嬉しいパン事情

 ポン太は若い頃から、朝食はパンという生活です。ご飯も大好きなのですが、朝からご飯をたくさん食べてしまうと、お腹が重くなって活動しにくくなるので、やはり朝食にはパンがむいてます。毎日食べていると、こだわりも強くなるもので、ポン太の好みは、噛めば噛むほど味がでるようなハード系のパンです。
 一般的にはフワフワの柔らかいパンが好まれるようで、カンパーニュやライ麦パン、バケットといったハード系の美味しいパンを扱う店は、都会でもそう多くはないと思います。しかし、ここ浅間山麓にはそうしたパン屋さんがいくつもあり、人口比ではパン屋激戦区といえますから、パン好きにとっては恵まれた環境といえましょう。
 そんな中で、ポン太がよく利用しているお気に入りのパン屋さんは、御代田町の「パントゥルーベ」と小諸市の「香色(こういろ)」です。前者のカンパーニュは香りも味も抜群ですし、後者のライ麦食パンは、酵母の香りとライ麦らしい酸味が口中に広がる感じで、わが家の朝食に欠かせない存在になっています。
 時々お世話になっているのが「halutaハルタ」です。長い間、中軽井沢の美味しいパン屋さんと思いこんでいたのですが、実は、本社は上田で、北欧家具の輸入販売や住宅設計を本業とする会社でした。拠点とするデンマークの食文化を発信したいという思いからパンの製造に取り組んだということです。同社のパンは、デンマークの国民食として親しまれている「黒パン」を中心に全粒紛や種、雑穀、乳酸発酵を取り入れたこだわりのパンばかり。まさにポン太の好きなハード系パンです。
 新聞によれば、上田のハルタ本社が、今春、軽井沢町の追分に移転してくるそうです。移転先の建物は、十数年前から休業中の「ドライブイン軽井沢」で、ポン太の家からは徒歩圏内という近さ。家具の展示場や設計事務所等のほかに、パンの製造場も備えるということですから、楽しみがひとつ増えそうです。

 今日は久しぶりに寒さがもどってきて、日中でも氷点下の気温でした。浅間山も見るからに寒そうな感じではありますが、しばらく休業していた「パントゥルーベ」が、昨日から営業を再開しており、また「香色」がライ麦食パンを焼く曜日でもありますから、美味しいパンを確保しに出かけないわけにはいきません。
浅間.JPG
 こちらが大のお気に入りのパン屋さん、「パントゥルーベ」です。
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 ポン太が大好きな「パントゥルーベ」のカンパーニュです。焼き上がってから20分足らずで完売してしまう日もありますが、今日は無事ゲットできました。
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 カンパーニュと一緒に購入することが多いパン・ドゥ・ノア(くるみパン)です。これまた美味です。
パントゥルーベのパン・ドゥ・ノア.JPG
 小諸の「香色(こういろ)」は、表通りに面しておらず、しかもこのような古民家風の佇まいですから、えっ、これがパン屋さんという感じです。しかし、焼かれているパンは強いこだわりを感じる個性的なものばかり。知る人ぞ知る名店といえるのではないでしょうか。
香色の店舗.jpg
 しばしば購入している「香色」のライ麦食パンです。酵母のせいか香りが強く、その匂いを嗅いだだけで食欲が湧きます。
 香色のライ麦食パン2.JPG
 ある日の朝食です。サラダにカニカマ入り玉子焼き、リンゴジャム、ヨーグルト、コーヒーという、わが家では定番の内容ですが、少し酸味のあるライ麦食パンはそのどれにもよく合います。
わが家の朝食と香色のライ麦パン.JPG
 ハルタのパンが、中軽井沢のお店まで行かなくても、ツルヤ御代田店でも入手できるようになりました。これはハルタのカンパーニュです。見た目からもわかりますが、ハードさはかなりのもので、色は濃く酸味も強く、噛めば噛むほど味がでるタイプです。
ハルタのカンパーニュ全体.JPG
 ハルタが本社の移転先に予定しているのは、国道18号に面しているこの旧「ドライブイン軽井沢」の白い建物です。御代田町から軽井沢町に入ってすぐの場所です。
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 ドライブインが休業してから十数年が経過し、建物はかなり傷んでいるように見えますが、改修は住宅設計も手がけるハルタ自身が行うということですので、どのような姿に変貌するのか楽しみです。
軽井沢ドライブインの現状.JPG
 さて、パンの話のついでにもう1つ。ポン太とって「おふくろの味」とも言える懐かしいパンの食べ方といえば、フレンチトーストです。クリスチャンであった母が、懇意にしていたアメリカ人宣教師から教わったものらしいのですが、朝食によくつくってくれました。その当時のパンは食パンでしたが、その後、フランスパンの方が美味しいということがわかり、現在のわが家のフレンチトーストは、バタールを用いたこのスタイルです。
フレンチトースト.JPG

