原町田駅発の乗車券、新原町田行の特急券です。だいぶ変色しており、時の流れを感じます。
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初冬の富士登山

2018/12/05 10:27
 先日、ポン子と一緒に富士山に登ってきました。といっても日本一高いあの富士山ではありません。上田市の西方、塩田平の南縁に聳える独鈷山系の富士山です。標高は1029.6m。何だ、ただの里山ではないか、と思われるかもしれませんが、おそらく、日本で二番目に高い富士山なのです。
 全国に富士を名乗る山はたくさんありますが、いずれも「○○富士」といったように、富士の前に地域名がついていたり、富士は通称で本当の山名は別にあるというケースが大半です。しかし、この山はずばり富士山。国土地理院の地形図にも、しっかり富士山と記載されています。正式名称が富士山という山が他に無いわけではないのですが、地形図に表記されているものはごく少数です。ポン太の知る限りでは、この上田の富士山に次いで高い(地形図に表記されている)富士山は、福島県西会津町にあります。しかし、その標高は508.8mにすぎませんから、上田の富士山が堂々の第二位であるとみてよさそうです。
 さて、富士山という立派な本名をもつこの山ですが、地元では、付近にある鹿教湯(かけゆ)温泉の名を冠して、鹿教湯富士と通称されています。気軽に温泉客も登れる里山なのかというとそうではなく、観光パンフレットなどに登山案内やルートが掲載されていないのはもちろん、現地に行ってみると、登山口の標識も無く、山中には道標の類が1つもありませんでした。要するに登山・ハイキングの対象となるような山ではないのです。しかし、「日本で二番目に高い富士山」というところに惹かれるものがあり、あえてチャレンジしたというわけです。
 このあたりは、日本有数の松茸の産地ですから、シーズン中に山中をウロウロしていると、不法侵入者ではないかと疑われる心配があります。夏は暑すぎてこのような低山に登る気はしませんので、初冬の今がチャンスではあるわけです。南麓の国道254沿いにある高梨という集落から入山し、まずは富士山東側の鞍部、市峠を目指しました。獣除けの柵から登山道が始まるというロケーションが不安感をかき立てましたが、市峠への道は、一部に崩壊箇所はあったものの、全体としては幅広くしっかりしたものでした。道端のいたるところに石仏が鎮座しており、その中には江戸時代の年号が刻まれたものもありました。どうやら、市峠を越えるこの道は、松本から上田へ抜ける最短ルートとして、昔は利用する人が多かったようなのです。土留めの石積みが残っている箇所もあり、思いがけず古道の風情を楽しむことができました。
 1時間ほどで難なく市峠に到着しましたが、大変だったのはそこから。富士山頂へは市峠から西側へ続く尾根を登っていくのですが、落ち葉で道がほとんど見えません。所々の木の枝に巻き付けてある赤いテープだけが頼りです。尾根をはずさないように慎重に進みましたが、山頂が近づくにつれ、とんでもない急登となりました。斜面に積もった落ち葉は滑りやすく、足の置き場を間違えると滑落は必至です。つかむことのできるものは、枝でも岩でも何でもつかみ、なんとか切り抜けましたが、帰路は恐怖で足が震えました。
 山頂には、小さな石祠と三等三角点があるのみ。樹間から鹿教湯の温泉街を望むことはできますが、展望が良いとはいえません。滑落の危険を冒してまで登る価値のある山なのかといわれると、う〜ん、という感じです。されど、ポン太にとっては28年ぶりの「富士登山」であり、前回は日本一の、今回は二番目に高い富士山の頂に立てたのですから、達成感は十分得ることができたといえましょう。


