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浅間山麓のブラタヌキ
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浅間山麓に移り住んだタヌキのポン太のブログです。どんなタヌキかって?それはプロフィールをご覧下さい。
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記録ずくめの夏がゆく

2018/08/16 22:31
 「記録的な」という言葉を何度聞いたことでしょうか。猛暑、豪雨、そして台風にも悩まされたこの夏の日本列島。浅間山麓も例外ではなく、最高気温が30度を上回る日が続き、これはもう一昔前の東京になってしまったのでは、と思うほどでした。台風12号来襲の際には、わが家でも大きな松の木が倒れて怖い思いをしましたし、その後片付けも大変でした。御代田町では「龍神まつり」が中止となり、地区の盆踊りも見送られました。参加するしないに関わらず、地域の行事がなくなるというのは寂しいものです。暑さは峠を越え、朝夕は秋風を感じるようにはなりましたが、行われるべきものが行われないと、なんとなく季節の区切りがつかないような気がします。
 一昨年あたりから、地域の行事を見にいくことが多くなったポン太ですが、毎年決まった日に行われる行事には、季節の移ろいをより強く実感させる働き、あるいは次の季節への心の準備をさせる働き、そのようなものがあるように思います。
 ところで、本物の台風だけではなく、先週は「孫」台風も来襲しました。可愛いことは間違いないのですが、これまた大変なパワーですから、ジイやバアはそれなりに疲れます。滞在予定の1週間が過ぎ、ようやく静かな日々がもどってきました。一息ついたところで、まだ収穫していなかったジャガイモ掘り、若干の野菜の収穫、そして庭の手入れといった屋外作業に取り組みました。1つ1つの作業はたいしたことがないように見えますが、半日もやっているとクタクタです。これが楽しいと思える、少なくとも苦にはならないというのが、田舎暮らしができるかどうかの分かれ目かもしれません。

 収穫したノーザンルビーという種類のジャガイモです。皮だけでなく中も赤く味が良いにもかかわらず、市販されているのを見たことがありません。半坪ほどのスペースで、これだけ穫れれば上出来ではないでしょうか。
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 今年は実のつきかたが悪かったトマトですが、アイコというミニトマトがようやくこのレベルになりました。
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 いつもの年ならもっとたくさん出てくるミョウガですが、今年はいまのところこの1つだけです。
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 昨年植えたばかりなのに4つも実ってくれた桃。そのうちの1つは直径7センチほどの大きさになりました。そろそろ食べ頃です。
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 ヒメリンゴ(アルプス乙女)の実も、一丁前に色づいてきました。
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 ポン太の好きな百日草が咲きそろいました。「洋」でもあり「和」でもあるところが良いですね。
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 今がさかりのコバギボウシです。花期がオオバギボウシより半月ほど遅いので、両方庭に植えておくと、長い間楽しめます。花の色はこちらの方が濃く、見応えがあります。
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なるか写真のメッカ〜浅間国際フォトフェスティバル開幕

2018/08/11 23:22
 本日(8月11日)、浅間国際フォトフェスティバルが開幕しました。会場は、御代田町の写真美術館(来年オープン予定)周辺エリアです。浅間山麓を、日本の、いや世界の写真のメッカにするという、大きな目標を掲げて始まったこのフェスティバル。今年はプレという位置づけながら、イベントとしてはかなり本格的なものであるという話でしたので、早速ポン太も出かけてみました。
 屋外、屋内(美術館内)の全ての作品を見てまわりましたが、第一線で活躍している内外の写真家の作品はどれも見応えがあり、写真というよりも現代アートに近いものもありました。写真というツールを利用して、多様な芸術表現を追求している、という言い方が適切かもしれません。
 館内に掲げてあった 「カメラに帰れ」という文言が目にとまりました。フェスティバルの展示作品を選ぶにあたって、その根底に据えたテーマは「カメラに帰れ」だというのです。つまり撮影装置としてのカメラへの回帰。過去半世紀、世界的カメラ企業の多くがこの日本の国で生まれており、初開催のこのフェスティバルにとって、実にふさわしいテーマだと記されていました。これにはポン太も大いに納得しました。
 このフェスティバルの特色の1つが屋外展示です。森の中を散策しながら作品を眺めるという経験は初めてでしたが、快適そのものと言ってよいと思います。カフェやビアスタンドも用意されており、疲れたらひと息入れることもできます。
 想像していた以上に素晴らしい、行ってみる価値のあるフェスティバルではないか、というのがポン太の感想です。地元だからひいき目にみているということはありませんので念の為。
 同フェスティバルは9月末日まで開催されます。会場はしなの鉄道御代田駅(軽井沢から3駅目)から徒歩10分ほどの便利なところです。


 会場に掲げられたフェスの看板です。
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 エントランスです。
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 展示館の壁面を利用した写真展示です。
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 展示館内に入ると、えっこれが写真、と思わせる作品が目に飛び込んできました。
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 布のように見えますが、これも写真です。
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 これは、いわゆる針穴写真機を用いて撮影した、浅間山の巨大な作品です。
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 上方からの眺めを意識した作品です。
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 お洒落なカフェもあります。
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 屋外展示にはこのようなスタイルのものもありました。
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 可愛いというか気味が悪いというか、不思議な作品です。
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 すだれのような輪の中に入って鑑賞する作品で、内側からは鳥が見えます。 
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 こんなお店も出ていました。
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 観光地によくある「顔出し穴」付の看板をモチーフにした、ちょっと怖さを感じる作品です。後方の建物は御代田町役場です。
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 エコールみよた「縄文ミュージアム」の屋外広場も展示会場になっていて、写真家の小山一成氏による、御代田町を題材にした作品が展示されています。14ヶ月にわたり撮りためたものということです。
 
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 これは龍神まつりの写真ですが、動きがあり、切り取り方もすばらしいですね。
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高原の駅よさようなら

2018/08/10 17:18
 以前のブログで、信濃追分駅が映画「高原の駅よさようなら」のロケ地であったことや、常磐線の浪江駅前にその主題歌の碑(高原の駅よさようなら誕生の駅碑)があることを取りあげました。その映画自体はこれまで見たことがなかったのですが、昨夜、軽井沢の追分公民館で上映会があることを知り、この機会を逃してはならじと出かけてきました。
 「高原の駅よさようなら」は、1951(昭和26)年に新東宝が制作したもので、主演は水島道太郎と香川京子です。トーキーですが、録音状態(保存状態?)が悪く、セリフが聞き取りにくいところが多々ありました。もっとも、ストーリー自体は、ありきたりなものですから、セリフをしっかり聞かなければ理解できないようなところはありません。興味の中心は何といってもロケ地となった当時の浅間山麓の風景です。
 最後の別れのシーンが信濃追分駅で撮影されたことは間違いなく、D50形蒸気機関車に牽かれた上り列車が信濃追分駅に進入してくるシーンは見応えがあります。それ以外の高原風景は、ポン太の見立てでは北軽井沢(浅間牧場周辺)で撮影されたもののようです。今ほど樹木が生い茂っておらず、荒涼とした風景の中を、砂埃をあげながら馬車が走り抜けて行くシーンは迫力があります。ちなみに、この映画には自動車も舗装道路も全く登場しません。古い映画が面白いのは、当時の風景や生活ぶりを知ることができることです。それも馴染みのある地域であればあるほど興味が湧くというもの。信濃追分駅が登場したシーンでは、観客の間から「へェー」とか「オー」とかいう声が漏れていました。
 「高原の駅よさようなら」と同じ1951年の松竹映画に「あの丘超えて」(主演は鶴田浩二と美空ひばり)という作品があるそうです。その映画にも信濃追分駅のシーンがあるということなので、ぜひ見たいものです。このほか、浅間山麓を舞台にした映画としては、初の国産カラー作品として知られる「カルメン故郷に帰る」(1951年、松竹)が有名で、草軽電鉄のシーンがたくさん出てきます。この映画はテレビで放映されましたので、ポン太も見ています。草軽電鉄が舞台の映画としては、このほかに、「山鳩」(1957年、東宝)という作品があります。小瀬温泉(映画の中では落葉松沢)駅の駅長を森繁久彌が演じているということなので、これもぜひ見たいものの1つです。
 日本全国どこでも、村おこし、町おこしが叫ばれていますが、まずは地域の過去を振り返ることが肝要ではないでしょうか。公民館が地域に関連のある古い映画を掘り起こして上映する。実にすばらしい試みであり、ポン太は大歓迎です。

 上映会のパンフレットより。主演の水島道太郎の後ろにある信濃追分駅の駅名板の次駅が「くつかけ」となっています。中山道沓掛宿由来の駅名でしたが、その後、中軽井沢と改称されてしまいました。
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その下の写真は現在の信濃追分駅としなの鉄道の電車です。この上りホームは、「高原の駅よさようなら」の時代と同じです。
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 映画の高原シーンは北軽井沢周辺で撮影されたものと考えられますが、そこを走っていた草軽電気鉄道は登場しません。主人公が訪れた療養所の最寄り駅が信濃追分という設定ですから、当然といえば当然です。
 下の鉄道地図は、東京日日新聞が、1928(昭和3)年元旦付録として配付したものの一部です。草軽電気鉄道(当時の名称は草津電気鉄道)はすでに全通しており、「草津鉄道」と記載されています。駅名の一部がなぜかカタカナ書きになっています。映画「高原の駅よさようなら」の時代よりかなり前のものではありますが、昭和初期の浅間山麓とその周辺の鉄道網を一覧できる面白い地図なので取り上げてみました。ただし、駅名の中には誤りもありますので、残念ながら正確な資料とはいえません。
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 資料を整理していて見つけた草津電気鉄道全通紀念のハガキです。1926年の全通時はそのような名称でした。草軽電気鉄道と改称されたのは1939年です。
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 軽井沢駅前には、草軽電気鉄道の特徴的な電気機関車デキ12形(13号)が保存されており、往時を偲ぶことができます。
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恐悦至極−アクセス数1万突破! 

2018/08/05 11:56
 連日の暑さで、ブログ更新のモチベーションは下がり気味。そんな中、ブログ管理ページの「アクセスレポート」をクリックしてみたところ、アクセス数が1万を超えていました。このブログを開設したのが昨年の4月ですから、それから1年と3ヶ月余りで、アクセス(閲覧)数が1万の大台にのるとは…。タヌキ冥利に尽きると言ってよいでしょう。アクセスして下さった皆様に心より感謝申し上げる次第です。
 この数字を見たことで、俄然やる気がでてきました。私的ネタで恐縮ですが、菜園と庭の現状を少しレポートしてみます。
 暑さ続きで野菜の不作と価格の高騰がニュースになっていますが、ポン太の小さな家庭菜園でも、葉ものはまったくダメでした。トマトも僅かしか実らずがっかりです。インゲンは実り始めたばかりなので、これからどうなるかわかりませんが、とりあえず口には入りそう。まずまずだったのは、ジャガイモ(ノーザンルビー)で、少し土を掘ってみたところ例年より大きめのイモがいくつもでてきました。良い意味で予想外だったのは桃です。昨年植えたばかりなので、収穫できるのは再来年ぐらいかなと思っていたのですが、粒は小さいながら合計4個の実が成りました。庭に目を転じると、6月にタネを蒔いておいたマリーゴールドと百日草が咲き始め、本格的な夏の庭らしい雰囲気になりました。
 少し風が涼しくなった夕方、水やりに外へ出てみると、咲いたばかりの百日草に赤トンボ(アキアカネ)がとまっていました。明後日(7日)は立秋です。暑い暑いといっているうちに、秋がすぐそこまで忍び寄ってきているのです。テレビの全国ニュースでは、「暦の上では立秋ですが・・・」といったフレーズを聞くことが多いのですが、浅間山麓の実感としては、「暦通り」に秋がやってきます。ポン太の森では、一部の樹木の紅葉が始まっていますし、散歩道ではコスモスが満開。秋の七草の代表である女郎花も咲いています。
 あれほど「困った困った」と言っていた暑さですが、間もなく高原の短い夏が終わってしまうのかと思うと、名残惜しいような気持ちになるポン太でした。
 「浅間山麓のブラタヌキ」を、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 少ししか実らなかったトマトですが、完熟した実は美味です。そろそろ食べ頃かな。
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 おっ、インゲンが大きくなっている。このままどんどん実をつけて欲しいなぁ。
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 土の中からでてきたノーザンルビー。皮も中身も赤いので、一見サツマイモのようですが、ジャガイモです。
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 こんな細い枝にもかかわらず、実をつけてくれた白桃。どんな味がするのか楽しみです。
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 マリーゴールドに囲まれてご満悦。この後ろでは百日草も咲き始めています。
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 ツリバナの一部はすでに紅葉しています。秋はすぐそこまで来ているのです。
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 一部のもみじは、ここまで紅葉が進みました。
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 8月2日から3日間、軽井沢では恒例の「軽井沢夏期大学」が開催されました。会場の中央公民館前には秋の七草の桔梗や女郎花(右側)がたくさん咲いていました。
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 「軽井沢夏期大学」は、後藤新平と新渡戸稲造が1918(大正7)年に創設した「軽井沢通俗夏期大学」がそのルーツということで、今年はちょうど百周年にあたります。避暑に訪れる碩学や各界の専門家の話を気軽に聞くことができるというメリットがあり、今日まで続いているわけです。今年のテーマは、「中央と境界−後藤・新渡戸が向き合った世界−」でした。聴講は無料、事前申込みも不要ですから、ポン太も毎年楽しませてもらっています。
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「ショー祭」に行ってみた

2018/08/01 22:47
 日本を代表する避暑地として、全国にその名を知られる軽井沢。この地が避暑地として優れていることを「発見」したのは、カナダの宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーでした。1885(明治18)年に、初めて軽井沢を訪れたショーは、風光のすばらしさと冷涼な気候に注目し、翌1886年、家族を伴ってひと夏を過ごしました。ショーは自ら別荘を建てただけでなく、友人や知人に紹介したことで、軽井沢の名が広まったのです。避暑地軽井沢にとって、ショーは大恩人というわけで、毎年8月1日に、ゆかりの地である旧軽井沢のショー記念礼拝堂において、「ショー祭」が行われています。
 浅間山麓エリアの歴史に関心を寄せているポン太としては、一度は見ておきたいイベントでした。ただ、この時期の軽井沢はひどく混雑するので、これまで躊躇していたのですが、幸い今年の8月1日は平日で、人出もそれほどではないのではと考え、出かけてみたというわけです。それでもクルマの利用は避けて、電車で軽井沢駅まで行き、別荘地内の道を2キロ半ほど歩いてショー記念礼拝堂へむかいました。
 今日の軽井沢は蒸し暑く、最高気温は31度台まで上昇。とても快適なウォーキングとは言い難い状況でした。それでも目には涼しげな緑陰の道をたどり、樹間に見え隠れるする別荘建築のレトロな風情を楽しめたので、まあよしとしなければならないでしょう。肝心の「ショー祭」は、式典からアトラクションまでそのすべてを見ることができました。その様子については下の写真をご覧ください。
 ところで、軽井沢が避暑地として大発展した背景には、アクセスの改善があったことを忘れてはならないでしょう。ショーが初めて軽井沢にやってきた年に、既設の日本鉄道(現・高崎線)に接続する高崎〜横川間の鉄道が開通。一方、直江津から軽井沢に至る鉄道も1888(明治21)年に開通しています。しかし、急峻な碓氷峠を越えなければならない横川〜軽井沢間の建設は遅れ、ドイツのハルツ山で実用化していたアプト(abt)式(英語読みではアブト式)を採用することで、1893(明治26)年4月1日にようやく開通しました。鉄道により首都圏と直結されたことで、政財界の要人や上流階層の人々が、こぞってこの地に別荘を設けるようになったのです。
 旧軽井沢銀座通りにある軽井沢観光会館の二階に、軽井沢の鉄道に関する展示コーナーが設けられています。展示物は「(旧)軽井沢駅舎記念館」(現在はしなの鉄道の軽井沢駅舎として利用)から引き継いだものが中心ですが、軽井沢のど真ん中に、このような展示コーナーが存在する意義は極めて大きい、ポン太はそう思います。

 駅からショー記念礼拝堂へ向かう道には、こんなレトロな別荘建築がありました。こういう建物を見ると、軽井沢が避暑地として長い歴史を刻んできた町であることを実感します。
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 ショー祭が行われるショー記念礼拝堂の前です。
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 一般参加者の席はこんな感じです。
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 ショーに関わりのある加、日、英の旗が入場し、式典が始まりました。
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 聖歌「アメイジンググレイス」の合唱、そして主教の言葉と続きました。
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 主催者挨拶、来賓祝辞といった型どおりの式典の最後はショーの胸像への献花でした。
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 主催者、来賓だけでなく、一般参加者の献花もありました。ポン太、ポン子も軽井沢には何かとお世話になっているので、先人への感謝の気持ちを込めて献花させていただきました。
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 式典の後は「アフタヌーン・コンサート」がありました。まずは、軽井沢少年少女合唱団による合唱です。
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 プロのギタリスト、ルナ・ケンゾー氏による演奏と弾き語りもありました。同氏は軽井沢に隣接する御代田町のご出身であるという説明がありました。すばらしい演奏技術を披露してくれたのですが、屋外であるため音が拡散してしまい、聞き取りにくいところがあったのが残念です。
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「ショー祭」の最後は、参加者全員が手を繋いで輪になり、「今日の日はさようなら」の大合唱。なんだかキャンプファイヤーみたいだと、ちょっとノスタルジックな気分になりながらも、大きな声で歌ってしまったポン太でした。
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 旧軽井沢銀座通りにある観光会館です。一階は観光案内所、二階が鉄道展示室となっています。
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 軽井沢町立東部小学校には、アプト式時代のED42形電気機関車(ED42 2)が保存されています。
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 アプト区間を行く現役時代のED42形電気機関車です。(熊ノ平ー軽井沢間、1963年8月7日撮影)
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自然は怖い、されど美しい

2018/07/29 11:59
 思わぬ時期に思わぬ方向から日本列島を直撃した台風12号。ここ浅間山麓も、昨夜は激しい風雨に見舞われました。夜遅く、どーんという大きな音がしたので、夜が明けるのを待って確認したところ、大きな松の木が1本、枝先が家の窓をこするような形で倒れていました。角度が少しずれていたら、屋根や窓を直撃した可能性もあり、肝を冷やしたポン太でした。
 森の中での生活は、ふだんは実に快適ですが、こういうこともありますから、自然を甘く見ることはできません。世の中なんでもそうでしょうが、プラスとマイナスが裏表になっている。総合的にみて満足できればそれでよし、ということかなと思います。
 太陽が顔を出したので外に出てみると、台風の名残の風にのって甘い香りが漂ってきました。山百合です。早々と梅雨が明け、猛暑が続き、今度は台風と、今年は季節がひと月近くずれているような感じがしますが、山百合は季節を間違えることなく、例年と同じこの時期にしっかり花を開いてくれました。庭で咲いている姿も悪くはないのですが、やはりその名のとおり、山の斜面や森の中の少し薄暗いところに咲いている姿が一番美しいように思います。大輪で目に鮮やかなだけでなく、香り高く気品のある山百合は、正に野に咲く花の女王。
 森の女王様に背中を押され、ノコギリとチェーンソーを手に、倒木との闘いにいざ出陣!のポン太でした。

 昨夜の大きな音の正体はこれでした。まさにぎりぎりのセーフ。倒れたのは松だけで、ほかの種類の木と比べて、松が最も風に弱いことがわかります。
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 枝の先が窓のすぐ近くまできていました。ほんの少しずれていたら、窓が粉々になっていたかもしれません。
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 台風をよそに、美しい姿をみせてくれたのが山百合。まるでつくりもののようです。
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 背景が暗いと美しさが際立ちます。
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 森の中のこんな場所に咲いているのがベストではないでしょうか。
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 崖下にひっそりと咲いている姿も絵になります。
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 こちらは山百合と同じ時期に咲くウバユリです。山百合と比べると地味ですが、飾らない雰囲気が野の花という感じがしてそれなりに気に入っています。茎が長いので葉が無いようにみえます。そこから、葉が無い→歯が無い=老婆→ウバユリとは、ちょっと可哀想なネーミングですね。
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 よく見れば下の方にしっかり葉があります。それでもウバユリとは…。
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佐渡紀行 その2−自然景観&文化景観−

2018/07/26 22:57
 金山の遺産を堪能した後は、佐渡の自然景観を見て歩きました。佐渡は日本海に浮かぶ島ですから、海の景観ははずせません。まずは絶景の誉れ高い尖閣湾へ。説明板にはノルウェーのハルダンゲルフィヨルドに勝るとも劣らない景観と記されていました。ノルウェーに行ったことがないので、比較はできませんが、切り立った海食崖が湾を取り囲んでいる景観は確かに美しく、鑑賞する価値は十分にあると思います。もちろん、氷河地形のフィヨルドとは成り立ちが異なっていますから、似たような景観とは言い難いような気がします。岩の上に形の良い松が生えているところなどは、むしろ日本的な海岸美という感じがします。資料館に展示されていた写真をみると、ここはなんと、映画「君の名は」(もちろんアニメではありませんよ)のロケ地でした。
 外海府とよばれる佐渡の北西部の海岸には景勝地が多いのですが、最北端に近いところまで行くと、観光客の姿がほとんど見られなくなりました。山が海岸線まで迫り、1車線の道路がアップダウンを繰り返す難所もあります。その先に、大野亀、二つ亀という美しい景観の場所がありました。
 佐渡最北端に立つのが弾崎(はじきざき)灯台です。灯台の脇の広場に二体の人物像が立っていました。ところが、そこへ至る道は草ぼうぼうである上、灯台の側から広場へ入るゲートが閉鎖されていて、何の像か確かめることができませんでした。後で調べてみると「喜びも悲しみも幾年月の像」だということです。ポン太も子供の頃にその映画を見たことがありますが、主人公の灯台守の任地の1つがここだったということまでは覚えていませんでした。
 佐渡の北西端エリアを見た後は、最南端に位置する小木半島へと移動しました。小木海岸といえば、「たらい舟」(地元では「はんぎり」と呼んでいます)が有名ですが、景勝地としても知られ、海岸段丘と海食崖、波食台が織りなす風景に特色があります。小木半島の先端に立つのが、沢崎鼻灯台で、そこが佐渡の最西端です。
 小木海岸には宿根木という実に興味深い集落がありました。かつて北前船の寄港地として栄えたところで、狭い路地を挟んで板張りの家屋が密集している景観は独特です。一歩その中に足を踏み入れると、タイムスリップしたような感じになります。歴史的街並みという点では佐渡随一の景観といえましょう。ここが最後の見学地であったこともあり、その印象は強烈で、もしまた佐渡を訪れる機会があれば、ここは絶対にはずせないと思ったポン太でした。

 尖閣湾です。ちょっと絵葉書的な写真で恐縮ですが、美しい景色なのでご容赦を。
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 断崖の下を行く船。絵になります。
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 水鳥の楽園のようです。
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 外海府の北の方は、このように山地が海に迫り、平地は僅かしかありません。
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 大野亀とよばれる岩山が海に突き出しています。確かに亀さんのように見えます。大野亀の周辺にはカンゾウの群落がありますが、すでに花の季節は終わっていました。
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 大野亀周辺の遊歩道はとても眺めが良く、もう一つの景勝地、二つ亀を望むことができます。
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 佐渡最北端の弾崎(はじきざき)灯台です。飛行機雲と灯台がクロスし、昼間なのに光線が出ているように見えました。この付近の海域では遭難事故が多く、この灯台は地元住民の強い要望により大正8(1919)年に設置されたということです。
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 灯台脇の広場に立つ「喜びも悲しみも幾年月」の像がこれです。せっかく設置してあるのですから、灯台側からアクセスできるようにしておくべきではないかと思います。ここまでしか近寄れず、何の像なのか確かめることすらできませんでした。
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 最北端から南西エリアへ移動する途中、佐渡最大の湖、加茂湖の畔を通りました。湖の南側に遊歩道があるのを見つけて、少し歩いてみたのですが、これがそこからの眺めです。トキの里にふさわしい、穏やかな風景でした。
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 加茂湖畔の漁業集落も風情がありました。1階に船を収納するスペースがあり、丹後半島(伊根)の舟屋に似ています。
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 昭和3(1928)年に設置された佐渡最西端の沢崎鼻灯台です。灯台が立つ台地は、枕状溶岩という珍しいものだそうです。直江津から小木へ向かう船舶が、第一目標として目印にするのがこの灯台ということですから、フェリーの乗客としてすでにお世話になっていたことになります。
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 小木海岸深浦の眺めです。
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 小木半島の宿根木は、北前船の寄港地として栄えたところです。ここがその港の跡ですが、白い円筒形の柱は、船を繋ぐための石杭で、安永5年(1776年)ごろに立てられたものということです。
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 港の奥にある宿根木の集落です。江戸時代以来の家並みがそのまま残っており、新潟県で唯一、「伝統的建造物群保存地区」に指定されています。一軒粗末な家のようにみえて、内部は凝ったつくりになっていたり、蔵を板壁で隠して財力があることをさとられないようにしていたりと、往時の繁栄を物語るものが随所にあり、実に興味深いところでした。
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 こんな狭い路地の奥に、郵便局があったというのも驚きです。
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 この風景、どこかで見たことはないでしょうか。そうです、吉永小百合さんを起用したJR東日本のポスターです。この写真でポン子が立っている場所に、吉永小百合さんがいます。えらい違いだって・・・?。それ以上言うと大変なことになっても知りませんよ。
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 佐渡からの帰路ももちろん佐渡汽船のフェリーを利用したわけですが、直江津港が近付いたころ、思いがけない光景を目にしました。遠目には、海に浮かぶタージマハルのように見えたのですが、なんと上越火力発電所のLNGタンクでした。船旅でなければ見られないものを見て、ちょっと得をしたような気になったポン太でした。
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佐渡紀行 その1−金山の遺産−