雪は降れども

 一昨日から昨日にかけて、今季はじめて本格的な雪が降り、10cmほど積もりました。目覚めて、窓の外が真っ白になっているのを見ると、子供のようにウキウキしてしまいます。大雪でなければ、雪掻きもたいした作業ではなく、雪景色を楽しめて嬉しいという気分です。
 ところが、今回の雪はいつもと様子が違っていました。24時間稼働しているはずのストーブがいつのまにか止まっていて、「地震による停止」を示すエラー表示が出ていました。どうやら、屋根に積もった雪が、一気に滑り落ちた際の震動を、センサーが地震と認識したようです。落ちたのが重く湿った雪だったからではないでしょうか。
 外に出てみると、道路の雪はどんどん溶けてシャーベット状になっていました。まるで春を感じさせるような雪です。本来は雪の少ない東信や中南信地域に降る雪を、信州では上雪(かみゆき)と呼んでいます。上雪は、冬型の気圧配置が弱まる春先に降ることが多く、水分を多く含んだ重いべったりした感じの雪になりがちですが、今回の雪はまさにそんな感じでした。しかし、今はまだ1月、「寒」の最中です。いつもなら、この時季に降る雪は、さらさらの粉雪で、雪だるまをつくるに苦労するのですが、今回は道路際の雪をちょっと積み上げただけで、あっという間に大きな雪だるまができあがりました。
 今朝の新聞に、信州でも温暖化が進んでおり、今世紀末の長野市は今の鹿児島市と同程度になる可能性があるという記事が載っていました。今回の雪は温暖化の証なのかもしれません。そう考えると、ウキウキした気分になっているわけにもいきませんが、せっかくの雪景色ですから、楽しまないのは損と、散歩に出かけてみました。きゅっきゅっと雪を踏みしめながら歩くのは実に気分のよいものです。ところが今回は、べちゃべちゃした箇所が多く、防寒靴の中がびしょ濡れになってしまいました。
 やはり冬は寒い方がよい。寒冷地は寒冷地らしくありたい。ストップ温暖化。つくづくそう思ったポン太でした。

 朝起きて、ベランダのカーテンを開けると、景色が一変していて、気分が高揚します。
ベランダの雪.JPG
 作業スペースの前も、純白の森に変身しており、しばし見とれてしまいます。
窓の雪.JPG
 昼過ぎに外にでてみると、家の近くの道はこんな状態で、雪はかなり溶けていました。
近くの道.JPG
 中山道もご覧のとおりで、道路際に残る雪は、間もなく溶けてしまう春の淡雪といった感じです。
中山道の雪.JPG
 裏道にはさすがにまだ雪がたくさん残っており、こうしたところは気分良く歩くことができます。
雪道.JPG
 水辺(御影用水)も、雪があると良い雰囲気です。
雪の水辺.JPG
 遅れてきたクリスマスのような景色です。
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 以前のブログで触れたとおり、浅間山麓はいま大変な建築ラッシュ。散歩中にも、いたるところで、建築中の家を見かけます。
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 雪の中でも、コンコンと作業する音が響いていました。ここは最近まで売り地の看板がでていた森の一角です。
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 ここはレタス畑だったところですが、次々と家が建てられ、住宅地化しつつあります。
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 こちらは著名な音楽家O氏の別荘とされる建物ですが、足場がとれて完成の域に達しつつあるようです。この時季の散歩は、まるで建築中の建物見学会のようでもありますが、他人様の家とはいえ、どんなデザインの建物になるのか、建築主のこだわりは何か、まわりの景観と調和しているか、といったことを考えながら眺めてみると、それなりに楽しいものです。
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 家にもどって、雪だるまをつくってみました。雪をみると、こういうものをつくりたくなってしまうのですが、湿った雪は固めるのが簡単で、わずか10分で完成です。誰に見せるのかって?コロナ禍で孫も来ることができませんから、まったくの自己満足です。
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魚沼線西小千谷駅~忘れ難き終着駅(15)

