中山道でブラタヌキ ~ポン太とポン子のずくなし道中記 その29

<36日目、3月29日>愛知川宿から武佐宿へ
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 前回、愛知川宿の入口まで到達できたことで、いよいよゴールの京都三条大橋が射程内に入ってきました。あと1回(2泊3日)でゴールインできるのはないかという気持ちになったのですが、よくよくシミュレーションしてみると、その先の宿場間の距離が長く、3日間でゴールするにはかなりきつい日程になることが判明。前回、4日間歩き続けたことで足を痛めたこともあり、無理をせずに、間にもう1回1泊2日の行程を挟むことにしました。
 昼過ぎに、愛知川駅に着き、街道歩きを再開。残念ながら午後から天気が崩れてしまい、雨の中の歩行となりました。
 愛知川宿には、それほどのみどころはなく、本陣跡も街角の柱に小さな表示がなされているだけです。明治天皇が休憩したという竹平楼前の石碑(東郷平八郎の書)が一番目立つ存在でした。愛知川宿を出てしばらくすすむと、愛知川の橋梁です。並行する近江鉄道の橋梁は明治のイギリスタイプのトラス桁とこれまた明治のポーナル型プレートガーダで構成されるクラシックなもので、見応えがあります。
 雨の中を歩くのはつらいのですが、それでも、どことなく昔の雰囲気が残る旧道であれば、気分的にはずいぶん楽です。元郵便局だったという五個荘のモダニズム建築物や、茅葺きの伊香型とよばれる民家など、沿道にはそれなりに見どころがあり、助かります。清水鼻という名水の湧く立場跡を過ぎると、一旦、国道に出ますが、東老蘇(おいそ)という場所から先はずっと旧道歩きです。鎌宮とも呼ばれる荘厳な雰囲気の奥石(おいそ)神社の前を通り、石碑だけの西生来一里塚跡を過ぎると、間もなく武佐宿に入りました。中山道沿いに武佐小学校がありましたが、その建物の意匠には驚かされました。街道を意識した瓦屋根やコンクリート製ながら歴史を想起させる白塀はインパクトがあります。武佐小学校の生徒がつくった武佐宿に関する説明板が、主要な建物に設置されていたことにも感動しました。
 武佐宿にはべんがら格子の古い家がかなり残り、脇本陣跡には立派な門が建てられていました。本陣の門と塀も現存するなど、宿場の面影が濃厚です。下見板張りの近代建築である旧近江八幡警察署武佐分署庁舎(登録文化財)もよい雰囲気でしたし、雨の中をようやくたどりついた武佐駅の駅舎もまた、宿場町にふさわしい外観。雨の一日とはいえ、満足度の高い街道歩きでした。今日はここまでとし、電車で近江八幡のビジネスホテルへとむかいました。