2018/07/24 21:29
 信州には山は山ほどありますが、海はありません。信州人が海に出かける場合、第一の選択肢となるのは越後の海、すなわち日本海です。テレビの報道によれば、直江津の水族館を訪れる客の4割は信州からということですから、先方にとっては大のお得意様ということになります。その先の佐渡まで、足をのばしている人の数は定かではありませんが、冬季を除き、直江津と佐渡の小木を結ぶフェリー(佐渡汽船)が運航されていますので、海を渡るのは簡単です。とはいえ、わざわざ陸続きでないところへ行くには、背中を押してくれる何かが必要です。ポン太にとってのそれは、「ブラタモリ」佐渡編の内容が面白かったこと、そして、佐渡汽船が企画した長野県民限定のクーポン券をゲットしたことでした。
 小木港に上陸してまず向かったのは、相川の佐渡金山跡。佐渡の金山は有名ですが、その遺構がどんな形でどれだけ残っているのかについては、実はポン太も良くは知りませんでした。「ブラタモリ」でその一端を知り、これはぜひとも自分の目で見ておくべきものではないかと思ったわけです。
 佐渡金山と聞くと、なんとなく幕府の奉行所が管轄していた江戸時代の金山というイメージが浮かびます。旅番組などでは、江戸時代の坑内の様子を再現している部分を紹介することが多いので、そう思ってしまいがちですが、実は、明治以降の近代化された鉱山の遺産の方がスケールが大きく数も多いのです。坑道はもちろん、機械工場、粗砕場、浮遊選鉱場、発電所、積出港、それらをつないでいたトロッコ軌道、鉱山の人々で賑わった街並みなど、実に様々な遺産を見ることができます。1601(慶長6)年の開山から、1989(平成元)年の閉山に至る388年間の金鉱山の遺産がセットでみられる、大変貴重な、そして魅力的な産業遺産であることは間違いありません。
 地元佐渡市では、世界遺産登録を目指しているということですが、すでに世界遺産となっている石見銀山と比較しても、見どころは多いように感じました。あとは、人類が共有すべき普遍的な価値という観点から、どのようなストーリーが描けるのか、そこに成否がかかっているように思いますが、どうでしょうか。

 直江津港フェリーターミナルの展望フロアから見た、佐渡汽船の高速フェリー「あかね」です。総トン数5702トン、最大速力30ノットのこの船で佐渡へ渡りました。
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 佐渡金山のシンボルのような「道遊の割戸」です。露天掘りで山がこんな形になってしまったというわけです。
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 江戸期の宗太夫坑も明治以降の道遊坑も、見学者の入口はここです。株式会社ゴールデン佐渡というところが一括管理していて、ここで入場料を払って入ります。入場券も金色でした。
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 まずは江戸期のエリアへ。人形を使って往時の坑内の様子を再現していますが、人形の表情がリアルで、遠目には本物の人間のようです。機械力が無かった時代の過酷な労働の様子がよくわかります。
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 宗太夫坑の見学を終え、外に出たところにちょうどよい休憩場所があり、金粉をトッピングした「純金ソフト」なるものを売っていました。話のタネに食べてみましたが、濃厚で大変美味。観光地にありがちな法外な価格設定ではなく、ごく普通の350円でした。
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 さていよいよ、明治以降の道遊坑の見学です。おっ、おっ、トロッコ軌道です。2トンバッテリー機関車がランプを点灯して停車しています。今にも動き出しそうなよい雰囲気です。ゲージを測ってみましたら、510mm弱でした。測る場所によって若干の違いがありましたが、20インチ(508mm)ゲージということでよさそうです。動力を用いる軌道としては最小の部類といえるでしょう。
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 こんな標識が残されているのもリアルでいいですね。
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 ここは道遊の割戸の真下にあたる採掘場ということです。ほんの少し前まで作業が行われていたのではないかと思わせるような雰囲気です。
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 道遊坑の出口です。坑道を出た先には機械工場があります。
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 機械工場の前です。機関車に乗っているのは本物の人間ではなく人形です。よくできています。
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 機械工場の中には、鉱山で使用した様々な機械類が保管されていますが、機関車を出し入れするための、こんなターンテーブルも残されていました。足で押してみたら簡単に動きました。
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 軌道が現役当時の雰囲気のまま残っているところもありました。鉱石が向かう先は粗砕場です。
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 正面の建物は粗砕場の上部にあたる部分で、ここから下に落とされた鉱石は、クラッシャーで破砕・分級されます。
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 入場料不要の場外にも見どころはたくさんあります。これは、三菱時代の大立竪坑です。
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 こちらは、低品位の鉱石を粉砕し、水銀を用いて金を回収する搗鉱場(とうこうば)の跡です。
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 山を下った北沢地区にも様々な施設の遺産が残されていました。これは、浮遊選鉱場の跡ですが、あまりにも巨大で圧倒されます。
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 こちらは火力発電所発電機室棟です。煉瓦積みの建物は趣があります。
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 その近くに、相川郷土博物館がありました。説明板には「明治18年工部省官営当時並びに28年宮内省御料局佐渡支庁当時の建造物」と記されていました。貴重な木造建造物です。
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 鉱石の積み出し(後には発電所の燃料となる石炭の搬入)用に建設され、明治25(1892)年に完成した大間港の遺構です。トラス橋の後ろにみえる円筒状のものは、貨物の積み卸しに使用したクレーンの台座です。この廃港の雰囲気、ちょっと切ない気分にさせられますが、ポン太はこのような物寂しい風景が大好きです。
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 何という趣のある朽ち方でしょうか。しびれます。
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 鉱山関係者でたいそう賑わったというかつての繁華街、京町通りです。このレトロな風情、いいですねぇー。暑さを忘れて歩き回ってしまいました。
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 京町の入口に、見事な煉瓦塀がありましたが、積み方がとても変わっています。イギリス積みではもちろんなく、フランス積みのようにも見えますが煉瓦の目地がずれていて、どこか変です。どうしてこんな積み方になったのでしょうね。
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 上に掲げた写真の場所以外にも、みどころがたくさんあり、充実した一日でした。そして最後は、このような日本海の見事な夕焼け。大満足のポン太でした。
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御嶽海優勝、「馬子唄道中」で二度興奮

2018/07/22 22:45
 昨日は、信濃の国にビッグニュースが舞い降りてきました。大相撲名古屋場所で、関脇御嶽海が初優勝したのです。県歌『信濃の国』の歌詞に、「 四方に聳ゆる山々は、御嶽、乗鞍、駒ヶ岳・・・」とあるように、代表的山岳のトップに名をあげられているのが御嶽山。その聖なる山(山岳信仰の一大中心地)を四股名とする力士ですから、信州人が応援しないはずはありません。県民歴3年余のポン太、ポン子ももちろん応援しておりますし、ポン子などは握手までして激励していたのですから、喜びもひとしおです。来場所の結果によっては大関昇進も夢ではなくなりました。そうなれば、信濃の国にとっては、江戸時代に活躍したあの伝説の名力士雷電以来ということになり、これはもう相撲の歴史を塗り替えるほどのできごとです。がんばれ御嶽海!
 一夜明けた今日は、中山道追分宿のお祭り「馬子唄道中」がありました。徒歩で行ける場所ですし、宿場の雰囲気もよいので、ポン太はこのお祭りがかなり気に入っています。御嶽海優勝の勢いで、相当賑わっているかと思いきや、ギャラリーの数は例年より少なめ。やはり暑さが影響しているのでしょうか。パレード自体は、若い出演者が増えて、とても活気があったように思います。去年はいなかった忍者も登場していました。江戸時代を再現したパレードとは別に、小諸のチンドン屋愛好グルーブも練り歩いていましたが、昔風にいえばジンタの哀調を帯びた調べ(曲は「美しき天然」)に、子供のころに見たドサ回りのサーカスを思い出しました。思わず「すばらしい、ぜひ続けて欲しい」と声をかけてしまったポン太でした。

 新聞販売店から早速手ぬぐいが配られました。紙面の扱いも特大です。
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 昨年秋に、佐久を訪れた際の御嶽海です。この時と比べると一回りも二回りも大きくなったような気がします。
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 握手会では、赤ちゃんを抱っこしてもらった人もいました。この赤ちゃんのご両親も大喜びしていることでしょう。
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 四股名の元になった御嶽山です。『日本百名山』の著者深田久弥は、「一個の山としてこれだけ図体の大きい存在も稀である」と記しています。故郷のこの山のように、御嶽海も相撲界の大きな存在になって欲しいですね。
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 以下は「馬子唄道中」のスナップです。浅間神社から繰り出したパレードがやってきました。「馬子唄道中」の名のごとく、先頭をいく馬子が「追分節」を歌っています。「小諸出てみろ 浅間の山にヨー 今朝も煙が三筋立つ」
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 花嫁さんもやって来ました。
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 馬の後ろに警護の忍者がいます。よく見ると馬上の人物のタスキには「特殊詐欺撲滅」の文字が。オレオレ詐欺は忍者が防ぐということでしょうか。
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 可愛らしい町娘がやって来ました。
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 アメ屋も登場です。後ろは旅芸人でしょうか。
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 えっさ、ほいさ、空の駕籠が快調に飛ばしてきます。
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 中間地点の「油屋」で休憩です。お馬さんも疲れますね。
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 江戸時代と現代のピクニックがミックスしたような光景です。
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 着物を着て歩くのはやはり暑い。麦茶で一息いれないとやっていられません。この後、単なる見物人にすぎないポン太にも麦茶をふるまってくれました。ローカルなお祭りはそういうところが嬉しいですね。
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 お馬さんに子供たちは興味津々。
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 出演者が記念撮影している様子を見物する人々。後ろでワンちゃんお利口にして待っています。
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 休憩後、パレード再開です。定番の黄門様が登場しました。
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 後ろの旅籠に潜んでいたかのような忍者です。
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 江戸時代には、駕籠のお客が外国人の少女などということはありえませんが、絵になっています。
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 ギャラリーの雰囲気がなんとなく軽井沢っぽいですね。
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 パレードは宿場の入口まで行って折り返しとなるため、一時的に人の流れが対面型となり、宿場を行き交う往時の人々といった雰囲気になりました。
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 毎年そう思うのですが、一人だけ離れて悠然と歩く尺八奏者のかっこよさ。演奏もなかなかのもので、外国人が手を振っているのを見たとたんに、ジャズの「テイクファイブ」を吹き始めたのには驚きました。
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 泉洞寺の参道を行く「ちんどんばんど」の皆さんです。懐かしいメロディー、懐かしいリズム。いつまでもがんばって欲しいです。
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浅間山麓はお祭モードに

2018/07/21 07:06
 浅間山麓に夏祭りのシーズンがやってきました。先週末には小諸と岩村田(佐久市)で祇園祭が行われ、明日(22日)は、追分宿(軽井沢町)で「馬子唄道中」が、来週末の28日(土)には御代田町で「龍神まつり」が開催されます。さらに、来月の15日(水)には佐久市望月の奇祭「榊祭り」が、翌16日(木)には中山道小田井宿(御代田町)で「小田井宿まつり」が行われます。
 このほか浅間山麓では数え切れないほどの展覧会や音楽イベントが予定されており、8月11日には、新企画の「浅間国際フォトフェスティバル」(会場は来年開館予定の御代田写真美術館周辺)が開幕します。とてもそのすべてにお付き合いすることなどできませんので、今夏は何を見にいくべきか、悩ましい選択を迫られることになるわけです。
 ところで、前回のブログで「氷風穴まつり」を取りあげましたが、同じ日に小諸市内では祇園祭が行われていました。「氷風穴まつり」からの帰途、北国街道沿いの市町区というところで、神輿が地区内を巡回する様子を見ることができました。昨年、市の中心市街地で見た祇園祭は、たくさんの神輿や山車が集結して練り歩く華やかなパレードといった雰囲気でしたが、こちらは、保管場所から出てきた神輿が、小さな路地まで入り込んで、氏子の各家を回るという地域密着スタイル。担ぎ手も見物人もほとんどが顔見知りですから、気軽に声を掛け合う様子がいかにも地域のお祭りという感じでした。担ぎ手は大変でしょうが、急坂を上り下りするシーンが面白く、思わずカメラをむけてしまったポン太でした。

 さあいよいよ神輿の出発です。町内の人々が集まってきました。
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 羽織袴の年配者が神輿の上に乗り、何かをまきはじめました。お菓子?お餅? 山車の上からまくのは見たことがありますが、神輿の上からというのは初めてです。
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 健康に育つことを願ってということでしょうが、赤ちゃんが神輿に乗せられました。この表情をみると、赤ちゃんにとっては迷惑な話かも・・・。
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 元気よく担ぎ出しました。
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 神輿には神主さんが同行しています。
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 小諸は坂の町です。特にこの神輿が巡る町内は急坂ばかり。まずは下り坂ですが、バランスをとるのが大変そうです。
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 一軒一軒御祓いをしてまわります。
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 今度は上り坂です。気合いが入ります。
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 勾配がきつくなれば、身体もきつい。ご苦労様です。
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風穴の威力に驚嘆

2018/07/19 16:17
 猛暑が続いていますので、それに対抗して、今回は涼しい話題を1つ提供させていただきます。場所は小諸市のその名も「氷」という集落。以前のブログで1度ご紹介したことがありますが、そこは「風穴の里」として、近年注目を集めているところです。昨年9月には、この地で風穴の「全国サミット」が開かれました。それを記念して、地元の「氷風穴の里保存会」が「氷風穴まつり」開催し、ふだんは入れない風穴内部も公開するという情報を得たので、早速でかけてみました。
 当日(7月15日)は全国的に記録的暑さに見舞われ、上田ではなんと37.5度に。避暑地軽井沢ですら31.6度という、とんでもない酷暑の1日でした。氷地区は千曲川左岸の高台にあり、樹木も多いので小諸市街地よりは涼しいのですが、それでも30度は軽く超えていたと思います。しかし、風穴の中に入ってみると、夏の服装では5分といられない涼しさ、いや冷たさで驚きました。現役で使用中の4号風穴には温度計はありませんでしたが、隣接する5号風穴(体験用風穴として利用されています)の底部の温度計の針をみてびっくり。なんとたったの2度です。風穴は、地下の岩石の隙間で冷やされた空気が吹き出してくるものですが、これほどの冷却力があるとは。
 家庭用冷蔵庫など足元にも及ばない自然のパワー。こういったものに目をつけて、上手に利用した先人の知恵にも驚かされます。風穴に蚕種(蚕の卵)を保存することで、孵化する時期をコントロールできるようになり、それが当時最大の輸出産業であった蚕糸業を飛躍的に発展させ、生糸輸出で稼いだ外貨により日本の近代化が成し遂げられた。そんな歴史を思えば、この風穴群が近代化産業遺産としていかに重要なものであるかわかります。
 風穴を知らずして、日本の近代化は語れない。ポン太のボケた頭も、風穴で冷やされて、少しはシャープになったかも・・・。 

 風穴群がある「氷」集落は、千曲川の左岸、御牧ヶ原台地へ登っていく途中にあります。日帰り温泉として人気のある「あぐりの湯」のすぐ近くです。
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 入口に「氷風穴まつり」の表示が出ていました。
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 ここが風穴群のあるエリアです。
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 パネルも設置されていて、風穴についての説明文や昔の写真が掲示されていました。
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 明治7年に、有志により「氷風穴同益社」が組織され、蚕種貯蔵業が始まったということです。大変評判がよく、全国から貯蔵依頼が相次いだということで、この写真は、明治41年の蚕種入穴の風景です(展示パネルより)。
届いた荷物の数の多さに驚かされます。
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 最盛期には十数基あったという風穴ですが、現在も使用中なのはこの4号風穴のみ。個人所有なので通常は見学できませんが、この日は特別に鍵を開けて中を見せてもらうことができました。
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 内部の様子です。見学者の吐く息が白い霧のように見えます。現在は管理者である戸塚酒造(佐久市岩村田)の清酒(銘柄は「寒竹」)と地元関係者が預けた漬け物類などが保管されています。
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 こんな注意書きがありました。一般人がお酒を保管してはいけないということですね。
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 隣の5号風穴は、上屋は現存していませんが、体験風穴として活用されています。これはその入口です。
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 入口の外壁の温度計は24度を示していました。
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 風穴の内側の壁に設置されていた温度計は14度を示しており、ここですでに外とは10度以上ちがいます。
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 風穴の底部に小さな小屋が設けられていて、その中に入るとものすごい冷気を感じました。左の壁に温度計がありますが、その表示はなんと2度です。
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 条件がよければ見られるという「風穴霧」を見ることができました。白い筋のように見える霧の上と下とでは相当な温度差があるわけです。
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 こちらも上屋はありませんが、石組みがしっかり残っている1号風穴です。説明しているのは地元のガイドさんです。
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 「風穴貯蔵寒竹大吟醸」の試飲です。ポン太も味わってみたかったのですが、クルマの運転を考え自重しました。
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 風穴で冷やした甘酒もふるまわれていたので、こちらは美味しくいただきました。このほかに赤飯や漬け物もふるまわれており、やはり「お祭り」には嬉しいことがいろいろあります。
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池の平で花三昧

2018/07/15 18:54
 連日の猛暑にうんざりという方が多いのではないでしょうか。標高約1000mの浅間山麓でも、30度近くまで気温が上がる日が増えました。避暑地のはずなのにおかしいのではと思われるかもしれません。気温の低減率は100mにつき0.5〜0.6度といわれていますから、東京と比べれば5〜6度は低いわけで、通常の夏であれば、暑さ知らずの快適な状態を維持することができます。しかし、近年の首都圏は、真夏日どころか35度以上の猛暑日になることが多く、そうなれば当地も真夏日(30度以上)に近い状態になってしまうというわけです。
 日中歩き回るなら少しでも涼しい場所がよかろうと、浅間連峰の池の平湿原へ出かけてきました。さすがに標高2000mともなれば、空気はひんやりしており、文字通り暑さ知らずです。浅間連峰は全体的に高山植物が豊富なところですが、池の平湿原を取り巻く山々の稜線や斜面は、とりわけ花の種類が多いことで知られています。山といってもそのアップダウンは最大で100mほどですから、きわめて楽ちんなハイキング。登山が目的であれば少々物足りないかと思いますが、涼しい風に吹かれながら花を愛でたり、お弁当を広げたりするには最適な場所といえましょう。
 この時期、どんな花を見ることができるのか、またどんな景色を楽しめるのか、写真でご紹介します。


 地蔵峠から車で10分足らずで、池ノ平湿原の駐車場(兎平)に到達します。標高はすでに2061mもありますから、着いた瞬間から「涼しい」と感じます。駐車料金は1日500円です。
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 歩き出すとすぐに、ハクサンフウロが目に入ってきました。
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 こちらはタカネグンナイフウロです。すでに花期が終わりかけていましたが、まだきれいに咲いている花もありました。
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 カラマツソウもたくさん咲いています。花の形がカラマツの芽吹きのようにみえなくもありません。
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 稜線の一角にはアヤメがたくさん咲いているところがあり、さながら「アヤメヶ丘」です。
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 登山道というよりは、遊歩道といった感じで、高山植物を愛でながら、楽しく歩くことができます。展望も良好です。
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 森に入るとハクサンシャクナゲが咲いていました。
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 道端にもハクサンシャクナゲが顔をだしています。
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 池の平湿原を取り巻く山々の中で、地形図に名前が表記されているのは三角点峰の三方ヶ峰(2040m)のみですが、標高が最も高いのは「雲上の丘」と呼ばれている地点で、2110mあります。見晴らしが良いのでランチには最適です。
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「雲上の丘」付近から見下ろした池の平湿原です。木道が設置されていることがわかります。
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 尾根歩きだけでなく、このような鬱蒼たる森の中を歩くところもあり、登山道はバラエティーに富んでいます。それにしても、どうして「ピグミーの森」なのでしょうね。
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 森を抜けたところの小さな岩の前にウスユキソウ(エーデルワイス)が並んでいました。岩の下を覗いてみると、ヒカリゴケが光っていました。
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 緑色に光っているのがヒカリゴケです。
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 南側の稜線に出るとテガタチドリが咲いていました。小さな花びらの形が鳥の「千鳥」に似ているところからその名がついたということです。
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 この稜線は花の宝庫です。これはキバナヤマオダマキで、平地のオダマキとはちょっと違います。
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 ウツボグサも咲いています。
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 これは薬草にもなるイブキジャコウソウではないでしょうか。
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 ツメクサに似たシャジクソウです。
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 タムラソウのつぼみにヒョウモンチョウが羽を休めていました。のどかでよい雰囲気です。
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 南側の稜線で最も高い見晴岳(2095m)から三方ヶ峰を見たところです。中央のガレているところがコマクサの園です。
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 稜線の岩陰に咲くハクサンフウロは、野原にあるものよりきれいに見えます。
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 見晴岳頂上付近に咲くタカネナデシコです。平地のナデシコの高山種ということで、花の形はさほど変わらないのですが、なぜか高貴な花にみえます。これがほんとうの「高嶺の花」ですね。
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 これをみると高い山にやってきた気がするシシウドです。
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 ウスユキソウ(日本のエーデルワイス)はあちらこちらで群落をつくっています。
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 三方ヶ峰のコマクサは、このような柵に囲まれています。無粋ではありますが、盗掘や踏み荒らしから貴重な花を守るにはいたしかたないことでしょう。
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 そのおかげで、こんなにたくさんのコマクサを見ることができます。
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 こんな角度で見ると、高山植物の女王の名ににふさわしい気品と貫禄を感じます。
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 稜線から池の平湿原へ降りて行く途中で見つけたクルマユリです。この日咲いていたのはこの1輪だけでした。
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 ナナカマドの葉の一部は、すでに紅葉していました。山でははやくも秋の準備がはじまっているのです。
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 何か動くモノの気配を感じて目をやると、カモシカでした。このところよくカモシカと出会いますから、もう山のお友達気分です。
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 池の平湿原のシンボル鏡池です。鏡のように周囲の山々の緑を映しています。
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 池の平湿原を一周する木道は、遠足の小学生たちでいっぱいでした。
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 池の平湿原に咲くアヤメです。山の上のアヤメもきれいですが、こちらもまた絵になります。
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 木道を進むと「放開口」という場所があります。湿原をとりまく山がそこだけ開いているところですが、日本庭園のような景色が楽しめます。
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 カラマツの美しい森を抜けて、駐車場のある兎平にもどります。
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 兎平にはニッコウキスゲが咲いていました。近年、鹿の食害でニッコウキスゲが消滅してしまったという話をよく聞きますが、ここは今のところ無事なようです。
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 高原にふさわしいきれいな花です。
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森陰のコーヒー天国

2018/07/13 21:24
 日が経つにつれ、西日本の豪雨被害が途方もないものであることがわかってきました。「数十年に一度」という言葉を何度も聞きましたが、もはやそれが平年化しつつあると思わざるをえません。日本中どこでもこのようなことが起こりうる、そう考えておいた方がよさそうです。浅間山麓も大気の不安定な状態が続いており、何度か「土砂災害警戒情報」が出ましたが、幸いなことに被害がでるようなことにはならずにすんでいます。
 雨が上がるとほっとしますが、今度は気温がぐんぐん上昇。標高の高い当地でも、日中は暑いと感じる日が多くなりました。日差しが(紫外線も)強いので、外を歩き回る気分にはなれません。木陰でコーヒーでも飲んで涼んでいるのが一番、ということになるわけです。浅間山麓の水はミネラル分の多い硬水ですから、コーヒーは特に美味しく感じられます。自分で飲むだけではなく、他人にも提供したいという気持ちになりやすいせいか、浅間山麓の森の中はカフェだらけ。信濃追分〜御代田のわずか一駅間だけでも30軒以上のカフェがあります。人口比でいえば都会の何倍もあるといってよいでしょう。
 カフェのオーナーには移住者が多く、店内に一歩足を踏み入れただけで、それぞれのオーナーの理想やこだわりを感じます。共通しているのは、隠れ家のような雰囲気でしょうか。涼しい森の中の隠れ家的カフェでひとときを過ごせば、リラックスできることは間違いなく、中には行列ができるほどの人気店になってしまったところもあります。家で飲むコーヒーも美味しいのですが、たまにはそれぞれのお店のコーヒーの味(自家焙煎しているところもありますので)を確かめに、出かけてみるのも悪くありません。ポン太の徘徊エリアに潜んでいる個性的なお店をいくつか取りあげてみることにします。