第15回 魚沼線西小千谷駅(新潟県)
 雪の季節になると思い出すのは越後の鉄路です。雪と鉄道は相性がよい、などといえば、除雪に苦労されている方々に叱られてしまうでしょうが、情緒という観点からは、やはり雪の中を走る鉄道ほど魅力的なものはありません。
 今回とりあげた魚沼線とは、どんな鉄道なのか。一言でいえば、日陰者です。地元に縁のある方か、よほどの鉄道好きでなければ、そんな路線が存在したことすら知らないのではないでしょうか。
 しかし、最初から日陰者であったわけではありません。終着駅西小千谷駅があった小千谷市は、信濃川左岸の河岸段丘上に位置し、「小千谷ちぢみ」で全国的にもその名を知られている町です。信濃川の水運に恵まれていたこともあり、古くから商工業が盛んで、1889(明治22)年には、はやくも町制を施行しています。魚沼三郡の中心ともいえる小千谷と信越本線の来迎寺との間に鉄道を敷設し、水運に代わる輸送手段とする目的で、魚沼鉄道が設立され、1911(明治44)年9月14日、新来迎寺-小千谷間 13.1km 、軌間762mmの軽便鉄道が開業しました。この鉄道が魚沼線のルーツというわけです。当初は日陰者どころか、小千谷に至るメインルートとして、客貨の輸送は好調で、なんと1918(大正7)年には、「全国私鉄中第2位の高利潤」(『日本国有鉄道百年史』第6巻)をあげるほどでした。
 ところが、1920(大正9)年に国鉄上越北線(宮内~東小千谷)が開通し、信濃川の対岸に東小千谷駅(現、小千谷駅)が開設されると、そちらが小千谷の表玄関となりました。魚沼鉄道はその代償措置のような形で1922年に国有化され、魚沼軽便線の名称を経て、国鉄魚沼線となったのです。終着駅の駅名も1932年に西小千谷となり、戦時中の1949年には営業休止となりましたが、1954(昭和29)年に全線を1067mmに改軌した上で営業を再開。一定の役割は果たしたものの、赤字ローカル線として第一次特定地方交通線に指定され、1984(昭和59)年3月31日限りで廃止となりました。
 私が魚沼線を訪ねたのは、1973(昭和48)年11月26日です。当時の魚沼線のダイヤは、土曜日を除いて朝夕のみ。来迎寺発西小千谷行は、5時52分、7時25分、17時37分、18時57分の4本だけでしたので、通学時間帯の7時25分発(125D)を利用することにしました。乗車時間僅か25分で西小千谷に到着。それなりの人数の高校生たちが下車すると、5分後には126Dとなって折り返して行きました。もうその後は夕方まで列車はありません。当時はそんな終着駅でも駅員が配置されていて、入場券を買うことができました。
 まだ本格的な雪のシーズンではなかったものの、うっすらと雪化粧した小千谷の町は風情があり、しばらく中心市街地を散策しました。印象に残ったのは、雪国の町らしい雁木(雪よけのアーケード)と、明治座という名の立派な映画館でした。夕方まで列車を待つわけにはいかないので、帰路は、信濃川を渡り、上越線の小千谷駅を利用しましたが、こちらの方が圧倒的に本数が多く、市の中心部に位置しながら日中は列車の来ない西小千谷駅が、哀れに思えてなりませんでした。