 鹿教湯温泉街から見た富士山です。ただしこれは2月に撮影したもので、今回の登山時には雪はありません。
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 鹿教湯温泉と富士山の位置関係はこうなっています。赤い点線が今回登ったルートです。
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 この獣除けの柵が登山道の入口です。留め金を一旦はずして中に入りました。
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 その先に続く道は、それなりに整備されていて、岩の上には石仏が鎮座しています。
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 随所に石仏が置かれていて、この道が古い街道であることがよくわかります。この石仏には嘉永五年と刻まれていました。ペリーが浦賀に来航して日本中が大騒ぎになるのはこの翌年です。
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 全体としては歩きやすい道ですが、崩落した岩が道を塞いでいるところもあります。道端の石碑には「天保六年」と刻まれていました。天保といえば、江戸三大改革の1つ、水野忠邦による天保の改革が有名ですが、それが行われたのは、この6年後の天保十二年。こういうものを見ると、江戸時代が身近に感じられます。
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 斜面をトラバースしなければならない箇所もあり、転落しないように慎重に進みました。
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 大きな岩の下をまわり込むようなところもあります。
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 こんな立派な石積みが残っていました。単なる土留めではなく、建物があった名残のようにも見えます。茶店があり、峠を越える旅人がここで一息入れたのかもしれない、などと想像してしまいました。人や馬が頻繁に行き交った往時の情景が目に浮かんでくるようです。
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 ここが市峠です。この道は、塩田平を経て上田城下へと通じていました。山地を避けて大回りするよりは、この最短ルートを利用する人の方が多かったのではないでしょうか。昔の人にとっては、この程度の峠越えは苦にならなかったのかもしれません。
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 このあたり一帯は松茸山ですから、入山権の無いよそ者が立ち入らないように、テープが張られていました。こうした山を「止め山」といいます。「止め山につき、無断入山者は罰金20万円」などと書かれている場合もあります。
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 市峠から富士山へは、享和元年(西暦では1801年)と刻まれた古い石仏の後ろを登っていくのですが、どこが道なのかはっきりしません。
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 樹間から鹿教湯の温泉街を望むことができます。
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 傾斜がどんどんきつくなります。この先は、自分の身体を保持するのがやっとという急斜面となり、写真を撮る余裕はありませんでした。
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 ようやくたどりついた富士山の山頂です。
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 小さな山名プレートが、松の木に取り付けられていました。日本で二番目に高い富士山ですから、もう少し立派な表示があってもよさそうですが・・・。
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 下山後、鹿教湯温泉で汗を流し、今年まだ一度も口にしていなかった松茸を少しばかり賞味しました。松茸の握り寿司に松茸入茶碗むし、松茸御飯。本当は、そちらが目的だったのではないかって?「それも」ということにしておきましょう。
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台鉄自強号塗色の電車、浅間山麓を快走

2018/12/02 12:30
 しなの鉄道に、先月15日から、今まで見たことのない塗色の電車が走っています。初めて目にした人は、何だろうあの車両はと驚くのではないでしょうか。電車そのものはしなの鉄道が所有する115系電車ですが、1編成(3両)の塗色を台湾鉄路局(台鉄)の自強号(EMU100形交流電車、すでに定期営業運転は終了)をイメージしたものに変えて運行しているもの。本年3月に、しなの鉄道と台鉄は「友好協定」を結び、双方に同名の駅が存在する田中駅は姉妹駅となりました。そのような関係から、台鉄自強号塗色の電車の登場となったわけです。
 今年は、直江津から伸びてきた官設鉄道(のちの信越線)が軽井沢まで開通して130周年という節目の年です。それに因んだ様々なイベントが行われていることについては、以前のブログでも触れたとおりですが、上田〜軽井沢間の開業日である12月1日には、台鉄自強号塗色の電車を用いた臨時電車が運転されました。列車名は下りが「信越線軽井沢〜上田開業130年記念号」、上りは「台鉄・田中駅友好記念号」。それぞれにヘッドマークも付くというので、ポン太もカメラをもって出かけてみました。
 見慣れた浅間山麓の風景の中を走る台鉄自強号塗色の電車。違和感があるかと思いきや、冬枯れの野や森には、むしろこのような明るい雰囲気の電車が良く映えます。台鉄自強号色の電車は、この先3年間、普通電車や快速電車として運用されるということなので、目にする(利用する)機会はかなりありそうです。


 イベント列車の人気は衰えず、今回もたくさんのカメラの砲列ができていました。
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 浅間山麓(御代田〜平原間)を行く「信越線軽井沢〜上田開業130年記念号」です。
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 まわりの冬枯れた風景にこの色はよく映えます。
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 信濃追分の森の中(信濃追分〜御代田間)を行く「台鉄・田中駅友好記念号」です。
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 ヘッドマークに大きく「田中」の文字が入っています。台鉄の田中駅が姉妹駅であるということをアピールしているわけですが、田中駅では、この日が開業記念日であることに因んで、全国の田中さんに同駅に集合してもらうというイベントが行われました。田中姓であるということが証明できれば、『「田中さん」来駅記念プレート』と同日のみ有効な軽井沢・長野フリーきっぷを進呈するということでしたが、果たして何人の田中さんがそれをゲットしたのでしょうか。
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初冬は寂しきものなれど

2018/11/30 22:48
 浅間山麓に暮らしていて、1年中で一番寂しさを覚えるのは、11月下旬〜12月下旬ではないでしょうか。地元産の野菜は収穫が終わってしまい、賑わっていた直売所の多くが冬季閉鎖となります。別荘に滞在していた人たちもその大半が去り、ウォーキングをしていても誰にも出会わないことが多くなります。紅葉が美しかった山や森も枯れ木ばかり。日没がどんどん早くなっていくことも、寂寥感の一因です。雪が積もってくれれば、雪化粧した木々を眺めたり、冷え込みが厳しい日には、霧氷の出現を期待したりといった別の楽しみがあるのですが、初冬にはまだそれはかないません。
 殺風景な茶系一色のこの季節ですが、良いこともあります。それは空気が澄んできて、遠くの山、とりわけ北アルプスの山々を望むことがきることです。先日も西の空にくっきりと浮かんだ槍ヶ岳を見つけて、嬉しくなりました。夕焼けの色が一段と鮮やかに見えるのもこの季節ならではといえましょう。枯れ木もシルエットになると、まるで印象派の絵画のようです。そのようにポジティブにとらえれば、この季節もまんざら悪くはないかもしれません。寂しい初冬の黄昏時こそ絶好のウォーキングタイムと考え、今日も歩き回ったポン太でした。