 ここは「ならの木」というお店です。その名のとおり、ならの木に囲まれた閑静な場所にあります。かなり奥まったところなので、初めての場合、道がわかりにくいのが難点ですが、その分、隠れ家的雰囲気は十分漂っています。時々、クラシックやジャズのコンサートが催され、先月のバイオリンコンサートにはポン太も出かけてきました。コーヒーは自家焙煎です。
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 「ならの木」で行われた、バイオリニスト村石達哉さんのコンサートの様子です。
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 朝食が人気のキャボットコーブというお店です。オーナーは商社勤めをされていたようなのですが、長く暮らしたアメリカのニューイングランド地方の朝食が気に入り、それを提供したいというのがお店を開いた動機とか。早朝から営業していますが、昼前に閉店してしまうので要注意です。近年は大変な人気店になってしまい、夏季は予約が必要です。
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 中山道沿いにある「MIKAGE CHAYA(みかげ茶屋)」です。店名は近くの御影用水に由来するのではないかと思います。周囲の樹木の勢いがすごいので、外からはお店の建物がよく見えません。店内は落ち着いた雰囲気で、数量限定の和風ランチ「茶屋御膳」が人気です。コーヒーは自家焙煎しています。
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 教会のようにも見えますが、「TREES(トゥリーズ)」という名前のカフェ・ギャラリーです。週に3日(月、火、水)だけの営業で、看板も小さいので、見過ごしてしまいそうになります。このお店のこだわりは自家製のヘルシーマフィン。すぐ近くをしなの鉄道の電車が通ります。
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 御影用水沿いのカフェ「グルマン」です。ドーム状の建物はオーナーご自身で建てたもの。水辺の雰囲気と眺めの良さで人気があります。食べ物はガレットに特色があります。現在リニューアル中で、今月下旬に再開予定とのこと。
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 これは 「すずめカフェ」という、自宅の1階を改装して営業している「おうちカフェ」です。靴を脱いで入ります。御代田町の雀ヶ谷という場所にあるので、この店名になったようです。店の裏側は広々としており、雄大な浅間山を望むことができます。
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 このほかにもユニークなカフェがたくさんあります。ポン太の住まい自体が隠れ家のようなものではあるのですが、タヌキには隠れ家はいくつあっても良いので、浅間山麓のカフェ探索をこれからも続けてみたいと思います。
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常磐線のフクシマ

2018/07/11 07:55
 先日のブログで、三陸鉄道北リアス線を取りあげましたが、東北地方でもう1つ気になっていた路線があります。それは常磐線です。福島県の太平洋岸(浜通り)を縦貫する幹線ですが、いまだに全線復旧とはなっていません。北側の浪江〜岩沼間と南側のいわき〜富岡間はすでに運転が再開されていますが、残る富岡〜浪江間20.3kmは、福島第一原発から近く、その大半が原則立ち入り禁止の帰還困難区域に属しているからです。除染作業を行いつつ、地震で落下した橋梁の再建などの工事が進められているということで、2020年3月には運転再開の予定と発表されています。現地はいまどんな状況になっているのか、自分の目で確かめておきたいと思い、出かけてみました。
 いわき駅までは特急「ひたち」でスムーズに到達することができますが、その先は、運転本数が少ない上、不通区間である富岡〜浪江間の代行バスは一日にたった6本(上りは5本)しかありません。東京から仙台まで、常磐線ルートをたどって通り抜けるのはかなり大変です。富岡11時40分発(それを逃すと次は16時59分発)の代行バスを利用することにし、それにあわせてスケジュールをたてました。
 いわき駅で乗り継いだ富岡行普通列車の車両は、なぜか元特急「スーパーひたち」の651系。乗換の際に、ホームを間違えたかと不安になってしまいました。快適ではあるのですが、ちょっと違和感があります。富岡駅はすっかり新しくなっており、周囲の風景もまったく見覚えのないものでした。聞いてみると、旧駅とその周辺は津波で流され、元の場所よりかなり北側へ移設されたということです。新たに整備された駅前広場周辺には空き地が目立ち、復興の遅れは否めません。やはり住民が長期間他地域への避難を余儀なくされたことが影響しているのでしょうか。
 僅か4名の乗客を乗せて代行バスは定刻に発車しました。走り出すと同時に、「このバスは間もなく帰還困難区域に入りますので、絶対に窓を開けないでください」というアナウンスがありました。富岡町役場の入口付近まで進むと、道路際に、「ここから1.5km先、帰還困難区域」「自動二輪車、原動機付自転車、軽車両、歩行者は通行できません」という看板がでており、気にしないようにと思ってはいても、多少の緊張感は禁じえません。
 「帰還困難区域」に入ると風景が一変しました。ホームセンター、飲食店、ガソリンスタンド等、全ての店舗が廃墟と化し、耕作放棄を余儀なくされた田畑は原野へと姿を変えていました。脇道の入口の多くはフェンスで封鎖されていましたが、開閉式の柵を設けて警備員が車の出入りをチェックしているところもありました。
 震災以前の姿を、廃墟となった建物の様子から想像すると、それなりに活気があり、生活に不便を感じるような地域ではなかったように思われます。地域を丸ごと崩壊させ、生活を一変させてしまう放射能汚染の怖さを改めて感じました。このところ、原発再稼働への動きが勢いを増しているようですが、この状況を見れば、「のど元過ぎれば…」というような話ではないことがわかります。
 双葉町に入って数分ほどで左手に常磐線の線路が接近してきました。真新しいコンクリート橋からは、復旧工事が進展している様子がうかがえます。しかし、そこは帰還困難区域の中です。代行バスの通行が許されている以上、列車が走り抜けることはできるでしょうが、途中駅での乗降は許されるのかなど、いろいろな疑問が湧いてきました。
 ノンストップで走ったせいか、代行バスは定刻より少し早く浪江駅に着きました。浪江駅周辺には、震災で崩れたまま修復されていない家屋が目立ちます。これも、長期間の避難生活を余儀なくされた影響でしょうか。浪江駅舎もひびが入るなどかなりの打撃を受けたということですが、すでに修復され、昔と同じ姿で使用されていました。
 駅前で思いがけないもの見つけました。それは、「高原の駅よさようなら誕生の駅」の碑です。以前「信濃追分駅物語」と題したブログで、「高原の駅よさようなら」の映画の舞台(ロケ地)になったことで、信濃追分駅が有名になったという話を紹介しましたが、主題歌を作曲したのが、当地出身の佐々木俊一氏であることは全く知りませんでした。浪江と浅間山麓がつながったことに、ちょっと嬉しさを感じたポン太でした。

 富岡駅に着いた普通列車ですが、車両は元特急用の651系です。駅は全く新しくなっていました。
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 ポン太が高校生の頃に富岡駅で撮影した写真です。下り231列車(C6237牽引)が発車して行くところです。構内がずいぶん広かったことがわかります。この時代、電化されていたのは平(現在のいわき)の1つ先の草野駅までで、このあたりの常磐線の主役はまだ蒸気機関車でした。(1966年10月1日撮影)
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 常磐線の海側には、黒い袋が集積されていました。袋の中身は、除染のために取り除かれた土でしょうか。
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 新しくなった富岡駅駅舎です。「さくらステーションKINONE」という売店兼飲食コーナーが併設されています。駅前には他にお店は1軒もなく、助かりました。
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 不通区間である富岡〜浪江間の代行バスとバス乗り場です。何しろ本数が少ないので乗車するのは大変です。
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 走り出したバスから見た富岡駅前通りです。少しずつ家やアパートが建ち始めていますが、復興は容易ではなさそうです。
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 「1.5km先、帰還困難区域」の表示が現れました。
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 いよいよここから帰還困難区域です。前方にお店の看板がいくつも見えますが、営業しているところはありません。
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 家電量販店も廃墟と化していました。
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 原野のように見えますが、元は田や畑だったのでしょう。
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 脇道へ入れないようにフェンスが設置されています。
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 警備員が出入りをチェックしているところもありました。
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 帰還困難区域が続きます。
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 地域の人々で賑わっていたであろうホームセンターも廃墟となっていました。
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 放棄された農家でしょうか。そのまわりには豊かな畑や田が広がっていたと思われます。
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 双葉町に入ると常磐線が接近してきました。まだ架線は張られていませんが、レールは敷かれているようです。
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 富岡〜浪江間には、夜ノ森、大野、双葉の3駅がありました。これは半世紀前の夜ノ森駅を通過する下り青森行急行「第2みちのく」です。東北新幹線がない時代、常磐線は東北方面への優等列車の主要ルートでした。(1966年10月1日撮影)
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 上野〜青森を結ぶ唯一の昼行ディーゼル特急「はつかり」も常磐線経由でした。この写真は、富岡〜夜ノ森間を行く、上りの「はつかり」です。まさか半世紀後に、ここが帰還困難区域になるなどとは、思いもよりませんでした。ちなみに、福島第一原発の運転開始はこの5年後です。(1966年10月1日撮影)
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 浪江駅に到着した代行バスです。駅舎は昔と同じでした。
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 浪江の駅前通りです。荒廃した雰囲気が漂っていて復興の困難さがうかがえます。
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 駅前広場に設置されていた「高原の駅よさようなら誕生の駅」碑です。「しばし別れの夜汽車の窓よ、言わず語らずに心と心・・・・」古めかしい歌詞ですが、汽車の時代を知るポン太にとっては、リアルで懐かしいものに感じられます。
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 浪江から乗り継いだ原ノ町行の719系交流電車です。
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 原ノ町で仙台行に乗り継ぎました。常磐線の復旧区間の中で、駒ヶ嶺〜浜吉田間は、旧線とは別の山側を迂回するルートに変更され、営業キロも0.5キロ増えています。復旧とはいえ新線と同じようなものですから、全線乗車の維持をめざすポン太としては、乗らないわけにはいきません。この写真は、その途中にある山下駅です。高架化により車窓からの景観も別物になっていました。
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季節が変だ

2018/07/08 17:10
 6月中に早々と梅雨が明け、今年は長い夏になるのではと思っておりましたら、ここ数日は一転して雨ばかり。気温も下がって、肌寒さを感じるような状況です。九州から本州中部にかけての広い範囲で水害が発生しており、やはり地球温暖化による気候変動が益々激しいものになってきたと思わざるをえません。
 雨が止んだところを見計らって散歩にでかけました。幸い、土砂崩れや樹木が倒れるといった被害がでているところはありませんでしたが、植物の様子が少し変です。ポン太の森では、モミジの一部が紅葉し始めており、いつもの散歩コース沿いでは、コスモスが咲いていました。一時暑い時期があって、その後気温が下がったので、秋が来たと勘違いしたのかもしれません。近所の方からいただいて庭の片隅に植えておいたヤナギランも咲いていました。ヤナギランは高山植物に分類されることが多く、山歩きをしていてこの花が咲いているのを見ると、夏も盛り過ぎたと感じますから、えっ、もう咲いたのと驚きました。
 今朝は霧雨が降っていたのですが、昼頃には晴れ間もでてきました。このまま安定した普通の夏になって欲しい、そう願いつつ空を見上げるポン太でした。

 紅葉し始めたモミジ。いくらなんでも気が早いのでは。
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 コスモスも咲き始めました。おいおい、まだ7月上旬だよ。
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 ヤナギランも咲いてしまいました。去年、この花を撮影した写真の日付をみると8月1日でした。
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 ポン太の庭ではとっくに散ってしまったオダマキが、再び咲いているところもありました。
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 この季節にふさわしい花が咲いているのをみるとほっとします。これはオオバギボウシの花ですが、咲き始めのこのぐらいの時期が一番きれいです。
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 ユリも季節通りに咲いてくれました。
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 季節の変化がおかしいせいか、秋の収穫を楽しみにしているリンゴ(アルプス乙女)の実のつきかたも例年より悪く、その数は昨年の3分の1以下といったところです。
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 昨年より少しましだったのがアンズです。昨年はたった2個しか収穫できませんでしたが、今年は10個は食べられそうです。それでもジャムにできるような量ではありませんので、昨年同様、ポン子がスーパーに調達にでかけました。アンズに限らず、ジャムは自家製が一番です。
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三陸鉄道は元気だった

2018/07/06 11:51
 久しぶりに東北へ出かけてきました。東日本大震災以来、少々気になっていたところがあったからです。その1つが三陸鉄道です。実は、1984(昭和59)年4月1日の開業(全通)当日、北リアス線、南リアス線ともに全線乗車をしております。それ以前に、国鉄線として部分開通した際にも乗車しており、誕生前から大人になるまで、その成長を見続けてきた路線と言ってよいでしょう。
 三陸鉄道開業日の沿線は、盆と正月が一緒にきたような華やいだ雰囲気に包まれていました。住民総出といってもよいほど大勢の人が駅やその周辺に集まり、「90年の悲願達成」を祝っていた姿が今も忘れられません。しかし、元々人口の少ないエリアであり、厳しい経営環境の下でのスタートでした。
 2011年のあの東日本大震災の津波で不通になったと聞いた時には、正直、「廃線」の二文字が頭に浮かびました。「90年の悲願達成」が27年で幻になってしまうのかと。しかし、大震災から僅か5日後には陸中野田〜久慈間で運転を再開、その4日後には宮古〜田老間、さらに9日後には小本(現在の岩泉小本)まで運転区間を拡大させたのです。鉄道員の家族や親族にも被災された方が多かったと思いますが、素早い運転再開が、被災地の人々をどれだけ勇気づけたことか。震災復興のシンボルとなったことで、全線復旧への道筋がついたと考えられますし、比較的新しい路線であったことから、海岸線より高い位置を走っている区間(トンネルも含めて)が多かったことも幸いしたかもしれません。大震災から3年後の2014年4月6日に、全線の復旧が完了しました。
 復旧後の姿を見届けたいと、一昨年、南リアス線(盛〜釜石)に乗車。今回は北リアス線(宮古〜久慈)へ乗りに出かけたというわけです。NHKの連ドラ「あまちゃん」の効果が継続しているせいかもしれませんが、予想していたよりも大勢の乗客で賑わっており、ほっとしました。
 南北リアス線の間をつなぐJR山田線(宮古〜釜石)は、来春に復旧の予定で、それと同時に同区間は三陸鉄道へ移管されることになっています。路線が1本につながるとはいえ、経営的には厳しさが増す恐れがないとはいえません。利用する人がいなければ、震災復興の輝かしいシンボル、三陸鉄道の明日は暗いものになってしまいます。個人でできる支援は、乗りに出かけること、そして、たとえ飲み物1杯でも、弁当1折でも消費することでしょうか。宮古駅の売店に「三鉄赤字せんべい」なるものが並んでいるのを見て、思わず購入してしまったポン太でした。

 久慈駅で出発を待つ三陸鉄道宮古行の列車です。駅の様子は開業時とそれほど大きく変わってはいません。
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 34年前の三陸鉄道開業日の久慈駅です。ホームに人が溢れています。
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 開業日には、出発を前に、乗務員への花束贈呈が行われました。
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 今回乗車した宮古行の列車はほぼ満席の盛況でした。三陸鉄道乗車を目的としたツアー客もいたようです。
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 トンネルを抜けると野田玉川駅です。久慈行の列車が待っていました。このあたりは津波の被害はなく、昔と変わらない風景でした。
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 堀内駅は、NHKの朝の連ドラ「あまちゃん」のロケ地で、ドラマの中では「袖ヶ浜」駅となっていました。
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 堀内駅近くの大橋橋梁は、北リアス線で最も景観の良い場所とされ、こんな眺めが楽しめます。列車は橋の上で一旦停車し、カメラタイムをサービスしてくれます。
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 十府ヶ浦付近の海岸沿いには、新たな防潮堤が建設されていて、列車から海は見えません。このあたりの線路は津波で大きな被害を受けたことが想像されます。
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 国鉄線(久慈線)時代の終着駅であった普代です。
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 田野畑駅です。この先の島越(しまのこし)駅付近は津波の被害が甚大で、駅も高架線も全て流されました。三陸鉄道で最後に復旧したのが田野畑〜小本(現・岩泉小本)間でした。
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 島越駅付近(海側)の現状です。かつては八角形のドーム屋根をもつ南欧風の瀟洒な駅舎がありました。津波で消失し、現在は山側に新たな駅舎が建てられています。「あまちゃん」の震災シーンはここで撮影されたものだそうです。
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 三陸鉄道開業日の様子です。島越駅前広場には開業を祝ってこんなに大勢の人が集まっていました。

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 三陸鉄道には、「あまちゃん」のロケ風景写真が掲示されている車両もあります。
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 あのドラマはポン太も夢中で見ていましたので、こんな写真を見るととても懐かしい感じがします。
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 終着駅宮古に到着しました。ホームは昔と変わっていません。
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 これは開業日の宮古駅に到着した列車です。マスコミ関係者が大勢訪れていました。
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 開業日の三陸鉄道宮古駅駅舎と駅前風景です。
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 開業日の宮古市内の様子です。信じられないほど大勢の人が出ていました。
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 来年3月にはJR山田線の宮古〜釜石間を引き継ぎ、長大な三陸縦貫路線となる三陸鉄道です。ふと思い出したのが、宮澤賢治が作詞した「花巻農学校精神歌」の一節、「ケハシキタビノナカニシテ ワレラヒカリノミチヲフム」。三陸の「ヒカリノミチ」になって欲しいですね。また乗りにきますから。
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 「三鉄赤字せんべい」と時刻表です。「赤字せんべい」を食べて赤字解消となればよいのですが・・・。
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小諸で味わう鉄道ノスタルジア

2018/07/01 06:46
 鉄道が好きな人は誰でもそうではないかと思いますが、鉄道に関わりのあるグッズを見ただけで嬉しくなったり、気分が高揚したりするものです。鉄道会社のフェスタなどで、用済みとなった鉄道用品、車両部品などを販売することがよくありますが、どこも大変な人気です。使い道のないようなもの(普通の感覚ではゴミ)を手に入れてどうするのだと思われるかもしれませんが、それは単なるモノではないのです。ある時代、ある場所の鉄道物語を紐解く(想像して楽しむ)ための鍵のようなものと言ったらよいでしょうか。
 小諸駅の近くに、鉄道グッズだらけの興味深いお店があります。新聞報道でその存在を知り、出かけてきました。そのお店があるのは、小諸駅の東端、先日のブログでとりあげた「停車場拡張記念碑」のすぐそばです。お店の名前は「茶房ギャラリー山小屋の駅」。鉄道好きのご主人が退職後にご自宅の1階を改装して始めたというカフェで、店内には鉄道グッズが所狭しと並んでいます。信越本線時代の小諸駅で使用されていたものも多く、郷愁を感じます。また、80年以上も前に消えてしまった、布引電気鉄道の電車の照明器具といった極めてレアなものもありました。鉄道だけではなく、電話機をはじめレトロな小物で店内は埋め尽くされていて、これは何だろうかと眺めているだけで、あっという間に時間が経ってしまいます。
 このお店のコーヒーへのこだわりもなかなかのものです。なんと注文を受けてから自家焙煎しており、その味は濃厚かつまろやか。目と口の両方で至福のひとときを味わえるお店でした。


 「茶房ギャラリー山小屋の駅」のエントランスです。小諸駅の駅名板や信号機がむかえてくれます。
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 店内へは靴を脱いで入りますが、足元をみるとアプト式のラックレールが置かれていました。
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 天井からたくさんの鉄道グッズが下がっています。
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 年代物の電話機のコレクションも驚くほどたくさんありました。
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 これが布引電気鉄道で使用されていたという照明器具です。
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 布引電気鉄道の貴重な写真も飾られていました。どうやら布引駅の列車交換シーンのようです。
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 窓の外にも駅名板や転轍機などが置かれていました。
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写真で町おこし 〜御代田町の大きな夢

2018/06/28 11:37
 浅間山麓の御代田町に、来年(2019年)の夏、写真美術館がオープンすることになりました。同町には2011年まで 「メルシャン軽井沢美術館」が存在し、町一番の観光スポットでした。しかし、運営していたメルシャンがキリンに吸収合併されたことにより閉館。跡地を町が買収し、利用方法を検討した結果、写真・映像製作会社アマナ(本社品川)が写真美術館として活用したいと名乗りを上げ、実現の運びとなったわけです。
 先日、町役場で「浅間国際フォトフェスティバルと御代田写真美術館の実現へ向けて」と題する説明会があり、ポン太も出かけてきました。写真美術館の運営を委託されたアマナのスタッフによるプレゼンテー−ションは興味深く、期待感を抱かせるものでした。本格的な写真美術館は全国的にみても数が少ないので、他の美術館との差別化という意味でも大歓迎なのですが、そのコンセプトが「戦後の日本写真の歴史を一望できる」ものだと聞いて、益々興味が湧きました。
 今回の説明会の中心は、恒例行事にしたいという「浅間国際フォトフェスティバル」についてでした。そのモデルの1つとして示されのが、フランスのブルターニュ地方にあるラ・ガシイ(La Gacilly)という小さな町の実践です。人口4000人足らずのその町で行われるフォトフェスティバルには、世界中から30万人もの来客があるそうです。その期間中、町中が写真美術館になるような感じで、屋外(建物の壁や森の中など)に大形の作品が展示され、写真を眺めながら散策したり、各種イベントに参加したり、飲食をしたりして、「写真文化」をゆったり楽しむ催しと理解しました。いずれは、御代田町を世界中の人がわざわざ訪れる「写真のメッカ」にするのが目標だということでしたので、その成功を願わずにはいられません。
 第1回の「浅間国際フォトフェスティバル」は写真美術館のオープンにあわせて来年実施されますが、それに先だって、今年の8月11日から9月末まで、美術館の内外でプレフェスティバルが開催されるとのことです。プレとはいえ、一流の写真家が多数参加し、かなり大規模なものになるようなので、見逃すわけにはいきません。詳細が発表されるのを心待ちにしているポン太です。

 フォトフェスティバルと写真美術館の開館へむけて、整備が始まりました。
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 今まで雑草や雑木に取り囲まれていた旧美術館の建物が姿を現しました。ツタが建物全体を覆っています。
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 写真フェスティバルのモデルの1つとされるラ・ガシイとはどんな町なのか検索してみましたら、こんな写真がありました。確かに、建物の壁面や公園に大きな写真が展示されていて、歩いてみたくなるような雰囲気です。
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 そういえば、昨年夏に御代田町の公園などに大形の写真を飾る催しがありましたが、ラ・ガシイのようなフォトフェスティバルをイメージさせるものだったことがわかりました。これは昨夏の龍神の杜公園の様子です。
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 今も町役場旧庁舎の壁にこのような写真が展示されています。
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 街中や公園、森の中といったところで写真を見る。美術館の館内で見るのとはまた違った趣きがあります。試みに、ポン太の森に写真を持ち出して飾ってみました。いつもは部屋の壁に掛けてあるものですが、まったく別物に見えます。御代田は自然豊かな町ですし、降水量が少なくカラッとしていますので、野外での写真フェスティバルにはむいているかもしれません。
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 パンフレット用のロゴとイメージ写真です。「Photo MIYOTA」というネーミングもよいと思います。浅間山麓では、どうしても軽井沢の知名度におんぶしてしまう傾向があり、なんでも「軽井沢」をつけたがるのですが、それを避け、MIYOTAで押そうというところに見識を感じます。
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路傍の花園

2018/06/26 10:57
 梅雨の晴間には、気温がかなり高くなるようになってきました。「真夏日になるので熱中症注意」といったニュースも流れています。幸い、ここ浅間山麓ではそこまでの気温上昇はなく、上がっても20度台後半までいくかどうか。長袖のシャツ1枚でちょうどよい感じです。それでも日差しはかなり強いので、日中の散歩は避けて、夕方少し日が傾いてから出かけることが多くなりました。
 散歩中の楽しみの1つが、路傍の草花ウォッチングです。今日はどんな花が咲いているのか、珍しい花はないか、あのきれいな花はまだ散らずに残っているかなど、出かける前からいつもワクワク感があり、ちょっとした変化に気づくとそれだけで嬉しくなってしまいます。花があるから散歩も楽しいのです。ただ運動のために歩くだけでは、飽きてしまって長続きしないとポン太は思います。
 現時点でどんな花が咲いているのか、少し写真でご紹介しましょう。ありふれた花、ちょっと珍しい花、いろいろですが、なんと「特定外来生物」に指定されている危ない花も咲いています。町の広報でそれを知ったのですが、見た目はとてもきれいで、うっかり庭に植えてしまう人がいるかもしれません。植物に注意を払うことは、生活環境を守る上でも、とても大切なことだと改めて思ったポン太でした。 