 魚沼線が記載された鉄道路線図(昭和39年、国鉄旅客事務用)です。今は何の変哲もない中間駅の来迎寺ですが、かつては鉄道のジャンクションであったことがわかります。
魚沼線 /昭和39年の「国鉄旅客事務用鉄道路線図」より.jpg
 西小千谷駅の入場券です。
西小千谷駅入場券.jpg
 西小千谷駅のホームで出発を待つ7時55分発の列車(126D)です。この列車が出てしまうと、夕方まで列車はありません。(1973年11月26日撮影、以下同様)
731126小千谷線125D /西小千谷駅.jpg
 西小千谷駅の駅舎です。歩いているのは、私と同じ列車で着いた高校生たちです。
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 雁木のある小千谷の市街地です。
731126小千谷市内の雁木のある通り.jpg 
 歩いているうちに、大正ロマンを感じさせるこんな立派な映画館を見つけました。魚沼線廃止翌年の1985年に閉館したそうで、建物も現存はしていないようです。
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やるせない「寒」の風景

 今年の小寒は1月5日。この日が「寒の入り」で、2月3日の立春までが「寒」ということになります。一年中で一番寒い季節ですから、空気が冷たいのはあたりまえですが、今年はコロナ禍で、心まで冷えてしまいそうです。ここ浅間山麓の市や町でも新規感染者が増加しており、県独自の感染警戒レベルで、上から2番目の「5」(感染が顕著に拡大している状態)に引き上げられました。その上の「6」は「緊急事態宣言」ですから、大変厳しい状況と言わざるをえません。ちなみに1月11日の感染者数は、小諸市16人、御代田町6人、佐久市7人、軽井沢町1人でした。一見、少ないようにみえますが、例えば、御代田町の人口は東京の900分の1にすぎませんから、東京なら5400人に相当する数字です。人が少ないエリアだから安心とは言っていられない状況になりつつあるのです。
 消防出初め式は軒並み中止、成人式も御代田町は中止、軽井沢町や佐久市、小諸市は延期となりました。大寒の日に行われる御代田町の伝統行事「寒の水」は早々と中止が決定されています。寒い中にもホットな話題のあった例年の「寒」とは様変わりです。
 そんな中、せめてもの癒しとなるのが山歩きですが、今年は「山初め」に出かけることがずっとできずにおりました。というのは、暮れに、腰から足にかけて強い痛みを感じたからです。受診した医師の話では、坐骨神経痛ではないかということでした。昨年は年間の山歩き回数が111回(110回と思っていましたが、精査したところ1回増えました)と最多記録を更新し、まだまだ元気に山歩きができると喜んだばかりでしたので、好事魔多しとはこのことです。 
 山中で痛みが出て下山できなくなると大変なので、出かけるのを躊躇していたのですが、気分がすっきりせず、思い切って平尾山に登ってみました。12日ぶりです。幸い痛みは出ず、なんとか山頂にたどり着き、「山初め」とすることができました。いつもはトレーニングレベルと思っている山なのに、登ることができてこれほど嬉しいと感じたことはありません。今年の山歩きは、身体の様子をみながら慎重にということになりそうです。
 平尾山ほか、浅間山麓の「寒」の風景をご紹介します。心まで冷えている時に、より一層寒い風景を見せられて、なんだよとおっしゃるかもしれませんが、寒中に冷水を浴びると少しだけ暖かさを感じるとも言います。タヌキに化かされたと思ってご容赦を。