 レタスやキャベツなどの高原野菜を栽培していた畑も、このように寂しくなりました。後ろに見える山は、ポン太がしばしば登っている平尾山です。
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 こちらの畑にも作物は何もありません。蓼科・八ヶ岳連峰のシルエットがなかったら、単なる冬枯れの寂しい風景になってしまいます。
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 浅間山の山頂部に少し雪がついています。ポン太が目視している限りでは、今季3度目の冠雪です。当地では「浅間に三度雪が降れば、里でも雪が降る」といわれていますが、今年はどうでしょうか。
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 黄昏時の水辺の風景は、さながら印象派の絵のようです。
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 ポン太のねぐらから一番近いところにあったコンビニ、ローソンが突然閉店してしまいました。こちらは冬枯れというわけではなく、何か事情があったのでしょうが、閉店後すぐに白く塗りつぶされてしまった看板を見ると、寂しさを禁じえません。
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 夕焼け空に浮かぶ槍ヶ岳です。こんな感じに見えるのはこの季節ならではです。
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 蓼科山も神々しく見えます。
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 霧ヶ峰方面のみごとな夕景です。上空を飛ぶ飛行機がアクセントになっていました。
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 中山道を歩いているうちに日没となりました。振り返ると燃えるような夕焼け。明日も天気は良さそうです。
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平原駅物語 〜浅間山麓の駅物語<その5>

2018/11/26 09:17
 平原駅と聞いてピンとくる人は少ないのではないでしょうか。しなの鉄道で軽井沢から4つ目、御代田と小諸の間にある駅ですが、この駅で乗降する人の姿を見ることは稀です。何しろ駅前にある人家は1軒のみで、ホームから見えるのは田と畑ばかり。最近はやりの「秘境駅」といっても過言ではないかもしれません。
 1日の乗降客数もしなの鉄道線内最少の181人(2017年度)。その次に少ない信濃追分駅の534人と比べても3分の1というレベルです。国鉄時代から無人駅でしたが、当時は木造駅舎がありました。今は、駅舎代わりの車掌車(ヨ14364)が置かれているのみです。
 平原駅は信越本線開業時には存在していません。同線の輸送力増強(単線時代、列車増発には交換設備が必要)をはかるために、1921(大正10)年10月10日に設置された信号所がそのルーツです。地元の人々から、列車が停車するのに利用できないのはどうかという不満が出て、特別に乗降が許されたという時代もあったようですが、1952(昭和27)年1月10に旅客駅として正式に開業しました。
 駅名は旧平原村(現在は小諸市の大字)に由来します。その主たる集落は旧北国街道沿いにあり、江戸時代には間の宿として栄えた歴史があります。その集落を経由して平原駅へ行こうとしたことがありますが、道がさっぱりわかりません。「駅入口」といった類の標識が一切ないのです。また、しなの鉄道を跨いでいる国道141号から駅へ通じる道の入口にも何の表示もありません。これほど行きにくい、いや行きたくても行けない駅は少ないと思います。
 駅のまわりは前述のとおり田と畑ですが、直線距離で数百メートルほどの高台には新興住宅地が形成されていたり、集合住宅もあるなど、かなりの人が住んでいます。ところがそうした住宅地から駅へ通じる道が全くといってよいほど整備されていないのです。眼下を電車が走っているのに利用できない。秘境ではないのに、秘境駅化している。これでいいのだろうかと思うポン太でした。


 国道141号の橋の上から見下ろした平原駅とその周辺です。田畑以外何もない、秘境駅のムードが漂っています。
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 車掌車が平原駅の「駅舎」です。昔は貨物列車の最後尾に必ず連結されていた車両なので、懐かしい雰囲気ではあります。
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 ホーム側からみたところです。
 