愛知川宿の竹平楼前。明治天皇巡幸碑は中山道のいたるところ(そこで休憩したというだけの場所)にあり、時の政府(碑の大半は昭和初期に建てられたもの)が天皇の権威付けに利用したことがよくわかります。
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近江鉄道の愛知川橋梁です。明治期の典型的なイギリスタイプで、明治31年の同鉄道開業以来、原位置で使い続けられているという貴重な橋です。
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五個荘の元郵便局。田舎にしてはたいそう立派で意匠も凝っています。これも近江商人の里ゆえでしょうか。
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伊香型とよばれる茅葺きの民家も健在で、旧街道らしい風情があります。
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中山道沿いに立つ「てんびんの里」の像。これを見れば、ここが近江商人の里であることがすぐにわかります。
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奥石(おいそ)神社前の中山道です。旧街道らしい風情があります。
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武佐小学校の立派な校舎がみえてきました。
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武佐宿の中心部。左側が本陣です。
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旧近江八幡警察署武佐分署庁舎です。
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中山道沿いにある近江鉄道の武佐駅も宿場町らしい佇まいでした。
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<37日目、3月30日>武佐宿から栗東駅まで
 この日は朝から晴れ。近江鉄道の駅で、東京へむかって中山道を歩いているというベルギー人と出会いました。インターネットで調べたという英語版のガイドと地図を持参しており、やる気十分です。外国人で中山道に興味をもち、実際に歩いている人はかなりいるそうで、その人の情報では、すでにアメリカ人2人とフランス人1人が完全踏破を達成しているとか。
 武佐駅を出てしばらくの間、風情のある街並みが続きます。住友二代目の総理事で別子銅山の公害問題に取り組んだ伊庭貞剛翁生誕の地という家もありました。
 「住蓮坊首洗い池」を過ぎると、国道8号に出ました。そこは千僧供(せんぞく)という面白い地名の場所です。六枚橋交差点から旧道に入り、しばらく歩いて国道へ出、馬淵町から再び旧道へと入ると、その先は人通りの少ないのどかな道でした。沿道の桜もちらほら咲き始めており、気分よく歩くことができます。
 日野川の堤防に突き当たったところが、横関の舟橋跡で、広重描く武佐宿はこの場所ということです。土手の上から眺めた風景は、往時をしのばせる雰囲気でした。ただし、昔のようにここで川を渡ることはできないので、堤防上を歩いて国道8号までもどり、国道の橋を渡りました。
 その先は、三日月湖のように短区間だけ旧道が残っているところはあるものの、大半は、国道を歩かざるをえません。鏡というところは、源義経ゆかりの地で、義経が宿泊したという白木屋の跡や、烏帽子架けの松、元服池などがありました。それらはすべて国道沿いなので、頻繁に行き交う車の騒音で、歴史のロマンに浸りきれないのが難点です。沿道には「源義経元服の地」ののぼりがいくつもはためいていました。元服池の前には道の駅があったので、そこで早目の昼食をとりました。
 義経元服池の数百メートル先には、平家終焉の地があります。この地で平宗盛父子が打ち首となり、平家は滅亡したのですが、そこは、産廃処理施設の脇を入った荒れた雰囲気のところでした。宗盛父子があまりにも哀れであったことから、近くの池では蛙も鳴かなくなり、「蛙鳴かずの池」と呼ばれているそうです。しかし、周辺の荒れた現状をみると、今もなお哀れな姿をさらしているようで、気の毒になりました。
 鎌倉時代より前につくられたという灌漑池である西池の篠原堤の下を過ぎ、旧道に入りました。家棟川というかつての天井川を渡り、しばらく進むと、新幹線が接近してきました。そこには大岩山古墳群があり、桜生史跡公園として整備されています。野洲小学校脇を通り、少し進んだところには珍しい茅葺の寺、唯心寺あり、さらに進むと宇野勝酒造(宇野元首相の実家)の趣のある建物があらわれるなど、このあたりは、旧道歩きの楽しさが十分味わえるところです。
 車の通行量が多く、落ち着かない雰囲気の野洲川の橋梁を渡り、その先の吉身というところから守山宿への旧道に入ると雰囲気が一変。都市部とは思えないような静かで落ち着きのある街並みが続きます。随所に説明板があり、宿場としての雰囲気を残そうという意思が感じられました。守山宿には桝形が残り、古い道標もあります。本陣は失われていて碑のみですが、そこが江戸へむかう皇女和宮の最初の宿泊地であった由。土橋という小さな橋を渡ったところで守山宿は終わります。旧道をどんどん進んでいくと、綣(へそ)という面白い地名が現れました。今回の中山道歩きはここまでとし、綣交差点から栗東駅へとむかい、帰途につきました。次回はいよいよ三条大橋にゴールインする1泊2日の行程となります。

広重の描いた「武佐」の説明板が、日野川の堤防上にありました。
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べんがら色の板塀が美しい、近江路の中山道です。
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義経が宿泊したという、「鏡の宿」の白木屋があったのはこのあたりということです。
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鏡神社の参道にある義経烏帽子かけの松です。この少し先に、義経元服の池もありました。
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荒れた雰囲気の「平家終焉の地」。平宗盛父子はここで打ち首となりました。中山道を歩くと、歴史の「哀れ」まで身近に感じられます。

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雰囲気のよい茅葺の寺がありました。浄土宗唯心寺です。
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野洲川の国道橋を渡り、守山宿へとむかいます。
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修復された守山宿の町屋「うの家」です。
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守山宿本陣跡にて。建物はなく碑のみです。
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守山宿の枡形です。
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守山銀座と交差する中山道(真ん中の狭い道)です。
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栗東市の「綣(へそ)」交差点。ここを左に入ったところに東海道線の栗東駅があります。
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