 わが家のまわりも冷え冷えとした風景ばかりです。すぐ裏の沢も氷瀑もどきの光景になりました。
 氷瀑モドキ.JPG
 染み出た地下水が凍って、沢の両岸には氷の壁ができました。
凍った沢.JPG
 近くの池(七口池)も完全結氷しています。
凍った七口池.JPG
 浅間山も裾野の方まで雪化粧しました。
雪浅間.JPG
 水辺(御影用水)も見るからに寒々とした光景です。慣れているとはいえ、氷点下の散歩に出かけるには、それなりの気合いが必要です。
寒々とした水辺.JPG
 ようやく登ることができた平尾山です。この日は、まだ誰も登っていないらしく、登山道に人の足跡がありません。
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 おっと、先客がいました。この小さな足跡、ノネズミでしょうか。
ノネズミ?.JPG
 これは誰だ?この足跡はタヌキのように見えるのですが、それにしては歩幅が大きいような。
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 これは間違いなくタヌキでしょうね。こんな詮索ができるのも冬の山ならでは。
 タヌキ?.JPG
 足の痛みがでませんようにと、ひやひやしながらの登山でしたが、頂上に凛として立つ白樺の木を見ると、元気がでます。
白樺.JPG
 ようやく成った今年の「山初め」です。もっともポン子はすでに一人で何度も登っていますので、「山初め」はポン太のみ。トホホ・・。
本年「山初め」.JPG
 頂上からの眺めがいつもにも増してすばらしものに思えました。佐久平と御牧ヶ原台地、その背後に屹立する北アルプス。絶景です。
佐久平、御牧ヶ原台地、北アルプス.JPG
 信州から上州、さらには甲州にまたがる山並みは、まるで水彩画をみるようです。
佐久の山々.JPG
 昨シーズンは暖冬でオープンできなかったパラダスキー場の南ゲレンデですが、今シーズンは無事にオープンできたようです。ただし、1都3県に緊急事態宣言が出ていることもあり、スキー客はまばらでした。
ゲレンデ上部.JPG
 こちらの登山道にも登山者の足跡はなく、静寂そのもの。
登山道.JPG
 竜神池も結氷していました。ここまで無事に降りてくることができ、安堵しました。
結氷した竜神池.JPG
 今年は、伝統行事もことごとく中止となり、なんとも淋しい「寒」です。いつもの年であれば、この時季に行われるはずの行事を3つご紹介しましょう。まずは、大寒の日に行われる御代田町草越の「寒の水」です。極寒の中に熱気を感じる行事です。
「寒の水」開始 s.jpg
 暗闇の中で山車をぶつけ合う、勇壮な「道祖神祭」(小諸市御影)です。
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 御代田町塩野の「わら馬引き」(道祖神祭)です。子供たちが大勢参加する可愛らしい行事です。
わら馬をひく道祖神まつり.JPG
 道祖神祭は、形は変われどこの時季に信州各地で行われている行事ですが、今年はそのほとんどが中止になってしまいました。
 

学校登山の灯を消さないで

 ポン太が山好きになったきっかけは、杉並区立S中学の2年次に、希望者を募って実施された林間学校に参加したことでした。3泊4日の日程で、北八ヶ岳(天狗岳・北横岳)に登るという内容で、参加者は30名ほどだったと思います。
 手元に残っているメモによれば、1963(昭和37)年7月27日、午前7時発の「急行第1アルプス」で新宿駅を出発し、茅野駅で下車。バスで宿泊先の辰野旅館(渋温泉)にむかっています。
 二日目の28日の日程は、7時に宿を出発し、八方台経由で天狗岳(2645m)に登り、中山、高見石付近を経て辰野旅館にもどるというものでした。実際に宿に帰着したのは、17時30分でしたから、かなりのハードスケジュールです。
 三日目の29日の日程は更にハードで、宿を6時に出発し、冷山歩道、茶臼山歩道を経由して坪庭へ。そこから北横岳(2472m)に登り、帰路は雨池峠を越え、雨池、麦草峠経由で辰野旅館へ下るというロングコース。宿にもどったのは、あたりが暗くなっていた19時15分でした。
 山初体験の中学生がよく歩いたものだと我ながら感心してしまいます。相当しんどい思いをしたはずですが、それよりも下界とは全く異なる山の世界の魅力の方が大きかったのでしょう。この山行で山の世界がすっかり気に入り、いろいろな山に登ってみたいという気持ちが芽生えたことは間違いありません。
 信州では、ほとんどの中学で、1泊2日の「学校登山」を実施していると聞いた時は、これはすごいことだと驚きました。それも、北アルプスや中央アルプスの高峰に登るというのです。数年前のことですが、八ヶ岳の硫黄岳山頂付近で、大勢の中学生が声を掛け合いながら元気に登ってくる様子を目の当たりにし、「学校登山」は本当なのだと納得しました。
 その信州伝統の学校登山が、今、窮地に立たされているというのです。新聞記事によれば、2010年度には90%の学校で実施していたのに、来年度は4割を下回る可能性があるとか。その背景には、日常的に過酷な勤務を強いられている教員の負担が大きいことや、万一を心配する保護者の姿勢があるといいます。そこに追い打ちをかけたのがコロナ禍で、『密』になる山小屋利用が問題視されたことも影響しているようです。
 親がよほどの山好きでない限り、子供がハイキングレベル以上の本格的な山に連れて行ってもらえる機会はないと考えてよいでしょう。ポン太もあの「林間学校」がなければ、山とは無縁の人生を歩んだかもしれません。学校登山の果たす役割は極めて大きいのです。
 県歌『信濃の国』にも、「聳ゆる山のいや高く」とあるとおり、秀麗な高山は信州の誇りです。郷土の至宝である高山に1度も登ることなく、その魅力を知る機会のないままに大人になってしまうのは、なんとも残念な話ではないでしょうか。知恵と工夫の限りを尽くして、学校登山を継続して欲しい。心の底からそう願うポン太です。