 ピンク色の集合花が目を楽しませてくれるシモツケです。下野の国(栃木県)に産したというのがその名の由来で、コデマリやユキヤナギの仲間だそうです。植えたわけでもなく、世話をする人もいないのに、道端を華やかに彩ってくれる有り難い花です。
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 ヤマホタルブクロです。この中にホタルを入れて遊んだのがその名の由来とか。平野部のホタルブクロとはガクの形が違います。これも自然に生えてくるもので、毎年道端のどこかで見かけます。
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 お馴染みのアカツメクサです。野にある姿は可愛いのですが、繁殖力が強く、庭に入り込むと大変な目にあいます。食べられるという話を聞いて、天ぷらにしたこともありますが、とりたてて美味しいというものではありませんでした。
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 長い間名前がわからなかったのですが、最近、アカバナセイヨウノコギリソウであることがわかりました。ヨーロッパ原産で、元は園芸用だったようですが、すっかり野生化して、道端や野原のあちらこちらで見かけます。ハーブの一種だそうで、食用にもなるということですが、まだ試してはいません。
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 イチリンソウだと思われますが、ニリンソウでも一輪しか咲かないものもあるというので、判断がつきかねます。
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 この時期、いたるところで見られる黄色い花、クサノオウです。花は可愛らしいのですが、有毒のアルカロイド成分を含むケシ科の毒草です。かつては皮膚疾患の薬草として用いられたこともあったようで、その名の由来の1つは、「瘡(くさ)の王」とか。
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 高齢化の影響で、耕作をやめてしまった畑が目立つようになりました。元からあった花に加えて、どこからか飛んできたタネによって、お花畑のようになってしまったところもあります。見た目はきれいですが、ちょっと寂しい気がします。
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 この時期の樹木の花で一番目につくのがこのヤマボウシです。ミズキの仲間ですが、漢字で書くと山法師。真ん中の丸い花が僧の頭でそのまわりの白い部分(花ではなく苞だそうです)が頭巾にみえるというのがその名の由来です。森の中ではひときわインパクトがあり、ポン太の好きな花の1つです。
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 遠目には何が咲いているの?と思わせるのがナナカマドの花。秋の紅葉が見事な樹木ですが、花もなかなかのもの。
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 さて、この花はなんでしょうか? きれいな菊のようにみえますね。確かにキク科の植物には違いないのですが、特定外来生物のオオキンケイギクです。繁殖力が強烈で、ほっておくと高原の生態系を変えてしまいかねないしろものだということで、町は種子をつける9月までに根ごと抜き取り駆除するようにと呼びかけています。う〜ん、これは大変だ。散歩中にのんびり写真などを撮っている場合ではないですね。
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小諸駅物語〜浅間山麓の駅物語<その3>

2018/06/24 17:54
 小諸駅が開業したのは明治21(1888)年12月10日。信越本線(開通時は直江津線)軽井沢〜上田間の開通と同時です。小諸は江戸時代から浅間山麓随一の商都でしたから、駅が設けられたのは当然のことだったでしょう。
 小諸といえば、文豪島崎藤村が、小諸義塾の教師として若き日を過ごし、「千曲川のスケッチ」をはじめ数々の作品を残したことはよく知られているとおりです。藤村が小諸に赴任したのは明治32(1899)年。それから6年間を小諸で過ごしました。おそらく駅の様子は開業時と変わらないものだったと思われます。
 明治36(1903)年7月改正の時刻表によれば、下り7本、上り6本の列車が発着しています。すでに、明治26(1893)年に碓氷峠の鉄道が開通し、高崎で日本鉄道(現在の高崎線)に接続する形になっていましたから、小諸を朝一番の7時46分発の列車に乗れば、上野に14時55分に着くことができました。所要時間は7時間強です。藤村もそのぐらいの時間をかけて小諸にやってきたわけです。
 明治時代の小諸駅は、分岐する路線もなかったことから、構内は現在よりもずっと小規模であったと思われます。残念ながら、藤村が眺めたと思われる駅舎その他の建造物は現存していませんが、藤村が小諸を去った4年後の明治42年に建築された危険品庫(ランプ小屋、油庫)が残っています。これが、小諸駅の現存最古の建築物と思われます。
 大正2(1913)年に小諸駅は大きく拡張されました。佐久鉄道(現在の小海線の一部)の開業に備えたもので、『小諸市誌近・現代篇』によれば、同鉄道の建設にあたり、当時の小諸町は停車場用地1057坪を寄付しています。大正4(1915)年8月8日に開業した佐久鉄道は、信越本線の南側に増設された新ホームに発着することになりました。小諸駅の軽井沢寄りに、線路の下をくぐり抜ける狭い地下通路があり、入口に「停車場拡張記念碑」が立っています。その地下通路に入ってみると、煉瓦積みアーチの構造であることがわかります。構内の拡張後も、駅を挟んだ南北間の往来ができるようにと、同時期に建設されたものではないかと推測されます。
 大正15(1926)年12月1日には、布引電気鉄道(小諸〜島川原)も開業して、小諸駅は3つの路線が交わる交通の要衝となりました。駅の利用者も増加したことから、駅舎の拡張が必要になり、昭和2(1927)年6月に新たな駅舎が誕生しました。
 布引電気鉄道のホームは、佐久鉄道のホームの西側に新たに設けられたようです。しかし、同鉄道の経営は不振を極め、電気料金滞納で送電を止められる事態となり、開業から8年足らずで営業休止(そのまま廃止)となってしまいました。
 戦争の時代を経て、世の中が落ち着きを取り戻した昭和25(1950)年、新たな駅舎が建築されました。それが現在も使用中の駅舎です。白樺湖方面へ通じる国鉄バス路線も開設され、小諸駅は大勢の行楽客で賑わうようになりました。昭和38(1963)年10月には、信越本線軽井沢〜長野間の電化が完成して電車急行が走るようになり、上野〜小諸間の所要時間は3時間前後に短縮されました。ポン太の記憶の中に小諸駅が登場するのはこのあたりからです。1966(昭和41)年10月には電車特急「あさま」2往復が登場し、1968(昭和43)年10月の国鉄史に残るダイヤ大改正(よんさんとう)では、3往復となりました。1972(昭和47)年3月には5往復となり、その後も急行の格上げなどで増え続け、東京方面との行き来には「あさま」を利用するのが当たり前という時代になったのです。
 しかし、1997(平成9)年10月1日の北陸新幹線開業に伴い、その「あさま」が来なくなってしまいました。信越本線の碓氷峠の区間は廃止、軽井沢〜篠ノ井間は第三セクターのしなの鉄道へ移管されたからです。しなの鉄道と小海線のローカル列車が発着するのみとなった小諸駅。かつての賑わいは失われ、観光客も減少、中心市街地が活気を失ったことは否めません。
 新幹線が来なかったことで小諸はダメになったと嘆く市民は多いのですが、イメージほど小諸が不便になったわけではありません。廃止直前の「あさま」の上野〜小諸間の所要時間は2時間10分ほどでした。新幹線の東京〜軽井沢間の所要時間は1時間5分前後です。しなの鉄道の小諸〜軽井沢間は25分程度ですから、乗り換え時間を入れても、かつての「あさま」よりもずっと短時間で東京(上野ではありません)との行き来ができるのです。問題はアピール不足にもあるとポン太は思うのですがどうでしょうか。


現在の小諸駅です。昭和25(1950)年に建設された駅舎が使用されています。
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今から35年前の小諸駅です。現在とあまり変わらないようにも見えますが、タクシーや送迎車の数が多いこと、二階で食堂が営業中であることなど、やはり活気があるように感じます。(1983年1月7日撮影)
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ポン太が小諸駅を初めて写した写真です。1番線に停車中の信越線上り列車の窓から、下り列車用の2・3番線ホームと小海線用の4・5番線ホームをみたところです。4番線ホームに小海線の気動車が停車しています。(1963年8月8日撮影)
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小諸駅1番線ホームに到着した上り特急「第二あさま」(181系)です。2ヶ月前に走り始めたばかりの姿です。(1966年12月26日撮影)
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昭和43年10月の「よんさんとう」ダイヤ大改正を記念して発売された小諸駅の記念入場券です。裏面には3往復となった「あさま」の時刻表が記載されています。
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小諸駅で現存最古と思われる建築物がこの危険品庫(ランプ小屋、油庫)です。かつては列車の照明はランプでしたから、そのための灯油などを保管しておく建物が必要でした。引火しやすい油類の保管庫という性格上、煉瓦でつくられています。旧信越本線の長野県内区間で唯一現存している煉瓦造の危険品庫です。
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小諸駅構内の東端にある「停車場拡張記念碑」です。大正二年と刻まれています。
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記念碑のすぐ脇が地下通路の入口になっており、その内部(中央部分)はこのとおり煉瓦アーチです。
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布引電気鉄道小諸駅ホーム付近の写真です。昭和初期の撮影と思われます。画面の左手奥に懐古園があるというロケーションではないでしょうか。
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現在の小諸駅構内です。大きな跨線歩道橋は懐古園の入口に通じるもので、その右下奥あたりに布引電気鉄道のホームがあったのではないかと推測されます。
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懐古園駐車場前の広場に、小海線で最後まで活躍したC56形蒸気機関車(C56144)が保存されています。高原のポニーと呼ばれて親しまれ、かつては小海線といえばC56というイメージでした。小海線から蒸気機関車の煙が完全に消えたのは昭和47(1972)年です。
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小諸を出た小海線は、乙女駅付近まで信越本線と並走します。複線のように見えますが、単線が二本並んでいる形で、右側は信越本線(まだ単線の時代)です。この写真は小諸駅を発車し東小諸駅付近を走るC56牽引の小海線貨物列車です。(1965年8月19日撮影)
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小諸駅2番線ホームに停車中のEF62形電気機関車牽引の下り普通列車です。今となっては、左側の1番線ホームに、「軽井沢、高崎、上野方面」という表示があるのが懐かしく感じられます。(1975年8月14日撮影)
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小諸駅の1番線ホームには、屋根を支える柱に古レールが用いられている箇所があります。その中には、明治期に輸入されたレールが多数含まれています。
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これはイギリスのカメル社製レールです。CAMMELL S.TOUGFEND STEEL.W.1888.SEC131.I.R.J という刻印があります。社名のカメルの後ろのSは工場所在地のシェフィールド、その次は強化鋼、Wは工場を意味しています。1888は製造年ですから、明治21年に製造されたものということになります。ちょうど信越線(当初は直江津線)の軽井沢〜上田間が開通した年にあたりますから、ひょっとするとそのどこかで用いられた可能性がないわけではありません。SECはレールの断面規格、最後のI.R.Jは、Imperial Railway of Japanの頭文字で、日本帝国鉄道すなわち日本国鉄(官設鉄道)が発注者であることを示しています。なおこの写真は文字を読みやすくするため、上下を反転させています。このような古レールをみると、明治期の日本の鉄道が、輸入レールに依存しつつ発展したことがよくわかります。
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小諸駅に関する話題はまだまだありそうですが、今回はここまでということにしておきましょう。


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黒斑山への招待

2018/06/21 11:00
 黒斑山(くろふやま)は浅間山第一外輪山中の最高峰です。標高は2404m。浅間山本体を除く浅間連峰全体の最高峰でもあります。浅間山の噴火警戒レベルは、現在、火口から2キロ以内入山禁止の「2」となっているため、浅間山そのものに登ることはできません。そのため、浅間山の代替として黒斑山に登る人も多いのですが、代わりに仕方なく登るというような山ではなく、黒斑山自体が、山歩きの楽しみを凝縮したような、素晴らしい山だとポン太は思っています。以前とりあげた、烏帽子岳とともに、浅間連峰の至宝ともいえる山なので、今回のブログはちょっと趣向をかえて、ガイド風に綴ってみることにします。

 ここが登山口の車坂峠です。JRバスの停留所「高峰高原ホテル」のすぐ目の前ですから、アクセスは容易です。すでに標高が1973mもあるため、黒斑山との標高差は431m。ゆっくり登っても2時間半程度で山頂に立つことができます。バスは一日たった2往復しかありませんが、新幹線の佐久平駅発8時35分のバスを利用し、帰りは16時19分発(なんとバスタ新宿直通、20時17分着)に乗れば、東京からでも日帰り登山が可能です。高峰温泉または高峰高原ホテルで入浴(どちらも日帰り入浴可)してから帰路につくこともできます。
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 登山開始の前に登山届を提出します。長野県の主要山岳は届け出が義務化されています。
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 登山コースには「表コース」と「中コース」がありますが、往路は断然「表コース」がおすすめです。中コースはほとんど展望がありません。ただし、距離が短いので、下りにはおすすめです。
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しばらくは森の中の道を進みます。早速高山植物のお出むかえです。これはゴゼンタチバナで、黒斑山ではよく見かけます。
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 下界ではとっくに散ってしまったシャクナゲもようやくつぼみが開き始めたところです。登山道脇の植物を見ているだけで気分が高揚します。 
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こちらは可愛らしいツマトリソウです。
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 30分弱登ると今度は一旦下るところがあります。ちょっと損したような気分になりますが、がまんして登り返えすと、展望が開けてきます。
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 振り返ると高峰山と三方ヶ峰(右)がよく見えます。良い眺めです。
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 登山口から40分ほどで、大きなガレ場にさしかかります。このガレ場は高山植物の女王コマクサの花園です。
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 よくこんなところにと思えるような過酷な環境の下で、可憐な花を咲かせてくれるのが コマクサの魅力です。
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 再び樹林帯の中へと入って行きますが、道標がしっかり設置されているので安心です。
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これも高山植物のミツバオウレンです。見過ごしてしまいそうな小さな花ですが、登山道脇にたくさん咲いています。
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 尾根道を進むと、前方に黒斑山が姿を現しました。このあたりが黒斑山までの中間点といったところです。
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 道端でイワカガミとミツバオウレンがコラボしています。本当に高山植物の豊富な山です。
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 登山開始から1時間半ほどで、木製の階段が連続する箇所へ到達します。下の土が流れてしまっているので、階段と言うよりハードルを越えて行くといった感じで、表コースでもっとも難儀をするところです。
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 木製階段を登り切ると前方に浅間山が姿を現しました。この景色をみれば、疲れが吹き飛びます。
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 鉄製のかまぼこ形をしたシェルターが現れました。万一の際に噴石を避けるためのものですが、ここまで来ればもう一息で最初のピーク、槍ケ鞘(やりがさや)です。
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 ここが槍ヶ鞘です。前方に浅間山、左手に「トーミの頭(かしら)」が見えます。すばらしい展望ですから、もうここで満足してしまう人もいるのではないでしょうか。トーミの頭への道はガレていて、怖そうにみえますが、見た目ほどの急登ではありません。
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 外輪山の切れ目の谷は、まるで仙人でもいそうな世界ですが、この谷に実際に棲んでいるのはカモシカです。時々登山道にも姿を現します。
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 このように目の前をカモシカが横切って行くこともあります。
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 トーミの頭へむかう鞍部に、中コースの入口があります。帰りはここから左手に下ります。
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 前方がトーミの頭です。道はこのような感じで、それほど危険なところではありません。
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 登山道の傍らでは、高山植物のハクサンイチゲが満開です。
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 トーミの頭から振り返ってみた槍ヶ鞘です。確かに槍の鞘の頭の部分のような形をしています。後方には佐久平が広がります。
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 トーミの頭からみた浅間山です。ここまで来ると迫力が違います。
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 トーミの頭からみた第一外輪山です。左端がこれから登る黒斑山です。
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 横からみたトーミの頭です。この上に登って恐くはないのかと思われるでしょうが、真下を見ない限り大丈夫です。
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 黒斑山を目指して外輪山の尾根を進みます。
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 足元にも楽しみがあります。この岩の下を覗いてみるとヒカリゴケが見えます。
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暗闇の中で緑色に怪しく光っているのがヒカリゴケです。
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 黒斑山の山頂付近には、火山活動を監視する機器が設置されています。
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 ここが標高2404mの黒斑山山頂です。トーミの頭から20分ほどで到達します。浅間山はこんな感じに見えますが、広い展望が得られる場所ではないので、ランチはもう少し尾根を先に進んだあたりがおすすめです。
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 ポン太が「天空のランチテラス」と勝手に呼んでいる場所です。浅間山本体はもちろんですが、外輪山から火口原まで浅間山の全てを見渡せる絶景ポイントです。
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 蛇骨岳から仙人岳へと連なる外輪山のこの迫力。
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南側(佐久平側)も絶景です。ちょっとガスがかかっていますが八ヶ岳も見えます。
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眼下に広がる火口原の湯の平は、まるでおとぎ話の森のようです。動物たちの楽園かもしれません。
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 浅間山の火口付近もよく見えます。登山道が筋のように見えていますが、現在は登山禁止ですから人影はありません。
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たっぷり眺めを楽しんだら下山です。中コースはこんな感じでほぼ展望はありません。
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高山植物のコバイケイソウです。葉がオオバギボウシ(ウルイ)に似ているので、間違えて食べてしまう人がいますが、こちらは毒草ですから、命取りになる場合もあります。
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 中コースで唯一展望が得られる開けた場所です。高峰スキー場(あさま2000)や水ノ塔山、籠ノ登山が望まれます。ここまで降りてくれば、あと30分ほどで車坂峠です。
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 左側がすこしガレた場所を通過します。車坂峠まであと一息です。少し前まで、このあたりにはタカネマツムシソウが群落をつくっていたのですが、なぜか絶えてしまいました。
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 黒斑山山頂から1時間半弱で車坂峠に戻ってきました。このあたりは天然カラマツの保護林になっていて、林相もきれいです。
 
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 以上で黒斑山のガイドを終わります。黒斑山のすばらしさをお伝えすることができたでしょうか。まだ登ったことがないという方、ぜひお出かけください。ポン太も太鼓判、いや太鼓腹を叩いておすすめです。



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南相木村は驚きの連続

2018/06/18 12:12
 梅雨の季節は、高原のツツジが美しい季節でもあります。たまたまテレビで目にしたのが、南相木村にある立原(たてはら)高原のツツジ。白樺林とツツジのコントラストがすばらしく、これは見に行く価値がありそうだと、先週末に出かけてみました。
 南相木村(みなみあいきむら)というのは、南佐久郡に4つある村の1つで、人口約1000人の小さな自治体です。しかし、何もない山奥の村というわけではなく、子育て支援も老人福祉も充実しているようですし、図書館(1人あたりの蔵書数は県内トップレベルとか)やイベントホール、後述する温泉施設もあります。ただし、中学校は設置しておらず、生徒は近隣3町村で運営する組合立小海中学へ通学しているそうです。これは財政規模を考えての知恵なのでしょう。
 さて、お目当ての立原高原のツツジですが、現地に着いて眺めてみると、見頃をとっくに過ぎており、花は僅かに残るのみ。完全な空振りでした。それでも少しは歩かねばと損と、白樺の森の中をトレッキングしていると、足元になんとワラビが頭をもたげているではありませんか。ツツジからワラビへ、直ちに目的を変更したことはいうまでもありません。
 立原高原を徘徊した後、村の奥へ奥へと車を走らせました。行き着いたのが南相木ダムです。なんとそこは、日本一のダムでした。何が日本一かというとその標高です。同ダムは海抜1532mに位置しており、あの黒部ダム(海抜1470m)より60m以上高いところにあるのです。しかも、堰堤の高さ136mは全国でも19位に入るという堂々たるもの。さらに、特徴としてあげられるのが、ロックフィルダム(岩石を積み上げて建設したダム)であり、その石がすべて地元産の石灰岩だということです。南相木村はかつて大理石の産地でもあったということで、大理石づくりの蝶型モニュメントが置かれていました。このダムは、揚水式発電用につくられていて、群馬県側にある上野ダム(神流川発電所)の上部調整池という役割を担っています。スケールもさることながら、造形的にも美しい見応えのあるダムでした。
 ダムの次に訪れたのが滝です。大小たくさんの滝がある中で、「おみかの滝」と「犬ころの滝」を見てきました。後者に隣接しているのが町営の温泉施設「滝見の湯」です。リニューアルしたばかりということで、とてもきれいな、しかもお洒落な建物でした。その名のとおり、湯舟から滝を眺めることもでき、満足度の高い温泉施設といえましょう。
 地元の方に「犬ころの滝」の名の由来を尋ねたところ、愛犬家が卒倒してしまいそうな、意外な答えが返ってきました。滝のある場所の地名(字)が「犬殺し場」であったからだというのです。「犬殺し」→「犬ころ」とは。もっともその犬というのは、可愛いペットの犬を意味するわけではなく、狼や野犬のことですから、村人に害をなす恐ろし獣を追い詰めた場所だったと考えれば納得します。
 予想以上に見どころの多い南相木村でしたが、村はずれにもう1つ、驚かされたものがありました。それは、出征する夫を見送る妻と子の像です。戦争の時代、こんな小さな村からも喚呼の声に送られて多くの若者たちが出征し、故郷に戻ることはありませんでした。残された家族の戦後の苦難の歴史を思い、このような悲劇を繰り返してはならないと、平和への悲願をこめてこの像を建立した、という主旨の説明板が設置されていました。「日本唯一 不戦の像 南相木村」と大書した表示も出ていました。小さな村の大きな志。自治体をその大きさで評価してはならないと、つくづく思い知らされたポン太でした。

 立原高原の白樺の森です。気持ちのよい場所ですが、ツツジの花はもうほとんど残っていませんでした。
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 おお!ワラビだ。目が慣れてくると、その存在に気づきます。
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 思わぬ収穫ににんまり。
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 ここが南相木村最奥の南相木ダム(奥三川湖)です。
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 足がすくむような高度感のある堰堤は、石灰岩を積み上げたもの。その白さに、これがダムの堰堤であることを忘れてしまいそうになります。堰堤の高さは136mあり、これは全国のダムの19位(ロックフィルダムにかぎれば8位)ということです。
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 堰堤の高欄も石灰石ですから、古墳のエントランスのようにも見えます。
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 これが大理石のモニュメント「ちょうちょやま」です。
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 南相木渓谷にはいくつもの滝がありますが、これは「おみかの滝」へ行くために設けられた隧道の入口です。中が屈曲しているため、出口が見通せず、一人で入るのはちょっと恐いかもしれません。出口に熊でもいたらと不安になり、大声を出しながら通過しました。
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 隧道の途中の穴からみた「おみかの滝」。そこが一番の絶景でした。
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 こちらが「犬ころの滝」です。ここに追い詰めれば、狼や野犬も逃げ場がなかったでしょうね。
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 「犬ころの滝」を見下ろすことができる村営の日帰り温泉施設「滝見の湯」です。とても雰囲気が良く、近ければたぶん常連客になるのでは・・・。
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 村はずれの「別れの松」の前に設置されていた「不戦の像」です。説明板に「見送る母親の顔は諦観の相。母親の手にすがる男の子は<お父さん早く帰って>と必死で叫んでいます。そして母親の背で無心に眠る幼子。なんという非情な世界でありましょう」と書かれていましたが、そのような情景を実によく表現した像です。作者名は書かれていませんが、実力のある方の作品ではないでしょうか。
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 南相木村の観光スポットの1つ、立岩湖です。幽玄な雰囲気が漂い、湖畔でしばらくのんびりしていたくなります。
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Natural & Beautiful

2018/06/14 11:49
 梅雨の晴れ間に外ですること。するというより必ずやらねばならぬのが草むしりです。この時期は雑草の成長がはやいので、ほっておくととんでもないことになってしまいます。次は家庭菜園の手入れ、その次はガーデニングといったところでしょうか。外仕事はやりはじめるときりがないので、あっという間に一日が終わってしまいます。家庭菜園については以前触れましたので、今回はガーデニングをとりあげることにします。
 田舎暮らしでは、家庭菜園とともにガーデニングも楽しみのひとつです。ただし、ポン太は、自然な状態で咲いている野の花、山の花の方が好きなので、いかにも人工的なコテコテ感のある庭は好みません。めざすは、周囲の森とも調和する、ナチュラル&ビューティフルな庭づくりです。そうはいっても、花壇は僅か1坪足らずなので、やれることは限られます。第一に心がけているのは、真冬以外は常に季節の花が咲いている、そんな状態を保つことです。いろいろ試しているうちに、不動のラインナップとなったのは、次のようなものです。
 <春>ビオラ、チューリップ、オダマキ <初夏>バラ、ミヤコワスレ、ペンステモン <夏>ナデシコ、ユリ、山百合、オオバギボウシ、ラベンダー <盛夏〜秋>百日草、マリーゴールド、リンドウ
 この中で、ポン太が特に気に入っているのがビオラと百日草です。前者は寒さにめっぽう強いのが特長で、秋に植えつけると初冬まで花を咲かせてくれます。厳冬期は雪の下で耐え、春が来ればポン太の花壇で最初に花をつけ、6月下旬まで咲いていますから、これほど花期の長い花はありません。後者の百日草も花期が長く、夏から秋まで三ヶ月も咲き続けてくれます。その花が終われば紅葉の季節をむかえるというわけで、みごとに季節のバトンタッチ役を果たしてくれるのです。そんなありふれた花で喜んでいるなんてと思われるかもしれませんが、ここは寒冷地。タネを蒔いても思うように育たないものが意外に多いのです。

 現在の庭の様子です。ビオラはまだ咲いており、バラは満開。浅間の焼け石を囲むように植えてあるのはオオバギボウシですが、花はまだこれからで花芽もでていません。左側の空いているところに、百日草のタネを蒔きました。
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 まわりを圧倒しないように小さなバラを植えましたが、花束のようできれいです。
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 これはちょっと珍しいのではないかと思いますが、北米原産のペンステモンという花です。寒さに強く、むしむしした暑さに弱いということで、ポン太の花壇とは相性がよく、しっかり根付いています。秋の紅葉もきれいです。
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 一輪だけ咲いたナデシコ。後ろにつぼみがたくさんありますから、これからが楽しみです。
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 今まで楽しませてくれたミヤコワスレです。数日前に散ってしまいました。
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 植えていないのに、参入してくるものもあります。これはツユクサです。梅雨のこの時期にふさわしい花なので、抜かずに鑑賞しています。
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 まだ咲いていませんが、咲けばこんなに美しい山百合です。香りもよく、家中がその香りに満たされます。
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 ガーデニングにはそれなりに手をかけているつもりですが、それに勝るのが、誰も世話をしていないのに、道端できれいに咲いている花たち。これはちょっと野生化したようなマーガレットです。マーガレットは、ポン太の庭にも植えたこともありますが、なぜかうまく育たず全滅しました。
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 こちらは水辺のアヤメ。自然の中にあるほうがやはり花はきれいに見えます。
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見えない檻

