中山道でブラタヌキ~ポン太とポン子のずくなし道中記 その27

★いよいよ完結編スタート

<32日目、3月16日>美江寺駅から赤坂宿へ画像
 もう雪の心配も無さそうなので、3ヶ月ぶりに中山道歩きを再開しました。今回は3泊4日の予定で、関ヶ原を越えて近江をめざします。まずは前回の到達点である樽見鉄道の美江寺駅へ。13時49分に同駅に到着し、早速、目の前の中山道踏切から街道歩きをスタートしました。
 美江寺は、カギ型をした宿場で、規模はそれほど大きくありません。明治の濃尾大地震で1軒を除き全壊してしまったということで、古い建物はほとんど残っておらず、本陣も碑のみです。宿場を出ると、のどかな田園風景が広がり、犀川という小さな川の周辺には、特産の柿(富有柿)がたくさん植えられていました。柿が大好きなポン太にとっては、秋はきっとよだれの出るような景観になることでしょう。ちなみに、広重の「美江寺宿」はこのあたりで描かれたものだそうです。
 水田の中の一本道を進むと揖斐川の堤防が見えてきました。すでに菜の花が咲いており、季節が確実に春になったことを感じさせます。鷺田橋を渡ったところが呂久というかつての渡し場の跡。皇女和宮を記念した小簾(おず)紅園がありました。御座船で揖斐川を渡った際に、対岸の美しく紅葉しているもみじが目にとまり、その一枝を所望し、「おちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」という歌を詠んだといいます。15歳にして和宮は歌の達人ですね。
 平野井川という川を渡ったところで、道は輪中堤防の上へとむかいます。堤防上からみると、家屋の屋根がはるか下にあり、堤防で守られていなければ生活できない低地であることがよくわかります。 地形図によれば、集落のあるあたりは海抜8mほど、堤防上が15mです。堤防下の日当りのよい斜面には、気の早い桜が咲いており、今季初の花見となりました。
 のどかな雰囲気の旧道を歩くことおよそ2時間半で、養老鉄道の東赤坂駅に着きました。ここまでくれば赤坂宿はもうすぐです。前方には石灰山として有名な金生山が見えます。小さな水路を渡ると、きれいに修景された赤坂港跡があり、交通の要衝として繁栄した時代をしのばせます。金生山へ通じる西濃鉄道の線路を渡ったあたりが宿場の中心で、本陣跡は公園になっていました。本日の行程はここまでとし、JRの美濃赤坂駅へむかう脇道に入りましたが、その道沿いの建物の板壁のすばらしいこと。
 美濃赤坂駅は大正8年開業時の駅舎が健在で、ほとんど時が止まったような世界です。石灰石の搬出でにぎわった広い構内には、一台の貨車もおらず、線路だけのわびしい風景が広がっていました。

樽見鉄道の中山道踏切から、中山道歩きを再開しました。
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美江寺宿の中心部です。江戸時代からの建物は残っていませんが、旧街道らしい街並みです。
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呂久の小簾(おず)紅園前の中山道です。和宮はこの道を通って江戸へむかいました。
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輪中堤防下の中山道の碑です。「輪中」という独特の地形を旧中山道からも眺めることができました。
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交通の要衝だった赤坂港の跡。
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広重が描いた赤坂宿はこのあたりのようです。
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赤坂宿から美濃赤坂駅へ至る道沿いの風景です。板壁がみごとでした。
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黄昏の終着駅美濃赤坂。レトロな駅舎が健在です。
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<33日目、3月17日>関ヶ原を越え柏原宿へ
 今日はこの4日間の中山道歩きの中で、最も長い距離を歩く日です。大垣の宿から電車で美濃赤坂へとむかい、駅前を8時45分にスタートし中山道へ。東海道線の新垂井回りの別線下をくぐり抜けると、青墓という集落に入りました。「平清盛」のドラマにも出てきた白拍子(傀儡=くぐつ)の里として知られるところです。今は歌舞音曲どころか歩いている人もみかけないような静かな集落でした。このあたりが、かつては美濃の国の中心地だったということで、そのすぐ先に国分寺の跡があります。国分寺跡へ通じる道の入口近くに、当地の領主であった稲葉石見守の碑がありました。あまり知られてはいませんが、江戸城内で大老堀田正俊を刺殺した人物です。浅野内匠頭と異なり、周到に準備して本懐を遂げたということで、地元では評価が高いそうです。
 赤坂から2時間ほどで垂井宿の入口、大垣への道を分ける垂井追分に到着。暴れ川として知られていたという相川を渡れば垂井宿です。相川の河川敷には花がいっぱい植えられていて、背後の雪をいただく伊吹山の姿とあいまって、すばらしい眺めを楽しむことができました。土手には桜の並木もあるので、あと2週間もすれば、絶景となることは間違いありません。
 垂井宿にも桝形が残っていました。そこには脇本陣格だったという亀丸屋という旅館があり、今も営業を続けています。宿場の道沿いには旅籠屋や油屋だったという小林家住宅などの古い建物が残り、宿場町の名残がかなり感じられる宿場です。宿場の出口付近に、「あんま」と大書した、今ではめずらしい看板が出ていました。