 山が好きになるきっかけをつくってくれた「林間学校」。登山のベースとなったのは、この辰野旅館でした。
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 天狗岳へ続く尾根道で小休止。笑顔が見えているところをみると、皆へばってはいないようです。 
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 頂上が近づくにつれてガスが濃くなり、眺望はいまひとつでしたが、高山の世界にたっぷり浸ることができました。
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 その翌日は、山歩きに慣れたせいか、北横岳山頂ではこの余裕の表情。林間学校に出発する前よりも、少したくましくなったような気がしました。
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 数年前、硫黄岳から夏沢峠へと下るこの道の先で、元気に登ってくる地元の中学生たちとすれ違いました。
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 佐久地域の中学では、この硫黄岳に登ることが多いと聞きましたが、森林限界を越えたこの高山の景観をみれば、何か感じるものがあるはず。
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 こうしたハイマツ帯の稜線歩きも、高山の魅力の1つです。
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 硫黄岳山頂からの眺望もすばらしく、雲海に浮かぶ美しい郷土の山々をみれば、故郷への愛着も増すのではないでしょうか。
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 山に入れば、こうした美しい渓谷の存在を知ることもできるのです。
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 硫黄岳への登山道の途中にあるオーレン小屋です。途中で出会った中学生たちが泊まる山小屋が、ここかどうかはわかりませんが、こうした山小屋への宿泊も貴重な体験です。
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 大町あたりの中学では、北アルプスの爺ヶ岳に登ることもあるとか。
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 爺ヶ岳山頂からの眺望は息を飲むほどすばらしく、一生忘れられない思い出になると思います。
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初詣と鉄道

 テレビで東京の正月風景を見ていて驚いたのは、結構な数の人が著名な社寺に初詣に出かけていたことです。数字の上では例年と比べてかなり少なかったということですが、あの人の群れを見てしまうと、これでは感染拡大は止まるまいと恐怖を覚えました。それにしても、どうして感染リスクを冒してまで、そうした「密」になるようなところへ出かけるのでしょうか。伝統的行事であり、初詣に出かけないと御利益がないと考えてのことであれば、それはとんでもない勘違いです。
 「初詣」は、日本古来の伝統行事でも何でもなく、鉄道の発達と鉄道会社の経営戦略によって定着したものなのです。「初詣」が始まったのは明治時代になってからで、川崎大師が最初とされます。すぐ近くを日本で最初の鉄道(新橋~横浜間の官設鉄道)が通り、東京から行楽気分で気軽に出かけられるようになったからです。鉄道の側からみれば、正月休みに家でじっとされるよりも、列車に乗って出歩いてくれる方が有り難いわけで、経営戦略として積極的に取り組むところが増えていったのは当然です。成田山などは、国鉄と京成電気軌道(現、京成電鉄)の熾烈なサービス競争により、初詣客が激増しました。「二年参り」というスタイルが広まったのも、鉄道が終夜運転を実施したことがきっかけだそうです。
 元々、社寺毎に特別な参拝日(縁日等)が決まっていて、正月三が日に一斉に参拝するような習慣はなかったのです。そう考えると、初詣は必ず行かなければならないものではなく、別の日に参拝しても、それぞれの社寺の御利益に変わりはないわけです。初詣と鉄道の深い関わりについては、『初詣の社会史』(平山昇著、東京大学出版会)といった研究書も出ていますので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。
 初詣に限らず、社寺への参詣客は、鉄道にとって有り難いお客さんです。そのため、神社仏閣を観光の目玉とし、その印象を強めるために、所在地の駅舎自体を、社寺風の凝った意匠にして雰囲気を盛り上げるといった工夫もなされました。とくに、大正後期から昭和初期にかけて、その傾向が顕著でした。どんな駅舎があるのか(あったのか)、過去に撮影した写真の中から、いくつかご紹介することにしましょう。