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 車掌車の中はこうなっています。
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 こんな張り紙がありました。静かなので読書にうってつけとは・・・。小諸市青少年補導センターが掲示したものですが、利用者を増やそうという方向性は感じられません。
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 平原駅を発車した下り列車です。晴れていればこのように右手前方に北アルプスを望むことができます。その手前の高台に新しい住宅がいくつも建っていますが、そこから直接駅へ行く道はありません。
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 平原駅の少し御代田寄りからは浅間山がよく見えます。斜面を登っていく道がありますが、そこをたどっていくと平原の集落(かつての平原宿)にでます。駅から徒歩圏内の家の数は決して少なくはありません。
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 旧街道(北国街道)らしい趣のある平原の街並みです。
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 平原の集落から駅へと下る道の入口ですが、何の標識もなく、この道を進んでよいものか迷ってしまいます。
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 こちらは、国道141号です。平原駅へは、青地に白矢印の道路標識がある角を左に曲がらなければならないのですが、これまた何の表示もなく、多くのドライバーは駅の存在を認識することなく通り過ぎて行きます。
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 これが国道141号と平原駅を結ぶ道(メインルート)です。対向車が来たらすれ違えない狭さですから、この先に駅があるのだろうかと不安なってしまいます。
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「まんぷく」と小諸

2018/11/24 09:18
 このところ毎朝8時になると、NHKの連ドラ『まんぷく』に釘付けになってしまうポン太です。これほど熱心に連ドラを見るのは、3年前の『あさが来た』以来でしょうか。『まんぷく』の主人公、立花萬平のモデルは、インスタントラーメンの発明者にして日清食品の創業者である安藤百福。このような実在の人物をモデルとし、歴史的背景をからめながら展開していくドラマがポン太は好きなのです。『あさが来た』もそうでした。各場面に登場する小道具類などが、本当にその時代に合っているものなのか、時には「これはおかしいぞ」などとつぶやきながら楽しめるのが、この手のドラマが好きな理由かもしれません。
 実はポン太は、このドラマが始まるだいぶ前から、安藤百福の名をしばしば目にしておりました。それは、小諸の日帰り温泉施設「あぐりの湯」の近くに、「安藤百福センター」という施設があるからです。百福は「食とスポーツは健康を支える両輪である」という理念の持ち主で、自然体験活動をとりわけ重視していたということです。その遺志を受け継ぎ、生誕百年記念事業として設立されたのが、安藤百福記念自然体験活動指導者養成センター(通称安藤百福センター)でした。自然環境に恵まれた小諸は、そうした活動を行うのにふさわしい場所として選ばれたわけです。
 ラーメンがそれほど好物ではないポン太でも、インスタントラーメンのお世話になることはあります。数あるインスタントラーメンの中で、比較的食べる回数が多いのが日清の「ラ王」。最近気づいたのは、パッケージが変わったことと麺の著しい進化です。ほとんど生麺のような食感になっていて驚きました。日清食品の企業理念の1つに、百福の言葉である食創為世(世の中のために食を創造する)というのがあるそうです。麺の進化は百福の理念のなせるワザなのか、などと思いながらラーメンをすすり、「まんぷく」したポン太でした。
 
 小諸の「あぐりの湯」を目指してクルマを走らせると、このような標識が目に飛び込んできます。「安藤百福センター」とは何だろうか、誰でもそう思うのではないでしょうか。
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 その先には、もう少し詳しいこんな看板もでています。
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 ここが安藤百福センターの入口です。
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 入口から坂道を少し登ると、自然体験活動指導者養成センターが見えてきます。周囲の環境にマッチしたお洒落な建物です。
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 センターの裏には御牧ヶ原台地が広がっています。この自然も学習対象なのでしょうね。
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 安藤百福センター付近からは浅間山や浅間連峰の山々が一望できます。百福自身が、生前に、この地に立ったことがあるかどうかはわかりませんが、この景観を見れば、誰しも自然はすばらしいと感じるはずです。
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 ポン太が紹介するまでもありませんが、これが「ラ王」担々麺のパッケージです。
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 本日つくったのは担々麺そのものではなく、ポン太特製の「唐揚ラーメン」です。ピリ辛で、寒い日は身体が温まります。
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漬け物はやっぱり野沢菜

2018/11/22 00:18
 この季節、農産物の直売場で最も目立つ野菜は野沢菜です。店頭にうずたかく積み上げられていて、こんなに買う人がいるのだろうかと思うほどです。信州では、野沢菜漬けは極めてポピュラーな漬け物で、冬の訪れを前に、多くの家庭であたりまえのように漬けている、と見て間違いないでしょう。 
 浅間山麓に移住する前は、すでに漬け物になっている野沢菜を買ってきて食べることはあっても、自分で漬けようなどと考えたことはありませんでした。そもそも、生の野沢菜を八百屋やスーパーで売っているのを見たことがないのですから当然です。しかし、直売場に山積みされている野沢菜を目にすると、漬けてみようかな、漬けたほうが良さそうだ、いやこれは漬けねばならぬ、という脅迫観念が生じてしまいます。元々、野菜が乏しくなる厳寒期を乗り切るための保存食だったわけですから、信州の冬の食卓に無くてはならぬものであり、お茶請けにも欠かせない必須の食べ物といえましょう。ここはもう、「郷に入らば」の精神を発揮して、漬けるしかありません。
 一般的な野沢菜漬けといえば塩漬けですが、樽で大量に漬けても、わが家ではとても消費しきれませんし、塩分の摂り過ぎになるのも心配です。少量で美味しく漬けられるのは醤油漬けだと聞いて、そちらをつくってみることにしました。レシピは、直売所のおばさんに教えてもらいましたから、この地域のみんなが食べている、浅間山麓の味ということになります。
 結果はどうだったか。これが想像以上の美味で驚きました。やっぱり漬け物は野沢菜だね、と自慢げに話したくなってしまったポン太です。