2018/06/11 10:03
 現代俳句の巨人、金子兜太氏が鬼籍に入られたのは4ヶ月前のことです。海軍経理学校の同期生であった亡父が、しばしばその名を口にしていたので、ポン太は子供のころから同氏が俳人であることは認識していました。しかし、俳句には興味がなく、どんな人物か知りたいとも思いませんでした。同氏に関心を寄せるようになったのは、だいぶ年を重ねて、「朝日俳壇」に目を通すようになってからです。「金子兜太選」の句には、胸を突き刺さすような鋭さとパワーを感じました。花鳥風月だの風流だのとは全く異なる視点をもつ、こんな俳句もあるのだと、門外漢ながら目を開かれた思いがしたのです。
 兜太氏は、自身の戦争体験から、二度と戦争の惨禍を招かないためには、「表現の自由」が何より大切だと考えていたようです。かつて治安維持法により、大勢の俳人が弾圧されたことを忘れてはならないと、「俳句弾圧不忘の碑」の建立を呼びかけ、自ら揮毫しました。碑は上田市西郊の塩田平に建てられ、兜太氏が亡くなった5日後に除幕式が行われました。碑の隣には「檻の俳句館」(館主はフランス出身の俳人、青眼マブソン氏)という施設が設けられたということを新聞で知り、これは一度は見ておく必要があるのではと、出かけてみました。その場所は、戦没画学生の作品を収集展示していることで有名な「無言館」のすぐ近くです。「無言館」は以前見学したことがありますが、その時には存在しなかった第二展示館「傷ついた画布のドーム」が設けられていましたので、そちらも巡ってきました。
 「檻の俳句館」には、弾圧された俳人の作品17句が展示されています。その全てが檻の中という特異な展示方法がとられており、句の内容もさることながら、視覚的にも大きなインパクトを与えられます。「大戦起こるこの日のために獄をたまわる」(橋本夢道)という句のなんというリアルさ。思わず身震いしてしまいました。
 館の入口に、「もしかすると、かつて弾圧された若き俳人たちは、私達よりも心が自由だったかもしれません。現代の私達こそ檻の中で生きているのではありませんか」というマブソン館主の言葉が掲げられていました。S市公民館報の俳句掲載拒否事件をはじめ、あちらこちらで起きている権力を慮っての自主規制。個人のレベルでも同様なことが起きてはいないかと、考えさせられたポン太でした。
 帰路、一句浮かびました。「忖度の行き着く先は戒厳令」(ポン太)

 木立に囲まれた「俳句弾圧不忘の碑」です。
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 その隣に設けられた「檻の俳句館」。入館は無料(火曜休館)で、「平和の俳句」投句箱が置かれています。
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 檻の中に掲示された青木村(長野県)出身の栗林一石路の句。「戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台だ」
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 他の作品も全て檻の中に掲示されています。手前は中村三山の句、「千人針を前にゆゑ知らぬいきどほり」です。
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 こちらは、「無言館」の第二展示館「傷ついた画布のドーム」です。中に入るとその名のとおり天井がドーム状になっていて、そこには戦没画学生が美術学校在学中に描いた習作が無数に貼られていました。彼等の無念さが、完成された作品以上に伝わってきました。
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 画布にみたてたコンクリートには、このような文字が刻まれていました。
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 こちらは戦没画学生慰霊美術館「無言館」の本館です。展示されている作品の中には、もし、戦争で命を落とすことがなければ、画家として大成したのではないかと思わせるものが少なくありません。東京美術学校(現在の東京芸大)首席卒業といった証書なども掲示されており、いかに多くの有望な人材が失われたか、よくわかります。
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 「傷ついた画布のドーム」から「無言館」(本館)へむかう坂道には「自問坂」と刻まれた石が置かれていました。この坂は体力だけでは登れませんね。
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 全部見終わって、少々重苦しい気分にはなりましたが、「無言館」の前に広がる山里の風景のなんと美しいこと。もし、戦没画学生が生き返って、自分の作品が展示されているこの地を訪れたなら、きっと絵筆を握りたくなるのではないでしょうか。
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『信濃の国』は面白い

2018/06/08 11:36
 長野県民なら誰でも歌える県歌『信濃の国』。ポン太は県民になってまだ3年ですが、もちろん歌えます。移住後に覚えたというわけではありません。ポン太の亡父は信州の出身で、いつもこの歌を口ずさんでいましたから、それを聞かされて育ったポン太は、自然に覚えてしまったというのが真相です。
 県歌に制定されて今年で50年ということで、様々な企画やイベントが催されています。しかし、この歌は、県歌に制定されるずっと以前から県民に親しまれていたのであり、県歌になったのはその結果にすぎません。長野師範学校の教師であった浅井洌が作詞し、同僚の音楽教師が曲をつけ、明治33(1900)年に同校の運動会で披露したのがその始まり。師範学校卒業生である教員たちが「宣教師」の役割を果たし、全県に広まったというわけです。
 一言でいえば、お国自慢ソングですが、信州の風土が巧みに織り込まれていて、県内どの地域の人でも、納得できる内容になっているのがミソです。かつて、県庁所在地をめぐる対立から、県を二つに分けてしまえという分県運動が盛り上がったことがありました。県議会の議論が白熱したその時、傍聴席から『信濃の国』の大合唱がわき起こり、分県熱が沈静化したという「伝説」も残っています。信州人というアイデンティティーを醸成した、とんでもなく重要な歌なのです。
 信州といえばなんといっても山自慢。1番の歌詞に「聳びゆる山のいや高く」とあり、2番で「御嶽、乗鞍、駒ヶ岳、浅間は殊(こと)に活火山」と有名な山が列記されています。浅間山麓に住むポン太は、浅間山が別格扱いされているようで嬉しくなりますし、木曽の住民なら御嶽山が冒頭にきていることを誇らしく思うでしょう。この歌が生まれたころ、登山はまだ一般的ではなく、ウェストンが日本アルプスのすばらしさを著書で紹介(イギリスで出版)したのは、『信濃の国』発表の僅か4年前です。今なら当然とりあげられるであろう穂高、槍、八ヶ岳といった山が出てこないのはやむを得ません。
 名所としてとりあげられているところも、今とはずいぶん異なっており、軽井沢や志賀高原、上高地といった地名は出てきません。しかし、「旅のやどりの寝覚めの床」や「月の名に立つ姨捨山」といったくだりは、情感が漂っていて好ましく、「尋ねまほしき園原や」とか「心してゆけ久米路橋」といった歌詞を読むと、どんなところか行ってみたくなります。歌えば歌うほど、知れば知るほど味わい深く興味のわく『信濃の国』です。
 

 1番の歌詞に、「4つの平は肥沃の地」とあります。平とは盆地のことですが、その1つに数えられているのが佐久(平)です。田植えが終わったばかりの佐久平は瑞々しく、たしかに「肥沃の地」であることを実感します。
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 2番の歌詞に、「浅間は殊に活火山」とあります。大噴火は困りますが、浅間山はこのように少し噴煙が上がっている方が、シンボリックで見栄えがします。
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 2番の歌詞には、山の名前だけでなく、代表的な河川の名が4つ(犀川、千曲川、木曽川、天竜川)でてきます。県民の大半がそのどれかの流域に住んでいるわけですから、この歌に親しみを感じるのは当然でしょう。浅間山麓で川といえばもちろん千曲川です。
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 3番の歌詞には「木曽の谷には真木(まき)茂り、諏訪の湖(うみ)には魚多し」とあります。木曽は周知のとおり林業のメッカ。赤沢自然休養林に行けば、保存されている森林鉄道に乗って、美林を鑑賞することもできます。
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 海のない信州にとって、諏訪湖は貴重な存在。「魚多し」からワカサギを連想してしまいます。
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 4番では曲調が変わり、名所旧跡が紹介されます。月の名所として知られる姨捨の棚田は、古くから文人墨客の憧れの地でした。今もその景観は保たれており、姨捨駅には、JRの豪華列車「四季島」も立ち寄ります。
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 5番の歌詞は人物自慢です。木曽義仲から佐久間象山まで、四人の偉人名が列記されています。ところで、幕末の先覚者、佐久間象山の呼び方ですが、信州では「しょうざん」ではなく「ぞうざん」が一般的。『信濃の国』でもそう歌います。「象山」の号は、故郷松代の生家の裏山(象山=ぞうざん)にちなんだものですから、そう読むのが当然だと地元では思っているわけです。町を挟んで反対側(東側)にある尼巌山(あまかざりやま)から、その象山を眺めてみましたら、尾根の形が象の頭と鼻のように見えました。
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 最後の6番の歌詞でポン太が大好きなのが、「穿つ隧道(トンネル)26、夢にもこゆる汽車の道」という部分です。碓氷峠にアプト式鉄道が開通したのは1893(明治26)年。1963年までアプト式で運行されており、子供のころのポン太は、本当に26ものトンネルがあるのだろうかと、列車で通る度に数えた思い出があります。横川駅から旧熊ノ平駅までの間は「アプトの道」として遊歩道化されており、アプト式時代のトンネルや橋梁をたどることができますから、ぜひ出かけてみて欲しいと思います。
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タダなのにぜいたく

2018/06/04 09:45
 ポン太は基本的に麺類を好みません。ラーメンやパスタといった類を積極的に食べに行くことはありませんが、蕎麦だけは例外。外食の選択肢の上位に位置しているといってよいでしょう。もちろん手打ちが前提で、食べるのは真冬でも冷たい蕎麦です。食感がよく、店(職人)によって風味が異なり、何度食べても飽きない、といったところが蕎麦の魅力です。
 蕎麦に合う料理といえば何といっても天麩羅。市販の蕎麦(乾麺または生麺)を買ってきて家で食べる場合でも、天麩羅が加わると一気にぜいたくな食事に変身します。現時点で購入可能な蕎麦の一押しは、「信州安曇野道祖神そば」です。コシがあり、無添加で、そば湯も飲める本格派ですから、これに、季節感が味わえる野草の天麩羅を添えると、蕎麦店とさほど変わらない満足感を得ることができます。
 今回、天麩羅の材料に選んだのは、葉っぱを中心に6種類。いずれもポン太の森に生えているものばかりなので、原価はゼロです。しかし、それで最高にぜいたくな食事をしたような気分になれるのですから、これほど有り難いものはありません。その昔、米を得ることが難しかった山里の人々にとって、蕎麦と山菜の天麩羅は、極上のご馳走であったに違いないとポン太は思います。

 準備した材料はこれら6種類です。上段左からオオバギボウシ(ウルイ)、天然ミツバ、ギョウジャニンニク、下段左からヨモギ、ニセアカシアの花、クワです。
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 市販の蕎麦では一押しの「信州安曇野道祖神そば」。3食分パッケージにはつゆも付いています。
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 出来上がった野草の天麩羅。元の材料がわかるように平らに並べてみましたが、盛り付けを工夫すればもっと美味しく見えると思います。
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 さらに、アスパラと椎茸の天麩羅、酢の物を追加したら、蕎麦店に負けない特上天蕎麦になりました。
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 野草の天麩羅には、実はモデルがあります。それは、景信山(高尾山の裏側にある山です)の頂上小屋。多摩地域に住んでいたころは、高尾山から縦走するのにちょうど良い山なので頻繁に出かけていました。おにぎりだけ持参し、名物の野草の天麩羅とナメコ汁を注文。この組み合わせは、ポン太にとって、極上の山上ランチでした。
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 なつかしい景信山の山頂です。高尾山周辺では一押しの山。またいつか登ってみたいですね。
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ライムグリーンの初夏

2018/06/02 07:06
 ポン太の森全体に漂う甘い香り。見上げると、アカシア(正確にはニセアカシア、和名は針槐)の白い花が無数に咲いていました。この香りによって、浅間山麓が初夏になったことを実感するといっても過言ではないでしょう。
 浅間山麓といえば避暑地のイメージが強いのですが、散歩していて本当に気持ちがよいのは盛夏ではなく、梅雨入り直前のこの季節です。滴るような緑、潤いのある空気、花や木々が発する芳香、頭上から聞こえてくるカッコーの声、どれをとっても心地よい材料ばかりです。
 いつもの散歩だけではちょっと物足りなくなり、軽井沢方面へ足をのばしてみました。半年間の改修工事が終わって先頃オープンした雲場池の様子はどうか、しばらく足が遠のいていた碓氷峠の遊歩道に何か変化はあったか、そんな興味もありました。新しい案内板が設置されたぐらいで、どちらもそう大きな変化はありませんでしたが、ライムグリーンとでもいうのでしょうか、少し深めの黄緑色の森は、まさに癒やしの世界。なんとも心地よい時間を過ごすことができました。
 ところで、この季節の楽しみは散歩だけではありません。家庭菜園では、結球レタスやルバーブ、そして何より楽しみなイチゴが収穫期をむかえました。完全無農薬栽培ですから、色づいたらすぐに収穫しないと、美味しいところを全部虫に食べられてしまいます。そのタイミングが難しく、このところ、朝起きると真っ先に、イチゴの様子を見に行くポン太です。


 甘い香りをふりまいているニセアカシアの花です
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 雲場池の入口に建てられた新しい案内板です。外国人観光客(特に近隣諸国から)が増えている状況を考えると、ハングルと中国語を併記するぐらいの配慮があってしかるべきだと思うのですが・・・。
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 雲場池は、紅葉だけではなく、緑も美しいですね。
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 池の畔のレストランもライムグリーンに包まれていました。
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 まわりの別荘地に人の気配はなく、静かな散歩が楽しめます。
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 オンシーズンをむかえ、旧軽井沢銀座はそれなりの賑わいをみせていました。
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 軽井沢が避暑地として優れていることを世に広めたのは、カナダ人宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショー。この教会とショー・ハウスは、軽井沢の原点のようなところですが、ここまで足をのばす観光客は少ないようです。
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 ショー・ハウスの少し先に碓氷峠遊歩道の入口があります。熊の看板に恐れをなして戻ってしまう人もいるようですが、ポン太は一度も遭遇したことはありません。ただし、油断は禁物。ポン子は小熊を見たことがあり、この先、熊よけの鈴は必携です。
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 遊歩道唯一の吊り橋も緑に埋まっていました。
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 この道を歩いて気分が良くないはずはありません。
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 遊歩道沿いにたくさん咲いていた花です。初めて見る花で、調べてみたのですが、名前がわかりません。誰かご存知でしたら教えてください。
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 碓氷峠見晴台からの眺めです。緑の波のかなたに妙義山系の山々が霞んでいました。
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 ポン太の菜園のレタスがしっかり結球し、食べ頃になりました。プロ並みとはいいませんが、上出来です。
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 ルバーブの茎もだいぶ太くなり、そろそろジャムづくりの準備です。
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 一番楽しみなイチゴです。無化学肥料、無農薬でここまで育つとは、エライとしか言いようがありません。
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足尾には学びがいっぱい

2018/05/30 00:22
 先週末の3日間、研究団体の見学会に参加し、栃木県の旧足尾町(現在は日光市足尾町)をめぐってきました。足尾には、かつて日本一、東洋一と呼ばれた銅山が存在しました。銅山の発見は1550年と古いのですが、飛躍的に発展したのは、1877(明治10)年に古河市兵衛が銅山を買収し経営に関わってからです。鉱山町として発展した足尾町の最盛期の人口は3万8428人(1916年)で、これはなんと県都宇都宮に次ぐものでした。1973年の閉山後、減り続けた人口は、現在2000人を割り込んでおり、その落差に驚かされます。過疎の町になってしまったとはいえ、町中のいたるところに、かつての繁栄を物語る産業遺産が残っており、これほど興味深い町はありません。
 近代的大鉱山へと発展していく過程では、様々な先端技術が取り入れられ、先進的な設備も多数設けられました。それらの遺産は近代鉱山業の歴史を物語る貴重な存在ということができます。産銅量が急速に増加した一方で、深刻化した鉱害問題も、足尾を語る際に忘れてはならないものです。製錬過程で排出された亜硫酸ガスにより、周辺の山々ははげ山と化し、渡良瀬川に流出した鉱毒により、下流域の田畑が壊滅的打撃を受けたこと(足尾鉱毒事件)は、良く知られているとおりです。
 足尾銅山は1973(昭和48)年に閉山し、買鉱により継続された製錬も1988年に終止符を打ちました。しかし、負の遺産というべきはげ山は、今も残っており、多数のボランティアも参加して緑化への取り組みが続けられています。近代日本を支え「栄華」を極めた鉱山業の光と影、その両方を実感できるのが足尾の特長で、これほど学ぶべきものの多い場所はないように思います。地元では世界遺産登録を目指す運動が展開されていますが、ぜひ実現して欲しいものです。内外の大勢の人々がここを訪れ、「光と影」を実感し、未来への指針を得ることができれば、それこそ人類への大なる貢献ではないかと思ったポン太でした。

 足尾へ通じるわたらせ渓谷鐵道は、1911(明治44)年に下新田〜大間々間を開業し、1914年に桐生〜足尾本山間を全通させた足尾鉄道がそのルーツです。駅や橋梁、隧道など鉄道施設の多くが開通時のままの姿を保っており、なんと38の施設が登録有形文化財になっています。下の写真は足尾駅に停車中の下り列車ですが、この下り線プラットホームも建設当時の姿を留めており、登録有形文化財になっています。
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 通洞に残る選鉱所の遺構です。足尾銅山の主要な坑口は、本山、通洞、小滝の3つで、当初はそれぞれに選鉱所が設けられたそうですが、1921年までに通洞に集約されて、最新鋭の設備が整えられました。金属鉱山の選鉱所のモデルとして高く評価されたということです。山の上に見える塔は、索道(ロープウェイ)の支柱です。索道は、物資や廃石、廃泥の主要な輸送手段として利用されたそうです。
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 選鉱所の内部です。閉山から45年が経過していますが、これだけのものが残っており、貴重な産業遺産ということができるでしょう。
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 鉱毒が大問題となり、1897(明治30)年、政府からの命令で、坑内廃水をすべて中和、沈殿させてから放水することが義務づけられました。これは通洞坑の廃水を処理するために設けられた中才浄水場です。今も浄水処理が行われており現役です。
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 中才の鉱山住宅です。風呂やトイレは外ですが、家賃は無料、電気代も自前の発電所があるため無料だったということです。そのため、冬場は電気ストーブで暖をとっていたという話を聞きました。
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 今は無人となった小滝地区に残る風呂場の遺構です。大勢の鉱夫たちが、ここで身体の汚れを落とし、ほっと一息ついたことでしょう。
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 足尾の方々の言葉を聞いていると、いわゆる栃木弁ではないことに気づきます。鉱夫たちは全国からやってきており、特に北陸地方出身者が多かったということです。龍蔵寺の墓地には、身寄りの無い「渡坑夫供養塔」がありました。
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 1890(明治23)年に架けられた道路用鉄橋の古河橋です。ドイツ製(ハーコート社製)で、架設以来原位置にありつづけている道路橋としては日本最古とされ、重要文化財に指定されています。対岸が本山エリアで、この上を当初は馬車鉄道が、後には物資輸送用の鉱山電車(坑外電車)が走りました。足尾は産業用に電車を用いた最初の事例ではないかといわれています。
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 足尾町内の輸送には馬車鉄道が用いられましたが、1926年に「ガソリンカー」が導入され、1952年まで用いられたということです。「ガソリンカー」といってもいわゆる気動車ではなく、フォードの自動車用エンジンを利用して足尾で製造したガソリン機関車が二軸客車を牽引するもの。ボランティアの手で復元された車両を足尾歴史館で見ることが(乗ることも)できます。
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 足尾本山の製錬所跡です。転炉の残骸が残っていました。
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 足尾線の終点、足尾本山駅の跡です。
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 ポン太が初めて足尾を訪れた1970年に撮影した写真です。本山から下ってきた貨物列車が間藤駅手前の切り通しを通過している風景です。写真の中央奥が本山の製錬所で、まわりの山々はすべてはげ山状態でした。
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 松木川の上流側からみた製錬所の跡です。
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 松木川の上流にあった松木村は、乱伐や製錬工場から出る亜硫酸ガスのために住める状態ではなくなり、全住民の移転を余儀なくされました。廃村となった村に残された墓が、はげ山となった山々を見上げていました。
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 銅山の閉山後、緑化事業が本格化し、1996年の第1回植樹デー以来、市民植樹も行われるようになり、これまでに23万本余の植樹が行われたそうです。若木に網が巻き付けてあるのは、鹿の食害を防ぐためです。植樹が進んだとはいっても、それは、かつての煙害エリアの3%にすぎず、もとの自然を取り戻すには400年はかかるとのことでした。一度破壊した自然を回復することがいかに大変か、今も進行形の原発問題が脳裡をよぎります。
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烏帽子岳で「山開き」

2018/05/24 22:29
 信州各地から「山開き」「開山祭」のニュースが届くようになりました。それを聞くと、ポン太もじっとしてはいられなくなります。昨年の記録を見ますと、6月5日に浅間連峰の水ノ塔山でプライベート山開きをしています。今年は気温の高い日が続いているので、少し前倒ししてもよかろうと、晴天に恵まれた一昨日、烏帽子岳へ出かけてきました。
 烏帽子岳は浅間連峰の西端に位置する標高2066mの山です。東京の最高峰、雲取山(2017m)よりも高いのですが、登山口の地蔵峠の標高が1732mもありますから、実際に登る高さは300m強。およそ2時間で山頂に立つことができ、危険な箇所もありません。それでいて、眺望は雄大、高山植物の種類も豊富で、ポン太、ポン子にとっても、登山シーズンの幕開けを飾るにふさわしい山ということができます。
 今の季節は、カラマツの新緑がとにかく美しく、それだけでも大感激でしたが、登山道の傍らには気の早いイワカガミが咲き始めていたり、稜線の岩場には高山植物のミネズオウが可憐な花を咲かせていたりと、高山植物ウォッチングを楽しむこともできました。
 この山は何度登っても、いつ登っても決して登山者の期待を裏切ることがありません。烏帽子岳に登らずして浅間連峰を語ることなかれ、という名言もあるほどです。誰の名言? えぇ・・・その・・・実はポン太です。タヌキだから騙しているんじゃないかって?いえいえ登ってみればわかりますよ。

 地蔵峠からまずは湯の丸キャンプ場をめざしました。昨秋、道路整備のためとして、三ヶ月間も通行禁止にしていた道です。まだ完成はしておらず、またまた5月28日から6月20日まで通行止めにして舗装工事を行う由。そもそもこんなところを舗装する必要があるのでしょうか。舗装道路を歩きたいと思う登山者はいないと思いますので、市街地と同じ感覚で生活者もいない山道を舗装することには大反対のポン太です。
 
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 湯の丸キャンプ場の様子は変わっておらず、ほっとしました。こんなところが舗装されたら興ざめです。
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 烏帽子岳へは、湯の丸山の山腹をまわるようしてむかいます。その周辺のカラマツの自然林の見事なこと。
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 フィトンチッドたっぷり。森林浴に最適の森です。
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 輝くような白樺の新緑です。
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 湯の丸山(裏登山道)への分岐が近づき、前方に烏帽子岳の稜線が見えてきました。正面のピークは小烏帽子で、烏帽子岳の山頂はその後ろに隠れています。左手のカラマツもきれいでした。
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 標高の高いこのあたりでは、ズミがまだつぼみの状態でした。
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 これはオオカメノキ(ムシカリ)の花。小さな白色の花のまわりを大きな花弁の花(装飾花というらしい)が縁取っています。
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 烏帽子の稜線にむかって登るにつれ、展望が開けてきて、気分爽快です。
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 道端に咲いていたショウジョウバカマです。低山なら3〜4月に咲く花です。
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 稜線の岩陰では、高山植物の女王コマクサの株が大きく育っていました。7月上旬には、可憐な花を眺めることができそうです。
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 稜線の最初のピーク、小烏帽子に着きました。前方に烏帽子岳の頂上がみえます。周囲の山々を眺めながらの尾根歩きは快適そのもの。
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 烏帽子岳越しにみる北アルプスは絶景です。この日は黄砂の影響か、少し霞んでいたのが残念ですが・・・。
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 日当たりのよいところでは、はやくもイワカガミが咲いていました。
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 岩場に咲く高山植物のミネズオウです。漢字で書くと「峰蘇芳」となるそうで、可愛らしい小さな花にぴったりです。
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 山頂付近のカラマツはまだ芽吹いたばかりでした。
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 烏帽子岳の山頂です。360度の大展望に満足しない人はいないでしょう。
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 無事に山頂に到着し、プライベート「山開き」を終えたポン太とポン子。夏山登山の安全を祈念しつつ、今年は新たな山にもチャレンジするぞ!と気合いを入れました。
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 地蔵峠に下山し、駐車場の後ろを眺めてみると、「高地トレーニング施設」の建設がだいぶ進んでいました。山の自然はできるかぎりそのままに、人工の造営物は必要最小限に、と考えるポン太にとっては、このような「開発」は不愉快なことですが、やはり地元にとっては「開発」で落ちるお金の方が大事なのでしょうね。
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 地蔵峠の名物はソフトクリーム。これはコケモモソフトですが、その甘酢っぱい味は、登山で疲れた身体にはなんとも心地よく、ついつい手がでてしまいます。
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すべてはマネから始まる