 仏閣型駅舎の代表的存在であった長野駅(三代目)駅舎です。善光寺の玄関にふさわしい社寺様式にするようにという、鉄道省本省からの指示により、1936(昭和11年)に建てられました。その年は7年に一度の善光寺御開帳が行われた年でもありました。(1970年11月30日撮影)
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 駅舎の正面はこのようなスタイルで、実に風格のある建物でしたが、残念ながら北陸新幹線の開業にあわせて改築されてしまい、現存していません。因みに今年(2021年)はご開帳の年にあたっていますが、コロナ禍のため来年に延期されました。(1976年8月24日撮影)
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 仏閣型駅舎の西の代表格といえるのが国鉄奈良駅(二代目)駅舎です。長野駅の2年先輩にあたる建物で、1934(昭和9)年に竣工しています。2003年に駅舎としての役割を終えた後も建物は保存されて、奈良市総合観光案内所として再利用されています。(2014年4月10日撮影)
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 東京の社寺風駅舎といえば、その代表格は高尾駅(旧、浅川駅)でしょう。大正天皇大喪の際に、出棺用に設けられた新宿御苑仮停車場の部材を利用し、1972(昭和2)年に建築されたものです。(2009年11月13日撮影)
高尾駅舎.JPG
 青梅線にも社寺風駅舎があります。御嶽山(御嶽神社)の玄関口となる御嶽駅です。御嶽駅は、1929(昭和4)年に青梅電気鉄道が二俣尾から御嶽まで路線を延ばした際に開業した駅です。行楽客誘致の意気込みが感じられます。(2009年10月16日撮影)
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 エントランスはまるで神社のようです。奥の方に掲げられている、右書きの「御嶽駅」は、戦前の右翼の巨頭で中国革命の支援者でもあった頭山満が揮毫したものだそうです。(同上)
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 社寺の多い京都で、印象に残る社寺風駅舎の1つが、この叡山電鉄(←京福電鉄←鞍馬電気鉄道)鞍馬駅です。1929(昭和4)年に鞍馬電気鉄道の終点として開業した駅で、今も開業時の姿を留めています。この写真は京福電鉄当時のものですが、現在でも車両を除けば大きな変化はなさそうです。(1977年8月29日撮影)
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 鞍馬駅の正面です。鞍馬山(鞍馬寺)へ行くための駅ですから、お寺をイメージさせる意匠にしたのは当然かもしれません。
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 こちらは京福電鉄北野線の御室仁和寺(おむろにんなじ)駅(2007年まで御室駅)。桜の名所として知られる仁和寺の山門前に位置する駅です。路面電車の駅なので小ぶりではありますが、なかなかの風格です。嵐山電鉄の駅として1925(大正14)年に開業しています。(2006年3月26日撮影)
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駅名改称後も、この右書きの渋い駅名板はそのままだそうです。 (同上)
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 こちらは伏見稲荷の玄関口、JR奈良線の稲荷駅です。伏見稲荷は外国人観光客に大人気で、コロナの問題が起きる前は、このように活況を呈していました。有名観光地の割には小さな駅舎ですが、屋根を反らせるなど、社殿風の意匠でつくられた、1935(昭和10)年の建造物です。(2019年4月23日撮影)
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 この稲荷駅の歴史は古く、開業はなんと1879(明治12)年。1921年にルート変更されるまで、東海道本線の駅でした。開業の翌年に建設された煉瓦造の危険品庫(ランプ小屋)が残っており、現存する国鉄最古の建造物であることから、準鉄道記念物に指定されています。「鉄道教徒」のポン太としては、ここは伏見稲荷以上に巡礼する価値のある場所です。(同上)
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 私鉄の社寺風駅舎としては大きな部類にはいるのが、近鉄(建設当時は大阪電気軌道)の橿原神宮前駅。「橿原神宮」の紀元2600年(1940年=昭和15年)式典に合わせてつくられた駅舎です。国策に沿ったというだけでなく、戦時体制下で観光旅行の自粛が呼びかけられる中、皇室関連の神社であれば、大手を振って出かけられることから、大勢の利用者があると見込んだのかもしれません。(1979年3月30日撮影)
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 縁結びの神として知られる出雲大社。その玄関口であったのが国鉄大社線大社駅です。参拝者が全国からやってくることから、1924(大正13)年に、木造神社様式のみごとな駅舎(二代目)が建設されたのです。残念ながら、大社線は1990(平成2)年に全線廃止となり、大社駅も廃止となったのですが、駅舎は保存され、2004年に国の重要文化財に指定されました。(1974年2月21 日撮影)
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 まだ現役として使用中であった時代の写真ですが、この出札窓口があまりに立派で感激してしまいました。(同上)
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 寺社風駅舎というよりも、神社そのものと言ってもよいのが、JR弥彦線弥彦駅。越後の国の一の宮である弥彦神社への入口となる駅です。1916(大正5)年に、越後鉄道の駅として開業して以来の駅舎で、弥彦神社の本殿を模したものだそうです。ここでもう参拝した気分になってしまいそうですね。
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浅間山麓の静かな元旦