 量が少な目の束を購入したつもりですが、このボリューム。これで値段は300円でした。
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 まずはよく水で洗わねばなりませんが、なにしろ丈が高いので、ふつうのバケツにはおさまらず、一苦労です。
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 洗った後は、3〜5センチほどの長さに刻み、樽の中へ投入しました。葉が多すぎると美味しくないということでしたので、先端部分(4分の1程度)は取り除き、豚肉と炒めておいしくいただきました。
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 後は、砂糖、酒、醤油、酢を教わったとおりの比率で入れ、少量の昆布と鷹の爪を加えるだけです。これがすべて投入した後の姿です。
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 重しを置けば漬け込み完了。ふたをして、外気と同じ温度になる場所に保管しました。
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 それから二日後、はやくも水があがってきました。順調です。
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 これが漬け込んでから1週間後の状態ですが、もう食べられそうです。
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 待ちきれずに少しお皿にとって食べてみました。う〜んいける。まだちょっと浅漬けの感じですが、味は上々。この先どこまで美味しくなるのか楽しみです。
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秋はフィナーレ

2018/11/19 10:52
 美しかった紅葉の季節は去り、間もなく長く寒い冬がやってこようとしています。山はすでに枯れ木ばかりになってしまいましたが、里ではまだ落葉松や白樺の黄葉を見ることができます。とりわけ見事なのが、佐久平の長野牧場(正式名称は家畜改良センター茨城牧場長野支場)。この牧場の落葉松の葉がすっかり落ちてしまうと、冬将軍の到来は待ったなしということになり、冬用タイヤへの交換、厳冬期用衣類やグッズの準備等、冬対策を急がねばなりません。
 今年は面白いことに気づきました。それは牧場の脇を走る道路沿いに桜の花がたくさん咲いていたことです。えっ、晩秋に桜?と驚きましたが、すぐ近くに「長野牧場創立百周年記念植樹 カンザクラ」という説明板があり、納得。苗木を植えてから12年が経過したようですが、今は背丈以上の大きさに育ち、花をたくさん咲かせるだけの体力がついたということでしょう。それにしても紅葉(黄葉)した木々をバックに咲く桜というのは、美しいだけでなく、手品を見ているような面白さがあります。



春は桜の名所として知られる長野牧場ですが、秋も風情があります。
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 落葉松の黄金色の黄葉はみごとです。
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 道路沿いの白樺並木も黄葉していました。
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 まるで北海道のような、この開放感が長野牧場の魅力です。
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 地元の人々の散歩コースになっている白樺と落葉松の並木道です。
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 浅間山と紅葉(黄葉)した木々をバックに咲くカンザクラです。
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 こうして写真に撮ると、季節はいったいいつなのかと思ってしまいますね。
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軽井沢で山登り

2018/11/17 12:43
 三年前に放映されたNHKの「ブラタモリ」軽井沢編で、避暑地軽井沢ができたのは離山のおかげという話を取り上げていました。現在の浅間山ができるよりもずっと昔、離山付近で大噴火が起き、その噴出物によって以前は湖だったところが埋め尽くされて、高地でありながら、広く平らな土地がつくられたというのです。
 離山の標高は1256m。そんなに高いわけではありませんが、火山は火山。お椀を伏せたようなその山容(鐘状火山or溶岩ドーム)は独特で、軽井沢のシンボルと言ってもよいでしょう。旧軽井沢と中軽井沢(沓掛)の中間に位置し、他のどの自治体とも境を接していない、正真正銘の軽井沢の山でもあります。
 軽井沢の市街地との標高差は300mほどですから、登山の対象としては、物足りないと思われるかもしれませんが、頂上からの展望もよく、登ってみる価値のある山だと思います。ただし、簡単に登れるからといって、甘くみてはいけません。ここは野性動物の生息地であり、ポン太も、目の前を、イノシシの親子がドタドタと駆け抜けていく場面に遭遇したり、猿の群れに囲まれて往生した経験があります。もちろん熊もいますから、注意するにこしたことはありません。
 登山ルートは東側からと南側からの2つがあります。東口ルートは、別荘地の中をゆるやかに登っていく道で、一般車は通行止めとはいえ、頂上付近まで車が通れるような広い道が通じています。南口は、軽井沢町歴史民俗資料館の裏手からいきなり山に入るルートで、細く険しい登山道が続きます。後者の方が山登りらしい感じがして、ポン太はそちらを選択することが多いのですが、先日は、最終盤の紅葉見物も兼ねて、前者のルートで登ってみました。いつもならつまらないと思う別荘地内の舗装道路も、紅葉に彩られていると別物になります。葉の落ちた樹間から望む旧軽井沢の街並みも意外性があり、東口ルートで登るならこの時期をおいてほかにないと思ったポン太でした。