2018/05/22 23:22
 先週末、東京に滞在していたポン太は、2つのイベントに出かけてきました。1つは、国立博物館で開催中の「名作誕生」展、もう1つは、京急のファミリー鉄道フェスタです。 前者はポン子のお供で出かけたのですが、美術門外漢のポン太が見ても興味をそそられる内容でした。教科書に載っているような「名作」と呼ばれる作品が、何を手本にして出来上がったものなのか、手本とされたものと「名作」とを並べて展示し、そのつながりを明らかにするのが狙いで、普通に名画を鑑賞するのとは異なる面白さがありました。例えば雪舟の有名な「天橋立図」も、手本とした中国の画家の作品と並べてみれば、そのタッチは瓜二つといっても良いほど。また菱川師宣の「見返り美人図」も、「洛中洛外図屏風」の中に描かれている人物の中から取り出した(悪くいえばパクった)ものということも良くわかりました。だからと言って、それが、名作の価値を減ずるものではなく、あらゆるものにはお手本があり、それに自分らしさを付け加えることで良い作品が生まれるというのは、古今東西、ジャンルを問わず、当たり前のことだと受け止めました。
 先人の良いところを真似して自分のものとし、さらに発展させる。真似しただけなら「盗作」、何か工夫した点が付け加われば「名作」というわけです。現代において、デザインや技術が「盗作だ」「パクりだ」と問題視されることがよくありますが、その境目をどう判断したらよいのか、これはなかなか難しいぞ、と思ったポン太でした。
 後者の鉄道フェスタ(会場は京浜急行の久里浜工場)は、以前から出かけてみたいと思っていたものです。通常、一般人が鉄道会社の工場内に立ち入ることはほぼ不可能ですから、1年に1度、1日限りというこのチャンスを活かすことができて大満足でした。それにしてもすごい数の人また人。久里浜駅から会場まで、ほとんど切れ目なく続く人の列に驚きました。
 驚いたといえば、会場へ向かう電車に大勢乗っていた小学生たちの知識の豊富なこと。友達同士の会話の内容を聞いていると、例えば、○○系の電車で塗色の異なるものが何編成あるかとか、○○駅には一般人の通行できない変わった踏切があるとか、あれはめったに表示されない珍しい行き先表示だとか、ポン太も知らないような話の連続でした。恐るべし小学生の知識欲と記憶力。車掌のアナウンスを真似している低学年の子もいましたが、そうやって真似しているうちに駅名やその読み方も覚えていくわけで、やはり、すべてはマネから始まるのです。

「名作誕生」展の会場は平成館でしたが、久しぶりに訪れた国立博物館でしたので、本館も見てきました。建物の内部が実にレトロですばらしく、そちらの方に目を奪われました。
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 「名作誕生」展会場の出口に、「見返り美人をさがせ」というコーナーがありました。、「洛中洛外図」の中にいる「見返り美人」をみつけて写真撮影し、応募せよとのこと。
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 ポン太もチャレンジし、見事?4人の見返り美人をみつけました。その内の2人は、下の写真の中にいます。
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 こちらは京急のファミリー鉄道フェスタです。車両の写真撮影コーナーはこの混雑。
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 工場内にはこんな展示も。
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 工場内を会場としたプラレールコーナーは子供たちに大人気でした。
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 ポン太のお目当ては工場内に保管されている歴史的車両です。これは大正13年(1924年)に製造された京浜電気鉄道のデ51号。半鋼製車両の草分け的存在で、新造時の姿に復原されています。子供たちはあまりこちらには興味が無いようでした。
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 こんな行き先見たことないという子供に、お父さんが「昔は漢字を右から書いたから、これは、かながわいきと読むんだよ」と説明していました。鉄道フェスタは勉強になることがたくさんあります。
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家庭菜園はカッコーとともに

2018/05/16 09:34
 家庭菜園は田舎暮らしの楽しみの1つです。ポン太がやっているような森の片隅の1坪菜園から本格的な畑に近いものまで、レベルは様々ですが、多くの家庭が野菜作りを楽しんでいるといっても過言ではないでしょう。散歩の途中でよその家の菜園を眺めたり、作業中の方と話をしたりするのもまた楽しみの1つです。たくさん穫れたからとお裾分けにあずかることもあるので、菜園に関しては、口は災いの元ではなく、幸せの元かもしれません。
 高冷地であるがゆえに、植え時を間違えると夜間の寒さや霜にやられて失敗してしまうこともあります。ある時、菜園の土づくりをしていた方から「苗はカッコーの声を聞いてから植えると失敗しない」という話を聞き、なるほどと納得しました。
 昨日、一人で散歩に出かけたポン子が、森でカッコーの声を聞いたと言います。いよいよ家庭菜園始動です。
 実はポン太の菜園には、すでに植え付けたものがあります。それはレタスです。春先の気温が異常に高かったので、いつもの年より10日もはやく植えてしまい、うまく育つか心配していたのですが大丈夫でした。40日ほどで大きく育ち、GW明けからほぼ毎日収獲して食べています。今年最初の菜園の恵みに感謝しつつ、ボリュームアップしたサラダを夢中で頬張るポン太とポン子でした。

 植え付けて数日後のレタスです。手前にサニーレタス、後ろに結球レタスを植えました。
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 40日後にはこんなに大きくなり、サニーレタスは食べ頃です。
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 早速、朝食でいただきました。サニーレタスは市販のものより柔らかく断然美味しい!何しろ、無農薬、無化学肥料の完全有機栽培ですから。薬を散布しなくても虫がつかないのは、寒冷地の有り難さです。
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 ポン太の菜園には、タネを蒔いたわけではないのに、勝手に育ってくれる有り難い野菜もあります。上から二番目の写真で、レタスのまわりに大量に芽を出しているのはシソ(オオバ)です。どこかからタネが飛んできて(鳥が運んだ?)、ポン太の菜園に定着してしまいました。また、放っておいても毎年確実に芽をだし育ってくれるものもあります。その1つがジャムの原料となるルバーブ。昨年、株分けしてみましたが、すべてこんなに元気に育っています。
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 森の中で勝手に育つ「野菜」もあります。これは天然のミツバ。市販のものより少しこわいですが、香りは抜群。ミツバといえばお吸い物や茶碗蒸しが定番ですが、天ぷらにして食べても美味です。
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 群馬に出かけた時に、道の駅で「ウルイ」という山菜を売っているのが目にとまりました。珍しいものではないかと思い、早速購入して持ち帰りました。ところが、ポン子がこれならわが家にもあるという言うのです。調べてみましたら、ウルイというのは、オオバギボウシの別名で、ポン太の森にもたくさんありました。これがそれです。若葉を山菜として利用する場合にウルイとよぶことが多いようです。食べてみましたが、まったくクセのない味でした。
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 こちらはプロのレタス畑です。整然と植えられたレタスは絵になります。水田にも水が入るようになり、浅間山麓は、本格的な農業の季節をむかえました。
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 キャベツの植え付けも進んでいます。「カッコーの教え」は、プロにも通用しているのかもしれません。
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生き残るぞ、浅間山麓

2018/05/09 22:07
 日本が人口減少時代に突入していることは周知のとおりですが、国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2015年を100とした場合、30年後の2045年に100をキープしているのは、都道府県単位では東京都(100.7)のみ。最も減少率の大きな秋田県は58.8ですから、人口の4割以上が消えてしまうことになります。長野県の数値は全国平均の83.7より下の76.9。う〜ん、これはなかなか厳しいですね。そんな中で、ちょっとばかりホッとするのは、浅間山麓エリアの減少率が比較的小さいことです。特に、御代田町の数値は現状維持を意味する99.4ですから驚きです。県内で最も人口減少率の小さな自治体というだけでなく、全国的にみても、地方の町村で人口減少(過疎化)を心配しないですむ、稀な例といえましょう。
 その御代田町に、新庁舎が誕生し、GW明けの5月7日に業務開始となりました。地方公共団体が、庁舎の豪華さを競うというようなことには批判的なポン太ですが、この庁舎は、浅間山麓の高原の町らしいデザインで好感がもてますし、隣地に整備予定の写真美術館ともうまくマッチしそうな気がします。

 これが御代田町の新庁舎です。
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庁舎内の町民ホールです。掲げられている絵は、篠原義易氏の作品「御代田のまつり−豊穣の祈り」です。
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 庁舎の入口に置かれているのは、ポットスチル(蒸留器)です。この場所は、メルシャン(株)軽井沢工場(ウィスキー蒸留所)の跡地であり、その産業遺産であるポットスチルをモニュメントとして保存したのは意義のあることだと思います。ちなみに、1955年の工場創設時は大黒葡萄酒(株)軽井沢工場でした。ウィスキーのブランド名は「オーシャン」です。1962年に合成酒メーカーの三楽に吸収合併されて「三楽オーシャン」となり、1980年にメルシャン(株)と改称。2006年に、キリンビールの傘下にはいりましたが、2010年に完全子会社化され、その翌年の2011年に軽井沢工場は閉鎖されてしまいました。
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 解体中のメルシャン軽井沢工場です。工場見学で何度か訪れ、試飲させてもらったこともありましたので、名残惜しい気持ちになりました。(2016年2月16日撮影)
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 メルシャンが1995年に開設し、工場の閉鎖とともに閉館した「メルシャン軽井沢美術館」の跡地には、写真美術館がつくられることになっています。まだその作業は始まっていないようで、現状はこのとおりです。
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湿原の女王リュウキンカ

2018/05/06 22:03
 GW中に斑尾高原の沼ノ原湿原へ出かけてきました。いつもの年ですと、混雑を避けてGW明けに出かけることが多いのですが、今年は季節の進み方が異常にはやく、毎年楽しみにしている水芭蕉の見頃が、GWと重なってしまったのでやむを得ません。
 人出はそれほどでもありませんでしたが、驚いたのは残雪の少なさ。例年ですと、遊歩道の一部はまだ雪で埋まっていて、一周するのはかなり大変なのですが、今年は山の斜面の窪地にほんの少し残るだけでした。水芭蕉の生長もはやく、すでに盛りを少し過ぎた感じでしたから、思い切って出かけて大正解でした。
 水芭蕉が咲いている姿は、どこから見ても絵になりますし、心が洗われる感じがします。しかし今回の湿原散策で、それに勝る印象を受けたのは、リュウキンカでした。水芭蕉と同じように水辺や湿地を好む植物で、ほぼ同時に花を咲かせます。清楚なイメージの水芭蕉に対して、リュウキンカには高原を一気に目覚めさせるような華やかさがあり、黄色い絨毯を敷き詰めたように咲いているところなどは、水芭蕉以上にインパクトがあります。花言葉は「必ず来る幸福」とか。これまで、水芭蕉の添え物のように思っていたリュウキンカですが、湿原の女王の名にふさわしいのは、むしろこちらかもしれないと見直したポン太でした。

 何度訪れても、沼ノ原湿原のこの風景には魅了されます。
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 雪解け水の中に咲く水芭蕉。これを見ずして春は終われません。
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 水中花のように、水面下で花開く水芭蕉もあります。そのなんと可憐なこと。
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 こちらは湿原を埋め尽くさんばかりのリュウキンカです。リュウキンカに促されて、後方の山にも一気に春がやってきたように見えます。
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 至近距離でみた水辺のリュウキンカです。堂々と自己主張していて、見応えのある花であることがわかります。
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 リュウキンカに縁取られた文字通りの花道です。
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 湿原の散策を終えて立ち去ろうと振り向くと、額に入れて持ち帰りたいような、こんな風景が目にとまりました。中央の白い花はスモモです。自然の造形は本当に素晴らしいですね。
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 斑尾には、涌井という蕎麦集落があります。「北沢」というお店が気に入り、今回もそこで昼食をとりました。自家栽培した蕎麦だけを使い石臼びきをしたこだわりの手打ち蕎麦がこれです。
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 蕎麦はもちろん美味しいのですが、とびきり美味しいのがそば湯。飲み干すと蕎麦のひきがらがこのように残ります。これが本物のそば湯だよ、と証明してくれているようで、嬉しくなります。
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 斑尾の麓にある旧豊田村(現・中野市)は、「故郷」「朧月夜」などの作詞で知られる野辰之の生誕地で、立派な資料館があります。
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 そのまわりの風景は、「故郷」そのもの。「うさぎ追いしかの山、小ぶな釣りしかの川・・・」と思わす口ずさんでしまいました。
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捨てられたのに咲くなんて

2018/05/03 15:56
 GWに入り、浅間山麓は大勢の人で賑わっています。いつも買い物に行くスーパーの駐車場は県外車でいっぱい。ふだんは並ぶことなどないレジも、順番待ちの列ができていました。
 浅間山麓一帯の森は、芽吹きから新緑のベールへと変わり、いろいろな花が次から次へと咲いています。ポン太の森ではウワミズザクラが満開です。名前はサクラでも、いわゆるサクラの花とは全く異なるもので、細長いブラシ状の白い花を咲かせます。花が終わったあとの真っ赤な実も見応えがあるのですが、小鳥たちにとってはご馳走のようで、すぐに食べられて軸だけになってしまいます。リンゴやズミの花は終わりかけていますが、ツツジが咲き始めましたので、森の彩りはこれから益々豊かになりそうです。
 今一番見応えのあるのは、八重桜ではないでしょうか。いつも散歩している開拓集落の道は、花のトンネル状態です。木々の足元にも小さな花がたくさん咲いていて、目を楽しませてくれます。
 森の中の意外なところで、健気に花を咲かせている小さなチューリップを見つけました。それは、落ち葉や生ゴミを埋めた場所。あまりに小さな球根だったので、どうせ花を咲かすことはあるまいと考え、他のゴミと一緒に処分したはずのものです。捨てられたのにこんなにきれいに咲くなんて、なんだか可哀想になってしまいました。今秋は、どんな小さな球根も、それなりの場所をみつけてしっかり植えてやろうと心に刻んだポン太でした。

満開のウワミズザクラです。
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リンゴの花は咲き始めが一番可愛らしく、つい数日前までこんな感じでしたが、今はもう散り始めています。
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開拓集落の八重桜が満開となりました。一般のサクラと八重桜がほぼ半々に植えられているので、ここではお花見が二回楽しめます。
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様々な花が咲き出し、水辺(御影用水)周辺も華やかになりました。
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近くにワンちゃんと泊まれるホテルができたため、夕方はワンちゃんの散歩ラッシュです。
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ポン太の森の木々の足元には、ムラサキ色の小さな花がたくさん咲いていました。フデリンドウ(上)とスミレ(下)です。
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森の奥で、捨てたのはずのチューリップが健気に咲いていました。
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すごいぞ農村歌舞伎

2018/04/30 06:53
 農村歌舞伎(地芝居)を実際に見たことがあるという方は少ないのではないでしょうか。
伝承地の多くが僻遠の地であることや、上演回数が極めて少ない(年に1度という場合が多い)ことから、見たいという気持ちはあっても、行動に移せないというのが一般的感覚かと思います。
 ポン太は福島県の秘境、檜枝岐(ひのえまた)に出かけた際に、立派な歌舞伎舞台の存在に驚き、演じられる様子をぜひ見たいものだと思いはしましたが、何しろ遠すぎて夢のまた夢という感じでした。ところが、灯台下暗し。浅間山麓にも、たった1箇所ですが、農村歌舞伎が伝承され上演されているところがあったのです。それは東御(とうみ)市の祢津(ねつ)地区。上演場所の東町歌舞伎舞台は、江戸時代の文化14年(1817年)に建立されたということですから、そこで演じられるようになってからでも201年の歴史があります。祢津の歌舞伎保存会には、寛延4年(1751年)の銘が入った「踊大小入」の木箱が残されているそうですから、歌舞伎自体はもっと前から演じられていたようです。
 ポン太がこの農村歌舞伎の存在を知ったのは3年前の上演当日の朝。大急ぎで駆けつけ、初めて見た時のインパクトはとんでもなく大きなものでした。もう一度見たいと強く思ったのですが、二年連続で都合がつかず、今年こそはと、朝から弁当持参で出かけました。おかげで、午前の部の子供歌舞伎を含むすべての舞台を見ることができ、農村歌舞伎の醍醐味を満喫したポン太でした。
 当日の様子は下の写真のとおりです。いかがでしょうか。生で見たいという気持ちになりませんか。そう思った方は、上演日が毎年4月29日であることをご記憶いただければと思います。


 歌舞伎舞台は、この階段を登った小高い丘の上にあります。
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 新緑に包まれたのどかな雰囲気は、農村歌舞伎ならでは。開演を待つ間にも期待感が高まります。
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 まずはおめでたい三番叟から。
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 午前の部は子供歌舞伎。地元の祢津小学校には「歌舞伎クラブ」があるということで、その生徒たちが演じます。今年の演目は「土蜘蛛退治」。足柄山の金太郎が坂田公時として将軍の家臣となり、妖怪土蜘蛛を退治するというお話です。金太郎がまさかりを担いで見得を切ると、やんやの喝采。おひねりの嵐です。
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 土蜘蛛が糸をまき散らし、家臣たちを身動きできなくさせます。そこへ公時が登場し、まさかりを振り回して土蜘蛛を倒すというストーリーです。
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 土蜘蛛を倒し、勝ちどきをあげて、フィナーレ。おひねりの量は午後の大人の歌舞伎より多かったような気がします。子供たちも嬉しいでしょうね。
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 さて、いよいよ本命の祢津東町歌舞伎保存会の公演です。今年の演目は、伊達騒動を題材とした「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」。主役である忠義の乳母政岡の登場です。なかなかの名演技でした。
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 幼い君主鶴千代の毒殺を狙った菓子を、あえて口にして苦しむ政岡の実子千松。千松を毒殺隠蔽のために刺し殺そうとする首謀者(仁木弾正)の妹八汐。最大の見せ場ですから、演者も力が入ります。
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 気丈に振る舞っていた政岡が、我が子の亡骸にすがって嘆くシーン。おひねりが飛ぶのも当然ですね。
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 「御殿の場」から「床下の場」への転換には、回り舞台が用いられます。おそらく手動式でしょうから、床下では担当者が汗を流しているはずです。江戸時代以来のその仕組みもちょっと見たい気がします。
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 弾正が妖術で化けた鼠を、警護の荒獅子が追いかける「床下の場」です。鼠役は小学4年生だそうですが、リズミカルな演技で立派にその役割を果たしていました。
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 最後の舞台挨拶。盛大な拍手と1本締めで、今年の公演は終了しました。
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 歌舞伎舞台のある丘の上から見下ろした祢津の集落。本当にのどかで、先ほど見た歌舞伎がまるで夢のようです。
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板門店が無用になる日

2018/04/27 20:48
 本日(4月27日)、歴史の大転換点になるかもしれない(そうなって欲しい)南北首脳会談が行われ、テレビの画面に釘付けになりました。
 ポン太は今回の会談場となった板門店に行ったことがあります。今から40年も前のことですが、テレビの画面を見ていて思ったのは、あれから今日まで、現地の様子がほとんど変わっていないということです。休戦会談場も、軍事境界線を示すコンクリートの帯もそのまま。東西冷戦が終結すれば、ここが無用になる日が来るに違いないと期待していたのですが、1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結してもなお、その落とし子ともいうべき状態が朝鮮半島では継続したままです。
 朝鮮戦争の勃発から68年。3年後に休戦とはなったものの、いまも戦争状態に終止符は打たれておらず、朝鮮半島では第二次大戦の戦後処理も完結していません。これほどの長きにわたり、民族の分断状態が続いているというのは、どうみても異常なことです。日本に置き換えて考えてみれば、それがどれほど悲惨なことかわかります。もしも、利根川を境に、親族の行き来もできず、武力衝突や事件が起きる度に多くの血が流されるといったことが繰り返されるとしたら・・・。
 今回の会談が、このような状況を根本的に解決するための大きな一歩となって欲しいと思います。これまでの経緯から、疑心暗鬼になるのもわかりますが、それを乗り越えて展望を切り開く知恵こそが必要ではないかと思うのです。
中島みゆきの歌のように、「そんな時代もあったねと・・・きっと笑って話せるわ」となって欲しい。テレビを見ながら心底そう願うポン太でした。

40年前(1978年)の休戦会談場です。いまも全く変わっていないように見えます。建物の右側にみえるコンクリートの線が軍事境界線です。テレビでは、このラインを両首脳が手をつないで越えるシーンが生中継されました。
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 休戦会談場の内部です。問題が起きた場合、真ん中の緑色のテーブルに双方の代表団が着席し話をするわけです。マイクのあるところが首席代表の席、テーブル上のマイクのコードが軍事境界線を示しており、それを挟んで双方が対峙する形になっていました。それは今も同じかもしれません。
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 北朝鮮側の板門閣です。建物自体は変わっていないと思いますが、テレビで見た感じでは、多少のリニューアルはされているようです。
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 見学中のまわりの様子です。北朝鮮側の兵士はいませんでしたが、それなりの緊張感はありました。
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 板門店の休戦会談場から少し離れたところです。休戦ラインを示す白い杭が並んでいます。その右手が北朝鮮側、左手が韓国側です。そんなラインがなければ、ごくごくのどかな田園地帯にみえます。
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 これは、当時(1978年7月)のソウル駅構内です。はじめて韓国の鉄道に乗った日のことを思い出し、アップしてみました。
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 当時のソウル駅前です。この建物は現存していると思いますが、その後ろに新しい建物が建設され、ホームやコンコースも一変しています。
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 当時、韓国国鉄で最速だった特急「セマウル」号です。ディーゼル機関車が牽引し、釜山〜ソウル間を4時間50分で結んでいました。これは、釜山駅で乗車前に撮影した写真です。なお、現在のKTX(韓国高速鉄道)は、同区間を2時間30分台で走破しています。
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桃もリンゴも満開

2018/04/26 18:34
 前回、桃源郷そのもののような「余里の一里花桃」を取りあげましたが、実は浅間山麓にも「桃源郷」があります。ポン太のいきつけの山である平尾山の周辺に広がる「平尾桃源郷」です。こちらは、余里のような花桃ではなく、果樹園で栽培される食用の桃です。
 例年よりだいぶ早く開花し、このところ気温の高い日が続いたせいか、あっという間に満開。薄紅色の花の美しさは花桃に劣らず、すぐ隣に咲いている白いリンゴの花、そしてまだ散らずに残っている桜と、「花の三重奏」を楽しむこともできます。
 芽吹き始めた木々の間を小鳥が飛び交い、棚田では田起こしが始まりました。この時季の山里には、生命のパワーを感じます。カメラをむけたくなるところも多いのですが、私有地である果樹園や畑に勝手に入り込むわけにはいきません。外で作業をしている人がいれば、お願いして撮らせてもらうことができますが、そうでない場合が多いのでどうしようかと迷うところです。少しぐらいなら黙って・・・。いやいや、タヌキといえども、それをやっちゃーおしめぇだよと、自重するポン太でした。

浅間連峰を望む「平尾桃源郷」です。
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 形のよい美味しい実を育てるには摘花も必要です。
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 浅間山を背にして咲く満開のリンゴです。
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 こんな風景が「桃源郷」のイメージに近いかもしれません。
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 新しい家が増え、「桃源郷」というよりも、「果樹園のある住宅地」となりつつあるところもあります。
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 田起しが始まりました。山裾の果樹園では、桃、リンゴ、桜の三重奏です。
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 咲きそろった桃。新緑の森の中に見える白い花は山桜です。
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ありがとう花咲じいさん

2018/04/24 09:57
 桃源郷とは、世俗を離れた理想郷、ユートピアを意味する言葉ですが、本当にあるとすれば、こんなところかもしれません。
 そこは、上田市の余里。上田市とはいっても市街地からは遠く離れた山里で、2006年に同市に合併するまでは、小県(ちいさがた)郡武石(たけし)村に属していました。花桃が多いことで知られ、「余里の一里花桃」と呼ばれています。その言葉を初めて聞いた時には、何のことやらよくわからなかったのですが、谷間の集落である余里は、その長さがおよそ1里(4km)あり、この季節にはその全てを花桃が埋め尽くすので、「一里花桃」というわけです。
 集落の入口近くの駐車場に車を置き、歩き出してみれば、目に入ってくるのは花桃また花桃。道路沿いはもちろん、民家の庭先、山の斜面、川の畔などいたるところに花桃が咲いています。花桃に彩られた集落の佇まいもすばらしく、まるで「日本昔話」の世界に入り込んだようです。地元の人々が「世界で一番きれいな二週間」と豪語するのも頷けますが、長年にわたりこれだけの数の花桃を植え、大切に育ててきた地域の人々の努力には頭が下がります。
 道路脇の立て札には「花咲じいさんのいる村」とありました。おとぎ話の中だけでなく、本当に「花咲じいさん」はいるのですね。「花咲じいさん」に感謝です。