 明けましておめでとうございます。
 元旦の浅間山麓は曇り空で、時折雪がちらついていました。雪は積もるというほどではなく、地面がうっすらと白くなった程度でした。
 全国的な天気予報では、長野に雪マークがつくことが多いので、浅間山麓も相当降っているのではと思われる方が多いようですが、まったく違います。天気予報の「長野」は、北信地域に属する長野市のことであり、東信地域に含まれる浅間山麓とは気象条件が異なるのです。寒さは厳しいものの、晴天率が高く、雪はほとんど降らないというのが浅間山麓なのです。
 ちらついていた雪も昼前には止み、午後からは晴れ間もでてきました。外に出てみると、雪化粧した浅間山がとてもきれいでしたので、カメラを手に中山道から御代田駅周辺をひとめぐりしてみました。開いているお店はなく、歩いている人もほとんど見かけません。松飾りのある家は少なく、正月であることを忘れてしまいそうでした。唯一、中山道沿いの小さな神社に、しめ縄とぼんぼりが取り付けられていましたので、いつもと違う雰囲気ではありました。しかし、初詣に訪れていた人は誰もおらず、「密」が心配される都市部の有名寺社とは大違いです。
 畑の中から見上げた浅間山は雄大で、惚れ惚れするほどの美しさでした。これこそ、当地で最も元日らしい風景です。その浅間をバックに、しなの鉄道の電車も撮影することができましたので、期せずして本年の「鉄道初め」となりました。鉄道といえば、昨年はこのジャンルの活動はまったく低調で、全線乗車記録を更新することも叶いませんでした。「コロナ」の行方次第ということは否めませんが、今年はなんとか盛り返したいものです。また、自然や歴史、文化といった地域の話題の深掘りなど、活動の幅を少しでも広げてみたいと考えておりますので、今年も「浅間山麓のブラタヌキ」を、どうぞよろしくお願いいたします。

 元日の浅間山です。
元旦の浅間山.JPG
 雪化粧した黒斑山です。しばしば登っている山なのに、別物に見えます。
元旦の黒斑山.JPG
 浅間をバックに、しなの鉄道の電車が駆け抜けて行きます。(御代田~平原間にて)
しなの鉄道765M.JPG
 中山道の脇に見えたぼんぼりは、山神大山神社のものでした。
中山道.JPG
 神社の参道脇には、中山道(右下)を見下ろすように道祖神が立っていました。
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 これが、山神大山神社の社殿です。こうした名前の神社の祭神は、オオヤマツミ(大山津見神)であることが多いそうですが、オオヤマツミとは「大いなる山の神」の意味とか。意図したかどうかはわかりませんが、社殿の後方に浅間山が鎮座しています。
山神大山神社本殿.JPG
 厳しい寒さの中でも、木々はしっかり春の準備をしています。コブシの花芽もこんなに大きくなっていました。
コブシの花芽.JPG
 松飾りの代わりに、わが家では手造りのリースを飾っているのですが、疫病退散を願って、アマビエの札もつけておきました。
疫病退散.JPG
 本年もブラタヌキをよろしくお願いいたします。
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