 軽井沢東部小学校の前が東口登山道の入口です。
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 別荘地の庭では、残り少なくなったモミジが真っ赤に燃えていました。
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 別荘地内にも、登山道の標識が随所にあり、道に迷うことはありません。
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 別荘地の後ろに、これから登る離山が見えます。
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 登山者心理としては嫌なものである舗装道路が続きますが、この景観なら許してやりましょう。
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 別荘地が尽きたところに記帳場があり、ここからが山登りです。
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 でました、熊注意の看板。無視してはいけません。
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 その先もずっとこんな道が続きます。樹間からの旧軽井沢方面の眺めが救いです。
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 頂上まであと900メートルというところから、ようやく山道らしい感じになりました
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 展望台からみた軽井沢駅周辺の街並みです。プリンスのスキー場は、すでに一部がオープンしています。
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 頂上付近は台地状になっていて予想以上に広いのと、落ち葉で道が見えにくくなっているので、標識を見落とさないようにしないと迷ってしまいます。
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 わずかに残っていた紅葉です。
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 ここが離山の山頂です。
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 山頂からは、浅間山の迫力ある眺めが楽しめます。
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 少し霞んでいますが、八ヶ岳・蓼科方面の眺めもみごとでした。
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 下山後、雲場池に寄ってみました。紅葉シーズンが去り、池畔は静寂に包まれていました。腐っても鯛、枯れても雲場池ですね。
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心に栄養補給、芸術の秋

2018/11/13 15:35
 秋は、展覧会やコンサート、演劇などのイベントが目白押し。田舎は自然には恵まれているものの、文化的な活動が低調でイベントも少なく退屈だ、という話をよく聞きますが、浅間山麓に限ってはそのようなことはありません。都会で生活していたころと比べて、むしろ文化的行事に出かける回数は増えました。会場へのアクセスが容易であることや、入場料が廉価である(もしくは無料の)場合が多いので、気軽に参加することができるのです。
 望月宿で古楽器の演奏を聴いたことについては以前のブログで触れたとおりですが、そのほかにも、軽井沢町の追分宿郷土館で行われたリゾートコンサートや御代田町「エコール御代田」のサロンコンサート、佐久市「コスモホール」の佐久室内オーケストラの定期演奏会(曲目はウェーバーのファゴット協奏曲ほか)など、この秋もいろいろなイベントに参加し、楽しませてもらっています。
 先週の日曜日には、「コスモホール」で市民ミュージカルの公演があり、ポン子とでかけてきました。この催しは、今年で10回目ということですから、恒例行事として市民に定着しているといってよいでしょう。今年の内容は、佐久出身の社会運動家で、農村婦人の解放と女性の地位向上に尽力した丸岡秀子にスポットをあて、その苦難の半生を描いたものでした。題して「心の中の光となって〜人間物語丸岡秀子」です。
 昭和30(1955)年、ようやく実現にこぎ着けた第一回母親大会(議長は羽仁説子)で、丸岡秀子が「夫を主人と呼ぶのはやめましょう」と演説するシーンから物語りは始まりました。当時の熱気が伝わってくる演出で、最初から舞台に引き込まれます。造り酒屋の長女として生まれながら、母親の死で里子に出され、辛酸をなめた秀子の子供時代。それを演じた子役のセリフ回しや仕草が堂々としており、かつ自然であることにも目を見張りました。随所で演奏された篠笛も効果的で、その演奏の見事さに感動しましたが、東京芸大で邦楽専攻というプロフィールを見て納得。出演者の総数100人以上という、躍動感溢れる舞台に圧倒され続けた3時間でした。まさに市民の市民による市民のためのミュージカル。佐久の文化の底力と地元愛の深さを感じたポン太でした。

 
 これは追分郷土館で開催されたリゾートコンサートの様子です。琴の演奏会でしたが、実はポン太にとって、琴の演奏を聴くのは初体験。なんとなく、良家の娘さんが優雅かつ上品に演奏する楽器というイメージでしたが、実際の演奏は変幻自在。音域もおどろくほど広く、何も知らないくせに何だと叱られそうですが、ハープ以上に表現力のある楽器ではないかと、感動してしまいました。
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 三台の琴のコラボ(琴の場合にそれを何というのかわかりませんが)は迫力満点で、音が激しく上下して緊張感が高まるところなどは、現代音楽を聞いているような気分になりました。
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 この日は、近くの旧油屋旅館の庭で「ホンモノ市」が開催されていて、テントの中には販売者自身が制作した作品が並んでいました。
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 有志によるものでしょうか。ジャズバンドの生演奏も行われていて、そちらも楽しめました。
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 こちらは、市民ミュージカルが上演されたコスモホールのロビーです。大きなポスターが掲出され、後ろの壁際では、丸岡秀子関連のパネル展示が行われていました。
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 パネル展示を熱心に見る人が多く、中には「丸岡先生のおかげで私の両親は結ばれた」というような会話をしている人もいました。丸岡秀子は、政治家の井出一太郎や作家の井出孫六の異母姉にあたる人ですから、パネルの中には井出家の人々が一堂に会した写真もありました。
 