 余里の集落に入った瞬間、目を奪われてしまった花桃の並木です。こんな道を散歩できるワンちゃんも幸せですね。
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 集落を貫く道沿いも花桃だらけ。気持ちよく歩けます。
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 咲き誇る花桃の美しさ。カメラをむけたくなるのも当然です。
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 これはもう「日本昔話」のような世界です。
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 素敵な古民家カフェもありましたが、この日はお休みで残念。
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 住んでみたくなるような、美しい集落があらわれました。
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 どこか懐かしい風景です。
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 花桃を愛でながら、一里の道を往復すると、かなりの時間がかかりますが、あまりの美しさに、疲れを感じることはありません。
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 民家も花に埋まっていました。
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 紅白の花桃と水仙の花畑。印象派の絵画のようです。
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 集落のメインストリートから少し外れたところにも、メルヘンのような風景が広がっていました。
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 少し高い位置から俯瞰した余里の集落。絶景ですね。
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 あまりにのどかで、土手でお昼寝をしたくなります。
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 田んぼの注意書きにも「花咲じいさん」の文字が。住民が一致協力して花桃の里を守っている様子がうかがえます。こんなに素敵な風景を見せていただき、「花咲じいさん」に感謝です。
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元気が出る公園

2018/04/22 22:36
 道路際に設置されている標識を見て、何だそれはと、驚いたり興味をそそられたりすることはないでしょうか。ポン太が以前から気になっていたのは、「元気が出る公園」という標識です。その場所は、佐久穂町の国道141号沿い。
 ここ2週間ほど悩まされていた風邪の症状がようやくおさまってきたので、本当に元気が出るところなのか、行ってみることにしました。国道から1キロほど入った山の上にある地元住民のための公園で、一見したところごく普通。なぁんだと思いつつ、よく眺めてみると、立派過ぎるほどの複合遊具が設置されており、子供たちが嬉々としてとび回っています。丘の斜面では、草すべり?に興じている人たちもいます。一方、山の地形を利用したマレットゴルフ場では、地元のお年寄りたちが快音を響かせていました。テニスコートやバーベキュー場もあり、展望もよいので、老若男女誰でも、ここで一日身体を動かせば、確かに元気が出そうです。
 公園を見た後、佐久市のコスモホールにむかい、佐久室内オーケストラのスプリングコンサートを聴きました。モーツァルト一色のプログラムで、前半はオペラのアリアが中心。プロの声楽家(ソプラノの三井清夏さんは地元出身の由)による迫力満点の歌声を聴いているうちに、先ほどの公園の明るく活気に満ちた情景が浮かんできて、視覚と聴覚の合わせ技で元気になれたような気がしました。
 これからどんどん動き回るぞ! 家に帰るなり、そう宣言したポン太でした。

 気になっていた標識がこれです。
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 ここが「元気が出る公園」です。山の上にあるため、展望は抜群です。
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 遊んでいる子供の数からみたら、立派すぎるような複合遊具がありました。
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 草すべり?に興じていたのは子供ではありません。こんなことをしたくなるのも「元気が出る公園」ならではかもしれません。
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 子供が喜びそうな遊具ですが、大人でもぶら下がってみたくなります。後に見えているのが、県民スポーツの王様、マレットゴルフのコースです。
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 少し標高が高いせいか、まだ桜も咲いていました。
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 佐久穂町には、ほかにも気になる標識がありました。「美人」はどこかときょろきょろして、事故を起こす心配はないのでしょうか。
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軽井沢の桜

2018/04/21 22:02
  旅行雑誌のみならず、一般誌でも何かと取りあげられることの多い軽井沢。「新緑の軽井沢」「紅葉の軽井沢」といった特集は山ほど目にしますが、「桜の軽井沢」といった類にはさすがにお目にかかったことがありません。軽井沢には桜そのものが少なく、桜の名所もありませんので、桜を求めて軽井沢へというのは、紅葉を探しに沖縄へというのと同じぐらいマイナーな話であるわけです。
 しかし、桜がまったくないわけではなく、思いがけず美形の桜や桜のある美景に遭遇したりすると、貴重なものを発見したようで嬉しくなります。ひねくれもののポン太は、そういう一般の常識からちょっとはずれたものが大好きなので、あえて「軽井沢の桜」をとりあげてみることにします。
 地域のシンボルである浅間山は千変万化。ついこの間まで、夏姿になっていたのですが、先週の雨が山では雪となり、再び雪化粧しました。その浅間と桜のコラボは実に素晴らしく、見応えがあります。

 浅間山を背にして咲く桜。やはり浅間は雪化粧している方が迫力があります。
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 これは、しなの鉄道の南側に広がる農業エリアからみた浅間山です。ポン太の頭の中では間違いなくベスト10に入るビューポイントです。
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 塩沢湖(タリアセン)の桜とコブシのコラボです。ちょっと人工的過ぎるのが難点ですが、美しい景観ではあります。
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 塩沢湖付近の道路際に咲く枝垂れ桜が見事でした。まだ観光客の姿は少なく、道路もガラガラです。
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 大日向開拓地近くの集落の桜です。別荘地軽井沢のイメージとは異なるところの方が桜の数が多いように思います。
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 落葉松を背に咲く桜。軽井沢らしい桜の風景といえましょう。
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 芽吹き始めた木々と桜のコラボ。ここはスケート場の裏山(風越山)ですが、逆光だったせいか、桜が浮き上がって見えました。
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 散歩するのによさそうな桜の小径。この奥にある隠れ家的カフェでは、何度かランチを楽しんだことがあります。
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 ひと気のない池の畔にひっそりと咲いている桜も風情があります。
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浅間山麓 さくら点描

2018/04/17 21:38
 先週ひいた風邪がなかなかぬけず、遠出をひかえているうちに、桜の開花はどんどん進み、ポン太の住む標高900m〜1000mエリアが、今まさに花の季節を迎えました。例年と比べると10日以上はやい感じで、GWまで花が残っていてくれるか心配です。
 浅間山麓(の標高の高いエリア)には、いわゆる「桜の名所」はありません。されど、量より質。芽吹き始めた落葉松林を背に凛と咲く風情は、他では味わえないものですし、民家や畑の傍らに、形のよい枝垂れ桜が1株だけ咲いている姿も絵になります。まだ戸が閉まったままの別荘地の中に、人知れず可憐に咲いている桜も、よきかなです。
 高原の桜は、華やかというよりも、楚々と咲く姿が美しいと言えるのではないでしょうか。そんな桜の風情を見逃してしまうのはもったいないので、カメラ片手に、ポン太の森の周辺をひとめぐりしてみました。

 中山道、追分宿〜小田井宿間にある一里塚の桜です。老木で樹勢の衰えが気になっていたのですが、今年は見事な花を咲かせてくれました。
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 中山道沿いの桜も満開になりました。
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 水辺(御影用水)の桜も咲きました。
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 別荘地内では、レンギョウと桜の競演です。
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 桜の園と化した開拓集落を、郵便配達のバイクが駆け抜けて行きました。
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 御代田町の雪窓湖です。あまり訪れる人のいない池畔にも、桜が咲いていました。
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 隣接する雪窓公園の桜です。すでに花は盛りを過ぎ、平日は人も少ないので、結婚式用の写真?を撮るには最適かも。
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 こちらはワンちゃんの写真撮影のようです。桜もいろいろな楽しみ方があるのですね。
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 御代田駅(旧駅)に保存されているD51も桜に包まれていました。
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 植え付けの準備が進むレタス畑です。桜の後には芽吹き始めた落葉松林が広がるという、浅間山麓らしい風景です。
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 ポン太の森ではボケの花が咲き始めました。
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 昨年、試しに植えてみた桃も開花しました。春が一気にやってきた感じです。
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待ってくれ、山の桜

2018/04/14 09:24
 今年は全国的に桜の開花がはやく、3月下旬に東京で満開の桜を堪能できたのは良かったのですが、浅間山麓にもどってみると、信州でも桜の開花は異常なはやさで進んでいました。長野、松本、上田などでは、すでに盛りを過ぎたところも多く、急がないと見逃してしまうのではないかと、焦りを感じ始めた矢先、ノドの傷みに襲われ、熱も出てダウン。どうやら風邪をひいてしまったようなのです。
 浅間山麓での生活では、人混みの中に身を置くことはほとんどありません。しかし、東京へ出かければそうはいきません。どこかで風邪の菌をもらってきてしまった可能性大です。マスクを着用すべきだったと後悔してもすでに遅し。こじらせないためには無理は禁物なので、毎年楽しみにしている上田城の桜も、今年は見ないで終わりそうです。
 ニュースを見ておりましたら、佐久平でもすでに満開になったところが多いとのこと。準地元でもあり、全く見ないまま散ってしまっては悔しいので、せめて長野牧場(正式名称は家畜改良センター茨城牧場長野支場)だけでもと出かけてみました。どうにもすっきりしない体調で眺めてみても、ここの桜とそれをとりまくロケーションは、例年のことながら素晴らしいものでした。
 風邪が癒えたら、もっともっと桜めぐりをしたいところです。この先期待できそうな標高の高いエリアの桜には、それまで開花を待って欲しい。そう願うポン太でした。

 毎年素晴らしい姿を見せてくれる長野牧場の桜です。
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 一番奥まったところにある枝垂れ桜も見事に咲いていました。
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 桜の下で美味しそうに草を食むヤギさん。裏の牧舎では子ヤギがたくさん生まれていました。
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 周辺の広々とした景観も長野牧場の魅力です。
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 昨年からバーベキューが禁止になったので、「花見の宴」をしている人はほとんどいません。この日が平日だったせいもあるかもしれませんが・・・。
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 帰路に立ち寄った鼻面稲荷神社の桜も咲いていました。
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 桜の数はそんなに多くありませんが、朱塗りの建物とのコントラストがよく、きれいに見えます。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その30(最終回)

2018/04/12 10:11
中山道踏破達成へ

<38日目、4月11日>栗東から大津へ 
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 いよいよ中山道歩きも大詰めです。前夜は近江八幡のビジネスホテルに投宿。朝食後すぐに、電車で栗東へとむかいました。栗東駅から綣(へそ)交差点にもどり、中山道歩きを開始。昨日は一日中ぐずついた天気でしたが、今日はすっきり晴れて絶好のウォーキング日和です。
 静かな旧道を草津宿へむかって進みました。綣という地名はかなり広範囲に及んでいるようで、綣○丁目の標識が続き、綣と刻まれた石柱まであります。道の傍らに一等水準点標識があり、旧中山道が、そのまま国道として利用されていた時代があったことがうかがえます。
 東海道線の下に設けられた小さな煉瓦アーチ橋をくぐりぬけ、線路に並行して進むと間もなく草津駅前。その先が草津宿の入口ですが、なんと目の前にあらわれたのはアーケード街でした。中山道がアーケード商店街に変身しているところは他にはありません。その、アーケードとアーケードの間が、中山道と東海道の分岐点になっていて、覚善寺の門前に、「右東海道、左中仙道」と記された明治の追分道標が立っていました。
 天井川である砂川(旧草津川)の下を隧道で抜けたところが、草津宿の中心です。隧道はもちろん後年のもので、江戸時代には土手を登り、橋が無かったので、歩いて水量の少ない川を渡った由。
 草津宿は東海道、中山道の分岐点にあたる重要な宿場で本陣も2つあったということですが、そのうちの1つが現存し、内部を見ることができます。立派な建物で、一番奥に大名が泊まった上段の間がありますが、そこに至るまでの部屋数がとても多く、台所の広さもからも、賄の大変さがうかがい知れます。宿帳には、吉良上野介と浅野内匠頭が、僅か数日違いで宿泊していたという記録や、新選組の土方歳三が隊士集めに江戸へ出かけた帰りに宿泊した記録などが残されていて、歴史が実感できます。

 アーケードになっていた草津の中山道
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 東海道と中山道の分岐点道標
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 天井川である旧草津川の下をトンネルで抜けると、草津宿の中心部です。
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 草津宿の本陣にて
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 とにかく広い本陣です。ここに浅野内匠頭や吉良上野介、土方歳三等が泊まったのかと思うと、歴史が身近に感じられます。
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 草津宿を出ると、道沿いの標識が「中山道」ではなく「東海道」に変わり、以後、中山道の文字を見ることはありませんでした。草津〜京都三条大橋間は、東海道と中山道が重複し、草津と次の大津は、東海道53次にも中山道69次にも含まれますから、中山道歩きをしている者としては、中山道の文字も併記して欲しいと思いました。
 まもなく矢倉立場の跡に着きました。そこがかつて、草津名物の姥が餅屋のあった場所です。今もこの場所に姥が餅屋が現存し、一休みすることができたなら、現代の街道歩きの人にも喜ばれるだろうにと思います。ポン太なら必ず寄るはずですから。
 国道1号と交差する矢倉南交差点付近は、旧道がどこへつながっているのかわかりにくく、しっかりした標識が欲しいところです。地図で間違いなく旧道であることを確認した道を進んでいくと、野路という集落に入りました。その中ほどに「萩の玉川」という場所がありました。野路は平安から鎌倉時代にかけて存在した宿駅で、「萩の玉川」は日本六玉川の1つといわれた由。今は人工的な小公園に過ぎませんが、休憩するのにちょうどよいので、持参した弁当で昼食をとりました。
 午後は、弁天池、月の輪池という、かつては、旅人の目を楽しませたであろう場所を眺めつつ歩みを進めました。まだ散らずに残っている桜もあり、快適な道中です。一里山という町に入ってまもなく、一里山一丁目の交差点脇に、一里塚跡の碑がありました。その先は瀬田にむかって下り勾配の道となりますが、家並みのむこうには、比叡山へと続く山並みが望まれ、いよいよゴールの京都が近づいてきたことを実感しました。
 自動車道路に合流すると瀬田の唐橋はもうすぐです。唐橋周辺には古い商店や民家が多く、京都の町中に入ったような雰囲気でした。唐橋周辺の桜はまだ見頃で、水に浮かんだ競技用のボートと桜のコラボは、一幅の絵のようでした。
 京阪石山線の踏切を渡り、東海道線の下をくぐり抜けた先が粟津の原。木曽義仲終焉の地ですが、今は工場地帯になっていて、沿道にわずかに残る松だけが、往時を偲ばせます。沿道に1つぐらいは義仲関連の碑なり像なりあってもよいと思うのですが、何もありません。そこから先は、膳所城の城下町に入るため桝形が連続し、京阪電車の踏切を越えた先でまた踏切を渡るという複雑なルートを歩くことになります。膳所城の城門跡を示す碑があちらこちらにあり、巨大なお城であったことがわかります。
 狭い旧道は風情があってよいのですが、大津市街地に入ると、車の通行量が多くなり、ゆっくり街道歩きを楽しめる感じではありません。一方通行にするなど対策はないものかと思います。クルマを避けながら歩いていると、ふいにという感じで左手にあらわれたのが義仲寺。中に入り、木曽義仲の墓(木曽塚)、芭蕉の墓と句碑、巴塚などを見ました。芭蕉はここを好み、遺言で墓が建てられた由。資料室には遺品の杖などがおかれ、門前には長生きした巴御前にあやかろうという地蔵堂もあり、なかなか面白いところでした。
 午後5時過ぎに、中央大通りとの交差点に到達しました。今日の中山道歩きはここまでとし、大津駅から電車で今宵の宿へとむかいました。

 かつては草津名物の姥が餅屋があった矢倉立場の跡
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 日本六玉川のひとつといわれた萩の玉川跡にて
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 前方に比叡の山並みが見え、道路脇には、「京都三条大橋まで五里余り」という道標が立っていました。
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 いよいよ瀬田の唐橋を渡ります。まだ桜も残っていて美しい風景でした。
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 京阪石山線の踏切です。
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 木曽義仲公が討たれた粟津の原。鉄道唱歌41番の歌詞には「粟津の松にこととえば答えがおなる風の声、朝日将軍義仲のほろびし深田はいずかたぞ」とあります。それはこのあたりでしょうか。
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 今は少し寂れてしまった感じのする膳所(ぜぜ)の商店街を進みました。
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 木曽義仲公と芭蕉翁の墓所、義仲寺です。
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 義仲公の墓前にて。信州では、義仲公は大変なヒーローです。ぜひ、大河ドラマでとりあげてもらいたいものです。
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 芭蕉の句碑。「行く春をあふみ(近江)の人とおしみける」 桜が終わりかけているこの時期に、中山道を歩いて近江に到達。明日は京都へという、ポン太とポン子の心情にマッチしているように思えなくもありません。
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<39日目、4月12日>逢坂山を越えて三条大橋へ
 ついに中山道歩きを完結させる日がやってきました。天気は午前中晴れ、午後は曇りという予報なので心配はなさそうです。大津駅から昨日の到達点である交差点にもどり、京都三条大橋をめざして歩き始めました。
 ほどなく大津事件の碑に到達。当時は国道だった狭い道での出来事であったことがわかります。それにしてもそっけない碑です。これではロシア皇太子(後の最後の皇帝ニコライ)も形無しでは…。旧道が国道161号に突き当たったところが札ノ辻で、そこを左折したあたりが大津宿の中心です。宿場的な雰囲気はほとんど残っておらず、国道沿いの本陣跡も、碑があるのみ。むしろ、通りの真ん中を走る京阪電車(京津線)の方に興味をそそられます。
 本陣碑の手前で、電車は専用軌道へと入っていきます。その先の線路際に蝉丸神社(下社)がありました。境内には蝉丸型とよばれる灯篭(重要文化財)もあるのですが、本殿はちょっと荒れた感じで、訪れる人はそう多くなさそうです。蝉丸の哀れな生涯(史実ははっきりしませんが)を偲ぶにはふさわしい場所かもしれません。
 ここ逢坂の地は、古くからの交通の要衝で、今も各種の交通が集まり、実に興味深いところです。東海道線をまたぐ京阪の煉瓦積跨線橋、旧逢坂山隧道など、鉄道遺産のみどころも多く、わくわくした気分で歩きました。
 旧道の跨線橋と一体化した京阪電車の坑門は、コンクリートながらすばらしい意匠です。そのすぐ前に、逢坂の関の碑(関所の本当の所在地は不明)や清少納言、蝉丸の歌碑があり、旧道沿いの蝉丸神社(上社)入口には、交通遺産として重要な「車石」(荷車の通行用に道路に敷き詰めた石。車輪のあたる場所が摩耗してU字形の溝にになったもの)が保存されています。「車石」はその先の閑栖寺の門前や、民家の前などにもありました。
 道路標識に京都市の文字が現れ、山科エリアに入りました。山科駅前のレストランで腹ごしらえをし、ゴールの三条大橋を目指しました。東海道線のガードをくぐると、右手に天智天皇陵がありました。その前を左に入る狭い道が旧東海道です。まるで路地のようですが、昔の東海道はこの程度の幅しかなかったということでしょう。多くの歴史上の人物が、都を目指して歩いたであろう同じ道を、今まさにたどっているのかと思うと、気分が高揚してきました。東山にむかって登り一方の道が続きますが、ここが最後の峠越えと思うと、疲れは感じません。
 登りきって、三条通りと合流したところが日岡峠で、そこには「車石」の通行を再現したモニュメントがありました。その先の道路擁壁にも車石が再利用されており、どれほど大量の車石が敷かれ、荷物輸送に大きな役割をはたしていたのか理解できます。
 蹴上の浄水場脇を過ぎると、いよいよ京都の市街地です。歩いている観光客の数がどんどん増え、外国人の姿も多くみかけるようになりました。都ホテルを左に見て、三条通をひたすら進みました。右手奥に平安神宮の朱色の大鳥居を望み、新緑の白川を渡ると、三条大橋まであと僅かです。三条京阪駅前を通り過ぎ、15時5分、ついに三条大橋に到達。中山道69次踏破達成の瞬間です。思わず親柱にタッチしてしまいました。京都市内の桜はほとんど散ってしまい、葉桜となっていましたが、鴨川の土手の枝垂れ桜だけは満開で、文字通り花の都へゴールインという形になりました。
 まだ日は高く、宿のチェックインには早すぎるので、比較的遅くまで桜が楽しめるという平安神宮へもどり、桜の園を鑑賞することにしました。建物と樹木そして桜がみごとに調和しており、さすがは京都のお庭です。中山道を踏破して都に着いた感激を、神苑の桜がより一層高めてくれたことは、いうまでもありません。
 感激といえば、宿の夕食もそうでした。デザートまで入れると全10品の京料理フルコース。冷酒で祝杯をあげ、美味しい料理に舌鼓をうち、いつまでも中山道踏破達成の余韻に浸ったポン太とポン子でした。

 これが大津事件の碑です。教科書に載っているような大事件にしては目立たない碑です。
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 かつての大津宿の中心部です。道路の真ん中を京阪京津線が走っています。
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 蝉丸神社(下社)にて。百人一首でポン太が最初に覚えた歌が、蝉丸の「これやこの・・・」でした。
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 東海道線を跨ぐ京阪京津線の煉瓦積み橋梁は実に良い雰囲気です。
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 安養寺(山号は逢坂山)の門前に立つ「逢坂」の碑。この地は昔も今も変わらぬ交通の要衝です。
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 旧逢坂山隧道は、外国人に頼らず、日本人の技術者が主体となってつくりあげた、初の山岳トンネルで、鉄道記念物に指定されています。坑門の扁額は時の太政大臣・三条実美が揮毫したものです。
 
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 峠のサミットに立つ蝉丸神社(上社)です。
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 蝉丸神社境内に保存されている車石です。江戸時代の舗装道路の遺構というわけで、車輪のあたる部分が摩耗してU字形の溝になっています。旧東海道だけでなく、竹田街道や鳥羽街道でも、このようなスタイルの街道整備が行われたということです。
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 山科入口の分岐までやって来ました。右が旧東海道(中山道)で、左は宇治へつながる道です。京都市まであと一息。
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 山科駅前を通過し、天智天皇陵の前から、細い道に入りました。路地のように見えますが、これが旧東海道です。この先は、いよいよ最後の峠越え、日岡峠への坂道となります。
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 この狭さがなんともよい雰囲気を醸し出している日岡峠付近の旧道です。
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 日岡峠の頂上に、車石の時代を再現したモニュメントがありました。こんな感じで荷車を押したのでしょうか。
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 日岡峠を下れば蹴上です。右手は南禅寺で、観光客が増えてきました。
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 白川を渡れば、三条大橋はもうすぐです。
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 ついに三条大橋に到達。やったぁー中山道踏破!
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 満開の枝垂れ桜と、弥次喜多の像が私たちの「快挙」を祝福してくれているようでした。
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 踏破の後、平安神宮の桜を楽しみました。屋根からこぼれるばかりの桜に、入苑する前から期待が高まります。
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 京都のお庭は、なぜかくも美しいのか。計算し尽くされ、寸分の隙もない完璧な美に、驚嘆するしかないポン太でした。むかしの人が都に憧れ、都を目指したのもむべなるかなです。
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 祝賀の宴。いくらなんでも食べ過ぎではないかって?まあ、この日ばかりはご容赦下さい。食べて食べて食べまくったポン太とポン子でした。

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 日本橋から京都三条大橋まで、要した日数はのべ39日、歩行時間(含休憩)の合計は、206時間52分でした。中山道の距離は、135里35丁といわれていますので、キロに換算すると533.6kmとなります。しかし、廃道となっていて迂回を余儀なくされたところや、街道以外に歩かねばならないところ(鉄道の駅から街道への行き来など)も含めると、実際に歩いた距離はそれよりもずっと長くなります。
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アンズが咲いた、ブログは二年目へ

2018/04/09 11:09
 浅間山麓でも季節はものすごいはやさで進んでおり、しばらく留守にしていた森の家にもどってみると、アンズが咲き、レンギョウが咲き、一部の低木では芽吹きも始まっていました。コブシも8分咲きとなり、すっかり春らしい雰囲気です。ホームセンターの園芸コーナーには、野菜の苗がたくさん並ぶようになりました。すでにレタスの植え付けを始めた農家もあります。浅間山麓は心浮き立つ季節を迎えたといっても過言ではないでしょう。
 高校時代の友人(静河さん、ブログ名は「ギャラリー静河」)に、背中を押されてブログを開設してから、今日(4月9日)でちょうど1周年となります。なんとか続けてこられたのは、このブログを見て下さる皆様のおかげです。自分自身の頭の整理や、記録として残すという意味ももちろんありますが、やはり、見て下さる方があればこそ、書く意欲も湧いてくるのです。
 タヌキといえども、いきなり「ドロン」するようなことはせず、二年目も気まぐれに続けていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 アンズが咲きました。去年と比べると10日以上早い開花です。ポン太の森で、最初に咲くピンク系の花ですから、この花が咲くと、森の中が一気に明るくなります。
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 いつもの散歩道のコブシは満開でした。昨年も同じ場所で写真を撮りましたが、日付は4月19日となっており、やはり10日以上はやく季節が進んでいる感じです。
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 レンギョウも咲きました。
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 このまま一気に春から初夏へ、とはいかないのが浅間山麓です。昨日は短時間ながら雪が舞い、開き始めたコブシの花や、芽吹いたばかりのリンゴの木もうっすらと雪化粧しました。行きつ戻りつしながら、それでも例年よりはやく季節は進んでいます。
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新緑の多摩〜片倉城跡公園を歩く