白拍子の里として知られていた青墓集落の入口です。
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稲葉石見守の碑。このあたりがかつての美濃の中心でした。
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垂井宿で今も営業している脇本陣格の旅館亀丸屋。
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今ではちょっとめずらしい「あんま」の看板がありました
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 垂井宿を出て東海道線の踏切を渡ったところが垂井の一里塚です。そこには関ヶ原合戦の浅井幸長の陣跡という説明板があり、いよいよ関ヶ原合戦の舞台に足を踏み入れたことを実感しました。東海道線と国道21号との間にある旧中山道を進んで行くと、間もなく野上という集落に入りました。その集落の家並みは豪邸だらけといっても過言ではないほど立派なもので驚きました。しかし、かなりの家はすでに人が住んでいないようなので、この先どうなってしまうのか心配です。野上の集落のはずれには立派な松並木があり、そこからは並行する東海道線が眺められます。間もなく関ヶ原合戦の際の家康最初の陣地とされる桃配山の下に着きました。昼食場所を探したのですが、食堂の類はまったくありません。食べ物を売る店さえなく、腹ぺこのまま関ヶ原宿をめざしました。街道歩きには食料と飲み物が必携ということはわかっていたのですが、関ヶ原のような歴史的に有名な場所ならなんとかなるのではと甘く考えていたのが間違いでした。
 昼すぎに関ヶ原宿に着きました。宿場の中心部の中山道は、国道21号として使われているため、車が頻繁に行き交い、殺風景な宿場町となり果てていました。クマ肉、シシ肉入荷を知らせる看板を出している店はありましたが、営業している飲食店は見当たらず、地元の人に教えてもらった中山道から少し南へ入ったところにあるレストランで、ようやく昼食にありつくことができました。
 昼食後、いったん宿場の中心部にもどり、わずかに残る脇本陣門を確認。宿場を出たところに、西軍将兵の首を埋めたという「西首塚」があり、その参道には石田三成はじめ西軍の諸大名の旗が掲げられていました。ちょどその北側あたりが、関ヶ原合戦の開戦地で、そこはまた、壬申の乱の際も合戦場となったところということでした。国道21号と分かれて旧道に入ったところには、大海人皇子の兜掛石・沓脱石などというものが存在していました。その少し先が不破の関跡。壬申の乱の際には、その下の藤古川を挟んで両軍が対峙したそうです。国道21号を横切って進むと、西軍で最も勇敢に戦ったとされる大谷吉継の陣跡がありました。そのあたりは山中という地名ですが、その名のとおり、山に挟まれた狭い場所で、東海道線、旧中山道、新幹線、国道21号が全部束のように集まり、少し南側には名神高速道路も走っています。戦略的な要地であることは、素人目にもわかります。沿道には、この地で殺害されたという常盤御前の墓もありました。黒血川という小さな川を渡りましたが、壬申の乱の初戦が行われたところで、血で岩が黒く染まったのが地名の由来ということです。
 今須峠という小さなサミットを越え、今須宿へと下りました。今須宿は、宿場町の雰囲気は感じられますが、本陣、脇本陣は残っておらず、いずれも碑のみ。とりたてて見るものはなく、次の柏原宿へと歩を進めました。東海道線を渡りその北側を線路に並行して少し進んだところが、岐阜と滋賀の県境です。美濃近江両国の国境では、宿舎の壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので、そこは「寝物語の里」とよばれています。なんとも面白いネーミングです。ついに、美濃(岐阜県)を横断し、京に隣接する近江の国までやってきたのかと思うと嬉しさがこみ上げてきました。
 楓並木の道を進み、東海道線を渡ると間もなく柏原宿です。今日はここまでとし、柏原駅へとむかいました。宿にもどってゆっくり休み、明日はまたここからスタートです。

東海道線を横切り、いよいよ関ヶ原に足を踏み入れました。
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立派な家が多い野上の集落です。かつては、この道が名神高速道路と新幹線を足した以上の交通路だったわけですから、沿道の繁栄、富の蓄積は相当なものだったのでしょう。
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今も残る野上の松並木です。
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関ヶ原宿の現状です。中山道がそのまま国道になってしまったため、旧街道らしさという点ではいまひとつです。
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西軍将兵の首を埋めたという「西首塚」です。
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「不破の関」前の中山道です。この関所があった故に「関ヶ原」という地名が生まれ、ここから西が「関西」となるわけです。
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山中付近の旧中山道と東海道線。このあたりは、いくつもの新旧交通路が束のようになって走っています。
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美濃と近江の国境です。「寝物語の里」とよばれています。ついに岐阜県を横断し滋賀県に入りました。
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柏原駅と伊吹山です。新幹線からも良く見える伊吹山ですが、日本橋から歩いてその麓に到達することができたとは・・・。京の都まであとひとがんばりという気になりました。
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※ この道中記は、実際に中山道を歩いた時の様子を、回想して記しているものです。臨場感を高めるために、歩いた時期に合わせてアップしております。