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 井出家が営む佐久市臼田の橘倉酒造です。この家の長女として生まれた秀子ですが、里子に出されてしまったので、ここで育ったわけではありません。
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 パネルの写真の中には、志を同じくする平塚らいてう(右)と語らう丸岡秀子の姿もありました。
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 ロビーの掲示をみていますと、冬場も様々なイベントが行われるようですので、次は何を見に来ようかと、はやくもそんなことを考えてしまいました。佐久だけでなく、軽井沢や上田でもいろいろな催しがありますから、「芸術の秋」が終わっても、心の栄養補給に困るということはなさそうです。
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柿は寒いのが苦手?

2018/11/10 10:03
 柿はポン太の大好物です。数ある果物の中で、どれか1つを選べと言われたら、たぶん柿と答えるのではないでしょうか。味はもちろんですが、晴れ渡った秋空に良く映えるあの色(柿色)もすばらしく、古民家の傍らにたくさんの実をつけた柿の木があるだけで、原田泰治の絵のような風情を感じます。
 大好きな柿を自分でも育ててみたいと考え、浅間山麓に移住して最初に植えた果物が柿でした。しかしこれは大失敗。1年足らずで枯れてしまいました。氷点下15度にもなる冬の寒さに耐えられなかったようです。改めて、近隣の家の庭を眺めてみると、柿の木のある家は1軒もありません。やはりここでは無理だったのです。
 佐久平や小諸まで下れば、柿の木を見かけることはありますが、ほとんどは小粒の渋柿です。干し柿も大好きなポン太は、直売所で調達した渋柿の皮をむいてベランダに吊してみました。気温が低いせいか、カビが生えることもなく、順調にしぼんでいきます。寒いのが苦手な柿ですが、干し柿づくりにとっては寒さは味方というわけです。
 先日、東京の友人から、自宅の庭で収穫した大量の甘柿が届きました。そのあまりに見事な形と色に感激し、お盆に載せて鑑賞してしまいました。さらには、庭に持ち出し、紅葉とコラボ。まずは目で晩秋の風情を味わったポン太でした。


 友人から届いた柿を庭に置いて「鑑賞」しました。柿は見た目も美しい果物です。
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 紅葉とのコラボ。これぞ日本の秋という感じがします。
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 佐久平パーキングエリア付近で見つけた柿。あまりに小粒でしかも渋柿なので、収穫されることもなく放置状態です。柿好きのポン太から見れば、もったいないような気がしますが・・・。
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 直売所で調達した渋柿を「柿すだれ」にしてベランダに吊してみました。小さいので皮むきが大変ですが、飾り物のようで絵になります。
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 柿と古民家と紅葉した山。これぞ「ふるさとの秋」という感じですが、これは北信の高山村で撮影したもの。浅間山麓では、残念ながら、このような風景を見ることはほとんどありません。
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古城には紅葉がよく似合う

2018/11/06 19:01
 紅葉の話ばかりで恐縮ですが、どうしてもこの時期は、紅葉狩りのスイッチが入ってしまっているので、ご容赦ください。
 前のブログに記したとおり、今年の紅葉の進み方ははやく、軽井沢周辺はすでに「色あせはじめ」という状況になっています。しかし、それよりも標高の低いところは、いまが盛り。昨日、来客を案内して小諸の懐古園(小諸城址)へでかけてみましたところ、これ以上は望めないほどの見事な紅葉を楽しむことができました。小諸の標高は650m前後ですから、ちょうどそのあたりまで、紅葉前線が降りて来ているわけです。
 紅葉の時期に懐古園を訪れたのは3年ぶり。懐古園自体は何も変わっていませんが、赤や黄色の葉に彩られた城跡というのは、実に趣があり、これぞ秋という感じがします。山の紅葉も、軽井沢のちょっとお洒落な紅葉もすばらしいのですが、城跡というのは人の世の栄枯盛衰を強く感じさせるところであり、紅葉が華やかであるほど哀感が漂うところに、他の場所とは異なる魅力を感じます。
 小諸は武田信玄の信州攻略の拠点となったところです。山本勘助が築城したともいわれていますが、現在の形に整備したのは、江戸幕府開府後、初代小諸藩主となった仙石秀久とのこと。城下町よりもお城の方が低い位置にある「穴城」という珍しい形をしています。自然の深い谷(田切地形)を巧みに利用しているところから、そうした谷を彩る紅葉もまた魅力の1つです。
 小諸は、島崎藤村ゆかりの地であり、城址を散策していると、あの有名な「千曲川旅情のうた」の一節が頭に浮かんできます。「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ・・・」
 気持ちの良い秋の一日を味わうことができた懐古園でした。