2018/04/07 22:36
 孫タヌキの世話を頼まれ、東京郊外の古巣へ出かけていたポン太ですが、その間の季節の進み具合は、まさにあれよあれよという感じでした。満開だった桜はあっというまに散ってしまい、野山は一気に新緑モードです。吹く風は初夏を思わせるほどで、「おんも、おんも」と叫ぶ孫ならずとも外へ出かけたくなります。
 多摩地域のよいところは、気持ちよく散策できる公園が比較的近いところにたくさんあることです。そのひとつである片倉城跡公園(八王子市)に出かけてみました。片倉城が存在したのは、15世紀後半〜16世紀頃。築城主や築城年代の特定は難しいということですが、空堀や土塁などが残っており、城跡らしい趣があります。カタクリ、ヤマブキソウ、ニリンソウ、スミレなどいろいろな花(野草)を楽しめるのも、この公園の魅力の1つです。
 今年は春の訪れが早かったこともあり、例年なら見頃のはずのカタクリの花はほんの僅かしか残っていませんでしたが、それに取って代わるようにたくさん咲いていたのがヤマブキソウ。大群落を形成し、丘の斜面を埋め尽くさんばかりに咲いている様は見事でした。同公園には桜も多く、主役のソメイヨシノはすっかり葉桜となっていたものの、枝垂れ桜はまだ十分楽しむことができました。
 植物以外のみどころもあります。その1つは入口近くの広場に置かれている彫刻群。迫力満点の作品やコミカルな作品などバラエティーに富んでいて、ちょっとした野外美術館です。もうひとつは、城跡内にある住吉神社の算額です。算額とは数学(和算)の絵馬のことで、数学の問題が解けたことを感謝し、更なる向上を祈願する目的で神社に奉納したもの。全国にはおよそ800枚の算額が現存しているそうです。住吉神社の算額は江戸末期の1851年に奉納されたものですが、現物は劣化が激しいため郷土資料館で保存の措置がとられており、神社には、同じ内容を書き写したものが掲げられています。そこに記された内容を解読し、現代数学に置き換えて解いてみたら、すべて正解であったとか。地域の人々の知的レベルの高さには驚かされますし、江戸時代=鎖国=低級文化では決してなかったと、改めて思うポン太でした。

 片倉城跡のソメイヨシノは、ほぼ葉桜になっていました。
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 僅かに残っていたカタクリの花です。
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 見頃をむかえていたのはヤマブキソウでした。
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 可愛らしいニリンソウも咲いていました。
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 満開の枝垂れ桜の近くでは絵筆をとる人も。
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 片倉城跡公園の彫刻のひとつ「ダンシングオールナイト」。バブルのニオイを感じます。
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 「アテネの戦士」という作品ですが、アニメの主人公のようにも見えます。ポン太の記憶では、「酔っぱらい」と題した面白い像もあったと思うのですが、今回は見つけることができませんでした。
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 城跡内にある住吉神社です。右側の軒下に「算額」が掲げられています。
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 これが算額です。冒頭に関流と書かれていますので、和算の大家、関孝和を師と仰ぐ人々が奉納したものでしょう。
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東京の桜再び

2018/04/02 13:16
 ポン太の森にダンコウバイが咲きました。春一番に花を咲かせる樹木ですから、これが咲いているのを見ると心がウキウキしてきます。コブシも少し咲き始めましたので、例年より季節の進み具合が早いような気がします。とはいえ、桜はまだ固いつぼみのままで、開花の「か」の字もありません。浅間山麓から花便りをお届けするのは、しばらく先のことになりますので、その前に東京の桜を再度とりあげてみたいと思います。
 先月末、ポン子のお供で、国立新美術館の「至上の印象派展」に出かけた際に、都心の桜を眺めてきました。同館は六本木にあります。六本木と聞けば芸能人が豪遊(あるいは悪さ?)するところというイメージで、東京に住んでいたころもほとんど縁がなく、桜の時期に訪れたのは今回が初めてです。六本木界隈に桜があること自体意外な感じがしましたが、美術館の前はもちろん、東京ミッドタウン近くの街路樹も桜で、町中のいたるところで桜を見ることができました。東京は想像以上に桜が多い、みんな桜が好きなんだ、と改めて思ったポン太です。
 東京の桜名所の中でもナンバーワンの呼び声が高い、千鳥ヶ淵にも行ってみました。さすがは徳川将軍家の居城であった江戸城。堀も石垣もスケールが大きく、桜も見栄えがよいこと。ボートからの眺めはより一層すばらしいのではと思ったのですが、最低でも90分待ちと聞いてあきらめたポン太でした。桜より、やはり人が多いのです、東京は。

 国立新美術館へむかう道の街路樹も桜でした。ビル街の桜も風情があります。
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 美術館前の桜も見事に咲いていました。
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 館内の展示ももちろんすばらしかったです。「印象派」の作品は、美術に疎いポン太にも馴染みやすく、十分楽しむことができました。これは、モネの「睡蓮の池 緑の反映」です。ここだけはなぜか写真撮影OK。企画展のPR作戦の一環でしょうか。
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 千鳥ヶ淵の遊歩道は人また人。人気スポットだけに大混雑でした。
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 桜の花にはたくさんの小鳥が集まっていました。桜に吸い寄せられるのは、人も小鳥も同じかな?
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 「お花見」の国際化は益々進んでいるようです。お花見ツアーの入国者数は昨年の6割増しとか。
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 これぞ江戸城の桜。迫力満点です。
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 見に来て良かったと思う絶景でした。ボートからの眺めはどれほどすばらしいか・・・。やっぱり乗りたかったなぁ。
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中山道でブラタヌキ 〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その29

2018/03/31 11:40
<36日目、3月29日>愛知川宿から武佐宿へ
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 前回、愛知川宿の入口まで到達できたことで、いよいよゴールの京都三条大橋が射程内に入ってきました。あと1回(2泊3日)でゴールインできるのはないかという気持ちになったのですが、よくよくシミュレーションしてみると、その先の宿場間の距離が長く、3日間でゴールするにはかなりきつい日程になることが判明。前回、4日間歩き続けたことで足を痛めたこともあり、無理をせずに、間にもう1回1泊2日の行程を挟むことにしました。
 昼過ぎに、愛知川駅に着き、街道歩きを再開。残念ながら午後から天気が崩れてしまい、雨の中の歩行となりました。
 愛知川宿には、それほどのみどころはなく、本陣跡も街角の柱に小さな表示がなされているだけです。明治天皇が休憩したという竹平楼前の石碑(東郷平八郎の書)が一番目立つ存在でした。愛知川宿を出てしばらくすすむと、愛知川の橋梁です。並行する近江鉄道の橋梁は明治のイギリスタイプのトラス桁とこれまた明治のポーナル型プレートガーダで構成されるクラシックなもので、見応えがあります。
 雨の中を歩くのはつらいのですが、それでも、どことなく昔の雰囲気が残る旧道であれば、気分的にはずいぶん楽です。元郵便局だったという五個荘のモダニズム建築物や、茅葺きの伊香型とよばれる民家など、沿道にはそれなりに見どころがあり、助かります。清水鼻という名水の湧く立場跡を過ぎると、一旦、国道に出ますが、東老蘇(おいそ)という場所から先はずっと旧道歩きです。鎌宮とも呼ばれる荘厳な雰囲気の奥石(おいそ)神社の前を通り、石碑だけの西生来一里塚跡を過ぎると、間もなく武佐宿に入りました。中山道沿いに武佐小学校がありましたが、その建物の意匠には驚かされました。街道を意識した瓦屋根やコンクリート製ながら歴史を想起させる白塀はインパクトがあります。武佐小学校の生徒がつくった武佐宿に関する説明板が、主要な建物に設置されていたことにも感動しました。
 武佐宿にはべんがら格子の古い家がかなり残り、脇本陣跡には立派な門が建てられていました。本陣の門と塀も現存するなど、宿場の面影が濃厚です。下見板張りの近代建築である旧近江八幡警察署武佐分署庁舎(登録文化財)もよい雰囲気でしたし、雨の中をようやくたどりついた武佐駅の駅舎もまた、宿場町にふさわしい外観。雨の一日とはいえ、満足度の高い街道歩きでした。今日はここまでとし、電車で近江八幡のビジネスホテルへとむかいました。

愛知川宿の竹平楼前。明治天皇巡幸碑は中山道のいたるところ(そこで休憩したというだけの場所)にあり、時の政府(碑の大半は昭和初期に建てられたもの)が天皇の権威付けに利用したことがよくわかります。
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近江鉄道の愛知川橋梁です。明治期の典型的なイギリスタイプで、明治31年の同鉄道開業以来、原位置で使い続けられているという貴重な橋です。
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五個荘の元郵便局。田舎にしてはたいそう立派で意匠も凝っています。これも近江商人の里ゆえでしょうか。
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伊香型とよばれる茅葺きの民家も健在で、旧街道らしい風情があります。
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中山道沿いに立つ「てんびんの里」の像。これを見れば、ここが近江商人の里であることがすぐにわかります。
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奥石(おいそ)神社前の中山道です。旧街道らしい風情があります。
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武佐小学校の立派な校舎がみえてきました。
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武佐宿の中心部。左側が本陣です。
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旧近江八幡警察署武佐分署庁舎です。
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中山道沿いにある近江鉄道の武佐駅も宿場町らしい佇まいでした。
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<37日目、3月30日>武佐宿から栗東駅まで
 この日は朝から晴れ。近江鉄道の駅で、東京へむかって中山道を歩いているというベルギー人と出会いました。インターネットで調べたという英語版のガイドと地図を持参しており、やる気十分です。外国人で中山道に興味をもち、実際に歩いている人はかなりいるそうで、その人の情報では、すでにアメリカ人2人とフランス人1人が完全踏破を達成しているとか。
 武佐駅を出てしばらくの間、風情のある街並みが続きます。住友二代目の総理事で別子銅山の公害問題に取り組んだ伊庭貞剛翁生誕の地という家もありました。
 「住蓮坊首洗い池」を過ぎると、国道8号に出ました。そこは千僧供(せんぞく)という面白い地名の場所です。六枚橋交差点から旧道に入り、しばらく歩いて国道へ出、馬淵町から再び旧道へと入ると、その先は人通りの少ないのどかな道でした。沿道の桜もちらほら咲き始めており、気分よく歩くことができます。
 日野川の堤防に突き当たったところが、横関の舟橋跡で、広重描く武佐宿はこの場所ということです。土手の上から眺めた風景は、往時をしのばせる雰囲気でした。ただし、昔のようにここで川を渡ることはできないので、堤防上を歩いて国道8号までもどり、国道の橋を渡りました。
 その先は、三日月湖のように短区間だけ旧道が残っているところはあるものの、大半は、国道を歩かざるをえません。鏡というところは、源義経ゆかりの地で、義経が宿泊したという白木屋の跡や、烏帽子架けの松、元服池などがありました。それらはすべて国道沿いなので、頻繁に行き交う車の騒音で、歴史のロマンに浸りきれないのが難点です。沿道には「源義経元服の地」ののぼりがいくつもはためいていました。元服池の前には道の駅があったので、そこで早目の昼食をとりました。
 義経元服池の数百メートル先には、平家終焉の地があります。この地で平宗盛父子が打ち首となり、平家は滅亡したのですが、そこは、産廃処理施設の脇を入った荒れた雰囲気のところでした。宗盛父子があまりにも哀れであったことから、近くの池では蛙も鳴かなくなり、「蛙鳴かずの池」と呼ばれているそうです。しかし、周辺の荒れた現状をみると、今もなお哀れな姿をさらしているようで、気の毒になりました。
 鎌倉時代より前につくられたという灌漑池である西池の篠原堤の下を過ぎ、旧道に入りました。家棟川というかつての天井川を渡り、しばらく進むと、新幹線が接近してきました。そこには大岩山古墳群があり、桜生史跡公園として整備されています。野洲小学校脇を通り、少し進んだところには珍しい茅葺の寺、唯心寺あり、さらに進むと宇野勝酒造(宇野元首相の実家)の趣のある建物があらわれるなど、このあたりは、旧道歩きの楽しさが十分味わえるところです。
 車の通行量が多く、落ち着かない雰囲気の野洲川の橋梁を渡り、その先の吉身というところから守山宿への旧道に入ると雰囲気が一変。都市部とは思えないような静かで落ち着きのある街並みが続きます。随所に説明板があり、宿場としての雰囲気を残そうという意思が感じられました。守山宿には桝形が残り、古い道標もあります。本陣は失われていて碑のみですが、そこが江戸へむかう皇女和宮の最初の宿泊地であった由。土橋という小さな橋を渡ったところで守山宿は終わります。旧道をどんどん進んでいくと、綣(へそ)という面白い地名が現れました。今回の中山道歩きはここまでとし、綣交差点から栗東駅へとむかい、帰途につきました。次回はいよいよ三条大橋にゴールインする1泊2日の行程となります。

広重の描いた「武佐」の説明板が、日野川の堤防上にありました。
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べんがら色の板塀が美しい、近江路の中山道です。
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義経が宿泊したという、「鏡の宿」の白木屋があったのはこのあたりということです。
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鏡神社の参道にある義経烏帽子かけの松です。この少し先に、義経元服の池もありました。
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荒れた雰囲気の「平家終焉の地」。平宗盛父子はここで打ち首となりました。中山道を歩くと、歴史の「哀れ」まで身近に感じられます。

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雰囲気のよい茅葺の寺がありました。浄土宗唯心寺です。
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野洲川の国道橋を渡り、守山宿へとむかいます。
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修復された守山宿の町屋「うの家」です。
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守山宿本陣跡にて。建物はなく碑のみです。
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守山宿の枡形です。
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守山銀座と交差する中山道(真ん中の狭い道)です。
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栗東市の「綣(へそ)」交差点。ここを左に入ったところに東海道線の栗東駅があります。
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花見?ヒト見?

2018/03/26 09:44
 先週末、用事があって東京へでかけました。都心では桜が8分咲き、ところによっては満開となっており、まだ少し雪が残る浅間山麓と比べると別世界のようでした。せっかくなので、短時間ではありましたが、桜の名所2箇所に立ち寄ってみました。
 1つは定番の上野公園です。予想はしていたものの大変な人出で、改札口を出てから公園までたどり着くのも一苦労。洪水のような人の流れに身をゆだねるには相当な「覚悟」が必要でした。その人の流れの両脇では、どうやってその場所を確保したのだろうかと、その苦労話を聞くだけで1日が終わってしまいそうな、花見の宴が盛り上がっていました。きれいな着物を着て歩いている人もいて、混雑はいたしかたないとしても、それなりに風流だなと思ったのですが、近づいてみると全員が外国人。花見客全体をみても外国人の比率はかなり高く、まさに日本の花見から世界の花見へシフトしているのだということを実感しました。
 もう一箇所訪れたのは、都電荒川線の面影橋電停界隈です。ビルの谷間を流れる神田川縁の桜は、水面を埋め尽くすほどのボリュームがあり、都電が桜を背景に高戸橋を渡っていくところも風情がありました。なにより良かったのは人が少なかったことです。
 昔は桜が咲いたと聞いても、それほどの興味を感じることはなかったのですが、年のせいなのか、年々桜への執着心が強くなってきたような気がします。浅間山麓で桜を楽しむことができるのは、例年ですとまだ1ヶ月も先ですから、それまでの間、どこへ花見に行こうかと頭を悩ませるポン太でした。

 上野公園の桜はほぼ満開でした。この中へ入っていくには「覚悟」が必要です。和服の女性は全員外国人でした。
 
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 ここで花見の宴をするには、かなりの努力が必要でしょうね。
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 色の濃い桜もあり、見応えがあります。
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 こちらは神田川の桜です。水面が見えないほどの花のボリュームに圧倒されました。
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 本物の桜と桜色の都電のコラボ。絶景かな!
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 学習院下付近を行く都電です。桜はどう切り取っても絵になります。
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雨氷未満

2018/03/22 17:51
 このところの寒暖の差の大きさにはちょっとついて行けない感じがします。
 つい先日は5月のゴールデンウィークごろの陽気で、浅間の雪も僅かに残るだけという状態でした。西日本の各地や東京からは桜の便りが届き、ここ浅間山麓でも、いつもの散歩道の傍らに可愛らしいフキノトウが顔を出しました。ポン太の庭では、ビオラが咲き始めるなど、すっかり春の気分になっていました。
 ところが、一昨日は一転して冷たい雨。気温が0度前後を上下していましたので、雨氷が見られるかもしれないと期待したのですが、水滴が僅かに凍っただけという「雨氷未満」に終わりました。昨日は春分の日というのに朝から雪が降り続き、ポン太の森は冬景色に逆戻りです。
 季節は行ったり来たりといった感じですが、今週末以降は、本格的な暖かさがやってくるということなので、雪が消えたら、そろそろ家庭菜園の土起こしかな、と思いはじめたポン太です。

 ぽかぽか陽気で、浅間の雪もここまで少なくなっていました。
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 フキノトウも顔をだして春の到来を告げてくれたのですが・・・。
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 雨の後、少し気温が下がり、水滴が凍る状態にはなったのですが、枝全体が氷でコーティングされる「雨氷」には至りませんでした。
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 「春分の日」は冬景色に逆戻りしてしまいました。
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中山道でブラタヌキ〜ポン太とポン子のずくなし道中記 その28

2018/03/19 23:02
<34日目、3月18日>柏原宿から鳥井本宿へ画像
 昨日は電車の時間の都合で駅に直行したため、柏原宿を歩くのは今日が初めてです。伊吹山の麓の柏原宿といえば、昔から名物として有名なのが、お灸用の艾(もぐさ)。百人一首の「かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」の「さしも草」がそれです。かつては艾を売る店がたくさんあったそうですが、現在は、伊吹堂1軒のみ。歴史を感じさせる重厚な建物で、その周辺の街並みも宿場町らしい風情があり、見応えがありました。
 柏原宿を出て松楓並木を過ぎると、旧道の分岐があり、道標もありました。ところが、道標の示す旧道を進むと、やがて金網の柵があらわれ、通行不能に。やむなく舗装された「新道」を進んだのですが、旧道が残っているのであれば、街道歩きを楽しみにやって来る人のためにも、通行可能にするべきではないかと少々腹が立ちました。
 名神高速道路に並行して進むと、梓川の松並木があらわれました。残っているのはわずかな本数ですが、それでも旧街道の雰囲気は感じられます。12時ちょうどに醒ヶ井宿に到着。地名の由来となった居醒(いさめ)の清水に隣接した地蔵堂境内にベンチがあったので、そこで昼食休憩をとりました。こんこんと湧き出る水が、清流となって宿場の中を貫流し、涼しげな風景をつくりだしています。水の中には梅花藻が青々と育っていて、大変美しい眺めです。桜の並木もあるので、花見時には中山道でも極めつけの美しい宿場町となりそうです。
 醒ヶ井宿を出て、立場茶屋のあった樋口を過ぎたところで、東海道線から離れ、山間の小さな宿場である番場宿へとむかいました。名神高速道路が並行してはいますが、少し距離があるため、静かな街道歩きを楽しむことができます。桜楓並木の道を進むと間もなく番場宿です。問屋場跡があり、大きな石に番場宿と記した小公園もあります。その先には、彦根へ向かう道との分岐の道標が立っていました。
 番場の宿から小摺針峠へ、道はゆるやかに上っていきます。左手に名神高速道路が並行していることを除けば、昔と変わらないのどかな風景です。振り返ると、低い丘の向こうに伊吹山がひときわ大きく見えます。京から江戸へむかう旅人にとっては、いよいよこの先関ヶ原を越えて遠い東国へむかうという、覚悟を決める場所であったのかもしれません。
 小摺針峠を越えると、今度は摺針峠が待っています。峠としては小さなものですが、その頂上からは、琵琶湖や近江平野が一望できます。かつては望湖亭という大きな茶屋があり、中山道一の景観を誇ったということです。鳥居本へ下る途中には、人一人がやっと通れるような旧道が残されており、そこを下りました。最後は産廃処理場脇に出るというあまり好ましくないロケーションですが、まぎれもなくこれが旧道です。北国街道との分岐点を示す道標を過ぎると鳥居本宿。赤玉という薬が名物で、今も神教丸本舗が営業中です。実に立派な建物で驚きました。ほかには合羽を売る店が多かったということで、営業はしていないものの合羽の看板を掲げた家がありました。宿場に隣接する近江鉄道鳥居本駅に到着し、本日の行程は終了です。鳥井本駅駅舎は開業以来使われている腰折れ屋根のモダンなもので、鉄道遺産としても貴重な駅舎です。
 天気予報では、天気は下り坂で夕方には雨になるということでしたが、幸い雨に降られることはなく、計画通り歩みを進めることができました。今宵の宿は、中山道からは少し離れた琵琶湖畔。湖岸の絶景と温泉、近江の郷土料理、そして美味しい地酒に癒され、明日への活力を養うことができました。

柏原宿のすばらしい街並みと可愛い行列
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柏原宿に今も残る艾(もぐさ)屋の伊吹堂
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旧道は右という標識に従って行くとなんと通行止めになっていました。それはないよ!
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国道21号沿いの中山道です。
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水の流れが美しい醒ヶ井(さめがい)宿
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番場(ばんば)宿に入りました。
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番場宿を抜けたところで、ここが長谷川伸の名作『瞼の母』の主人公、(番場の)忠太郎の出身地であることを思い出し、ちょっとポーズを決めてみました。「たった一言、忠太郎と呼んでくだせえ、おっかさん」

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かつては琵琶湖を見下ろす絶景が広がっていたという摺針峠の頂上です。
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「赤玉」で有名な鳥居本宿に着きました。右側が神教丸本舗の建物です。
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昭和6年に建築された近江鉄道鳥居本駅の駅舎です。よく見るとなかなかお洒落です。
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<35日目、3月19日>鳥居本から近江商人の里へ

 昨夜来の雨が降り続いており、最悪の天気です。朝食バイキングをたっぷり食べ、覚悟を決めて出発しました。
 鳥居本駅を10時30分に出発。雨の中山道を粛々と進みました。まわりには水田が広がっており、豊かな近江平野のまっただ中を行く感じですが、雨に煙って眺望はよくありません。中山道は新幹線と並行しており、ひっきりなしに、高速列車が駆け抜けていきます。 小野小町塚の前を通り、昼前には芹川を渡りました。雨の日の方が、歩くことに集中するせいか歩行速度ははやいようです。近江鉄道の中仙道踏切(なぜかここも仙の字を使用)を渡ると間もなく高宮宿に入りました。雨の中で休める場所といえば、駅の待合室ぐらいしかないので、高宮駅に寄り、米原駅で購入した「湖北のおはなし」というおしゃれな弁当で昼食をとりました。
 高宮宿には、「うだつ」の上がった古い家が並び、風情があります。麻の布(高宮布)を扱っていたという「布惣」の家屋があり、円照寺という大きな寺には家康の腰掛石なるものが存在していましたた。高宮宿を出てすぐに渡る犬上川の橋は無賃橋といい、江戸時代の古い道標も残っています。
 葛籠(つづら)の松並木を過ぎ、30分ほど歩いたところが、伊藤忠・丸紅の創業者伊藤忠兵衛をはじめ、多くの実業家を輩出し近江商人の里として有名な豊郷です。「先人を偲ぶ館」という施設があったので、トイレ休憩も兼ねて見学しました。ほとんど訪れる人はいないようで、私たちが入ってから照明がつき、番をしていたおじさんは、「今日は館長がいないのでこれを見てください」と言いながらパンフレットを渡してくれまいた。その後は、テレビのドラマを夢中でみていて、こちらにはおかまいなし。道を急がねばならない当方としては、時間の節約にもなり、かえってよかったような気がしました。
 その施設のすぐ近くにある豊郷小学校の旧校舎は、当地出身の丸紅専務古川鉄治郎の寄付で建設されたものですが、とても小学校とは思えない大学並の立派な建物でおどろかされます。中山道の沿道には、丸紅関係者がつくったという「くれない園」があり、その中には伊藤忠兵衛の像を刻んだ大きな石碑が鎮座していました。その園の先には伊藤長兵衛生家の碑や、伊藤忠兵衛旧宅があり、さらに進んだところには、「あけぼの」缶詰につながる廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌の又十屋敷(豊会館)がありました。まさしく近江商人の里と称するにふさわしいところです。
 雨の中をなんとか歩き通して、愛知川(えちがわ)宿に到達しました。今回はここまでとし、近江鉄道愛知川駅から電車で米原へもどり、帰途につきました。

新幹線と並行する旧中山道です。昔の旅人には想像もできない光景でしょう。
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旧道沿いには、べんがら色の格子がついた家が多く、近江路らしい雰囲気が漂います。
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雨の高宮宿。こんな天気でなければ、間違いなく見応えのある街並みです。
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高宮布(麻布)を商っていた「布惣」の建物です。
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犬上川に架かる橋は、「無賃橋」とよばれ、江戸時代の道標も残っています。
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 とても小学校とは思えない豊郷小学校の旧校舎です。さすがは近江商人。故郷への錦の飾り方がすごいですね。
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中山道に面した「くれない園」。丸紅関係者がつくった公園です。近江商人の里らしいものが続々とあらわれます。
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雨の中を一日歩き続けて、なんとか愛知川(えちがわ)宿の入口まで到達しました。
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