 懐古園入口の三の門を入り、坂を登ると二の丸跡があります。その上からの眺めは見事でした。
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 赤い色が目立つ北の丸跡付近の紅葉です。
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 石垣の曲がり角からみた紅葉も風情があります。
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 藤村記念館前にある大ケヤキとそのまわりの紅葉です。
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 馬場の跡に昔からある東屋ですが、紅葉の季節にはその鄙びた味わいが一層増すように感じます。かつて、草笛を吹く禅僧がいたのはこのあたりです。ポン太もその音色を何度か聞いたことがありますが、みすぼらしい身なりでしたので、物乞いと間違われることもあったようです。1958(昭和33)年から亡くなる直前まで、22年間にわたり毎日草笛を吹き続けていた由。その僧侶が、横山祖道という方であるということを知ったのは、ずっと後になってからです。
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 空堀のかわりをしていた谷も、紅葉に彩られています。
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 千曲川を眼下に望む「水の手展望台」です。懐古園の名所の1つで、この近くに「千曲川旅情のうた」の碑があります。
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 千曲川の畔や周囲の山々も良い感じに色づいて、満足できる眺めになっていました。「千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて・・・」という心境になるかどうかはわかりませんが。
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 廃城となって荒れていくお城を憂いた元藩士たちが、本丸跡に懐古神社を祀り、公園として整備したそうです。その神社脇の池のまわりも、きれいに紅葉していました。
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 天守台下のもみじの色があまりにも赤いので驚きました。
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 これも天守台下の風景ですが、古城の石垣と紅葉は、本当によく似合います。
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浅間山麓の紅葉ピークに

2018/11/03 19:23
 いま信州で紅葉がピークをむかえているのは、標高およそ700〜1000mのエリアです。ポン太がねぐらにしている森の標高は900mですから、今まさに紅葉真っ盛り。窓の外へ目をやれば、居ながらにして、日々刻々色合いが変化する紅葉を楽しむことができます。一年中で一番幸せな時間を過ごしていると言っても過言ではないかもしれません。
 散歩に出かけるのが楽しく、歩きたくてしかたなくなるのもこの時期です。紅葉がきれいなのは、有名なスポットだけではありません。公園はもちろん、一般住宅や別荘の庭の木々も見事に紅葉していますので、散歩をしながらそれらを見て回るというのも楽しみの1つです。
 ポン太の個人的な感覚としては、今年は、色づいてから落葉するまでのスピードが、例年より速いような気がします。もし、浅間山麓の紅葉散歩を計画中という方がいらっしゃいましたら、できる限り早くお越しいただくのが良いかと思います。


 本日の浅間山と山麓の様子です。浅間山の中腹より下の方が紅葉していることがわかります。
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 窓から見たポン太の森の紅葉です。
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 これは先週撮影した、ポン太の森です。真っ赤に色づいていたツタは、今は散ってしまいありません。
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 ポン太の家のすぐ脇のもみじが見頃になりました。
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 いつもの散歩道からみた風景です。後方に八ヶ岳がみえます。
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 こういう脇道を見つけると、入って行きたくなります。
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 水辺(御影用水)一帯も紅葉が進んでいます。
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 散歩道のあちらこちらが紅葉しています。
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 すばらしいもみじの庭です。見とれてしまいました。
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  中山道沿いの木々も紅葉しており、この時期の街道歩きは快適そのものです。
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 御代田町のスポーツゾーン、雪窓公園付近の街路樹もきれいに色づいていました。
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 孫を遊ばせようとやってきた龍神の杜公園も色づいていました。巨大な龍の滑り台は、一見怖そうですが、2歳の孫と滑り降りることができました。
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 遊具のまわりもこの紅葉です。
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 御代田町の露切峡です。遊歩道などはなく、橋の上から眺めるだけですが、なかなかの景観です。
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 定番の紅葉名所、軽井沢の雲場池へやってきました。期待を裏切らない紅葉です。
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 モデルを使っての撮影でしょうか。ベトナムかタイの方のようでした。外国人にも大人気の雲場池です。
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 ワンちゃんにも紅葉はきれいに見えるのでしょうか。
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 池の奥のカフェも良い雰囲気です。
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 京都のお庭を思わせる風景ですが、これは別荘地内の池です。
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 雲場池は、その周辺の別荘地の雰囲気もすばらしく、みごとな紅葉に出会うことができます。
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 軽井沢駅前の大通りです。周囲の山々の紅葉も進んでいることがわかります。
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